2013/02/03 - 2013/02/07
739位(同エリア1790件中)
旅人のくまさんさん
- 旅人のくまさんさんTOP
- 旅行記6398冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 5,389,661アクセス
- フォロワー204人
アユタヤ遺跡の中で、ワット・プラ・マハタートの次に見学したのは、ワット・プラ・シーサンペットです。トライローカナート王時代の1448年に建立された、アユタヤ王宮内にあった最も重要な寺院とされます。アユタヤ王朝時代に活躍した日本人、山田長政についても紹介します。(ウィキペディア、るるぶ・タイ)
-
アユタヤ王朝がビルマ(現ミャンマー)の攻撃によって滅ぼされたのは1767年とされます。それより140年ほど前に亡くなった、山田長政がアユタヤ朝の第24代ソンタム王(在位:1611~1628年)の厚い信任を受けて活躍したことを少しだけ紹介しましたが、もう少し詳しく紹介しておきます。タイでも、日本でもその業績を再評価する動きがあるようです。
-
『山田長政(やまだ・ながまさ:1590~1630年)』は、江戸時代初期にかけてシャム国(現在のタイ)を中心に活躍した人物です。一旗揚げることを夢に日本から異国の地シャムに渡り、アユタヤ王朝で大活躍しリゴール国の王にも就任しました。日本の安土桃山時代~江戸時代初期の人で、異説もありますが、駿河の国の出身とされます。(歴史キングダム)
-
山田長政は、天正18年(1590年)に駿河国で生まれたと言われていますが、出身地や生い立ちについては明確な事実が残っていません。伊勢国や尾張国出身とする説もあります。日本での山田長政の経歴としては、駿河沼津藩主の『大久保忠佐(ただすけ:1537~1613年)』に仕えた後に、駿府馬場町の商家で丁稚奉公をやっていた事のみが残っています。(同上)
-
長政が大久保忠佐に仕えていた頃は、駕籠舁きという乗り物を担いで運ぶ職業をしていますが、武士としての身分は最下層に近いところにありました。そんな長政に転機が訪れます。当時の日本は朱印船制度という江戸幕府が認めた海外諸国と貿易を行い、外交関係を築く柱となっていた制度です。1604年に実施して以降は多くの日本人が東南アジアなどに向けて渡航しました。(同上)
-
1612年、長政は長崎から朱印船に乗り、台湾を経由してシャムのアユタヤ王国へと辿り着きます。長政が渡った頃のシャムの首都はアユタヤにあり、当時はソンタムという名君が治めていました。当時のシャムは国内外で戦争が絶えず、そこで日本から渡ってきた浪人が戦士として登用され活躍していました。日本からは関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍した浪人たちから構成された日本義勇軍と呼ばれる傭兵部隊が結成され、百戦錬磨の日本の武士は精強でアユタヤ王朝にも信頼と尊敬の念を持って扱われていました。その中で長政は頭角を現し、スペイン艦隊のアユタヤ港侵攻を二度も退け、ソンタム王の信頼を勝ち得ていきました。(同上)
-
長政は武功を収めただけではなく、貿易商としても活躍しました。当時各国が軒を連ねて争った経済戦争を制し、当時世界最大とうたわれた東インド会社をも凌ぐ勢いを見せました。長政はその功績から1621年にはアユタヤの日本人町の頭領に就任し、徳川幕府の老中だった土井利勝(1573~1644年)と本多正純(1565~1637年)を介して日本とタイの外交にも努めました。(同上)
-
1628年にはアユタヤ王朝の官位における第三位の「オークヤー・セーナピモック」に任じられ、アユタヤ国の軍事面においての最上級職につきます。しかし、翌年に長政を寵愛していた国王ソンタムが後継者を定めぬまま崩御してしまいます。ソンタムの死後、長官であったシーウォラウォンと共にソンタムの子のチェーター親王を即位させようとしますが、チェーター親王がシーウォラウォンに不審を抱いたことから、チェーター親王はシーウォラウォンに殺害されてしまいます。(同上)
-
