2023/03/30 - 2023/03/30
75位(同エリア996件中)
中国の風景さん
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「週刊 ビジュアル 三国志」に掲載された三国志遺跡を巡りました。中国全土に広がる遺跡はテーマパーク化されて観光地になった遺跡もあれば、廃墟となり畑になってしまった遺跡もあります。前者は有名であり直ぐに見つかりますが、後者は地元の人ですら知ってる人がなく廃墟跡に辿り着くのは困難を極めます。中国の人々はまだ観光に行く余裕が無く、三国志遺跡に興味がありません。遺跡巡りなど日本人ぐらいの者です。更に地方へ行くと普通語が通じない、漢字が読めないなどがあり遺跡探しは苦労します。最近はグーグルアースで地図を手に入れ。ネットで過去に行った事のある方から情報を集めてから現地へ行くようにしています。
上海ブルース: 二木紘三のうた物語・リンクフリー
https://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/09/post_f24b.html
夜霧のブルース: 二木紘三のうた物語・リンクフリー
https://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_a2ff.html
上海帰りのリル: 二木紘三のうた物語・リンクフリー
https://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/03/post_05dc.html
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 2.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
黄浦江を挟んで対立する吉野家曹操とすき家孫権・まつ家劉備連合軍の赤壁の戦いが始まった。浦東にある金橋国際商業広場で吉野家曹操とすき家孫権が激突した。呉のすき家孫権は軍師・島耕作周愉の発明した新兵器菜単(メニュウ)を使い、夜も休まず攻撃し吉野家曹操を浦東の地から撃退した。
http://4travel.jp/travelogue/10643496
「上海の牛丼三国志」をクリックしてご覧下さい。 -
「週刊 ビジュアル 三国志」に掲載された三国志遺跡を巡りました。中国全土に広がる遺跡はテーマパーク化されて観光地になった遺跡もあれば、廃墟となり畑になってしまった遺跡もあります。前者は有名であり直ぐに見つかりますが、後者は地元の人ですら知ってる人がなく廃墟跡に辿り着くのは困難を極めます。中国の人々はまだ観光に行く余裕が無く、三国志遺跡に興味がありません。遺跡巡りなど日本人ぐらいの者です。更に地方へ行くと普通語が通じない、漢字が読めないなどがあり遺跡探しは苦労します。最近はグーグルアースで地図を手に入れ。ネットで過去に行った事のある方から情報を集めてから現地へ行くようにしています。
http://4travel.jp/travelogue/10538135
「三国志遺跡」をクリックしてご覧下さい。 -
三国志ほど多くの作家が執筆している書籍は他にないでしょう。歌手の「さだまさし」が書いた三国志もあります。史実を基に各作家がオリジナルの虚実を書き加えています。中には史実に無い程変えてしまう物もあります。例えば劉備の蜀が中国全土を統一すると言う大胆な物もあります。また自衛隊の幹部がタイムスリップして諸葛孔明と対抗すると言うのもあります。結果が解っている幹部の方が有利です。もちろん史実を忠実に書いた正史三国志もありますが何故か面白くありません。しかし史実(三国志)を理解した上で民間伝承(三国演義)を読むのも良いでしょう。
http://4travel.jp/travelogue/10538138
「三国志の書籍」をクリックしてご覧下さい。 -
三国志の旅がしたくて上海へ行っていますが上海には関連する遺跡がありません。三国時代には上海は小さな漁村だったようです。龍華寺だけはこの時代の建立だそうです。近い所では南京は呉の国の都で建業と言われ、石頭城や孫権墓があります。杭州の南の金貨市には諸葛孔明の子孫が暮らす諸葛鎮があります。また無錫には三国城というテーマパークがあります。中国中央電視台(テレビ局)の超大作三国演義を撮影した所です。私のコレクションで三国志の旅をお楽しみください。
http://4travel.jp/travelogue/10538195
「三国志の宝物」をクリックしてご覧下さい。 -
古き良き街並みを再現、歴史映画のテーマパーク。?州市の東北には、中央電視台のロケセンター「中国影視城」がある。ここはドラマ「三国演義」で使われた巨大なセットがある歴史映画のテーマパークだ。城内は、漢城景区と唐城景区に分かれており、漢城景区では、漢時代の歴史ドラマ、史記や「三国志」などの撮影が行われている。なかでも漢城景区の圧巻は、曹操の建てた地上七階建てに相当する高さがある「銅雀台」をイメージしたセットだろう。正面には池が広がり、周囲には眺望を邪魔するものがなく、眺めも素晴らしい。ちなみに、銅雀台の内部には、曹操の執務室も再現されている。他にも、荊州城のセット、魏、呉、蜀のそれぞれの街のセットがあり、1日中いても飽きない作りとなっている。
http://4travel.jp/travelogue/10538139
「三国志の中国影視城」をクリックしてご覧下さい。 -
無錫市の太湖湖畔にあるテーマパーク「三国城」は元々中国中央電視台(国営中央テレビ局)の人気歴史ドラマ「三国志」のオープンセットでした。大部分が実物大ですが一部ミニチュアセット(赤壁の戦い)もあります。隣接の「水滸伝」のオープンセットだった同様のテーマパーク「水滸城」と共通の入場券は大人80元もします。さらに隣りに「唐城」と三つのテーマパーク(別料金)が並んでいます。
特に甲冑をまとった騎馬武者が実戦さながらの戦闘シーンを繰り広げるアトラクションは午前午後2回上演されて人気を博しています。出演者は内蒙古から来ているそうです。ほかにもカンフーショウや、舞踊ショウ等がかく施設で上演されていますが、いずれも満員でした。太湖には軍船を模した遊覧船は乗船券が1人12元もするのに人気でありました。運がよければ撮影中のスター(電影明星)に会えるかもしれません。
HREF="http://4travel.jp/travelogue/10538189
「無錫の三国城」をクリックしてご覧下さい。 -
