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 鎌倉観光のガイドブックはこれまでに何冊も出ている。特に、世界遺産に登録されるかどうかが、数ヶ月後に発表されるが、そうしたことも一因となってもいよう。<br /> 「武家の古都・鎌倉」には寺社と史跡・遺跡が中心として構成資産となっている。21構成資産と言われているが、26構成資産と捉えるべきかと思われる。その多くは鎌倉の寺社である。<br /> 今般、「決定版:鎌倉の寺社122を歩く」(山折哲雄監修・槙野修著)(2013年2月1日第1版第1刷)がPHP新書で発売された。しかし、内容は、題名とは裏腹に、由緒や縁起などは机に向かって書物をめくって書いたものである。したがって、現在の鎌倉寺社を巡っても本の内容とはいささか異なっていたり、当然目に付くような話題や物、スポットが殆ど抜け落ちている。鎌倉を巡ったとしても本にある小中学生が巡る程度のものであったのだろう。<br /> 鎌倉の寺社といえば、もう私の方がずっと詳しいであろうと自負しており、帯の「世界遺産にふさわしい庶民の都で「大人の散歩」」から疑いが湧き、ページをめくった。果たして間違いが多いのには驚いてしまった。それらを校正し、各寺社に特徴的な話題を付加することで、鎌倉の寺社122を歩く楽しみが確実なものとなろう。<br />(表紙写真は「鎌倉の寺社122を歩く」のPHP新書)

鎌倉の寺社122を歩く

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2008/04/05 - 2013/02/22

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉観光のガイドブックはこれまでに何冊も出ている。特に、世界遺産に登録されるかどうかが、数ヶ月後に発表されるが、そうしたことも一因となってもいよう。
 「武家の古都・鎌倉」には寺社と史跡・遺跡が中心として構成資産となっている。21構成資産と言われているが、26構成資産と捉えるべきかと思われる。その多くは鎌倉の寺社である。
 今般、「決定版:鎌倉の寺社122を歩く」(山折哲雄監修・槙野修著)(2013年2月1日第1版第1刷)がPHP新書で発売された。しかし、内容は、題名とは裏腹に、由緒や縁起などは机に向かって書物をめくって書いたものである。したがって、現在の鎌倉寺社を巡っても本の内容とはいささか異なっていたり、当然目に付くような話題や物、スポットが殆ど抜け落ちている。鎌倉を巡ったとしても本にある小中学生が巡る程度のものであったのだろう。
 鎌倉の寺社といえば、もう私の方がずっと詳しいであろうと自負しており、帯の「世界遺産にふさわしい庶民の都で「大人の散歩」」から疑いが湧き、ページをめくった。果たして間違いが多いのには驚いてしまった。それらを校正し、各寺社に特徴的な話題を付加することで、鎌倉の寺社122を歩く楽しみが確実なものとなろう。
(表紙写真は「鎌倉の寺社122を歩く」のPHP新書)

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  • 「鎌倉の寺社122を歩く」山折哲雄監修・槙野修著、PHP新書(2013年2月1日第1版第1刷)<br /><br />「歩いて集めた情報ではなく、多くを机で書物を見て書いた決定版からは程遠い本」<br /><br />これまでに、京都と奈良の散策では「京都の寺社505を歩く」(上・下)、「奈良の寺社150を歩く」を常に携帯し、随分とお世話になった。また、このシリーズには「江戸東京の寺社609を歩く」(全2冊)も出版されているが未だ目を通してはいない。<br /><br />各寺社の見所の多くを記載していないために、この本で鎌倉の寺社122を巡っても多くの寺社ではもう一度巡ってそれらを確認することになろうか。そういったことを避けるためにも本書評は読んでから、あるいは、本に書き込むか、挟んでから出かけるべきである。<br /><br />昨年、鎌倉を散策している2人のおばさんに道を尋ねられたことがあったが、手にしていた鎌倉観光のガイドブックは学生時代に買ったものだといい何10年も前のものであった。新書ではあるが、本書はカラー写真もなく、古書となっても見辛くはないであろうから、そうした使われ方もされ得る訳であるが、誤字や間違いがこれほどまで多くあり、内容にも不足が多いので疑問が残る。同一の監修者と著者で畿内と関東の寺社を歩く企画自体に無理があるのだと思う。特に本書は「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録(延期となろう(実際には推薦取下げという最悪の結果になったが))に合わせた企画であろうが、編集者に再考を促したい。

    「鎌倉の寺社122を歩く」山折哲雄監修・槙野修著、PHP新書(2013年2月1日第1版第1刷)

    「歩いて集めた情報ではなく、多くを机で書物を見て書いた決定版からは程遠い本」

    これまでに、京都と奈良の散策では「京都の寺社505を歩く」(上・下)、「奈良の寺社150を歩く」を常に携帯し、随分とお世話になった。また、このシリーズには「江戸東京の寺社609を歩く」(全2冊)も出版されているが未だ目を通してはいない。

    各寺社の見所の多くを記載していないために、この本で鎌倉の寺社122を巡っても多くの寺社ではもう一度巡ってそれらを確認することになろうか。そういったことを避けるためにも本書評は読んでから、あるいは、本に書き込むか、挟んでから出かけるべきである。

    昨年、鎌倉を散策している2人のおばさんに道を尋ねられたことがあったが、手にしていた鎌倉観光のガイドブックは学生時代に買ったものだといい何10年も前のものであった。新書ではあるが、本書はカラー写真もなく、古書となっても見辛くはないであろうから、そうした使われ方もされ得る訳であるが、誤字や間違いがこれほどまで多くあり、内容にも不足が多いので疑問が残る。同一の監修者と著者で畿内と関東の寺社を歩く企画自体に無理があるのだと思う。特に本書は「武家の古都・鎌倉」の世界遺産登録(延期となろう(実際には推薦取下げという最悪の結果になったが))に合わせた企画であろうが、編集者に再考を促したい。

  • また、題名とは裏腹に、由緒や縁起などは机に向かって書物をめくって書いたものであろう。境内や社殿や伽藍などにある看板に書かれていることとは違う内容であり、また、Webで調べたのであれば当然目に付くような話題や物、スポットが殆ど抜け落ちている。鎌倉を巡ったとしても本にある小中学生が巡る程度のものであったのだろう。<br /><br />本書は「鎌倉」と銘打っているが、鎌倉観光といっても片瀬や江ノ島は普通含めているために、このあたりの寺社も一部採り上げている。また、鎌倉とは切っても切れない横浜市金沢区もある。あるいは、源頼朝や父・義朝の足跡をたどれば、逗子市の寺社も巡りたくなる。はたまた、相模国鎌倉郡は網羅してほしいなどの要望も出てこよう。<br />すなわち、鎌倉とその界隈の寺社を網羅するべきであるのだが、その明確な定義がなされず、鎌倉市内の寺社のおおよそと藤沢市と横浜市金沢区の著名な寺社を摘み食することになっている。たとえば、瀬戸神社(横浜市金沢区)、龍口神明社元宮(鎌倉市)、證菩提寺(横浜市栄区)、熊野神社(横浜市金沢区)、龍口寺輪番八ヶ寺の常立寺(藤沢市)と本連寺(藤沢市)、初め弁天(鎌倉市)、大江稲荷(鎌倉市)、大蔵稲荷(鎌倉市)などは鎌倉散策では巡るべきであろうし、そうする人も多いのではないだろうか。<br /><br />もっと、本質的なことは、鎌倉を歩き慣れている人であれば、十二所神社から瑞泉寺へ行くには山道を通って行くし、鶴岡八幡宮から浄光明寺へは青梅聖天社の尾根を越えて行く。そうしたことができるのは京都や奈良とは決定的に違う点である。また、鎌倉の特徴と言えば、谷戸や切通、やぐらであろうが、切通ややぐらは世界遺産の構成資産に何件かが含まれている。そうした、世界遺産の構成資産を巡りたいという人の方が寺社だけを巡りたい人よりは遥かに多いであろう。そういった意味では確固たるポリシーはなく、これまでのシリーズの延長として考えていたのであろうが、実際のニーズを知って、藤沢市と横浜市の寺社を取り込むはめになったのであろう。<br /><br />また、奈良や京都の寺院で、ご本尊の写真撮影を許可しているのは飛鳥寺(飛鳥大仏)と東大寺(大仏)だけであろう。しかし、鎌倉では高徳院(大仏)、建長寺、円覚寺、浄智寺がある。

    また、題名とは裏腹に、由緒や縁起などは机に向かって書物をめくって書いたものであろう。境内や社殿や伽藍などにある看板に書かれていることとは違う内容であり、また、Webで調べたのであれば当然目に付くような話題や物、スポットが殆ど抜け落ちている。鎌倉を巡ったとしても本にある小中学生が巡る程度のものであったのだろう。

    本書は「鎌倉」と銘打っているが、鎌倉観光といっても片瀬や江ノ島は普通含めているために、このあたりの寺社も一部採り上げている。また、鎌倉とは切っても切れない横浜市金沢区もある。あるいは、源頼朝や父・義朝の足跡をたどれば、逗子市の寺社も巡りたくなる。はたまた、相模国鎌倉郡は網羅してほしいなどの要望も出てこよう。
    すなわち、鎌倉とその界隈の寺社を網羅するべきであるのだが、その明確な定義がなされず、鎌倉市内の寺社のおおよそと藤沢市と横浜市金沢区の著名な寺社を摘み食することになっている。たとえば、瀬戸神社(横浜市金沢区)、龍口神明社元宮(鎌倉市)、證菩提寺(横浜市栄区)、熊野神社(横浜市金沢区)、龍口寺輪番八ヶ寺の常立寺(藤沢市)と本連寺(藤沢市)、初め弁天(鎌倉市)、大江稲荷(鎌倉市)、大蔵稲荷(鎌倉市)などは鎌倉散策では巡るべきであろうし、そうする人も多いのではないだろうか。

