2015/11/29 - 2015/11/29
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アルプ・グリュムさん
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横浜は1859年に開港していらい西洋文化の流入拠点となり、来日した 外国人によってもたらされたものがたくさんあります。
その歴史を伝える碑を追って散策しました。
山下公園、元町公園、横浜公園、港の見える丘公園は別に編集しています。
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救急発祥の地
消防救急発祥之地 名所・史跡
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救急発祥の地
昭和8年(1933)2月 日本で初めて この地(当時の山下町消防署)に 救急車が配置運用開始されました
昭和58年9月6日 -
旧居留地消防隊地下貯水槽遺構
旧居留地消防隊地下貯水槽 名所・史跡
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旧居留地消防隊地下貯水槽遺構
この貯水槽は、明治4(1871)年から明治32(1889)年までここを本拠地とした居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)の防火貯水槽として建造されたものです。この地に居留地時代から100年以上も良好に保存され、昭和47(1972)年まで使用されました。構造物としての特徴は、内部のヴォールト(アーチ)型の天井と十時の補強用の間仕切りにより4室に分かれていることで、役割を終えた現在でも地下水の流入により常時貯水されています。
またここは、居留地消防隊が本拠地として使用した跡にも、日本初の消防車(大正3(1914)年、救急車(昭和8(1933)年)が配置されるなど、日本における近代消防ゆかりの地ともいえます。
横浜市では、自治体消防体制発足時代の横浜消防局本部が置かれ、平成6(1994)年まで日本大通消防出張所として100年以上の消防の歴史があるこの地の貯水槽を保存し、展示しています。 -
横浜かをり山下町本店
ここには「ホテル発祥の地」の碑が設置されてありますが日本のホテル発祥の地ではなく横浜での発祥地が正しい。
また、旅館とホテルとの区別が曖昧なので真意は不明です。横浜かをり 山下町本店 グルメ・レストラン
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ホテル発祥の地
開国150年記念「ホテル発祥の地」かをり会
平成16年3月31日竣工
ホテル発祥の地とは「1860年(万延元年)、開港直後の2月、横浜のホテルの元祖がこの地(居留地70番)で生誕した。 この「ヨコハマ・ホテル」はオランダ人が造ったもので、内部に食堂、ビリヤード室、酒場を設け、数年後にはフランス人シェフのレストランや洋酒、洋菓子の販売、ボーリング室も付設した。
宿泊客のハイネは、ここで美味な料理をとれると賞称賛し、他にシーボルト・ワーグマン、クラーク等の著名文化人も多数、宿泊し滞在した。これらの人たちを通じて最新の外国文化の受け入れ窓口として、我が国の近代化に果たした役割はまことに大きい。」
撰文・草間 俊郎 -
日本で最初の鉄筋コンクリート造りの建物
現在はKN日本大通ビルと名を変えているので三井物産横浜ビルは誤りです。
旧三井物産横浜ビルと変更すべきです。
地図上は既にKN日本大通ビルと変更されています。KN日本大通ビル 名所・史跡
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日本で最初の鉄筋コンクリート造りの建物
戦前を代表するオフィスビル。 日本で最初の全鉄筋コンクリート造りの建物です。 -
日本で最初の鉄筋コンクリート造りの建物
現在は賃貸ビルとなっています。
関東大震災にも耐えたとされる建造物です。 -
横浜港郵便局
外国郵便創業の局は間違いではありませんが、横浜港郵便局です。外国郵便創業の局 名所・史跡
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横浜港郵便局 (外国郵便創業の局)
碑は壁に金属製のプレートで設置されています。 -
横浜港郵便局 (外国郵便創業の局)
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神奈川県庁本庁舎の敷地内には、神奈川運上所跡の碑
神奈川県庁本庁舎 名所・史跡
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神奈川運上所跡
神奈川運上所跡 名所・史跡
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神奈川運上所跡
開港にともない、関税と外交事務をあつかう神奈川運上所が、いまの神奈川県庁所在地に設けられ、 神奈川奉行の支配にぞくしていた。
慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。
明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた。
横浜国際観光協会・横浜市・神奈川県 -
