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かつて、パリには 『フィリップ・オーギュストの城壁』  <br />(建設開始:右岸1190頃~、左岸1200頃~) がありました。<br /><br />『フィリップ・オーギュストの城壁』が建設されている頃というのは、<br />ちょうどパリのノートルダムが建造されている最中でもありました(1163-)。<br /><br />現在、かつての城壁そのものの名残は所々に残る程度です。<br /><br />特に、右岸は、道としては、形跡 がほとんど残っていないので、<br />イメージするには容易ではないかもしれません。<br /><br />しかし、私は、ずっとそんな時代の城壁跡をぐるりと1周散歩し、 <br />12~13世紀 ”中世のパリ” の大きさを、体感してみたかったのです。<br /><br />この旅行記『右岸編2』は、かつてのタンプル門~バルボー塔、<br />現在の住所で言えば、ポンピドーセンター北のサン・マルタン通り<br />あたりからマレ地区あたり(セーヌ川沿い)までの記録になります。<br />(パリ3区~4区:表紙地図の赤く囲ったエリア) <br /><br />途中、寄り道しながら歩きましたので、寄り道写真も含めながら書いています。<br /><br />(※注)旅行記中の写真で、 ◆ 印のある写真が、城壁沿いのルート、<br />    もしくは城壁に限りなく近い位置、の印となっています。<br /><br />* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps<br />https://goo.gl/1Rce1Y<br /><br />-------------------------------------------------<br />         参     考 <br />-------------------------------------------------<br /><br />http://fr.wikipedia.org/wiki/Enceinte_de_Philippe_Auguste<br />http://www.philippe-auguste.com/<br />http://paris-atlas-historique.fr/50.html<br />芸術新潮 2006年3月号 パリ 中世の美と出会う五日間<br />パリ歴史探偵術 講談社現代新書 宮下志朗著<br />パリ史の裏通り 白水uブックス 堀井敏夫著<br />ミシュラン・グリーン・ガイド・パリ<br /><br />※この散歩の ” き っ か け ” や <br /> ” フィリップ・オーギュストの城壁 ? 概要 ? ” は、<br /> 『右岸編1』 の表紙に書きましたしたので、ここでは省略します。<br /><br />-------------------------------------------------   <br /><br />右岸編1(10/11)  http://4travel.jp/travelogue/10942604<br />右岸編2(10/11)  http://4travel.jp/travelogue/10942606<br />左岸編1(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942608<br />左岸編2(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942609<br />城壁内編(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942610<br />まとめ編(10/11,13) http://4travel.jp/travelogue/10942612<br /><br />

パリのお散歩 フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く (右岸編2:現3-4区) Balade sur les traces de l’enceinte de Philippe Auguste

24いいね!

2014/10/11 - 2014/10/11

3136位(同エリア17021件中)

旅行記グループ パリ・城壁跡散歩

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wiz

wiz さん

かつて、パリには 『フィリップ・オーギュストの城壁』  
(建設開始:右岸1190頃~、左岸1200頃~) がありました。

『フィリップ・オーギュストの城壁』が建設されている頃というのは、
ちょうどパリのノートルダムが建造されている最中でもありました(1163-)。

現在、かつての城壁そのものの名残は所々に残る程度です。

特に、右岸は、道としては、形跡 がほとんど残っていないので、
イメージするには容易ではないかもしれません。

しかし、私は、ずっとそんな時代の城壁跡をぐるりと1周散歩し、 
12~13世紀 ”中世のパリ” の大きさを、体感してみたかったのです。

この旅行記『右岸編2』は、かつてのタンプル門~バルボー塔、
現在の住所で言えば、ポンピドーセンター北のサン・マルタン通り
あたりからマレ地区あたり(セーヌ川沿い)までの記録になります。
(パリ3区~4区:表紙地図の赤く囲ったエリア) 

途中、寄り道しながら歩きましたので、寄り道写真も含めながら書いています。

(※注)旅行記中の写真で、 ◆ 印のある写真が、城壁沿いのルート、
    もしくは城壁に限りなく近い位置、の印となっています。

* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps
https://goo.gl/1Rce1Y

-------------------------------------------------
         参     考 
-------------------------------------------------

http://fr.wikipedia.org/wiki/Enceinte_de_Philippe_Auguste
http://www.philippe-auguste.com/
http://paris-atlas-historique.fr/50.html
芸術新潮 2006年3月号 パリ 中世の美と出会う五日間
パリ歴史探偵術 講談社現代新書 宮下志朗著
パリ史の裏通り 白水uブックス 堀井敏夫著
ミシュラン・グリーン・ガイド・パリ

※この散歩の ” き っ か け ” や 
 ” フィリップ・オーギュストの城壁 ? 概要 ? ” は、
 『右岸編1』 の表紙に書きましたしたので、ここでは省略します。

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右岸編1(10/11)  http://4travel.jp/travelogue/10942604
右岸編2(10/11)  http://4travel.jp/travelogue/10942606
左岸編1(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942608
左岸編2(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942609
城壁内編(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942610
まとめ編(10/11,13) http://4travel.jp/travelogue/10942612

旅行の満足度
5.0
  • * 前回の旅行記 『右岸編1』 http://4travel.jp/travelogue/10942604 からのつづきです。<br /><br />”錬金術師ニコラ・フラメルの家”<br /><br />モンモランシー通り51番地 ( 51 Rue de Montmorency, 75003 Paris ) にある 『中世の錬金術師の家 ニコラ・フラメルの家』 をあとにして東へ歩き、モンモランシー通り Rue de Montmorency を右折、

    * 前回の旅行記 『右岸編1』 http://4travel.jp/travelogue/10942604 からのつづきです。

    ”錬金術師ニコラ・フラメルの家”

    モンモランシー通り51番地 ( 51 Rue de Montmorency, 75003 Paris ) にある 『中世の錬金術師の家 ニコラ・フラメルの家』 をあとにして東へ歩き、モンモランシー通り Rue de Montmorency を右折、

    オーベルジュ ニコラ フラメル 地元の料理

  • ミッシェル・ル・コント通り Rue Michel le Comte, 75003 Paris<br /><br />ボーブール通り Rue Beaubourg を南下(このまま南下すればポンピドーセンター)し、ミッシェル・ル・コント通り Rue Michel le Comte に入りました。

    ミッシェル・ル・コント通り Rue Michel le Comte, 75003 Paris

    ボーブール通り Rue Beaubourg を南下(このまま南下すればポンピドーセンター)し、ミッシェル・ル・コント通り Rue Michel le Comte に入りました。

  • ミッシェル・ル・コント通り Rue Michel le Comte をしばらく歩き右折、タンプル通り Rue du Temple に右折します。<br /><br />タンプル通りに右折する前に撮った1枚。 この写真は、タンプル通り Rue du Temple と オドゥリエット通り Rue des Haudriettes の交差点で撮りました。<br /><br />手前の木のある小さなスペースは、ルネ・ヴィヴィアン広場(Place Renée-Vivien)という名が付いているようです。 まっすぐ行くと、狩猟博物館。<br /><br />一緒に歩いていたSちゃんが、この通りのアイリッシュパブ Quiet Man で仲間とギネスを飲みながら アイルランド伝統音楽、ケルト音楽 をやっていたことがある(皆についていくのがやっとだったとか・・)、との話を聞き、記念に1枚撮っておきました。

    ミッシェル・ル・コント通り Rue Michel le Comte をしばらく歩き右折、タンプル通り Rue du Temple に右折します。

    タンプル通りに右折する前に撮った1枚。 この写真は、タンプル通り Rue du Temple と オドゥリエット通り Rue des Haudriettes の交差点で撮りました。

    手前の木のある小さなスペースは、ルネ・ヴィヴィアン広場(Place Renée-Vivien)という名が付いているようです。 まっすぐ行くと、狩猟博物館。

    一緒に歩いていたSちゃんが、この通りのアイリッシュパブ Quiet Man で仲間とギネスを飲みながら アイルランド伝統音楽、ケルト音楽 をやっていたことがある(皆についていくのがやっとだったとか・・)、との話を聞き、記念に1枚撮っておきました。

  • 79 Rue du Temple,75003 Paris  タンプル通り79番地<br /><br />ミッシェル・ル・コント通りを右折、タンプル通りに入り南下しています。<br /><br />このあたりの館の前には、パリ市のモニュメントに建つ記念版がたくさんあります。

    79 Rue du Temple,75003 Paris  タンプル通り79番地

    ミッシェル・ル・コント通りを右折、タンプル通りに入り南下しています。

    このあたりの館の前には、パリ市のモニュメントに建つ記念版がたくさんあります。

  • 79 Rue du Temple,75003 Paris  タンプル通り79番地<br /><br />この79番地の建物は、”モンモール館 Hotel de Montmor” だった。<br /><br />ルイ13世時代に「金満家」とあだ名された財務官モンモールのために建てられ、18世紀に改修された館。<br /><br />天文学者で数学者でもあったガッサンディ Pierre Gassendi がここに数年間住んでいたことがある。 財務官の息子がガッサンディを中心に当時一流の物理学者や医学者であるユイガンス、ロベルヴァル、ギ・パタンらを集めて会合を催した。 それは、1666年に創立された科学アカデミーの集会の先がけとでも言うべきものだった、 のだそうです。

    79 Rue du Temple,75003 Paris  タンプル通り79番地

    この79番地の建物は、”モンモール館 Hotel de Montmor” だった。

    ルイ13世時代に「金満家」とあだ名された財務官モンモールのために建てられ、18世紀に改修された館。

    天文学者で数学者でもあったガッサンディ Pierre Gassendi がここに数年間住んでいたことがある。 財務官の息子がガッサンディを中心に当時一流の物理学者や医学者であるユイガンス、ロベルヴァル、ギ・パタンらを集めて会合を催した。 それは、1666年に創立された科学アカデミーの集会の先がけとでも言うべきものだった、 のだそうです。

  • 75 Rue du Temple,75003 Paris  タンプル通り75番地<br /><br />75番地の家は古い家なのだそうです。<br /><br />向こうに見える青い看板は、ユダヤ芸術歴史博物館。<br /><br />このあたりは、この写真の目の前あたりに、フィリップ・オーギュストの城壁があった、と思われる位置です。<br /><br />もう少し前進すると、

    75 Rue du Temple,75003 Paris  タンプル通り75番地

    75番地の家は古い家なのだそうです。

    向こうに見える青い看板は、ユダヤ芸術歴史博物館。

    このあたりは、この写真の目の前あたりに、フィリップ・オーギュストの城壁があった、と思われる位置です。

    もう少し前進すると、

  • ◆旧タンプル門 Porte du Temple 界隈<br /><br />フィリップ・オーギュスト城壁 (L’enceinte de Philippe Auguste) <br />(地図は、Atlas historique de Parisより、以下写真同。)<br />http://paris-atlas-historique.fr/50.html<br />http://paris-atlas-historique.fr/resources/Enceinte+Ph+Auguste.pdf<br /><br />71 Rue du Temple, 75003 Paris<br /> (ユダヤ芸術歴史博物館 Musee d&#39;Art et d&#39;Histoire du Judaisme)<br /><br />la porte du Temple en 1280 <br />(rue du Temple, entre la rue de Braque et la rue Rambuteau)<br /><br />ユダヤ芸術歴史博物館 前に、到着。<br /><br />このあたりは、フィリップ・オーギュトの城壁が目の前に聳えていたであろう場所で、タンプル門があったところ。 タンプル門は、他の門より少し新しく1280年にできたそうです。