    もっと、本質的なことは、鎌倉を歩き慣れている人であれば、十二所神社から瑞泉寺へ行くには山道を通って行くし、鶴岡八幡宮から浄光明寺へは青梅聖天社の尾根を越えて行く。そうしたことができるのは京都や奈良とは決定的に違う点である。また、鎌倉の特徴と言えば、谷戸や切通、やぐらであろうが、切通ややぐらは世界遺産の構成資産に何件かが含まれている。そうした、世界遺産の構成資産を巡りたいという人の方が寺社だけを巡りたい人よりは遥かに多いであろう。そういった意味では確固たるポリシーはなく、これまでのシリーズの延長として考えていたのであろうが、実際のニーズを知って、藤沢市と横浜市の寺社を取り込むはめになったのであろう。

    また、奈良や京都の寺院で、ご本尊の写真撮影を許可しているのは飛鳥寺(飛鳥大仏)と東大寺(大仏)だけであろう。しかし、鎌倉では高徳院(大仏)、建長寺、円覚寺、浄智寺がある。

  • 鎌倉の寺社といえば、もう私の方がずっと詳しいであろうと自負しており、帯の「世界遺産にふさわしい庶民の都で「大人の散歩」」から疑いが湧き、ページをめくった。果たして間違いが多いのには驚いてしまった。最初にそれを列記しておく。<br /><br />鶴岡八幡宮のイチョウについては、「倒れたイチョウの跡」(p.38)、「今は根に近い部分だけが保存され」(p.40)とあるが、これは倒れたイチョウを「挿し木」したものである。<br />史跡「石碑」(p.60)については、「「鎌倉町青年会」(青年団とするものもある)」とあるが、鎌倉町は昭和14年(1939年)に鎌倉市となっており、市制施行後には団体名は「鎌倉市」に変更されている。鎌倉市青年団が建立した6碑が相当する。また、大正6年から昭和16年までに建立された戦前の史跡碑が78基ある。内訳は、鎌倉町青年会(16基)、鎌倉町/市青年団(58基)、鎌倉同人会(4基)である。戦後になっても、鎌倉友青会(3基)と玉縄史蹟顕彰会(1基)も史跡碑を建てているが、それぞれに問題のある碑が1基づつある。<br />「先年、何者かに壊されたため新たに復元されている。」(p.62)とあるが、源頼朝墓は平成元年(1989年)と平成24年(2012年)の2度にわたり壊されたが、修復されている。なお、昨年の事件では犯人が捕まっているので「何者かに」と言えるのは平成元年の事件の場合だけであろう。<br />「寺の別名が「二階堂」であった。」(p.67)とあるが、間違いであろう。永福寺の中心伽藍が「二階堂」であった。<br />「そのひとつ中尊寺の二階大堂大長寿院」(p.67)(誤)→「そのなかの中尊寺の二階大堂大長寿院と毛越寺の大泉が池」(正)。<br />「現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築したものとされる。」(p.68)とあるが、鶴岡八幡宮の若宮は「一六二四年(寛永元年)に修復されたものが伝わっている。」(p.51)とされ、国重要文化財に指定されている。江戸時代初期に若宮を建て替える際に、社殿を荏柄天神社の本殿として移築された。<br />「第一皇子(もりよし、とも)(p.70)とあるが、「護良((もりよし、とも)親王)のことであろう。<br />「浄妙寺」(p.86)に、「今各寺院は拝観者に門を閉ざしている。‥観光寺院はもちろん違うけど。」とあるが、光触寺で触れるべきである。

    鎌倉の寺社といえば、もう私の方がずっと詳しいであろうと自負しており、帯の「世界遺産にふさわしい庶民の都で「大人の散歩」」から疑いが湧き、ページをめくった。果たして間違いが多いのには驚いてしまった。最初にそれを列記しておく。

    鶴岡八幡宮のイチョウについては、「倒れたイチョウの跡」(p.38)、「今は根に近い部分だけが保存され」(p.40)とあるが、これは倒れたイチョウを「挿し木」したものである。
    史跡「石碑」(p.60)については、「「鎌倉町青年会」(青年団とするものもある)」とあるが、鎌倉町は昭和14年(1939年)に鎌倉市となっており、市制施行後には団体名は「鎌倉市」に変更されている。鎌倉市青年団が建立した6碑が相当する。また、大正6年から昭和16年までに建立された戦前の史跡碑が78基ある。内訳は、鎌倉町青年会(16基)、鎌倉町/市青年団(58基)、鎌倉同人会(4基)である。戦後になっても、鎌倉友青会(3基)と玉縄史蹟顕彰会(1基)も史跡碑を建てているが、それぞれに問題のある碑が1基づつある。
    「先年、何者かに壊されたため新たに復元されている。」(p.62)とあるが、源頼朝墓は平成元年(1989年)と平成24年(2012年)の2度にわたり壊されたが、修復されている。なお、昨年の事件では犯人が捕まっているので「何者かに」と言えるのは平成元年の事件の場合だけであろう。
    「寺の別名が「二階堂」であった。」(p.67)とあるが、間違いであろう。永福寺の中心伽藍が「二階堂」であった。
    「そのひとつ中尊寺の二階大堂大長寿院」(p.67)(誤)→「そのなかの中尊寺の二階大堂大長寿院と毛越寺の大泉が池」(正)。
    「現在の本殿も関東大震災で被災した鶴岡八幡宮の若宮を移築したものとされる。」(p.68)とあるが、鶴岡八幡宮の若宮は「一六二四年(寛永元年)に修復されたものが伝わっている。」(p.51)とされ、国重要文化財に指定されている。江戸時代初期に若宮を建て替える際に、社殿を荏柄天神社の本殿として移築された。
    「第一皇子(もりよし、とも)(p.70)とあるが、「護良((もりよし、とも)親王)のことであろう。
    「浄妙寺」(p.86)に、「今各寺院は拝観者に門を閉ざしている。‥観光寺院はもちろん違うけど。」とあるが、光触寺で触れるべきである。

  • 「報国寺」(p.87)に駐車場のことがまとめて記載されているが、こうしたことは巻頭にすべきであろう。<br />「蛭子神社」(p.107)の本殿は明治7年(1874年)に移築されたものであろうが、拝殿は昭和9年(1934年)に再建されたものであろう。神奈川県神社誌に、「明治七年八月社殿を新築した。本殿はそのとき鶴岡八幡宮末社今宮の社殿を譲り受け移築したものである。昭和九年拝殿を新築した。」とあるからだ。<br />p.125に札所が記載されているが、こうしたものは巻末かどこかに纏めた方が良いだろう。<br />「いまの八幡宮とあわせて」(p.138)(誤)→「鶴岡八幡宮の飛び地境内として」(正)。<br />「妙長寺」(p.141)には写真が掲載されていない。山門と本堂が最近再建されたばかりだ。また、境内には明治11年(1878年)建立の鱗供養塔がある。<br />「『鎌倉市史 社寺編』の‥「久能山に建立した徳川家の御霊屋を譲りうけて移築したもの」としている。」は間違いなので削除すべきである。『鎌倉市史 社寺編』(吉川弘文館、 1959)。<br /><br />

    「報国寺」(p.87)に駐車場のことがまとめて記載されているが、こうしたことは巻頭にすべきであろう。
    「蛭子神社」(p.107)の本殿は明治7年(1874年)に移築されたものであろうが、拝殿は昭和9年(1934年)に再建されたものであろう。神奈川県神社誌に、「明治七年八月社殿を新築した。本殿はそのとき鶴岡八幡宮末社今宮の社殿を譲り受け移築したものである。昭和九年拝殿を新築した。」とあるからだ。
    p.125に札所が記載されているが、こうしたものは巻末かどこかに纏めた方が良いだろう。
    「いまの八幡宮とあわせて」(p.138)(誤)→「鶴岡八幡宮の飛び地境内として」(正)。
    「妙長寺」(p.141)には写真が掲載されていない。山門と本堂が最近再建されたばかりだ。また、境内には明治11年(1878年)建立の鱗供養塔がある。
    「『鎌倉市史 社寺編』の‥「久能山に建立した徳川家の御霊屋を譲りうけて移築したもの」としている。」は間違いなので削除すべきである。『鎌倉市史 社寺編』(吉川弘文館、 1959)。

  • [誤記]<br />「八幡宮、」(p.52)(誤)→「「八幡宮」」(正)。<br />「旗上弁天社」(p.53)(誤)→「旗上弁財天社」(正)。<br />「という。」(p.92)(誤)→「ともいう。」(正)。<br />p.106の蛭子神社の写真は本来は次ページに挿入すべき。こうしたレイアウトが随所に見受けられる。<br />「本山」(p.111)(誤)→「総本山」(正)。<br />「残りの五六基」(p.203)→「残りの五○基」(正)。<br />「十六童子」(p.211)(誤)→「十六童子のうち15体」(正)。<br />「朝比奈」(p.228)(誤)→「朝夷奈」(正)。<br />「極楽寺−御霊神社」(p.223)(誤)→「極楽寺−成就院−御霊神社」(正)。<br />「リス」(p.51、p.253)(誤)→「台湾リス」(正)。<br />「もっとも大きいといわれる」(p.281)(誤)→「最大級の」(正)。<br />「300円」(p.278)(誤)→「1〜5月、7〜12月は300円、6月は500円」(正)。<br />「円城寺」(p.287)(誤)→「円成寺」(正)。<br />「七体の地蔵像」(p.298)(誤)→「お地蔵さま」(正)<br />「国指定重要文化財古民家」(p.299)(誤)→「国指定重要文化財の古民家」(正)。<br />「北条綱成が軍神」(p.301)(誤)→「北条綱成が、軍神」(正)。<br />「元和年間(一六一五〜二四)(p.301)(誤)→「元和五年(一六一九年)〜元和十年(一六二四年」(正)。<br />「なお、この本堂は一八三六年(天保七年)に再建され、庫裡と一棟になっているめずらしい建築である。」(p.313)(誤)→削除(正)。<br />「鼻高地蔵をはじめ六体の地蔵」(p.314)(誤)→「鼻高地蔵を先頭とする六地蔵」(正)。<br />「改修工事」(p.314)(誤)→「建替え工事」(正)。

