2016/10/24 - 2016/10/25
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旅人のくまさんさん
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地元の友達に車で案内してもらった、川中島古戦場跡の紹介の続きです。ボランティアの現地ガイドさんの説明をお聞きしながらの見学でした。若い頃、旧国鉄の各駅停車の電車に乗って見学した場所の一つです。(ウィキペディア、甲越信戦録)
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イチオシ
左が将棋に座り軍配器で太刀を受ける武田信玄公、右が馬上からたちを振りかざす上杉謙信公の戦いの場面です。いわゆる『三太刀・七太刀』の場面です。三度斬りつけ、軍配団扇には七つの傷が残っていたとされます。武田側の戦記、『甲陽軍鑑』には、八箇所の傷が残っていたと記されています。
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謙信公側から眺めた、『三太刀・七太刀』の場面です。『甲越信戦録』では、『信玄は軍配団扇ではっしと受け止める。また切りつけるを受け止め、たたみかけて九太刀である。七太刀は軍配団扇で受け止めたが、二太刀は受けはずして肩先に傷を受けた』と記しています。『甲越信戦録』の元本は、江戸後期の文化7年(1810年)以降に書かれ、作者は不詳とされています。
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横から眺めた、『三太刀・七太刀』の場面です。傍らには、模擬の篝火が置かれていました。武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの場面、山本勘助が討ち死にした胴合橋や墓など、川中島古戦場周辺の史跡の多くは、『甲越信戦録』に依拠しています。
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芭蕉句碑の光景です。横に説明の立看板が建っていました。天保十余年、150回忌に建てられ、昭和39年(1964年)に再建された碑との解説がありました。芭蕉は、姨捨、長楽寺近辺で中秋の名月(十五夜)を味わった翌晩、坂城で十六夜の月を観賞したことは確かなようです。坂城町網掛の十六夜観月堂には、芭蕉の若い頃の俳号『桃青』と一緒に刻んだ句碑があるようです。
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芭蕉句碑のズームアップ光景です。『更級紀行』に収録されている『十六夜もまだ更科の郡(こおり)かな』の句です。『笈の小文』の旅の帰路、貞享5年(1688年)8月11日、芭蕉は門人越人を伴い、美濃の地から江戸への帰途につきました。芭蕉45歳のときです。 芭蕉は、その旅の途中、信州更科(現千曲市)の姨捨山の秋の名月を見ようと、中山道を通り信州方面に向かいました。この美濃から更科までの旅で綴った のが『更科紀行』です。その序文を紹介しておきます。
『さらしなの里姨捨山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて、ともに風雲の情を狂くるおすもの又ひとり、越人えつじんと云。』 -
『行在所』の立札があった建物の光景です。拾い読みしますと、明治35年(1902年)5月、皇太子時代の大正天皇が行啓の際、湯茶接待のために休憩された建物と紹介されていました。臨時に造られた建物のようです。
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『三太刀七太刀之碑』の文字が刻まれた石碑の光景です。謙信・信玄一騎討ちの場所と伝えられ、検診が三度斬りつけ、信玄の軍配団扇には七つの傷が残っていたことから、こう言われています。この戦いの場面の詳細については、異説もあります。
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『三太刀七太刀之跡』のタイトルがあった説明立札の光景です。信玄公と謙信公のいで立ちから、『三太刀』は、『一太刀』軍配で受け止め、『二太刀』で腕に傷を負わせ、『三太刀』で方に傷を負わせたと語っていました。軍配に『七太刀』の傷があったのは跡で分かったと解説されていました。後日、色々と語られている場面ですが、軍配に残された刀傷の数の五つと、信玄公の腕と肩の傷は史実としても、後の数字は、『語呂合わせ』、あるいは、『多数の意味』と判断した方がよさそうです。
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『逆槐(さかさえんじゅ)』の立札の光景です。拾い読みしますと、軍師の山本勘助らの進言による『キツツキ戦法』を採用した信玄は、この辺りに土塁を積み、矢来を立てて本陣を構えました。その時に杭として使われた自生の『槐(エンジュ)』が、逆さまながら芽を吹き、400年後にこの大樹に育ったと解説されていました。
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この古木あたりが、『逆槐(さかさえんじゅ)』でしょうか、『エンジュ(槐)』は、マメ亜科エンジュ属の落葉高木です。槐樹(かいじゅ)や黄藤(きふじ)の別名を持ちます。名古屋でも街路樹によく使われています。
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『逆槐(さかさえんじゅ)』の立札に、『周囲に見える低い土塁あとは、信玄公の本陣の枡形陣形跡』と解説されていましたが、その土塁跡はよく分かりませんでした。
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イチオシ
『八幡神社』の本堂光景です。神社の左後ろに見える小高い場所が、土塁跡かもしれませんが確認はできませんでした。
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かつての八幡社の本殿の光景です。その脇に3メートルくらいの高さで幹が伐られた古木がありました。『エノキ(榎)』か、『ケヤキ(欅)』当たりでしょうか、樹種はよく分かりませんでした。この八幡社は、山本勘助が千曲川に沿って海津城を築く際、水除け八幡として勧請した社と伝えられています。
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イチオシ
