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JR鎌倉駅から南東方向に徒歩で約20分の多福山・大宝寺(たいほうじ、神奈川県鎌倉市大町)は鎌倉幕府創設以降に頼朝の討伐を受けたのち帰順して御家人となった佐竹氏邸跡です。<br /><br />佐竹氏は源頼朝(みなもと・よりとも、1147~1199)と同様清和源氏出身で、祖は源義光(みなもと・よしみつ、1045~1127)は後三年の役において長兄の義家(よしいえ、1039~1106)の危急を救ったとしてその功績により常陸守となります。<br /><br />義光は近江国新羅明神で元服した事から別名新羅三郎義光と呼ばれていますが、その名を示すように畿内出身であり常陸国には何ら縁故なく、もっぱら妻の親戚の平氏系豪族の支援を得る中で勢力を拡げてゆきます。<br /><br />義光の嫡男義業(よしなり、1067~1133)も平氏系豪族を妻としそれまでの勢力を充実させ、義光の孫昌義(まさよし、1081~1147)の時代には久慈郡佐竹郷に拠点を置き、当地名を採用し「佐竹氏」と称することとなります。<br /><br />治承4年(1180)伊豆配流の源頼朝が平氏に対し挙兵、日頃の貴族的政治に不満豪族は頼朝陣にはせ参じ、同じ義光の流れをくむ甲斐武田氏も頼朝挙兵に従って参陣します。<br /><br />これに対し佐竹氏は事情が複雑です。出自では頼朝と同族関係にありながら、常陸における自らの勢力拡大の経緯としては常陸平氏との親戚関係や平清盛との親交に伴う恩顧を受けており苦慮した結果頼朝の陣に加わることはしませんでした。<br /><br />頼朝が鎌倉を政治拠点と定め関東武士の棟梁として相模国・武蔵国その周辺を支配下に置き、他方有力御家人の諫言を聞き入れ常陸佐竹氏の討伐を行います。<br /><br />佐竹軍は常陸に兵を進めた頼朝軍に金砂山合戦で敗戦、結果として常陸奥七郷その他の所領を没収され北茨城に逃れその後旧領は頼朝の部下により統治されます。<br /><br />文治5年(1189)、頼朝自らが軍を牽いて奥州藤原氏征伐の際、佐竹氏惣領の秀義(ひでよし、1151~1226)は頼朝に帰順することに決め、宇都宮で頼朝に臣礼をとり忠誠を誓うこととなります。<br /><br />頼朝に許された佐竹秀義は名誉挽回を狙うため奥州に向かう頼朝に随陣、奥州征伐後秀義は頼朝より本領回復を受け、常陸介の地位を得て鎌倉御家人として出仕します。                        <br /><br />頼朝は彼の性格からして一度敵方であったことを片時も忘れておらず、そのためか御家人なれど重要な役割は特になく秀義は鎌倉御所の外郭の大町という小谷地に邸宅を与えられた事などを思慮すれば外様としての待遇であったと思われます。<br /><br />2022年10月13日追記<br /><br />境内に掲載の説明板には次の通り紹介されています。<br /><br />『 大宝寺<br /><br />このあたり一帯は、御家人・佐竹氏の祖先である新羅三郎義光が、兄の源義家とともに奥羽の戦乱「後三年の絵役」を鎮めた後、この地に館をかまえて以来佐竹氏の屋敷となったと伝えられています。<br /><br />応永6年(1399)、佐竹氏の一族である佐竹義盛が出家多福寺を建立した後、文安元年(1444)日蓮宗の高僧一乗院日出上人が再興し、旧寺名を山号に改め多福山大宝寺となりました。境内には、義光が信仰した多福明神社があります。<br /><br />また、本堂には子どもたちの無事成長を護る「子育鬼子母神」が奉られています。』

相模鎌倉 新羅三郎義光が兄八幡太郎義家を助け「後三年の役」鎮圧後に当地に居住し南北朝期に子孫で出家した佐竹義盛創建の寺が再興の『大宝寺』散歩

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2013/11/17 - 2013/11/17

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR鎌倉駅から南東方向に徒歩で約20分の多福山・大宝寺(たいほうじ、神奈川県鎌倉市大町)は鎌倉幕府創設以降に頼朝の討伐を受けたのち帰順して御家人となった佐竹氏邸跡です。

佐竹氏は源頼朝(みなもと・よりとも、1147~1199)と同様清和源氏出身で、祖は源義光(みなもと・よしみつ、1045~1127)は後三年の役において長兄の義家(よしいえ、1039~1106)の危急を救ったとしてその功績により常陸守となります。