    [誤記]
    「八幡宮、」(p.52)(誤)→「「八幡宮」」(正)。
    「旗上弁天社」(p.53)(誤)→「旗上弁財天社」(正)。
    「という。」(p.92)(誤)→「ともいう。」(正)。
    p.106の蛭子神社の写真は本来は次ページに挿入すべき。こうしたレイアウトが随所に見受けられる。
    「本山」(p.111)(誤)→「総本山」(正)。
    「残りの五六基」(p.203)→「残りの五○基」(正)。
    「十六童子」(p.211)(誤)→「十六童子のうち15体」(正)。
    「朝比奈」(p.228)(誤)→「朝夷奈」(正)。
    「極楽寺−御霊神社」(p.223)(誤)→「極楽寺−成就院−御霊神社」(正)。
    「リス」(p.51、p.253)(誤)→「台湾リス」(正)。
    「もっとも大きいといわれる」(p.281)(誤)→「最大級の」(正)。
    「300円」(p.278)(誤)→「1〜5月、7〜12月は300円、6月は500円」(正)。
    「円城寺」(p.287)(誤)→「円成寺」(正)。
    「七体の地蔵像」(p.298)(誤)→「お地蔵さま」(正)
    「国指定重要文化財古民家」(p.299)(誤)→「国指定重要文化財の古民家」(正)。
    「北条綱成が軍神」(p.301)(誤)→「北条綱成が、軍神」(正)。
    「元和年間(一六一五〜二四)(p.301)(誤)→「元和五年(一六一九年)〜元和十年(一六二四年」(正)。
    「なお、この本堂は一八三六年(天保七年)に再建され、庫裡と一棟になっているめずらしい建築である。」(p.313)(誤)→削除(正)。
    「鼻高地蔵をはじめ六体の地蔵」(p.314)(誤)→「鼻高地蔵を先頭とする六地蔵」(正)。
    「改修工事」(p.314)(誤)→「建替え工事」(正)。

  • さらに言うと、各寺社では良く知られていたり、注目すべき点が抜け落ちていることが多く見られる。以下に記載しておく。<br />[話題の問題]<br />「鶴岡八幡宮」(p.33)は初詣の発祥とも伝わる。<br />「旗上弁財天社」(p.48)にある政子石(姫石)はパワースポットとして知られる。また、鎌倉七福神の記載がほしいところだ。<br />「扁額」(p.52)に掲げた「八幡宮」は「八幡宮寺」の「寺」部分を切ったものである。<br />「白旗神社」(p.53)の手水鉢は輪蔵の軸受けを再利用したものである。蓮華紋が残る。<br />西御門「八雲神社」(p.64)の鳥居には海藻が掛けられている。西御門来迎寺まで足を伸ばしておきながら、これを見ない手はないだろう。<br />「荏柄天神社」(p.68)のイチョウの木と実は紹介してほしいところだ。<br />「覚園寺」(p.73)では、本尊の丈六の薬師如来坐像が鎌倉では鎌倉大仏を除けば最大仏の一つであることを記載すべきでしょう。<br />「寺僧の案内で」(p.74)とあるが、覚園寺だけが、雨天時や足場の悪い日を除き、定時(n:00)から拝観が始められる鎌倉では唯一の寺であり、拝観料は鎌倉ではトップクラスにある。<br />「瑞泉寺」(p.75)では黄梅と枝垂れ桜が知られている。<br />「十二所神社」(p.79)。住所の十二所は「じゅうにそ」であるが、「十二所神社」を「じゅうにそうじんじゃ」ともいう。社殿の兎の彫刻は昨年の干支で話題になった。<br />「光触寺」(p.81)の本尊・頬焼阿弥陀立像は国指定重要文化財であり、団体(10名以上)での電話予約で参拝できる。しかし、10名未満の場合でも一般公開日(6月及び10月の第1土曜日、13時〜)に拝観できる。<br />「浄妙寺」(p.86)横には「鎌足稲荷神社」が鎮座し、これが鎌倉の名の由来であるともされる。紹介すべき神社であろう。<br />「また、山腹にバーベキュー場か何かがあるようだが、筆者は未見。」(p.87)として、石窯ガーデンテラス名を出さないのは不親切である。<br />杉本寺の「石段」(p.92)は「鎌倉石の石段」であることを明記すべきである。また、鎌倉三十三観音霊場の記載と一覧(p.94)があるが、p.104の鎌倉七福神も一覧の記載にしてほしいところだ。<br />「木造地蔵菩薩坐像(国重文)」(p.101)とあるが、これまでにも国重文の仏像や建物などが記載されてきている。しかし、ここだけ国重文としたのでは他はそうしたものがないものと読者を誤解させてしまうだけである。<br />

    さらに言うと、各寺社では良く知られていたり、注目すべき点が抜け落ちていることが多く見られる。以下に記載しておく。
    [話題の問題]
    「鶴岡八幡宮」(p.33)は初詣の発祥とも伝わる。
    「旗上弁財天社」(p.48)にある政子石(姫石)はパワースポットとして知られる。また、鎌倉七福神の記載がほしいところだ。
    「扁額」(p.52)に掲げた「八幡宮」は「八幡宮寺」の「寺」部分を切ったものである。
    「白旗神社」(p.53)の手水鉢は輪蔵の軸受けを再利用したものである。蓮華紋が残る。
    西御門「八雲神社」(p.64)の鳥居には海藻が掛けられている。西御門来迎寺まで足を伸ばしておきながら、これを見ない手はないだろう。
    「荏柄天神社」(p.68)のイチョウの木と実は紹介してほしいところだ。
    「覚園寺」(p.73)では、本尊の丈六の薬師如来坐像が鎌倉では鎌倉大仏を除けば最大仏の一つであることを記載すべきでしょう。
    「寺僧の案内で」(p.74)とあるが、覚園寺だけが、雨天時や足場の悪い日を除き、定時(n:00)から拝観が始められる鎌倉では唯一の寺であり、拝観料は鎌倉ではトップクラスにある。
    「瑞泉寺」(p.75)では黄梅と枝垂れ桜が知られている。
    「十二所神社」(p.79)。住所の十二所は「じゅうにそ」であるが、「十二所神社」を「じゅうにそうじんじゃ」ともいう。社殿の兎の彫刻は昨年の干支で話題になった。
    「光触寺」(p.81)の本尊・頬焼阿弥陀立像は国指定重要文化財であり、団体(10名以上)での電話予約で参拝できる。しかし、10名未満の場合でも一般公開日(6月及び10月の第1土曜日、13時〜)に拝観できる。
    「浄妙寺」(p.86)横には「鎌足稲荷神社」が鎮座し、これが鎌倉の名の由来であるともされる。紹介すべき神社であろう。
    「また、山腹にバーベキュー場か何かがあるようだが、筆者は未見。」(p.87)として、石窯ガーデンテラス名を出さないのは不親切である。
    杉本寺の「石段」(p.92)は「鎌倉石の石段」であることを明記すべきである。また、鎌倉三十三観音霊場の記載と一覧(p.94)があるが、p.104の鎌倉七福神も一覧の記載にしてほしいところだ。
    「木造地蔵菩薩坐像(国重文)」(p.101)とあるが、これまでにも国重文の仏像や建物などが記載されてきている。しかし、ここだけ国重文としたのでは他はそうしたものがないものと読者を誤解させてしまうだけである。

  • 「大巧寺」(p.108)については、若宮大路に向けて入り口を作ってはいけない規則があったため、若宮大路側には裏門がある。本堂の格天井絵の写真をp.109に掲載しておきながら、何の説明もないのは不親切だ。<br />「本堂(大正十二年再建)」(p.112)とあるが、関東大震災の年(大正12年(1923年))ということではないであろう。ウィキペディアには「大正時代」の再建とあるが、大正8年(1919年)の再建である。寺伝では関東大震災では柱が傾いたが倒壊はしなかったという。本尊も倒壊した日蓮御分骨堂から本堂に移されたとされる。また、本覚寺に伝岡崎五郎正宗(刀鍛冶)の墓があることにも触れられていない。<br />p.113に日蓮の略歴を載せているが、その3寺前にある妙隆寺から日蓮宗寺院の散策が始まっている。本来はその前に置くべきである。鎌倉市内には日蓮宗寺院が50寺程度あると言われており、4割程度の寺院は日蓮宗のお寺ということになる。また、日蓮の縁起についても、辻説法跡(2箇所)、松葉ヶ谷草庵跡(3箇所)、ぼたもち寺(2箇寺)、船中問答霊場(2箇寺)と1つではないことが多々あるから注意を要する。<br />「妙本寺」(p.115)二天門の修復は色彩を戻すやり方が執られ、鮮やかな創建当時の輝きを取り戻している。また、蛇苦止堂の井戸についても何か説明がほしい。<br />「八雲神社」(p.121)の宝物殿には4基の神輿が収蔵されている。また、木の根元には新羅三郎の手玉石が置かれている。<br />「教恩寺」(p.122)山門の十六羅漢像の彫刻も見てほしい。<br />「別願寺」(p.123)には何もなく寺かと疑うほどだが、足利持氏の供養塔がある。<br />「上行寺」(p.123)本堂は明治19年(1886年)名越の妙法寺から移築したものといわれ、格天井には花鳥の絵や、欄間には十二支の彫刻がある。また、本堂階段には七福神が飾られ、山門の彫刻は左甚五郎作と言われ、これも妙法寺からもらってきたという。本堂横には大正5年(1916年)に建てられた広木松之介の墓がある。<br />「安養院」(p.125)境内には北条政子の墓(宝篋印塔)と尊観の宝篋印塔(徳治3年(1308年)銘)(重文)が建っている。<br />「本興寺」(128)は大町辻にあたり、日蓮の大町辻説法地跡と考えられる。<br />