    ◆旧タンプル門 Porte du Temple 界隈

    フィリップ・オーギュスト城壁 (L’enceinte de Philippe Auguste)
    (地図は、Atlas historique de Parisより、以下写真同。)
    http://paris-atlas-historique.fr/50.html
    http://paris-atlas-historique.fr/resources/Enceinte+Ph+Auguste.pdf

    71 Rue du Temple, 75003 Paris
    (ユダヤ芸術歴史博物館 Musee d'Art et d'Histoire du Judaisme)

    la porte du Temple en 1280
    (rue du Temple, entre la rue de Braque et la rue Rambuteau)

    ユダヤ芸術歴史博物館 前に、到着。

    このあたりは、フィリップ・オーギュトの城壁が目の前に聳えていたであろう場所で、タンプル門があったところ。 タンプル門は、他の門より少し新しく1280年にできたそうです。

    ユダヤ歴史博物館 博物館・美術館・ギャラリー

    このあたりにフィリップ・オーギュストの城壁がありました! Musee d'Art et d'Histoire du Judaisme (3区) by wiz さん
  • ◆旧タンプル門 Porte du Temple 界隈<br /><br />71 Rue du Temple, 75003 Paris<br /> (現 ユダヤ芸術歴史博物館 Musee d&#39;Art et d&#39;Histoire du Judaisme)<br /><br />”サン・テニャン館 Hotel de St Aignan”<br /><br />1650年にダヴォー伯のためにル・ミュエの設計で建てられた。 1680年にサン=テニャン公はコルベールの女婿で、フェヌロンと共にルイ14世の3人の孫の家庭教師として仕えた。 <br /><br />中庭の左側には、 『フィリップ・オーギュストの時代の古い城壁』 だが、それをル・ミュエが作った似非窓で隠している、 のだそうです。<br /><br />いずれにしても、このあたりは、『フィリップ・オーギュストの城壁』があった場所と言えます。

    ◆旧タンプル門 Porte du Temple 界隈

    71 Rue du Temple, 75003 Paris
    (現 ユダヤ芸術歴史博物館 Musee d'Art et d'Histoire du Judaisme)

    ”サン・テニャン館 Hotel de St Aignan”

    1650年にダヴォー伯のためにル・ミュエの設計で建てられた。 1680年にサン=テニャン公はコルベールの女婿で、フェヌロンと共にルイ14世の3人の孫の家庭教師として仕えた。 

    中庭の左側には、 『フィリップ・オーギュストの時代の古い城壁』 だが、それをル・ミュエが作った似非窓で隠している、 のだそうです。

    いずれにしても、このあたりは、『フィリップ・オーギュストの城壁』があった場所と言えます。

  • ◆ブッラック通り Rue de Braque から望む クリソン館 Hotel de Clisson のクリソンの門 Porte de Clisson 。 <br /><br />58 Rue des Archives, 75003 Paris  アルシーヴ通り58番地<br /><br />この門の隣りをくぐると、国立古文書館 の中庭に入れるのですが、門の位置が、アルシーヴ通り58番地 となっています。<br /><br />ここは、1380年(14世紀)に建てられたのだそうです。

    ◆ブッラック通り Rue de Braque から望む クリソン館 Hotel de Clisson のクリソンの門 Porte de Clisson 。

    58 Rue des Archives, 75003 Paris  アルシーヴ通り58番地

    この門の隣りをくぐると、国立古文書館 の中庭に入れるのですが、門の位置が、アルシーヴ通り58番地 となっています。

    ここは、1380年(14世紀)に建てられたのだそうです。

  • ◆ブッラック通り Rue de Braque から望む クリソン館 Hotel de Clisson のクリソンの門 Porte de Clisson 。<br /><br /> ” クリソン館 Hotel de Clisson (14世紀)  ” の遺構で、アルシーヴ通り58番地に残る、せり出し塔が二つ付いた入口は、 ” クリソンの門 Porte de Clisson ” と呼ばれており、離れた場所から見ても特徴的な形が印象的です。

    ◆ブッラック通り Rue de Braque から望む クリソン館 Hotel de Clisson のクリソンの門 Porte de Clisson 。

    ” クリソン館 Hotel de Clisson (14世紀) ” の遺構で、アルシーヴ通り58番地に残る、せり出し塔が二つ付いた入口は、 ” クリソンの門 Porte de Clisson ” と呼ばれており、離れた場所から見ても特徴的な形が印象的です。

    国立古文書博物館 博物館・美術館・ギャラリー

    スービーズ館で一番古い部分 「 クリソンの門 」  Hotel de Soubise (3区) by wiz さん
  • 国立古文書館 Archives Nationales<br /><br />Musee des Archives nationales<br />60 Rue des Francs Bourgeois, 75003 Paris<br /><br />上記アルシーヴ通り側にある中世の門=クリソンの門側から国立古文書館の中庭に入りました。 左上に、”クリソンの門”が見えます。<br /><br />14世紀、この土地で最初の家(クリソン館 Hotel de Clisson )を建てたのは、デュ・ゲグラン(シャルル5世に重用された名将)の戦友 オリヴィエ・ド・クリソン Olivier V de Clisson 元帥 で、位置的には『フィリップ・オーギュストの城壁』  の外側に建てられていたようです。<br /><br />そののち、1553年にド・ギーズ家がこの地を購入し、周辺ののもを合せて広げるかたわら、宗教戦争に際しては旧教同盟の本拠とした。 (※ド・ギーズ家のギーズ公は、右岸編1 のはじめに見てきた、サン・ジェルマン・ロクセロワ教会やオラトワール教会のコリニー提督像のところで書いていたサン・バルテルミの虐殺の事件で有名です。)<br /><br />1700年、スービーズ大公フランソワ・ド・ロアンが館を手に入れたそうで、これは妻がルイ14世から与えられた贈与(大公は妻の不貞に目をつぶった)を利用したものなのだとか。 1705年から1709年にかけて行われた工事で、館は豪著な宮殿に変貌したのだそうです。<br /><br />現在ここにある国立古文書館は、1789年に国民議会によって設置が決定され、1808年ナポレオンによってスービーズ館に置かれるうことになった。 延べ350kmにおよぶ棚に、メロヴィング王朝時代から現代にいたる政府ならびに国家機関の公文書、公証人の公正証書、個人文書など何十億という資料が保存されているのだそうです。

    国立古文書館 Archives Nationales

    Musee des Archives nationales
    60 Rue des Francs Bourgeois, 75003 Paris

    上記アルシーヴ通り側にある中世の門=クリソンの門側から国立古文書館の中庭に入りました。 左上に、”クリソンの門”が見えます。

    14世紀、この土地で最初の家(クリソン館 Hotel de Clisson )を建てたのは、デュ・ゲグラン(シャルル5世に重用された名将)の戦友 オリヴィエ・ド・クリソン Olivier V de Clisson 元帥 で、位置的には『フィリップ・オーギュストの城壁』 の外側に建てられていたようです。

    そののち、1553年にド・ギーズ家がこの地を購入し、周辺ののもを合せて広げるかたわら、宗教戦争に際しては旧教同盟の本拠とした。 (※ド・ギーズ家のギーズ公は、右岸編1 のはじめに見てきた、サン・ジェルマン・ロクセロワ教会やオラトワール教会のコリニー提督像のところで書いていたサン・バルテルミの虐殺の事件で有名です。)

    1700年、スービーズ大公フランソワ・ド・ロアンが館を手に入れたそうで、これは妻がルイ14世から与えられた贈与(大公は妻の不貞に目をつぶった)を利用したものなのだとか。 1705年から1709年にかけて行われた工事で、館は豪著な宮殿に変貌したのだそうです。

    現在ここにある国立古文書館は、1789年に国民議会によって設置が決定され、1808年ナポレオンによってスービーズ館に置かれるうことになった。 延べ350kmにおよぶ棚に、メロヴィング王朝時代から現代にいたる政府ならびに国家機関の公文書、公証人の公正証書、個人文書など何十億という資料が保存されているのだそうです。

  • 国立古文書館 Archives Nationales<br /><br />Musee des Archives nationales<br />60 Rue des Francs Bourgeois, 75003 Paris<br /><br />全体を撮るとこんな感じ。 わりと広い中庭で青空が気持ちいいです。

    国立古文書館 Archives Nationales

    Musee des Archives nationales
    60 Rue des Francs Bourgeois, 75003 Paris

    全体を撮るとこんな感じ。 わりと広い中庭で青空が気持ちいいです。

    国立古文書博物館 博物館・美術館・ギャラリー

    スービーズ館で一番古い部分 「 クリソンの門 」  Hotel de Soubise (3区) by wiz さん
  • アルシーヴ通り Rue des Archives<br /><br />国立古文書館の中庭から出て、アルシーヴ通りの写真を1枚。<br /><br />奥右に、クリソンの門も見えます。

    アルシーヴ通り Rue des Archives

    国立古文書館の中庭から出て、アルシーヴ通りの写真を1枚。

    奥右に、クリソンの門も見えます。

  • フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs Bourgeois<br /><br />この写真の右手に見えるのが、クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫) Credit Municipal de Paris。

    フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs Bourgeois

    この写真の右手に見えるのが、クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫) Credit Municipal de Paris。

  • ◆フラン・ブルジョワ通り57番地<br /> 『フィリップ・オーギュストの城壁』の一部をなしていた、という塔。<br /><br />57bis Rue des Francs Bourgeois, 75004 Paris<br /><br />ここで、パリ3区(75003)から4区(75004)へと区が変わりました。<br /><br />フラン・ブルジョワ通り57bis番地の隙間から、『フィリップ・オーギュスト時代の城壁』であった名残を見ることが出来ます。 これは、およそ800年前に築かれた『フィリップ・オーギュストの城壁』の一部をなしていた塔、なのだそうです。<br /><br />国立古文書館のフラン・ブルジョワ通り側の出口のすぐ前です。<br /><br />この建物左側に、クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫) Credit Municipal de Paris の入口があります。<br /><br />この部分の紹介は、けっこう色々な本や、webでも載っています。<br /><br />写真で見えている部分は改修されていて、基部のあたりに城壁の名残があるとか・・。

    ◆フラン・ブルジョワ通り57番地
     『フィリップ・オーギュストの城壁』の一部をなしていた、という塔。

    57bis Rue des Francs Bourgeois, 75004 Paris

    ここで、パリ3区(75003)から4区(75004)へと区が変わりました。

    フラン・ブルジョワ通り57bis番地の隙間から、『フィリップ・オーギュスト時代の城壁』であった名残を見ることが出来ます。 これは、およそ800年前に築かれた『フィリップ・オーギュストの城壁』の一部をなしていた塔、なのだそうです。

    国立古文書館のフラン・ブルジョワ通り側の出口のすぐ前です。

    この建物左側に、クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫) Credit Municipal de Paris の入口があります。

    この部分の紹介は、けっこう色々な本や、webでも載っています。

    写真で見えている部分は改修されていて、基部のあたりに城壁の名残があるとか・・。

  • クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫) Credit Municipal de Paris の中庭への扉が開いていたので入ってみました。<br /><br />BS日テレで放送のあった ”パリで逢いましょう 4区 マレ地区”を見なおしていたら、このクレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫)のこの中庭も出ていました!<br /><br />パリ信用金庫は、パリで最初の質屋で、貧しい人や急な金の要り用の人にお金を貸し付けてくれるところ。 車を買いたい時に、例えば指輪を担保に出すと、指輪が鑑定されその価値の50〜70%を借りることができ、契約書を書けばすぐに現金が手に入る、という仕組みだそうです。 1年後までに借りたお金を返すか契約を更新しなければ指輪はオークションに出されるのだとか。<br /><br />番組の中でも、次の写真の前で『フィリップ・オーギュストの城壁』の紹介がされていました! 次の写真の塔は、質に入れられた品物を保管しておく倉庫に使われていたそうで、特に布団が多かったらしいです。 19世紀初頭の貧しい人々は朝起きたばかりの布団を質にいれ、それを元手にその日暮らしをしていた・・ 上手く稼げば夜また布団を引きとりに来たのだそうです。

    クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫) Credit Municipal de Paris の中庭への扉が開いていたので入ってみました。

    BS日テレで放送のあった ”パリで逢いましょう 4区 マレ地区”を見なおしていたら、このクレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫)のこの中庭も出ていました!