義光は近江国新羅明神で元服した事から別名新羅三郎義光と呼ばれていますが、その名を示すように畿内出身であり常陸国には何ら縁故なく、もっぱら妻の親戚の平氏系豪族の支援を得る中で勢力を拡げてゆきます。

義光の嫡男義業(よしなり、1067~1133)も平氏系豪族を妻としそれまでの勢力を充実させ、義光の孫昌義(まさよし、1081~1147)の時代には久慈郡佐竹郷に拠点を置き、当地名を採用し「佐竹氏」と称することとなります。

治承4年(1180)伊豆配流の源頼朝が平氏に対し挙兵、日頃の貴族的政治に不満豪族は頼朝陣にはせ参じ、同じ義光の流れをくむ甲斐武田氏も頼朝挙兵に従って参陣します。

これに対し佐竹氏は事情が複雑です。出自では頼朝と同族関係にありながら、常陸における自らの勢力拡大の経緯としては常陸平氏との親戚関係や平清盛との親交に伴う恩顧を受けており苦慮した結果頼朝の陣に加わることはしませんでした。

頼朝が鎌倉を政治拠点と定め関東武士の棟梁として相模国・武蔵国その周辺を支配下に置き、他方有力御家人の諫言を聞き入れ常陸佐竹氏の討伐を行います。

佐竹軍は常陸に兵を進めた頼朝軍に金砂山合戦で敗戦、結果として常陸奥七郷その他の所領を没収され北茨城に逃れその後旧領は頼朝の部下により統治されます。

文治5年(1189)、頼朝自らが軍を牽いて奥州藤原氏征伐の際、佐竹氏惣領の秀義(ひでよし、1151~1226)は頼朝に帰順することに決め、宇都宮で頼朝に臣礼をとり忠誠を誓うこととなります。

頼朝に許された佐竹秀義は名誉挽回を狙うため奥州に向かう頼朝に随陣、奥州征伐後秀義は頼朝より本領回復を受け、常陸介の地位を得て鎌倉御家人として出仕します。                        

頼朝は彼の性格からして一度敵方であったことを片時も忘れておらず、そのためか御家人なれど重要な役割は特になく秀義は鎌倉御所の外郭の大町という小谷地に邸宅を与えられた事などを思慮すれば外様としての待遇であったと思われます。

2022年10月13日追記

境内に掲載の説明板には次の通り紹介されています。

『 大宝寺

このあたり一帯は、御家人・佐竹氏の祖先である新羅三郎義光が、兄の源義家とともに奥羽の戦乱「後三年の絵役」を鎮めた後、この地に館をかまえて以来佐竹氏の屋敷となったと伝えられています。

応永6年(1399)、佐竹氏の一族である佐竹義盛が出家多福寺を建立した後、文安元年(1444)日蓮宗の高僧一乗院日出上人が再興し、旧寺名を山号に改め多福山大宝寺となりました。境内には、義光が信仰した多福明神社があります。

また、本堂には子どもたちの無事成長を護る「子育鬼子母神」が奉られています。』

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 大宝寺(だいほうじ)案内板<br /><br />社寺仏閣の多い鎌倉は丁寧に案内板が設置されています。

    大宝寺(だいほうじ)案内板

    社寺仏閣の多い鎌倉は丁寧に案内板が設置されています。

  • 大宝寺・山門

    大宝寺・山門

  • 佐竹屋敷跡<br /><br />大寶寺石標の左側には「佐竹屋敷跡」の石碑が建立されています。

    佐竹屋敷跡

    大寶寺石標の左側には「佐竹屋敷跡」の石碑が建立されています。

  • 大宝寺・石碑

    大宝寺・石碑

  • 大宝寺由緒・説明板

    大宝寺由緒・説明板

  • 多福明神社<br /><br />佐竹氏の遠祖となる源義光(新羅三郎義光)がこの地に多福神社を建てたと伝承されています。因みに新羅三郎義光を同一祖とする武田氏の存在があります。

