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アユタヤ遺跡で次に見学したのは、ワット・プラ・マハタートです。建立時期については、第2代ラーメスアン王(1369~1370年)と、第3代ボロムラーチャー1世(1370~1388年)が建てたとする、二つの説がある寺院です。木の根に取り込まれた仏頭が、観光の目玉になっていた寺院跡です。(ウィキペディア、るるぶ・タイ)

2013冬、タイ王国旅行記2(23/34):2月5日(8):アユタヤ遺跡、ワット・プラ・マハタート、仏塔、仏頭

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2013/02/03 - 2013/02/07

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旅人のくまさん

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アユタヤ遺跡で次に見学したのは、ワット・プラ・マハタートです。建立時期については、第2代ラーメスアン王(1369~1370年)と、第3代ボロムラーチャー1世(1370~1388年)が建てたとする、二つの説がある寺院です。木の根に取り込まれた仏頭が、観光の目玉になっていた寺院跡です。(ウィキペディア、るるぶ・タイ)

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  • ワット・チャイ・モンコンの見学を終えて、次の見学場所のワット・プラ・マハタートに歩いて移動する時の光景です。ジャングルのように木々が生い茂った光景が見られるこの場所は、まだワット・チャイ・モンコンの境内になるようでした。周りには、遺跡の赤レンガの壁痕が見えていました。

    ワット・チャイ・モンコンの見学を終えて、次の見学場所のワット・プラ・マハタートに歩いて移動する時の光景です。ジャングルのように木々が生い茂った光景が見られるこの場所は、まだワット・チャイ・モンコンの境内になるようでした。周りには、遺跡の赤レンガの壁痕が見えていました。

  • 見納めのワット・チャイ・モンコンの石塔の光景です。高さ72メートルと言われるアユタヤ有数の仏塔の光景です。仏塔の途中まで登ることが出来、その場所からの見晴らしも楽しむことが出来ました。『サンペット2世(1555~1605年)』とも呼ばれる、アユタヤ21代王のナレースワン大王が、ビルマ軍戦勝記念に建造した仏塔です。それまで連敗続きだったビルマ(現ミャンマー)との戦争で、初めて勝利を収めた伝説の王として『黒の王』の異名も持つ、『タイの三大王』の一人です。(ウィキペディア)

    見納めのワット・チャイ・モンコンの石塔の光景です。高さ72メートルと言われるアユタヤ有数の仏塔の光景です。仏塔の途中まで登ることが出来、その場所からの見晴らしも楽しむことが出来ました。『サンペット2世(1555~1605年)』とも呼ばれる、アユタヤ21代王のナレースワン大王が、ビルマ軍戦勝記念に建造した仏塔です。それまで連敗続きだったビルマ(現ミャンマー)との戦争で、初めて勝利を収めた伝説の王として『黒の王』の異名も持つ、『タイの三大王』の一人です。(ウィキペディア)

  • 先ほどの尖塔の先端部分のズームアップ光景です。ナレースワン大王についての紹介の続きです。16世紀中頃、父はピッサヌロークの知事を務めていましたが、ピッサヌロークがビルマ(ミャンマー)に敗れると、人質としてビルマに連行され、幼少期をビルマで過ごしました。 この人質時代に戦術・戦闘を学びました。タイに戻ってからは現在のタイの国技であるムエタイを生み出し、タイの兵士を鍛えていきます。そして1574年にアユタヤ王朝の独立を宣言、度重なるビルマとの戦争に悉く勝利し、『軍神』あるいは『闘神』とも呼ばれました。タイ映画史上最大級の制作費が投じられた2011年の映画作品、『キング・ナレスワン』の主人公としても取り上げられました。(同上)

    先ほどの尖塔の先端部分のズームアップ光景です。ナレースワン大王についての紹介の続きです。16世紀中頃、父はピッサヌロークの知事を務めていましたが、ピッサヌロークがビルマ(ミャンマー)に敗れると、人質としてビルマに連行され、幼少期をビルマで過ごしました。 この人質時代に戦術・戦闘を学びました。タイに戻ってからは現在のタイの国技であるムエタイを生み出し、タイの兵士を鍛えていきます。そして1574年にアユタヤ王朝の独立を宣言、度重なるビルマとの戦争に悉く勝利し、『軍神』あるいは『闘神』とも呼ばれました。タイ映画史上最大級の制作費が投じられた2011年の映画作品、『キング・ナレスワン』の主人公としても取り上げられました。(同上)