呉宇森監督は主なキャストについてひとりひとりコメントした。周瑜について、呉宇森監督は、これまでの『三国志物語』が周瑜を過低に評価してくるきらいがないともいえないので、今回はそれと違った周瑜像を提示したいと語っている。ニー・レオンは呉宇森監督の考えに従って、「ユーモラスで感性的な周瑜、やさしくて正義感のある英雄」のイメージを作り上げた。周瑜:梁朝偉(トニー・レオン)諸葛孔明を演じる金城武について、呉宇森監督は、「金城武の賢明さは諸葛孔明とそれほど差はない。何も説明をつけ加えなくてもいい。作品の中の諸葛孔明を見ればすべてが分かる」と高く評価した。諸葛亮孔明: 金城武(かねしろ たけし)
http://4travel.jp/travelogue/10538192
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「出土品でたどる三国志」では、古戦場や史跡からの出土品によって実際の歴史上の魏・呉・蜀による三国鼎立(ていりつ)の時代にせまります。現代に残る遺跡や墓から出土した刀剣や鏃(やじり)などの武器、金印や装身具、副葬品などの貴重な品々は、私たちに三国時代に生きた英傑たちの息づかいを感じさせてくれることでしょう。中国全土の2市9省34カ所に及ぶ博物館・機関から出品される約150点のうち、約3分の1にあたる53点が国家一級文物と呼ばれる日本の国宝に相当する大変貴重な作品です。さらに日本国内の博物館が所蔵する三国志関連作品約60点ほかを加えた総点数220点の作品で、歴史と文学の両面から「三国志」の世界を総合的に紹介する“世界初”の試みとなる本展にご期待下さい。 富士美術館ホームページより
http://4travel.jp/travelogue/10538196
「大三国志展」をクリックしてご覧下さい。 -
蘇州・桃花塢の年画 現在、年画の題材と内容は非常に広範にわたり、おもに次のように分類される。蘇州市は上海から西へ約90キロ、長江デルタ地域に位置し、古く春秋時代から「呉」の国の都として繁栄し、「東洋のヴェネチア」とも称される水郷都市である。明末清初には蘇州木版年画(姑蘇版)の作房と店舗が山糖街と桃花塢(とうかう)に分布し、清の正・乾隆の頃は40〜50軒にものぼった。伝統的な国画と民間巻物などの手法と西洋銅版画技法に深く影響して発展をとげる。桃花塢年画は、徳川時代初期に長崎に入る貿易船で一般文物とともに日本に到来し、貴重品として扱われ、当時の日本の版画界・浮世絵に大きな影響を与えたといわれている。中華人民共和国成立後は、蘇州桃花塢木刻年画社を設立し、市中央の玄妙観近くの宮巷に作房や店舗をもち、蘇州版画院の指導と協力のもとで、今日に継承され
ている。麗澤大学教授 金丸良子研究室より
http://4travel.jp/travelogue/10538197
「三国志の年画」をクリックしてご覧下さい。 -
中国四大名著の一つ三国演義、沢山の人に人気があります。一方中国では切手の収集も多くの人が楽しんでいます。そこで三国演義が切手になりました。浙江省郵票局と富陽市郵政局で発行した。1988年11月25日一組目発行開始、1998年8月26日五組目発行した。5組20枚の切手と3枚の小型張で、富陽市特産の優れた紙を使い古書籍式の表装をした冊子になっています。各シーンのイラストと切手と説明文で構成されています。蜀の国 劉備、魏の国 曹操、呉の国 孫権、三国が争うが勝ったのは魏の都督 司馬壱、で晋の国を興す。 上海市四川北路橋の袂にある上海郵政局で販売してます。切手で綴る三国演義、三分で読めます
http://4travel.jp/travelogue/10538199
「切手三国志」をクリックしてご覧下さい。 -
新野の戦い
当時、先代・劉表の庇護下に於いて、客将として対曹操戦線を新野に守備していた劉備は、劉琮の降伏によって最前線で孤立する事となってしまった。これを好機と見た曹操軍の攻勢を前にして、前腹後背を囲まれた新野は風前の燈であった。怒涛の如き勢いを以って南下する曹操軍は先鋒を猛将・曹仁と曹洪に任せ、新野城主・劉備は逃亡、守兵の雲散した文字通り空城の新野へと意気揚々と入城する。しかし、これが劉備幕下の参謀の諸葛亮の計略であった。事前に一計を案じ、巧妙に空城と偽装された新野城へと誘われた曹操軍は城中で伏兵に遭い混乱、見事に撃退され、鋭を挫かれた曹操軍は一時撤退した。劉備は曹操軍を一時は撤退せしめたものの、続く第二波、第三波に対して新野の守備は不可能であると判断、曹操軍の再来前に新野を放棄すると共に、劉琮領への後退を余儀無くされた。
http://4travel.jp/travelogue/10539952
「三国志の新野、南陽三顧橋」をクリックしてご覧下さい。 -
諸葛孔明が劉備玄徳の『三顧の礼』で出山し、劉備玄徳を補佐始めたのです。それまでずっと野良仕事をしながら勉強していたのです。その隠居地は河南省南陽の臥龍崗か湖北省襄陽の隆中か、現在も論争されています。 論争の原因は西晋時代の歴史学者陳寿はそれをはっきり記述しなかったのです。『三国志・蜀書・諸葛亮伝』に諸葛孔明は叔父さんが亡くなった後野良仕事をしていたとの記述だけ残っています。後の説明がそれぞれ違います:宋代の学者裴松之の解説では、孔明の住んでいたところは南陽の?眷県、つまり襄陽の町より20里(10キロ)離れた隆中というところでした。ところが、『諸葛亮伝』に収録された『出師表』に、孔明は「私はもともと布衣(庶民)で、南陽で野良仕事していました」と書いてあります。これは「襄陽説」と「南陽説」が並存している根本的な原因です。 中国に「百聞は一見にしかず」という諺があります。学者達は歴史、地理的な知識でこの懸案を説明していますが、それと違いまして、この2箇所を尋ねて自分の感覚でどこが隠居生活に相応しいか現地で判別してみましょう。
http://4travel.jp/travelogue/10539956
「三国志の南陽武候祠」をクリックしてご覧下さい。 -
荊州に移り住み、?徳公を兄として仕えた。水鏡の号は?徳公が名付けたものである。なお、諸葛亮を臥龍、?統を鳳雛と呼んだのも?徳公であるという。司馬徽は?統の才能を見出し、徐庶や向朗などを門下生とした。劉備に「臥龍・鳳雛は諸葛亮と?統のことだ」と教えたといわれる。
荊州を支配していた劉表には仕えず、隠士として暮らしていた。『世説新語』の注に引く「司馬徽(別)伝」によると「好々(よしよし)」が口癖で、何を言われても「好々」と答えていた。又、友人が自分の子供の死を伝えに来た時にも「好々」と答えたという。司馬徽の妻がそれを咎めると、笑って「お前のいうことも、また好々」と答えたという。劉表に司馬徽の登用を勧めるものがあったが、こうした態度を見て劉表は「世間の人はいい加減なことをいって(司馬徽を持ち上げて)いるが、ただの書生じゃないか」と断ったという。司馬徽は劉表を凡人と思っていたので、政争に巻き込まれないように政治談義に手を出さず、このような態度を取っていたのだという。
http://4travel.jp/travelogue/10539958