    パリ信用金庫は、パリで最初の質屋で、貧しい人や急な金の要り用の人にお金を貸し付けてくれるところ。 車を買いたい時に、例えば指輪を担保に出すと、指輪が鑑定されその価値の50〜70%を借りることができ、契約書を書けばすぐに現金が手に入る、という仕組みだそうです。 1年後までに借りたお金を返すか契約を更新しなければ指輪はオークションに出されるのだとか。

    番組の中でも、次の写真の前で『フィリップ・オーギュストの城壁』の紹介がされていました! 次の写真の塔は、質に入れられた品物を保管しておく倉庫に使われていたそうで、特に布団が多かったらしいです。 19世紀初頭の貧しい人々は朝起きたばかりの布団を質にいれ、それを元手にその日暮らしをしていた・・ 上手く稼げば夜また布団を引きとりに来たのだそうです。

  • ◆クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫) Credit Municipal de Paris の中庭から見た『フィリップ・オーギュストの城壁』の一部をなしていた、という塔。<br /><br />先程フラン・ブルジョワ通り57bis番地の隙間から見た塔ですが、中庭に入れたので、中庭側からも撮ってみました。<br /><br />この塔の上は改修されていて基部のあたりが城壁の名残かと思っていたのですが・・ 基部も改修されている感じ?ですよね・・。<br /><br />ここは、位置的には、この写真の向こう側とこちら側に城壁が連なっていた、という感じになります。<br /><br />※地図を見ると分かりますが、フラン・ブルジョワ通りとブラン・マントー通り Rue des Blancs Manteaux 、少し東の ロジエ通り Rue des Rosiers 、この3本の道はだいたい並行して通っていますが、この3本の道の間の ”一般住宅(もしくは店舗)” の中で、 城壁の跡 が残っているところがあるようです。<br /><br />右岸は、フィリップ・オーギュストの城壁跡としての ” 道 ” がほとんど残っていないので、実際歩く時にきれいに曲線を描くように歩けないのが残念なところです。 逆に、左岸は、きれいに(おおよそ)曲線を描くように ” 道 ” として残っているので、現代の地図を見ていても想像力がかき立てられます。

    ◆クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫) Credit Municipal de Paris の中庭から見た『フィリップ・オーギュストの城壁』の一部をなしていた、という塔。

    先程フラン・ブルジョワ通り57bis番地の隙間から見た塔ですが、中庭に入れたので、中庭側からも撮ってみました。

    この塔の上は改修されていて基部のあたりが城壁の名残かと思っていたのですが・・ 基部も改修されている感じ?ですよね・・。

    ここは、位置的には、この写真の向こう側とこちら側に城壁が連なっていた、という感じになります。

    ※地図を見ると分かりますが、フラン・ブルジョワ通りとブラン・マントー通り Rue des Blancs Manteaux 、少し東の ロジエ通り Rue des Rosiers 、この3本の道はだいたい並行して通っていますが、この3本の道の間の ”一般住宅(もしくは店舗)” の中で、 城壁の跡 が残っているところがあるようです。

    右岸は、フィリップ・オーギュストの城壁跡としての ” 道 ” がほとんど残っていないので、実際歩く時にきれいに曲線を描くように歩けないのが残念なところです。 逆に、左岸は、きれいに(おおよそ)曲線を描くように ” 道 ” として残っているので、現代の地図を見ていても想像力がかき立てられます。

    クレディ ミュニシパル 観光名所

    このあたりにフィリップ・オーギュストの城壁がありました! Credit Municipal de Paris (4区) by wiz さん
  • ◆旧バルベット小門 Poterne Barbettee 界隈<br /><br />Rue des Francs Bourgeois, 75004 Paris<br /><br />la poterne Barbette (sur la rue Vieille-du-Temple, <br />entre la rue des Blancs-Manteaux et la rue des Francs-Bourgeois)<br /><br />この写真で、黄葉している木があるところが フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs-Bourgeois と ヴィエイユ・デュ・タンプル通り Rue Vieille-du-Temple の交差点で、おおよそこのあたりに バルベット小門 Poterne Barbette  があったようです。<br /><br />ちなみに、旅行記の中で、Poterne を小門と書いていますが、辞書を見ると、 Poterne というのは、詳しくは、隠し戸のある通用門 とか、隠し門 とか、そのような意味のようです。<br /><br />ところで、ヴィエイユ・デュ・タンプル通りには、かつてオテル・バルベット Hotel Barbette (バルベット館)が建っていました。<br /><br />1407年、シャルル6世 ※ がオテル・サン・ポール Hotel Saint-Pol(Paul) (マレ地区/ヴィラージュ・サン・ポール界隈にあった)で狂気に沈んでいるあいだ、王妃イザボー・ド・バヴィエールはヴィエイユ・デュ・タンプル通りにひっそりとたつ瀟洒なオテル・バルベットにいて、恋の炎に身を焼いていた・・王妃はオルレアン公ルイ(シャルル6世の弟)と恋に落ちた・・。 (王妃と王の弟ルイの愛の結晶こそジャンヌ・ダルクだったと信じているフランスの歴史家も数多いらしい。)<br /><br />しかし、この後、ジャン無畏王(ジャン・サン・プール Jean sans Peur (※ 右岸編1 ジャン・サン・プールの塔 あり) が、1404年に父の跡を継いでブルゴーニュ公となると、フランスで王妃イザボーと結んで政権を支配するオルレアン公ルイと本格的に対立し、1407年にルイを暗殺。 この暗殺現場というのは、この写真の通りの少し先、アルバレトリエ小路 Impasse des Arbaletriers。

    ◆旧バルベット小門 Poterne Barbettee 界隈

    Rue des Francs Bourgeois, 75004 Paris

    la poterne Barbette (sur la rue Vieille-du-Temple,
    entre la rue des Blancs-Manteaux et la rue des Francs-Bourgeois)

    この写真で、黄葉している木があるところが フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs-Bourgeois と ヴィエイユ・デュ・タンプル通り Rue Vieille-du-Temple の交差点で、おおよそこのあたりに バルベット小門 Poterne Barbette があったようです。

    ちなみに、旅行記の中で、Poterne を小門と書いていますが、辞書を見ると、 Poterne というのは、詳しくは、隠し戸のある通用門 とか、隠し門 とか、そのような意味のようです。

    ところで、ヴィエイユ・デュ・タンプル通りには、かつてオテル・バルベット Hotel Barbette (バルベット館)が建っていました。

    1407年、シャルル6世 ※ がオテル・サン・ポール Hotel Saint-Pol(Paul) (マレ地区/ヴィラージュ・サン・ポール界隈にあった)で狂気に沈んでいるあいだ、王妃イザボー・ド・バヴィエールはヴィエイユ・デュ・タンプル通りにひっそりとたつ瀟洒なオテル・バルベットにいて、恋の炎に身を焼いていた・・王妃はオルレアン公ルイ(シャルル6世の弟)と恋に落ちた・・。 (王妃と王の弟ルイの愛の結晶こそジャンヌ・ダルクだったと信じているフランスの歴史家も数多いらしい。)

    しかし、この後、ジャン無畏王(ジャン・サン・プール Jean sans Peur (※ 右岸編1 ジャン・サン・プールの塔 あり) が、1404年に父の跡を継いでブルゴーニュ公となると、フランスで王妃イザボーと結んで政権を支配するオルレアン公ルイと本格的に対立し、1407年にルイを暗殺。 この暗殺現場というのは、この写真の通りの少し先、アルバレトリエ小路 Impasse des Arbaletriers。

    フランブルジョワ通り 散歩・街歩き

  • フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs-Bourgeois と ヴィエイユ・デュ・タンプル通り Rue Vieille-du-Temple の交差点の建物。<br /><br />このあたりは、フラン・ブルジョワ通りを区切りとして、北(上)が3区、南(下)が4区(セーヌ沿い)となっています。<br /><br />この写真は、気になって偶然撮ったものですが、<br />”ジャン・エルーエ(ルイ12世の金庫番)の家 Hôtel Hérouet”<br />という建築物で、昔ながらのせり出し塔が残った建物。 1510年頃の建築。<br /><br />54 Rue Vieille du Temple, 75003 Paris

    フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs-Bourgeois と ヴィエイユ・デュ・タンプル通り Rue Vieille-du-Temple の交差点の建物。

    このあたりは、フラン・ブルジョワ通りを区切りとして、北(上)が3区、南(下)が4区(セーヌ沿い)となっています。

    この写真は、気になって偶然撮ったものですが、
    ”ジャン・エルーエ(ルイ12世の金庫番)の家 Hôtel Hérouet”
    という建築物で、昔ながらのせり出し塔が残った建物。 1510年頃の建築。

    54 Rue Vieille du Temple, 75003 Paris

  • ”Chez Marianne”<br />2 Rue des Hospitalières Saint-Gervais, 75004 Paris<br /><br />オスピタリエール・サン・ジェルヴェ通り と ロジエ通り の角。<br /><br />角の赤い庇のお店が蔦の絡まる感じがきれいでしばし撮影タイム。 逆光なので難しかった。<br /><br />この写真のあたりも、城壁が(目の前に)あっただろう場所、です。

    ”Chez Marianne”
    2 Rue des Hospitalières Saint-Gervais, 75004 Paris

    オスピタリエール・サン・ジェルヴェ通り と ロジエ通り の角。

    角の赤い庇のお店が蔦の絡まる感じがきれいでしばし撮影タイム。 逆光なので難しかった。

    この写真のあたりも、城壁が(目の前に)あっただろう場所、です。

  • フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs Bourgeois と パイエンヌ通り Rue Payenne の交差点。<br /><br />この写真の左(北)が3区、右(南)が4区です。<br /><br />フラン・ブルジョワ通りは、古い通りで、そこに多く住みついた織物職人にちなんで最初はプーリ(滑車)通りと呼ばれていた。 現在の名のいわれは、1334年にこの通りに建てられた 「施しの家 maison d&#39;aumone」 にあり、そこに住む人びとは貧しさのために税を免除されていたので、 「無税市民 フラン・ブルジョワ  francs bourgeois」 と呼ばれた、のだそうです。<br /><br />この写真の手前左の建物は、

    フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs Bourgeois と パイエンヌ通り Rue Payenne の交差点。

    この写真の左(北)が3区、右(南)が4区です。

    フラン・ブルジョワ通りは、古い通りで、そこに多く住みついた織物職人にちなんで最初はプーリ(滑車)通りと呼ばれていた。 現在の名のいわれは、1334年にこの通りに建てられた 「施しの家 maison d'aumone」 にあり、そこに住む人びとは貧しさのために税を免除されていたので、 「無税市民 フラン・ブルジョワ francs bourgeois」 と呼ばれた、のだそうです。

    この写真の手前左の建物は、

    フランブルジョワ通り 散歩・街歩き

  • カルナヴァレ美術館 Musee Carnavalet (Hotel Carnavalet) です。<br /><br />16 Rue des Francs Bourgeois, 75003 Paris

    カルナヴァレ美術館 Musee Carnavalet (Hotel Carnavalet) です。

    16 Rue des Francs Bourgeois, 75003 Paris

    カルナヴァレ博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • ヴォージュ広場 Place des Vosges<br /><br />フラン・ブルジョワ通りを東に歩き、ちょっと寄り道、ボージュ広場 Place des Vosges にやってきました。<br /><br />多少、頭を使う 『城壁跡散歩』 の最中に、こうした広場や公園で写真を撮るのは、良い気分転換、自然(木々)を見ると、かなりリフレッシュできます。

    ヴォージュ広場 Place des Vosges

    フラン・ブルジョワ通りを東に歩き、ちょっと寄り道、ボージュ広場 Place des Vosges にやってきました。

    多少、頭を使う 『城壁跡散歩』 の最中に、こうした広場や公園で写真を撮るのは、良い気分転換、自然(木々)を見ると、かなりリフレッシュできます。

  • ヴォージュ広場 Place des Vosges<br /><br />晴れたり曇ったりしていたので、日が当たると撮影タイムです。

    ヴォージュ広場 Place des Vosges

    晴れたり曇ったりしていたので、日が当たると撮影タイムです。

  • ヴォージュ広場 Place des Vosges<br /><br />土曜日の午後で、ボージュ広場も、マレ地区全体を見ても、人でいっぱいでした。

    ヴォージュ広場 Place des Vosges

    土曜日の午後で、ボージュ広場も、マレ地区全体を見ても、人でいっぱいでした。

    ヴォージュ広場 広場・公園

  • ヴォージュ広場 Place des Vosges<br /><br />10月第2週末、昼は半袖の人もいるけれど、夜になると寒かったです。

    ヴォージュ広場 Place des Vosges

    10月第2週末、昼は半袖の人もいるけれど、夜になると寒かったです。

  • ヴォージュ広場 Place des Vosges<br /><br />正面は、 ”王の館 Pavillon du Roi”<br /><br />〜 ヴォージュ広場の歴史 〜<br /><br />・ トゥールネル館(Hotel des Tournelles): 1407年にオルレアン公の暗殺があった後、王家がこの場所でトゥールネル館を購入した。 シャルル7世はそこに居を定め、ルイ12世はそこで生涯を閉じた。 騎馬試合の時にアンリ2世が事故死したため、カトリーヌ・ド・メディシスはこの館を嫌うようになり、その取り壊しを命じた。 <br /><br />・ ロワイヤル広場(Place Royale): アンリ4世は荒れ放題のこの場所に絹工場の建設を考えたことがあったが、後になってここを美しい邸宅街に変貌させる計画を立てた。 カトリーヌ・ド・メディシスがかつて考えたように、四角く広大な広場をはさんで、すべてが「同一のシンメトリーに従って建てられる」邸宅群を作ろうとした。<br /><br />1612年に「ロワイヤル広場(Place Royale = 現在のヴォージュ広場)」が完成すると、そこはすぐに、雅の人びとが集まり、騎馬パレードが練り歩き、そしてさまざまな陥落が得られる場所となった。<br /><br />リシュリューの決闘禁止令にもかかわらず決闘しようという人びとも、ここを舞台に闘った。 リシュリュー枢機卿の家の前で決闘をしたモンモランシー・ブードヴィルとシャペルは、1627年にグレーヴ広場(現在の市庁舎前広場)で断頭刑に処せられた。<br /><br />大革命が終わると、広場の名前は「不可分」広場となり、ルイ13世の像は溶解された(1818年に新しい像が置かれた)。<br /><br />・ ヴォージュ広場という名称が最初に用いられたのは1800年で、他にい先がけて納税義務をはたしたヴォージュ県を称えるためであった。

    ヴォージュ広場 Place des Vosges

    正面は、 ”王の館 Pavillon du Roi”

    〜 ヴォージュ広場の歴史 〜

    ・ トゥールネル館(Hotel des Tournelles): 1407年にオルレアン公の暗殺があった後、王家がこの場所でトゥールネル館を購入した。 シャルル7世はそこに居を定め、ルイ12世はそこで生涯を閉じた。 騎馬試合の時にアンリ2世が事故死したため、カトリーヌ・ド・メディシスはこの館を嫌うようになり、その取り壊しを命じた。

    ・ ロワイヤル広場(Place Royale): アンリ4世は荒れ放題のこの場所に絹工場の建設を考えたことがあったが、後になってここを美しい邸宅街に変貌させる計画を立てた。 カトリーヌ・ド・メディシスがかつて考えたように、四角く広大な広場をはさんで、すべてが「同一のシンメトリーに従って建てられる」邸宅群を作ろうとした。

    1612年に「ロワイヤル広場(Place Royale = 現在のヴォージュ広場)」が完成すると、そこはすぐに、雅の人びとが集まり、騎馬パレードが練り歩き、そしてさまざまな陥落が得られる場所となった。

    リシュリューの決闘禁止令にもかかわらず決闘しようという人びとも、ここを舞台に闘った。 リシュリュー枢機卿の家の前で決闘をしたモンモランシー・ブードヴィルとシャペルは、1627年にグレーヴ広場(現在の市庁舎前広場)で断頭刑に処せられた。

    大革命が終わると、広場の名前は「不可分」広場となり、ルイ13世の像は溶解された(1818年に新しい像が置かれた)。

    ・ ヴォージュ広場という名称が最初に用いられたのは1800年で、他にい先がけて納税義務をはたしたヴォージュ県を称えるためであった。

  • ヴォージュ広場 Place des Vosges<br /><br />1800年に置かれたルイ13世の彫像 Statue de Louis XIII

    ヴォージュ広場 Place des Vosges

    1800年に置かれたルイ13世の彫像 Statue de Louis XIII

  • ヴォージュ広場 Place des Vosges<br /><br />ヴィクトル・ユゴー記念館 Hotel de Victor Hugo のある方です。

    ヴォージュ広場 Place des Vosges

    ヴィクトル・ユゴー記念館 Hotel de Victor Hugo のある方です。

  • ヴォージュ広場 Place des Vosges<br /><br />ミュージシャンがいる構図、テレビや本でよく見る構図です。

    ヴォージュ広場 Place des Vosges

    ミュージシャンがいる構図、テレビや本でよく見る構図です。

  • ビラーク通り Rue de Birague<br /><br />ヴォージュ広場 Place des Vosges でのリラックスタイムを終えて、”王の館 Pavillon du Roi” を振り返り1枚。<br /><br />ビラーク通り Rue de Birague を南下し、サン・タントワーヌ通り Rue Saint-Antoine へ。

    ビラーク通り Rue de Birague

    ヴォージュ広場 Place des Vosges でのリラックスタイムを終えて、”王の館 Pavillon du Roi” を振り返り1枚。

    ビラーク通り Rue de Birague を南下し、サン・タントワーヌ通り Rue Saint-Antoine へ。

    王の館 建造物

  • サン・タントワーヌ通り Rue Saint-Antoine。 西向きに撮影。<br /><br />右奥は、マレ教会 Eglise Reformee du Marais。<br /><br />サン・タントワーヌ通りは、ローマ時代にすでに盛土してセーヌ川の増水から守られていて、パリとムラン Mulun を結ぶ街道をなしていた、という通り。<br /><br />13世紀には通り沿いに修道院ができ、タンプル騎士や修道僧がこの沼沢地を開墾し、作物を栽培するようになった、のだそうです。<br /><br />下の写真は、この写真の逆を向いて撮った1枚です。

    サン・タントワーヌ通り Rue Saint-Antoine。 西向きに撮影。

    右奥は、マレ教会 Eglise Reformee du Marais。

    サン・タントワーヌ通りは、ローマ時代にすでに盛土してセーヌ川の増水から守られていて、パリとムラン Mulun を結ぶ街道をなしていた、という通り。

    13世紀には通り沿いに修道院ができ、タンプル騎士や修道僧がこの沼沢地を開墾し、作物を栽培するようになった、のだそうです。

    下の写真は、この写真の逆を向いて撮った1枚です。

  • ◆旧ボドワイエ門 Porte Baudoyer (サンタントワーヌ門 Porte Saint-Antoine) 界隈<br /><br />Rue Saint-Antoine, 75004 Paris<br /><br />la porte Saint-Antoine, ou porte Baudet, ou porte Baudoyer<br /> (au no 101 de la rue Saint-Antoine, au niveau de la rue de Sevigne)<br /><br />左奥は、サン・ポール・サン・ルイ教会 Eglise Saint-Paul-Saint-Louis なのですが、あのあたりがサン・タントワーヌ通り101番地で、ボドワイエ門(ボデ門、サン・タントワーヌ門、とも呼ばれた)があった場所になります。

    ◆旧ボドワイエ門 Porte Baudoyer (サンタントワーヌ門 Porte Saint-Antoine) 界隈

    Rue Saint-Antoine, 75004 Paris

    la porte Saint-Antoine, ou porte Baudet, ou porte Baudoyer
    (au no 101 de la rue Saint-Antoine, au niveau de la rue de Sevigne)

    左奥は、サン・ポール・サン・ルイ教会 Eglise Saint-Paul-Saint-Louis なのですが、あのあたりがサン・タントワーヌ通り101番地で、ボドワイエ門(ボデ門、サン・タントワーヌ門、とも呼ばれた)があった場所になります。

    サンタントワーヌ通り 散歩・街歩き

    ローマ時代からの主要街道で、12世紀には城壁があり、16世紀にはアンリ2世の馬上槍試合が行われた Rue Saint-Antoine (4区) by wiz さん
  • サン・ポール通り Rue Saint-Paul<br /><br />サン・ポール・サン・ルイ教会 Eglise Saint-Paul-Saint-Louis の手前の サン・ポール通り Rue Saint-Paul に入りました。

    サン・ポール通り Rue Saint-Paul

    サン・ポール・サン・ルイ教会 Eglise Saint-Paul-Saint-Louis の手前の サン・ポール通り Rue Saint-Paul に入りました。

  • パッサージュ・サン・ポール Passage Saint-Paul<br /><br />サン・ポール通りに、パッサージュ・サン・ポール Passage Saint-Paul の入口があります。

    パッサージュ・サン・ポール Passage Saint-Paul

    サン・ポール通りに、パッサージュ・サン・ポール Passage Saint-Paul の入口があります。

  • パッサージュ・サン・ポール Passage Saint-Paul<br /><br />何をしているんだろう?