  • ワット・チャイ・モンコンの見学を終えて、ワット・プラ・マハタートに向かう途中の光景です。ワット・プラ・マハタートの起源を巡っては複数の説がありますが、14世紀頃の創建には間違いないようです。1956年の修復の際の発掘調査で、塔の跡から数々の黄金仏や宝飾品などが発見され、これらは現在、チャオサムプラヤー国立博物館に展示されているようです。(同上)

    ワット・チャイ・モンコンの見学を終えて、ワット・プラ・マハタートに向かう途中の光景です。ワット・プラ・マハタートの起源を巡っては複数の説がありますが、14世紀頃の創建には間違いないようです。1956年の修復の際の発掘調査で、塔の跡から数々の黄金仏や宝飾品などが発見され、これらは現在、チャオサムプラヤー国立博物館に展示されているようです。(同上)

  • ワット・プラ・マハタートの遺跡群が見えてきました。1767年にビルマ(ミャンマー)の侵攻により、徹底的な破壊を受けたアユタヤ遺跡ですが、その中でもワット・プラ・マハタートの仏像や仏塔の破壊はすさまじいものでした。先に見学したワット・チャイ・モンコンと比べますと、同じ仏教国とは信じられないほどの破壊が行われていました。

    ワット・プラ・マハタートの遺跡群が見えてきました。1767年にビルマ(ミャンマー)の侵攻により、徹底的な破壊を受けたアユタヤ遺跡ですが、その中でもワット・プラ・マハタートの仏像や仏塔の破壊はすさまじいものでした。先に見学したワット・チャイ・モンコンと比べますと、同じ仏教国とは信じられないほどの破壊が行われていました。

  • 明らかに左側に傾いているように見えた、トウモロコシ型の石塔の光景です。ここで、簡単にアユタヤ王朝について説明しておきます。『アユタヤ王朝(1351~1767年)は、現在のタイ王国の中部に位置するアユタヤを中心に展開したタイ族による王朝です。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)、王統は一つではなく、隣国の征服や重臣の簒奪により、五つの王家に分かれます。その内の三番目の王家(1569~1629年)は、タイ国の最初の王朝とされるスコータイ朝の王家の末裔です。(ウィキペディア)

    明らかに左側に傾いているように見えた、トウモロコシ型の石塔の光景です。ここで、簡単にアユタヤ王朝について説明しておきます。『アユタヤ王朝(1351~1767年)は、現在のタイ王国の中部に位置するアユタヤを中心に展開したタイ族による王朝です。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)、王統は一つではなく、隣国の征服や重臣の簒奪により、五つの王家に分かれます。その内の三番目の王家(1569~1629年)は、タイ国の最初の王朝とされるスコータイ朝の王家の末裔です。(ウィキペディア)

  • アユタヤ王国は、タイに興った各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する地の利を生かし、貿易が国富として重要でした。アユタヤ王朝でも王家を中心として、独占的な貿易が行われました。主に中国への米の輸出で国力を得たほか、日本、琉球などの東アジア国家、東南アジア島嶼部、アラブ・ペルシア方面や西洋と活発に貿易を行い、莫大な富を蓄えました。この富を背景にアユタヤでは当時繁栄していたクメール文化を吸収しつつ、中国、ヨーロッパ、ペルシャなどの文化の影響を受けつつ、独自の華やかな文化が開花しました。(同上)

    アユタヤ王国は、タイに興った各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する地の利を生かし、貿易が国富として重要でした。アユタヤ王朝でも王家を中心として、独占的な貿易が行われました。主に中国への米の輸出で国力を得たほか、日本、琉球などの東アジア国家、東南アジア島嶼部、アラブ・ペルシア方面や西洋と活発に貿易を行い、莫大な富を蓄えました。この富を背景にアユタヤでは当時繁栄していたクメール文化を吸収しつつ、中国、ヨーロッパ、ペルシャなどの文化の影響を受けつつ、独自の華やかな文化が開花しました。(同上)