「三国志の南?水鏡荘」をクリックしてご覧下さい。 -
襄樊市内の漢水の南岸にある。南は漢水を跨ぎ、北は京洛に隣接しており、水路と陸路との交通は便利である。春秋時代の楚国の北津戌と東漢の末の荊州は牧劉のための軍事基地である。城壁の歴史は悠久であるが、元末に城壁の大部分は壊れ、明洪武の初め、もとの場所に再建された。城の高さは8.5メートル、周囲は7.3キロメートル、四方には、門が6つと小さな城が建っており、四隅にはやぐらがある。その後何度も壊れたが、その都度修復した。城の輪郭は、今も存在する。最も素晴らしい北の城壁は完全に整備され、清代に再建された臨漢門のやぐらや重なり合った九つの軒先は古い容貌が残っている。楼に登って遠くを眺めると北に臨む漢水の水の流れが、帯に絡みつく青い波のように見える。;南には?山を眺め、尾根や山並みは連綿と続き、城壁の街を一望できる。南西の楚山は屏のようで、峰々は聳え立ち、天然の景勝地に人は引き寄せられる。西北のには城があり“夫人城”と言われ、晋の朱序の母韓夫人のために築いた。
http://4travel.jp/travelogue/10539959
「三国志の襄陽城?」をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10539962
「三国志の襄陽城?」をクリックしてご覧下さい。 -
襄陽城西門から13キロメートルの群山の中に位置して、諸葛亮の旧居を主体とした襄樊市近郊の文化財の景勝地である。総面積12平方キロメートル、観光地区内には隆中山、楽山、大旗山、小旗山及び谷状のくぼ地がある。主峰の隆中山の海抜は306メートル、峰は、旋回し起伏している。勢いもあり、とぐろを巻く龍のようだ。;谷を隔てる大旗山を望み、1頭は頭を高くもたげ、1頭はゆっくりと垂れ下げ、虎が横になるっているようだ;山上の林は竹が青々と生い茂って、雄大で美しい;山のふもとの泉水、池塘、谷間を流れる小川はさらさらと流れる。
http://4travel.jp/travelogue/10539982
「三国志の襄陽古隆中」をクリックしてご覧下さい。 -
玉泉寺
当陽から西へ約15Kmのところに玉泉寺があり、その一角に「漢雲長顕霊処」があります。玉泉寺はかなり立派な寺であり、門構えが立派です。関羽と知り合った老僧普浄がこの寺で座禅を組んでいると、関羽の霊が出てきて、「俺の首を返せ」と叫びました。普浄は「それでは、今まで貴公の手にかかった武将達はどうか」と言い返しました。すると関羽ははっと我に返り、その後は普浄の弟子となり、以後この地に霊験をあらわして住民の加護をしたと言われています。これはもちろん、三国志演義の中での話しでしたが、関羽が死んだ後は、神格化させる為か、関羽の霊がよく出ると言われているそうです。
http://4travel.jp/travelogue/10539984
「三国志の当陽玉泉寺」をクリックしてご覧下さい。 -
当陽市区の西北に3キロメートルの所に位置する。蜀の関羽の墓である。東漢建安24年(219年)関羽と孫呉は交戦して、敗れ、殺された。呉主權将はその討ち取った首を洛陽まで運んで 曹操へ謙譲した。同時に弔いその亡骸をここに埋葬した。この陵は、最初は土墳だけで、南宋淳煕の10年(183年)亭を建て、弔った。元至元年間、墓に通ずる道や墓穴の門を修繕、増築した。明成化3年(1467年)廟を創建して、その後の改築、増築した。陵内には碑坊、赤門、馬殿、拝殿、正殿、啓聖宮、春秋閣、柏子洞、八角亭と左右の碑や廊下など建設した。楼閣は不揃いで、殿堂は物々しく、朱色の垣は周りを囲み、規模は雄壮である。墓は寝殿の後ろに、高さ7メートル、周囲は70メートル余りの石垣に、彫刻の石欄干を加え、墓前に碑亭を置き、とても古風である。ここは、明、清の名人の碑刻、その中に明代の文学者の袁宏道、袁中道の兄弟の作った詩文の石刻がとても立派である。陵園から沮水を望み、四方は広々として、園内古木の柏が空高くそびえ、景色はもの静かで美しい。
http://4travel.jp/travelogue/10539985
「三国志の当陽関陵」をクリックしてご覧下さい。 -
長坂坡公園
当時、魏の曹操は、荊州を攻めるために50万人という大群を従えて南下しました。弱小軍団の劉備は勝ち目のない戦いと知って、家族や一般市民を連れて南へ南へと撤退しました。しかし曹操の猛追は激しく、とうとう劉備陣営の背後に迫ってきました。多くの兵隊や家族は殺され、みなちりぢりになってしまいました。劉備はここで妻子を置き去りにして逃走してしまうのですが、そうしたなか、さっそうと騎馬にまたがって現れたのが趙雲でした。趙雲は勇敢に敵陣のなかに入って、あっというまに劉備の子の「阿斗」を救いだし、そのあとも劉備の妻の甘夫人を守りながら孤軍奮闘し、一人で50人あまりの武将をけちらし敵を震え上がらせたと伝えられています。
http://4travel.jp/travelogue/10539991
「三国志の当陽」をクリックしてご覧下さい。 -
夷陵の戦い
219年、劉備が漢中を攻略し、一方で荊州の守将であった関羽が曹操領の荊州の拠点である樊城を攻撃した。このことを好機と見た孫権は曹操と同盟を結び、呂蒙らを派遣して荊州侵攻作戦を開始し、関羽を捕らえて殺し、荊州を領有することに成功した。三国時代蜀の劉備は臣下の関羽の仇討ちに出陣、この夷陵(宜昌)で呉軍に敗れる。夷陵の戦い(又は?亭之戰)は中国三国時代の222年に行われた、三峡における蜀漢皇帝劉備率いる蜀漢軍と、呉王孫権の武将陸遜率いる呉軍との間の戦いである。戦場となったのは白帝城から夷道までの三峡全域となるが、三国志演義に記された決戦場に因んで「夷陵の戦い」と称される。
http://4travel.jp/travelogue/10539988
「三国志の宜昌?亭古戦場?]をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540030
「三国志の宜昌?亭古戦場2]をクリックしてご覧下さい。 -
上海から長江を1850Kmほど遡ったところに開けた港町。長江一の景勝地三峡の東の出入り口、古名を夷陵と言い、四川と湖北の喉元と言われる要地。以前は此処より上流は小舟に乗り換えていた。三国時代蜀の劉備は臣下の関羽の仇討ちに出陣、この夷陵(宜昌)で呉軍に敗れる。現在は湖北省の物流基地として栄え、造船、機
械、製紙、紡績工場が林立する。年から貯水量、出力とも世界一の三峡ダムの建設が始まり2009年に完成、この影響で三峡の水位が変わり、景観が大きく変わる。三峡下りは重慶から下る方法と、宜昌から白帝城まで上り下ってくる方法がある。宜昌の港は葛州霸ダムの上下にある。
http://4travel.jp/travelogue/10540033
