2009/06/13 - 2009/06/13
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中国の風景さん
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大連中山広場近代建築群は、中国大連市中山区にある中山広場(直径213mの円形広場、旧称:大広場)の周囲に建つ20世紀初頭の欧風建築群。現存する8棟のうち7棟が日本人建築家による設計である。現在残されているのは、租借地関東州として日本の統治下にあった1908年(明治41年)から1936年(昭和11年)の間に建てられた建築物である。中山広場は10本の放射線道路の中心に位置し、周囲には当時の行政機関や銀行が集められていた。建築様式は歴史主義建築の影響が強く、ゴシック建築やルネサンス建築を基調とした建物が並んでいる。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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シベリア鉄道の太平洋側の玄関口となる不凍港を欲していた帝政ロシアは、1898年に遼東半島南端を租借すると、大連湾に面した青泥窪に商業都市「ダーリニー」の建設を開始した。ダーリニーはパリに倣った多心放射状街路を持つ都市として計画された。都市の中央に配された円形広場はニコライフスカヤ広場と命名され、周囲に市庁舎・郵便局・銀行・集会場・商業取引所などが建設される予定だった。 -
しかし日露戦争までの僅かな期間に完成したのは北部の行政市街(現在の旧ロシア人街)だけであり、その他の街区では街路の整備は進んでいたものの、未開発の更地が大部分を占める状態だった。1904年5月26日、日本軍の南下を防いでいた南山要塞が陥落するとダーリニーのロシア人軍民はパニックに陥り、一夜にして旅順へと脱出した。こうして、ダーリニーの都市計画は未完のまま放棄されるに至った。
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新たな統治者となった日本はダーリニーを大連と改名、1906年には行政を担当する大連民政署をおいた。ニコライフスカヤ広場は大広場へと改称され、ここに大連民政署の新庁舎が建設された。以降はこの広場が行政の中心地として発展し、今日に残る近代建築の数々が建設されていった。戦後、1945年11月に中国人による大連市政府が成立。大広場は中山広場と改称され、周囲の建物には公的機関や銀行が入居した。以後60年以上に渡り大きく手を加
えられることなく維持され、現在は大連の代表的景観として保護されている。 -
コリント式オーダーが並ぶルネサンス様式の建物。朝鮮銀行は日本統治領での中央銀行としての機能を担っており、大連支店の業務拡大に伴って建物を新築した。戦後、朝鮮銀行が解散した後も建物は銀行として使用され、現在は中国工商銀行中山広場支行が使用している。
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設計者は朝鮮銀行の建築顧問として多くの銀行建築を手がけていた中村與資平。京城に建築事務所を構えていた中村は、この新築工事のために1917年に大連出張所を開設した。なお、1922年に中村が活動拠点を日本に移した際に、同出張所を部下の宗像主一に譲っている(中村宗像建築事務所)。
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建設時期1920年12月
設計者 中村與資平建築事務所 -
関東都督府民政部の下で大連を管轄した行政機関、大連民政署の庁舎として建てられたゴシック様式の建物。日本統治下の大連で最初に建てられた官庁建築でもある。時計塔を持つスタイルはヨーロッパの市庁舎を参考にしている。レンガは大連市内の満州煉瓦会社製、石材は山東省産の薄紅色花崗岩を使用した。1922年より大連警察署の庁舎となり、戦後は大広場警察局と中国海軍後勤部が使用した。現在は遼寧省対外貿易経済合作庁が使用している。
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設計者は関東都督府土木課の前田松韻。前田は中国東北地方に渡った最初の日本人建築家である。日露戦争下の1904年に軍倉庫の建設に携わり、1905年2月に大連軍政署の嘱託技師となった。しかし2年後の1907年10月には東京高等工業学校の教授に抜擢され、民政署庁舎の完成を待たず帰国した。在任機関は短かったが、大連の民間建築に一定の規模と耐火構造を求めた建築規則[1]の草案作成にも参画するなど、大連の都市建設に大きな影響を残した。
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建設時期 1908年3月25日
設計者 前田松韻(関東都督府民政部土木課) -
1914年に竣工したイギリスの在大連領事館。設計はイギリス工務局の上海事務所技師長補佐だったH.アシェッド。大広場に面した唯一の在外公館だった。1952年以降は大連市六一幼稚園が使用していたが、1995年に取り壊されて、2003年には大連金融大廈が建てられた。
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同敷地内に英国聖公会と日本聖公会の共同で、1928年に2代目の赤レンガの大連聖公会教会が建てられたが、これは玉光街礼拝堂として現存。
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設計者については諸説あるが、南満州鉄道技師の太田毅とする説が有力視されている。現在はホテル大連賓館として営業中であり、外国人の宿泊も可。
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2003年には大連金融大廈が建てられた。
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ヤマトホテルは南満州鉄道が経営した高級ホテルチェーンで、中でも大連ヤマトホテルは最も格式の高いホテルだった。着工から竣工まで5年をかけて入念に建設された大建築である。建物正面は花崗岩のイオニア式オーダーを並べたルネサンス様式。客室数は115室で、蒸気暖房やエレベーターも設置されていた。
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設計者については諸説あるが、南満州鉄道技師の太田毅とする説が
有力視されている。現在はホテル大連賓館として営業中であり、
外国人の宿泊も可。 -