  • 初代のウートーン王の出自については、歴史資料上はっきりしていません。そのためいくつかの説が出されてきました。その中には、疫病(おそらくはコレラ)で見捨てたチエンセーンから移住してきたといった説や、スパンブリー出身、ロッブリー出身説などがあります。チエンセーンは、現在のタイ北部のチエンラーイ県にある郡(アムプー)の一つです。スパンブリーは、現在のバンコクの北西100キロほどに位置し、ロッブリーは、現在のアユタヤ県に隣接するチャオプラヤー川東部の平坦な地区です。(同上)

    初代のウートーン王の出自については、歴史資料上はっきりしていません。そのためいくつかの説が出されてきました。その中には、疫病(おそらくはコレラ)で見捨てたチエンセーンから移住してきたといった説や、スパンブリー出身、ロッブリー出身説などがあります。チエンセーンは、現在のタイ北部のチエンラーイ県にある郡(アムプー)の一つです。スパンブリーは、現在のバンコクの北西100キロほどに位置し、ロッブリーは、現在のアユタヤ県に隣接するチャオプラヤー川東部の平坦な地区です。(同上)

  • 完全な廃墟となった、寺院跡らしい場所の光景です。ワット・プラ・マハタートか、隣接する場所のようです。アユタヤ朝の歴史紹介に戻ります。アユタヤ朝創設当時の、近隣の状況は、スコータイ朝が隣接してしていたものの領土でなかったことや、付近の遺跡状況から、歴史資料としてまだ見つかっていない王朝がすでに存在していたか、小国が並立していたこと等が想定されています。(同上)

    完全な廃墟となった、寺院跡らしい場所の光景です。ワット・プラ・マハタートか、隣接する場所のようです。アユタヤ朝の歴史紹介に戻ります。アユタヤ朝創設当時の、近隣の状況は、スコータイ朝が隣接してしていたものの領土でなかったことや、付近の遺跡状況から、歴史資料としてまだ見つかっていない王朝がすでに存在していたか、小国が並立していたこと等が想定されています。(同上)

  • ワット・プラ・マハタートで、一番有名な仏塔の光景です。2005年の見学の時には、監視員がいて、周りに立ち入り禁止の木柵が設けられ、飾りつけなどもありましたが、今回、一変して殺風景な光景になっていました。余りにも変わりましたので、今後の維持管理が大丈夫なのか、他人事ながら心配になりました。

    ワット・プラ・マハタートで、一番有名な仏塔の光景です。2005年の見学の時には、監視員がいて、周りに立ち入り禁止の木柵が設けられ、飾りつけなどもありましたが、今回、一変して殺風景な光景になっていました。余りにも変わりましたので、今後の維持管理が大丈夫なのか、他人事ながら心配になりました。

  • ズームアップした仏頭の光景です。アユタヤの象徴ともいえる砂岩で出来たこの仏頭は、1600年代中頃に胴体から離れて地面に落ちたと言われています。その後、木の成長とともに根元にとり込まれ、現在の姿となったようです。日本の歴史で例えれば、1600年が関ヶ原の戦い、江戸時代の初期になります。個人的には、転がった仏頭を見て、哀れに思った方が木の根の間に置かれたのが始まりではないかと推測しています。

    イチオシ

    ズームアップした仏頭の光景です。アユタヤの象徴ともいえる砂岩で出来たこの仏頭は、1600年代中頃に胴体から離れて地面に落ちたと言われています。その後、木の成長とともに根元にとり込まれ、現在の姿となったようです。日本の歴史で例えれば、1600年が関ヶ原の戦い、江戸時代の初期になります。個人的には、転がった仏頭を見て、哀れに思った方が木の根の間に置かれたのが始まりではないかと推測しています。

  • 更にズームアップした、仏頭の光景です。かつては、見学する人も、仏頭より高い位置から眺めてはいけない、写真を撮ってはいけないと、厳しく注意されていましたが、それを注意する人の姿も全くありませんでした。せめて分かり易い注意書きを設置するなどの措置をした方がよいのではないかと、お節介心が湧いてしまいました。