「三国志の宜昌三遊洞」をクリックしてご覧下さい。 -
張飛廟
長江南岸の飛鳳山麓にあり、重慶市街までは302km。雲陽県都とは長江を隔てて相い望んでいるこの廟は三国時代の名将・張飛を祭る廟である。資料によれば、蜀漢末年に築造が始まり、宋・元・明・清の各代にも増築がある。今日まではすでに1700年の歴史がある。長江を望み山を背にしている張飛廟は雄大で美しい。廟内には張飛の彫像のほか、漢・唐代以来の大量の詩文碑刻、掛軸とその他の文物が数百点所蔵されている。ほとんどは世に2つとない珍しいものである。三江ダム工事のため、長江の水位は今より175メートル高い場所に上がるので、張飛廟を雲陽県盤石鎮に移転させている。
http://4travel.jp/travelogue/10540095
「三国志の張飛廟と白帝城?」をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540098
「三国志の張飛廟と白帝城2」をクリックしてご覧下さい。 -
正定の街で趙雲廟以外の趙雲故里を歩いてみる。
http://4travel.jp/travelogue/10540184
「三国志の趙雲故里」をクリックしてご覧下さい。 -
正定汽車駅から1路のバスまたはバイタクに乗り10分。近くには封神演義宮や地元でも有名な隆興寺等があり、ちょっとした観光地である。三国時代蜀の猛将趙雲の故郷。何でも彼の子孫である華僑の人間が金を出して世界に誇る趙雲廟を建てたのだからファンにとってはありがたいものである。「三国志演義」では雑魚武将を一番多く討ち取ったことで有名な蜀将:趙雲の生まれ故郷です 。趙雲を祭る廟があります。趙雲故里は主に廟門、四義殿、五虎殿、君臣殿、正殿の順に並んでいる。
http://4travel.jp/travelogue/10540186
「三国志の趙雲廟」をクリックしてご覧下さい。 -
三国時代以降は、張飛店と呼ばれ、張飛は肉を売って生計を立てていたが、いつもその肉をこの井戸の中に入れて保管していたという。三国演義ではこの井戸を巡る事件によって関羽、張飛、劉備が出会ったとされている。清朝末期、?州の長官だった?国翼が張飛のこの井戸の歴史に感心し、自ら資金を捻出して遺跡を修復したと言われている。その後、村の人は遺跡に高台を築き、井戸枠と碑をそこに上げて保護したのだそうだ。ここら付近の人は張飛を村の英雄として尊敬しているようで、民家の門に貼られている、「福」や「万事如意」のモデルとして張飛が描かれているのも興味深い。また、この遺跡のすぐ近くに張飛をまつる廟「張飛廟」が再建されて井戸と合わせて張飛故里となっている。
http://4travel.jp/travelogue/10540188
「三国志の張飛廟」をクリックしてご覧下さい。 -
三国志桃園の誓 琢州、のどかな農村にたたずむ桃園三兄弟の契りの舞台。「三義宮」は、劉備、関羽、張飛が「桃園の義」を結び、義兄弟となったといわれる場所で隋代からあるそうです。。敷地内には、「結義石」が置かれている。一時、文化大革命で破壊されたが今はすっかり復元されている。内部には金色に装飾された劉備像や、「三国志演義」の名シーンを模した張飛の像などがある。唐代乾寧4年(897)に創建された「昭烈帝廟」。「昭烈帝」は劉備のおくり名のことである。もちろんもともと劉備をまつる為に建築されたもの。三国志の聖地としての復活を遂げた。もともとここには廟が出来た後に、村が出来たので「楼桑廟村」という名だった。文革後には廟がほとんどなくなり、「楼桑村」になった。
http://4travel.jp/travelogue/10540190
「三国志桃園の誓」をクリックしてご覧下さい。 -
荊州といえばこの城壁だろう。関羽時代は土の城壁であったが、明、清代に改修された煉瓦になっている。それでも300年前の城壁が残っているのだから、すごいものだ。城壁はほとんど完全な形で残っており、山西省の平遥かここか、というぐらいだ。荊州城はぐるりと街を囲むように東西に長く楕円形になっている。城の規模は関羽時代と同じであり、城壁は高さ8〜9m、厚さ約10m、周囲は約10km。昔は城壁の上を馬で走ることができたようだ。
http://4travel.jp/travelogue/10540198
「三国志の刑州古城?」をクリックしてご覧下さい。 -
劉備政権の荊州行政長官兼荊州方面軍総司令官として君臨した関羽の行政府。今は関廟になっている。はるかかなたの蜀で張飛や趙雲が活躍していることを知り、さぞもどかしかったに違いない。それに発奮されてか曹仁が守る荊州北部を攻めた。しかし、もともと赤壁の戦いの後、荊州の領土をめぐって呉と明確な取り決めがなく、「益州を取るまで荊州を借りる」という微妙な場所で関羽は君臨していた。よって、呉との外交は重要であったが、孫権の息子と関羽の娘を結婚させる話も無碍に断ったりしたものだから、結局、最期は孫権に殺されることになってしまった。
南門(南紀門)のすぐそばにあり、かなりごちゃごちゃしているところに突然と関廟が現れる感じ。多くの人が往来する中、関廟に朝から通っている人もいた。当陽の関陵といい、荊州の関廟といい、いずれも満足できる像である。ここでの関羽の表記は、関聖帝君である。
http://4travel.jp/travelogue/10540200
「三国志の荊州関帝廟?」をクリックしてご覧下さい。 -
荊州城大北門と西門の間にある。荊州城の東北隅に三国公園がある。池があってその周りを散策する、よくある中国の公園であるが、その入り口に劉備、関羽、張飛像がある。総面積26万平方キロメートルの広大な公園で、敷地内には湖が広がっている。入口には劉備・関羽・張飛の三兄弟像があり、公園内には煮酒亭、諸葛橋、赤壁、銅雀台など、三国志にちなんだスポットが点在している。さらに、「草船借箭酒荘」「桃園山荘」「空城計足浴」など、ステキな名前のレストランやマッサージ屋もある。銅雀台には曹操像、諸葛橋には諸葛亮像、懐古亭には孫権像もある。
広い公園なのに地図がなく何所に何があるか分からない。
http://4travel.jp/travelogue/10540204
「三国志の荊州三国公園」をクリックしてご覧下さい。 -
勉県武侯祠
中国最古の武侯祠。言うまでもなく諸葛亮の為に建てられた。三国志諸葛亮伝によると263年、蜀が滅びる直前に詔勅が出され建立された。魏の征西将軍鐘会が蜀征伐時に武侯祠を訪れている。境内には諸葛亮像を奉った大殿の他に、歴史上の有名人(李白・王安石・陸遊など)が残した石碑や、各地の武侯祠に関する資料の展示がある。
