2013/05/06 - 2013/05/13
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tomoさん
オーストリア一人旅4日目。
王宮の後は、カプツィーナ教会へ向かいます。
沢山の棺が並んでて、当時は有名どころ以外殆ど誰がどんな人か知らないまま見てましたが、自分の為にもいくつか調べて残しておきます。
写真も適当に撮ったり撮らなかったりだったので、ごく一部ですが。
Wikipedia先生にかなりお世話になりました。
…しかしこちらの方々は同じ名前が多過ぎて混乱しますね…
それに血族婚多いから関係も複雑です…。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
国立図書館から、カプツィーナ教会へ向かいます。
-
ここがカプツィーナ教会。
一見地味でつい通り過ぎちゃいそうな教会ですが、中にはハプスブルク家12人の歴代皇帝を含む、146体の棺が安置されている、重要な場所です。
入場料を支払って中に入ります。 -
ピエタ像。
-
中にはずらっと棺が並んでます。
-
こんな感じで並んでる棺も。
-
一人ひとり凝った棺です。
基本、昔の人から順に並んでます。
花が添えられてる棺は、エレオノーレ・マリア。1653-1697。
神聖ローマ皇帝、フェルディナント3世の娘。 -
これがフェルディナント3世。1608-1657。
娘さんの方が豪華な気が…(^^;) -
レオポルト・ヨーゼフ。1682-1284。
レオポルト1世の息子。
マリア・テレジアのお父様、カール6世の兄。
2歳で亡くなったみたいだけど棺は大人サイズ? -
ピンボケですが、フェルディナント4世。1633-1654。
フェルディナント3世の息子。
父の在位中にローマ王(時期皇帝)となりましたが、翌年20歳で父より早く亡くなってしまったらしいです。 -
カール6世の息子、レオポルト・ヨーハン。1716-1716。
1歳に満たず夭折。棺は豪華ですね。
カール6世は他に男児に恵まれなかったため、長女のマリア・テレジアが後を継ぐことになります。 -
マリア・マグダレーナ。1689-1743。
レオポルト1世の娘。
生涯独身を通して、59歳で亡くなったそうな。
姪のマリア・テレジアとは仲が良かったらしいです。 -
エレオローネ・マグダレーネ。1655-1720。
レオポルト1世の三人目の妻。
マリア・テレジアの父、カール6世の母。
他にもヨーゼフとか10名も子供を産んでます。 -
マリア・アナ・デ・エスパーニャ(María Ana de España)、ドイツ語だとマリア・アンナ・フォン・シュパーニエン(Maria Anna von Spanien)。
スペイン王フェリペ3世の娘、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の従妹であり最初の妻(妻は3人いる)。 -
マリア・アマーリア。1724-1730。
カール6世の娘、マリア・テレジアの妹。 -
レオポルト・ヨーゼフ。1700-1701。
ヨーゼフ1世(レオポルト1世の息子、カール6世の兄)の息子。
見ての通り1歳で夭折し、他に息子がいなかったので、ヨーゼフ1世死後、カールが後を継ぎカール6世になります。 -
レオポルト1世。1640-1705。
オスマン・トルコのウィーン包囲や、フランスのルイ14世とのスペイン継承戦争などなど、戦争ばかりの大変だった皇帝。
3日目に写真を載せた、ペスト記念柱を建てたお方ですね。
ウィキ先生を見る限り、3人の妻との間に16人の子供がいますが、成人したのは6人だけ…昔は成人するのがいかに難しかったかよく分かりますね…。 -
ピンボケですが、ヨーゼフ1世。1678-1711。
レオポルト1世の長男。
1705年、父の死去により皇帝に即位。
スペイン継承戦争を続け、弟のカールはスペインの王位に就く予定でしたが、ヨーゼフ1世が1711年に死去、息子も夭折(2個上の写真)していた為、カールはスペインを諦め、カール6世として即位します。 -
マリア・エリーザベト。1680-1741。