    「大巧寺」(p.108)については、若宮大路に向けて入り口を作ってはいけない規則があったため、若宮大路側には裏門がある。本堂の格天井絵の写真をp.109に掲載しておきながら、何の説明もないのは不親切だ。
    「本堂(大正十二年再建)」(p.112)とあるが、関東大震災の年(大正12年(1923年))ということではないであろう。ウィキペディアには「大正時代」の再建とあるが、大正8年(1919年)の再建である。寺伝では関東大震災では柱が傾いたが倒壊はしなかったという。本尊も倒壊した日蓮御分骨堂から本堂に移されたとされる。また、本覚寺に伝岡崎五郎正宗(刀鍛冶)の墓があることにも触れられていない。
    p.113に日蓮の略歴を載せているが、その3寺前にある妙隆寺から日蓮宗寺院の散策が始まっている。本来はその前に置くべきである。鎌倉市内には日蓮宗寺院が50寺程度あると言われており、4割程度の寺院は日蓮宗のお寺ということになる。また、日蓮の縁起についても、辻説法跡(2箇所)、松葉ヶ谷草庵跡(3箇所)、ぼたもち寺(2箇寺)、船中問答霊場(2箇寺)と1つではないことが多々あるから注意を要する。
    「妙本寺」(p.115)二天門の修復は色彩を戻すやり方が執られ、鮮やかな創建当時の輝きを取り戻している。また、蛇苦止堂の井戸についても何か説明がほしい。
    「八雲神社」(p.121)の宝物殿には4基の神輿が収蔵されている。また、木の根元には新羅三郎の手玉石が置かれている。
    「教恩寺」(p.122)山門の十六羅漢像の彫刻も見てほしい。
    「別願寺」(p.123)には何もなく寺かと疑うほどだが、足利持氏の供養塔がある。
    「上行寺」(p.123)本堂は明治19年(1886年)名越の妙法寺から移築したものといわれ、格天井には花鳥の絵や、欄間には十二支の彫刻がある。また、本堂階段には七福神が飾られ、山門の彫刻は左甚五郎作と言われ、これも妙法寺からもらってきたという。本堂横には大正5年(1916年)に建てられた広木松之介の墓がある。
    「安養院」(p.125)境内には北条政子の墓(宝篋印塔)と尊観の宝篋印塔(徳治3年(1308年)銘)(重文)が建っている。
    「本興寺」(128)は大町辻にあたり、日蓮の大町辻説法地跡と考えられる。

  • 「妙法寺」(p.129)裏山山頂には大塔官護良親王の墓がある。護良親王の墓は鎌倉宮の近くに宮内庁の立派なものが明治になって造られている。仁王門の奥の裏山中腹に水戸徳川家から寄進されたという法華堂がある。境内は雨天時には公開されず、三脚・一脚の使用が禁じられている。<br />「安国論寺」(p.130)が管理する「御硯水の井戸」と「化生窟」が隣の額田記念病院駐車場奥にある。かつて、海棠が知られていたが、現在では樹勢がなくなってしまって見る陰もない。<br />「長勝寺」(p.138)も松葉ヶ谷草庵跡があったとされる3箇所のうちの1つであり、鎌倉材木座霊園下に松葉ヶ谷草庵跡があり、ここにも日蓮聖人像が建っている。<br />「妙長寺」(p.141)の山門と本堂が最近再建されたばかりだ。また、境内には明治11年(1878年)建立の鱗供養塔がある。<br />「光明寺」(p.151)の本堂廊下には天女の彩色彫刻が3枚あり、内陣には182枚(14×13)の龍の絵が描かれた天井絵がある。開山堂前には寛文3年(1663年)に造立された善導大師の銅像が建っている。記主庭園に建つ八角堂は宗祖法然上人800年大御忌を期して建立された大聖閣(たいしょうかく)である。予約すれば精進料理が頂ける。なお、三尊五祖の石庭は昭和48年(1973年)に作庭された枯山水庭園である。

    「妙法寺」(p.129)裏山山頂には大塔官護良親王の墓がある。護良親王の墓は鎌倉宮の近くに宮内庁の立派なものが明治になって造られている。仁王門の奥の裏山中腹に水戸徳川家から寄進されたという法華堂がある。境内は雨天時には公開されず、三脚・一脚の使用が禁じられている。
    「安国論寺」(p.130)が管理する「御硯水の井戸」と「化生窟」が隣の額田記念病院駐車場奥にある。かつて、海棠が知られていたが、現在では樹勢がなくなってしまって見る陰もない。
    「長勝寺」(p.138)も松葉ヶ谷草庵跡があったとされる3箇所のうちの1つであり、鎌倉材木座霊園下に松葉ヶ谷草庵跡があり、ここにも日蓮聖人像が建っている。
    「妙長寺」(p.141)の山門と本堂が最近再建されたばかりだ。また、境内には明治11年(1878年)建立の鱗供養塔がある。
    「光明寺」(p.151)の本堂廊下には天女の彩色彫刻が3枚あり、内陣には182枚(14×13)の龍の絵が描かれた天井絵がある。開山堂前には寛文3年(1663年)に造立された善導大師の銅像が建っている。記主庭園に建つ八角堂は宗祖法然上人800年大御忌を期して建立された大聖閣(たいしょうかく)である。予約すれば精進料理が頂ける。なお、三尊五祖の石庭は昭和48年(1973年)に作庭された枯山水庭園である。

  • 「英勝寺」(p.169)の仏殿内部には徳川家光寄進の阿弥陀三尊如来像(運慶作)を祀っている。枝垂れ桜の古木も忘れてはいけない。また、十六夜日記の作者として知られる阿仏尼の墓(伝阿仏尼墓)が隠里稲荷(智岸寺稲荷とも言われている)の横にあるが、ここを左折して入る谷戸には大きなやぐらがあり、人見氏の墓標が建っている。寺伝ではこのやぐらが阿仏尼の墓と伝えられている。阿仏尼は冷泉家祖・冷泉為相の母である。人見氏とは水戸藩士であり、儒学者として「大日本史」の編纂に携わった。水戸黄門で知られる水戸光圀が19歳の時に、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、卜幽を藩士として召抱えたのである。<br />「海蔵寺」(p.171)は海棠の名所で知られる。<br />「薬王寺」(p.117)には徳川忠長公供養塔が建ち、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていたために、一般住民の埋骨が許されない格式由緒のある寺であった。また、裏の墓地には忠長公の奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)とその娘・梅嶺院殿(蒲生家)の2つ宝篋印塔が並んで建っている。<br />「浄光明寺」(p.179)の本尊の阿弥陀座像(正安元年(1299年)作、重文)は半丈六仏であり、鎌倉では大仏を除くと建長寺の地蔵菩薩像、覚園寺の薬師如来像に次ぐ大きさだ。今では収蔵庫に安置され、温度と湿度が調整されている。しかし、拝む入り口は開放されているので夏場や雨天時には公開されず、木曜日と土・日・祝日にだけ公開(10:00〜12:00、13:00〜16:00)されている。相印と、中世鎌倉のみで流行した「土紋」と呼ばれる袈裟の紋様に特徴がある。時代が下がって江戸期あたりには冠を頂くようになったようだ。客殿裏には瑞泉寺の庭園と同じやぐらがある庭園があるが非公開である。また、多宝寺跡には覚賢塔(重文)が建ち、極楽寺の忍性塔(重文)に次ぐ大きさの五輪塔の墓である。毎年、4月8日に公開されている。向かいの浄光明寺墓地は東林寺跡にあり、やぐらがあり、東林寺跡やぐら群と呼ばれている。ハイヒールでも行けるやぐらである。<br />「佐助稲荷神社」(p.183)は「鎌倉總社佐助稲荷神社」の社号標石が立ち、稲荷神社の鎌倉総社ということらしい。<br />「甘縄神明宮神社」(p.194)が鎮座するこの地は、鎌倉時代初期の御家人で安達一族の祖安達盛長氏の邸宅があった所である。大正14年(1925年)3月に鎌倉町青年団が建てた「安達盛長邸址」石碑が境内にある。甘縄の邸は北条時頼の母松下禅尼(安達景盛の娘)の実家である。また、孫の北条時宗の誕生の地でもあり、時宗の産湯の井戸がある。神輿庫には白木の神輿が収納されている。鎌倉の沿岸に鎮座する一部の神社の祭りでは海に入る神輿は白木のままにしている。<br />「高徳院(鎌倉大仏)」(p.197)の大仏殿の礎石は江戸時代には60個、現在は50個あり、加工されたものを含めると56個あるという。相当数が動かされたようで、大仏前の下の段や客殿横の庭石にも転用されている。<br />

