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かつて、パリには 『フィリップ・オーギュストの城壁』   <br />(建設開始:右岸1190頃~、左岸1200頃~) がありました。<br /><br />『フィリップ・オーギュストの城壁』が建設されている頃というのは、<br />ちょうどパリのノートルダムが建造されている最中でもありました(1163-)。<br /><br />現在、かつての城壁そのものの名残は所々に残る程度です。 <br /><br />特に、右岸は、道としては、形跡 がほとんど残っていないので、<br />イメージするには容易ではないかもしれません。<br /><br />しかし、私は、ずっとそんな時代の城壁跡をぐるりと1周散歩し、 <br />12-13世紀 ”中世のパリ” の大きさを、体感してみたかったのです。<br /><br />この旅行記『右岸編1』は、かつてのコワンの塔?サン・マルタン門、<br />現在の住所で言えば、ルーヴル美術館からポンピドーセンター北の<br />サン・ドニ通り、サン・マルタン通りあたりまでの記録になります。<br />(パリ1区~2区~3区:表紙地図の赤く囲ったエリア)<br /><br />途中、寄り道しながら歩きましたので、寄り道写真も含めながら書いています。<br /><br />(※注)旅行記中の写真で、 ◆ 印のある写真が、城壁沿いのルート、<br />    もしくは城壁に限りなく近い位置、の印となっています。<br /><br />* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps<br />https://goo.gl/1Rce1Y<br /><br />-------------------------------------------------<br />         き っ か け <br />-------------------------------------------------<br /><br />以前、 『芸術新潮 2006年3月号 パリ 中世の美と出会う五日間』 という本の中で、パリや近郊の町(シャルトル、サンリス、ロワイヨーモン修道院)で 中世 を楽しむ特集が組まれていました。<br /><br />この本は、美しい写真が興味をそそる本なのです。<br /><br />私のしたいことは本の中でたくさん提案されていましたが、その中のいくつかは今までの旅行で達成してきました。 しかし、まだ達成していないことのひとつに、<br /><br /> 【フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く!】<br /><br />というテーマがありました。 これは今までずっとしたかったことのひとつでした。<br /><br />本の中では、”フィリップ・オーギュストの城壁の壁さがし” という記事とともに ”パリにあったフィリップ・オーギュストの城壁の跡が記された地図” が載っていたのですが、この地図を見ていて、<br /> <br /> 【なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、<br />  中世当時のパリの城壁内の大きさというものを体感したい!】<br /><br />と考えていたのです。 今まで旅行中に、なかなかこの ”城壁跡ぐるり1周歩き” ができなかったわけですが、今回、やっと実現できる時が来ました。<br /><br />しかし、この城壁跡1周ぐるり歩きをし、その大きさを体感した満足感を旅行記でどう書くかはなかなか難しい。 古地図を見たりして当時の様子を予習しておくとさらに楽しいです。<br /><br />興味のある方への参考になれば幸いと思います。<br /><br />-------------------------------------------------<br />         参     考<br />-------------------------------------------------<br /><br />http://fr.wikipedia.org/wiki/Enceinte_de_Philippe_Auguste<br />http://www.philippe-auguste.com/<br />http://paris-atlas-historique.fr/50.html<br />芸術新潮 2006年3月号 パリ 中世の美と出会う五日間<br />パリ歴史探偵術 講談社現代新書 宮下志朗著<br />パリ史の裏通り 白水uブックス 堀井敏夫著<br />ミシュラン・グリーン・ガイド・パリ<br /><br />-------------------------------------------------<br />  フィリップ・オーギュストの城壁   概要 <br />-------------------------------------------------<br /><br />・ フィリップ2世(フィリップ尊厳王/オーギュスト:在位1180年-1223年)<br /><br />・ フランスでは、十字軍のころであった。 外には戦争があり、内には建設事業が続いていた。 ノートルダムの大教会の建築も進んでいて、すでに正面の一部が天空に立ちあがっていた。 <br /><br />・ パリにとって 『フィリップ・オーギュストの城壁』 のもつ意味は大きかった。 パリの場合、紀元後の3世紀にゲルマン人の侵入に苦しみ、住民が川中のシテ島に石垣を積んだことはあったが、その後900年間にわたって、パリにはなんの防壁もなかった。<br /><br />・ この丸腰の間に、パリの町は海賊たちの掠奪をさんざんに受けた。 とくに9世紀の後半、数回にわたるノルマン人の侵入は語るも恐しかった。 このことが遅ればせながらパリ市の城壁を作るきっかけの一つになった。<br /><br />・ 工事は右岸(北岸)の部分から開始された(1190-1209)。 ついで国王が(第3回十字軍から)帰国して左岸(南岸)の部分にもおよんだ(1200-1215)。<br /><br />・ ノルマン人のような海賊がセーヌをさかのぼってくるかも知れないと、下流の方向(西)の出入り口には特に堅固な要塞が築かれた(1200)。 この要塞が「ルーヴル」であり、後世には有名な美術館となるところの誕生の姿であった。<br /><br />・ 城壁は、高さが9メートル、厚さ(幅)が3メートルぐらいで、外壁と内壁を合わせ、その間に切石やセメントを詰めた形で作られていた。<br /><br />・ このような城壁に沿って60?80メートル行くごとに、直径5メートルほどの円筒形の塔が立っており、それは、城壁の線から少しだけ丸く突き出していた。<br /><br />・ 城壁の長さは、右岸は2500メートル、左岸は2600メートル。<br /> <br />・ 城壁の上にも塔の上にも、戦闘のために狭間(はざま)が沢山あけられた。<br /><br />・ 所々に城門が設けられ、そこだけには掘り割りがめぐり、木のはね橋がかかっていたようである。<br /><br />・ 城壁がセーヌ川によって途切れるところが西に一箇所、東に一箇所あったが、そこでは両岸にそれぞれ監視塔を建て、こちらの岸と向こうの岸との間に重い鉄の鎖を渡してふさいだ。 ( ※ 西: コワンの塔とネールの塔、  東: バルボー塔とトゥールネル塔 )。<br /><br />・ この鉄鎖を引き上げてもらうには、水運業組合の長で市民代表でもある者(プレヴォ・デ・マルシャン)の許可が必要であったから、舟の勝手な出入りはできなかった。<br /><br />・ 壁の内側の面積が253ヘクタールだった。 (日本の皇居と外苑を合わせた広さ&lt;208ヘクタール&gt;よりやや大きい程度であった。)<br /><br />・ 当時の住民は12万人(または20万人)と言われている。 城壁が、この12万人の住居のみならず、付属の草地もぶどう畑も、作業の小屋さえも包み込んだ。<br /><br />-------------------------------------------------   <br /><br />右岸編1(10/11)  http://4travel.jp/travelogue/10942604<br />右岸編2(10/11)  http://4travel.jp/travelogue/10942606<br />左岸編1(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942608<br />左岸編2(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942609<br />城壁内編(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942610<br />まとめ編(10/11,13) http://4travel.jp/travelogue/10942612<br /><br />

パリのお散歩 フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く (右岸編1:現1-3区) Balade sur les traces de l’enceinte de Philippe Auguste

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2014/10/11 - 2014/10/11

3132位(同エリア17008件中)

旅行記グループ パリ・城壁跡散歩

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75

wiz

wiz さん

かつて、パリには 『フィリップ・オーギュストの城壁』   
(建設開始:右岸1190頃~、左岸1200頃~) がありました。

『フィリップ・オーギュストの城壁』が建設されている頃というのは、
ちょうどパリのノートルダムが建造されている最中でもありました(1163-)。

現在、かつての城壁そのものの名残は所々に残る程度です。 

特に、右岸は、道としては、形跡 がほとんど残っていないので、
イメージするには容易ではないかもしれません。

しかし、私は、ずっとそんな時代の城壁跡をぐるりと1周散歩し、 
12-13世紀 ”中世のパリ” の大きさを、体感してみたかったのです。

この旅行記『右岸編1』は、かつてのコワンの塔?サン・マルタン門、
現在の住所で言えば、ルーヴル美術館からポンピドーセンター北の
サン・ドニ通り、サン・マルタン通りあたりまでの記録になります。
(パリ1区~2区~3区:表紙地図の赤く囲ったエリア)

途中、寄り道しながら歩きましたので、寄り道写真も含めながら書いています。

(※注)旅行記中の写真で、 ◆ 印のある写真が、城壁沿いのルート、
    もしくは城壁に限りなく近い位置、の印となっています。

* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps
https://goo.gl/1Rce1Y

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         き っ か け 
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以前、 『芸術新潮 2006年3月号 パリ 中世の美と出会う五日間』 という本の中で、パリや近郊の町(シャルトル、サンリス、ロワイヨーモン修道院)で 中世 を楽しむ特集が組まれていました。

この本は、美しい写真が興味をそそる本なのです。

私のしたいことは本の中でたくさん提案されていましたが、その中のいくつかは今までの旅行で達成してきました。 しかし、まだ達成していないことのひとつに、

 【フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く!】

というテーマがありました。 これは今までずっとしたかったことのひとつでした。

本の中では、”フィリップ・オーギュストの城壁の壁さがし” という記事とともに ”パリにあったフィリップ・オーギュストの城壁の跡が記された地図” が載っていたのですが、この地図を見ていて、
 
 【なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、
  中世当時のパリの城壁内の大きさというものを体感したい!】

と考えていたのです。 今まで旅行中に、なかなかこの ”城壁跡ぐるり1周歩き” ができなかったわけですが、今回、やっと実現できる時が来ました。

しかし、この城壁跡1周ぐるり歩きをし、その大きさを体感した満足感を旅行記でどう書くかはなかなか難しい。 古地図を見たりして当時の様子を予習しておくとさらに楽しいです。

興味のある方への参考になれば幸いと思います。

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         参     考
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http://fr.wikipedia.org/wiki/Enceinte_de_Philippe_Auguste
http://www.philippe-auguste.com/
http://paris-atlas-historique.fr/50.html
芸術新潮 2006年3月号 パリ 中世の美と出会う五日間
パリ歴史探偵術 講談社現代新書 宮下志朗著
パリ史の裏通り 白水uブックス 堀井敏夫著
ミシュラン・グリーン・ガイド・パリ

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  フィリップ・オーギュストの城壁   概要 
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・ フィリップ2世(フィリップ尊厳王/オーギュスト:在位1180年-1223年)

・ フランスでは、十字軍のころであった。 外には戦争があり、内には建設事業が続いていた。 ノートルダムの大教会の建築も進んでいて、すでに正面の一部が天空に立ちあがっていた。 

・ パリにとって 『フィリップ・オーギュストの城壁』 のもつ意味は大きかった。 パリの場合、紀元後の3世紀にゲルマン人の侵入に苦しみ、住民が川中のシテ島に石垣を積んだことはあったが、その後900年間にわたって、パリにはなんの防壁もなかった。