その後チェーター親王の弟のアーティヤッタヤウォンを王の座につけようとしました。しかし、アーティヤッタヤウォンはまだ幼かったことから、宮内でシーウォラウォンを後継にする流れになると、長政は反対意見を述べ、王宮内で反感を持たれてしまいます。シーウォラウォンは長政を排除しようと、当時内乱が起きていたリゴール国へ送り込みました。いわゆる左遷です。(同上)
-
イチオシ
今日まで保存された祠堂の中に祀られていた立派な立像の光景です。蓮座の上に立つ仏陀像のようでした。足元にたくさんの花が手向けられ、今でも地元の方の信仰が篤い像のように見受けました。推測に過ぎませんが、ミャンマー軍に侵攻された時に、地元の方が一時身を隠したために、今日まで、この姿が保たれたのかも知れません。足元に手向けられた花を見て、つい、頭の中に物語が出来てしまいました。
-
その後、長政はリゴールでの内乱を平定し、リゴール王に任ぜられます。しかし、アユタヤではシーウォラウォンが前王を殺害し、国王となっていました。これを伝え聞いた長政は、シーウォラウォンの野望を止めるべくアユタヤに向かおうとしますが、隣国から侵攻してきたパタニ軍との戦いで負傷しました。傷を癒す薬を塗りましたが、この薬に仕組まれた毒が元で、41歳の若さで亡くなりました。(同上)
-
次は山田長政の人物像について紹介します。長政は、日本にいる頃に武士や商人という職業につきましたが、いずれも長くは続きませんでした。憧れを抱いた刀と槍を持って武功を挙げ、ゆくゆくは一国一城の主ということも出来ない時代となっていました。関ヶ原の戦いや大坂の陣で腕を鳴らした浪人達が、活躍と刺激を求めて異国の地へと旅立った時代でした。(同上)
-
長政がアユタヤに渡り加盟したのが、日本の武士たちで結成された傭兵軍団である日本義勇軍でした。日本人以外の傭兵軍団もいましたが、日本の武士道精神を備えた日本人は信頼と尊敬の念を持たれ、非常に重宝されました。その中でも長政は、破竹の勢いで活躍を見せました。1621年には少尉・中尉ランクとなるオーク・クン、1624年には大尉・少佐ランクとなるオーク・アロン、1628年頃には軍人の中では最高位となるオーク・ヤーに就任し、シャム国で最も位の高い軍人にまで昇り詰めました。(同上)
-
イチオシ
紹介した写真は、ずい分と手の込んだ細工がされた石塔の光景です。残念ながら、最頂部が破壊されたような形跡がありました。残った分だけでも4階分ほどのアーチ型の窪みと、その上に三角屋根が残されていました。白漆喰の跡が塔全体に薄く残っていました。
-
そのアーチ型の窪みと、三角屋根の部分のズームアップ光景です。全体に白漆喰での表面化粧がされた痕が残っていました。その内側に赤煉瓦が使われていました。今は何も残っていませんが、窪みの部分には、仏像などの飾りがあったのかも知れません。
-
山田長政の紹介に戻ります。若き長政が、日本で思い描いた憧れは、異国の地で叶いました。長政の逸話として残っている一つに、アユタヤ王国の王女との恋の話があります。その王女にあたる人物はアユタヤ王ソンタムの妹・ルタナ姫と言い、このルタナ姫が山田長政に恋をするという話が後世に描かれ、唄にもなるなど舞台や小説でも取り上げられました。(歴史キングダム)
-
しかし、実際のところは『国王からの絶大な信頼を受けて王女と結婚した』という事実は判明していません。シャム側の記録でも該当する人物はかくにんされていません。遠い昔の日本人が異国で掴んだビッグドリーム伝記として、甘いロマンスの話も残しておきたかったのかも知れません。ただし、ソンタム王の強い信任があったことだけは事実のようです。(同上)
-
山田長政の活躍は、後世の日本においても幅広く評価され、近年の日本では、軍事教育などでも利用されました。第二次世界大戦までの戦時下の日本では『植民地主義からのアジア解放』を謳い、『大東亜共栄圏』という思想がありました。この思想においては、山田長政の活躍は理想的なものでした。その事実を踏まえないと、タイ王国だけでなく、近隣国からも反発がありそうです。(同上)
-
第二次大戦後になってからは、山田長政に対する評価が再度見直されました。戦時下の『南国で活躍を収めた英雄』という印象から、『浪人やキリシタンなど海外移住をせざるを得なかった日本人を存続させるために奮闘した悲劇の指導者』というような描かれ方がされています。(同上)