    「英勝寺」(p.169)の仏殿内部には徳川家光寄進の阿弥陀三尊如来像(運慶作)を祀っている。枝垂れ桜の古木も忘れてはいけない。また、十六夜日記の作者として知られる阿仏尼の墓(伝阿仏尼墓)が隠里稲荷(智岸寺稲荷とも言われている)の横にあるが、ここを左折して入る谷戸には大きなやぐらがあり、人見氏の墓標が建っている。寺伝ではこのやぐらが阿仏尼の墓と伝えられている。阿仏尼は冷泉家祖・冷泉為相の母である。人見氏とは水戸藩士であり、儒学者として「大日本史」の編纂に携わった。水戸黄門で知られる水戸光圀が19歳の時に、上京した侍読・人見卜幽を通じて冷泉為景と知り合い、卜幽を藩士として召抱えたのである。
    「海蔵寺」(p.171)は海棠の名所で知られる。
    「薬王寺」(p.117)には徳川忠長公供養塔が建ち、徳川・蒲生家ゆかりの寺として寺紋に三葉葵が用いられていたために、一般住民の埋骨が許されない格式由緒のある寺であった。また、裏の墓地には忠長公の奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)とその娘・梅嶺院殿(蒲生家)の2つ宝篋印塔が並んで建っている。
    「浄光明寺」(p.179)の本尊の阿弥陀座像(正安元年(1299年)作、重文)は半丈六仏であり、鎌倉では大仏を除くと建長寺の地蔵菩薩像、覚園寺の薬師如来像に次ぐ大きさだ。今では収蔵庫に安置され、温度と湿度が調整されている。しかし、拝む入り口は開放されているので夏場や雨天時には公開されず、木曜日と土・日・祝日にだけ公開(10:00〜12:00、13:00〜16:00)されている。相印と、中世鎌倉のみで流行した「土紋」と呼ばれる袈裟の紋様に特徴がある。時代が下がって江戸期あたりには冠を頂くようになったようだ。客殿裏には瑞泉寺の庭園と同じやぐらがある庭園があるが非公開である。また、多宝寺跡には覚賢塔(重文)が建ち、極楽寺の忍性塔(重文)に次ぐ大きさの五輪塔の墓である。毎年、4月8日に公開されている。向かいの浄光明寺墓地は東林寺跡にあり、やぐらがあり、東林寺跡やぐら群と呼ばれている。ハイヒールでも行けるやぐらである。
    「佐助稲荷神社」(p.183)は「鎌倉總社佐助稲荷神社」の社号標石が立ち、稲荷神社の鎌倉総社ということらしい。
    「甘縄神明宮神社」(p.194)が鎮座するこの地は、鎌倉時代初期の御家人で安達一族の祖安達盛長氏の邸宅があった所である。大正14年(1925年)3月に鎌倉町青年団が建てた「安達盛長邸址」石碑が境内にある。甘縄の邸は北条時頼の母松下禅尼(安達景盛の娘)の実家である。また、孫の北条時宗の誕生の地でもあり、時宗の産湯の井戸がある。神輿庫には白木の神輿が収納されている。鎌倉の沿岸に鎮座する一部の神社の祭りでは海に入る神輿は白木のままにしている。
    「高徳院(鎌倉大仏)」(p.197)の大仏殿の礎石は江戸時代には60個、現在は50個あり、加工されたものを含めると56個あるという。相当数が動かされたようで、大仏前の下の段や客殿横の庭石にも転用されている。

  • 「円久寺」(p.204)は枝垂れ桜で知られる。<br />「仏行寺」(p.205)はつつじの寺として知られ、庭園には池とやぐらがあり、瑞泉寺の庭園と類似しているところがある。<br />「長谷寺」(p.209)の「見晴台」からは鎌倉の海と街並みが一望できるだけでなく、長柄桜山古墳群も眺望できる。<br />「光則寺」(p.213)の土牢は横穴古墳(横穴墓)である。本堂裏山にはもう1基横穴古墳(横穴墓)がある。<br />「御霊神社」(p.217)には2つの神輿庫があり、漆塗りの本神輿1基と白木の神輿2基がそれそれ収納されている。本堂裏手にはアジサイが植えられており、アジサイの季節には成就院から御霊神社、長谷寺へと列が連なる。<br />「極楽寺」(p.224)には「撮影禁止」の看板が立っているが、スナップ写真程度なら可であると副住職から言われた。また、極楽寺を出、谷戸から大仏トンネルの上を越え、現在の大仏ハイキングコースを通って銭洗弁天を参拝し、化粧坂を下り、若宮大路の下馬あたりに出ると一の鳥居が見える。「とわずがたり」の一節は、大仏ハイキングコースがある尾根道を通って化粧坂から若宮大路に出たことを「化粧坂といふ山を越えて、」と書いているのであろう。極楽寺から極楽寺坂を通るのであれば、「極楽寺坂を下りて、」と書くであろう。<br />「虚空蔵堂」(p.233)にある舟守地蔵の台座は舟形をしている。<br />「小動神社」(p.238)。浄泉寺は正式には小動山松岩院浄泉寺といい、小動神社の別当寺であったが、天正6年(1558年)、小動神社の別当であった中興後22世栗林龍照の時に神仏分離した。江戸時代前期に神仏分離が行われた出雲大社よりも早い。明治維新前に神仏分離が行われた数少ない寺と神社である。<br />「満福寺」(p.240)。頼朝の時代には鎌倉中は八幡宮を中心として七里とし、浜七里と野七里の間とされた。浜七里は現在では七里ガ浜と呼ばれ、その外は鎌倉の外とされた。また、野七里は横浜市栄区に今もある。永福寺から六国峠(天園峠)を越えて野七里に向かう大手中路は奥州平泉へ向かう鎌倉口であったのだ。<br />「龍口寺」(p.242)。腰越駅から龍口寺あたりでは江ノ電は道路上に軌道が敷かれているから、まるで路面電車だ。また、日蓮聖人が入れられていた御霊窟は横穴古墳(横穴墓)である。仁王門は鉄筋コンクリート造であるが、山門(元治元年(1864年)竣工)には目を見張るほどの彫刻が散りばめられている。また、手水舎の鶴をあしらった懸魚と亀の木鼻の組み合わせは目でたい「鶴亀」を表している。本堂(天保3年(1832年)建立)の向拝の彫刻も素晴らしいものだ。本堂内陣には天井絵が描かれているが判別は難しい。他に、五重塔(明治43年(1910年)建立)、大書院(明治初年の建築を昭和10年(1935年)に移築)など幕末から明治期の建物が並んでいる。<br />「本龍寺」(p.246)。唐破風玄関に龍の彫刻が見え、木鼻も龍であるのは珍しいが寺名に因るものであろう。

    「円久寺」(p.204)は枝垂れ桜で知られる。
    「仏行寺」(p.205)はつつじの寺として知られ、庭園には池とやぐらがあり、瑞泉寺の庭園と類似しているところがある。
    「長谷寺」(p.209)の「見晴台」からは鎌倉の海と街並みが一望できるだけでなく、長柄桜山古墳群も眺望できる。
    「光則寺」(p.213)の土牢は横穴古墳(横穴墓)である。本堂裏山にはもう1基横穴古墳(横穴墓)がある。
    「御霊神社」(p.217)には2つの神輿庫があり、漆塗りの本神輿1基と白木の神輿2基がそれそれ収納されている。本堂裏手にはアジサイが植えられており、アジサイの季節には成就院から御霊神社、長谷寺へと列が連なる。
    「極楽寺」(p.224)には「撮影禁止」の看板が立っているが、スナップ写真程度なら可であると副住職から言われた。また、極楽寺を出、谷戸から大仏トンネルの上を越え、現在の大仏ハイキングコースを通って銭洗弁天を参拝し、化粧坂を下り、若宮大路の下馬あたりに出ると一の鳥居が見える。「とわずがたり」の一節は、大仏ハイキングコースがある尾根道を通って化粧坂から若宮大路に出たことを「化粧坂といふ山を越えて、」と書いているのであろう。極楽寺から極楽寺坂を通るのであれば、「極楽寺坂を下りて、」と書くであろう。
    「虚空蔵堂」(p.233)にある舟守地蔵の台座は舟形をしている。
    「小動神社」(p.238)。浄泉寺は正式には小動山松岩院浄泉寺といい、小動神社の別当寺であったが、天正6年(1558年)、小動神社の別当であった中興後22世栗林龍照の時に神仏分離した。江戸時代前期に神仏分離が行われた出雲大社よりも早い。明治維新前に神仏分離が行われた数少ない寺と神社である。
    「満福寺」(p.240)。頼朝の時代には鎌倉中は八幡宮を中心として七里とし、浜七里と野七里の間とされた。浜七里は現在では七里ガ浜と呼ばれ、その外は鎌倉の外とされた。また、野七里は横浜市栄区に今もある。永福寺から六国峠(天園峠)を越えて野七里に向かう大手中路は奥州平泉へ向かう鎌倉口であったのだ。
    「龍口寺」(p.242)。腰越駅から龍口寺あたりでは江ノ電は道路上に軌道が敷かれているから、まるで路面電車だ。また、日蓮聖人が入れられていた御霊窟は横穴古墳(横穴墓)である。仁王門は鉄筋コンクリート造であるが、山門(元治元年(1864年)竣工)には目を見張るほどの彫刻が散りばめられている。また、手水舎の鶴をあしらった懸魚と亀の木鼻の組み合わせは目でたい「鶴亀」を表している。本堂(天保3年(1832年)建立)の向拝の彫刻も素晴らしいものだ。本堂内陣には天井絵が描かれているが判別は難しい。他に、五重塔(明治43年(1910年)建立)、大書院(明治初年の建築を昭和10年(1935年)に移築)など幕末から明治期の建物が並んでいる。
    「本龍寺」(p.246)。唐破風玄関に龍の彫刻が見え、木鼻も龍であるのは珍しいが寺名に因るものであろう。

