2016/09/04 - 2016/09/04
2600位(同エリア7080件中)
滝山氏照さん
JR大船駅西口から徒歩約25分、陽谷山・龍宝寺(りゅうほうじ、神奈川県鎌倉市植木)は小田原北条氏にとって相模国に勢力を有する三浦一族との抗争に手を焼いていた状況下これを打開すべく、永正9年(1512)北条早雲(当時は伊勢宗瑞、以降「早雲」で統一)が砦規模の玉縄城の大改修を手掛け、相模国統一後は同国の安定支配に加えて関東制覇の起点という位置付けで北条綱成を始めとする歴代城主らを祀った漕洞宗の寺院です。
早雲没後は早雲実弟の氏時(うじとき)や二代当主氏綱三男の為昌(ためまさ、1520~1542)を経て三代玉縄城主を務めた北条綱成(ほうじょう・つなしげ、1516~1587)が創建した瑞光院がこの寺の始まりで、天正3年(1575)六代城主氏勝(うじかつ、1559~1611)が父である四代城主氏繁(うじしげ、1536~1578)を弔うため現在の地に移し、氏繁の戒名「龍宝寺殿応栄公大居士」を採って「龍宝寺」と改称して再建した玉縄北条氏の菩提寺となっています。
北条綱成は幼年期は勝千代と名乗っており、父は駿河国今川氏家臣で猛将の福島正成(くしま・まさなり)あるいは大永5年(1525)武蔵白子浜の戦いで戦死した櫛間九郎(くしま・きゅうろう)とする説もありますが、いずれにせよ父の死後勝千代は小田原に落ち延びて小田原北条氏の二代当主北条氏綱(ほうじょう・うじつな、1487~1541)の保護を受けたと伝えられています。
その経緯についても定まっておらず、一説には大永元年(1521)甲斐国へ侵入した正成が迎え撃つ武田信虎(たけだ・のぶとら)軍と飯田河原の戦いで一族とともに討取られ、勝千代らは家臣に守られて小田原に逃れ氏綱の保護を受けたとも、他説では天文5年(1536)今川家の内訌である「花倉の乱」にて正成は今川義元の異母兄である玄広恵探(げんこう・えたん)を支持したため義元に討たれ勝千代らは駿河出奔の事態に迫られ氏綱のもとに流れたとの説もあります。
氏綱は近習として仕えている勝千代を大いに気に入り娘を娶らせて北条一門に迎え、元服に際しては父正成の「成」と氏綱の「綱」を採って綱成(つなしげ)と名乗り、氏綱の三男で玉縄城主の北条為昌の後見役に指名、為昌没後は為昌の養子となって三代玉縄城主に就任します。
小田原北条氏は相模国統一を果たした後、その勢力発展に伴い武蔵国を北進し河越城入城を果たし山内及び扇谷の両上杉氏の牙城に楔を打ち込みます。
この新興勢力に危機感を抱いた両上杉氏は結束し併せてそれまで敵対していた古河公方足利晴氏方の出陣を加えて総勢8万(?)ともいわれる軍勢で河越城を包囲して奪回を目指します。
この河越城の約3千で守備する将兵を率いたのは他ならぬ綱成で、綱成は氏綱を相続した三代当主嫡男北条氏康(ほうじょう・うじやす、1515~1571)が約8千の後詰軍を率いて駆け付けるまで約6ケ月の籠城に耐え、天文15年(1546)後詰軍が到着すると氏康の夜襲に呼応して古河公方足利晴氏陣容を壊滅させ晴氏を古河に敗走せしめ、両上杉軍については扇谷家上杉朝定(うえすぎ・ともさだ、1525~1546)は戦死し同家は滅亡、山内家上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579)は上野国平井城に退却に追い込み山内上杉氏には再興不能ともいえる大打撃を与えます。(河越夜戦)
その後も綱成は小田原北条氏の中で随一の猛将として活躍が続き、弘治3年(1557)第三次川中島の戦いではいわゆる「甲相駿三国同盟」に則り武田信玄軍への支援として上田にて上杉謙信勢と戦い、また永禄6~7年(1563~1564)における里見義弘らとの第二次国府台(こうのだい)合戦では部隊を率いて里見陣営を急襲し勝利に導いています。
元亀2年(1571)氏康が病死すると綱成も家督を嫡男氏繁に譲り隠居し、剃髪して「上総入道道感(かずさにゅうどうどうかん)」と名乗り、天正15年(1587)73歳で死去します。
山門を過ぎた所に龍宝寺説明板があり下記の通り記されています。
「龍宝寺
●宗派 漕洞宗
●山号寺号 陽谷山(ようこくざん)龍宝寺
●建立 16世紀中頃
●開山 泰絮宗栄(たいじょそうえい)
●開基 北条綱成(ほうじょう・つなしげ)
玉縄三代城主の北条綱成(ほうじょう・つなしげ)が建立した瑞光院(ずいこういん)ともいわれる香華院(こうげいん)がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として栄えました。
本堂には、釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、北条氏繁、北条氏勝の位牌や源実朝の位牌も安置されています。また、境内には「正徳の治」を行なったことで知られる朱子学者の「新井白石の牌」があります。
山門を入ったすぐ右には、玉縄ふるさと館があり、その先には、もと関谷にあった江戸時代中期の民家である国指定重要文化財の旧石井家住宅があります。」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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龍宝寺・山門(全景)
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龍宝寺・説明板
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龍宝寺・案内石板
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イチオシ
龍宝寺・山門(近景)
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龍宝寺・寺標
山門脇には「漕洞宗 陽谷山 龍 寶 寺」と刻された石標が堂々と建っています。 -
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龍宝寺・説明板
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龍宝寺・山門
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旧石井家住宅
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旧石井家住宅説明板
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龍宝寺・参道
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龍宝寺・本堂
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龍宝寺・本堂(全景)
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龍宝寺・本堂(近景)
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龍宝寺・境内
いつものように本堂から今来た参道を振り返ります。 -
龍宝寺・境内
本堂から左側に広がる参道を一望します。 -
龍宝寺・境内
今度は本堂から右方向に眼を転じます。 -
玉縄北条氏供養塔
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玉縄北条氏・供養塔
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玉縄北条氏・供養塔
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玉縄北条氏・供養塔
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玉縄北条氏・供養塔
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玉縄北条氏供養塔・説明板
『 玉縄北条氏供養塔
永正9年(1512)伊勢蔵瑞(通称北条早雲)が玉縄城を築城し、小田原城の支城として関東進出の重要な役目を果たしてきました。
戦乱の渦中に、その名を轟かせた北条綱成、氏繁、氏勝は玉縄城主としてよくこの地を治め、外に向かっては勇猛果敢に戦いました。
この供養塔は、龍宝寺住職四世良順大和尚が建てたものです。(推定元和年間~寛永5年頃)元は、現在の栄光学園の敷地内にありましたが、造成工事のため龍宝寺墓地裏の尾根上に移設しました。
この度、玉縄城築城500年を記念して参詣し易いこの地に再度移設しました。
なお、この供養塔は旧地に建っていた頃、いつも塔が倒れていて誰かが直しておくとすぐまた倒れているので土地の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたとのことです。
平成24年5月吉日
供養塔説明板 寄贈
( 寄贈者名 省略 ) 』 -
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龍宝寺・参道
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旧石井家住宅
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龍宝寺・山門(内側)
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併設幼稚園
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