    多福明神社

    佐竹氏の遠祖となる源義光(新羅三郎義光)がこの地に多福神社を建てたと伝承されています。因みに新羅三郎義光を同一祖とする武田氏の存在があります。

  • 新羅三郎義光・説明板<br /><br />『新羅三郎義光守護神 大多福稲荷大明神<br /><br />人皇第七十三代堀河天皇のご御代欧州地方は清原の家衡・武衡・真衡一族の隔執の為非常に乱れた。<br /><br />当時陸奥守である八幡太郎義家は之を平定しようとする家衡・武衡等金沢柵にたちこもりて降参せず官軍苦戦に陥った(後三年の役)<br /><br />京都に居た弟の新羅三郎義光は兄義家の苦境を授けんと官を辞して従軍し善戦善勝3年にして之を鎮圧する(後三年の役)<br /><br />此の間日頃信仰していた御守護神の霊顕あらたかで或る時は雁の伏兵を知らせ時には御神火となって奇瑞を顕す。三浦平治郎為次鎌倉源五郎景政など当時の勇士である。<br /><br />後義光は甲斐守となり長男義業は常陸に住する義光は鎌倉館(現大宝寺域)に居住し御守護神を勧請する。その後役も神社に合祀したので毎年7月7日には門前に神輿を携えて古式に則る祭式を行い神霊を慰めてから町内の御渡を行うを例とする(相模風土記)<br /><br />1499年(明応8年)松葉谷日證上人の霊夢により本地たる現地に再勧請し大多福稲荷大明神と称する。<br /><br />毎年2月には大祭を巌修して神霊を法楽し世界平和国連隆昌を祈願する所以なり 』<br />

    新羅三郎義光・説明板

    『新羅三郎義光守護神 大多福稲荷大明神

    人皇第七十三代堀河天皇のご御代欧州地方は清原の家衡・武衡・真衡一族の隔執の為非常に乱れた。

    当時陸奥守である八幡太郎義家は之を平定しようとする家衡・武衡等金沢柵にたちこもりて降参せず官軍苦戦に陥った(後三年の役)

    京都に居た弟の新羅三郎義光は兄義家の苦境を授けんと官を辞して従軍し善戦善勝3年にして之を鎮圧する(後三年の役)

    此の間日頃信仰していた御守護神の霊顕あらたかで或る時は雁の伏兵を知らせ時には御神火となって奇瑞を顕す。三浦平治郎為次鎌倉源五郎景政など当時の勇士である。

    後義光は甲斐守となり長男義業は常陸に住する義光は鎌倉館(現大宝寺域)に居住し御守護神を勧請する。その後役も神社に合祀したので毎年7月7日には門前に神輿を携えて古式に則る祭式を行い神霊を慰めてから町内の御渡を行うを例とする(相模風土記)

    1499年(明応8年)松葉谷日證上人の霊夢により本地たる現地に再勧請し大多福稲荷大明神と称する。

    毎年2月には大祭を巌修して神霊を法楽し世界平和国連隆昌を祈願する所以なり 』

  • 大宝寺境内風景<br /><br />(大宝寺の裏山には新羅三郎義光の供養塔や墓があるそうですが自分は見過ごしてしまいました。)

    大宝寺境内風景

    (大宝寺の裏山には新羅三郎義光の供養塔や墓があるそうですが自分は見過ごしてしまいました。)

  • 大宝寺・境内<br /><br />本堂の後背山は「佐竹山」と呼ばれ、扇の形となっている山の形状から佐竹氏の家紋がつくられたとも言われてます。<br />

    大宝寺・境内

    本堂の後背山は「佐竹山」と呼ばれ、扇の形となっている山の形状から佐竹氏の家紋がつくられたとも言われてます。

  • 大宝寺・本堂<br /><br />『宗派は日蓮宗、山号は多福山、院号は一乗院、ご本尊は三宝祖師となっています。創建は室町時代、応永6年(1399)佐竹義盛(さたけ・よしもり、1365~1407)が出家して多福寺と命名、その後文安元年(1444)一乗日出上人により多福の名を山号とし、一乗院大宝寺と改めます。』

    大宝寺・本堂

    『宗派は日蓮宗、山号は多福山、院号は一乗院、ご本尊は三宝祖師となっています。創建は室町時代、応永6年(1399)佐竹義盛(さたけ・よしもり、1365~1407)が出家して多福寺と命名、その後文安元年(1444)一乗日出上人により多福の名を山号とし、一乗院大宝寺と改めます。』

  • 大宝寺・境内<br /><br />本堂から境内を一望します。

    大宝寺・境内

    本堂から境内を一望します。

  • 大宝寺境内慰霊碑<br /><br />関東大震災で発生した火災で死亡した人々の慰霊碑、太平洋戦争で戦死した人々の慰霊碑が建立されています。

    大宝寺境内慰霊碑

    関東大震災で発生した火災で死亡した人々の慰霊碑、太平洋戦争で戦死した人々の慰霊碑が建立されています。

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