電信創業の地
横浜地検の前にあり、写真を撮る前に警備員に断って撮りました。
断らないと産業スパイと勘違いされます。電信創業の地 名所・史跡
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電信創業の地
明治2年(1869)12月25日, この場所において横浜電信局と 東京電信局の間に わが国ではじめて 電報の取扱が行われました。
昭和38年12月27日
日本電信電話公社 -
横開市開港記念会館
余りにも有名に建造物ですがこの建物には直接関係ありません。横浜市開港記念会館 名所・史跡
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横開市開港記念会館
この説明板の横に設置してあるのが横浜町会跡と岡倉天心誕生の地の碑です。 -
横浜町会跡と岡倉天心誕生の地の碑です。
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横浜町会所跡
1874(明治7)年、横浜の貿易商の集会所として町会所が建設された。
石造2階建てで屋上に塔があり、「時計台」の愛称で親しまれていた。横浜町会所跡 名所・史跡
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横浜町会所跡
町会はチョウカイではなくマチカイと読みます。 -
横浜町会所跡
この地に、明治7年(1874)4月に竣工した石造2階建て屋上に高塔のある建物は、横浜市制施行の明治22年まで横浜の町政を執った町会所でした。 「時計台」の愛称で親しまれ、横浜の名所となっていました。明治23年横浜貿易商組合会館と改称し、その後横浜会館と改めましたが、明治39年12月類焼により焼失いたしました。跡地に開港50年を記念して現在の建物が大正6年竣工いたしました。
また、この地は開港期より明治初年まで、 岡倉天心の父勘右衛門が支配人をしていた石川屋(越前藩(福井県)の生系売込店)があったところです。
横浜市教育委員会文化財課 社団法人横浜国際観光協会 平成10年3月 -
岡倉天心誕生の地
石川屋(石川生糸店)がこの場所にあったとは!岡倉天心生誕の地 名所・史跡
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横浜商工会議所発祥の地
横浜商工会議所発祥の地 名所・史跡
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開通合名社(日本人の商社)の煉瓦遺構
蕎麦屋・レストランの解体工事の際に建物内部からこんな煉瓦遺構が見つかり保存されたのです。開通合名会社の煉瓦遺構 名所・史跡
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開通合名社(日本人の商社)の煉瓦遺構
この遺構は、明治時代に建てられたと推定される開通合名会社の社屋の一部であると考えられています。
建物は、大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災で大部分が倒壊しましたが、その一部が震災後の復興建築の内部に奇跡的に残されていました。
平成26年(2014年)、建物の解体時に発掘されたこの遺構は、所有者の意向により、横浜関内地域の日本人商社建築の記録と、関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史的遺産として現地に保存されることになりました。
開通合名会社は、横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱事務を営んでいた商社であった。
大蔵省で税関貨物の取扱事務の経験を積んだ服部敢(はっとりかん)により、明治10年(1877年)1月に創立された「開通社」の社名を明治24年(1891年)「開通合名会社」に改名。
当地にあった社屋は、レンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで建物の両側にはうだつ(防火壁)を設えていた。
この遺構は左の写真の1階中央部分の出入口と右側の窓部分及び右側側面の壁の一部であると考えられる。
写真は明治38年(1905年)頃のものと推定されている。 -
開通合名社(日本人の商社)
このような遺構は後世のために保存することは大変喜ばしいことです。 -
開通合名社(日本人の商社)
先には横開市開港記念会館が見えます。 -
産業貿易センタービル
神奈川県のパスポートセンターはこのビルが内にあります。
このビルの横に銀行業務発祥の地の碑があります。 -
銀行業務発祥の地
日本で一番最初の銀行は 明治6年創立の 「第一国立銀行」とされ, 日本橋に発祥の地のプレートが飾られているが, これは「日本の資本による銀行」の意味だという。
海外資本による銀行は この「香港上海銀行」で 1866年(慶応2年)のことだった。 -
銀行業務発祥の地
英国系金融機関HSBCグループの香港上海銀行は, 創業2年目の1866年(慶応2年) 居留地62番に日本で初の支店となる横浜支店を開設しました。
その後, 居留地2番(現山下町2番地)に移転した横浜支店は貿易金融業務の提供に 留まらず, 日本政府に対して銀行業や通貨制度に関する助言も行いました。 香港上海銀行は現在日本で営業を行っている最も古い銀行です。 -