レオポルト1世の次女。ヨーゼフ1世の妹、カール6世の姉。
オーストリア領ネーデルラント総督。生涯独身。 -
マリア・アンナ。1718-1744。
カール6世の次女。マリア・テレジアの妹。
ロートリンゲン公子カール・アレクサンダーと恋に落ちるが、彼はマリア・テレジアの夫であるフランツ・シュテファンの弟で、カール6世はこの二人の結婚を許しませんでした。
父の死後、マリア・テレジアは二人の結婚を許可し、1744年1月に二人は結ばれます。
が、カール・アレクサンダーが出征中、第一子を死産したマリア・アンナは自らも急死。1744年12月。
…結婚生活1年にも満たず…。一緒にいたのは2か月だったらしい…。
カール・アレクサンダーはその後1780年に死去するまで、再婚しなかったそうです。 -
カール6世。1685-1740。
もう何度も出てますが、レオポルト1世の次男、ヨーゼフ1世の弟、マリア・テレジアの父。
ヨーゼフ1世の所と被りますが、当時ハプスブルク家はオーストリアとスペインに分かれてまして、スペイン・ハプスブルク家が、カルロス2世の死によって断絶したのです。
で、レオポルト1世は長男のヨーゼフをオーストリア皇帝、二男のカールをスペイン
王にしようとしました。
しかしカルロス2世は生前フランスのルイ14世の孫(のちのフェリペ5世)を後継者に推薦してた為、スペイン継承戦争が起こるわけです。
カールはスペイン王になるべく戦っていましたが、兄のヨーゼフ1世が亡くなると、神聖ローマ皇帝を継ぐことになります。
オーストリア、スペインの広大な領土を一人で継ぐと周辺諸国とのパワーバランスが崩れる為、それを恐れた他国により結局フェリペ5世が即位、カールはスペインを諦めざるを得ませんでした。
その後男子に恵まれなかったカール6世は、相続順位法を定め、長女マリア・テレジアを後継者にするべく、周辺諸国に色々な犠牲を払ってこれを認めさせます。
…まぁカール6世が死んだらもちろんそんな約束は皆守らず、戦争になるんですけどね…。
そして死ぬまでマリア・テレジアに息子が誕生することを祈り続けていましたが、それを見る事は叶わず亡くなります。
皮肉なことに彼の死から5か月後、マリア・テレジアは待望の男児を出産します。 -
エリーザベト・クリスティーネ。1691-1750。
完全に文面がピンボケなのですが、調べたら彼女のでした。間違いない、ハズ…
カール6世の妻、マリア・テレジアの母。
カール6世から「白き肌のリースル」と呼ばれ、仲の良い夫婦だったようです。
しかし子供には恵まれず…様々な努力の末生まれた長男も1歳にも満たず夭折(↑の方に棺ありましたね)。
後年、リウマチで車椅子生活だったのですが、カール6世の死後、マリア・テレジアに待望の男児が生まれた時は、喜びのあまり一時的に歩けるようになったらしいです。 -
そしてここがマリア・テレジア様のゾーン。
中央の一際大きな棺には、マリア・テレジアと夫のフランツ・シュテファンが仲良く眠っています。
ここで写真撮ろうとしてたら、横からオジサンが「写真撮ってあげるからそこに立って!(英語で)」といきなり言ってきて、写真撮ってくれました(^^;)しかも3枚もw
棺の前でどんな顔して映ればいいんだよ…とちょっと複雑でしたが…
でもオジサンありがとう。
おかげで棺がいかに巨大かが分かりますね(^^;) -
このゾーンでは棺の前ではなく、このようにまとめて説明文が書かれてました。
ここではマリア・テレジア夫妻のしかまともに撮ってないんですが(なんせとにかく棺しかないので、この辺に来るともう若干飽きが来てて…)、ヨーゼフ2世のもあったんですね。今ちゃんと見て知りました(^^;)
前の旅行記〈http://4travel.jp/travelogue/10779213〉にも記した、「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」と自ら墓碑銘を選んだお方です。
…なんかこの言葉忘れられないんですよね…
棺すらも親に隠れた片隅にあって、なんだか可哀想…(>_<) -
マリア・テレジア夫妻の前にあるのは、↑を見る限りマリア・ヨーゼファかな?