    パッサージュ・サン・ポール Passage Saint-Paul

    何をしているんだろう?

  • エジーナー通り Rue Eginhard<br /><br />奥に、古い泉 Ancienne fontaine があります。

    エジーナー通り Rue Eginhard

    奥に、古い泉 Ancienne fontaine があります。

  • サン・ポール通り Rue Saint-Paul から、シャルルマーニュ通り Rue Charlemagne(右) へ。

    サン・ポール通り Rue Saint-Paul から、シャルルマーニュ通り Rue Charlemagne(右) へ。

  • シャルルマーニュ通り Rue Charlemagne<br /><br />曲線を描く道をすすんで、

    シャルルマーニュ通り Rue Charlemagne

    曲線を描く道をすすんで、

  • シャルルマーニュ通り Rue Charlemagne<br /><br />光の差す方へ。

    シャルルマーニュ通り Rue Charlemagne

    光の差す方へ。

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />Rue Charlemagne, 75004 Paris<br /><br />シャルルマーニュ通りを歩き、やっとここに到着。<br /><br />右岸、いや、パリの中で、最もよく残っている城壁跡。 それが、ここ、リセ・シャルルマーニュ(シャルルマーニュ高等学校)の校庭に残る遺跡、です。<br /><br />ここだけ、ピンポイントで写真を撮られる方は多いと思います。

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    Rue Charlemagne, 75004 Paris

    シャルルマーニュ通りを歩き、やっとここに到着。

    右岸、いや、パリの中で、最もよく残っている城壁跡。 それが、ここ、リセ・シャルルマーニュ(シャルルマーニュ高等学校)の校庭に残る遺跡、です。

    ここだけ、ピンポイントで写真を撮られる方は多いと思います。

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste<br /><br />人間の背の高さに比べればかなり高いです。

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste

    人間の背の高さに比べればかなり高いです。

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste<br /><br />やはり、ここはフィリップ・オーギュストの城壁跡を実感できるパリ一番のポイントであることは間違いないですね。 どこか一箇所、城壁跡を見るというなら、やはりガイドブックにも載っている この場所 でしょうね!

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste

    やはり、ここはフィリップ・オーギュストの城壁跡を実感できるパリ一番のポイントであることは間違いないですね。 どこか一箇所、城壁跡を見るというなら、やはりガイドブックにも載っている この場所 でしょうね!

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste<br /><br />ズームして撮ってみる。

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste

    ズームして撮ってみる。

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste<br /><br />よくみると、石工が印を付けた跡(右上に逆三角形▽や、十字+など)が見えます。

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste

    よくみると、石工が印を付けた跡(右上に逆三角形▽や、十字+など)が見えます。

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste<br /><br />このあたりは、もうセーヌ川に近い地点なので、 Poterne 小門 がたくさん設けられたのだと思います。

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste

    このあたりは、もうセーヌ川に近い地点なので、 Poterne 小門 がたくさん設けられたのだと思います。

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />例のごとく、パリ市のモニュメントに立つ記念版、も立っています。<br /><br />〜 フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste 〜<br /><br />パリにとって 『フィリップ・オーギュスト(在位1180-1223)の城壁』 のもつ意味は大きかった。 パリの場合、紀元後の3世紀にゲルマン人の侵入に苦しみ、住民が川中のシテ島に石垣を積んだことはあったが、その後900年間にわたって、パリにはなんの防壁もなかった。  この丸腰の間に、パリの町は海賊たちの掠奪をさんざんに受けた。 とくに9世紀の後半、数回にわたるノルマン人の侵入は語るも恐しかった。 このことが遅ればせながらパリ市の城壁を作るきっかけの一つになった。<br /><br />・城壁工事は右岸(北岸)の部分から開始された(1190-1209)。<br /> ついで左岸(南岸)の部分にもおよんだ(1200-1215)。<br /><br />・城壁は、高さが9メートル、厚さ(幅)が3メートルぐらい。<br /><br />・城壁につくられた塔と塔の間は約70メートル。<br /><br />・壁の内側の面積は253ヘクタール。<br /><br />・2世紀後、 『シャルル5世(賢明王 ル・サージュ:在位1364-1380)<br /> の城壁』 ができ、右岸の城壁はひとまわり大きくなった。<br />  ( http://paris-atlas-historique.fr/resources/Enceinte+Charles+V.pdf )

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    例のごとく、パリ市のモニュメントに立つ記念版、も立っています。

    〜 フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste 〜

    パリにとって 『フィリップ・オーギュスト(在位1180-1223)の城壁』 のもつ意味は大きかった。 パリの場合、紀元後の3世紀にゲルマン人の侵入に苦しみ、住民が川中のシテ島に石垣を積んだことはあったが、その後900年間にわたって、パリにはなんの防壁もなかった。  この丸腰の間に、パリの町は海賊たちの掠奪をさんざんに受けた。 とくに9世紀の後半、数回にわたるノルマン人の侵入は語るも恐しかった。 このことが遅ればせながらパリ市の城壁を作るきっかけの一つになった。

    ・城壁工事は右岸(北岸)の部分から開始された(1190-1209)。
     ついで左岸(南岸)の部分にもおよんだ(1200-1215)。

    ・城壁は、高さが9メートル、厚さ(幅)が3メートルぐらい。

    ・城壁につくられた塔と塔の間は約70メートル。

    ・壁の内側の面積は253ヘクタール。

    ・2世紀後、 『シャルル5世(賢明王 ル・サージュ:在位1364-1380)
     の城壁』 ができ、右岸の城壁はひとまわり大きくなった。
    ( http://paris-atlas-historique.fr/resources/Enceinte+Charles+V.pdf )

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste<br /><br />城壁は、フィリップ・オーギュスト時代、こんな感じだった、というのがイラストでも分かります。

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste

    城壁は、フィリップ・オーギュスト時代、こんな感じだった、というのがイラストでも分かります。

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />Enceinte de Philippe Auguste<br />Restes de la tour Montgomery<br />de la poterne Saint-Paul,<br />construile à la fin du XIIe. siècle<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁の<br />サン・ポール小門にあったモンゴメリーの塔の遺跡<br />12世紀末につくられた<br /><br />( ※ モンゴメリーの塔・・ 1559年におこなわれた馬上槍試合でアンリ2世に傷をおわせたスコットランド人の儀仗隊隊長モンゴメリーが幽閉されていた。)

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    Enceinte de Philippe Auguste
    Restes de la tour Montgomery
    de la poterne Saint-Paul,
    construile à la fin du XIIe. siècle

    フィリップ・オーギュストの城壁の
    サン・ポール小門にあったモンゴメリーの塔の遺跡
    12世紀末につくられた

    ( ※ モンゴメリーの塔・・ 1559年におこなわれた馬上槍試合でアンリ2世に傷をおわせたスコットランド人の儀仗隊隊長モンゴメリーが幽閉されていた。)

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste<br /><br />12世紀の終わりに造られた城壁跡が100mほどつづいています。<br />およそ800年のあいだ風の中にも黙々と立ち続けてきた遺跡です。<br /><br />向こう側にセーヌ川があり、セーヌに向かって城壁がつらなっていました。

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste

    12世紀の終わりに造られた城壁跡が100mほどつづいています。
    およそ800年のあいだ風の中にも黙々と立ち続けてきた遺跡です。

    向こう側にセーヌ川があり、セーヌに向かって城壁がつらなっていました。

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />シャルルマーニュ通り Rue Charlemagne と ジャルダン・サン・ポール通り Rue des Jardins Saint-Paul のT字路。<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁が続く校庭が見られる通りが ジャルダン・サン・ポール通り Rue des Jardins Saint-Paul です。

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    シャルルマーニュ通り Rue Charlemagne と ジャルダン・サン・ポール通り Rue des Jardins Saint-Paul のT字路。

    フィリップ・オーギュストの城壁が続く校庭が見られる通りが ジャルダン・サン・ポール通り Rue des Jardins Saint-Paul です。

  • ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈<br /><br />ジャルダン・サン・ポール通り Rue des Jardins Saint-Paul から見る、サン・ポール・サン・ルイ教会 Eglise Saint-Paul-Saint-Louis(正面:工事中でした。) と リセ・シャルルマーニュ Lycee-Charlemagne 校庭に残る 『フィリップ・オーギュストの城壁跡 Enceinte de Philippe Auguste』(左) 。<br /><br />ここから見ると、この城壁の先にサン・タントワーヌ門があって、現在のサン・ポール・サン・ルイ教会の前あたりにサン・タントワーヌ門があった、ということが位置的によく理解できます。 ( http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=3591265 )

    ◆旧サン・ポール小門 Poterne Saint-Paul 界隈

    ジャルダン・サン・ポール通り Rue des Jardins Saint-Paul から見る、サン・ポール・サン・ルイ教会 Eglise Saint-Paul-Saint-Louis(正面:工事中でした。) と リセ・シャルルマーニュ Lycee-Charlemagne 校庭に残る 『フィリップ・オーギュストの城壁跡 Enceinte de Philippe Auguste』(左) 。

    ここから見ると、この城壁の先にサン・タントワーヌ門があって、現在のサン・ポール・サン・ルイ教会の前あたりにサン・タントワーヌ門があった、ということが位置的によく理解できます。 ( http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=3591265

  • ヴィラージュ・サン・ポール Village Saint Paul<br /><br />ジャルダン・サン・ポール通り Rue des Jardins Saint-Paul から、”ヴィラージュ・サン・ポール Village Saint Paul” の中庭に入りました。<br /><br />サン・ポール通りやその中庭にギャラリー、キャッフェなどが集まった「サン・ポール村(ヴィラージュ・サン・ポール)」、古い地区をまるごと改装したところ。<br /><br />ゴールが近く、なり一安心したので、中庭にあるキャッフェでコーヒーを1杯いただき小休憩。<br /><br />このキャッフェは、わりとモダンな外装だったのですが、地下の化粧室を借りると、その地下が城壁の壁のようになっていました。 ここが、城壁に近い位置にあるだけに、あれは城壁の跡?などと、つい考えてしまいます。<br /><br />* キャッフェの店名を忘れていたのですが、web( http://www.levillagesaintpaul.com/ )で調べてみたら、 「MONTECAO」 という名のキャッフェに入ったみたいです。

    ヴィラージュ・サン・ポール Village Saint Paul

    ジャルダン・サン・ポール通り Rue des Jardins Saint-Paul から、”ヴィラージュ・サン・ポール Village Saint Paul” の中庭に入りました。

    サン・ポール通りやその中庭にギャラリー、キャッフェなどが集まった「サン・ポール村(ヴィラージュ・サン・ポール)」、古い地区をまるごと改装したところ。

    ゴールが近く、なり一安心したので、中庭にあるキャッフェでコーヒーを1杯いただき小休憩。

    このキャッフェは、わりとモダンな外装だったのですが、地下の化粧室を借りると、その地下が城壁の壁のようになっていました。 ここが、城壁に近い位置にあるだけに、あれは城壁の跡?などと、つい考えてしまいます。