・ この丸腰の間に、パリの町は海賊たちの掠奪をさんざんに受けた。 とくに9世紀の後半、数回にわたるノルマン人の侵入は語るも恐しかった。 このことが遅ればせながらパリ市の城壁を作るきっかけの一つになった。

・ 工事は右岸(北岸)の部分から開始された(1190-1209)。 ついで国王が(第3回十字軍から)帰国して左岸(南岸)の部分にもおよんだ(1200-1215)。

・ ノルマン人のような海賊がセーヌをさかのぼってくるかも知れないと、下流の方向(西)の出入り口には特に堅固な要塞が築かれた(1200)。 この要塞が「ルーヴル」であり、後世には有名な美術館となるところの誕生の姿であった。

・ 城壁は、高さが9メートル、厚さ(幅)が3メートルぐらいで、外壁と内壁を合わせ、その間に切石やセメントを詰めた形で作られていた。

・ このような城壁に沿って60?80メートル行くごとに、直径5メートルほどの円筒形の塔が立っており、それは、城壁の線から少しだけ丸く突き出していた。

・ 城壁の長さは、右岸は2500メートル、左岸は2600メートル。
 
・ 城壁の上にも塔の上にも、戦闘のために狭間(はざま)が沢山あけられた。

・ 所々に城門が設けられ、そこだけには掘り割りがめぐり、木のはね橋がかかっていたようである。

・ 城壁がセーヌ川によって途切れるところが西に一箇所、東に一箇所あったが、そこでは両岸にそれぞれ監視塔を建て、こちらの岸と向こうの岸との間に重い鉄の鎖を渡してふさいだ。 ( ※ 西: コワンの塔とネールの塔、 東: バルボー塔とトゥールネル塔 )。

・ この鉄鎖を引き上げてもらうには、水運業組合の長で市民代表でもある者(プレヴォ・デ・マルシャン)の許可が必要であったから、舟の勝手な出入りはできなかった。

・ 壁の内側の面積が253ヘクタールだった。 (日本の皇居と外苑を合わせた広さ<208ヘクタール>よりやや大きい程度であった。)

・ 当時の住民は12万人(または20万人)と言われている。 城壁が、この12万人の住居のみならず、付属の草地もぶどう畑も、作業の小屋さえも包み込んだ。

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右岸編1(10/11)  http://4travel.jp/travelogue/10942604
右岸編2(10/11)  http://4travel.jp/travelogue/10942606
左岸編1(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942608
左岸編2(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942609
城壁内編(10/13)  http://4travel.jp/travelogue/10942610
まとめ編(10/11,13) http://4travel.jp/travelogue/10942612

旅行の満足度
4.5
  • フィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)の跡を巡る、パリのお散歩。<br /><br />この地図は、その城壁跡を巡りながら散歩をするにあたり、自分が見たい場所の最低限を見てまわるには、どれくらいかかるのだろう?と思いながら、旅行前に、Google Mapで(徒歩)計測してみた感じです。<br /><br />このように、さくさくと歩けば、(現代の道を使えば)おおよそ「 7.2km 1時間31分 」 だということが分かりました。

    フィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)の跡を巡る、パリのお散歩。

    この地図は、その城壁跡を巡りながら散歩をするにあたり、自分が見たい場所の最低限を見てまわるには、どれくらいかかるのだろう?と思いながら、旅行前に、Google Mapで(徒歩)計測してみた感じです。

    このように、さくさくと歩けば、(現代の道を使えば)おおよそ「 7.2km 1時間31分 」 だということが分かりました。

  • そして、こちらは、<br />実際に歩いた感じをGoogle Mapにマーカーした地図。<br /><br />城壁跡周辺のおもしろそうなところに<br />” 寄り道しながら ” 歩いたのでこのようになりました。<br /><br />* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps<br />https://goo.gl/1Rce1Y <br /><br />右岸(上:10/11)と左岸(下:10/13)は、それぞれ日を分けて歩いたのですが・・<br /><br />実際に歩いた時間は、<br />右岸:13:30頃から約2時間半?3時間、左岸9:00から約4時間、 でした。

    そして、こちらは、
    実際に歩いた感じをGoogle Mapにマーカーした地図。

    城壁跡周辺のおもしろそうなところに
    ” 寄り道しながら ” 歩いたのでこのようになりました。

    * フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps
    https://goo.gl/1Rce1Y

    右岸(上:10/11)と左岸(下:10/13)は、それぞれ日を分けて歩いたのですが・・

    実際に歩いた時間は、
    右岸:13:30頃から約2時間半?3時間、左岸9:00から約4時間、 でした。

  • フィリップ・オーギュスト時代のパリの城壁<br />(Enceinte-philippe-auguste-1223-paris wikimediaより)<br /><br />-------------------------------------------------<br /><br />まず、この日(10/11・土)は、次のように動きました。<br /><br />□朝一で、パリの北近郊にあるサン・ドニ大聖堂へ。<br />□12時前に、モンマルトルのブドウ収穫祭のセレモニーへ。<br />■13時半頃から、フィリップ・オーギュストの城壁を歩く(右岸編)。<br />□17時過ぎ〜、アベス駅付近でモンマルトルのブドウ収穫祭パレード見学。<br />□21時45分〜、サクレクール寺院前でモンマルトルのブドウ収穫祭の花火見学。<br /><br />なかなかタイトなスケジュールの1日ですが、夕方以降は、そんなに歩きまわらず、一箇所で見学する、というような内容(パレード&amp;花火)なので、とりあえず今は、この  『  フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く(右岸編) 』 を頑張りたいと思います。<br /><br />まず、今日は、城壁があった右岸の西端(セーヌ川沿い)から半円を描くように歩いていきたいと考えています。 (※この地図の上の半円部分がセーヌ右岸)<br /><br />矢印で表すなら、こんな感じで歩きます。<br /><br />  → → <br />↑     ↓<br /><br />16時頃にサン・ルイ島でちょっと用事があるので、その時間を目指して、城壁のあった右岸の東端(セーヌ川沿い)まで歩きます。<br /><br />-------------------------------------------------

    フィリップ・オーギュスト時代のパリの城壁
    (Enceinte-philippe-auguste-1223-paris wikimediaより)

    -------------------------------------------------

    まず、この日(10/11・土)は、次のように動きました。

    □朝一で、パリの北近郊にあるサン・ドニ大聖堂へ。
    □12時前に、モンマルトルのブドウ収穫祭のセレモニーへ。
    ■13時半頃から、フィリップ・オーギュストの城壁を歩く(右岸編)。
    □17時過ぎ〜、アベス駅付近でモンマルトルのブドウ収穫祭パレード見学。
    □21時45分〜、サクレクール寺院前でモンマルトルのブドウ収穫祭の花火見学。

    なかなかタイトなスケジュールの1日ですが、夕方以降は、そんなに歩きまわらず、一箇所で見学する、というような内容(パレード&花火)なので、とりあえず今は、この  『  フィリップ・オーギュストの城壁跡を歩く(右岸編) 』 を頑張りたいと思います。

    まず、今日は、城壁があった右岸の西端(セーヌ川沿い)から半円を描くように歩いていきたいと考えています。 (※この地図の上の半円部分がセーヌ右岸)

    矢印で表すなら、こんな感じで歩きます。

      → → 
    ↑     ↓

    16時頃にサン・ルイ島でちょっと用事があるので、その時間を目指して、城壁のあった右岸の東端(セーヌ川沿い)まで歩きます。

    -------------------------------------------------

  • まずは、ルーヴル・リヴォリ駅で降りた後、通りがかって1枚撮影。<br /><br />サン・ジェルマン・ロクセロワ教会 Eglise Saint-Germain-l&#39;Auxerrois<br />2 Place du Louvre, 75001 Paris<br /><br />ここで祀られている聖ジェルマン(聖ゲルマヌス)は、ナンテールのジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女)の列聖を決めた5世紀のオーセール司教。 サン・ジェルマン・デ・プレ教会の守護聖人、パリの聖ジェルマンとは違います。<br /><br />ヴァロワ王家が14世紀にルーヴル宮を居城にしたため、この教会がフランス国王の教区教会となり、歴代の国王がここで彩色に臨んだばかりでなく、聖堂の装飾に出資したり、寄進を行ったりした。<br /><br />1572年8月24日の晩に鳴り響いた朝課の鐘の音は、サン・バルテルミーの虐殺の合図となった。 (※この事件については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。)

    まずは、ルーヴル・リヴォリ駅で降りた後、通りがかって1枚撮影。

    サン・ジェルマン・ロクセロワ教会 Eglise Saint-Germain-l'Auxerrois
    2 Place du Louvre, 75001 Paris

    ここで祀られている聖ジェルマン(聖ゲルマヌス)は、ナンテールのジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女)の列聖を決めた5世紀のオーセール司教。 サン・ジェルマン・デ・プレ教会の守護聖人、パリの聖ジェルマンとは違います。

    ヴァロワ王家が14世紀にルーヴル宮を居城にしたため、この教会がフランス国王の教区教会となり、歴代の国王がここで彩色に臨んだばかりでなく、聖堂の装飾に出資したり、寄進を行ったりした。

    1572年8月24日の晩に鳴り響いた朝課の鐘の音は、サン・バルテルミーの虐殺の合図となった。 (※この事件については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。)

    サン ジェルマン ロクセロワ教会 寺院・教会

    ナンテールのジュヌヴィエーヴ(パリの守護聖女)の列聖を決めた5世紀のオーセールの司教聖ジェルマンを祀った教会 Eglise Saint-Germain-l'Auxerrois (1区) by wiz さん
  • ルーヴル美術館のフランソワ・ミッテラン河岸(セーヌ川河岸)側。

    ルーヴル美術館のフランソワ・ミッテラン河岸(セーヌ川河岸)側。

  •  ≪≪≪ 右岸の城壁跡巡り スタート地点!!! ≫≫≫<br /><br />◆旧コワンの塔 Tour du Coin 界隈<br />(現在のフランソワ・ミッテラン河岸、ポンデザール、ルーヴル美術館近く。)<br /><br />la Tour du coin, rive droite, tout près du Louvre <br />(quai François-Mitterrand) <br /><br />セーヌ川沿い、ルーヴル美術館横、フランソワ・ミッテラン河岸に到着。<br /><br />このあたりに、コワンの塔  Tour du Coin があったようです。<br /><br />フィリップ・オーギュスト城壁 (L’enceinte de Philippe Auguste) <br />(地図は、Atlas historique de Parisより、以下地図も同。)<br />http://paris-atlas-historique.fr/50.html<br />http://paris-atlas-historique.fr/resources/Enceinte+Ph+Auguste.pdf

     ≪≪≪ 右岸の城壁跡巡り スタート地点!!! ≫≫≫

    ◆旧コワンの塔 Tour du Coin 界隈
    (現在のフランソワ・ミッテラン河岸、ポンデザール、ルーヴル美術館近く。)

    la Tour du coin, rive droite, tout près du Louvre
    (quai François-Mitterrand)