字がピンボケでよく分からない為、もしかしたら違うかもですが。
マリア・ヨーゼファ。1739-1767。
↑に書いたヨーゼフ2世の2番目の妻。
彼女は夫を愛したが、夫は先妻(若くして亡くなっている)を終生愛し続けたため、彼女の結婚生活は不幸なものだったそうです。
…でもホントにこの棺が彼女のものだったら、なぜこんな目立つところにあるのか疑問なんですが…。 -
さっきの反対側の説明文。こっちもピンボケでイラッとするー(-_-;)
…どうでも良い事ですが、なぜこんなピンボケばかりかと言うと、レンズに指紋が付いちゃってたからです…気づかないまま撮ってたのでこんな事に…orz -
そして改めてマリア・テレジア(1717-1780)とフランツ・シュテファン(1708-1765)。
言わずと知れたマリア・テレジア様。マリー・アントワネットの母。
女帝と言われていますが、実際の皇帝は夫のフランツ1世です。実質的には彼女が仕切っていたわけですが。
そしてこの当時、奇跡的に恋愛結婚で結ばれた稀有な夫婦です。
フランツ・シュテファンはロレーヌ(ロートリンゲン)公子。
ウィーンに留学に来てカール6世に気に入られ、マリア・テレジアに惚れられ、結婚することになります。
が、結婚するにあたって、故国ロレーヌを手放すという屈辱を受け、その後もマリア・テレジアのおまけの外国人という扱いを受け続けます。
でも温かく家族思いの優しいお方だったみたいですね。
二人の間には16人も子供がおり、それだけで仲の良さが伺えます。
夫が亡くなった後、マリア・テレジアは喪服以外着なかったそうです。
二人だけ仲良く一緒の棺に入っている事からも、彼女がいかに夫を愛していたかが分かりますね。
この二人に関しては、「ハプスブルクの宝剣」藤本ひとみ著…を読むとよく分かります。面白いです。
…が、私はこれで若干マリア・テレジアを嫌いになりました…フランツ・シュテファンは好きになりました(^^;)
この話、宝塚がミュージカルにしてるみたいですね。ちょっと気になります。 -
写真だけじゃ誰の棺か分かりません…↑の説明文の中の誰かです(^^;)
-
これも。
髑髏が目立ってる… -
これも。
…しかしこれ、なんかリアルでちょっと怖い… -
これは↑の54番のクリスティーナのはずなんですが、このクリスティーナが誰なのかが分かりません(>_<)写真がピンボケなせいで…orz
とりあえず1767年に生まれ、死んだ赤ちゃんです。
ちっちゃい棺です。 -
マリア・テレジア夫妻の棺を後ろから。
それにしても凝った棺ですよね…すごい。 -
横から。
うーん、大きいなぁ… -
フランチェスコ5世。1819-1875。
最後のモデナ公。…ってこの方の存在を今調べて初めて知りました(^^;)
なんでモデナ公とやらがここにいるのか?と思ったら、モデナ公国は統一イタリアによって独立を奪われ、彼は退位させられてオーストリアに逃れ、ウィーンで死去したそうです。 -
フェルディナント1世。1793-1875。
神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世=オーストリア皇帝フランツ1世の長男。
三月革命で退位させられる。
病弱で子供はおらず、そもそも帝位を継ぐのも危ぶまれる程だったが、82歳まで生きた長生きなお方。 -
レオポルト2世。1747-1792。
マリア・テレジア&フランツ・シュテファンの息子。ヨーゼフ2世の弟。
父のフランツ・シュテファン(フランツ1世)死後、神聖ローマ皇帝は兄のヨーゼフ2世が継ぎ、彼はトスカーナを継承、トスカーナ大公となります。
ヨーゼフ2世の死後、跡継ぎの子供がいなかった為、レオポルト2世として即位しますが、在位2年で死去。
マリー・アントワネットらフランス国王一家がヴァレンヌ逃亡事件で捕まった時、妹を助けようとピルニッツ宣言を行いましたが、これが見事に逆効果、フランス革命は戦争につながっていきます。
…それにしても皇帝とは思えない、随分簡素な棺ですね… -
アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン。1738-1822。