-
長政を題材とした映画としては、2010年に放映された『ヤマダ アユタヤの侍』というタイの映画があります。主人公の山田長政役は、俳優の大関正義(1973~)さんが演じられています。まだ見たことはありませんが、古代ムエタイや日本刀でのチャンバラなどのアクションムービーのようです。大関さんは福島県郡山市出身、現在もタイ在住のようですが、近況は分かりません。(同上)
-
山田長政紹介の締め括りです。長政は異国の地シャムで自らの運命を切り開いた人物でした。言葉が通じないという状況下であっても、アユタヤ王の信頼を勝ち取る活躍を見せ、また日本とタイとの国交の架け橋にもなった彼の軌跡は、現代における両国間での繋がりにも影響を残しました。(同上)
-
二つ並んだ、ほぼ同じ高さの石塔の光景です。右手の石塔は、先にズームアップで紹介した石塔だったかも知れませんが、同じような石塔がいくつもありましたので、再確認ができませんでした。左手に見えている石塔に比べますと、塔の傾斜は少ないようでした。ワット・プラ・マハタートの仏塔でした。『マハタート』は、『仏舎利(お釈迦様の遺骨や遺灰)』を意味します。
-
『アユタヤ歴史公園』の中に位置する『ワット・プラ・マハタート』の紹介が続きます。『アユタヤ歴史公園』は、ユネスコの世界遺産に『古都アユタヤ』として登録されているアユタヤ遺跡群です。アユタヤ遺跡群は、チャオプラヤー川とその支流であるパーサック川、ロップリー川に囲まれた中州に集中しています。これは、敵からの防御を考えて中心部の回りに運河を掘ったことによるものです。ワット・プラ・シーサンペット、ワット・ローカヤスターラームなどの寺院跡、王宮跡が残ります。(ウィキペディア)
-
『アユタヤ歴史公園』の紹介が続きます。これらの遺跡を作ったのは『アユタヤ王朝(1351~1767年)』でした。この王朝の最盛期の第27代の『ナーラーイ王(在位:1656~1688年)』時代には、現在のラオス、カンボジア、ミャンマーの一部を領有するほどの勢力を持っていました。その中心都市がアユタヤでした。アユタヤは、流れの穏やかなチャオプラヤー川に位置し、貿易に持ってこいの場所に位置していました。(同上)
-
貿易に適したアユタヤの地で、歴代王はその独占貿易で莫大な利益を収め、同時に上座部仏教を信仰していた王は、この莫大な利益をもとに数々の『寺院(ワット)』を造り出しました。しかし、1767年のビルマ(ミャンマー)のコンバウン王朝による攻撃を受けてアユタヤ王朝は消滅しました。同時にアユタヤ市内の建造物や石像は、徹底的に破壊されました。(同上)
-
ほとんどの寺院は廃寺となり、王宮も台座を残すのみとなりました。世界的にみてアユタヤの建造物の多くが比較的新しい建造物であるにもかかわらず、そのほとんどが煉瓦のみになっているのは、このためです。1967年、アユタヤ遺跡の中心地域が正式にタイ芸術局により歴史公園に指定されました。その後、1991年に歴史公園はユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。(同上)
-
世界遺産に登録されている、歴史公園内の寺院遺跡の一覧です
〇ワット・プラ・シーサンペット
〇ウィハーン・プラ・モンコンボーピット
〇ワット・ウォーラチェーターラーム
〇ワット・ローカヤスターラーム
〇ワット・ラーチャブーラナ
〇ワット・マハータート
〇ワット・プララーム
〇ワット・ウボーソット(同上) -
先ほど紹介した、『アユタヤ歴史公園』の中にある世界遺産の寺院の一覧の中で、『ウィハーン・プラ・モンコンボーピット』は少し異色です。1956年にビルマの首相が来訪し、その寄附により1956年、礼拝堂(ウィハーン)が建立されました。ビルマ連邦時代の初代首相の『ウー・ヌ(在位:1948~1956年)』か、第2代首相の『バー・スエ(在位:1956~1957年)』になるようです。(同上)
-