    更にズームアップした、仏頭の光景です。かつては、見学する人も、仏頭より高い位置から眺めてはいけない、写真を撮ってはいけないと、厳しく注意されていましたが、それを注意する人の姿も全くありませんでした。せめて分かり易い注意書きを設置するなどの措置をした方がよいのではないかと、お節介心が湧いてしまいました。

  • 別の角度から撮影した仏頭の光景です。今回、この仏頭を見学して、一番心配したのは、国の政策として仏教に対する締め付けの有無でした。大切な観光資源になっていることは明らかな事実ですから、タイ王国としても、もう少し配慮すべきことのように感じました。かつての監視は、形式的すぎ、厳しすぎる面がありましたが、それは容易に改善できる範囲だったとも思います。そのことで、ユネスコからの指摘があったとも思えません。

    別の角度から撮影した仏頭の光景です。今回、この仏頭を見学して、一番心配したのは、国の政策として仏教に対する締め付けの有無でした。大切な観光資源になっていることは明らかな事実ですから、タイ王国としても、もう少し配慮すべきことのように感じました。かつての監視は、形式的すぎ、厳しすぎる面がありましたが、それは容易に改善できる範囲だったとも思います。そのことで、ユネスコからの指摘があったとも思えません。

  • 仏頭を締め付けていたのは、ガジュマルらしい木の根です。低い位置に見える仏頭の部分では、根が膨らんでいました。長年月経過すれば、やがて根に巻き込まれてしまいそうです。それにしても、余りにも管理が簡略化されたことには、驚きより、心配が先に立ちました。

    仏頭を締め付けていたのは、ガジュマルらしい木の根です。低い位置に見える仏頭の部分では、根が膨らんでいました。長年月経過すれば、やがて根に巻き込まれてしまいそうです。それにしても、余りにも管理が簡略化されたことには、驚きより、心配が先に立ちました。

  • 少し離れた場所から眺めた仏塔の光景です。簡単な杭が立てられ、ロープが張られていました。木柵が設けられていた時に比べますと、かなり立ち入り規制範囲が広がりましたので、仏頭の見学には若干不便になっていました。

    イチオシ

    少し離れた場所から眺めた仏塔の光景です。簡単な杭が立てられ、ロープが張られていました。木柵が設けられていた時に比べますと、かなり立ち入り規制範囲が広がりましたので、仏頭の見学には若干不便になっていました。

  • アユタヤ朝の歴史紹介に戻ります。アユタヤ朝初代王の『ウートーン』の意味は、『金の揺りかご』を意味し、伝承によればタイ中部でこの名を持つ王は多いとされます。アユタヤ朝創設以前のタイ中部のロッブリーやペッチャブリーは、スコータイ朝とは別に中国に朝貢しています。このため、ウートーン王の出身もタイ中部のある国の王家と推測されています。(ウィキペディア)

    アユタヤ朝の歴史紹介に戻ります。アユタヤ朝初代王の『ウートーン』の意味は、『金の揺りかご』を意味し、伝承によればタイ中部でこの名を持つ王は多いとされます。アユタヤ朝創設以前のタイ中部のロッブリーやペッチャブリーは、スコータイ朝とは別に中国に朝貢しています。このため、ウートーン王の出身もタイ中部のある国の王家と推測されています。(ウィキペディア)

  • ウートーン王は、王朝年代記では『ラーマーティボーディー』という名で記述されています。王が即位するにあたり、姻戚のスパンナプーム王家(スパンブリー王家)の協力が不可欠であったことは、後の対スコータイ政策で顕著となっています。ウートーン王家(ロッブリー王家)とスパンナプーム王家はその後、数代に亘って王位を争いましたが、最終的にスパンナプーム王家が勝利しました。『スパンナプーム王家(1370~1388、1409‐1569年)』は、アユタヤ朝の5王家の内の一つです。(同上)

    ウートーン王は、王朝年代記では『ラーマーティボーディー』という名で記述されています。王が即位するにあたり、姻戚のスパンナプーム王家(スパンブリー王家)の協力が不可欠であったことは、後の対スコータイ政策で顕著となっています。ウートーン王家(ロッブリー王家)とスパンナプーム王家はその後、数代に亘って王位を争いましたが、最終的にスパンナプーム王家が勝利しました。『スパンナプーム王家(1370~1388、1409‐1569年)』は、アユタヤ朝の5王家の内の一つです。(同上)