父はポーランド王アウグスト3世、母は神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘マリア・ヨーゼファ。二人の六男。
マリア・テレジアの一番お気に入りの娘、マリア・クリスティーナと恋に落ち、マリア・テレジアの子供たちの中で唯一恋愛結婚を許されました。
ただし、その分マリア・テレジアの死後、他の兄弟たちから冷遇されます。
ウィーンにある美術館、アルベルティーナの創設者として知られています。
これまた簡素な棺ですが、花が添えられていて印象的でした。 -
次はまた薄暗い所にずらーっと棺が並んでます。
左側はレオポルト・ヴィルヘルム。1614-1662。
三十年戦争を引き起こしたフェルディナント2世の末子。一番最初の方にあった棺、フェルディナント3世の弟。
父の後押しで高位聖職者となり、様々な聖職禄を入手しました。
三十年戦争では兄に軍司令官に任命されますが、当然軍を率いたことなどないので、敗北を重ね、辞任します。 -
それにしても棺が多い。
もはや誰の棺か特定する気もなくなる数です… -
カール・フェルディナント。1818-1874。
フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の弟、カール大公の次男。
軍人として活躍。 -
マクシミリアン(メキシコ皇帝)。1832-1867。
見てくださいこの花たちを!
彼の人気が分かりますね。
マクシミリアンについては3日目の王宮家具博物館〈http://4travel.jp/travelogue/10777915〉でもけっこう触れました。
フランツ・ヨーゼフの弟で、フランスのナポレオン3世に唆されてメキシコ皇帝となり、のちに銃殺刑となった可哀想なお方です…。
兄のフランツ・ヨーゼフよりも優秀で社交的、子供のころから人気は高かったそうです。
彼の最期の言葉は「私は全ての人を許そう! お願いだ、みなも私を許してくれたまえ! いま流される血が、この国の幸福につながらんことを望む! メキシコ万歳! 独立万歳!」だそうです。By Wikipedia先生 -
マリア・ルドウィカ(ルイーザ)。1791-1847。
フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の長女。フランス皇帝ナポレオン1世の妻。
ナポレオンを嫌うように育てられ、ナポレオンとの結婚が決まると泣き崩れたものの、いざ結婚すると優しい夫を愛するようになります。
が、ナポレオンが敗北すると、強制的に息子とともにオーストリアに帰国、当初はナポレオンを案じ会いに行こうとしていましたが、護衛兼監視役のナイペルク伯にメロメロになり、ナポレオンや長男の事など忘れ去り、秘密裏に子供も産んで、のちに彼と再婚します。
…一番可哀想なのは長男ですね… -
アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン。1817-1895。
フランツ2世(オーストリア皇帝フランツ1世)の弟、カール大公の長男。
父、弟と同様、軍人として活躍。 -
ゾフィー(オーストリア大公妃)。1805-1872。
フランツ・ヨーゼフ、マクシミリアンの母。
棺が真っ暗で全然分からないんですが、折鶴が一羽供えられていて印象的でした。
夫のフランツ・カールは地味で魅力のない男性でしたが、数度の流産を経て、6人の子供をもうけています。
ナポレオンの息子、ライヒシュタット公(↑のマリア・ルドウィカの可哀想な長男)と仲が良く、マクシミリアンが生まれた際には、彼との子供ではないかと噂された程。
長男フランツ・ヨーゼフが18歳で即位してからは政治に絶大な影響力を及ぼしており、臣民は密かに「宮廷内のただ一人の本物の男だ」と評していたそうです。
フランツ・ヨーゼフの嫁、エリーザベト(シシィ)とは嫁姑のバトルが繰り広げられます。
私的には女傑!!!ってイメージが強いです。
そんな彼女も、愛息マクシミリアンがメキシコで銃殺されると、すっかり生きる気力を失くしてしまったそうです…
今ウィキ先生見て知りましたが、棺はライヒシュタット公とマクシミリアンの間にあるらしいです。
全然そこまで気にしてなかった…!! -
そしてこれ!これがここに来た目的です。こちらは裏側なんですが。