孔明死後、彼を追慕する民衆からの祠堂建立の懇願は後をたたなかったが、後主劉禅は許さなかった。孔明の人気が劉氏の宗廟をしのぐことを劉禅が恐れたからだという。しかし民意を得る為、都以外の地ならばという条件で、孔明が眠る定軍山のふもとと?陽に建立の勅許が下りた。それが景耀六年の春ー勉県武侯祠が中国でもっとも早い、すなわち最古のものだというゆえんで、詔勅をもって建立された唯一の祠堂でもある。
http://4travel.jp/travelogue/10540099
「三国志の漢中勉県武侯祠」をクリックしてご覧下さい。 -
漢中勉県
漢中市内から西へ約四kmほど離れた勉県高潮郷旧州舗にある。219年(建安24)曹操から漢中を奪取した劉備は、ここに壇を築き儀式を行って、漢中王の位に就いた。元は旧州舗街の南にあってが、後に現在の場所に移されたという。現存する石碑は、1903年(清・光緒29)に作られたものである。漢中は漢王室を興した高祖劉邦が漢中王となって力を蓄えた場所であり、劉備は漢王室再興を願い、劉邦の故事にならって漢中王に即位した。これによって天下統一の野望を内外に知らしめたといわれる。北を秦嶺山脈、南を大巴山脈に囲まれた盆地、陝西省漢中市。物産の豊かな土地だったので、曹操も劉備もこの地で覇を争った。現在は武
侯墓をはじめとして「三国志」関連の観光事業に力をいれている。
http://4travel.jp/travelogue/10540100
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武侯墓 陝西省勉県城南定軍山下
234年諸葛亮が陣没した後、死しても魏ににらみをきかせたいという遺言により成都ではなくこの地に葬られた。墓前の碑は明万歴22年(1594年)と清の雍正13年(1735年)に建てられたもの。勉県武侯祠と並んで当地の三国志観光の中心地。墓自体はさして大きくないが、敷地は広く、孔明が人々からいかに敬愛されていたかがうかがえる。三国時代の古戦場。標高は約800m。漢中の領有を巡って魏と蜀が激突した。黄忠が陣を構え夏侯淵を斬った所である。
http://4travel.jp/travelogue/10540101
「三国志の定軍山下武侯墓」をクリックしてご覧下さい。 -
五丈原
陝西省宝鶏付近の渭水南岸に広がる台地。蜀の諸葛亮はここに陣を敷き、魏の司馬懿と持久戦を繰り広げた。戦いの最中、諸葛亮が病によりこの地で没したことは有名。宝鶏市岐山県所在地の南20キロほどの場所に位置して、太白山北側を控えている。「岐山県県誌」によれば、諸葛孔明廟は元代の始に造られて、明代と清代になると、何度も増築されたという。その規模はそれほど大きくなく、現存されている建築は、ほとんど清代のもので、廟門、母屋両側の棟、両側の棟、献殿鐘楼、鼓楼、正殿などがあって、そのうち、八角形の屋根がかかっている「八卦亭」が一番目立っている。ここ訪れると諸葛孔明の姿が覗える。五丈原の戦いとは中国の三国時代の 234年に、蜀と魏が現在の陝西省渭水盆地付近の五丈原に於いて対陣した戦役である。
http://4travel.jp/travelogue/10540102
「三国志の五丈原武侯廟1」をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540103
「三国志の五丈原武侯廟2」をクリックしてご覧下さい。 -
富楽山公園は劉備と劉璋が対面した場所であり三国志の名場面である「?城の会」の舞台となっている。公園内には「?城の会」を再現した壁画や銅像、五虎大将、劉備、諸葛孔明、?統などの銅像があり三国志ファンの為の公園と化している。西山公園には諸葛孔明の後継者の一人である蒋?の墓がある。足早に蒋?墓、蒋?を祀った祠の恭侯祠を見た。姜維、蒋?、諸葛瞻が駐屯していた営盤嘴を探すが、見当たらず。
http://4travel.jp/travelogue/10540104
「三国志の?城の会、蒋?墓」をクリックしてご覧下さい。 -
古代中国が開発した4大水利計画の1つ。すでに2000年以上の歴史がある。 四川省は米作が盛んである。一説によると日本の米もこの四川省から伝播したのではないかとも言われている。秦・漢の時代も同じく米が作られていた。蜀の繁栄もこの米にあると行っても過言でない。そして米作りに必要な治水技術も、きちんとなされていたことは驚きである。川を外江と内江の二つに分離させる遺構。それにしても雄大な川である。都江堰は成都から57キロで、玉壘山のふもとがあります。都江堰は秦の国の蜀郡の官吏---李氷が岷江の水害を治めるため、民衆を率いてこの水利
工事を建てました。これは千年の功績で、後世の子孫の福です。この雄大な工事がもう2250年の歴史をもって、このダムがいまでも役に立っていて、いわゆる、都江堰は人民に幸福をもたらしたのがもう二千年余りも達します。都江堰の建てた条件は人類文明の発達の欠けている時代にできたので、不思議なのです。都江堰は国家重点文化財をとして山の水と平野の合流点に建てられて[土手でなく分水嶺を建てて水を導く]という原理を利用して造ったものです。
http://4travel.jp/travelogue/10540111
「三国志の都江堰1」をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540113
「三国志の都江堰2」をクリックしてご覧下さい。 -
剣門関は歴代の兵家達によって必ず争われてきた天然の要塞である。「険門関を得れば、四川を得る」とも 言われた険峻な地で、この二千数百年の間に百回近くの戦があったそうだ。三国志の時代では諸葛孔明が関楼の下の谷に30里に及ぶ閣道を造って北伐の根拠地とした。険しい山々がそそり立ち、その名のごとく剣の門である。そして蜀が滅亡する直前、3ヶ月に渡って剣門関を死守したのが姜維である。263年8月、魏は全軍をあげて蜀に侵攻する。姜維は沓中から退いて剣閣(剣門関)に立てこもり、鐘会に抵抗した。兵数10万を誇る鐘会軍もなかなかこれを攻め落とせず、姜維に向かって投降を呼びかけるが、姜維は頑に抵抗を続けた。しかし鄧艾が陰平から人跡未踏の険路を七百里も超えて江油に入り、綿竹関を破って成都に至ると、劉禅は何もせずに魏に降伏した。事情を知らぬ姜維は広漢に退いて状況把握につとめた。后主の「降伏せよ」との令を知り、姜維は「ふ城」でやっと鐘会に投降したのである。武将達は知らせを聞くと、刀を抜いて石を斬りつけ、その無念さをあらわしたという。
http://4travel.jp/travelogue/10540114
「三国志の剣門関」をクリックしてご覧下さい。 -
考察・なぜ趙雲は大邑にまつられているのか?(「神游三国・蜀漢遺跡導游」より)明清時代のある地方史の志書の中に記載がある。志書にいう「趙雲は晩年、羌族がしばしば山中から平原の民衆を襲撃したので、これを守るために命じられて大邑の静恵山を領地とした。趙雲は民心を大事にし、軍を指揮し、戦いに勝った。羌族、漢族の民衆はともに彼に心服した。趙雲の死後、当地の人々はみな深くその恩恵を感じ、朝廷に対して趙雲を当地に葬るよう、強く要求した。諸葛亮は民意に従い、これを認めたため趙雲は大邑に葬られることになった。