英一番館跡
ここは、かつて外国人居留地の一番地で、イギリス人の設立した「ジャーディン・マセソン商会」のあった所。 -
英一番館跡
英一番館跡碑 名所・史跡
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英一番館跡
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英一番館跡には英一番街としてフランス料理レストランがあります。
英一番街 市場・商店街
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横浜ユーラシア文化会館 横浜都市発展記念館
壁のタイルに旧横浜市外電話局のプレートが埋め込まれています。横浜ユーラシア文化館 美術館・博物館
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旧横浜市外電話局
当館の建物は、1929(昭和4)年に横浜中央電話局の局舎として建てられた歴史的建造物です。戦後も、横浜市外電話局として長く利用されていましたが、NTTの移転を機会に、横浜市の施設として保存活用されることになったものです。平成12年度には、「旧横浜市外電話局」として横浜市認定歴史的建造物となりました旧横浜市外電話局 名所・史跡
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プレートが小さいので道路横に旧横浜市外電話局の案内板が設置されています。
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神奈川県電気発祥の地の碑がある東京電力関内変電所
変電所ですから窓が全くないビルは頷けますが異様に見えます。 -
東京電力関内変電所の有効な土地利用として神奈川県電気発祥の地の碑と横浜ベイスターズ優勝モニュメントが設置されています。
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神奈川県電気発祥の地
明治23年10月(1890)横浜共同電灯会社が,この地に火力発電所を建設し, 神奈川県で初めての電力供給を開始いたしました。
当時の発電所は出力100キロワットの石炭火力で,お客さまは約700軒でした。
レリーフはエジソン式直流発電機 -
横浜ベイスターズ優勝モニュメント
横浜ベイスターズ優勝記念モニュメント 煌 名所・史跡
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開港広場
この場所は横浜のが発展した中心の場所とも言えるところです。開港広場 公園・植物園
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日米和親条約締結の碑
開港広場にポツンと建っています。日米和親条約締結の碑 名所・史跡
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日米和親条約締結の碑
安政元年(1854年)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村 の海岸で会見、和親条約を結んだ。
これは、神奈川条約ともいわれ、 日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。歴史的舞台となった 応接所のあとは、現在の神奈川県庁の付近である -
日米和親条約締結の碑
地球を模したもので日本とアメリカが描かれいます。
安政の時代に条約を結んだのにそのアメリカと戦争するとは情けない。 -
開港広場には旧横浜居留地煉瓦造下水道マンホールの遺構が見られます。
旧横浜居留地煉瓦造下水道マンホール 名所・史跡
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旧横浜居留地煉瓦造下水道マンホール
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横浜開港資料館
ここには関東大震災、戦争等で焼け落ちた建物にあった物が資料として展示されてあります。
中庭にはいくつかの貴重な展示品が見られます。横浜開港資料館 美術館・博物館
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獅子頭共用栓とブラフ溝
中庭だけの見学は無料です。 -
獅子頭共用栓とブラフ溝
ブラフ溝は山手公園等では今でも現役で使われています。獅子頭共用栓とブラフ溝 名所・史跡
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獅子頭共用栓とブラフ溝
この共用栓は、日本最初の近代水道となった横浜水道(明治18−20年)創設時市内各所に配置されていたものである。当時家庭内に蛇口を引く例は少なく、路頭の共用栓から水の供給を受けるのが一般的で、創設期600基がイギリス・グレンフィールド社から輸入された。
また、水受石は、山手の坂道など居留地時代の道路遺
構に使用されていた石材を再利用した -
横浜海岸教会
普段は閉まっているので歩道横に案内板が設置されています。
関東大震災で倒壊しましたが古い聖書等は展示されているそうです。 -
横浜海岸教会は日本大通りに面した明治5年に設立された日本最古のプロテスタント・キリスト教会です。