真ん中が皇帝フランツ・ヨーゼフ、右がエリーザベト(シシィ)、左がルドルフ皇太子。 -
フランツ・ヨーゼフの横顔が。
-
エリーザベトの裏側。
ちなみに基本エリザベートって言っちゃってますが、本当はエリーザベトです。
エリザベートは勝手な日本語読み(?)なんですが、そっちで慣れちゃってるのでついエリザベートって言っちゃう… -
ルドルフ皇太子の裏側。
-
前から見たルドルフ皇太子の棺。1858-1889。
この三人に関しては前語ったので詳細は省きます。
気になる方は【3日目その2 王宮家具博物館】〈http://4travel.jp/traveler/moekaw1/album/10777915〉をご覧下さい(^^;)
さすがにこのお三方には花が沢山供えられていますね。
写真じゃ分からないかもですが、供えられてる花のリボンにメッセージも書かれてます。読めないけど… -
フランツ・ヨーゼフ。1830-1916。
高くて棺の上がまったく見えません…
生前は色々あった親子ですが、棺は仲良く並んでます。
でもフランツ・ヨーゼフ的には良いとしても、シシィとルドルフ的にはどうなんでしょうね…複雑… -
エリーザベト(シシィ)。1837-1898。
シシィ大人気!愛されてますね。 -
オットー。1912-2011。
最後の皇帝カール1世と皇后ツィタの長男。
98歳で亡くなったのが2011年ですよ!一昨年ですよ!
それがこのハプスブルク家のながーい歴史の新たな一幕として位置してるのが、何か感慨深いものがあります…。 -
これがまた悲しいことにピンボケでして…
字が判読不可能で誰だか分かりません…orz
誰だー??? -
ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ。1892-1989。
最後の皇帝カール1世の妻。
フランツ・ヨーゼフの後継者、甥のフランツ・フェルディナント(サラエヴォ事件で暗殺され、第一次世界大戦の発端となった人)は貴賤結婚した為フランツ・ヨーゼフとの仲が険悪になっていました。
対してブルボン家末裔である由緒正しい貴族のツィタは、フランツ・ヨーゼフお気に入りの嫁でした。
妻と息子を亡くし落ち込んでいたフランツ・ヨーゼフは、二人の結婚を喜び、更に長男オットーの誕生には歓喜の涙を流したほどだったそうです。
第一次世界大戦に敗北しカールは退位、ポルトガル領マデイラ島に亡命します。
カールは1922年にそこで亡くなり、遺体もマデイラ島に葬られました。
彼女はその後スイスで亡くなり、国外追放になってましたが反対論を押し切ってシュテファン寺院で葬儀が行われ、皇族としてここに葬られたそうです。
プライドが高く、死ぬまでいつの日かハプスブルク家が君主に返り咲くことを信じて疑わなかったそうな。 -
カール・ルートヴィヒ。1918-2007。
カール1世とツィタの四男。
マデイラ島で生まれ、ベルギーの大学へ進み、ナチス侵攻に伴って家族と北米へ避難、カナダに落ち着きます。
第二次大戦ではアメリカ軍に入隊し、ノルマンディー上陸作戦にも参加しています。
その後ベルギーで結婚、ベルギーで勤務していた会社の子会社をカナダに設立、…てことはまたカナダで生活してたんでしょうね。
オーストリア政府に入国禁止とされていましたが、1996年に帝位請求権放棄と忠誠の宣言を行って、入国を許可されています。 -
最後の皇帝カール1世。1887-1922。
↑のツィタの所で触れた通り、彼は亡命先のマデイラ島に葬られているので、このように彫像があるんでしょう。
そしてここが最後なのですが、ここまで来て、やっと気付いたのです。
マルガリータ王女を見てないことに…!!!! -
マルガリータ王女とは彼女です。
これは今うちに飾ってあるのを急遽撮った写真なので、分かりにくくて申し訳ないですが。
私スペインの宮廷画家、ベラスケスが大好きで。
彼女はベラスケスが仕えたフェリペ4世の長女で、彼女の肖像画が多数描かれているのです。
彼女の棺もあるのは知ってたんですが、すっかり見落としちゃってました…
これは見つけなければ!と一人逆走…(^^;)
なんせ昔の方なので、ほぼ最初の方まで戻るハメになりました… -
そして発見!
