2015/11/29 - 2015/11/29
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アルプ・グリュムさん
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横浜は1859年に開港して以来西洋文化の流入拠点となり、来日した 外国人によってもたらされたものがたくさんあります。
その歴史を伝える碑を追って散策しました。
山下公園、元町公園、横浜公園、港の見える丘公園は別に編集しています。
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このエリアはJR石川町駅から散策を始めます。
横浜製鉄所跡の碑は改札口からすぐの場所にあります。 -
横浜製鉄所跡
横浜製鉄所は、江戸幕府がフランスと提携し、艦船の修理と洋式工業の伝習を目的として、この地に設置した官営工場です。
横浜製鉄所は、横須賀製鉄所に先立ち緊急に建設されました。元治二年(一八六五)二月に着工、九月下旬には開業し、船舶修理のほか、横須賀製鉄所建設に必要な各種器具や船舶用機械の製造などで繁忙を極めました。首長(初代ドロートル、のちゴートラン、ルッサンなど)以下多くのフランス人技師・職工が建設や創業に携わり、わが国における近代的産業技術の導入、発展の上で大きな役割を果たしました。
慶応四年(一八六八)閏四月、横浜製鉄所は、横須賀製鉄所とともに新政府に引き継がれました。管轄は神奈川裁判所、大蔵省、民部省、工部省と移り、明治四年(一八七一)横浜製作所と改称(横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称)、五年海軍省に移管し、横浜製造所と改めました。六年大蔵省に移り、横須賀造船所と所管庁を異にします。七年内務省に移管。八年高島嘉右衛門らに貸渡され、民営化の先駆けとなりました。十一年再び海軍省所管。十二年石川島平野造船所(現、株式会社IHI)の平野富二に貸与されて横浜石川口製鉄所と改称、十七年に建物と機械はすべて本社工場に移設され、約一・四ヘクタールの敷地は、翌年海員掖済会(現、社団法人日本海員掖済会)に貸与されました。
平成二十二年三月 横浜市教育委員会」横浜製鉄所跡 名所・史跡
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港中学校の門柱の旧花園橋の親柱
ここは石川町駅から中華街へ抜けるメイン道路ですが観光客、地元の方々は通り過ぎていいます。
登録有形文化財と碑があるのですが柵の中で横になってあります。
旧花園橋の親柱の左側の柵があるため誰も気づかないのです。旧花園橋の親柱 名所・史跡
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旧花園橋の親柱
花園橋は、1876年(明治29年)に派大岡川に架けられた橋。
当初は木橋で1888年(明治21年)に鉄橋となったが、1923年(大正12年)の関東大震災により倒壊。
港中学校の門柱として使用されている親柱は、震災復興事業の一環で架け替えられたときのもの。
高さ約2.8m、一辺約1.2mの石柱と高さ約1.1mの鋳鉄製照明部から構成されている。 -
文化庁の登録有形文化財と碑文
柵の上から覗いてこの写真ですから、普通に柵の間から覗いても気づきません。
写真の下に少し見えるのが柵です。 -
横浜の下水道の始まり
中土木事務所にあります。 -
横浜の下水道の始まり
ここに展示の構造物は, 昭和56年2月に, 中区山 下町37番地先から発掘された卵形下水管である。
明治3年に関内居留地内全域に陶管を埋設した。 これが, わが国最初の近代的下水道であった。その 後, 明治14年からこれをレンガ造りの下水管に造り 変えた。その断面が卵形をしているので卵形管と呼 ばれる。この時の卵形管の一部は, 中華街南門通り で現在も使われている。 -
日本における新聞誕生の地は中華街の地久門から入ったところにあります。
日本国新聞発祥の地 名所・史跡
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日本における新聞誕生の地
ここ、横浜の元居留地一四一番は、ーハ六四 (元治元) 年六月二十八日、ジョセフ彦が、「海外新聞」 を発刊した居館の跡である。
彦は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本人であった。リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初の新聞を創刊し、「童子にも読める」新聞精神を提唱した。読みやすく判かりやすい新聞を、創世期の日本の新聞界に植えっけた新聞の父・彦の功は大きい。
さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本竜馬など多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る文化の恩人であった。
一九九四(平成六)年六月二十八日
「海外新聞」発刊一三〇年記念日に ジョセフ彦記念会 -
加賀町警察署
碑はありませんが明治15年(1882年)、我が国最初の警察署を居留地内に設置しました。
居留地警察署と呼ばれ、現在の加賀町警察署(中華街の善隣門正面)の前身であると言われています。 -
横浜天主堂跡
信号機にも横浜天主堂跡がありましたが碑はなかなか見つかりませんでした。 -
横浜天主堂跡
この碑があるだけで、私は横浜天主堂の廃墟でもあるのかと思っていました。横浜天主堂跡 名所・史跡
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横浜天主堂跡
文久元年12月(1862)1月、横浜居留地(現山下町80番地)において開国後最初のカトリック教会の聖堂の献堂式が行われた。正式名称を「EGLISE DU SACRE-COEUR」(聖心聖堂)というが、建物に「天主堂」と記した文字があった天主堂とも呼ばれた。
パリ外国宣教会から日本管区長代理として指名され、フランス代理公使の通訳として来日したジラ−ル(Girard)神父が、万延元年(1860)6月頃、横浜居留地80番地に聖堂建設用地の借地権を取得した。まず司祭館の建設を進め12月に完成した。11月に来浜したムニク(Mounicou)神父がここに住んで聖堂建設に従事し、翌年1月にはジラ−ル神父も来浜し、聖堂は文久元年(1861)末に完成した。
その後、明治39年(1906)、聖堂は、山手44番(現山手町44番地)に移転した。震災後再建されたのが、現在のカトリック山手教会です。昭和37年(1962)、天主堂創建100年記念して碑が建てられた。 横浜市地域史跡 -
横浜天主堂跡
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日本洋裁業発祥顕彰碑
日本洋裁業発祥顕彰碑 名所・史跡
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日本洋裁業発祥顕彰碑
1863年(文久3年)英国人ミセス・ピアソンが横浜居留地97番にドレス・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業の始まりである
その頃から在留西洋婦人は自家裁縫のため日本人足袋職人・和服仕立職人を人仕事として雇いこれにより婦人洋服仕立職人が育った
以来130有余年、先人達の偉業を称え、その精霊をモニュメントに表徴して永く後世に伝えるべく、洋裁業発祥の地たる横浜に、日本洋裁業発祥顕彰碑を建立する
1995年 平成7年11月24日 -
麻里布丸のイカリ
横浜海員会館・エスカル横浜前にあります。 -
麻里布丸のイカリの碑文
このイカリは、かつて東京タンカー所属の麻里布丸(載荷重量50,423トン)で使用され、三菱重工横浜造船所より寄贈を受けイカリで総重量が10.5トン、錨柄が3.4mあります。
麻里布丸は中東等の産油国から原油を運び続け、外航200次航海を達成後昭和54年春に解体されて本牧埠頭の護岸建設に利用された横浜港にゆかりの深い舟です。 -
日本の道百選の碑
山下公園通りと山手本通りが百選に選ばれています。 -
ヘボン博士邸跡
横浜地方合同庁舎の横に建っています。ヘボン博士邸跡 名所・史跡
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ヘボン博士邸跡
開港とともに来日した宣教師の一人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。
聖書のほんやく、和英辞典のへんさん、医術の普及などがそれである。昭和2
4年(1949)10月記念碑が邸跡に建てられた。 -
岩崎博物館
ゲーテ座跡とありますがあるのは碑だけです。岩崎博物館(ゲーテ座記念) 美術館・博物館
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ゲーテ座跡
明治18年(1885)4月、この地に慰留外国人のための劇場「パブリック・ホール」が開場した。アマチュア劇団の芝居、音楽会等種々の催し物が行われた。設計はポール・サルダで、建坪270坪、赤煉瓦造りであった。