    セーヌ川沿い、ルーヴル美術館横、フランソワ・ミッテラン河岸に到着。

    このあたりに、コワンの塔 Tour du Coin があったようです。

    フィリップ・オーギュスト城壁 (L’enceinte de Philippe Auguste)
    (地図は、Atlas historique de Parisより、以下地図も同。)
    http://paris-atlas-historique.fr/50.html
    http://paris-atlas-historique.fr/resources/Enceinte+Ph+Auguste.pdf

  • ルーヴル城塞とコワンの塔(左:右岸)と 対岸のネールの塔(右:左岸)<br /><br />( Plan_de_Paris_vers_1550_Tour_et_hotel_de_Nesle_face_au_Louvre wikimediaより )<br /><br />セーヌに2つの小さな島が見えますが、シテ島の先っぽにこのような小さな島があったそうです。 上に小さく先端が見えるのがシテ島です。 ここにはないですが、シテ島の隣りのサン・ルイ島も2つに分かれていました。

    ルーヴル城塞とコワンの塔(左:右岸)と 対岸のネールの塔(右:左岸)

    ( Plan_de_Paris_vers_1550_Tour_et_hotel_de_Nesle_face_au_Louvre wikimediaより )

    セーヌに2つの小さな島が見えますが、シテ島の先っぽにこのような小さな島があったそうです。 上に小さく先端が見えるのがシテ島です。 ここにはないですが、シテ島の隣りのサン・ルイ島も2つに分かれていました。

  • ルーヴル城塞とコワンの塔(右)<br /><br />( Le rempart du Louvre le long de la Seine avec la tour du coin a droite. wikimediaより )

    ルーヴル城塞とコワンの塔(右)

    ( Le rempart du Louvre le long de la Seine avec la tour du coin a droite. wikimediaより )

  • フランソワ・ミッテラン河岸から見る対岸のアンスチチュ(フランス学士院)。<br /><br />こちら側(右岸)に コワンの塔 Tour du Coin があり、<br />向こう側(左岸)に ネールの塔 Tour de Nesle があった。<br /><br />城壁がセーヌ川によって途切れるところが西に一箇所 ( コワンの塔 と ネールの塔 ) 、東に一箇所 ( バルボー塔 とトゥールネル塔 ) あったが、そこでは両岸にそれぞれ監視塔を建て、こちらの岸と向こうの岸との間に重い鉄の鎖を渡してふさいだ。

    フランソワ・ミッテラン河岸から見る対岸のアンスチチュ(フランス学士院)。

    こちら側(右岸)に コワンの塔 Tour du Coin があり、
    向こう側(左岸)に ネールの塔 Tour de Nesle があった。

    城壁がセーヌ川によって途切れるところが西に一箇所 ( コワンの塔 と ネールの塔 ) 、東に一箇所 ( バルボー塔 とトゥールネル塔 ) あったが、そこでは両岸にそれぞれ監視塔を建て、こちらの岸と向こうの岸との間に重い鉄の鎖を渡してふさいだ。

  • せっかくだから、ポンデザール Pont des Arts へ。

    せっかくだから、ポンデザール Pont des Arts へ。

    ポンデザール 建造物

  • Jean Beraud  ”A Windy Day on the Pont des Arts”<br />1880-81 Metropolitan Museum of Art<br /><br />ジャン・ベローという画家が「風の強い日、芸術橋(ポンデザール)」という絵を描いている。

    Jean Beraud  ”A Windy Day on the Pont des Arts”
    1880-81 Metropolitan Museum of Art

    ジャン・ベローという画家が「風の強い日、芸術橋(ポンデザール)」という絵を描いている。

  • 向こう側が、アンスチチュ(フランス学士院 Institut de France)。<br /><br />アンスチチュのあたりに、左岸の城壁の西を護る「ネールの塔 Tour de Nesle」があった。<br /><br />今日10/11は、右岸の城壁跡(半周)を歩き、<br /><br />  → → <br />↑     ↓<br /><br />翌々日10/13、アンスチチュから左岸の城壁跡(半周)を歩きました。<br /><br />↓     ↑<br />  → → 

    向こう側が、アンスチチュ(フランス学士院 Institut de France)。

    アンスチチュのあたりに、左岸の城壁の西を護る「ネールの塔 Tour de Nesle」があった。

    今日10/11は、右岸の城壁跡(半周)を歩き、

      → → 
    ↑     ↓

    翌々日10/13、アンスチチュから左岸の城壁跡(半周)を歩きました。

    ↓     ↑
      → → 

    フランス学士院 史跡・遺跡

  • ポンデザールから見るポンヌフ Pont Neuf とシテ島  Ile de la Cite の西端<br /><br />少し前に紹介した古地図で見えたシテ島の先端。<br /><br />シテ島は長い間、西の端がセーヌ川の水面すれすれの湿原になっていて、シテ島から分断された小さな島々は増水による水害に見舞われやすかったのだそうです。 16世紀も末になってアンリ3世がシテ島の先端を整備する決定を下した。 湿原を埋め立てて小島と小島をつなぎ合わせ、跡にポン=ヌフ橋が架けられる土手を川の中央に築き、南岸は約6m高くする工事が行われた。 1580年頃に土地整備が完了し、後は建物を建てるばかりとなった。

    ポンデザールから見るポンヌフ Pont Neuf とシテ島 Ile de la Cite の西端

    少し前に紹介した古地図で見えたシテ島の先端。

    シテ島は長い間、西の端がセーヌ川の水面すれすれの湿原になっていて、シテ島から分断された小さな島々は増水による水害に見舞われやすかったのだそうです。 16世紀も末になってアンリ3世がシテ島の先端を整備する決定を下した。 湿原を埋め立てて小島と小島をつなぎ合わせ、跡にポン=ヌフ橋が架けられる土手を川の中央に築き、南岸は約6m高くする工事が行われた。 1580年頃に土地整備が完了し、後は建物を建てるばかりとなった。

  • 上の写真を少しズームすると、<br /><br />左奥、市庁舎 Hotel de Ville の奥に、サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会 Eglise Saint-Gervais-Saint-Protais (天井が工事中だった)が見えますが、あの教会の向こう側が、フィリップ・オーギュスト右岸編のゴール(バルボー塔があったセレスタン河岸)です。<br /><br />これから、城壁跡を辿り、右岸を半円を描きながらあちらまで歩きます。

    上の写真を少しズームすると、

    左奥、市庁舎 Hotel de Ville の奥に、サン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会 Eglise Saint-Gervais-Saint-Protais (天井が工事中だった)が見えますが、あの教会の向こう側が、フィリップ・オーギュスト右岸編のゴール(バルボー塔があったセレスタン河岸)です。

    これから、城壁跡を辿り、右岸を半円を描きながらあちらまで歩きます。

  • ポンデザールから、一応、反対側(西)の写真も1枚。<br /><br />カルーゼル橋 Pont du Carrousel とルーヴル美術館 Musee du Louvre(右)。<br /><br />奥の橋、ロワイヤル橋 Pont Royale の左にオルセー美術館 Musee d&#39;Orsay。<br /><br />もっと向こうには1900年鉄製のグラン・パレ Grand Palais が見えます。

    ポンデザールから、一応、反対側(西)の写真も1枚。

    カルーゼル橋 Pont du Carrousel とルーヴル美術館 Musee du Louvre(右)。

    奥の橋、ロワイヤル橋 Pont Royale の左にオルセー美術館 Musee d'Orsay。

    もっと向こうには1900年鉄製のグラン・パレ Grand Palais が見えます。

  • ルーヴル美術館 Musee du Louvre の中庭、クール・カレ Cour carree へ。<br /><br />そのうち、年中無休になるのでしょうか。<br />http://www.afpbb.com/articles/-/3021746?pid=14131753

    ルーヴル美術館 Musee du Louvre の中庭、クール・カレ Cour carree へ。

    そのうち、年中無休になるのでしょうか。
    http://www.afpbb.com/articles/-/3021746?pid=14131753

  • ルーヴル美術館脇 フランソワ・ミッテラン河岸 Quai François Mitterrand<br /><br />la Tour du coin, rive droite, <br />tout près du Louvre (quai François-Mitterrand) <br /><br />現在の住所で言えば、コワンの塔 は、フランソワ・ミッテラン河岸にあった。

    ルーヴル美術館脇 フランソワ・ミッテラン河岸 Quai François Mitterrand

    la Tour du coin, rive droite,
    tout près du Louvre (quai François-Mitterrand)

    現在の住所で言えば、コワンの塔 は、フランソワ・ミッテラン河岸にあった。

  • ここ、ルーブル美術館のクール・カレ(四角い中庭)の西南隅寄りの地下に城塞跡が残されています。<br /><br />今回は、ルーヴル美術館の中に入る時間はありませんが、下に、以前撮影した中世の時代のルーヴルの展示を貼っておきます。 (2008年12月撮影)

    ここ、ルーブル美術館のクール・カレ(四角い中庭)の西南隅寄りの地下に城塞跡が残されています。

    今回は、ルーヴル美術館の中に入る時間はありませんが、下に、以前撮影した中世の時代のルーヴルの展示を貼っておきます。 (2008年12月撮影)

  • ◆中世のルーヴル(12〜13世紀に築かれた城塞遺跡) (2008年12月撮影)<br /><br />・シュリー翼半地階−中世のルーヴル<br />ルーヴルのはじまりは12世紀の終わり。 パリをかこむ城壁の外に、城砦として築かれた。 セーヌをさかのぼってせめてくる、ノルマン人へのそなえだった。 14世紀に改築するまで、ルーヴルは町外れにある薄気味悪い場所で、武器や文書の倉庫として、また牢獄としても使われていた。 直径15m、高32mあった天守塔の土台や、それを囲む壁の一部など、その頃の遺構はシュリー翼の半地下で見ることができる。 (ルーヴル美術館HPより)<br /><br />※ルーヴル宮の建造工程 Les etapes de la construction du Palais<br />http://www.economie.gouv.fr/files/files/directions_services/caef/Documents/Expositions_virtuelles/ministere_ville/louvre.html <br /> ( 点線で囲まれた Louvre medieval の部分が、中世のルーヴル )

    ◆中世のルーヴル(12〜13世紀に築かれた城塞遺跡) (2008年12月撮影)

    ・シュリー翼半地階−中世のルーヴル
    ルーヴルのはじまりは12世紀の終わり。 パリをかこむ城壁の外に、城砦として築かれた。 セーヌをさかのぼってせめてくる、ノルマン人へのそなえだった。 14世紀に改築するまで、ルーヴルは町外れにある薄気味悪い場所で、武器や文書の倉庫として、また牢獄としても使われていた。 直径15m、高32mあった天守塔の土台や、それを囲む壁の一部など、その頃の遺構はシュリー翼の半地下で見ることができる。 (ルーヴル美術館HPより)