横浜海岸教会 寺・神社・教会
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アーバンネット横浜ビルの壁と歩道に電話交換創始の地の碑があります。
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ビルの壁と歩道側の双方に電話交換創始の地の碑があります。
横浜の加入者は42人で、市内通話の料金は年間35円の定額制だったそうです。電話交換創始の地 名所・史跡
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電話交換創始の地
明治23年(1890年)12月16日、この場所にあった横浜電話交換局において、横浜と東京間及び市内にわが国で初めて電話交換業務が開始されました。
平成4年4月1日 日本電信電話株式会社
電話交換創始之地
横濱電話交換局跡
明治廿三年十二月十六日開始
紀元二千六百年
逓信省 -
電話交換創始の地
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電話交換創始の地
壁にも彫られています。 -
港町魚市場跡
港町魚市場跡 名所・史跡
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港町魚市場跡
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港町魚市場を偲ぶ
明治四年神奈川県令陸奥宗光は高嶋嘉右衛門に市場開設を許可す。明治七年高嶋嘉右衛門は更に船便良き港町に市場を移す。明治四十二年嘉右衛門の代横浜港町魚問屋組合長太田徳次郎は横浜食品市場株式会壮を設立し市場一切を買収し水産物青果物問屋に店舗を貸し日増しに繁昌せり。然るに昭和六年横浜市中央卸売市場開場に伴ひ業者全部新市場に入場し土地千二百七十坪横浜市に譲渡せり。
本年は十月、五十周年を目出度く迎えらる、当時の横浜食品市場会社社長太田徳次郎専務岡田岩蔵常務畠山国太郎取締役落合三次郎、新井万次郎、石黒久次郎、吉橋龍太郎、いづ兼料亭千登世、八百政吉兼あらゐ屋可祢田等其の後続き居る業者半数に及ぶ魚河岸関係者八十余名にて青果業有力者八百友、八百信、八百清、八百吉商店五十周年を迎えて記念として碑を建立す。 -
左側は鉄の橋碑、右側はプラントンと横浜の碑
鉄の橋碑/ブラントンと横浜碑 名所・史跡
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鉄の橋碑 (テツではなくカネと読みます)
明治2年(1869年)、英国人土木技師R・H・ブラントン(RICHARD HENRY BRUNTON 1841〜1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24m、幅員6mの日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。 -
鉄の橋碑
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プラントンと横浜の碑
明治元年(1868年)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。
横浜居留地測量 1867〜70
電信敷設 1869
新橋・横浜間の鉄道意見書 1869
吉田橋(鉄の橋)架設 1869
居留地、下水道整備・マカダム式道路舗装・街路照明計画 1869-71
水道計画 1870
築港計画 1870, 73, 74
新埋立居留地造成設計・施工 1871
中村川拡幅等設計・施工 1871
日本大通り設計・施工 1871
修技校解説 1871
横浜公園設計・施工 1871, 72 -
プラントンと横浜の碑
彼が設計した施設と地図が描かれています。 -
吉田橋関門跡
開港直後、開港場への出入り口として、ここに吉田橋が架けられた。
橋には関門が設けられ、開港場の治安を図った。関門を境に海側を関内、陸側を関外と呼んだ。吉田橋 (吉田橋関門跡) 名所・史跡
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吉田橋関門跡
史跡 吉田橋関門跡 横濱市長 平沼亮三書
昭和二十九年月建 開国百年祭記念
横浜市地域史跡 吉田橋関門跡(よしだばしかんもんあと)
平成五年十一月一日 登録
所有者 横浜市
安政六年(一八五九)六月二日、横濱が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)二月に吉田町側に移設されました。
関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治四年に廃止されました。
平成六年三月
横浜市教育委員会 -
吉田橋として残っていますが橋の下は首都高です。
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吉田橋を越えると伊勢佐木商店街となり正式の場所は関内ではなく関外となります。
反対側の海側は馬車道となり、根岸線の関内駅は駅名通りです。伊勢佐木町商店街 (イセザキモール) 市場・商店街
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