  • 「建長寺」(p.253)。臨済宗の僧沢庵和尚は鎌倉に来て建長寺の荒廃振りを目の当たりにした。三代将軍徳川家光公に慕われていた沢庵和尚の斡旋があり、台徳院霊廟(二代将軍秀忠公の御霊屋)に並べて新たに崇源院(お江、秀忠正室)の霊拝所が建立されたため、残されていたこれまでの崇源院御霊屋を建長寺に移築することになった。その唐門も最近改修されている。<br />「円覚寺」(p.264)。国宝舎利殿は開山廟の昭堂(礼拝所)である。弘治2年(1556年)鎌倉に攻め込んだ安房の里見義弘は、西御門(横浜国大テニスコート辺り)にあった太平寺の尼僧、青岳尼(しょうがくに)と本尊聖観音像を安房へと連れ去り、青岳尼を還俗させ、夫人としたため、これに激怒した北条氏康は太平寺を廃絶してしまった。そして、廃寺となった太平寺の仏殿は移築されて円覚寺舎利殿(昭堂)となった。その後、聖観音像(重文)は東慶寺の旭山尼(きょくざんに、青岳尼の妹)が里見氏と掛け合って鎌倉に戻され、東慶寺に客仏として残っている。<br />開基廟床下には北条時宗と貞時、高時の遺骸が埋葬されている。また、覚山尼(時宗夫人)の位牌も安置されている。北条時頼墓が明月院に一人ぽつんとあるのに対し、子の時宗の墓は息子と孫の3代が一緒に埋葬された家族墓になっている。<br />「東慶寺」(p.272)の本堂には天秀尼像と覚山尼像、用堂尼像が祀られている。また、萱葺き屋根の鐘楼天井には雲龍図が描かれている。これは大正5年(1916年)に当時の住職が描いたものだ。<br />「明月院」(p.278)は「あじさい寺」としてつとに有名である。しかし、知られていないが、実は鎌倉では一番の枝垂れ桜の名所になった。また、電線を地下に埋設しているために電線が景色を遮ることもなく、境内が落ち着いている。明月院の入山料は通常は300円であるが、あじさいが咲く6月になると500円になる。この時期と秋に本堂後庭園が特別公開されるが、維持管理費用として500円を納める必要がある。こうなると鎌倉では覚園寺と並んで入山料が最高額となるが、本堂後庭園も見学すると覚園寺の入山料の2倍となってしまう。1000円も払って人混みを味わうことこともない。6月になると開門が8:30と30分早くなるが、この早朝が狙い目である。しかし、一番のお勧めは300円で9:00から枝垂れ桜の桜見ができる4月初旬である。<br />「浄智寺」(p.282)は鎌倉中ならどこにでも植えられている四方竹の発祥の寺である。創建時に中国からもたらされた。3〜4cm角程度の太さであり、秋に筍が出る。また、参道石段脇のタチヒガンは有名であり、鐘楼門脇の枝垂れ桜も見応えがある。総門下に甘露ノ井があるが水は汲めない。総門横の駐車場にある井戸から手押しポンプで汲む水はうまい。実に甘露、甘露。<br />「長寿寺」(p.285)は住職が代わって、春と秋の金・土・日に公開(雨天中止)されるようになった。自分で選んで1枚絵はがきがもらえる。撮影はデジカメなら可であるが、一眼レフは不可である。境内の敷石から少しでも踏み出してしまうと注意される。<br />「円応寺」(p.287)。秋には石段両側に咲く紅白の萩と閻魔堂の両側に植えられた金木犀の2本の大木が心地良い香りを放つ。春には山門横の1本の枝垂れ桜が咲く。<br />「雲頂庵」(p.290)の石段や境内法面には枝垂れ桜が植えられており、ようやく花見ができるまでに成長した。<br />山ノ内「八雲神社」(p.290)には「安部清明石」がある。<br />「光照寺」(p.290)は「しゃくなげ寺」とあるが、境内に石楠花の花は咲いていたが、あえてしゃくなげ寺というほどのことはない。「おしゃぶき様」があり、毎月お参りするとお年寄りや子どもの咳が止まるという咳の神様である。また、親の供養のために建てられた板碑(正中2年(1325年)銘)は今日でいう卒塔婆だ。

    「建長寺」(p.253)。臨済宗の僧沢庵和尚は鎌倉に来て建長寺の荒廃振りを目の当たりにした。三代将軍徳川家光公に慕われていた沢庵和尚の斡旋があり、台徳院霊廟(二代将軍秀忠公の御霊屋)に並べて新たに崇源院(お江、秀忠正室)の霊拝所が建立されたため、残されていたこれまでの崇源院御霊屋を建長寺に移築することになった。その唐門も最近改修されている。
    「円覚寺」(p.264)。国宝舎利殿は開山廟の昭堂(礼拝所)である。弘治2年(1556年)鎌倉に攻め込んだ安房の里見義弘は、西御門(横浜国大テニスコート辺り)にあった太平寺の尼僧、青岳尼(しょうがくに)と本尊聖観音像を安房へと連れ去り、青岳尼を還俗させ、夫人としたため、これに激怒した北条氏康は太平寺を廃絶してしまった。そして、廃寺となった太平寺の仏殿は移築されて円覚寺舎利殿(昭堂)となった。その後、聖観音像(重文)は東慶寺の旭山尼(きょくざんに、青岳尼の妹)が里見氏と掛け合って鎌倉に戻され、東慶寺に客仏として残っている。
    開基廟床下には北条時宗と貞時、高時の遺骸が埋葬されている。また、覚山尼(時宗夫人)の位牌も安置されている。北条時頼墓が明月院に一人ぽつんとあるのに対し、子の時宗の墓は息子と孫の3代が一緒に埋葬された家族墓になっている。
    「東慶寺」(p.272)の本堂には天秀尼像と覚山尼像、用堂尼像が祀られている。また、萱葺き屋根の鐘楼天井には雲龍図が描かれている。これは大正5年(1916年)に当時の住職が描いたものだ。
    「明月院」(p.278)は「あじさい寺」としてつとに有名である。しかし、知られていないが、実は鎌倉では一番の枝垂れ桜の名所になった。また、電線を地下に埋設しているために電線が景色を遮ることもなく、境内が落ち着いている。明月院の入山料は通常は300円であるが、あじさいが咲く6月になると500円になる。この時期と秋に本堂後庭園が特別公開されるが、維持管理費用として500円を納める必要がある。こうなると鎌倉では覚園寺と並んで入山料が最高額となるが、本堂後庭園も見学すると覚園寺の入山料の2倍となってしまう。1000円も払って人混みを味わうことこともない。6月になると開門が8:30と30分早くなるが、この早朝が狙い目である。しかし、一番のお勧めは300円で9:00から枝垂れ桜の桜見ができる4月初旬である。
    「浄智寺」(p.282)は鎌倉中ならどこにでも植えられている四方竹の発祥の寺である。創建時に中国からもたらされた。3〜4cm角程度の太さであり、秋に筍が出る。また、参道石段脇のタチヒガンは有名であり、鐘楼門脇の枝垂れ桜も見応えがある。総門下に甘露ノ井があるが水は汲めない。総門横の駐車場にある井戸から手押しポンプで汲む水はうまい。実に甘露、甘露。
    「長寿寺」(p.285)は住職が代わって、春と秋の金・土・日に公開(雨天中止)されるようになった。自分で選んで1枚絵はがきがもらえる。撮影はデジカメなら可であるが、一眼レフは不可である。境内の敷石から少しでも踏み出してしまうと注意される。
    「円応寺」(p.287)。秋には石段両側に咲く紅白の萩と閻魔堂の両側に植えられた金木犀の2本の大木が心地良い香りを放つ。春には山門横の1本の枝垂れ桜が咲く。
    「雲頂庵」(p.290)の石段や境内法面には枝垂れ桜が植えられており、ようやく花見ができるまでに成長した。
    山ノ内「八雲神社」(p.290)には「安部清明石」がある。
    「光照寺」(p.290)は「しゃくなげ寺」とあるが、境内に石楠花の花は咲いていたが、あえてしゃくなげ寺というほどのことはない。「おしゃぶき様」があり、毎月お参りするとお年寄りや子どもの咳が止まるという咳の神様である。また、親の供養のために建てられた板碑(正中2年(1325年)銘)は今日でいう卒塔婆だ。

  • 「玉泉寺」(p.298)には「よくばり地蔵」の他にも地蔵堂のお地蔵さまや境内の弥勒仏石像、本堂裏のやぐらに祭られる武将(小林若狭)一族の墓、隣のやぐらに祭られる尊隆和尚他三僧の墓などがある。<br />「龍宝寺」(p.299)には萱葺き屋根の山門があり、昭和34年(1959年)の再建された本堂廊下の梁の長さは目を見張る。本堂の中にはいたるところに最近奉納された小さな五百羅漢像が祀られている。境内には稲荷堂、弁天堂、金比羅宮と山の中腹に鐘楼がある。また、境内には十月桜と枝垂れ桜が植えられているが、十月桜の開花は中々気が付く人がいない。<br />「諏訪神社」(p.301)。玉縄城の廃城は元和5年(1619年)とされている(。P.303に記載されている)。鳥居に掛かる扁額には「諏訪・御霊両大神」と書かれており、諏訪神社例大祭で立てられる幟にも「奉納諏訪 御霊 大神御祭禮」と染め抜かれている。本殿は覆殿の中にあり、舞殿と比べると小さいものである。北条綱成は天正15年(1587年)に没し、社殿脇の山道を上った山頂に一門の墓と共にある。<br />「貞宗寺」(p.301)にある貞宗院の御霊屋には宝篋印塔が建っているが、御霊屋にも鞘堂が掛かっている。石塔に二重に屋根が掛かっているのは創建当初からというが、中々目にしない光景である。<br />「久成寺」(p.304)の寺紋には徳川家の葵の紋が使われている。<br />「大船フラワーセンター」(p.305)が染井吉野の実生株から選択育成した、早咲きの玉縄桜は平成2年(1990年)に品種登録され、現在は「玉縄桜を広める会」が玉縄地区などに植樹している。<br />「常楽寺」(p.307)の山門と文殊堂が萱葺き屋根である。仏堂裏には開基北条泰時公の墓、再中興龍淵胤和尚の墓、円通大応国師の墓が並んでおり、裏山の崖もあるのに、鎌倉時代に創建された古刹でもやぐらは1基しかなく、大船あたりになるとほとんど見られなくなる。 境内には昭和13年(1938年)に倒尽した大イチョウのひこばえが茂っているが、鶴岡八幡宮の大イチョウ跡に芽吹いたひこばえの成長度合いの参考になろうか。<br />「熊野神社」(p.311)の本殿に安置されていた神体像(安土桃山時代の作といわれる熊野権現坐像、脇侍の随身半跏像2体、狛犬2体の計5点が平成18年(2006年)9月3日に盗難に遭っている。また、同じ大船署管内では、この年5月にも鎌倉山の内の第六天社でも木造神体像5体が盗まれている。<br />