明治41年(1908)7月、「ゲーテ座」と改名した。大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまで外国人の社交場でもあった。この前身は、オランダ人へフトにより現山下町68番地に明治3年 (1870) 開設された 「ゲーテ座」 と名付けられた劇場である。
社団法人横浜国際観光協会 横浜市・神奈川県 -
山手本通りのベーリクホールとエリスマン邸の間の額坂の途中にあります。
横浜バプテスト神学校発祥の地 名所・史跡
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関東学院の源流 横浜バプテスト神学校発祥の地
1884年10月6日、ここ山手でA・A・ベンネットが横浜バプテスト神学校を設立した。
関東学院キリスト教育の源流はここに発する。 -
シドモア桜
種類としてはソメイヨシノなので4月の開花時期に再び訪れたいと思っています。シドモア桜 名所・史跡
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シドモア桜
ポトマック河畔から里帰り
東京からワシントンへ友好、親善のため桜の苗木(ソメイヨシノ)3000本が送られました。
その苗木はポトマック河畔に植えられ、世界的な名所になりました。
桜の植樹にあたり、大きく貢献したのが紀行作家であり、アメリカ人女性エリザ・R・シドモアさんです。
シドモアさんは今、横浜山手の外人墓地に眠っています。 -
代官坂
写真の建物は関係ありませんが代官坂の碑が設置してあります。代官坂 名所・史跡
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代官坂
この坂は、山手の丘を越えて北方・本牧へ行く道で、箕輪坂と称していましたが、坂の途中この地に横浜村名主石川徳右衛門が居住していたことから、代官坂とよばれています。幕末開港前後の当主徳右衛門は、日米和親条約締結のための応接場の設営、食糧、その他の設備一切を掌りました。嘉永7年(1854)3月9日(4月6日)ペリ−が横浜村に上陸し住民の暮らしぶりを視察したおり屋敷を訪れ、徳右衛門が供応した様子が「ベルリ提督日本遠征記」に記されています。その後徳右衛門は、横浜町惣年寄となり町政を担当しました。明治7年(1874)、坂の上(山手町75番地)にバブテスト自由伝道教会のネ−サン.ブラウンが教会堂を建て布教の拠点としましたが、火災で消失しその後、明治27年(1894)ベンネットが横浜第一バブテスト教会と称し、教会堂を坂の途中(現在 元町2丁目80番地)に移転しました。大正12年(1923)寿町に移転し、跡地に「日本バブテスト発祥の地」の祈念碑を建立しました。
社団法人 横浜国際観光協会 -
日本ハプテスト教発祥の地
案内板とは道路の反対側にこの碑はあります。 -
ウチキパン
碑は設置されていませんが日本の食パンの元祖です。
あんパンは木村屋、クリームぱんは中村屋等のパンの種類によって元祖が異なっています。ウチキパン グルメ・レストラン
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ウチキパン
SINCE 1888 がその歴史を証明します。
逆算すると明治21年です。 -
機械製氷発祥の地の碑が設置してある山手迎賓館
山手迎賓館 名所・史跡
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機械製氷発祥の地
開港から明治初期に至る時期、横浜にはボストンや函館から切り出された天然氷を扱う会社がいくつもつくられました。ホテルのレストランやアイスクリ−ムサロンで氷が共されたという記録が残っています。
1879(明治12)年には、日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイスカンパニ−」がこの地に設立され、オランダ人ストルネブリンクらによって永く経営されました。
設立当時の建物は関東大震災で倒壊したものの、翌年には再建し、1999年(平成11年)まで、株式会社ニチレイの子会社である神奈川日冷株式会社山手工場として再建当時の姿のままで稼動していました。機械製氷発祥の地 名所・史跡
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機械製氷発祥の地の碑は山手迎賓館の壁に遠慮したように隅に設置されてあります。
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