2012/07/19 - 2012/07/19
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日露戦争の遺跡ー二〇三高地 日本語の説明案内板がありました。
二〇三高地は日露戦争の時に日露両軍が争奪し合っていた旅順西武戦線における主な戦場である。旧日本軍が1904年9月19日からロシア軍周陣地を奪い取った後、二〇三高地に向かって総攻撃を行い始め、66日間続いて12月5日にその高地を攻め落とした。当該戦役の中に旧日本軍は一万人以上、ロシア軍は5千人以上死傷した。
旧日本軍が二〇三高地を奪い取った後すぐここに重砲観測所を設け、重砲を指揮しながら旅順口を砲撃した。その結果港にあるロシア軍艦は砲撃されほとんど全部沈没した。戦後、旧日本軍国主義の頭である乃木希典は二〇三の(中国語の)音読みによってそれを「爾霊山」と改名した。日本軍の亡霊を供養するために、戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のような形で10.3メートルの高さの「爾霊山」記念タワーを作り上げ、日本の国民を騙している。(原文のまま)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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203高地は日露戦争の一番激しかった戦場です。
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日露戦争の遺跡ー二〇三高地
二〇三高地は日露戦争の時に日露両軍が争奪し合っていた旅順西武戦線における主な戦場である。旧日本軍が1904年9月19日からロシア軍周陣地を奪い取った後、二〇三高地に向かって総攻撃を行い始め、66日間続いて12月5日にその高地を攻め落とした。当該戦役の中に旧日本軍は一万人以上、ロシア軍は5千人以上死傷した。
旧日本軍が二〇三高地を奪い取った後すぐここに重砲観測所を設け、重砲を指揮しながら旅順口を砲撃した。その結果港にあるロシア軍艦は砲撃されほとんど全部沈没した。戦後、旧日本軍国主義の頭である乃木希典は二〇三の(中国語の)音読みによってそれを「爾霊山」と改名した。日本軍の亡霊を供養するために、戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のような形で10.3メートルの高さの「爾霊山」記念タワーを作り上げ、日本の国民を騙している。(原文のまま) -
入場料30元、タクシーで行ったので駐車料10元。
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駐車場より二〇三高地の頂上まで歩いて登る。
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駐車場脇に二〇三高地の資料館が出来た。
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省級文物保護単位。旅順口日俄戦争遺址。1988年遼寧省級に格上げ
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市級文物保護単位。二〇三高地。1985年大連市級なので古い方です。
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二〇三高地の紹介
203高地は1904年の日露戦争の主要戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪するため、激しい強い奪い合いをし、結果、ロシア軍側では死傷者は5000名余り、日本軍側では死傷者は10000名余りに達した。戦後、日本第三軍司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の残片でこの高さ10.3メートルの砲弾状の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった。(原文のまま) -
爾霊山慰霊塔。銃弾形をしている。
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ロシア式150ミリメートルカノン砲
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二〇三高地争奪戦で、高地に駐屯するロシア軍は150ミリメートルカノン砲二台と76ミリメートル速射野戦砲二台をもって、人工による散兵塹壕、歩兵塹壕、掩体など防御工事により、日本軍からの進撃を粘り強く阻止した。(原文のまま)
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二〇三高地より旅順港を攻める。
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旅順港を臨む。現在は間に高層ビルが建っています。
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爾霊山慰霊塔。銃弾形をしている。横から見る。
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二〇三高地争奪戦で、日本軍は口径の異なる大砲を六十台余り使用して、高地に対して狂気じみた無差別爆撃を加え 全部で一万一千発以上の砲弾を撃ったが、そのうちに、280ミリメートル榴弾砲砲弾が2254発あった。
当該大砲は本体の重さが10.753トン、砲弾の重さが217キロで、射程距離が7800メートルだった。(原文のまま) -
日本式280ミリメートル榴弾砲
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旅順港とは逆の景色。
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重砲兵用探り所
1904年12月、日本軍は二〇三高地を占領した後すぐ、そこに重砲兵用探り所を設置したことにより、重砲を指揮して旅順口港へ猛烈な攻撃を行い、港に停泊したロシア軍艦を殆ど日本軍の砲火に打ち壊された。重砲兵用探り所は日本軍がロシア軍海軍の力に打撃を加え、ロシア軍陸上防御線っを粉砕して最終的にロシア軍を打ち負かしたことにおいて、重要な役割を果した。(原文のまま) -
乃木保典戦死の所。
乃木大将は金州城で1904年5月27日長男の陸軍歩兵中尉 乃木勝典を戦死させ、1904年11月30日次男の陸軍歩兵少尉乃木保典を戦死させている。この日露戦争で多くの人が亡くなったが乃木大将自身二人の息子を亡くしています。戦争の悲惨を身を持って感じたのでしょう。 -
旅順郊外の農家だそうです。
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1904年(明治37年)6月7日、乃木希典は、長男勝典が戦死した南山
の戦跡を訪ね、「山川草木」の詩を吟じました。乃木将軍の有名な
る二詩の一つです。*もう一つは「爾霊山」
山川草木轉荒涼
十里風腥新戦場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽
山川草木転(うた)た荒涼
十里風腥(なまぐさ)し新戦場
征馬前(すす)まず 人語らず
金州城外 斜陽に立つ -
会見をした机が新しくなっている。前のは壊れたとの事。前の机は文字が書かれていて、戦時中の野戦病院の担架でした。それなりに謂れのあった物です。いいかげんです。入場料40元は高い。
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壁に貼られた会見後の記念写真。中列の真ん中が乃木大将とステッセル中将
後列左から、川上外務書記官、安原大尉(参謀)、マルチェンコ中尉(参謀)、
松平大尉(副官)、渡辺少佐(管理部長)、
中列に、 レイス少将(参謀長)、乃木大将(司令官)、
ステッセル中将(司令官)、伊地知少将(参謀長)、
前列には、 ネベルスコーユ中尉(参謀)、津野田大尉(参謀)と、
以上、ロシア人4名、日本人7名の総勢11人が写っている。 -
壁に貼られた写真。
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壁に貼られた写真。
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壁に貼られた写真。
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水師営会見所の石碑。
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入り口脇にお土産屋が出来ました。少しだけ当時のポスターがありました。
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