マルガリータ・テレサ。1651-1673。
えー、彼女の時代にはハプスブルク家はオーストリアとスペインに分かれてまして。
何故かと言えば、まぁ簡単にまとめると、16世紀にカール5世がスペインなどを息子に譲り、オーストリアなどを弟に譲ったので、そういう事になったのです(^^;)
で、両家は近親婚を繰り返しており、そのせいで体が弱かったり発狂したりと色々な悪影響がでています。
彼女の両親も伯父と姪の関係。
彼女自体も11歳年上の叔父、レオポルト1世(最初の方に紹介しました)と結婚し、スペインからウィーンにやってきます。
↑の絵は、レオポルト1世へのお見合い写真代わりの肖像画。
ベラスケスの最高傑作、ラス・メニーナス(女官たち)もマルガリータ王女メインの、皇帝一家の絵画です。
これはスペインのプラド美術館にありまして、死ぬまでに生で見てみたいと常々思ってます。
って話がずれました。 -
これが肝心のマルガリータの棺です。
Mの文字が刻まれています。
彼女とレオポルト1世は政略結婚ですが仲は良く、彼女は「叔父上様」と呼んで慕っていたそうです。
しかしオーストリアの宮廷内では、反スペイン感情から心無い仕打ちを受けていたようです。
彼女は元々病弱で、第6子を出産した直後、21歳の若さで亡くなります。
彼女の兄弟は近親婚の影響か殆どが夭折しており、父の後を継いでスペイン王になった彼女の弟、カルロス2世も病弱で知的障害もある上、不能で子供がおらず、彼の死でスペイン・ハプスブルク家は断絶します。 -
ということで、無事にマルガリータ王女も見れたので終わりです。
最後にまたこのお三方にお参り(?)。
高校の頃から、この方々のお墓参りをしにウィーンに行きたい!とずーーーーーっと思ってたんですが、十数年越しに実現しました。
この三人に限らず、600年以上に及ぶハプスブルク家の長い歴史を築いた方々が目の前で眠っているかと思うと、何とも言えない感慨深い思いでいっぱいになります。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」
有名なハプスブルク家の言葉です。
その言葉通り、ハプスブルク家は政略結婚で領土を拡大していきました。
私なぜハプスブルク家が好きかって、彼らは↑の言葉から分かるように、他家に比べれば平和的なのです。
一族内で陰謀やら殺し合いやらも、勿論ないとは言えないですが他に比べれば明らかに少ないです。
さらに、もうその通りなのでそのまま引用しちゃいますが、
『ほとんどは他の王侯がそうであるように政略結婚であった。しかしその割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。そのため現代でもハプスブルク家に関して、陰謀などの血生臭いイメージはあまり無い。』
By Wikipedia先生
これです!
ヨーロッパの数々の血生臭い歴史の中で、ハプスブルク家のラブ&ピースっぷりに癒されて(^^;)
もちろん一人一人の人生を見れば、それはもう色々あるんですけどね。
近親婚し過ぎて家系図も複雑だし発狂する人も多いし…それはそれで面白いんです。って言うのもどうよ、って感じですが…。
まぁそんな感じで、大好きなハプスブルク家の皆様にお会いできて、感無量でした。
さてさて、この日はハードです。
次は美術史美術館に行きます。
それはまた次回〜。
【4日目その3 美術史博物館】
http://4travel.jp/travelogue/10781874
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