2009/05/16 - 2009/05/17
1398位(同エリア1745件中)
倫清堂さん
土日の高速道路ETC割引の恩恵を受け、家族で長野まで行くことになりました。
7年に1度の善光寺の御開帳ということもあり、母が強く望んでいました。
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仙台を午前6時に出発し、東北道・磐越道・北陸道・上信越道のルートで長野に入りました。
途中休憩をはさみましたが、最初の目的地である戸隠神社奥社に到着したのは正午前。
ほぼ予定通りの時間です。
駐車場もいっぱいになるほど多くの参拝者の姿が見えるので、やはり割り引い影響かと思いましたが、それだけではなく、ちょうど明日は7年に1度の式年大祭が行われるからのようでした。
戸隠神社は奥社・中社・宝光社の3社に、それぞれ御祭神をお祭りしています。
最初に訪れた奥社は、大鳥居からしばらく緩やかな上り坂で、杉の参道が続いています。
大鳥居から社殿までの距離は約2キロ。
杉並木や水芭蕉やその他の草花を観賞しながら散歩するにはちょうどよい道ですが、赤色で茅葺屋根の随神門をくぐったあたりから、急な石段に変わります。 -
旅行といえば神社や城跡めぐり・神社城跡めぐりといえば山登りと心得ている自分にとっても、寝不足と長時間の運転の後では身体にこたえ、社務所の石段で座って休憩してしまいました。
奥社の御祭神は天手力雄命。
天照大御神が天岩戸にお隠れになった時、その岩戸を開いた力持ちの神様です。戸隠神社 奥社 寺・神社・教会
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天手力雄命が押し開いた岩戸が投げられ、地上に落ちたと伝えられる岩がここにあることを調べて知っていたので、探してみましたが、あちこちにごろごろと巨大な岩が無数に転がっていて、どれなのか分かりません。
ふと視野を広げて社殿の後ろを見ると、そこには険しい岩山が聳えています。
この戸隠山全体が、天手力雄命によって投げ落とされた岩戸なのだと気付き、古代の人々の想像力の雄大さに驚きました。 -
奥社のすぐとなりには九頭龍社が鎮座しています。
御祭神の九頭龍大神は水をつかさどる神で、天岩戸神話には登場しない地主神です。戸隠神社 九頭龍社 寺・神社・教会
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奥社での参拝を終え、車ですぐの所に鎮座する中社に向かいました。
戸隠山は、落葉松の淡い新緑がとても眼に優しく、長時間の運転の疲れを癒してくれるようです。
中社では、式年大祭を記念する和太鼓の演奏が行われており、多くの参拝客でにぎわっていました。
式年大祭は、本来は中社と宝光社の御祭神が奥社に御還りになるお祭りでしたが、現在は宝光社の御祭神が父神である中社の御祭神のもとに御渡りになる形をとっています。
中社の御祭神は天八意思兼命。
お隠れになった天照大御神に、岩戸から戻っていただくための策を練った、知恵の神です。
御朱印をいただくため、1時間近く行列に並びました。 -
ぐずついた天気でしたが、ここに来て残念ながら雨が降って来ました。
ちょうどお昼時なので、近くの蕎麦屋に入りました。
戸隠は蕎麦の名産地でもあります。
入った蕎麦屋は宿坊も経営する立派なお店で、昔から参拝者が食べて来たという膳に、神社に奉納したのと同じ濁りの御神酒がついてきました。
戸隠神社は、奥社・中社・宝光社の三院と、九頭龍社・火之御子社を合わせて「戸隠五社」と呼んでいます。
火之御子社は通り過ぎてしまったため、前年ながら参拝できませんでした。
こちらにも、天岩戸神話で重要な役割を果たした天鈿女命が祀られています。戸隠神社中社 寺・神社・教会
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宝光社でも式年大祭の準備が進んでおり、石段の前には舞台が設置されていましたが、なぜか前二社のような群衆の姿はなく、ひっそりしていました。
昼食時の影響か、それとも悪天候の影響でしょう。
御祭神の天表春命は、思兼命の御子神。
記紀神話には登場しませんが、他の神話によると、戸隠山を開いたと伝えられる阿智祝部の祖先神です。
式年大祭を記念して、離山仏里帰り拝観と宝物展が行われており、せっかくなので見学しました。
もともと神仏習合であった戸隠の信仰ですが、明治の神仏分離令によって多くの仏像が各地の寺に散ってしまいました。
それを一時的に里帰りさせて集合させたのが今回の企画で、貴重な拝観となりました。
宝物展では、歴代天皇の御宸筆など貴重な文化財が、ガラスケースに入れられるでもなく無造作に展示されていて、首をかしげずにおれませんでした。宝光社 寺・神社・教会
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降ったりやんだりの天気の下を、車は長野市内に向かって走ります。
今回の旅の一番の目的地である善光寺に到着しました。
駐車場待ちの車で行列ができているのではないかと恐れていましたが、すぐ近くの有料駐車場にすぐに停めることができました。
長野は、我が母方の御先祖が過ごしてきた土地であり、自分にとっては第二の故郷のような場所です。