正面から眺めた、かつての八幡社の本殿の光景です。その前に、『八幡社御由緒』の説明立札がありました。話を戻して、『山本勘助(1493/1500~1561年)は、近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられている、武田信玄の伝説的軍師とされます。勘助の築城術は『山本勘助入道道鬼流兵法』と呼ばれ、た。高遠城、小諸城を築き、海津城も勘助の手によるものです。山本勘助に関しては、脚色された江戸時代の講談が生んだ、架空の人物説もあります。
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バッサリと幹が伐られた古木のズームアップ光景です。根元はしっかりしているようですが、安全上の理由などで伐られてしまったのかも知れません。『エノキ(榎)』ではなく、『ムク(椋)』当たりかもしれません。椋は榎に似るため、またはエノキに似るため『ムクエノキ(椋榎)』の呼び名があります。
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『八幡社御由緒』の題字があった立看板の光景です。ご祭神の『誉田別命(ほんだわけのみこと)』は、神功皇后を母とする第15代応神天皇の諡、『建御名方命(たてみなかたのみこと)』は、明治41年(1908年)に合祀された諏訪大社の祭神と紹介されていました。
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角度を変えて眺めた古木の光景です。先程の立札には、『平安中期に源顕清公が信濃に流された時にこの地を訪れ、八幡大神(誉田別命)をご神木の大欅に包まれる鞘堂内の御神殿に祀られた』との記述がありますから、バッサリと伐られたこの木がご神木の欅かも知れません。それにしては欅に注連縄が張ってないのが不思議です。
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『「毘」と「龍」の旗」の題字があった説明立札の光景です。どちらも上杉軍の軍機で、『毘』は、謙信公が崇拝した『毘沙門天』を意味し、加護を願ったもので、『龍』は乱れ流を意味し、突撃する時に押し立てたと解説されていました。川中島での戦いも『龍』の旗で火蓋が切られたようです。
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一度紹介した、『川案鹿島大合戦』の図です。赤が武田軍の陣形と移動経路、青色が上杉軍の陣形と移動経路です。永禄4年(1561年8月10日の日付がありました。キツツキ作戦を採った武田軍は1万2千の別動隊がもぬけの殻の妻女山に向かい、武田軍本体8千と、上杉軍1万2千が会戦し、戦いの初めは上杉軍有利、妻女山から援軍が駆け付けた後は武田軍が優勢となりました。一日ほどの間で両軍合わせて8千名ほどが亡くなった大激戦でした。
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木製の『八幡社』の鳥居光景です。ブロンズ製の扁額の上に、唐風の屋根が設けられていました。八幡鳥居は、神明鳥居に分類されますが、この鳥居は笠木に反りがある明神鳥居と呼ばれる形式に似ているようでした。
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アカマツの参道と、八幡社の鳥居光景です。石畳の参道の先に、銅葺屋根の旧の本殿が見えていました。鳥居の下部は、主柱を4本の稚児柱で支える両部鳥居の形式でした。
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八幡原史跡公園に生える古木の光景です。上の方が薄っすらと紅葉を始めていました。『ケヤキ(欅)』のようです。その周りに風林火山の幟がありました。『三太刀・七太刀』の像が右手奥に見える場所です。
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八幡原史跡公園の中を流れる、二段になった石垣があった疎水の光景です。低い方の石垣の間を疎水が流れていました。
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八幡原史跡公園の見学を終えて、駐車場に向かう途中の光景が続きます。正面の新緑は、枝振りから判断して、公孫樹のようです。
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同じく、八幡原史跡公園の見学を終えて、駐車場に向かう途中の光景です。振り返って眺めた、八幡社の鳥居方面の光景です。
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真っ赤に紅葉した、『ドウダンツツジ(満天星躑躅)』の光景です。公園内の背丈の低い生垣として使われていました。
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手前に立札がありましたので、離れた場所からの撮影だけになった石碑の光景です。石段が設けられた、一段高くなった場所に建てられた石碑でした。
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離れた場所にあった石碑の説明立札のズームアップ光景です。『首塚』のタイトルでした。少し拾い読みをしますと、永禄4年(1561年)9月10日の戦いの後、武田方の海津城主の高坂弾正が、この辺りで亡くなった6千名余の戦死者を敵味方の区別なく手厚く葬った塚の一つであることが紹介されていました。これに敬意を表した上杉謙信が、後に武田側に塩を送った有名な故事に繋がりました。
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『敵に塩を送る』の諺が生まれた元となった『首塚』のシルエット光景です。永禄10年(1567)年、今川氏との同盟を破棄し東海方面へ進出を企てた武田信玄に対し、今川氏と北条氏が武田側に塩が入らないように封鎖しました。そこに、信玄のライバル上杉謙信から越後の塩が送られ、1月11日に到着しました。謙信は『敵に塩を送る』ことに反対した部下に対し、『われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず』と応えたとされます。後に、江戸時代後期の漢学者、頼山陽が称揚して有名になったのが、『敵に塩を送る』の故事です。1月11日は『塩の日』となりました。
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鉄柵で囲われた中に置かれていた石碑の光景です、『龍虎』の題字が読み取れました。武田信玄は『甲斐の虎』、上杉謙信は『越後の龍』と呼ばれています。謙信の軍は、突撃の時に『乱れ龍』の旗を掲げました。『龍』が先に決まって、信玄が『虎』に例えられたのかも知れませんが、『竜虎』はライバルであり、同列です。
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