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 鎌倉市扇ヶ谷4にある伝阿仏尼墓の奥の御前谷にはやぐらがあり、中の墓石の1つが阿仏尼の墓だと伝えられていると英勝寺の住職(尼さん)から聞いた。<br /> 伝阿仏尼墓の並びにほとんど埋もれたかなり幅のあるやぐらがあり、それを過ぎると御前谷に入る道がある。道の崖沿いには3つ程度のやぐらがみられる。この御前谷も廃寺跡で智岸寺(尼寺)か、智岸寺か英勝寺の塔頭でもあったのであろう。<br /> 最初の大きなやぐらは間口約4.5m奥行き3m?3.5m、奥壁幅約3m、高さ約2.5mといった台形をしており、奥壁には「‥幽‥氏墓」(卜幽軒氏墓?)と彫られている。中には人見氏の墓などが建ち、右奥の角には五輪塔が2基並んでいる。<br /> しかし、やぐらは鎌倉時代から室町時代の初めに造られ、近世になって再利用されたのである。<br /> 人見氏とは水戸藩士であり、儒学者として「大日本史」の編纂に携わった。これらの墓石は人見卜幽(ひとみぼくゆう)(慶長4年(1599年)~寛文10年(1670年))とその養子となった人見懋斎(ひとみぼうさい)(寛永15年(1638年)~元禄9年(1696年))のそれである。水戸黄門で知られる水戸光圀が19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流があった。阿仏尼は冷泉家の祖・為相の生みの親であり、「十六夜日記」の作者として知られる。寛政2年(1790年)に人見家の墓を建てた人見養斎とはこの子孫であろう。水戸徳川家を檀那とする栄勝寺には江戸時代に檀家などはなく、水戸藩士の墓石が2代に亘って建てられているのは阿仏尼の墓を守ってのことであろうか?<br />(表紙写真は阿仏尼墓と寺伝されるやぐら)

伝阿仏尼墓奥のやぐら(鎌倉市扇ヶ谷4)

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2012/02/19 - 2012/02/19

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 鎌倉市扇ヶ谷4にある伝阿仏尼墓の奥の御前谷にはやぐらがあり、中の墓石の1つが阿仏尼の墓だと伝えられていると英勝寺の住職(尼さん)から聞いた。
 伝阿仏尼墓の並びにほとんど埋もれたかなり幅のあるやぐらがあり、それを過ぎると御前谷に入る道がある。道の崖沿いには3つ程度のやぐらがみられる。この御前谷も廃寺跡で智岸寺(尼寺)か、智岸寺か英勝寺の塔頭でもあったのであろう。
 最初の大きなやぐらは間口約4.5m奥行き3m?3.5m、奥壁幅約3m、高さ約2.5mといった台形をしており、奥壁には「‥幽‥氏墓」(卜幽軒氏墓?)と彫られている。中には人見氏の墓などが建ち、右奥の角には五輪塔が2基並んでいる。
 しかし、やぐらは鎌倉時代から室町時代の初めに造られ、近世になって再利用されたのである。
 人見氏とは水戸藩士であり、儒学者として「大日本史」の編纂に携わった。これらの墓石は人見卜幽(ひとみぼくゆう)(慶長4年(1599年)~寛文10年(1670年))とその養子となった人見懋斎(ひとみぼうさい)(寛永15年(1638年)~元禄9年(1696年))のそれである。水戸黄門で知られる水戸光圀が19歳の時には、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流があった。阿仏尼は冷泉家の祖・為相の生みの親であり、「十六夜日記」の作者として知られる。寛政2年(1790年)に人見家の墓を建てた人見養斎とはこの子孫であろう。水戸徳川家を檀那とする栄勝寺には江戸時代に檀家などはなく、水戸藩士の墓石が2代に亘って建てられているのは阿仏尼の墓を守ってのことであろうか?
(表紙写真は阿仏尼墓と寺伝されるやぐら)

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  • 伝阿仏尼墓のやぐら。六重石塔は後世に建てられた供養塔であろう。やぐらも後世のものであろうか?

    伝阿仏尼墓のやぐら。六重石塔は後世に建てられた供養塔であろう。やぐらも後世のものであろうか?