    * キャッフェの店名を忘れていたのですが、web( http://www.levillagesaintpaul.com/ )で調べてみたら、 「MONTECAO」 という名のキャッフェに入ったみたいです。

    ヴィラージュ・サン・ポール 専門店

  • ◆旧バレ小門 Poterne des Barres 界隈<br /><br />ヴィラージュ・サンポールの中庭でコーヒーを1杯いただき、すぐ近くの アヴニュー・マリア通り Rue de l&#39;Ave Maria にやってきました。<br /><br />ここから、サンス館 Hotel de Sens (現フォルネイ図書館 Bibliothèque Forney) を1枚。<br /><br />Bibliothèque Forney (Hotel de Sens)<br />1 Rue du Figuier, 75004 Paris  フィギエ通り1番地。<br /><br />Poterne des Barrés (rue de l&#39;Ave-Maria)<br /><br />先程見た100mほど残っていた城壁の跡の少し南側が、今、写真を撮っているアヴニュー・マリア通りなのですが、このあたりに バレ小門 Poterne des Barrés があったようです。<br /><br />正面に見える建物、 ”サンス館 Hotel de Sens ” は、クリュニー館 Hotel de Cluny (現クリュニー美術館) 、ジャック・クール邸 Maison de Jacques Coeur と並んで、パリに残る中世個人住宅として最大のものの一つ。 サンス館の建築は1475年から1507年にかけて行われ、1622年までパリ司教区を管轄下に置いていたサンス大司教の公館とされていた。 旧教同盟が活動していた時期には、ここはギーズ公枢機卿を中心とする陰謀の巣窟だった。 <br /><br />1605年、アンリ4世の最初の妻マルゴ王妃が、オーヴェルニュでの長い追放生活を終えてサンス館に移ってきた。 当時53歳だった王妃は相変わらず浮名を流していた。 嫉妬にかられた侍従が王妃の馬車の中で恋敵をピストルで撃ち殺すという事件があり、マルゴは侍従をサンス館の路上で打ち首にして、館を離れてプレ=オ=クレール(神学校生草原=現在のサンジェルマン・デ・プレ)へ引っ越した、 ・・のだそうです。<br /><br />サンス館 まで来れば、セーヌ川へ出るのはすぐです!

    ◆旧バレ小門 Poterne des Barres 界隈

    ヴィラージュ・サンポールの中庭でコーヒーを1杯いただき、すぐ近くの アヴニュー・マリア通り Rue de l'Ave Maria にやってきました。

    ここから、サンス館 Hotel de Sens (現フォルネイ図書館 Bibliothèque Forney) を1枚。

    Bibliothèque Forney (Hotel de Sens)
    1 Rue du Figuier, 75004 Paris  フィギエ通り1番地。

    Poterne des Barrés (rue de l'Ave-Maria)

    先程見た100mほど残っていた城壁の跡の少し南側が、今、写真を撮っているアヴニュー・マリア通りなのですが、このあたりに バレ小門 Poterne des Barrés があったようです。

    正面に見える建物、 ”サンス館 Hotel de Sens ” は、クリュニー館 Hotel de Cluny (現クリュニー美術館) 、ジャック・クール邸 Maison de Jacques Coeur と並んで、パリに残る中世個人住宅として最大のものの一つ。 サンス館の建築は1475年から1507年にかけて行われ、1622年までパリ司教区を管轄下に置いていたサンス大司教の公館とされていた。 旧教同盟が活動していた時期には、ここはギーズ公枢機卿を中心とする陰謀の巣窟だった。 

    1605年、アンリ4世の最初の妻マルゴ王妃が、オーヴェルニュでの長い追放生活を終えてサンス館に移ってきた。 当時53歳だった王妃は相変わらず浮名を流していた。 嫉妬にかられた侍従が王妃の馬車の中で恋敵をピストルで撃ち殺すという事件があり、マルゴは侍従をサンス館の路上で打ち首にして、館を離れてプレ=オ=クレール(神学校生草原=現在のサンジェルマン・デ・プレ)へ引っ越した、 ・・のだそうです。

    サンス館 まで来れば、セーヌ川へ出るのはすぐです!

    フォルネイ図書館 博物館・美術館・ギャラリー

  • セレスタン河岸 Quai des Celestins<br /><br />セレスタン河岸に出ました。 上で撮った アヴニュー・マリア通り Rue de l&#39;Ave Maria のすぐ南側(セーヌ川沿い)です。  左側がセーヌ川。<br /><br />ここで探すのは、セレスタン河岸32番地 32 Quai des Celestins です!

    セレスタン河岸 Quai des Celestins

    セレスタン河岸に出ました。 上で撮った アヴニュー・マリア通り Rue de l'Ave Maria のすぐ南側(セーヌ川沿い)です。  左側がセーヌ川。

    ここで探すのは、セレスタン河岸32番地 32 Quai des Celestins です!

  • ◆旧バルボー塔 Tour Barbeau 界隈<br /><br />la Tour Barbeau, rive droite (quai des Célestins) <br /><br />32 Quai des Celestins, 75004 Paris<br /><br />セレスタン河岸32番地はすぐにみつかりました。<br /><br />左に見えるのがサン・ルイ島に繋がるポン・マリー(マリー橋)です。<br /><br />ここに、バルボー塔 Tour Barbeau があった、という記念版があるのです!

    ◆旧バルボー塔 Tour Barbeau 界隈

    la Tour Barbeau, rive droite (quai des Célestins)

    32 Quai des Celestins, 75004 Paris

    セレスタン河岸32番地はすぐにみつかりました。

    左に見えるのがサン・ルイ島に繋がるポン・マリー(マリー橋)です。

    ここに、バルボー塔 Tour Barbeau があった、という記念版があるのです!

  • ◆旧バルボー塔 Tour Barbeau 界隈<br /><br />32 Quai des Celestins, 75004 Paris<br /><br />例によって、パリ市のモニュメントに立つ記念版が立っています。<br /><br />ここにフィリップ・オーギュストの城壁時代、 ”バルボー塔” があったことを示す記念版です。<br /><br />先程見た、100mほど残っていた(リセ・シャルルマーニュ校庭に残る)『フィリップ・オーギュストの城壁』は、ここセレスタン河岸にあった ”バルボー塔” まで続いていました。<br /><br />また、旅行記中にも書いていたシャルル6世が狂気の発作に襲われるようになっていたというサン・ポール館(シャルル5世、シャルル6世が居住)もこのあたりにありました。

    ◆旧バルボー塔 Tour Barbeau 界隈

    32 Quai des Celestins, 75004 Paris

    例によって、パリ市のモニュメントに立つ記念版が立っています。

    ここにフィリップ・オーギュストの城壁時代、 ”バルボー塔” があったことを示す記念版です。

    先程見た、100mほど残っていた(リセ・シャルルマーニュ校庭に残る)『フィリップ・オーギュストの城壁』は、ここセレスタン河岸にあった ”バルボー塔” まで続いていました。

    また、旅行記中にも書いていたシャルル6世が狂気の発作に襲われるようになっていたというサン・ポール館(シャルル5世、シャルル6世が居住)もこのあたりにありました。

  • 古地図によると、バルボー塔 Tour Barbeau はこのような感じだったみたいです。<br /><br />下の古地図は、対岸(左岸)のトゥールネル塔も見え、サン・ルイ島が2つ(ヴァッシュ島とノートルダム島)に分かれていたことも分かります。<br /><br />セーヌ川の下に見えるのは、もちろん、シテ島です。<br /><br />上:Plan_de_Paris_vers_1550_Tour_Barbeau wikimediaより<br />下:Tour_Barbeau_et_la_Tournelle_sur_un_plan_de_Braun_(1574) wikimediaより

    古地図によると、バルボー塔 Tour Barbeau はこのような感じだったみたいです。

    下の古地図は、対岸(左岸)のトゥールネル塔も見え、サン・ルイ島が2つ(ヴァッシュ島とノートルダム島)に分かれていたことも分かります。

    セーヌ川の下に見えるのは、もちろん、シテ島です。

    上:Plan_de_Paris_vers_1550_Tour_Barbeau wikimediaより
    下:Tour_Barbeau_et_la_Tournelle_sur_un_plan_de_Braun_(1574) wikimediaより

  •  ≪≪≪ 右岸の城壁跡巡り ゴール地点!!! ≫≫≫<br /><br />セレスタン河岸 Quai des Celestins<br /><br />このあたりが右岸の東を護る ”バルボー塔” のあったところです。<br /><br />右岸の城壁前散歩のゴール地点です!<br /><br />こちら側(右岸)に バルボー塔 Tour_Barbeau があり、<br />対岸(左岸)に トゥールネル城の塔 la Tournelle があった。<br /><br />城壁がセーヌ川によって途切れるところが<br />西に一箇所 ( コワンの塔 と ネールの塔 ) 、<br />東に一箇所 ( バルボー塔 とトゥールネル塔 ) あったが、<br />そこでは両岸にそれぞれ監視塔を建て、<br />こちらの岸と向こうの岸との間に 重い 鉄の 鎖 を渡してふさいだ。

     ≪≪≪ 右岸の城壁跡巡り ゴール地点!!! ≫≫≫

    セレスタン河岸 Quai des Celestins

    このあたりが右岸の東を護る ”バルボー塔” のあったところです。

    右岸の城壁前散歩のゴール地点です!

    こちら側(右岸)に バルボー塔 Tour_Barbeau があり、
    対岸(左岸)に トゥールネル城の塔 la Tournelle があった。

    城壁がセーヌ川によって途切れるところが
    西に一箇所 ( コワンの塔 と ネールの塔 ) 、
    東に一箇所 ( バルボー塔 とトゥールネル塔 ) あったが、
    そこでは両岸にそれぞれ監視塔を建て、
    こちらの岸と向こうの岸との間に 重い 鉄の 鎖 を渡してふさいだ。

  • サン・ルイ・アン・リル通り Rue Saint-Louis en l&#39;ile<br /><br />上の写真のセレスタン河岸からすぐ近く、ポン・マリー(マリー橋)を渡り、サン・ルイ島 Ile Saint-Louis にやってきました。 ここが、昔は2つの島(ヴァッシュ島とノートルダム島)に分かれていたという サン・ルイ島 の中で、サン・ルイ島のど真ん中を通る通りが、 この サン・ルイ・アン・リル通り Rue Saint-Louis en l&#39;ile です。

    サン・ルイ・アン・リル通り Rue Saint-Louis en l'ile

    上の写真のセレスタン河岸からすぐ近く、ポン・マリー(マリー橋)を渡り、サン・ルイ島 Ile Saint-Louis にやってきました。 ここが、昔は2つの島(ヴァッシュ島とノートルダム島)に分かれていたという サン・ルイ島 の中で、サン・ルイ島のど真ん中を通る通りが、 この サン・ルイ・アン・リル通り Rue Saint-Louis en l'ile です。