三つ並んだ巨大な石塔の光景です。『ワット・プラ・シーサンペット』の中心施設です。名称には『ワット(寺)と冠していますが、実際は寺院ではないようです。大きな破壊を受けた他の仏塔遺跡と比べ、漆喰などが当時の状態をよく保存しているため、アユタヤ時代の建築がそのまま見ることの出来る貴重な遺跡とされます。次の見学場所です。
-
13枚の写真と、その説明文があった立て看板ですが、タイ語での説明だけで、英語などの併記はありませんでした。タイトルもタイ語だけの表示でした。写真から推測しますと、アユタヤ遺跡の補修工事の模様を紹介しているようでした。写真だけで判断しますと、補修箇所を絞って、その補修手順・工程が紹介されているようでした。
-
イチオシ
お仕事中の象さんの光景です。車の通りがほとんどない広い公道を、ゆったりとした足取りで歩いていました。新林業の運搬に携わっていた象さん達は、大勢の失業者が出たようですが、観光用の象さんの仕事は無くならかったようです。前方に駐車しているバスは、私たちのツアーのバスだったかもしれません。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2013冬、タイ王国旅行記2(下巻)
-
前の旅行記
2013冬、タイ王国旅行記2(23/34):2月5日(8):アユタヤ遺跡、ワット・プラ・マハタート、仏塔、仏...
2013/02/03~
アユタヤ
-
次の旅行記
2013冬、タイ王国旅行記2(25/34):2月5日(10):アユタヤ遺跡、ワット・プラ・シーサンペット、王...
2013/02/03~
アユタヤ
-
2013冬、タイ王国旅行記2(21/34):2月5日(6):アユタヤ遺跡、象乗り、ワット・ヤイ・チャイ・モン...
2013/02/03~
アユタヤ
-
2013冬、タイ王国旅行記2(22/34):2月5日(7):アユタヤ遺跡、ワット・ヤイ・チャイ・モンコン、プ...
2013/02/03~
アユタヤ
-
2013冬、タイ王国旅行記2(23/34):2月5日(8):アユタヤ遺跡、ワット・プラ・マハタート、仏塔、仏...
2013/02/03~
アユタヤ
-
2013冬、タイ王国旅行記2(24/34):2月5日(9):アユタヤ遺跡、ワット・プラ・マハタート、ワット・...
2013/02/03~
アユタヤ
-
2013冬、タイ王国旅行記2(25/34):2月5日(10):アユタヤ遺跡、ワット・プラ・シーサンペット、王...
2013/02/03~
アユタヤ
-
2013冬、タイ王国旅行記2(26/34):2月6日(1):ココナツ・ファーム、デンファーレ、カトレア、バン...
2013/02/03~
その他の観光地
-
2013冬、タイ王国旅行記2(27/34):2月6日(2):ダムヌン・サドアク、水郷クルーズ、水上マーケット...
2013/02/03~
その他の観光地
-
2013冬、タイ王国旅行記2(28/34):2月6日(3):ダムヌン・サドアク、水郷クルーズ、水上マーケット...
2013/02/03~
その他の観光地
-
2013冬、タイ王国旅行記2(29/34):2月6日(4):ダムヌン・サドアク、水上マーケット、階上からの水...
2013/02/03~
その他の観光地
-
2013冬、タイ王国旅行記2(30/34):2月6日(5):ダムヌン・サドアク、木彫工芸店、ローズ・ガーデン
2013/02/03~
その他の観光地
-
2013冬、タイ王国旅行記2(31/34):2月6日(6):ダムヌン・サドアク、ローズ・ガーデン、庭園散策、...
2013/02/03~
その他の観光地
-
2013冬、タイ王国旅行記2(32/34):2月6日(7):ローズ・ガーデン、象と出家儀式、民族舞踊、ムエタ...
2013/02/03~
その他の観光地
-
2013冬、タイ王国旅行記2(33/34):2月6日(8):ローズ・ガーデン、結婚儀式、バンブー・ダンス
2013/02/03~
その他の観光地
-
2013冬、タイ王国旅行記2(34/34):2月6日(9)~7日:象のショー、スワンナプーム国際空港へ、帰国
2013/02/03~
バンコク
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2013冬、タイ王国旅行記2(下巻)
0
30