善光寺も、物心ついた頃に訪れたことがありますが、成人してからの参拝は今回が初めてとなります。 -
善光寺の歴史は、日本の仏教の歴史が始まるのとほぼ同じくらいに古く、廃仏派の物部氏によって遠く避けられた一光三尊阿弥陀如来像を信濃国司の従者である本田善光が長野へ遷座させたのが始まりと言われています。
一光三尊阿弥陀如来は秘仏であり、一般公開どころか僧侶たちでさえ見ることはできませんが、代わりとして写された「前立本尊」は7年に1度(足掛け7年の意味)の丑年と未年にだけ御開帳になります。
その際、前立本尊の指から延びる糸をつないだ大回向柱が伽藍の前に立てられ、これに触れるために行列ができるのです。
時間帯が夕方で、閉門間近であったため、5分くらい並んだだけで触れることができました。善光寺 寺・神社・教会
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少し歩いたところに、尼寺である善光寺大本願があります。
こちらの宝物殿を拝観しました。
明治帝、大正帝、皇女和宮などのゆかりの品が多くありました。
大本願の住職は善光寺上人(住職)を務めるという伝統は、善光寺の開山以来守られており、皇族や公家の未婚の女性が務めてきました。
現在の第121世上人は鷹司様です。善光寺大本願別院 寺・神社・教会
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庭に、松尾芭蕉が善光寺を訪れた際に詠んだ俳句の句碑が建っていました。
月影や四門四宗も只一つ -
大本願の他に、善光寺大勧進というお寺もありますが、こちらは経理面をつかさどっています。
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仲見世の途中から東へ折れると、釈迦堂があります。
こちらにも回向柱が立てられ、行列ができていました。
翌朝利用したタクシーの運転手さんの説明によると、善光寺本堂の回向柱は来世の御利益、釈迦堂の回向柱は現世の御利益があるそうです。 -
7年に一度の御開帳を祝い、神輿渡御も行われていました。
数えることはできませんでしたが、御神輿は全部で10基くらいはあったでしょうか。
長野という町を挙げてというより、国家的な大祭典であるという印象を受けました。 -
せっかく来たので、翌朝4:30に起床して朝の法要に参列。
内陣にて前立本尊をすぐ近くで拝むことができました。
ただ残念だったのは、撮影禁止という規則を守れない不心得者の姿があったことです。
楽しいはずの旅行も、このような不徳者のために気分を害されてしまうと、やりきれなくなります。
特にETC割引のような出血大サービスが始まると、それに釣られて罰当たりも湧いて来てしまいます。
未熟な自分は憤懣やる方ない気持ちでいっぱいでしたが、如来様の表情はどこまでもやわらかでした。
中心部を離れ松代に向かいますが、川中島の標識が見えたので寄ることにしました。
川中島古戦場は、八幡原史跡公園として整備されており、物産展や土産物屋などが開かれていました。
武田信玄の本陣跡に鎮座する八幡社に参拝。
もともと鎮守の神として誉田別尊と建御名方命が祀られており、川中島の戦いの後、信玄公は信濃豪族にとっての武運長久の祈願神となりました。
大激戦の後、信玄公は敵味方を問わず戦死者の亡骸を手厚く葬り、負傷者の手当てをして、それからここで勝鬨をあげたということです。 -
川中島の戦いは全部で第5次まであり、特に龍虎相討った大決戦は永禄4年の第4次合戦のことです。
八幡社に本陣を置く信玄公の所在を察知していた上杉謙信公は、十数騎の精鋭で本陣を突破し、信玄公の身辺に殺到しました。
信玄公の近侍は槍ぶすまで阻止しようとしますが、謙信公は単騎で迫り、三の太刀まで切り下げたのです。
これを受け止めた信玄公の軍配には、7か所の刀の跡が残っていました。
これらの経緯を現在に伝えるのは軍記物語しかなく、脚色が無いとは言えないというのが学者の意見ですが、両軍の大将同士が一騎打ちをしたという興奮は、今も昔も人の心をとらえて離さないという意味では同じだと思います。
べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる
鞭声粛粛夜過河
あかつきにみるせんぺいのたいがをようするを
暁見千兵擁大牙
いこんなりじゅうねんいっけんをみがく
遺恨十年磨一剣
りゅせいこうていにちょうだをいっす
流星光底逸長蛇
頼山陽川中島古戦場 名所・史跡
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信玄公が襲われた時、仲間頭の原大隅が主君の傍にあった青貝の柄の槍をもって謙信公の胸板を突こうとしましたが、外れてその乗る馬に当たり、一騎討ちは幕切れとなりました。
ここから戦局が変わって武田が優勢となるのですが、原大隅は謙信公を討ち逃したことを悔やみ、近くにあった石を槍で突きとおしたのでした。 -
その「執念の石」の他、土塁を築いた時に打ち込んだ槐が根付いて大木となった「さかさ槐」など、境内には川中島決戦をしのばせるものが多く残されています。
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神社の神職の方に、他にも見どころがないか尋ねたところ、川中島の戦いで討ち死にした信玄公の弟、信繁公の墓があるという典厩寺が近いということ教えていただいたので、行ってみることにしました。