http://4travel.jp/travelogue/10540115
「大邑の子龍祠と廟」をクリックしてご覧下さい。 -
成都市郊外にある三国時代の蜀漢の宰相・諸葛亮(孔明)を祭った社。6世紀ごろから建てられ始め、明代には隣接する主君・劉備玄徳の陵墓、漢昭烈廟と併合された。孔明の贈り名である忠武侯にちなむ武侯祠として親しまれている。戦火のため、現存する建物は清代康熙の1672年に再建されたものだ。3.7万平方メートルの広大な境内には、南北方向の中軸線に沿って五つ主体建築がある。今の武候祠は諸葛亮と劉備を祭ったところです。諸葛亮は生前に武郷候に任命され、死後は忠武候という贈名が与えられました。昔の武候祠は諸葛亮の慰霊のところだけです。この祠は6世紀の始めに劉備を祭った[昭烈廟]と並んで建てられたのです。昭烈とは劉備の死後に与えられた贈名です。14世紀の末になって武候祠は昭烈廟に合併されました。ですから,武候祠の正式の名前は[漢昭烈廟]で、ここは蜀国の君臣紀念館というべきです。ところが,人々は君主の劉備を上回る諸葛亮の才能と人徳をしのんでこれに因んで武候祠と呼ばれるようになりました。
http://4travel.jp/travelogue/10540181
「三国志の成都武侯祠1」をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540182
「三国志の成都武侯祠2」をクリックしてご覧下さい。 -
陸遜(183〜245)陸公は諱を遜、字を伯言といい、呉郡呉県華亭の人である。呉の四姓にあたる名家、陸家に生まれ、21歳で大帝に仕官。地方統治と山越討伐で数々の功績をあげる。のちに虎威将軍に助言を施したことから共に策略を練り、最強の将とされる関羽を撃破、荊州の平定に貢献し、報復の軍を動かした劉備を夷陵にて迎撃、火計を用いて大勝した。大帝の信任も厚く、呉が建国されると政治家としての才能を買われ、事実上軍政両面で呉の実権を握ることとなった。その晩年まで呉の柱石として現役で活躍、丞相にも任ぜられるが、太子と魯王の派閥争いが起こるにあたって、最後まで正道を貫き通し憤死。景帝の時代に昭侯と謚を付けられた。
http://4travel.jp/travelogue/10540223
「三国志の陸遜故里」をクリックしてご覧下さい。 -
三国時代に創建された。現在の建物は、清の乾隆三十五年(1,770)に建替えられ、上海地区に現存する最大規模の道教寺院である。10数ヶ所の殿堂があり、600体あまりの神霊像が供養されている。そこに珍蔵される御神籖などは、貴重な道教の文化財である。三国志に出てくる道教には太平道、五斗米道などがあり、いずれも魏の曹操に破れ吸収されている。
http://4travel.jp/travelogue/10540226
「三国志の上海欽賜仰殿道観」をクリックしてご覧下さい。 -
三国時代の上海はうらぶれた漁村にしかすぎない。三国演義の遺跡はなにもありません。龍華寺は三国時代 呉の孫権が建立したと伝えられる上海で一番古いお寺です。孫権の父孫堅が刑州の劉表との戦で戦死する。残された母の悲しみを慰める為に作られたと言われる。今の建物は清の光緒帝の時代のもの、中に千手千眼観音があり本当に千本有る大きな仏像です。また路を挟んで七層八角の龍華塔は宋時代のもので1000年の歴史が有る、上海で只一つの三国演義の場所です。
http://4travel.jp/travelogue/10540229
「上海の龍華寺(三国志)」をクリックしてご覧下さい。 -
諸葛孔明の八陣図をモチーフにした孔明直系の子孫の村では、今でも孔明の家訓が守られ、さながら三国時代の古陸中の風情がある。今回は、1992年に正式に孔明の子孫の住む村として一躍知名度が上がった、諸葛村に行って来ました。
浙江省蘭渓市の西北に位置する諸葛八卦村は孔明の27代の子孫で宋の官僚だった諸葛大獅が1280年に作った村です。孔明が考案した八陣図に基づいて構成された村は、中国全土でも類の無い独特なものといわれる。村の中心にある「鐘地」を中心に八本の道が外に向って伸びており(内八卦)、外側は八つの小山が村を外界から遮断している(外八卦)ため、守りやすく攻めにくい地形になっているのが特徴。村内には明清建築の建物、庭園、楼閣が立ち並び、1日中いても飽きない
http://4travel.jp/travelogue/10539877
「三国志の諸葛古里」をクリックしてご覧下さい。 -
??曹操の20万余におよぶ軍勢が、呉の国に向かって進軍してくるなか、孔明は逡巡する孫権に対して断じて曹操に立ち向かうべきと主戦論を主張する。その孔明に対して周瑜(しゅうゆ)は孔明の智恵を試すために、10日間で10万本の矢を作れと命令する。濃霧にけむる長江を、藁束を満載したおとりの船を敵陣に走らせる孔明。敵陣から10万本の矢を受けた船は何事もなかったように無傷で凱旋する??。そして天下分け目の戦い「赤壁の戦い」のクライマックスがやってくるのです。赤壁は呉と魏の2国が激突した戦いです。 蜀の軍師孔明の力添えにより魏の船団は壊滅的な打撃を受け、ほとんどが燃えてしまいましたその炎が川岸の崖を赤く染めた事が赤壁の由来です。新野を一時的な拠点としていた劉備は曹操の南下を防げるすべもない。民とともに劉備は逃げた。退却の途中、長阪での張飛や当陽での趙雲の活躍などにより、なんとか逃げ延びることが出来た。破竹の勢いで南進する曹操軍、その数20数万人。呉を滅ぼすための拠点とすべく、曹操は江陵(現在の荊州)をとった。
http://4travel.jp/travelogue/10540231
「三国志の赤壁の戦い・1」をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540232
「三国志の赤壁の戦い・2」をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540234
「三国志の赤壁の戦い・3」をクリックしてご覧下さい。 -
武漢は湖北省の省都である。市街は武昌、漢陽と漢口の三鎮(町)からなっている。長江と漢水はここで合して流れる。優れた地理的位置に恵まれていて、昔から「九省に通じる所」とたたえられるように交通はとても便利である。3500年の歴史を有する歴史文化の都市として、自然と人文の観光資源は極めて豊富である。ここから長江に沿って上がれば三峡や神農架などの風景名勝区に行ける。湖北省の中心都市であり省都である。中国の三大釜とも言われ夏は非常に暑い。『亀山公園』最近は中国でも有数の三国志公園として整備されたそうです。武漢市の長江を挟んで黄鶴楼の反対側にある。魏呉蜀の武将像がずらりと並んでいたのだ(100体を越えていた)、景観が悪いとかでほとんど取り払われたそうです、