  • ラーマーティボーディー1世は、国内統一のため、セイロンから仏僧を招いて上座部仏教(小乗仏教)を国家の公式な宗教とするとともに、ヒンドゥ教の法典であるダルマシャスートラやタイでの慣習を元に『三印法典』を整備しました。三印法典は近代的な法典が整備される19世紀までタイの基本法典として機能しました。三印法典は、タイ最古の成文法典です。(同上)

    ラーマーティボーディー1世は、国内統一のため、セイロンから仏僧を招いて上座部仏教(小乗仏教)を国家の公式な宗教とするとともに、ヒンドゥ教の法典であるダルマシャスートラやタイでの慣習を元に『三印法典』を整備しました。三印法典は近代的な法典が整備される19世紀までタイの基本法典として機能しました。三印法典は、タイ最古の成文法典です。(同上)

  • 14世紀末までにはアユタヤ王朝は東南アジア最大の勢力となりましたが、完全に東南アジア地域を圧倒するほどの人口に欠けていいました。このため、当時衰退しつつあったクメール王朝へ勢力を伸ばしてきたベトナム勢力に対抗するため、ラーマーティボーディーは晩年(1362年)、クメールのアンコールを攻撃しアユタヤの版図に加えました。以上で、アユタヤ建国期の紹介はお終いです。(同上)

    14世紀末までにはアユタヤ王朝は東南アジア最大の勢力となりましたが、完全に東南アジア地域を圧倒するほどの人口に欠けていいました。このため、当時衰退しつつあったクメール王朝へ勢力を伸ばしてきたベトナム勢力に対抗するため、ラーマーティボーディーは晩年(1362年)、クメールのアンコールを攻撃しアユタヤの版図に加えました。以上で、アユタヤ建国期の紹介はお終いです。(同上)

  • 大樹の木陰で、ガイドさんの説明を受けていたツアーの皆さん方です。説明されているのは、ガジュマルの根に支えられた仏頭がある場所でした。2005年の見学時に比べ、余りにも様子が変わっていましたので、心配しましたが、時が経てば、これが当たり前の光景になるのかも知れません。

    大樹の木陰で、ガイドさんの説明を受けていたツアーの皆さん方です。説明されているのは、ガジュマルの根に支えられた仏頭がある場所でした。2005年の見学時に比べ、余りにも様子が変わっていましたので、心配しましたが、時が経てば、これが当たり前の光景になるのかも知れません。

  • 日本語と英語でも注意書きが併記されていた看板の光景です。右上の日本語では、『塔の上に登らないでください』と表記されていました。その下の五つの図面は、具体的に『塔の上』を図示したものでした。特に、建造物の基礎部分などが注意点になっていました。

    日本語と英語でも注意書きが併記されていた看板の光景です。右上の日本語では、『塔の上に登らないでください』と表記されていました。その下の五つの図面は、具体的に『塔の上』を図示したものでした。特に、建造物の基礎部分などが注意点になっていました。

  • 綺麗な姿をした、トウモロコシ型の石塔の光景です。その株では足場を組んで補修工事の最中でした。今回の旅行で、バンコクの『ワット・アルン(暁の寺)』の見学の時にも目にしましたので、紹介しておきました。建国期のアユタヤ王朝の紹介に続いて、15世紀のアユタヤ王朝の紹介です。アユタヤ朝は、アンコールの完全な掌握はできませんでした。スコータイ王国との関係は、スコータイがアユタヤに朝貢する形となりましたが、その後、100年かかって、アユタヤ朝がスコータイ朝を併合し、スコータイ朝は消滅しました。しかしこの過程で、アユタヤに新たに興ったスパンナプーム王家とスコータイの王家との姻戚関係が強くなり、その後もスコータイ王家は存続したと考えられています。(ウィキペディア)

