2016/10/24 - 2016/10/25
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善光寺北側にある駐車場へ向かう途中に見学した善光寺境内の紹介です。善光寺見学のあと、長野の友達の車で長野市近郊の名所めぐりをしました。採取に向かったのは信玄と謙信が覇権を争った川中島古戦場址です。(ウィキペディア、善光寺公式サイト)
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イチオシ
新旧の柱が年代順に並んでいた、『回向柱(えこうばしら)』の光景です。これが一番新しい回向柱です。中央やや左側の柱には、上には梵字、その下に漢字で『奉開龕前立本尊』の文字がありました。善光寺の御本尊は『一光三尊式阿弥陀如来』、その模鋳が『前立本尊』です。『龕』は『厨子』の意味です。
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自然に土に還っていく、一番古い方の回向柱の光景です。宝永4年(1707年)年、現本堂が再建された際、松代藩が幕府から普請の監督を任されました。それが縁となり、現在まで三百年余にわたって松代から回向柱が寄進されています。
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同じく、回向柱の光景です。松代から寄進される回向柱は、大名行列や姫行列と共に松代町を練り歩いた後、牛に引かれて善光寺にやってきます。途中、引き綱に触るとご利益があると言われ、沿道にはたくさんの人が詰めかけます。
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『回向柱』の題字があった真新しい説明立札の光景です。善光寺で7年に1回行われる、『前立本尊』の御開帳の時に本堂の前に建てられる、高さ10メートルの角塔婆が『回向柱』と解説されていました。善光寺の最大g当時のようです。御開帳が終わると、ここに移動され、徐々に土に還っていくと解説されていました。
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『聖徳皇太子』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。その左右に『永代常燈明」の文字の石標がありました。聖徳太子(574~622年)は、日本仏教の祖として信仰を集めてきました。。『日本書紀』によれば、蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、四天王を安置する寺院を建てると誓願を立てました。見事勝利しましたので、摂津国難波に四天王寺を建てました。『書記』によれば593年(推古天皇元年)頃とされます。
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『聖徳太子碑』のタイトルがあった真新しい立札の光景です。拾い読みしますと、『聖徳太子は、日本仏教の祖として信仰を集めてきましたが、大工・左官等の職人の守護神としても篤く祀られてきました。この碑は、長野県北部の建築関係者によって造立された』、と紹介されていました。
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善光寺境内の北端近くの光景になるようです。駐車場は一段高くなった土手の先にあるようですが、もう少し善光寺境内の散策が続きます。正面に小さな社が見えました。
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境内の庭木の枝越しに眺めた、善光寺の本堂の意建物光景です。その手前には、石灯篭の姿もたくさん写り込みました。
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修復工事中だった、国の重要文化財の建築物の『経蔵』です。工事現場を囲うフェンスには、『重要文化財善光寺経蔵保存修理事業・平成29年完成予定』の表示がありました。仏教の聖典の『三蔵』と呼ばれる律蔵、経蔵、論蔵の一つが『経蔵』です。その建物は、本堂の西南に位置します。
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『沓巻(くつまき)』と呼ばれている、主要な柱の基礎部の細工です。獅子像のブロンズのレリーフが飾りにされていました。
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同じく、『沓巻(くつまき)』と呼ばれている、主要な柱の基礎部の細工の光景です。こちらも、獅子像のブロンズのレリーフが飾りにされていました。土台と柱がずれている個所もありましたが、地震による影響ではなく、柱自体の経年による捻じれから生じたもののようでした。
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善光寺境内の中にあった石畳の参道の光景です。参道脇には、由緒がありそうな、数多くの石碑などが並んでいました。
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善光寺本堂の西面の光景です。御本尊は、『一光三尊式阿弥陀如来』と呼ばれる、552年に百済(粋46~662年)から渡来した、日本最古とされる秘仏です。朝鮮半島における三国時代、日本では欽明天皇(509~571年)の時代の13年になります。
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善光寺本堂の西側から眺めた、南方面の光景です。中央奥に山門(三門)が見えています。本堂では、今朝の『お朝事』と呼ばれる法要に参列しましたが、善光寺・大本願の上人の唱えられる『波阿弥陀仏』の称名は、天上の音楽とも言える素晴らしさでした。