    ※ルーヴル宮の建造工程 Les etapes de la construction du Palais
    http://www.economie.gouv.fr/files/files/directions_services/caef/Documents/Expositions_virtuelles/ministere_ville/louvre.html
     ( 点線で囲まれた Louvre medieval の部分が、中世のルーヴル )

  • ルーヴル美術館のクール・カレ(中庭)から見えるアンスチチュ(フランス学士院)。

    ルーヴル美術館のクール・カレ(中庭)から見えるアンスチチュ(フランス学士院)。

  • 左下のアーチの下に、ガラスのピラミッドが見えます。 あちら側はいつも混んでいます。

    左下のアーチの下に、ガラスのピラミッドが見えます。 あちら側はいつも混んでいます。

    ルーヴル美術館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 今日は、ルーヴル美術館のクール・カレ(中庭)を突っ切り、リヴォリ通りへ。

    今日は、ルーヴル美術館のクール・カレ(中庭)を突っ切り、リヴォリ通りへ。

  • リヴォリ通り Rue de Rivoli へ出ました。 (市庁舎 Hotel de Ville 側を撮影)

    リヴォリ通り Rue de Rivoli へ出ました。 (市庁舎 Hotel de Ville 側を撮影)

  • オラトワール教会 Eglise Reformee de l&#39;Oratoire du Louvre 後陣側<br /><br />ルーヴル美術館のクール・カレ(中庭)をリヴォリ通り Rue de Rivoli へ抜けると、すぐに(リヴォリ通り沿いに)オラトワール教会の後陣が見えます。<br /><br />その、オラトワール教会の後陣側には、”コリニー提督の像”があります。<br /><br />コリニー提督 Gaspard de Coligny (宗教戦争期の新教徒軍指導者)は聖バルテルミーの大虐殺(1572年8月24日)の夜に殺され、この近くにあった自邸の窓から投出されたという人。<br /><br />16世紀には、オラトワール教会の地には、ガブリエル・デストレの館が立っていたそうです。 ある日この美しい愛妾を訪ねてきたアンリ4世は19歳の旧教同名員シャテルに襲われ、短刀で顔を切られた。 男は翌々日グレーヴ広場(現市庁舎前広場)で四つ裂きの刑を受けた。<br /><br />1616年、ベリュル枢機卿により創設されたばかりのオラトリオ会がこの地に居を定め、ル・メルシエの設計により礼拝堂(1621〜30)を建立させた。 建物はルイ13世の計画に従えば、ルーヴル宮の一部になるはずであった。 そして、事実、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世時代には王宮礼拝堂となった。<br /><br />(※先程1枚、次にも1枚写真を載せたサン・ジェルマン・ロクセロワ教会で起った聖バルテルミーの事件やコリニー提督については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。)

    オラトワール教会 Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre 後陣側

    ルーヴル美術館のクール・カレ(中庭)をリヴォリ通り Rue de Rivoli へ抜けると、すぐに(リヴォリ通り沿いに)オラトワール教会の後陣が見えます。

    その、オラトワール教会の後陣側には、”コリニー提督の像”があります。

    コリニー提督 Gaspard de Coligny (宗教戦争期の新教徒軍指導者)は聖バルテルミーの大虐殺(1572年8月24日)の夜に殺され、この近くにあった自邸の窓から投出されたという人。

    16世紀には、オラトワール教会の地には、ガブリエル・デストレの館が立っていたそうです。 ある日この美しい愛妾を訪ねてきたアンリ4世は19歳の旧教同名員シャテルに襲われ、短刀で顔を切られた。 男は翌々日グレーヴ広場(現市庁舎前広場)で四つ裂きの刑を受けた。

    1616年、ベリュル枢機卿により創設されたばかりのオラトリオ会がこの地に居を定め、ル・メルシエの設計により礼拝堂(1621〜30)を建立させた。 建物はルイ13世の計画に従えば、ルーヴル宮の一部になるはずであった。 そして、事実、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世時代には王宮礼拝堂となった。

    (※先程1枚、次にも1枚写真を載せたサン・ジェルマン・ロクセロワ教会で起った聖バルテルミーの事件やコリニー提督については、映画『王妃マルゴ』を見ると分かりやすいです。)

    ルーブル礼拝堂のプロテスタント教会 寺院・教会

    ルイ13・14・15世時代に王宮礼拝堂 聖バルテルミー事件で有名なコリニー提督の像がある Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre (1区) by wiz さん
  • リヴォリ通り越しに振り返ると、メトロ駅を降りて一番初めに撮った(聖バルテルミー事件で有名な)サン・ジェルマン・ロクセロワ教会が見えます。<br /><br />右に見えるのは、ルーヴル美術館の東端の建物。

    リヴォリ通り越しに振り返ると、メトロ駅を降りて一番初めに撮った(聖バルテルミー事件で有名な)サン・ジェルマン・ロクセロワ教会が見えます。

    右に見えるのは、ルーヴル美術館の東端の建物。

  • オラトワール通り(Rue de l&#39;Oratoire)を北へ。<br /><br />左に見えるのがオラトワール教会 Eglise Reformee de l&#39;Oratoire du Louvre です。<br /><br />145 Rue Saint Honore, 75001 Paris

    オラトワール通り(Rue de l'Oratoire)を北へ。

    左に見えるのがオラトワール教会 Eglise Reformee de l'Oratoire du Louvre です。

    145 Rue Saint Honore, 75001 Paris

  • ◆旧サントノーレ門 Porte Saint-Honore 界隈<br /><br />la porte Saint-Honore <br />(au no 148 de la rue Saint-Honore, au niveau de la rue de l&#39;Oratoire) <br />148 Rue Saint Honore, 75001 Paris<br /><br />オラトワール通りから見た(突き当たりの建物の通りが)サントーレ通り Rue Saint Honore。<br /><br />これから突き当たりを左に曲がりますが、左入ってすぐにオラトワール教会の正面(サントノーレ通り145番地)があり、その向かいが148番地。 そこに、サントノーレ門があったそうです。<br /><br />すなわち、ここに見える通りの右側は、”城壁内”だったというわけ。<br /><br />※ちなみに、1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクがパリ攻撃の際、サントノーレ門あたりで負傷した、という歴史がありますが、ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門は、フィリップ・オーギュスト時代の城壁より(右岸は)一回り大きい城壁(シャルル5世の城壁)となっていたので、今ここで言っているサントノーレ門と違います。 ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門があったのは、現在のコメディ・フランセーズ(アンドレ・マルロー広場)近く、金色のジャンヌ・ダルク像があるピラミッド広場の少し東です。

    ◆旧サントノーレ門 Porte Saint-Honore 界隈

    la porte Saint-Honore
    (au no 148 de la rue Saint-Honore, au niveau de la rue de l'Oratoire)
    148 Rue Saint Honore, 75001 Paris

    オラトワール通りから見た(突き当たりの建物の通りが)サントーレ通り Rue Saint Honore。

    これから突き当たりを左に曲がりますが、左入ってすぐにオラトワール教会の正面(サントノーレ通り145番地)があり、その向かいが148番地。 そこに、サントノーレ門があったそうです。

    すなわち、ここに見える通りの右側は、”城壁内”だったというわけ。

    ※ちなみに、1429年9月8日、ジャンヌ・ダルクがパリ攻撃の際、サントノーレ門あたりで負傷した、という歴史がありますが、ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門は、フィリップ・オーギュスト時代の城壁より(右岸は)一回り大きい城壁(シャルル5世の城壁)となっていたので、今ここで言っているサントノーレ門と違います。 ジャンヌ・ダルクが攻撃したサントノーレ門があったのは、現在のコメディ・フランセーズ(アンドレ・マルロー広場)近く、金色のジャンヌ・ダルク像があるピラミッド広場の少し東です。

  • ジャン・ジャック・ルソー通り Rue Jean-Jacques Rousseau<br /><br />サントノーレ通りに入った後、すぐルソー通り(北)へ入ります。<br /><br />ルソー通りの52番地にルソーが住んでいたそうですが、これについては数枚後の写真に再度コメントを載せています。 ルソー通りは、ルーヴル通りをはさんで途切れた感じ?になっていますが、番地は続いているようです。

    ジャン・ジャック・ルソー通り Rue Jean-Jacques Rousseau

    サントノーレ通りに入った後、すぐルソー通り(北)へ入ります。

    ルソー通りの52番地にルソーが住んでいたそうですが、これについては数枚後の写真に再度コメントを載せています。 ルソー通りは、ルーヴル通りをはさんで途切れた感じ?になっていますが、番地は続いているようです。

  • ルソー通りとペリカン通り Rue du Pelican の角。<br /><br />ペリカン通りは、昔、遊郭があったいう通りなんだとか。<br /><br />ルーヴル宮(美術館)やパレ・ロワイヤルに非常に近い位置。

    ルソー通りとペリカン通り Rue du Pelican の角。

    ペリカン通りは、昔、遊郭があったいう通りなんだとか。

    ルーヴル宮(美術館)やパレ・ロワイヤルに非常に近い位置。

  • ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodat<br /><br />19 Rue Jean-Jacques Rousseau  ルソー通り19番地。<br /><br />ルソー通りの途中で、寄り道。

    ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodat

    19 Rue Jean-Jacques Rousseau  ルソー通り19番地。

    ルソー通りの途中で、寄り道。

  • ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodat<br /><br />ギャラリー・ヴェロ・ドダは、1822年に2人の豚肉加工業者ヴェロとドダが作ったもの。

    ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodat

    ギャラリー・ヴェロ・ドダは、1822年に2人の豚肉加工業者ヴェロとドダが作ったもの。

    ギャラリー ヴェロ ドダ ショッピングセンター

  • ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodat<br /><br />ガス灯が逸早く採用され、派手に飾られたアーケード街は大当たりし、店舗は高値で賃貸されたのだそうです。<br /><br />こうしたアーケード街は、19世紀にタイムトリップ、という感じですね。

    ギャラリー・ヴェロ・ドダ Galerie Vero-Dodat

    ガス灯が逸早く採用され、派手に飾られたアーケード街は大当たりし、店舗は高値で賃貸されたのだそうです。

    こうしたアーケード街は、19世紀にタイムトリップ、という感じですね。

  • パリ商品取引所 Bourse de Commerce de Paris<br /><br />南側の壁にはりつくようにして、高さ30mの溝彫りの円柱が1本立っているが、これはカトリーヌ・ド・メディシスのお抱えの占星術師ルッジエリの天文台だったらしい。