    イチオシ

    綺麗な姿をした、トウモロコシ型の石塔の光景です。その株では足場を組んで補修工事の最中でした。今回の旅行で、バンコクの『ワット・アルン(暁の寺)』の見学の時にも目にしましたので、紹介しておきました。建国期のアユタヤ王朝の紹介に続いて、15世紀のアユタヤ王朝の紹介です。アユタヤ朝は、アンコールの完全な掌握はできませんでした。スコータイ王国との関係は、スコータイがアユタヤに朝貢する形となりましたが、その後、100年かかって、アユタヤ朝がスコータイ朝を併合し、スコータイ朝は消滅しました。しかしこの過程で、アユタヤに新たに興ったスパンナプーム王家とスコータイの王家との姻戚関係が強くなり、その後もスコータイ王家は存続したと考えられています。(ウィキペディア)

  • 15世紀のアユタヤ朝の紹介が続きます。マレー半島のマラッカ王国がアユタヤの悩みの種となりました。マレー半島ではマラッカやタンブラリンガ国(タイ語: ナコーンシータンマラート王国)、 リゴール王国、現在のナコーンシータンマラート県付近の地峡部以南のマレー半島諸都市が、15世紀早くからイスラム教に改宗するようになり、独立を宣言するようになったためです。(同上)

    15世紀のアユタヤ朝の紹介が続きます。マレー半島のマラッカ王国がアユタヤの悩みの種となりました。マレー半島ではマラッカやタンブラリンガ国(タイ語: ナコーンシータンマラート王国)、 リゴール王国、現在のナコーンシータンマラート県付近の地峡部以南のマレー半島諸都市が、15世紀早くからイスラム教に改宗するようになり、独立を宣言するようになったためです。(同上)

  • 結果的にアユタヤはマレー半島南部を失いますが、マレー半島北部を維持し、高級品を求めてやってきた中国出身の商人により国内の経済は潤いました。次は16世紀のアユタヤ王国の紹介です。1511年、アユタヤに同年にマラッカを占領したばかりのポルトガルから外交使節が到来しました。これはタイの歴史上における最初の欧米勢力との接触と考えられています。(同上)

    結果的にアユタヤはマレー半島南部を失いますが、マレー半島北部を維持し、高級品を求めてやってきた中国出身の商人により国内の経済は潤いました。次は16世紀のアユタヤ王国の紹介です。1511年、アユタヤに同年にマラッカを占領したばかりのポルトガルから外交使節が到来しました。これはタイの歴史上における最初の欧米勢力との接触と考えられています。(同上)

  • 沖縄の琉球王国では、交易の拠点としていたマラッカが1511年に失われた後、使節を派遣して東南アジア産品をアユタヤで調達していましたが、それは1570年が最後となりました。一時滅亡したアユタヤが、復興後に接触が無かったのは、1567年に明朝が中国商人の直接交易を緩和し、中継交易そのものに打撃を受けたためです。琉球の交易は中国の朝貢国間ネットワークに組み込まれた国営事業でした。(同上)

    沖縄の琉球王国では、交易の拠点としていたマラッカが1511年に失われた後、使節を派遣して東南アジア産品をアユタヤで調達していましたが、それは1570年が最後となりました。一時滅亡したアユタヤが、復興後に接触が無かったのは、1567年に明朝が中国商人の直接交易を緩和し、中継交易そのものに打撃を受けたためです。琉球の交易は中国の朝貢国間ネットワークに組み込まれた国営事業でした。(同上)

  • 西のビルマは地域の覇権を競い、16世紀ごろから執拗にアユタヤへの攻撃を繰り返しました。ビルマ・タウングー王朝の君主、バインナウンの軍門に下り、1569年にアユタヤ王、マヒントラーティラートを下したビルマは、地方領主のマハータンマラーチャーティラート(スコータイ王家)を傀儡王に立てました。(同上)

    西のビルマは地域の覇権を競い、16世紀ごろから執拗にアユタヤへの攻撃を繰り返しました。ビルマ・タウングー王朝の君主、バインナウンの軍門に下り、1569年にアユタヤ王、マヒントラーティラートを下したビルマは、地方領主のマハータンマラーチャーティラート(スコータイ王家)を傀儡王に立てました。(同上)