http://4travel.jp/travelogue/10540350
「三国志の亀山公園」をクリックしてご覧下さい。 -
昔から「九省に通じる」と言われるように交通の便がよく地理的には恵まれている。昔からここは戦略上の重要地であり、三国時代は夏口と呼ばれた。また、武漢の黄鶴楼は、岳陽楼(湖南省岳陽)と滕王閣(江西省南昌)と並んで中国三大楼だ。黄鶴楼は一説によると孫権が223年に創建したと言われている。孫権が221年に武昌(現在の武漢、当時は鄂(がく)と言われていた)に遷都しているため信憑性はある。また三国志平話では、赤壁の戦いの後、周瑜が劉備をここに招待して暗殺を企てるという話もある。
http://4travel.jp/travelogue/10540352
「三国志の黄鶴楼」をクリックしてご覧下さい。 -
鎮江は、かつては京口、丹徒などと呼ばれ、三国時代には呉の孫権が一時、京口に都を置いた。北固山は、高さ53メートルの小高い山。麓の山門を入ると花壇のような庭が広がる。北固山には三国東呉甘露元年(西暦265年)に建立されたとされる甘露寺があり、その麓に劉備、孫権の像がある。三国志演義が好きな人ならすぐにどの場面か思い出せるだろう。甘露寺は「劉備招親」に関係のある多くの遺跡があるが、劉備玄徳と孫尚香との挙式場として知られる。演義の虚構なので「嘘が本当になった話」である。頂上には「祭江亭」「天下高山第一楼」などがあり、金山、長江、焦山のほか鎮江の全てが見渡せる絶好のスポットにもなっている。文章は三国志演義 羅貫中作 立間祥介訳 徳間文庫より
http://4travel.jp/travelogue/10540353
「三国志の甘露寺」をクリックしてご覧下さい。 -
孫家は、戦国時代の兵法家、孫子の後裔であるといわれる。弱冠19歳で、兄のあとを継いで江南を治める呉の政権を握った孫権は、周瑜(しゅうゆ)や、諸葛孔明の兄である諸葛瑾(しょかつきん)などの人材をうまく使って、小国に過ぎなかった呉を鼎立する三大国の1つに発展させた。
孫権は、利あらずとみればじっと我慢して時を待つ性格であった。彼が君臨していた約半世紀のあいだ、呉の国は、侵略者を撃退することはあっても、魏や蜀のように進んで他を侵略することはほとんどなかった。そのため、他の2国に比べて、呉の人民の生活は平穏で、国内は繁栄していた。地の利、高い生産性、豊富な人材にもかかわらず、呉があえて“中原に鹿を逐(お)わ”なかった(=天下を狙わなかった)のは、三国の中で魏の国力が圧倒的に強かったのも一因ではあるが、トップ孫権の守成第一主義の施政方針と、無理ないくさは仕掛けないという慎重な性格が、その主因であると考えてよい。
http://4travel.jp/travelogue/10540354
「三国志呉の国」をクリックしてご覧下さい。 -
龍門古鎮は富春江の南岸に位置しています。東漢時代の文学家厳子陵がここを遊覧し、「山紫水明で、中原龍門にも勝る」と絶賛したことで龍門と名付けられました。龍門古鎮はその古さで名を馳せています。今でもたくさんの明清時代の建築物が保存されていて、各建築物群の間は卵石畳の小徑にて繋がり、小徑は四方八方に通じています。「大雨の日に村全体を廻っても靴は濡れない」といわれています。村の90%以上の住民は三国時代東呉孫権の後世で、中国古代宗族集中居住の典型的な例です。
http://4travel.jp/travelogue/10539878
「三国志の孫権古里」をクリックしてご覧下さい。 -
漢魏洛陽城
後漢、三国時代の魏の都城。現在の洛陽市の東、約十五kmにある。後漢末に廃墟となるも、曹操が再建して魏の都とし、晋もここを都とした。魏の都城は東西南北約四kmの城壁を構え、東北の隅に高さ約四百mの楼閣があった。
洛陽博物館
市の中心部、中州路に面した王城公園と隣接している。洛陽は黄河文明の発祥地であり、また九王都の都ならではの重要クラスの出土品を、夏王朝から宋代まで多数所蔵している。特に唐三彩はラクダ像、馬像など見事なものが多い。
http://4travel.jp/travelogue/10540360
「三国志の洛陽漢魏古城」をクリックしてご覧下さい。 -
関林廟は219年、関羽が魏の樊城を攻めた際、捕虜の食事問題で呉の兵站基地を奪ったことにより、呉の司令官呂蒙に攻め込まれ討たれ、呉主の孫権が関羽の首級を曹操の元に送り届け、曹操によって洛陽郊外に手厚く葬られたことに由来します。関羽の首が埋葬されている場所で中国三大関帝廟の一つ。関羽の首は孫権に切られた後、曹操のもとへ送られた。清の道光年間に「関林」と改称している。ちなみに「林」の字は特別な人物にのみ使い、墓を表す。孔子の「孔林」と関羽の「関林」の2ケースしかない。この二人はいつのまにか皇帝になっているのである。大殿といわれる関林の本堂には関羽や養子の関平、武将の周倉らの像のほか、関羽の武勇伝を描いた美しいレリーフもある。
http://4travel.jp/travelogue/10540361
「三国志の洛陽関林」をクリックしてご覧下さい。 -
白馬寺は中国最初の仏教寺院で創建は68年と伝えられる。後漢の明帝(在位57〜75年)が夢のお告げによって、インドに使者を派遣すると、はたして摂摩騰、竺法蘭、の天竺僧が、白馬に仏教の経典と仏画を載せてやってきたという。寺名も白馬にちなんでつけられた。白馬寺は董卓の乱による洛陽の大火で罹災し、三国時代の魏により再建された。現存の建物は明清時代に修復されたもので、境内には四天王や釈迦を祭る建物などがある。三国志と結びつける石碑等は見当たりませんでした。
http://4travel.jp/travelogue/10540364
「三国志の洛陽白馬寺」をクリックしてご覧下さい。 -
190年政権を握った董卓を追い落すべく、袁紹を盟主とした反董卓連合軍がこの要害を攻めた場所です。『三国志演義』では赤兎馬に乗った呂布と劉備三兄弟の一騎打ちが名場面となっています。“虎牢”の地名は周の穆王がこの地で虎を飼っていたことに由来する。秦代に「虎牢関」、漢代には「汜水関」が置かれた。その後何度も名前が変更され、元の虎牢関に復名されたのは清代。演義では虎牢関と汜水関は別の場所として描かれているが、実は同一の場所であることはよく知られている話だ。古来より歴史に名を残す数々の戦いの舞台となっており、清雍正年間に立てられた石碑が保存されている。他には呂布城などがある。董卓軍と反董卓連合軍の決戦地。呂布城と名づけられているが、城はなくただ台地だけが広がる。
http://4travel.jp/travelogue/10540365