    サン ルイ島 文化・芸術・歴史

  • サン・ルイ・アン・リル教会 Eglise Saint-Louis-en-l&#39;ile<br /><br />19 Rue Saint-Louis-en-l&#39;ile, 75004 Paris <br /><br />サン・ルイ島での用事と教会とどちらを先にするか迷いつつ、はじめに教会の方へ。<br /><br />ここに、生まれつき両腕のなかった セザール・デュコルネ( Louis Joseph César Ducornet, né le 10 janvier 1806 à Lille ; mort le 27 avril 1856 à Paris, est un peintre français. ) が足で描いた 『ガリア人に説教するサン・ドニ』 という宗教画があるというのに、前回来た時に見逃したので、今回は見ようと思って入ったのですが・・  ちょうど16時からの無料コンサートをしていたところでしたので、お邪魔できず、見れず終いとなってしまいました。<br /><br />セザール・デュコルネ、画家。 1806年にリル市で生まれた時から両腕がなかった。 こうした生まれつきの身体障害者でありながら、デュコルネは幼少時から画業にはげみ、その努力を認められてリル市から奨学金を下付され、パリに出た。 そして彼はその画題を選ぶに際し、自分の肉体的欠陥を絵に再現できるようなテーマを探した。 それらの1枚『ガリア人たちに説教するサン・ドニ』がこの教会に残っているわけであるが、首を打ち落されたサン・ドニを足で描いた彼の心情も筆者にはわかるような気がする。 (知られざるパリ/菊盛英夫著)

    サン・ルイ・アン・リル教会 Eglise Saint-Louis-en-l'ile

    19 Rue Saint-Louis-en-l'ile, 75004 Paris

    サン・ルイ島での用事と教会とどちらを先にするか迷いつつ、はじめに教会の方へ。

    ここに、生まれつき両腕のなかった セザール・デュコルネ( Louis Joseph César Ducornet, né le 10 janvier 1806 à Lille ; mort le 27 avril 1856 à Paris, est un peintre français. ) が足で描いた 『ガリア人に説教するサン・ドニ』 という宗教画があるというのに、前回来た時に見逃したので、今回は見ようと思って入ったのですが・・  ちょうど16時からの無料コンサートをしていたところでしたので、お邪魔できず、見れず終いとなってしまいました。

    セザール・デュコルネ、画家。 1806年にリル市で生まれた時から両腕がなかった。 こうした生まれつきの身体障害者でありながら、デュコルネは幼少時から画業にはげみ、その努力を認められてリル市から奨学金を下付され、パリに出た。 そして彼はその画題を選ぶに際し、自分の肉体的欠陥を絵に再現できるようなテーマを探した。 それらの1枚『ガリア人たちに説教するサン・ドニ』がこの教会に残っているわけであるが、首を打ち落されたサン・ドニを足で描いた彼の心情も筆者にはわかるような気がする。 (知られざるパリ/菊盛英夫著)

    サン ルイ アン リル教会 寺院・教会

    生まれつき両腕のなかった画家が足で描いた宗教画 『ガリア人に説教するサン・ドニ』  Eglise Saint-Louis-en-l'ile (4区) by wiz さん
  • サン・ルイ・アン・リル教会 Eglise Saint-Louis-en-l&#39;ile<br /><br />そういえば、ここで、16時から無料コンサートが見られるんだなぁと調べていたのですが、忘れていて、ここに来て思い出しました。 忘れていたけれど、これはラッキーでした。<br /><br />少しですが、カメラで動画を撮ってきたのでリンクを貼っておきます。<br />http://youtu.be/PsU-qJQRxJo

    サン・ルイ・アン・リル教会 Eglise Saint-Louis-en-l'ile

    そういえば、ここで、16時から無料コンサートが見られるんだなぁと調べていたのですが、忘れていて、ここに来て思い出しました。 忘れていたけれど、これはラッキーでした。

    少しですが、カメラで動画を撮ってきたのでリンクを貼っておきます。
    http://youtu.be/PsU-qJQRxJo

    サン ルイ アン リル教会 寺院・教会

    生まれつき両腕のなかった画家が足で描いた宗教画 『ガリア人に説教するサン・ドニ』  Eglise Saint-Louis-en-l'ile (4区) by wiz さん
  • トゥールネル橋 Pont de la Tournelle<br /><br />用事を済ませて、ちょっとだけトゥールネル橋 Pont de la Tournelle にやってきました。<br /><br />橋の左上に立つ白い像は、パリの守護聖女 聖ジュヌヴィエーヴ Sainte Genevieve の像 です。

    トゥールネル橋 Pont de la Tournelle

    用事を済ませて、ちょっとだけトゥールネル橋 Pont de la Tournelle にやってきました。

    橋の左上に立つ白い像は、パリの守護聖女 聖ジュヌヴィエーヴ Sainte Genevieve の像 です。

    トゥールネル橋 建造物

  • トゥールネル橋から見る パリのノートルダム大聖堂 Cathedrale Notre Dame de Paris<br /><br />1枚だけ、ノートルダムの後ろ姿を。<br /><br />翌々日、『 フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く (左岸編) 』 を歩いた後、またここに来たら、その時は晴天の青空だったので嬉しかったです。 ノールダムが輝いていました。<br /><br />この後、タイムリミットで、1号線サン・ポール駅(7号線が工事中)からモンマルトルの12号線アベス駅へ移動(※この旅行記の最後の写真)、モンマルトルのブドウ収穫祭のパレード見学をしたのですが、この右岸散策のつづきにちょうど良い場所なので、以下数枚の写真を載せておきます。 ( ※ この数枚は、翌々日10/13に左岸の城壁跡を歩き、帰国便までの時間があまったので、その時歩いた時撮ったものです。 )

    トゥールネル橋から見る パリのノートルダム大聖堂 Cathedrale Notre Dame de Paris

    1枚だけ、ノートルダムの後ろ姿を。

    翌々日、『 フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く (左岸編) 』 を歩いた後、またここに来たら、その時は晴天の青空だったので嬉しかったです。 ノールダムが輝いていました。

    この後、タイムリミットで、1号線サン・ポール駅(7号線が工事中)からモンマルトルの12号線アベス駅へ移動(※この旅行記の最後の写真)、モンマルトルのブドウ収穫祭のパレード見学をしたのですが、この右岸散策のつづきにちょうど良い場所なので、以下数枚の写真を載せておきます。 ( ※ この数枚は、翌々日10/13に左岸の城壁跡を歩き、帰国便までの時間があまったので、その時歩いた時撮ったものです。 )

  • サン・ルイ島と右岸を繋ぐルイ・フィリップ橋 Pont Louis Philippe から望むポン・マリー(マリー橋) Pont Marie。<br /><br />ポン・マリーを写真に撮りながら。<br /><br />このあたりの木々は、2年前も黄葉がきれいでした。

    サン・ルイ島と右岸を繋ぐルイ・フィリップ橋 Pont Louis Philippe から望むポン・マリー(マリー橋) Pont Marie。

    ポン・マリーを写真に撮りながら。

    このあたりの木々は、2年前も黄葉がきれいでした。

    マリー橋 建造物

    秋は黄葉も素敵な落ち着いた河岸 サン・ルイ島とマレ地区を繋ぐ橋 Pont Marie by wiz さん
  • アルマン・ギヨマンが描いたポン・マリー(マリー橋) です。<br /><br />彼はサン・ルイ島にアトリエを持っていたそうで、この絵はサン・ルイ島のアンジュー河岸(Quai d&#39;Anjou)から描いたようです。<br /><br />ギヨマンは、1861年、スイス・アカデミー(アカデミー・シュイス Académie Suisse =現シテ島オルフェーヴル河岸 Quai des Orfèvres にあった)で勉強をはじめ、そこで終生の友となるポール・セザンヌ Paul Cézanne 、カミーユ・ピサロ Camille Pissarro と出逢いました。<br /><br />Armand GUILLAUMIN (1841-1927) <br />Le Pont Marie 1883<br />Genève, musée du Petit Palais

    アルマン・ギヨマンが描いたポン・マリー(マリー橋) です。

    彼はサン・ルイ島にアトリエを持っていたそうで、この絵はサン・ルイ島のアンジュー河岸(Quai d'Anjou)から描いたようです。

    ギヨマンは、1861年、スイス・アカデミー(アカデミー・シュイス Académie Suisse =現シテ島オルフェーヴル河岸 Quai des Orfèvres にあった)で勉強をはじめ、そこで終生の友となるポール・セザンヌ Paul Cézanne 、カミーユ・ピサロ Camille Pissarro と出逢いました。

    Armand GUILLAUMIN (1841-1927)
    Le Pont Marie 1883
    Genève, musée du Petit Palais

  • バール通り Rue des Barres<br /><br />石畳のバール通りは、地図の中の赤の●印の付いたあたりです。<br /><br />完全に、フィリップ・オーギュストの城壁の中、にあたります。

    バール通り Rue des Barres

    石畳のバール通りは、地図の中の赤の●印の付いたあたりです。

    完全に、フィリップ・オーギュストの城壁の中、にあたります。

    プロデュイ デ モナステール スイーツ

  • 石畳の バール通り Rue des Barres。<br /><br />Produits des monasteres<br />10 Rue des Barres, 75004 Paris<br /><br />バール通り10番地にあるフランス全土の修道院で作られた製品(クッキー、蜂蜜、ジャム、中世から伝わる薬草エキスや香油など。)が買えるお店「プロデュイ・デ・モナステール」に行きたかったのですが、お休みでした。 月曜日はお休みだったんですね。 行きたい場所のチェックはちゃんとしたいと心掛けているのですが、お店やレストランに関しては手薄な私です。<br /><br />写真左は、サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会  Eglise Saint-Gervais-Saint-Protais。<br /><br />ここには、6世紀当時にすでに、聖ジェルヴェと聖プロテに奉献するバジリカ聖堂があったのだそうです。 この2人は兄弟で、ネロの治下で殉死したローマ軍士官。 1918年3月29日の聖金曜日に、ドイツ軍の砲弾が教会のボールトを吹き飛ばし、信者160人が死傷してしまったそうです。

    石畳の バール通り Rue des Barres。

    Produits des monasteres
    10 Rue des Barres, 75004 Paris

    バール通り10番地にあるフランス全土の修道院で作られた製品(クッキー、蜂蜜、ジャム、中世から伝わる薬草エキスや香油など。)が買えるお店「プロデュイ・デ・モナステール」に行きたかったのですが、お休みでした。 月曜日はお休みだったんですね。 行きたい場所のチェックはちゃんとしたいと心掛けているのですが、お店やレストランに関しては手薄な私です。

    写真左は、サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会  Eglise Saint-Gervais-Saint-Protais。

    ここには、6世紀当時にすでに、聖ジェルヴェと聖プロテに奉献するバジリカ聖堂があったのだそうです。 この2人は兄弟で、ネロの治下で殉死したローマ軍士官。 1918年3月29日の聖金曜日に、ドイツ軍の砲弾が教会のボールトを吹き飛ばし、信者160人が死傷してしまったそうです。

    サン ジェルヴェ サン プロテ教会 寺院・教会

    ネロの治下で殉死したローマ軍士官 2人の兄弟 聖ジェルヴェと聖プロテに奉献する Eglise Saint-Gervais-Saint-Protais (4区) by wiz さん
  • こちらは、モーリス・ユトリロが(サンルイ島から)描いたサン・ジェルヴェ教会。<br /><br />手前の端は、今さっき渡ってきた、ルイ・フィリップ橋 Pont Louis Philippe。<br /><br />サン・ルイ島のブルボン河岸(Quai de Bourbon)からの構図ですね。<br /><br />Maurice Utrillo (1883-1955)<br />Eglise Saint-Gervais 1910 <br />