    パリ商品取引所 Bourse de Commerce de Paris

    南側の壁にはりつくようにして、高さ30mの溝彫りの円柱が1本立っているが、これはカトリーヌ・ド・メディシスのお抱えの占星術師ルッジエリの天文台だったらしい。

    パリ商品取引所 観光名所

    このあたりにフィリップ・オーギュストの城壁がありました! Bourse de Commerce de Paris (1区) by wiz さん
  • ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡<br /><br />13 Rue du Louvre, 75001 Paris<br /><br />商品取引所の前はルーヴル通り。<br /><br />そのルーヴル通りをはさんで商品取引所の斜め向かい側あたりが、ここルーヴル通り13番地。<br /><br />逆光で、写りがいまいちですが、街中に残る、城壁跡 です。

    ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡

    13 Rue du Louvre, 75001 Paris

    商品取引所の前はルーヴル通り。

    そのルーヴル通りをはさんで商品取引所の斜め向かい側あたりが、ここルーヴル通り13番地。

    逆光で、写りがいまいちですが、街中に残る、城壁跡 です。

  • ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡<br /><br />13 Rue du Louvre, 75001 Paris<br /><br />まわりの補強が現代的でいまいちですが、城壁跡をこうして残しているのは良いですね。

    ◆ルーヴル通り13番地 に残る城壁跡

    13 Rue du Louvre, 75001 Paris

    まわりの補強が現代的でいまいちですが、城壁跡をこうして残しているのは良いですね。

  • ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈<br /><br />la poterne Coquilliere <br />(rue Coquilliere, pres de la rue Jean-Jacques-Rousseau) <br /><br />コクイエール通り(Rue Coquilliere)から<br />ルソー通り(Rue Jean-Jacques Rousseau)を見て撮影。<br /><br />商品取引所の左にあるコクイエール通りに入ってきました。 <br /><br />これからは、カーブを描きながら東向きに歩いて行きます。<br /><br />(52 Rue Jean-Jacques Rousseau 手前右の家にルソーが住んでいたのだそうです。)

    ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈

    la poterne Coquilliere
    (rue Coquilliere, pres de la rue Jean-Jacques-Rousseau)

    コクイエール通り(Rue Coquilliere)から
    ルソー通り(Rue Jean-Jacques Rousseau)を見て撮影。

    商品取引所の左にあるコクイエール通りに入ってきました。 

    これからは、カーブを描きながら東向きに歩いて行きます。

    (52 Rue Jean-Jacques Rousseau 手前右の家にルソーが住んでいたのだそうです。)

  • ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈<br /><br />オ・ピエ・ド・コション Au Pied de Cochon<br /><br />黄葉と赤の庇が、なかなかきれいな場所でした。<br /><br />上の写真のすぐ近くで、この写真の目の前あたりに城壁があった、という位置です。

    ◆旧コクイエール小門 Poterne Coquilliere 界隈

    オ・ピエ・ド・コション Au Pied de Cochon

    黄葉と赤の庇が、なかなかきれいな場所でした。

    上の写真のすぐ近くで、この写真の目の前あたりに城壁があった、という位置です。

    オ ピエ ド コション フレンチ

  • サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache<br /><br />コクイエール通りを東へ行くと、突き当たるのがこの教会です。 レ・アルも近づいてきました。<br /><br />もともと聖女アニェスに奉献された小さな礼拝堂がこの地に建ったのは1214年。 それから数年後に、礼拝堂は聖ウスタッシュに捧げられることになった。

    サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache

    コクイエール通りを東へ行くと、突き当たるのがこの教会です。 レ・アルも近づいてきました。

    もともと聖女アニェスに奉献された小さな礼拝堂がこの地に建ったのは1214年。 それから数年後に、礼拝堂は聖ウスタッシュに捧げられることになった。

    サン トゥスタッシュ教会 寺院・教会

    宰相リシュリュー、モリエール、ポンパドゥール夫人らの洗礼式、幼いルイ14世の初聖体 などが行われた Eglise Saint Eustache (1区) by wiz さん
  • サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache<br /><br />配置や骨組はゴチック式、装飾はルネサンス式。

    サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache

    配置や骨組はゴチック式、装飾はルネサンス式。

  • サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache<br /><br />ミサやコンサートを通してパイプオルガンと聖歌隊の昔ながらの名声が今も保持されている。<br /><br />19世紀には、ベルリオーズとリストがここで彼らの作品の一部を演奏した。

    サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache

    ミサやコンサートを通してパイプオルガンと聖歌隊の昔ながらの名声が今も保持されている。

    19世紀には、ベルリオーズとリストがここで彼らの作品の一部を演奏した。

  • ◆ジュール通り Rue du Jour<br /><br />サン・トゥシュタッシュ教会隣りのジュール通り。 アニエス・ベーがある通りです。<br /><br />ジュール通りは地図を見ると分かりますが、東西南北の軸に対して斜めになっている通りですが、フィリップ・オーギュストの城壁のちょうど内側にあたるようです。

    ◆ジュール通り Rue du Jour

    サン・トゥシュタッシュ教会隣りのジュール通り。 アニエス・ベーがある通りです。

    ジュール通りは地図を見ると分かりますが、東西南北の軸に対して斜めになっている通りですが、フィリップ・オーギュストの城壁のちょうど内側にあたるようです。

  • ジュール通り4番地  4 Rue du Jour, 75001 Paris<br /><br />ここは、ロワイヨーモン修道院の旧パリ館だったところだそうです。<br /><br />ロワイヨーモン修道院 Abbaye de Royaumont とは、表紙に書いていたロワイヨーモン修道院(パリの北30kmほどのところ)のこと。 聖王ルイが1228年に創設し、1235年に完成した修道院。 行ってみたいのですが、公共交通の便は不便そうなところ。 

    ジュール通り4番地  4 Rue du Jour, 75001 Paris

    ここは、ロワイヨーモン修道院の旧パリ館だったところだそうです。

    ロワイヨーモン修道院 Abbaye de Royaumont とは、表紙に書いていたロワイヨーモン修道院(パリの北30kmほどのところ)のこと。 聖王ルイが1228年に創設し、1235年に完成した修道院。 行ってみたいのですが、公共交通の便は不便そうなところ。 

  • ジュール通り4番地  4 Rue du Jour, 75001 Paris<br /><br />ロワイヨーモン修道院の旧パリ館 と サン・トゥシュタッシュ教会。

    ジュール通り4番地  4 Rue du Jour, 75001 Paris

    ロワイヨーモン修道院の旧パリ館 と サン・トゥシュタッシュ教会。

  • ◆ジュール通り Rue du Jour<br /><br />この通りの9番地に城壁の一部があるとか? (写真左手)<br /><br />Au 9 rue du Jour (ancien chemin de ronde intérieur de la muraille qui passait entre la rue J-J Rousseau et la rue du Jour), un morceau de la muraille &quot;découvert&quot; par Arthur Gillette... ( http://www.philippe-auguste.com/ より。)

    ◆ジュール通り Rue du Jour

    この通りの9番地に城壁の一部があるとか? (写真左手)

    Au 9 rue du Jour (ancien chemin de ronde intérieur de la muraille qui passait entre la rue J-J Rousseau et la rue du Jour), un morceau de la muraille "découvert" par Arthur Gillette... ( http://www.philippe-auguste.com/ より。)

  • ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈<br /><br />la porte Montmartre<br />(au no 30 de la rue Montmartre, pres de la rue Etienne-Marcel)<br /><br />上のジュール通りをまっすぐ歩くとモンマルトル通りに突き当たり、すぐ左に曲がったところにモンマルトル通り30番地があります。 ここが、モンマルトル門のあったところです。<br /><br />30 Rue Montmartre, 75001 Paris  モンマルトル通り30番地。

    ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈

    la porte Montmartre
    (au no 30 de la rue Montmartre, pres de la rue Etienne-Marcel)

    上のジュール通りをまっすぐ歩くとモンマルトル通りに突き当たり、すぐ左に曲がったところにモンマルトル通り30番地があります。 ここが、モンマルトル門のあったところです。

    30 Rue Montmartre, 75001 Paris  モンマルトル通り30番地。

  • ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈<br /><br />30 Rue Montmartre, 75001 Paris<br /><br />フィリップ・オーギュストの城壁、モンマルトル門<br />Enceinte de Philippe Auguste、Porte Montmartre<br /><br />ここにはちゃんと看板があります! 30番地の上を見上げてください!

    ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈

    30 Rue Montmartre, 75001 Paris

    フィリップ・オーギュストの城壁、モンマルトル門
    Enceinte de Philippe Auguste、Porte Montmartre

    ここにはちゃんと看板があります! 30番地の上を見上げてください!

  • ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈<br /><br />30 Rue Montmartre, 75001 Paris<br /><br />モンマルトル通り30-32番地と13-15番地の間にモンマルトル門があったことを示すプレート。<br /><br />今、歩いてきたジュール通り Rue du Jour 通りがプレートの右下に見えます。<br /><br />いったん、ジュール通りからモンマルトル通りを左(北)に曲がりましたが、モンマルトル通りをレ・アルの方へ南下します(写真の地図で右へ)。

    ◆旧モンマルトル門 Porte Montmartre 界隈

    30 Rue Montmartre, 75001 Paris

    モンマルトル通り30-32番地と13-15番地の間にモンマルトル門があったことを示すプレート。

    今、歩いてきたジュール通り Rue du Jour 通りがプレートの右下に見えます。

    いったん、ジュール通りからモンマルトル通りを左(北)に曲がりましたが、モンマルトル通りをレ・アルの方へ南下します(写真の地図で右へ)。

  • モンマルトル通りを南下して、<br /><br />アンパッス・サン・トゥスタッシュ Impasse Saint-Eustache から見える、サン・トゥシュタッシュ教会の袖廊北門。

    モンマルトル通りを南下して、

    アンパッス・サン・トゥスタッシュ Impasse Saint-Eustache から見える、サン・トゥシュタッシュ教会の袖廊北門。

  • モンマルトル通り Rue Montmartre から見たレ・アル Les Halles。<br /><br />前方右に見えるのは、サン・トゥシュタッシュ教会の後陣。<br /><br />〜 カペー朝 〜<br /><br />西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。 王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。<br /><br />フィリップ2世(フィリップ・オーギュスト 1165-1223)の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(後にルーブル宮殿に発展する。)が設けられた。<br /><br />このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。 パリ大学は特に神学の研究で著名であった。 右岸に中央市場 「 レ・アル (Les Halles) 」 が作られたもこのころである。 こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。  (wikipediaより)

    モンマルトル通り Rue Montmartre から見たレ・アル Les Halles。

    前方右に見えるのは、サン・トゥシュタッシュ教会の後陣。

    〜 カペー朝 〜

    西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。 王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。

    フィリップ2世(フィリップ・オーギュスト 1165-1223)の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(後にルーブル宮殿に発展する。)が設けられた。

    このころのパリは初期スコラ学の中心の一つでもあり、11世紀頃からパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。 パリ大学は特に神学の研究で著名であった。 右岸に中央市場 「 レ・アル (Les Halles) 」 が作られたもこのころである。 こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。  (wikipediaより)

  • サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache の後陣を見上げながら東へ。

    サン・トゥシュタッシュ教会 Eglise Saint Eustache の後陣を見上げながら東へ。

  • テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。<br /><br />モンマルトル通りからテュルビゴ通りに曲がりました。<br /><br />(手前右手に入ると、モネの絵に描かれた モントルグイユ街 Rue Montorgueil)<br /><br />モネが描いたモントルグイユ街はこちら。<br />Claude Monet <br />La rue Montorgueil, à Paris. Fête du 30 juin 1878<br />Musee d&#39;Orsay<br />http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Monet-montorgueil.JPG

    テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。

    モンマルトル通りからテュルビゴ通りに曲がりました。

    (手前右手に入ると、モネの絵に描かれた モントルグイユ街 Rue Montorgueil)

    モネが描いたモントルグイユ街はこちら。
    Claude Monet
    La rue Montorgueil, à Paris. Fête du 30 juin 1878
    Musee d'Orsay
    http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Monet-montorgueil.JPG

  • テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。<br /><br />(赤い庇のJET-LAGの通りが、モントルグイユ街 Rue Montorgueil)<br />(教会に沿う通り、右奥の通りがモンマルトル通り Rue Montmartre)

    テュルビゴ通り Rue de Turbigo から見たサン・トゥシュタッシュ教会。

    (赤い庇のJET-LAGの通りが、モントルグイユ街 Rue Montorgueil)
    (教会に沿う通り、右奥の通りがモンマルトル通り Rue Montmartre)

  • ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur<br /><br />20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris  エチエンヌ・マルセル通り20番地。<br /><br />テュルビゴ通りからエチエンヌ・マルセル通りに入りました。<br /><br />エチエンヌ・マルセル通り20番地に残るのが、上部に石落としのついた方形の塔、ジャン・サン・プール(ジャン無畏王)の塔。<br /><br />オルレアン公暗殺のあとブルゴーニュ公ジャン無畏王が1408年にたてたものだが、もとはブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne 、すなわちアルトワ館の一部でフィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)と背中合わせになっていた。<br /><br />地図上で、赤い●印を付けたところが、ジャン・サン・プールの塔がある(おおよその)位置です。

    ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur

    20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris  エチエンヌ・マルセル通り20番地。

    テュルビゴ通りからエチエンヌ・マルセル通りに入りました。

    エチエンヌ・マルセル通り20番地に残るのが、上部に石落としのついた方形の塔、ジャン・サン・プール(ジャン無畏王)の塔。

    オルレアン公暗殺のあとブルゴーニュ公ジャン無畏王が1408年にたてたものだが、もとはブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne 、すなわちアルトワ館の一部でフィリップ・オーギュストの城壁(Enceinte de Philippe Auguste)と背中合わせになっていた。

    地図上で、赤い●印を付けたところが、ジャン・サン・プールの塔がある(おおよその)位置です。

    ジャン サン プールの塔 観光名所

    このあたりにフィリップ・オーギュストの城壁がありました! La Tour Jean Sans Peur (2区) by wiz さん
  • ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur<br /><br />20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris<br /><br />Tour Jean sans Peur<br />http://www.tourjeansanspeur.com/<br /><br />先程まで1区(75001)を歩いていましたが、ここで2区(75002)に入りました。

    ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur

    20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris

    Tour Jean sans Peur
    http://www.tourjeansanspeur.com/

    先程まで1区(75001)を歩いていましたが、ここで2区(75002)に入りました。

  • ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur<br /><br />20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris<br /><br />中に入りたいのですが、今回は先へ急ぎます。

    ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur

    20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris

    中に入りたいのですが、今回は先へ急ぎます。

  • ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur<br /><br />20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris<br /><br />TOUR DITE DE JEAN SANS PEUR <br />ANCIEN HÔTEL D&#39;ARTOIS <br />ÉLEVÉE SUR LA MURAILLE <br />DE PHILIPPE AUGUSTE<br /><br />ジャン・サン・プールの塔、旧アルトワ館、<br />フィリップ・オーギュストの城壁に沿って建てられた<br /><br />ちなみに、中に入ると、次のような城壁跡が見られるようです。 ( http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tour_Jean-sans-Peur.base_de_l%27enceinte_de_Philippe-Auguste_vers_1200.jpg?uselang=fr )

    ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur

    20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris

    TOUR DITE DE JEAN SANS PEUR 
    ANCIEN HÔTEL D'ARTOIS 
    ÉLEVÉE SUR LA MURAILLE 
    DE PHILIPPE AUGUSTE

    ジャン・サン・プールの塔、旧アルトワ館、
    フィリップ・オーギュストの城壁に沿って建てられた

    ちなみに、中に入ると、次のような城壁跡が見られるようです。 ( http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tour_Jean-sans-Peur.base_de_l%27enceinte_de_Philippe-Auguste_vers_1200.jpg?uselang=fr

  • ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur<br /><br />20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris<br /><br />パリ市のモニュメントに建つ記念版。<br /><br />”ブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne ”<br /><br />ブルゴーニュ館は、ブルゴーニュ公のパリにおける居館のひとつでした。<br /><br />時は、百年戦争時。 ブルゴーニュ派とアルマニャック派がフランスを二分し壮絶な戦いをくりひろげていました。 ブルゴーニュ公ジャン無畏王(ジャン・サン・プール Jean sans Peur)はモーコンセイユ通り Rue Mauconseil (現在ジャン・サン・プールの塔のある1本南の通り)の居館の周囲に濠をめぐらし、戦闘に耐えられるように城塞化。 オテル・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ館)はフィリップ・オーギュストが構築した堅牢な城壁を利用して建てられていました。 ブルゴーニュ公は館の防御をかためるため、古い城壁を修復し、高さ27mもの堅固な塔を構築。 難攻不落の要塞と化し、王の居城でもあるルーヴル宮とオテル・サン・ポール(マレ地区/セレスタン河岸)ににらみをきかせていました。 この要塞にこもってさえいれば、狂気に襲われた王(シャルル6世)が兵をむけてこようとも、あるいは民衆が暴徒と化そうともおそれなくてよい、そうブルゴーニュ公は考えていたそうです。<br /><br />16世紀、ブルゴーニュ館は改築に改築をかさね、聖史劇および受難劇を上演する劇場として使われるようになり、1634年、ルイ13世の治下、王立劇団がこの劇場を本拠地とした。 ピエール・コルネイユの主要な作品、ジャン・ラシーヌのほとんどすべての作品は、この劇場で上演された。 ブルゴーニュ館は、1783年に新オペラ・コミック座が建設されるまで劇場としてつかわれ、その後、この建物は皮革製造の作業場となったが、1853年、エチエンヌ・マルセル通りを敷設するために取り壊された。

    ◆ジャン・サン・プールの塔 Tour de Jean sans Peur

    20 Rue Etienne Marcel, 75002 Paris

    パリ市のモニュメントに建つ記念版。

    ”ブルゴーニュ館 Hotel de Bourgogne ”

    ブルゴーニュ館は、ブルゴーニュ公のパリにおける居館のひとつでした。

    時は、百年戦争時。 ブルゴーニュ派とアルマニャック派がフランスを二分し壮絶な戦いをくりひろげていました。 ブルゴーニュ公ジャン無畏王(ジャン・サン・プール Jean sans Peur)はモーコンセイユ通り Rue Mauconseil (現在ジャン・サン・プールの塔のある1本南の通り)の居館の周囲に濠をめぐらし、戦闘に耐えられるように城塞化。 オテル・ド・ブルゴーニュ(ブルゴーニュ館)はフィリップ・オーギュストが構築した堅牢な城壁を利用して建てられていました。 ブルゴーニュ公は館の防御をかためるため、古い城壁を修復し、高さ27mもの堅固な塔を構築。 難攻不落の要塞と化し、王の居城でもあるルーヴル宮とオテル・サン・ポール(マレ地区/セレスタン河岸)ににらみをきかせていました。 この要塞にこもってさえいれば、狂気に襲われた王(シャルル6世)が兵をむけてこようとも、あるいは民衆が暴徒と化そうともおそれなくてよい、そうブルゴーニュ公は考えていたそうです。

    16世紀、ブルゴーニュ館は改築に改築をかさね、聖史劇および受難劇を上演する劇場として使われるようになり、1634年、ルイ13世の治下、王立劇団がこの劇場を本拠地とした。 ピエール・コルネイユの主要な作品、ジャン・ラシーヌのほとんどすべての作品は、この劇場で上演された。 ブルゴーニュ館は、1783年に新オペラ・コミック座が建設されるまで劇場としてつかわれ、その後、この建物は皮革製造の作業場となったが、1853年、エチエンヌ・マルセル通りを敷設するために取り壊された。

  • テュルビゴ通り Rue Turbigo と サン・ドニ通り Rue Saint Denis の角。<br /><br />次に目指すのは、サン・ドニ通り135番地です。<br /><br />中央右に、黒い庇の MATSUSUSHI(松寿司) と見える通りがサン・ドニ通りで、ここを右(南)に曲がるとすぐに、

    テュルビゴ通り Rue Turbigo と サン・ドニ通り Rue Saint Denis の角。

    次に目指すのは、サン・ドニ通り135番地です。

    中央右に、黒い庇の MATSUSUSHI(松寿司) と見える通りがサン・ドニ通りで、ここを右(南)に曲がるとすぐに、

  • サン・ドニ通り Rue Saint-Denis<br /><br />こちらにも、パリ市記念版。<br /><br />”サン・ドニ通り Rue Saint-Denis” は、パリで最も古い通りの一つで、いまでもうす汚い感じの通りだ。 ローマ時代につくられた道路だから真っ直ぐで、パリの中央市場レ・アル Les Halles (現在はオルリー空港近くのランジス Rungis に移転)に通じている。<br /><br />中世のパリでは国王がパリに出入りする場合んは必ずこの道を通るし、また北のサン・ドニ(Saint-Denis)の墓への巡礼のルートに当たり、いわば ”都大路” といったところだった。 当時は巡礼ルートというところから沿道には礼拝堂など宗教的建物が多く、無縁墓地も近くにあるといったぐあいで宗教色が支配的だった。<br /><br />ところが、現在のサン・ドニ通りは、”朝から夜の女が立つ”という有様だから、夜の盛況は推して知るべしである。 サン・ドニのこうした ”変身” は1800年代の後半に中央市場が開設されて以来のことで、朝から女性が商売をするのは ”市場で働くお得意さん” のためだそうだ。<br /><br />(参考:セーヌのほとり/倉田保雄著)<br /><br />参考まで、モネが描いたサン・ドニ通りはこちら。<br />先程紹介した、モントルグイユ街に似た構図です。<br />CLAUDE MONET (1840-1926)<br />Rue Saint-Denis, fête du 30 juin 1878<br />Rouen, musée des Beaux-arts<br />http://mbarouen.fr/fr/oeuvres/rue-saint-denis-fete-du-30-juin-1878