「三国志の虎牢関」をクリックしてご覧下さい。 -
呂布の進行で徐州から追い出された劉備は、曹操を頼り、客人として許に滞在した。劉備はその後、曹操を裏切り袁紹の元へ逃げるのだが、徐州の留守を預けた関羽を置き去りにする事になる。関羽は劉備の夫人を守る為に曹操に投降し、許の軍営に移送されて春秋楼に住まわされた。
http://4travel.jp/travelogue/10540366
「三国志の許昌春秋楼」をクリックしてご覧下さい。 -
「三国志」とはその名のとおり、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来する。この時代の曹操・孫権・劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として成立した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。許昌の関帝廟の壁に繰り広げられる関羽の三国志絵巻をご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540367
「三国志の許昌関帝廟」をクリックしてご覧下さい。 -
?陵橋
許昌城西の清泥河に架かる橋。元の名前を八里橋という。曹操の元に身を寄せていた関羽が劉備の元へ帰る際、この場所で曹操が関羽に錦の袍を贈った。関羽は罠があることを警戒し、馬上から刀でそれを拾い上げて去ったという。橋は90mの長さがあり、橋のたもとには、清代の1672年(康熈十一)創建の関帝廟がある。廟内には廂房や道士院などの建物があり、山門の奥にある関寿亭侯大殿には、馬上で手綱を握る関羽の像がある。
http://4travel.jp/travelogue/10540369
「三国志の許昌?陵橋」をクリックしてご覧下さい。 -
後漢末の196年、曹操が献帝を奉じてここに洛陽から都を遷したことで有名。遷都の理由は洛陽が戦乱で荒廃していたのと、この地域が曹操の勢力圏だったからと考えられる。元は「許」県であり(許都)、魏王朝建国後「魏は許をもって益々昌(さか)える」という予言に従って、許昌に改名された。 献帝在位中は一貫して「許」であったため、実は後漢、魏を通じて「許昌」が首都となった事は一度も無い。献帝が廃されて魏が建国されると都は洛陽とされるが、魏の五都の一つとされ、依然として重要な都市であった。 許昌には献帝の皇后伏氏(伏完の娘)の陵墓や後漢末の都市遺跡があり、歴史学上も重要な都市である。
http://4travel.jp/travelogue/10540370
「三国志の許昌受禅台」をクリックしてご覧下さい。 -
200年(建安五)に袁紹と曹操が激突した戦い。北方に基盤を築いた袁紹は南下し、迎え撃つ曹操と戦った。十ヶ月にも及ぶ戦いは、白馬の戦い、延津の戦いと続き、官渡の戦いで曹操軍が勝利を収めた。「正史三国志」によると、十万余りという袁紹の軍に対し、曹操軍はわずか一万であったといわれる。袁紹は主力を壊滅され、敗戦後の202年(建安七)に病死。曹操はこの勝利により、来方への進出の足掛かりを築いた。”四世三公”の名門に生まれた袁紹と乱世の奸雄、曹操、両雄の明暗を分けたこの戦いは、血統の終焉、力の時代の始まりを暗示するものでもあった。現在はテーマパークが潰れ、残る遺跡も荒れ果て寂しい限りです。
http://4travel.jp/travelogue/10540371
「三国志の官渡戦い」をクリックしてご覧下さい。 -
安徽省西北部に位置する亳州市。三千数百年の歴史があるこの町は、曹操の生まれた町であり、兵糧補給地でもあった。曹操ゆかりの地として観光事業に力を入れており、「三国志」史蹟や「三国志」にちなんだテーマパークなど、多くの見所がある。
曹操(155年 - 220年)は中国後漢末の武将であり政治家、詩人である。字は孟徳、沛(はい)国(しょう)県(現在の安徽省亳州市)の人。幼名は、阿瞞また吉利。廟号は太祖。謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩は夏侯氏であったが中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継いだ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが、疑わしい。
http://4travel.jp/travelogue/10540372
「三国志の亳州.1」をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540373
「三国志の亳州.2」をクリックしてご覧下さい。
http://4travel.jp/travelogue/10540374
「三国志の亳州.3」をクリックしてご覧下さい。 -
215年(建安二十年)曹操の張魯征伐で居城を留守にしている隙を狙い十万の大軍を率いて北上、張遼の駐屯する合肥に大攻勢をかけた。こうして進攻した呉軍は合肥城に面した?水の渡し場、逍遥津のたもとで張遼軍と対峙することになった。
合肥の守備兵はわずか七千、圧倒的に不利な状況の下、孫権の攻撃を予測して下されていた曹操の命令に従い、張遼は8百名の突撃隊を引き連れ、機先を制して到着したばかりの呉軍に、早朝の奇襲攻撃をかけた。予期せぬ先制攻撃にあわてふためいた孫権は、長戟でみずから身を守りながら逍遥津から逃れる。
http://4travel.jp/travelogue/10540376
「三国志の逍遥津」をクリックしてご覧下さい。 -
魏の征東将軍満寵が明帝・曹叡に建議し、青龍元年(233年)に老朽化した合肥城にかわって建てられた前線基地。孫呉は233、234、253年など幾度も進攻しているがいずれも撤退を余儀なくされている。(234年には明帝・曹叡が親征して防いでいる。)1995年に土地の基礎整備が始められ、2003年に公園の基礎施設を建設し、三国新城遺址公園としてオープンした。安徽省重点文物保護単位。三国文物陳列館では合肥新城遺址を巡る攻防について非常に詳細な解説・展示がなされており、見ていて楽しい。(ジオラマあり、解説あり、出土物の展示あり。)広い公園内は本物の遺址を基礎に整備されており、もちろん三国志関連の塑像・彫刻なども満載。まさに三国志テーマパーク。城壁外側にある陳列館を見逃さないように。ジオラマなどあり貴重な写真なども拝める。土産物を充実させれば完璧だ。魏呉の攻防に特化しているのもファンにはうれしいが、普通の人民も憩いの場として楽しめる環境。
http://4travel.jp/travelogue/10540379
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