もともとは鶴巣寺という名前の寺でしたが、初代松代藩主の真田信之公によって、信繁公の官職(左馬助)の唐名「典厩」と寺号が改められました。 -
本堂の向かい側にある閻魔堂には、日本一大きな閻魔大王像が置かれています。
小さな子供が見たら、きっと泣き出してしまいそうなくらい恐ろしい形相をしていました。川中島典厩寺記念館 美術館・博物館
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武田信繁公は信玄公の同母の弟で、武田二十四将にも数えられるほどの人物でしたが、川中島の戦いで討ち死にした時は、まだ37歳でした。
信玄公もこの弟を心から信頼しており、その死にあたっては死体を抱いて号泣したと伝えられています。
かの真田幸村公の本名も信繁ですが、これは父昌幸による命名であり、本人も生前は改名せず、信繁で通したようです。
彼が嫡子信豊に残した「武田信繁家訓」は、武士の心得として高い評価を受け、江戸時代の武士たちに広く読まれることとなりました。
もし、信繁公のあまりに早い戦死がなければ、武田家は滅亡せずに済んだかも知れません。
それほどの大人物でありました。 -
松代に着いたら、まずは象山神社に参拝。
幕末、西洋列強によるアジア侵略の波から日本を救うには、国家の統一と近代化を行わなければならないことをいち早く唱えた佐久間象山が御祭神です。
佐久間象山は松代藩士の家に生まれ、文武双方に優れた才能を発揮し、多くの詩文も残しています。
象の形とした象山という山のふもとに生まれ、雅号も象山としました。
これまで「しょうざん」と読んでいましたが、正しくは「ぞうざん」とのことです。
もともと儒学において山田方谷とともに二傑と並び称されるほどでしたが、主君である松代藩主真田幸貫が海防掛に任ぜられてから、兵学や海外事情を学び、「海防八策」を献上しました。
神社では、知恵の神・学問の神として祀られています。象山神社 寺・神社・教会
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吉田松陰が海外渡航を企図したことで捕らえられると、象山もそれを幇助した罪で国元蟄居を命じられます。
境内にある高義亭は、蟄居中に来客があった際に応対に利用した建物で、この2階で国家の時勢を論じ合いました。
高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎などが訪れ、きっと祖国の行く末を案じて熱く語り合ったことでしょう。
象山は尊皇開国と公武合体を唱えましたが、洋学にも通じていたことから「西洋かぶれ」との印象が強く、志半ばにして暗殺者の凶刃に倒れます。
いつの時代も、国家を危機に向かわせるのは、このような短絡的な行動であるということに変わりはありません。
暗殺者河上彦斎は、殺害後に象山の事歴を知って己のうかつな行動を悔やみ、二度と暗殺を行うことはしませんでした。 -
象山神社から少し歩くと、松代大本営跡があります。
先の大戦でいよいよ本土決戦が近付くと、海岸から近く、平野の広がる東京では、神器と玉体の護持が難しいことから、山深いこの地に地下壕を掘って大本営とする計画が実現されました。
延々と続く地下道を、途中まで見学することができますが、ヘルメットの着用が義務付けられています。
もし実際に昭和天皇が遷御されることになったとしたら、きっとこのようなうすら寒い地下洞窟など御不快であったことでしょう。
地下に「幽閉」してまで玉体を護るくらいなら、開戦を望まれなかったという御意志の方をなぜ先に尊重しなかったのでしょうか。
やはり当時の軍部は狂っていたとしか思えません。もうひとつの歴史館 松代 名所・史跡
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次に旧横田家住宅へ。
松代藩の中級武士の住宅が、ほぼ完全な状態で残されています。
お昼近くなって来たので食事のできる店を探しますが、近くには喫茶店などしかありません。
松代城跡まで行き、ようやく見つけた竹風堂という店に入りましたが、これが大当たり。
メニューは少ないですが、むかごの和え物や栗おこわなどの乗った膳を注文、味も量も大満足でした。旧横田家住宅 名所・史跡
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食事の後に真田宝物館を見学。
真田邸は、改修工事のため残念ながら見学できませんでした。
真田氏が松代を治めるようになったのは、真田幸村の兄である信之公が藩主になってから。
関ヶ原の戦いに際して、父昌幸と弟幸村が西軍についたのに対し、信之は徳川秀忠軍に属して戦功を立てています。
版籍奉還が行われる10代幸民公の時まで、真田氏による統治は続きました。
佐久間象山を登用した幸貫公は8代目藩主。
幸貫公の時に開校した藩校文武学校も、当時の姿のまま残っており、こちらも見学して来ました。
自分にとって第二の故郷である長野は、歴史を大切にする町でした。真田宝物館 美術館・博物館
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