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善光寺の境内の紅葉光景です。紅葉も黄葉もこれから跡が見頃の時期でした。紅葉の色が鮮やかになるほど、石灯篭の白っぽい色が引き立て役になりそうです。
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イチオシ
善光寺の境内の紅葉光景です。既に落葉が終わりかけた木々もありました。敷地を埋め尽くした落葉の光景です。
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本願寺の敷地の北側にあった駐車場に向かう途中の光景です。西方面に三重塔らしい建物が見えました。境内配置図を参照しますと、善光寺忠霊殿の三重塔のようでした。昭和45年(1970年)に竣工した、高さ44.5メートルの鉄筋コンクリート造りの三重塔です。
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赤色の柵で囲われた廟の光景です。『一部の文字は推測になりますが、『善光寺・寺務職・大本願廟所』らしい表記の石標がありました。大本願の歴代上人などのお墓があるようでした。
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善光寺の北側にある駐車場に到着しました。公孫樹の黄葉にお目にかかりました。善光寺駐車場は第1から第5まで5箇所あり、数百台が駐車できるようです。JR長野駅周辺をはじめ、善光寺周辺にもたくさんの駐車場があります。
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善光寺の北側にある駐車場から眺めた、忠霊殿の三重塔の光景です。正式名は『善光寺日本忠霊殿』、日本で唯一の仏式の霊廟とされます。見学する時間はありませんでしたが、忠霊殿は、『善光寺資料館』としての機能も持っています。善光寺の歴史を伝える場所であり、平成11年(1999年)から、善光寺が所蔵する什物が常時展示されています。
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イチオシ
ここからは、長野の友達の車で案内してもらった川中島古戦場の光景です。今年の桜の時期にもやって来ましたが、その時には立ち寄らなかった神社の八幡社です。
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『川中島古戦場・八幡社』の説明看板です。少し拾い読みしますと、御祭神は、『誉田別尊(ほんだわけのみこと)』と『建御名方命(たけになかたのみこと)』、川中島の合戦では、武田信玄が陣構えを行った場所です。
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『武田・上杉両雄・一騎打ちの地・八幡原』の文字が刻まれた黒色の石碑の光景です。川中島古戦場は、昭和44年(1969年)のNHK大河ドラマ『天と地と』放映の前後頃から、一帯が『八幡原史跡公園』として整備されました。
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『史跡・川中島古戦場・八幡社』の文字が記された看板の光景です。八幡社が建てたもののようでした。川中島古戦場は、長野県長野市小島田町に位置します、越後の上杉政虎と甲斐の武田晴信軍による川中島の戦いの第四次合戦(八幡原の戦い)において、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられます。五次にわたる戦いの中で最も激しい戦いでした。
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『史跡・川中島古戦場』の林の光景です。武田軍2万人、上杉軍1万3千人の戦力が激突した第四次の戦いでは、武田軍が4千名余、上杉軍が3千人余の使者が出たようです。前半は上杉軍有利、後半は武田軍有利の戦いでしたが、結果は引き分けといったところです。
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『史跡・川中島古戦場』の林の光景が続きます。建物や石碑の光景も見えて来ました。右手には参道入口の鳥居があり、その先には手水舎が見えていました。
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『史跡・川中島古戦場』の中に建つ、八幡社の光景です。右が旧本殿、その奥が現在の本殿です。
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『川中島大合戦』の説明パネルです。赤色が武田軍、青色が上杉軍の配置と動きです。永禄4年(1561年)9月10日の戦いです。現在地が地図の可変の犀川近くに記されています。
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川中島合戦を偲ぶ、田中月亀翁親子の歌碑です。月亀翁の本名は亀太郎、松代藩主の真田幸教に仕えた人です。親子ともに歌道に優れ、表に月亀翁の和歌、裏に子の亀守の歌が刻まれています。こちらは裏側の光景になります。表は川中島の激戦、裏は戦後の情景を詠んだものです。
(表)跡しのぶ川中島の朝あらし いぶきのさ霧おもかげに見ゆ 月廼亀麿
(裏)月影の入りにし後もほととぎす ひとこえ残す小島田の里 月廼亀守 -
大正4年(1915年)4月の日付があった、『山階宮殿下御手植』の文字が刻まれた石碑の光景です。『山階(やましな)宮家』は、江戸時代末期、伏見宮邦家親王の王子、晃(あきら)親王が創設した宮家です。この碑の山階宮殿下は、10代の時の『山階宮武彦王(1898~1978年)』のようです。1923年(大正12年)の関東大震災により、鎌倉にあった宮家の別邸も倒壊、滞在していた懐妊中の佐紀子妃は胎児とともに圧死しました。このため、山階家は戦後に皇族離脱した武彦王で途絶しました。
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