    こちらは、モーリス・ユトリロが(サンルイ島から)描いたサン・ジェルヴェ教会。

    手前の端は、今さっき渡ってきた、ルイ・フィリップ橋 Pont Louis Philippe。

    サン・ルイ島のブルボン河岸(Quai de Bourbon)からの構図ですね。

    Maurice Utrillo (1883-1955)
    Eglise Saint-Gervais 1910 

  • サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会 Eglise Saint-Gervais-Saint-Protais<br /><br />13 Rue des Barres, 75004 Paris<br /><br />バール通り(教会の後陣)から、教会の中に入ってみました。<br /><br />後陣側から教会に入るっていうのはたまにあるけれどあまりないですよね。<br /><br />後陣から入ったのを覚えているのは、バルセロナのカテドラルです。

    サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会 Eglise Saint-Gervais-Saint-Protais

    13 Rue des Barres, 75004 Paris

    バール通り(教会の後陣)から、教会の中に入ってみました。

    後陣側から教会に入るっていうのはたまにあるけれどあまりないですよね。

    後陣から入ったのを覚えているのは、バルセロナのカテドラルです。

  • バール通り Rue des Barres と グルニエ・シュル・ロー通り Rue Grenier sur l&#39;Eau のT字路。

    バール通り Rue des Barres と グルニエ・シュル・ロー通り Rue Grenier sur l'Eau のT字路。

  • バール通り Rue des Barres と グルニエ・シュル・ロー通り Rue Grenier sur l&#39;Eau のT字路 にあるのは、 コロンバージュ(木骨組み造り) の建物。<br /><br />今回は、パリから日帰り、ポワチエ Poitiers や シャルトル Chartres に行きましたが、 ポワチエ や シャルトル でもコロンバージュの建物が健在でした。

    バール通り Rue des Barres と グルニエ・シュル・ロー通り Rue Grenier sur l'Eau のT字路 にあるのは、 コロンバージュ(木骨組み造り) の建物。

    今回は、パリから日帰り、ポワチエ Poitiers や シャルトル Chartres に行きましたが、 ポワチエ や シャルトル でもコロンバージュの建物が健在でした。

  • グルニエ・シュル・ロー通り Rue Grenier sur l&#39;Eau を真っ直ぐ行くと、ジュスト・ド・フランス通り Allee des Justes de France。<br /><br />” ホロコースト記念館(ユダヤ人犠牲者記念堂)<br />:メモリアル・ド・ラ・ショア Memorial de la Shoah ” が右奥に見えます。<br /><br />今年5月にベルギー・ブリュッセルのユダヤ博物館で銃撃事件がありましたが、犯人はフランス人でしたね。 左奥にパトカーと警官がとまっていました。<br /><br />『 サラの鍵 Elle s&#39;appelait Sarah (2010.FRANCE) 』 という映画の中で、この記念館、メモリアル・ド・ラ・ショアの内部が映っていましたが、印象的でした。 ( IMDB Filming Locations http://www.imdb.com/title/tt1668200/locations?ref_=tt_dt_dt )<br /><br />Memorial de la Shoah, 17 Rue Geoffroy L&#39;Asnier, Paris, France

    グルニエ・シュル・ロー通り Rue Grenier sur l'Eau を真っ直ぐ行くと、ジュスト・ド・フランス通り Allee des Justes de France。

    ” ホロコースト記念館(ユダヤ人犠牲者記念堂)
    :メモリアル・ド・ラ・ショア Memorial de la Shoah ” が右奥に見えます。

    今年5月にベルギー・ブリュッセルのユダヤ博物館で銃撃事件がありましたが、犯人はフランス人でしたね。 左奥にパトカーと警官がとまっていました。

    『 サラの鍵 Elle s'appelait Sarah (2010.FRANCE) 』 という映画の中で、この記念館、メモリアル・ド・ラ・ショアの内部が映っていましたが、印象的でした。 ( IMDB Filming Locations http://www.imdb.com/title/tt1668200/locations?ref_=tt_dt_dt

    Memorial de la Shoah, 17 Rue Geoffroy L'Asnier, Paris, France

    ショア記念館 博物館・美術館・ギャラリー

    映画 『サラの鍵』 でも出てきました 《plus jamais ca》 Memorial de la Shoah (4区) by wiz さん
  • ジュフロワ・ラニエール通り Rue Geoffroy L&#39;Asnier から フランソワ・ミロン通り Rue Francois Miron へ。

    ジュフロワ・ラニエール通り Rue Geoffroy L'Asnier から フランソワ・ミロン通り Rue Francois Miron へ。

  • 11,13 Rue Francois Miron, 75004 Paris  フランソワ・ミロン通り11番地,13番地<br /><br />15世紀建築のコロンバージュ(木骨組造りの)建物です。<br /><br />フランソワ・ミロン通り 11番地(左)、13番地(右) の木組漆喰壁の家は、大幅に修復されてはいるが、ルイ11世時代(在位1461-1483)に建ったもの、なのだそうです。

    11,13 Rue Francois Miron, 75004 Paris  フランソワ・ミロン通り11番地,13番地

    15世紀建築のコロンバージュ(木骨組造りの)建物です。

    フランソワ・ミロン通り 11番地(左)、13番地(右) の木組漆喰壁の家は、大幅に修復されてはいるが、ルイ11世時代(在位1461-1483)に建ったもの、なのだそうです。

  • 11,13 Rue Francois Miron, 75004 Paris  フランソワ・ミロン通り11番地,13番地<br /><br />”中世の家 Maison du Moyan Âge”<br /><br />こちらにも、パリ市のモニュメントをあらわず記念版があります。

    11,13 Rue Francois Miron, 75004 Paris  フランソワ・ミロン通り11番地,13番地

    ”中世の家 Maison du Moyan Âge”

    こちらにも、パリ市のモニュメントをあらわず記念版があります。

  • 11,13 Rue Francois Miron, 75004 Paris  フランソワ・ミロン通り11番地,13番地<br /><br />もう1度、広角で1枚撮影。<br /><br />フランソワ・ミロン通りは、ローマ時代には沼沢の間を抜ける道だったそうです。<br /><br />通りの名は、アンリ4世治下のパリ市長フランソワ=ミロンにちなんだもの。 中世にはこの通りはサン・ジェルヴェ小丘 Monceau St-Gervais  (先程、内部に入った サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会 の小丘) から始まっていて、イル・ド・フランス地方の修道院のいくつかがここに宿舎を置いていたそうです。

    11,13 Rue Francois Miron, 75004 Paris  フランソワ・ミロン通り11番地,13番地

    もう1度、広角で1枚撮影。

    フランソワ・ミロン通りは、ローマ時代には沼沢の間を抜ける道だったそうです。

    通りの名は、アンリ4世治下のパリ市長フランソワ=ミロンにちなんだもの。 中世にはこの通りはサン・ジェルヴェ小丘 Monceau St-Gervais (先程、内部に入った サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会 の小丘) から始まっていて、イル・ド・フランス地方の修道院のいくつかがここに宿舎を置いていたそうです。

  • メトロ1号線サン・ポール Saint-Paul 駅あたり<br /><br />Rue Saint-Antoine, 75004 Paris<br /><br />ポン・マリーの写真から上のフランソワ・ミロン通りの写真まで数枚おまけ(10/13撮影)を付けましたが、この写真は、実際に右岸の城壁跡巡りの最後に写した写真(10/11 16:35撮影)です。<br /><br />これにて、『 フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く(右岸編) 』 は、終了です!<br /><br />この後、モンマルトルのブドウ収穫祭 Fete des Vendanges de Montmartre 2014 の パレード &quot;Le Grand Defile&quot; を見ようと、メトロで12号線アベス Abbesses 駅に向かいました。

    メトロ1号線サン・ポール Saint-Paul 駅あたり

    Rue Saint-Antoine, 75004 Paris

    ポン・マリーの写真から上のフランソワ・ミロン通りの写真まで数枚おまけ(10/13撮影)を付けましたが、この写真は、実際に右岸の城壁跡巡りの最後に写した写真(10/11 16:35撮影)です。

    これにて、『 フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く(右岸編) 』 は、終了です!

    この後、モンマルトルのブドウ収穫祭 Fete des Vendanges de Montmartre 2014 の パレード "Le Grand Defile" を見ようと、メトロで12号線アベス Abbesses 駅に向かいました。

    サンポール駅

  • ( ※ 最後、サン・ルイ島やバール通り界隈のお散歩が加わりましたが・・)<br />『右岸編2』で歩いた城壁跡を地図で見るとこんな感じになります!<br /><br />A タンプル門<br />B クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫)<br />C バルベット小門<br />D サン・タントワーヌ門<br />E サン・ポール小門<br />F バレ小門<br />G バルボー塔<br /><br />-------------------------------------------------<br /><br />10/11(土)、城壁跡散歩 の 右岸編 を歩き終わりました!<br /><br />だいたい、城壁の半周の大きさというものは体感できた気分です。<br /><br />右岸でおもしろかったのは、<br />(意外と?)モンマルトル門や、サン・ドニ門のプレートがあった部分<br />( → 門があった所に図であらわすプレートがあったのでイメージしやすい。 )<br />(やはり)100mほどの城壁跡遺跡が残るリセ・シャルルマーニュかな。<br />東端のバルボー塔のところにもパリ市記念版があったのは良かった。<br /><br />表紙に書いたwikipedia.frは詳しく番地が書かれていて参考になりました。<br /><br />あと残り半周(左岸)を歩き、城壁内の大きさを実感できればと思います!<br /><br />* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps<br />https://goo.gl/1Rce1Y<br /><br />『 フィリップ・オーギュストの城壁跡1周散歩(左岸編) 』 につづきます!<br />http://4travel.jp/travelogue/10942608<br /><br />------------------------------------------------- 

    ( ※ 最後、サン・ルイ島やバール通り界隈のお散歩が加わりましたが・・)
    『右岸編2』で歩いた城壁跡を地図で見るとこんな感じになります!

    A タンプル門
    B クレディ・ミュニシパル(パリ信用金庫)
    C バルベット小門
    D サン・タントワーヌ門
    E サン・ポール小門
    F バレ小門
    G バルボー塔

    -------------------------------------------------

    10/11(土)、城壁跡散歩 の 右岸編 を歩き終わりました!

    だいたい、城壁の半周の大きさというものは体感できた気分です。

    右岸でおもしろかったのは、
    (意外と?)モンマルトル門や、サン・ドニ門のプレートがあった部分
    ( → 門があった所に図であらわすプレートがあったのでイメージしやすい。 )
    (やはり)100mほどの城壁跡遺跡が残るリセ・シャルルマーニュかな。
    東端のバルボー塔のところにもパリ市記念版があったのは良かった。

    表紙に書いたwikipedia.frは詳しく番地が書かれていて参考になりました。

    あと残り半周(左岸)を歩き、城壁内の大きさを実感できればと思います!

    * フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps
    https://goo.gl/1Rce1Y

    『 フィリップ・オーギュストの城壁跡1周散歩(左岸編) 』 につづきます!
    http://4travel.jp/travelogue/10942608

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