建設時期 1914年4月
設計者 太田毅(推定)(満鉄工務課) -
玄関の唐破風など日本建築の意匠が取り入れられており、塔屋のデザインは京都祇園祭の山車をイメージしたとされる。設計者の松室重光は関東都督府土木課の課長で、大連民政署を設計した前田松韻の後任にあたる。
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松室は京都府技師時代に社寺建築の保存修復にも業績を残しており、建物のデザインにもその見識が反映されている。戦後も1947年〜1950年は大連市人民政府庁舎(市役所相当)として使用され、その後は市政府各部局の分庁舎となった。現在は中国工商銀行大連市分行が使用している。
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建設時期 1919年8月
設計者 松室重光(関東都督府民政部土木課) -
植民地事業のための国策会社である東洋拓殖株式会社の大連支店。設計者の宗像主一は、広場の対面に立つ朝鮮銀行大連支店を設計した中村與資平の弟子にあたる。下層に連なるアーチ窓にアメリカ商業建築の影響が見られる。
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戦後の1951年から1957年まで中国共産党大連市委員会庁舎として、その後は市政府の分庁舎として使用された。現在は交通銀行大連市分行が使用している。
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建設時期 1936年
設計者 宗像主一建築事務所 -
清国大清銀行の大連支店として建てられたルネサンス様式の建物。中央の塔屋にはフランス風のマンサール屋根を載せている。1912年の中華民国成立に伴い中国銀行へ改称された。
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戦後は大連市教育局庁舎として使用された。現在は中信銀行中山支行(旧・中信実業銀行)が使用している。
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建設時期 1910年6月
設計者 中国人 -
手書きの当時の地図を見ますと、空地になっています。また「戦後早い時間に、ここに人民文化倶楽部が建てられた。」と描いてあります。
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1951年、ロシア人の設計により人民文化倶楽部が建設されました。1995年に中国人設計士により外観改築が行われました。2008年に再度改築が行われ現在の形になっています。*人民文化倶楽部の中に写真等の資料があります。
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建設時期 1951年
設計者 ロシア人 -
日本唯一の外国為替管理銀行だった横浜正金銀行の大連支店として建てられた、3連のバロックドームを持つタイル貼りの建物。基本設計は日本で妻木頼黄が行い、弟子にあたる満鉄技師の太田毅が妻木の図面を元に実質設計を行った(太田は臨時煙草製造局技師兼司法技師として妻木の指導下で実績を積み、在官のまま満鉄に招かれていた)。
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1945年より極東銀行(ソヴィエト連邦)が使用。現在は中国銀行遼寧省分行が置かれている。外貨両替も可だが室内は撮影禁止。
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建設時期 1909年12月12日
設計者 妻木頼黄、太田毅 -
関東州での郵政事業を担当した逓信省関東逓信局の庁舎だった建物。同じく松室が設計した大連市役所の対面に立つ。同じ設計者の建物が向き合うのは異例だが、当時の松室が関東都督府でただ一人の建築技師として設計業務を一手に引き受けていた事実の証左とも言える。 -
戦後はソヴィエト連邦軍大連警備司令部が接収。現在は大連市郵政局が使用している。 -
建設時期 1918年
設計者 松室重光(関東都督府民政部土木課) -
世界貿易大廈は中山広場南側に位置して、大連第一高い57階のビルです。 2004年に57階に展望台が造られました。都心部にあるので、大連の夜景の眺め全てが見られます。特に夕方のライトアップがとても綺麗です。
09年1月より展望台は閉鎖中、閉鎖の理由は今、世貿センターの所有権について銀行と訴訟を起こしているそうです。確認していましたが、再開時間は未定です。 -
中山広場2号(対外貿易局)の後ろにインターコンチネンタルホテルが出来ています。48階建てで、46階からの風景を写真に撮りました。軽食コーナーになっていますが宿泊客でなくても入場できます。午後11時まで
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46階の展望室、1ドリンク50元以内。私は青島ビール、38元、+15%(税・サービス)。今日は他にお客なし。
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ロータリーには信号がありません。最近は大連も車が多くて地下道を利用しませんと内側の公園にいけません。
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市内いたる所、公園では朝の運動を頑張っています。
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租界時代に住まわれた方々が手書きで作られた地図、1軒、1軒のお店の名前も書いてあります。昭和13年〜15年頃発行所 たうんまっぷ大連頒布会、1998年10月初版1刷発行
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大連の中心、かつて帝政ロシアがパリの街並を真似て設計したという旧大広場で、ここから十方へ路が伸びている。各路の入口には以上の明治から昭和初期に造られた壮麗で重厚な建物が並んでいる。建造物としても価値のあるものです。日本の占領時代の建物でも残しながら大切に使用しています。
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日本占領時代の建物、戦争の跡、民間の生活を写真で纏めている。中国語、英語、日本語で説明しています。 220元旧の白黒写真はこの本より転写いたしました。
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