    サン・ドニ通り Rue Saint-Denis

    こちらにも、パリ市記念版。

    ”サン・ドニ通り Rue Saint-Denis” は、パリで最も古い通りの一つで、いまでもうす汚い感じの通りだ。 ローマ時代につくられた道路だから真っ直ぐで、パリの中央市場レ・アル Les Halles (現在はオルリー空港近くのランジス Rungis に移転)に通じている。

    中世のパリでは国王がパリに出入りする場合んは必ずこの道を通るし、また北のサン・ドニ(Saint-Denis)の墓への巡礼のルートに当たり、いわば ”都大路” といったところだった。 当時は巡礼ルートというところから沿道には礼拝堂など宗教的建物が多く、無縁墓地も近くにあるといったぐあいで宗教色が支配的だった。

    ところが、現在のサン・ドニ通りは、”朝から夜の女が立つ”という有様だから、夜の盛況は推して知るべしである。 サン・ドニのこうした ”変身” は1800年代の後半に中央市場が開設されて以来のことで、朝から女性が商売をするのは ”市場で働くお得意さん” のためだそうだ。

    (参考:セーヌのほとり/倉田保雄著)

    参考まで、モネが描いたサン・ドニ通りはこちら。
    先程紹介した、モントルグイユ街に似た構図です。
    CLAUDE MONET (1840-1926)
    Rue Saint-Denis, fête du 30 juin 1878
    Rouen, musée des Beaux-arts
    http://mbarouen.fr/fr/oeuvres/rue-saint-denis-fete-du-30-juin-1878

  • ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈<br /><br />la porte Saint-Denis ou porte aux Peintres <br />(au croisement de la rue Saint-Denis et de l&#39;impasse des Peintres)<br /><br />135 Rue Saint-Denis, 75002 Paris<br /><br />サン・ドニ通り135番地に到着しました。<br /><br />上を見上げてよく見てみてください!<br />ここにサン・ドニ門があったことを示すプレートがあります!

    ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈

    la porte Saint-Denis ou porte aux Peintres
    (au croisement de la rue Saint-Denis et de l'impasse des Peintres)

    135 Rue Saint-Denis, 75002 Paris

    サン・ドニ通り135番地に到着しました。

    上を見上げてよく見てみてください!
    ここにサン・ドニ門があったことを示すプレートがあります!

  • ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈<br /><br />135 Rue Saint-Denis, 75002 Paris  サン・ドニ通り135番地。<br /><br />サン・ドニ門があったことを示すプレート。<br /><br />地図を見ると分かりますが、ここは三角形のような形の区画になっていて、この看板をみつけるのに一寸戸惑った場所。 この看板があるのは135番地とは調べていたのですが、「135」という番地プレートがみつからなかったのです。

    ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈

    135 Rue Saint-Denis, 75002 Paris  サン・ドニ通り135番地。

    サン・ドニ門があったことを示すプレート。

    地図を見ると分かりますが、ここは三角形のような形の区画になっていて、この看板をみつけるのに一寸戸惑った場所。 この看板があるのは135番地とは調べていたのですが、「135」という番地プレートがみつからなかったのです。

  • ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈<br /><br />135 Rue Saint-Denis, 75002 Paris<br /><br />サン・ドニ通りの135番地と110-112番地の間にサン・ドニ門があったことが示されています。 地図があると位置関係がとても分かりやすいです。<br /><br />サン・ドニ門はパーントル門とも呼ばれていたそうです。 (パーントルは画家の意、すぐ近くに Impasse des Peintres という道がある。)<br /><br />シャルル5世時代のサン・ドニ門より南に位置します。

    ◆旧サン・ドニ門 Porte Saint-Denis 界隈

    135 Rue Saint-Denis, 75002 Paris

    サン・ドニ通りの135番地と110-112番地の間にサン・ドニ門があったことが示されています。 地図があると位置関係がとても分かりやすいです。

    サン・ドニ門はパーントル門とも呼ばれていたそうです。 (パーントルは画家の意、すぐ近くに Impasse des Peintres という道がある。)

    シャルル5世時代のサン・ドニ門より南に位置します。

  • パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf<br /><br />145 Rue Saint-Denis, 75002 Paris  サン・ドニ通り145番地。<br /><br />サン・ドニ通りを少し北に行くとパッサージュがあるので寄り道。

    パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf

    145 Rue Saint-Denis, 75002 Paris  サン・ドニ通り145番地。

    サン・ドニ通りを少し北に行くとパッサージュがあるので寄り道。

  • パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf<br /><br />145 Rue Saint-Denis<br /><br />1825年にグラン=セール(大鹿)小路 Passage du Grand Cerf が開通した。 これは同名の宿屋があった場所で、大革命までは郵便馬車の発着所だった。<br /><br />1960年のルイ・マル監督の映画『地下鉄のザジ Zazie dans le metro』で使われたというパッサージュです。

    パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf

    145 Rue Saint-Denis

    1825年にグラン=セール(大鹿)小路 Passage du Grand Cerf が開通した。 これは同名の宿屋があった場所で、大革命までは郵便馬車の発着所だった。

    1960年のルイ・マル監督の映画『地下鉄のザジ Zazie dans le metro』で使われたというパッサージュです。

    パサージュ デュ グラン セール 散歩・街歩き

    映画 『地下鉄のザジ』 のロケ地、大革命までは郵便馬車の発着所だった Passage du Grand Cerf (2区) by wiz さん
  • パッサージュ・グラン・ラベ(Passage du Bourg l&#39;Abbe)<br /><br />サン・ドニ通りをはさんで、左(西)に、<br />パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf<br /><br />サン・ドニ通りをはさんで、右(東)に、<br />パッサージュ・グラン・ラベ Passage du Bourg l&#39;Abbe  がある。<br /><br />パッサージュ・グラン・ラベのサン・ドニ通り側の入口は工事中で、ほとんど人がいなかったです。<br />

    パッサージュ・グラン・ラベ(Passage du Bourg l'Abbe)

    サン・ドニ通りをはさんで、左(西)に、
    パッサージュ・デュ・グラン・セール Passage du Grand Cerf

    サン・ドニ通りをはさんで、右(東)に、
    パッサージュ・グラン・ラベ Passage du Bourg l'Abbe  がある。

    パッサージュ・グラン・ラベのサン・ドニ通り側の入口は工事中で、ほとんど人がいなかったです。

  • オー・ウールス通り Rue aux Ours<br /><br />ウールスとは、動物の、熊、<br />の他にスラングで、生理、の意味があるとか。<br /><br />近くに、かつてのパリの有名な娼婦街、サン・ドニ通り Rue Saint-Denis がある。

    オー・ウールス通り Rue aux Ours

    ウールスとは、動物の、熊、
    の他にスラングで、生理、の意味があるとか。

    近くに、かつてのパリの有名な娼婦街、サン・ドニ通り Rue Saint-Denis がある。

  • オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点 に到着。<br /><br />この写真は、サン・マルタン通りの南側を撮影。<br /><br />まっすぐ南下すると、ポンピドーセンターです。<br /><br />下の写真は、逆向きに撮影しました。

    オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点 に到着。

    この写真は、サン・マルタン通りの南側を撮影。

    まっすぐ南下すると、ポンピドーセンターです。

    下の写真は、逆向きに撮影しました。

  • ◆旧サン・マルタン門 Porte Saint-Martin 界隈<br /><br />la porte Saint-Martin<br /> (au croisement de la rue Saint-Martin avec la rue du Grenier-Saint-Lazare)<br /><br />オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点。<br /><br />この写真は、サン・マルタン通りの北側を撮影。<br /><br />ちなみに、サン・マルタンというのは、現在一般的にトゥールのマルティヌスと呼ばれる聖人のこと。 316年ごろ、ローマ帝国領パンノニア州(現ハンガリー)サバリア生まれ。 ローマ帝国軍の将校であった父の転任で、子供の頃パヴィーアへ移住し、のちにローマ軍に入隊。 所属する連隊が、しばらくしてガリアのアミアンに派遣された時、「マントの伝説」が起こる。 ある非常に寒い日、アミアンの城門で、マルティヌスは半裸で震えている物乞いを見た。 彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを2つに引き裂いて、半分を物乞いに与えた。 この物乞いはイエス・キリストであったといわれ、これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。 ・・ トゥールの司教となったサン・マルタン(マルティヌス)は町の北からパリに入った。 信者たちは、この司教のマントに触れようと先を争った。 サン・マルタンの目は群衆ではなく、北の城門のそばで城壁に背をもたせかけている癩病人にむけられていた。 司教は癩病人のほうに身をかがめ、頬に接吻したあと、男の頭に両手をおいて祝福をあたえた。 翌日、病人は歩いて教会に入っていった。・・<br /><br />サン・マルタンが癩病人を癒したところ、パリ北部のローマ時代の道、それが現在の サン・マルタン通り 、なのだそうです。<br /><br />ここは、サン・マルタン通りの西(写真左側)がオー・ウールス通り、東(写真右側)がグルニエ・サン・ラザール通り、となる地点で、1本の道なのに、右と左で名前が変わるややこしい地点なのですが、グルニエ・サン・ラザール通りとサン・マルタン通りの交わるあたりにサン・マルタン門があったみたいなので、おそらくこのあたりに ”サン・マルタン門” があった、と思われます。<br /><br />後の、シャルル5世の城壁時代(ブールヴァールという道路に城壁跡ルートの名残)のサン・マルタン門より、やや南側に位置します。<br /><br />写真右手にホテル・ジョルジェットという名のホテルがあるので、目印に。

    ◆旧サン・マルタン門 Porte Saint-Martin 界隈

    la porte Saint-Martin
    (au croisement de la rue Saint-Martin avec la rue du Grenier-Saint-Lazare)

    オー・ウールス通り Rue aux ours と、 グルニエ・サン・ラザール通り Rue du Grenier Saint-Lazare と、サン・マルタン通り Rue Saint-Martin の交差点。

    この写真は、サン・マルタン通りの北側を撮影。

    ちなみに、サン・マルタンというのは、現在一般的にトゥールのマルティヌスと呼ばれる聖人のこと。 316年ごろ、ローマ帝国領パンノニア州(現ハンガリー)サバリア生まれ。 ローマ帝国軍の将校であった父の転任で、子供の頃パヴィーアへ移住し、のちにローマ軍に入隊。 所属する連隊が、しばらくしてガリアのアミアンに派遣された時、「マントの伝説」が起こる。 ある非常に寒い日、アミアンの城門で、マルティヌスは半裸で震えている物乞いを見た。 彼を気の毒に思ったマルティヌスは、マントを2つに引き裂いて、半分を物乞いに与えた。 この物乞いはイエス・キリストであったといわれ、これが受洗のきっかけとなり、その後軍を除隊した。 ・・ トゥールの司教となったサン・マルタン(マルティヌス)は町の北からパリに入った。 信者たちは、この司教のマントに触れようと先を争った。 サン・マルタンの目は群衆ではなく、北の城門のそばで城壁に背をもたせかけている癩病人にむけられていた。 司教は癩病人のほうに身をかがめ、頬に接吻したあと、男の頭に両手をおいて祝福をあたえた。 翌日、病人は歩いて教会に入っていった。・・

