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「芭蕉の館」の建て物を繋ぐ渡り廊下が有り、その下を潜った先の階段と城の空堀に架かる木製の橋を渡り、「黒羽城跡公園」に向かう。<br /><br />普通の年ならば空堀の両脇の紫陽花が真っ盛りの筈なのだが、3分程の咲き具合で紫陽花祭りの様子は全く見当たらない。<br /><br />1576年、大関家の13代当主となった高増は、余瀬(大田原市余瀬)にあった白旗城を黒羽に移転し、築城した城は北那須地方最大の城であった。<br /><br />とはいえ当時は3万石以下の大名に{城}を持つことは許されず、建て物の構造はともあれ”黒羽本陣”と呼ばされた。<br /><br />これに準じてか、奥の細道でも芭蕉は翠雪を”城代”と記さず、”館代”と記しているらしい。<br /><br />大関藩は一度も国替えの憂き目を見ることも、戦禍を被ることもなく明治維新を迎えたが、明治6年、新政府の廃城令により城は解体され、その当時の建て物の様子を窺わせるものは殆ど残っていない。<br /><br />芭蕉が逗留した翠桃邸は三の丸にあったと云うから、芭蕉は北那須地方最大であったと云う黒羽城を目にしていたと思われるが、残念なことに黒羽城の姿を写した芭蕉の記述は無い。<br /><br />戦国時代でもあり、城などの景観を迂闊に記す事は無理な話だったのであろう。<br />

奥の細道を訪ねて[第4回]⑩3分咲き紫陽花祭り城址公園

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2011/06/26 - 2011/06/26

166位(同エリア201件中)

WT信

WT信さん

「芭蕉の館」の建て物を繋ぐ渡り廊下が有り、その下を潜った先の階段と城の空堀に架かる木製の橋を渡り、「黒羽城跡公園」に向かう。

普通の年ならば空堀の両脇の紫陽花が真っ盛りの筈なのだが、3分程の咲き具合で紫陽花祭りの様子は全く見当たらない。

1576年、大関家の13代当主となった高増は、余瀬(大田原市余瀬)にあった白旗城を黒羽に移転し、築城した城は北那須地方最大の城であった。

とはいえ当時は3万石以下の大名に{城}を持つことは許されず、建て物の構造はともあれ”黒羽本陣”と呼ばされた。

これに準じてか、奥の細道でも芭蕉は翠雪を”城代”と記さず、”館代”と記しているらしい。

大関藩は一度も国替えの憂き目を見ることも、戦禍を被ることもなく明治維新を迎えたが、明治6年、新政府の廃城令により城は解体され、その当時の建て物の様子を窺わせるものは殆ど残っていない。

芭蕉が逗留した翠桃邸は三の丸にあったと云うから、芭蕉は北那須地方最大であったと云う黒羽城を目にしていたと思われるが、残念なことに黒羽城の姿を写した芭蕉の記述は無い。

戦国時代でもあり、城などの景観を迂闊に記す事は無理な話だったのであろう。

同行者
一人旅
交通手段
観光バス JRローカル
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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