    「玉泉寺」(p.298)には「よくばり地蔵」の他にも地蔵堂のお地蔵さまや境内の弥勒仏石像、本堂裏のやぐらに祭られる武将(小林若狭)一族の墓、隣のやぐらに祭られる尊隆和尚他三僧の墓などがある。
    「龍宝寺」(p.299)には萱葺き屋根の山門があり、昭和34年(1959年)の再建された本堂廊下の梁の長さは目を見張る。本堂の中にはいたるところに最近奉納された小さな五百羅漢像が祀られている。境内には稲荷堂、弁天堂、金比羅宮と山の中腹に鐘楼がある。また、境内には十月桜と枝垂れ桜が植えられているが、十月桜の開花は中々気が付く人がいない。
    「諏訪神社」(p.301)。玉縄城の廃城は元和5年(1619年)とされている(。P.303に記載されている)。鳥居に掛かる扁額には「諏訪・御霊両大神」と書かれており、諏訪神社例大祭で立てられる幟にも「奉納諏訪 御霊 大神御祭禮」と染め抜かれている。本殿は覆殿の中にあり、舞殿と比べると小さいものである。北条綱成は天正15年(1587年)に没し、社殿脇の山道を上った山頂に一門の墓と共にある。
    「貞宗寺」(p.301)にある貞宗院の御霊屋には宝篋印塔が建っているが、御霊屋にも鞘堂が掛かっている。石塔に二重に屋根が掛かっているのは創建当初からというが、中々目にしない光景である。
    「久成寺」(p.304)の寺紋には徳川家の葵の紋が使われている。
    「大船フラワーセンター」(p.305)が染井吉野の実生株から選択育成した、早咲きの玉縄桜は平成2年(1990年)に品種登録され、現在は「玉縄桜を広める会」が玉縄地区などに植樹している。
    「常楽寺」(p.307)の山門と文殊堂が萱葺き屋根である。仏堂裏には開基北条泰時公の墓、再中興龍淵胤和尚の墓、円通大応国師の墓が並んでおり、裏山の崖もあるのに、鎌倉時代に創建された古刹でもやぐらは1基しかなく、大船あたりになるとほとんど見られなくなる。 境内には昭和13年(1938年)に倒尽した大イチョウのひこばえが茂っているが、鶴岡八幡宮の大イチョウ跡に芽吹いたひこばえの成長度合いの参考になろうか。
    「熊野神社」(p.311)の本殿に安置されていた神体像(安土桃山時代の作といわれる熊野権現坐像、脇侍の随身半跏像2体、狛犬2体の計5点が平成18年(2006年)9月3日に盗難に遭っている。また、同じ大船署管内では、この年5月にも鎌倉山の内の第六天社でも木造神体像5体が盗まれている。

  • 「大長寺」(p.311)は徳川家康と交流が深かった寺で、来訪時に家康の駕籠が横になって上がれるようにと広い大きな階段にしたのではないかと伝えられている。土蔵造にも似た宝蔵には家康とその父松平廣忠の位牌を祀っているが、扉の左右に彫られた葵の紋と唐破風上の葵の紋が徳川家とのゆかりを今に伝えている。また、創建が戦国時代まで下るからであろう、やぐらではなく防空壕が目に付く寺はここ大長寺ぐらいであろうか。<br />「西念寺」(p.312)は大長寺の末寺である。本堂は平成18年(2006年)に鉄筋コンクリート造に建替えられた。改築時に遺跡調査がなされ、完成までに時間を要したようだ。建物は強固な岩盤の上に建ち、強度も規格よりも強くなっているという。大長寺とは一変し、やぐらが多く見られる。横から奥の旧家までの道路脇の崖にもやぐらが多くある。本堂左の六地蔵脇にある庚申塔は、近所の消防小屋の横にあった「賽の神(さいのかみ)・障の神(さえのかみ)」(道祖神の別称)と呼ばれている石仏を移設したものである。馬頭観音4基もある。この六地蔵は古いものだそうだが、20年ほど前の雨の日に盗難にあったが、それから暫く経った雨の日に戻されたという。そのときに首が取れてしまったそうだ。信心深い方が毎年夏に赤い帽子とちゃんちゃんこを作って着せ替えてくれ、首の補修跡が見えないようにしてある。併設されている岩瀬保育園は戦後間もなくできたもので、鎌倉では3つに数えられるほど古い。門前に広がる田圃を作る近所の農家の子供を、農繁期に預かるためにできたのだと住職夫人の園長先生はいう。今では田圃は全くなくなっている。寺の前にある「いわせ下関こども広場」には上総掘りの井戸が掘られ、生緩い金気の多い水が湧き出ている。

    「大長寺」(p.311)は徳川家康と交流が深かった寺で、来訪時に家康の駕籠が横になって上がれるようにと広い大きな階段にしたのではないかと伝えられている。土蔵造にも似た宝蔵には家康とその父松平廣忠の位牌を祀っているが、扉の左右に彫られた葵の紋と唐破風上の葵の紋が徳川家とのゆかりを今に伝えている。また、創建が戦国時代まで下るからであろう、やぐらではなく防空壕が目に付く寺はここ大長寺ぐらいであろうか。
    「西念寺」(p.312)は大長寺の末寺である。本堂は平成18年(2006年)に鉄筋コンクリート造に建替えられた。改築時に遺跡調査がなされ、完成までに時間を要したようだ。建物は強固な岩盤の上に建ち、強度も規格よりも強くなっているという。大長寺とは一変し、やぐらが多く見られる。横から奥の旧家までの道路脇の崖にもやぐらが多くある。本堂左の六地蔵脇にある庚申塔は、近所の消防小屋の横にあった「賽の神(さいのかみ)・障の神(さえのかみ)」(道祖神の別称)と呼ばれている石仏を移設したものである。馬頭観音4基もある。この六地蔵は古いものだそうだが、20年ほど前の雨の日に盗難にあったが、それから暫く経った雨の日に戻されたという。そのときに首が取れてしまったそうだ。信心深い方が毎年夏に赤い帽子とちゃんちゃんこを作って着せ替えてくれ、首の補修跡が見えないようにしてある。併設されている岩瀬保育園は戦後間もなくできたもので、鎌倉では3つに数えられるほど古い。門前に広がる田圃を作る近所の農家の子供を、農繁期に預かるためにできたのだと住職夫人の園長先生はいう。今では田圃は全くなくなっている。寺の前にある「いわせ下関こども広場」には上総掘りの井戸が掘られ、生緩い金気の多い水が湧き出ている。

  • 「称名寺(今泉不動)」(p.314)は若宮大路から真直ぐ伸びたところに位置している。若宮大路−鶴岡八幡宮−十王岩−称名寺(今泉不動)−浅草寺が一直線上にあるという。本堂は建替え工事中であり平成25年(2013年)4月に竣工する予定である。境内には勢至丸像がある。「勢至丸」とは法然上人の幼名である。法然上人像ではないのは、檀家からぜひにとお布施を受けたからである。<br />「白山神社」(p.317)。参道には庚申塚があり、庚申塔などが並んでいる。境内には百足(ムカデ)を模した注連縄が渡された2本の木が鳥居のように建っている。百足は毘沙門天様のお使いである。バス通を少し下ると今泉台団地に上る道路とで三叉路になっているが、その少し手前から山裾に入り、幕末期に建てられた表門がある旧家の前を通り、山道を進み、山腹から山頂に広がる畑地を過ぎると尾根道がある。この山道を右に行くとT字路になり、左は横浜市栄区公田町に通じている。右には幕末に植えられた大島桜の桜並木が続く。この道はかつての街道だったのだ。桜並木が終わらないうちに道が付け替えられ、右に下りると今泉不動入口から今泉台団地に上るもうひとつの道路前に出る。鎌倉湖循環バスはここから今泉台団地に上り、団地内を循環して白山神社下の道路に下りる。白山神社の裏山の尾根あたりを巡るハイキングコースがあり、大島桜の桜並木があり、桜の根本には念仏供養塔があったりし、桜と旧街道を満喫できる。さらに、バス通を下って今泉小入口の信号がある今泉橋がある山側には「かまくら湧水・福泉」があり、鎌倉市内では唯一、生でも飲める湧水である。横にある萱葺き屋根のお宅の持ち物でこのお宅で管理している。<br />「等覚寺」(p.318)の境内には水子地蔵尊と延命地蔵尊が祀られ、傍らに六地蔵がある。六地蔵のなかには古い安永年間(1772〜1781年)のものがある。<br />「東光寺」(p.319)の境内には新しい聖観世音菩薩像、新しい六地蔵、水子地蔵、相模国十三番札所の弘法大師坐像である探し大師や庚申塔などがある。大師堂の前には、新しい「弘法大師修行石像」が立ち、その周囲には、四国八十八ヶ所霊場から勧請した砂が納めてある。また、境内裏手の崖にはやぐらも多く残っている。中には8〜10畳程度はある大きなものもある。<br />「駒形神社」(p.320)の本殿にも覆殿が掛かっている。中の本殿は天保14年(1843年)に再建されたものと言われるが、立派には見えなかった。境内山手に富士山神社の角塔(明治廿四年(1891年)八月銘)が立ち、村にあった富士講が建てたものであろう。鎌倉中では長谷くらいにしか、こうした山岳信仰の石碑は見当たらない。<br />梶原「御霊神社」は拝殿の裏に石段がありその上に本殿がある。朝夷奈切通横にある熊野神社などもこの形式である。