    サン・マルタンが癩病人を癒したところ、パリ北部のローマ時代の道、それが現在の サン・マルタン通り 、なのだそうです。

    ここは、サン・マルタン通りの西(写真左側)がオー・ウールス通り、東(写真右側)がグルニエ・サン・ラザール通り、となる地点で、1本の道なのに、右と左で名前が変わるややこしい地点なのですが、グルニエ・サン・ラザール通りとサン・マルタン通りの交わるあたりにサン・マルタン門があったみたいなので、おそらくこのあたりに ”サン・マルタン門” があった、と思われます。

    後の、シャルル5世の城壁時代(ブールヴァールという道路に城壁跡ルートの名残)のサン・マルタン門より、やや南側に位置します。

    写真右手にホテル・ジョルジェットという名のホテルがあるので、目印に。

    ホテル ジョーゼット ホテル

  • Rue de Montmorency モンモレンシー通り<br /><br />グルニエ・サン・ラザール通りのすぐ北に並行する通り、モンモレンシー通りに入ります。<br /><br />このあたりが今日歩くルートの中で一番北側に位置する通りです。

    Rue de Montmorency モンモレンシー通り

    グルニエ・サン・ラザール通りのすぐ北に並行する通り、モンモレンシー通りに入ります。

    このあたりが今日歩くルートの中で一番北側に位置する通りです。

  • ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel<br /><br />51 Rue de Montmorency, 75003 Paris<br /><br />2区(75002)から、3区(75003)に入りました。<br /><br />3区、モンモレンシー通り51番地。 ここは、正確に言うと、上記サン・マルタン門のすぐ外に位置する(中世/15世紀初頭につくられた)民家だったらしい。

    ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel

    51 Rue de Montmorency, 75003 Paris

    2区(75002)から、3区(75003)に入りました。

    3区、モンモレンシー通り51番地。 ここは、正確に言うと、上記サン・マルタン門のすぐ外に位置する(中世/15世紀初頭につくられた)民家だったらしい。

  • ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel<br /><br />51 Rue de Montmorency, 75003 Paris<br /><br />この家は、昔から、パリで二番目に古いとされていた。<br /><br />建築物というのは、過去のオリジナルなデザインが踏襲されたレプリカが同じ場所に建てられることが少なくない。 パリの場合も同じ問題があった。<br /><br />パリ3区ヴォルタ通り Rue Volta 3番地の「パリで一番古い」といわれた建物が、13世紀の遺物ではなく、1644年にパリ市民が中世の様式を真似て建て替えたという事実が当時の事実から判明したのだ(1979年)。<br /><br />その結果、にわかに注目を集めることとなったのが、パリで二番目に古いとされる同じ3区の「ニコラ・フラメルの家」だった。<br /><br />(以下、ニコラ・フラメルの家に関して、参考:パリの秘密/鹿島茂著)

    ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel

    51 Rue de Montmorency, 75003 Paris

    この家は、昔から、パリで二番目に古いとされていた。

    建築物というのは、過去のオリジナルなデザインが踏襲されたレプリカが同じ場所に建てられることが少なくない。 パリの場合も同じ問題があった。

    パリ3区ヴォルタ通り Rue Volta 3番地の「パリで一番古い」といわれた建物が、13世紀の遺物ではなく、1644年にパリ市民が中世の様式を真似て建て替えたという事実が当時の事実から判明したのだ(1979年)。

    その結果、にわかに注目を集めることとなったのが、パリで二番目に古いとされる同じ3区の「ニコラ・フラメルの家」だった。

    (以下、ニコラ・フラメルの家に関して、参考:パリの秘密/鹿島茂著)

  • ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel<br /><br />51 Rue de Montmorency, 75003 Paris<br /><br />ニコラ・フラメル(1330-1418)というのは、一介のパリ大学書記であったにもかかわらず、施療院や教会の莫大な額の寄付を行ったことから、錬金術師だったのではないかと噂された人物で、隠秘学の匿名の著作はしばしば彼の作とされる。<br /><br />このニコラ・フラメルが晩年に住んでいたのがモンモランシー通り51番地の家。 その跡を訪ねると、番地の上に 「 ニコラ・フラメルとその妻ペルネルの家 彼らの慈善事業の思い出を保存するため、パリ市は1407年に刻まれた最初の碑銘を1900年に修復した 」 というプレートが嵌められている。

    ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel

    51 Rue de Montmorency, 75003 Paris

    ニコラ・フラメル(1330-1418)というのは、一介のパリ大学書記であったにもかかわらず、施療院や教会の莫大な額の寄付を行ったことから、錬金術師だったのではないかと噂された人物で、隠秘学の匿名の著作はしばしば彼の作とされる。

    このニコラ・フラメルが晩年に住んでいたのがモンモランシー通り51番地の家。 その跡を訪ねると、番地の上に 「 ニコラ・フラメルとその妻ペルネルの家 彼らの慈善事業の思い出を保存するため、パリ市は1407年に刻まれた最初の碑銘を1900年に修復した 」 というプレートが嵌められている。

  • ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel<br /><br />51 Rue de Montmorency, 75003 Paris<br /><br />たしかに、一階入口の框(かまち)には 「 勤倹なるわれわれ夫妻は、1407年に建てられたこの家の玄関に住み、神に罪の許しを乞いながら、日々、主のアヴェ・マリアを唱えて過ごした。 アーメン 」 という言葉が中世フランス語で刻まれている。<br /><br />しかし、見るべきは、ファサードの門柱に刻まれた、いかにも中世の錬金術師らし薄浮き彫り。 ヘルメス学やオカルティズムの神秘をあらわうようなニコラ・フラメルの頭文字、それに天使の像や謎の文様が、われわれを一気に中世に運ぶ。 この薄浮き彫りは、1929年に積年の汚れを落とされ、蘇ったということだが、それからすでに76年を経ているためか、再び真っ黒に汚れて、中世の雰囲気を効果的に演出している。

    ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel

    51 Rue de Montmorency, 75003 Paris

    たしかに、一階入口の框(かまち)には 「 勤倹なるわれわれ夫妻は、1407年に建てられたこの家の玄関に住み、神に罪の許しを乞いながら、日々、主のアヴェ・マリアを唱えて過ごした。 アーメン 」 という言葉が中世フランス語で刻まれている。

    しかし、見るべきは、ファサードの門柱に刻まれた、いかにも中世の錬金術師らし薄浮き彫り。 ヘルメス学やオカルティズムの神秘をあらわうようなニコラ・フラメルの頭文字、それに天使の像や謎の文様が、われわれを一気に中世に運ぶ。 この薄浮き彫りは、1929年に積年の汚れを落とされ、蘇ったということだが、それからすでに76年を経ているためか、再び真っ黒に汚れて、中世の雰囲気を効果的に演出している。

  • ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel<br /><br />51 Rue de Montmorency, 75003 Paris<br /><br />建物自体も修復されたらしく、数カ所に鉄骨で補強がなされているが、いまでも、民家として使われ、ちゃんと人が住んでいるのは立派。 一階には「オーベルジュ・ニコラ・フラメル」というレストランが入居し、窓からのぞくと、錬金術風の命名がなされたメニューが見える。 ・・

    ◆錬金術師ニコラ・フラメルの家 Maison de Nicolas Flamel

    51 Rue de Montmorency, 75003 Paris

    建物自体も修復されたらしく、数カ所に鉄骨で補強がなされているが、いまでも、民家として使われ、ちゃんと人が住んでいるのは立派。 一階には「オーベルジュ・ニコラ・フラメル」というレストランが入居し、窓からのぞくと、錬金術風の命名がなされたメニューが見える。 ・・

    オーベルジュ ニコラ フラメル 地元の料理

    パリ最古の家 錬金術師ニコラ・フラメルの家! (3区) by wiz さん
  • 『右岸編1』で歩いた”城壁跡”を地図で見るとこんな感じになります!<br /><br />A コワンの塔(フランソワ・ミッテラン河岸)<br />B サントノーレ門(オラトワール教会前)<br />C ルーヴル通り13番地<br />D モンマルトル門(モンマルトル通り30番地)<br />E サン・ドニ門(サン・ドニ通り135番地)<br />F サン・マルタン門(サン・マルタン通り/グルニエ・サン・ラザール通り)<br /><br />-------------------------------------------------<br /><br />写真が多くなりますので、この後の右岸散歩は、<br />『 パリのお散歩 フィリップ・オーギュストの城壁跡1周散歩 (右岸編2) 』<br />http://4travel.jp/travelogue/10942606 につづきます。<br />次は、マレ地区(4区)の方へ歩いていきます!<br /><br />『 右岸編1 』 は、主に1?3区の商業エリアの散歩だったので、<br />インパクトはいまいちだったかもしれませんが、<br />私の今回のパリ滞在でのテーマ<br />【 なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、<br />  中世当時のパリの城壁内の大きさというものを体感したい! 】<br />を達成するためには、ここも必要不可欠の部分だったので、記録しました。<br /><br />* フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps<br />https://goo.gl/1Rce1Y<br /><br />------------------------------------------------- 

    『右岸編1』で歩いた”城壁跡”を地図で見るとこんな感じになります!

    A コワンの塔(フランソワ・ミッテラン河岸)
    B サントノーレ門(オラトワール教会前)
    C ルーヴル通り13番地
    D モンマルトル門(モンマルトル通り30番地)
    E サン・ドニ門(サン・ドニ通り135番地)
    F サン・マルタン門(サン・マルタン通り/グルニエ・サン・ラザール通り)

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    写真が多くなりますので、この後の右岸散歩は、
    『 パリのお散歩 フィリップ・オーギュストの城壁跡1周散歩 (右岸編2) 』
    http://4travel.jp/travelogue/10942606 につづきます。
    次は、マレ地区(4区)の方へ歩いていきます!

    『 右岸編1 』 は、主に1?3区の商業エリアの散歩だったので、
    インパクトはいまいちだったかもしれませんが、
    私の今回のパリ滞在でのテーマ
    【 なるべく城壁跡に沿うようにぐるりと1周歩き、
      中世当時のパリの城壁内の大きさというものを体感したい! 】
    を達成するためには、ここも必要不可欠の部分だったので、記録しました。

    * フィリップ・オーギュスト城壁跡散歩のあしあと @Google Maps
    https://goo.gl/1Rce1Y

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