  • 伝阿仏尼墓横のやぐら。殆んど埋まっているが、幅はある。<br />伝阿仏尼墓のやぐらの隣にある稲荷は智岸寺稲荷とも言われているから、智岸寺稲荷横のこのやぐらは智岸寺のやぐらであろう。

    伝阿仏尼墓横のやぐら。殆んど埋まっているが、幅はある。
    伝阿仏尼墓のやぐらの隣にある稲荷は智岸寺稲荷とも言われているから、智岸寺稲荷横のこのやぐらは智岸寺のやぐらであろう。

  • 伝阿仏尼墓奥のやぐら(人見家の墓)。英勝寺に阿仏尼の墓と伝えられているのがこのやぐらだ。

    伝阿仏尼墓奥のやぐら(人見家の墓)。英勝寺に阿仏尼の墓と伝えられているのがこのやぐらだ。

  • 伝阿仏尼墓奥のやぐら(人見家の墓)。

    伝阿仏尼墓奥のやぐら(人見家の墓)。

  • やぐらの中に並ぶ墓石。

    やぐらの中に並ぶ墓石。

  • 奥壁には「‥幽‥氏墓」と彫られている。「卜幽軒氏墓」なら人見卜幽(卜幽軒)である。<br />

    奥壁には「‥幽‥氏墓」と彫られている。「卜幽軒氏墓」なら人見卜幽(卜幽軒)である。

  • 「人見氏先祖之墓」墓塔。

    「人見氏先祖之墓」墓塔。

  • 寛政2年(1790年)銘。

    寛政2年(1790年)銘。

  • 「人見養斎建之」。人見懋斎と一字違いであるからこの家系が「人見○斎」を継いだ?

    「人見養斎建之」。人見懋斎と一字違いであるからこの家系が「人見○斎」を継いだ?

  • 「故致伸遍卜幽軒野先生之墓」か?<br /><br />人見卜幽(ひとみ・ぼくゆう)<br />慶長4年(1599年)~寛文10年(1670年)。水戸藩士、学者。初代藩主徳川頼房、二代藩主光圀の二代に仕える。諱(いみな)は壱。字名は道生。卜幽軒と称し、林塘庵、白賁園、把茅亭と号した。<br /> 京都に生まれ、二十余歳で志を立て、藤原惺窩の門人菅玄同に師事し、のち林羅山に入門。羅山が幕府に仕えたのち江戸に出て、寛永12年(1635年)の頃に松平定綱の推薦により水戸藩に四百石で仕え、初代藩主頼房の侍講となった。<br /> 二代藩主光圀が学問を好むようになったのは卜幽の感化によるところが多いと言われる。寛文元年(1661年)に致仕し、同5年(1665年)頃から眼病を患い、まもなく失明状態となり、同10年(1670年)に73歳で没した。<br /> 博識で、勤めて倦まず、朱子学を根源としながら、左伝・荘子に及ぶ研究の広さを備えた人物であった。<br /> 著書に『土佐日記』の語義と古事を明らかにした『土佐日記附註』、林希逸の『荘子口義』を註釈した『荘子口義桟航』、『五経童子問』、『東見記』などがある。<br />

    「故致伸遍卜幽軒野先生之墓」か?

    人見卜幽(ひとみ・ぼくゆう)
    慶長4年(1599年)~寛文10年(1670年)。水戸藩士、学者。初代藩主徳川頼房、二代藩主光圀の二代に仕える。諱(いみな)は壱。字名は道生。卜幽軒と称し、林塘庵、白賁園、把茅亭と号した。
     京都に生まれ、二十余歳で志を立て、藤原惺窩の門人菅玄同に師事し、のち林羅山に入門。羅山が幕府に仕えたのち江戸に出て、寛永12年(1635年)の頃に松平定綱の推薦により水戸藩に四百石で仕え、初代藩主頼房の侍講となった。
     二代藩主光圀が学問を好むようになったのは卜幽の感化によるところが多いと言われる。寛文元年(1661年)に致仕し、同5年(1665年)頃から眼病を患い、まもなく失明状態となり、同10年(1670年)に73歳で没した。
     博識で、勤めて倦まず、朱子学を根源としながら、左伝・荘子に及ぶ研究の広さを備えた人物であった。
     著書に『土佐日記』の語義と古事を明らかにした『土佐日記附註』、林希逸の『荘子口義』を註釈した『荘子口義桟航』、『五経童子問』、『東見記』などがある。