    「称名寺(今泉不動)」(p.314)は若宮大路から真直ぐ伸びたところに位置している。若宮大路−鶴岡八幡宮−十王岩−称名寺(今泉不動)−浅草寺が一直線上にあるという。本堂は建替え工事中であり平成25年(2013年)4月に竣工する予定である。境内には勢至丸像がある。「勢至丸」とは法然上人の幼名である。法然上人像ではないのは、檀家からぜひにとお布施を受けたからである。
    「白山神社」(p.317)。参道には庚申塚があり、庚申塔などが並んでいる。境内には百足(ムカデ)を模した注連縄が渡された2本の木が鳥居のように建っている。百足は毘沙門天様のお使いである。バス通を少し下ると今泉台団地に上る道路とで三叉路になっているが、その少し手前から山裾に入り、幕末期に建てられた表門がある旧家の前を通り、山道を進み、山腹から山頂に広がる畑地を過ぎると尾根道がある。この山道を右に行くとT字路になり、左は横浜市栄区公田町に通じている。右には幕末に植えられた大島桜の桜並木が続く。この道はかつての街道だったのだ。桜並木が終わらないうちに道が付け替えられ、右に下りると今泉不動入口から今泉台団地に上るもうひとつの道路前に出る。鎌倉湖循環バスはここから今泉台団地に上り、団地内を循環して白山神社下の道路に下りる。白山神社の裏山の尾根あたりを巡るハイキングコースがあり、大島桜の桜並木があり、桜の根本には念仏供養塔があったりし、桜と旧街道を満喫できる。さらに、バス通を下って今泉小入口の信号がある今泉橋がある山側には「かまくら湧水・福泉」があり、鎌倉市内では唯一、生でも飲める湧水である。横にある萱葺き屋根のお宅の持ち物でこのお宅で管理している。
    「等覚寺」(p.318)の境内には水子地蔵尊と延命地蔵尊が祀られ、傍らに六地蔵がある。六地蔵のなかには古い安永年間(1772〜1781年)のものがある。
    「東光寺」(p.319)の境内には新しい聖観世音菩薩像、新しい六地蔵、水子地蔵、相模国十三番札所の弘法大師坐像である探し大師や庚申塔などがある。大師堂の前には、新しい「弘法大師修行石像」が立ち、その周囲には、四国八十八ヶ所霊場から勧請した砂が納めてある。また、境内裏手の崖にはやぐらも多く残っている。中には8〜10畳程度はある大きなものもある。
    「駒形神社」(p.320)の本殿にも覆殿が掛かっている。中の本殿は天保14年(1843年)に再建されたものと言われるが、立派には見えなかった。境内山手に富士山神社の角塔(明治廿四年(1891年)八月銘)が立ち、村にあった富士講が建てたものであろう。鎌倉中では長谷くらいにしか、こうした山岳信仰の石碑は見当たらない。
    梶原「御霊神社」は拝殿の裏に石段がありその上に本殿がある。朝夷奈切通横にある熊野神社などもこの形式である。

  • 「称名寺」(p.321)。阿字ヶ池が残る称名寺も世界遺産を目指す「武家の古都・鎌倉」の構成資産の一つになっている。称名寺の浄土式庭園を形つくる阿字ヶ池は、源頼朝が創建した永福寺(ようふくじ)を真似たものであろう。そもそも、永福寺の苑池の原点は平泉・毛越寺の大泉が池であると考えられている。阿字ヶ池には中島が浮かび、仁王門から赤い反橋を渡り、中島に着く。さらに平橋を渡ると前に金堂がある。右の萱葺き屋根は釈迦堂である。阿字ヶ池湖畔には金沢八景「称名の晩鐘」で有名な梵鐘が吊るされた鐘楼がある。また、称名寺を囲む裏山は金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)の金沢山を中心として10.2haの広さがある「称名寺市民の森」となっている。百観音の標石がある階段から登ると中腹に百番観音が並んでいる。さらに石段を上った上には石仏が安置されている。少し下りになり、さらに長い階段が続く。そこを上った金沢山頂には鉄筋コンクリート造の八角堂が建っており、眺望が開ける。また、稲荷山の山腹には、北条実時の墓とされる宝篋印塔や五輪塔が並ぶ御廟がある。<br />「清浄光寺」(p.324)は遊行寺と呼ばれ、山号は藤沢山である。元々は門前町として開かれた藤沢は江戸時代になると藤沢宿として発展したが、名はこの山号からもらっている。境内は桜の名所として知られるが、参道の染井吉野だけではなく、中雀門を過ぎた放生池のあたりには枝垂れ桜が植えられており、春には華やいだ庭園となる。本堂裏手にも枝垂れ桜は見られる。また、境内には大イチョウの木があり、樹齢600年といわれる。鎌倉界隈の大イチョウとしては、荏柄天神社(鎌倉市)の樹齢900年、五霊神社(逗子市)の樹齢800年に次ぐものである。<br />「江島神社」(p.327)と龍口明神社は夫婦の関係にある神社である。創建年も同じ欽明13年(552年)とされる。龍口明神社はかつて龍口寺の入口横にあり、昭和53年(1978年)に奥の山中に新しく開発された住宅地に遷座した。回りは藤沢市であるが、今も境内地は鎌倉市の飛び地(津1番地)のままで、龍口神明社元宮として残っている。

    「称名寺」(p.321)。阿字ヶ池が残る称名寺も世界遺産を目指す「武家の古都・鎌倉」の構成資産の一つになっている。称名寺の浄土式庭園を形つくる阿字ヶ池は、源頼朝が創建した永福寺(ようふくじ)を真似たものであろう。そもそも、永福寺の苑池の原点は平泉・毛越寺の大泉が池であると考えられている。阿字ヶ池には中島が浮かび、仁王門から赤い反橋を渡り、中島に着く。さらに平橋を渡ると前に金堂がある。右の萱葺き屋根は釈迦堂である。阿字ヶ池湖畔には金沢八景「称名の晩鐘」で有名な梵鐘が吊るされた鐘楼がある。また、称名寺を囲む裏山は金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)の金沢山を中心として10.2haの広さがある「称名寺市民の森」となっている。百観音の標石がある階段から登ると中腹に百番観音が並んでいる。さらに石段を上った上には石仏が安置されている。少し下りになり、さらに長い階段が続く。そこを上った金沢山頂には鉄筋コンクリート造の八角堂が建っており、眺望が開ける。また、稲荷山の山腹には、北条実時の墓とされる宝篋印塔や五輪塔が並ぶ御廟がある。
    「清浄光寺」(p.324)は遊行寺と呼ばれ、山号は藤沢山である。元々は門前町として開かれた藤沢は江戸時代になると藤沢宿として発展したが、名はこの山号からもらっている。境内は桜の名所として知られるが、参道の染井吉野だけではなく、中雀門を過ぎた放生池のあたりには枝垂れ桜が植えられており、春には華やいだ庭園となる。本堂裏手にも枝垂れ桜は見られる。また、境内には大イチョウの木があり、樹齢600年といわれる。鎌倉界隈の大イチョウとしては、荏柄天神社(鎌倉市)の樹齢900年、五霊神社(逗子市)の樹齢800年に次ぐものである。
    「江島神社」(p.327)と龍口明神社は夫婦の関係にある神社である。創建年も同じ欽明13年(552年)とされる。龍口明神社はかつて龍口寺の入口横にあり、昭和53年(1978年)に奥の山中に新しく開発された住宅地に遷座した。回りは藤沢市であるが、今も境内地は鎌倉市の飛び地(津1番地)のままで、龍口神明社元宮として残っている。

  • 以上が、PHP新書「決定版:鎌倉の寺社122を歩く」(山折哲雄監修・槙野修著)(2013年2月1日第1版第1刷)の書評で20,000字程度はあろうか。<br /><br />「決定版」などと銘打ってもこの程度である。<br />20数年掛けた結果が最低の評価結果であったのであるから、「武家の古都・鎌倉」の世界文化遺産の推薦書もひとりよがりな内容であったのであろうか?<br /><br />Amazon.co.jpのレビューでは10,000字の次数制限があるために半分程度しか掲載されていない。<br /><br />しかし、私のこの書評(星2つ)の後に星5つで書評を書き込むレビューアがいたので驚いた。<br /><br />もっと驚いたことは、Amazon.co.jpで購入した本や商品のレビューを700件以上も掲載していたことだろう。しかも、全てが星5つだ。<br /><br />どうやら、Amazon.co.jpでは販売促進のために、委託して、いわゆる「サクラ」のレビューア(レビュアー)を雇っているようだ。

    以上が、PHP新書「決定版:鎌倉の寺社122を歩く」(山折哲雄監修・槙野修著)(2013年2月1日第1版第1刷)の書評で20,000字程度はあろうか。

    「決定版」などと銘打ってもこの程度である。
    20数年掛けた結果が最低の評価結果であったのであるから、「武家の古都・鎌倉」の世界文化遺産の推薦書もひとりよがりな内容であったのであろうか?

    Amazon.co.jpのレビューでは10,000字の次数制限があるために半分程度しか掲載されていない。

    しかし、私のこの書評(星2つ)の後に星5つで書評を書き込むレビューアがいたので驚いた。

    もっと驚いたことは、Amazon.co.jpで購入した本や商品のレビューを700件以上も掲載していたことだろう。しかも、全てが星5つだ。

    どうやら、Amazon.co.jpでは販売促進のために、委託して、いわゆる「サクラ」のレビューア(レビュアー)を雇っているようだ。

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