  • 1590年にナレースワンによってアユタヤは独立を回復し、1600年までにビルマ支配前のアユタヤに再興することに成功しました。ナレースワンは、アユタヤの諸制度の改革を断行しました。この後、ビルマが内乱に見舞われたことからビルマの侵攻は収まりました。日本とアユタヤの関係ですが、目立って日本人勢力が大きくなるのは、16世紀後半から17世紀初頭にかけてです。特に、日本で徳川幕府による天下統一が成し遂げられ、戦が無くなったため、傭兵の形で雇われていた浪人の多くが失業、海外に働き口を求めたのが原因と考えられています。一時期中国との貿易額をしのぐ勢力を保持していました。(同上)

    1590年にナレースワンによってアユタヤは独立を回復し、1600年までにビルマ支配前のアユタヤに再興することに成功しました。ナレースワンは、アユタヤの諸制度の改革を断行しました。この後、ビルマが内乱に見舞われたことからビルマの侵攻は収まりました。日本とアユタヤの関係ですが、目立って日本人勢力が大きくなるのは、16世紀後半から17世紀初頭にかけてです。特に、日本で徳川幕府による天下統一が成し遂げられ、戦が無くなったため、傭兵の形で雇われていた浪人の多くが失業、海外に働き口を求めたのが原因と考えられています。一時期中国との貿易額をしのぐ勢力を保持していました。(同上)

  • 1629年、プラーサートーン(プラーサートーン王家)がアユタヤの王位を奪いました。ところが、それまでタイ王の信任が厚かった山田長政は、1630年にムアンナコーンシータンマラートへ左遷され、イスラム勢力のパタニ軍と交戦した後、死亡しました。暗殺説もあるようです。1630年、日本の勢力拡大を危ぶんだ『プラーサートトーン王(1600~1656年)』によりアユタヤ日本人町は焼き討ちされて没落し、1635年には日本からの朱印船交易が廃止され完全に衰退しました。(同上)

    1629年、プラーサートーン(プラーサートーン王家)がアユタヤの王位を奪いました。ところが、それまでタイ王の信任が厚かった山田長政は、1630年にムアンナコーンシータンマラートへ左遷され、イスラム勢力のパタニ軍と交戦した後、死亡しました。暗殺説もあるようです。1630年、日本の勢力拡大を危ぶんだ『プラーサートトーン王(1600~1656年)』によりアユタヤ日本人町は焼き討ちされて没落し、1635年には日本からの朱印船交易が廃止され完全に衰退しました。(同上)

  • アユタヤ王国の滅亡についての説明です。1767年にビルマ(ミャンマー)のコンバウン王朝のシンビューシンによって滅亡しました。このときアユタヤの町は徹底的に破壊されました。コンバウン軍が退却した後、新たにタイの王となったタークシン(1734~1782年)はアユタヤ再興を諦め、チャオプラヤ川西岸のトンブリーへと遷都しました。

    アユタヤ王国の滅亡についての説明です。1767年にビルマ(ミャンマー)のコンバウン王朝のシンビューシンによって滅亡しました。このときアユタヤの町は徹底的に破壊されました。コンバウン軍が退却した後、新たにタイの王となったタークシン(1734~1782年)はアユタヤ再興を諦め、チャオプラヤ川西岸のトンブリーへと遷都しました。

  • アユタヤ王国の経済は、農村社会の余剰生産である米によって成り立っていました。<br />アユタヤのあったタイ中央平原部では食料に事欠かなかった地域とされます。アユタヤ王朝下では、税の支払いと自らの消費のために十分な米の量を確保することは難しいことではなかったようです。またその余剰は仏僧に喜捨されることが多く、仏教が支えられました。(同上)、以上でアユタヤ王国の歴史紹介は、お終いです。

    アユタヤ王国の経済は、農村社会の余剰生産である米によって成り立っていました。
    アユタヤのあったタイ中央平原部では食料に事欠かなかった地域とされます。アユタヤ王朝下では、税の支払いと自らの消費のために十分な米の量を確保することは難しいことではなかったようです。またその余剰は仏僧に喜捨されることが多く、仏教が支えられました。(同上)、以上でアユタヤ王国の歴史紹介は、お終いです。

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