  • 「故懋斎先生小野‥墓」。人見懋斎の墓である。人見氏の本姓は小野である。<br /><br />人見懋斎(ひとみぼうさい)<br />  寛永15年(1638年)~元禄9年(1696年)<br /> 水戸藩士、学者、二代藩主徳川光圀、三代綱條(つなえだ)の二代に仕える。<br /> 諱は伝。字は子伝。初め道設。延宝4年(1676年)に束髪して又左衛門と称した。号は懋斎、竹?弧(ちくとん)、井井堂。寛永15年(1638年)に藤田九郎衛門清友の子として京都に生まれ、のち叔父の人見卜幽に嗣子が無かったためその養子となった。そのため野伝とも称された。九歳から俗礼を郷師に学び、万治2年(1659年)頃江戸に出て叔父の門に入り、同時に林鵞峰(がほう)にも学んだ。<br /> 寛文元年(1661年)養父卜幽が致仕したため家督を継ぎ、三百石で光圀の近侍として修史の業に携わり、天和3年(1683年)には初代彰考館総裁となった。二十年の間彰考館で『大日本史』 編纂に力を尽くし、その功により元禄元年(1688年)小姓頭に抜擢され、寺社奉行を兼任した。<br /> 同9年(1669年)9月23日59歳で没した。<br /> 『大日本史』の「天智天皇紀」「天皇大友紀」「天武天皇紀」等は彼の撰である。<br /> その他『井々堂集』『井田制法』などの著書がある。<br />

    「故懋斎先生小野‥墓」。人見懋斎の墓である。人見氏の本姓は小野である。

    人見懋斎(ひとみぼうさい)
      寛永15年(1638年)~元禄9年(1696年)
     水戸藩士、学者、二代藩主徳川光圀、三代綱條(つなえだ)の二代に仕える。
     諱は伝。字は子伝。初め道設。延宝4年(1676年)に束髪して又左衛門と称した。号は懋斎、竹?弧(ちくとん)、井井堂。寛永15年(1638年)に藤田九郎衛門清友の子として京都に生まれ、のち叔父の人見卜幽に嗣子が無かったためその養子となった。そのため野伝とも称された。九歳から俗礼を郷師に学び、万治2年(1659年)頃江戸に出て叔父の門に入り、同時に林鵞峰(がほう)にも学んだ。
     寛文元年(1661年)養父卜幽が致仕したため家督を継ぎ、三百石で光圀の近侍として修史の業に携わり、天和3年(1683年)には初代彰考館総裁となった。二十年の間彰考館で『大日本史』 編纂に力を尽くし、その功により元禄元年(1688年)小姓頭に抜擢され、寺社奉行を兼任した。
     同9年(1669年)9月23日59歳で没した。
     『大日本史』の「天智天皇紀」「天皇大友紀」「天武天皇紀」等は彼の撰である。
     その他『井々堂集』『井田制法』などの著書がある。

  • 人見懋斎の略歴が記されている。<br />「彰故館史書寛文八年考古」、「人見氏」、「水戸」、「林先生」、「西山公以儒術頭無嗣以君」、「諱傳字子傳一字道設称又左衛門京師人本藤田氏考」などが読める。

    人見懋斎の略歴が記されている。
    「彰故館史書寛文八年考古」、「人見氏」、「水戸」、「林先生」、「西山公以儒術頭無嗣以君」、「諱傳字子傳一字道設称又左衛門京師人本藤田氏考」などが読める。

  • 右奥の角には五輪塔が2基並んでいる。鎌倉時代のものか?

    右奥の角には五輪塔が2基並んでいる。鎌倉時代のものか?

  • 五輪塔。

    五輪塔。

  • 五輪塔。

    五輪塔。

  • 墓石と壁面の間には石がある。

    墓石と壁面の間には石がある。

  • やぐら中央の石柱。

    やぐら中央の石柱。

  • 奥のやぐら。

    奥のやぐら。

  • 埋もれたやぐら。この谷戸は廃寺跡のように見える。

    埋もれたやぐら。この谷戸は廃寺跡のように見える。

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