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正確な築城時期は不明だが、1560年(永禄3年)、甲斐国守護大名の武田信玄が、越後の上杉謙信の侵攻に備えるため家臣の山本勘助に命じて千曲川河畔の清野氏の館を改築させ、海津城を築いたといわれている。甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。<br /><br />信玄はこの城を高坂昌信に守らせ、武田氏と上杉氏の間で行われた川中島の戦いにおいては合戦の舞台となる。<br /><br />武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可、田丸直昌 の居城となる。本能寺の変以後は上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の直轄城となる。1600年(慶長5年) この年2月に田丸直昌の後釜として森忠政が入封。この時、海津城から待城へと改名される。 1603年(慶長8年) 森忠政が美作へと加増転封されると松平忠輝が入封する。この忠輝領主時代に待城から松城へと改名されたという。忠輝以後は松平忠昌、酒井忠勝と続く。1622年(元和8年) 真田信之が入城。以後、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。 1711年(正徳元年) 幕命により松代城と名を改められた。 <br /><br /><br /><br />

家名存続のため犬伏で東西に分れた真田幸村の兄真田信之13万石の松代城(海津城)登城

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2009/05/05 - 2009/05/05

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吉備津彦

吉備津彦さん

正確な築城時期は不明だが、1560年(永禄3年)、甲斐国守護大名の武田信玄が、越後の上杉謙信の侵攻に備えるため家臣の山本勘助に命じて千曲川河畔の清野氏の館を改築させ、海津城を築いたといわれている。甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。

信玄はこの城を高坂昌信に守らせ、武田氏と上杉氏の間で行われた川中島の戦いにおいては合戦の舞台となる。

武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可、田丸直昌 の居城となる。本能寺の変以後は上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の直轄城となる。1600年(慶長5年) この年2月に田丸直昌の後釜として森忠政が入封。この時、海津城から待城へと改名される。 1603年(慶長8年) 森忠政が美作へと加増転封されると松平忠輝が入封する。この忠輝領主時代に待城から松城へと改名されたという。忠輝以後は松平忠昌、酒井忠勝と続く。1622年(元和8年) 真田信之が入城。以後、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。 1711年(正徳元年) 幕命により松代城と名を改められた。



旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
自家用車

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