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成都市郊外にある三国時代の蜀漢の宰相・諸葛亮(孔明)を祭った社。6世紀ごろから建てられ始め、明代には隣接する主君・劉備玄徳の陵墓、漢昭烈廟と併合された。孔明の贈り名である忠武侯にちなむ武侯祠として親しまれている。戦火のため、現存する建物は清代康熙の1672年に再建されたものだ。3.7万平方メートルの広大な境内には、南北方向の中軸線に沿って五つ主体建築がある。今の武候祠は諸葛亮と劉備を祭ったところです。諸葛亮は生前に武郷候に任命され、死後は忠武候という贈名が与えられました。昔の武候祠は諸葛亮の慰霊のところだけです。この祠は6世紀の始めに劉備を祭った[昭烈廟]と並んで建てられたのです。昭烈とは劉備の死後に与えられた贈名です。14世紀の末になって武候祠は昭烈廟に合併されました。ですから,武候祠の正式の名前は[漢昭烈廟]で、ここは蜀国の君臣紀念館というべきです。ところが,人々は君主の劉備を上回る諸葛亮の才能と人徳をしのんでこれに因んで武候祠と呼ばれるようになりました。<br />

三国志の成都武侯祠・1/2

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2009/06/16 - 2009/06/16

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中国の風景

中国の風景さん

成都市郊外にある三国時代の蜀漢の宰相・諸葛亮(孔明)を祭った社。6世紀ごろから建てられ始め、明代には隣接する主君・劉備玄徳の陵墓、漢昭烈廟と併合された。孔明の贈り名である忠武侯にちなむ武侯祠として親しまれている。戦火のため、現存する建物は清代康熙の1672年に再建されたものだ。3.7万平方メートルの広大な境内には、南北方向の中軸線に沿って五つ主体建築がある。今の武候祠は諸葛亮と劉備を祭ったところです。諸葛亮は生前に武郷候に任命され、死後は忠武候という贈名が与えられました。昔の武候祠は諸葛亮の慰霊のところだけです。この祠は6世紀の始めに劉備を祭った[昭烈廟]と並んで建てられたのです。昭烈とは劉備の死後に与えられた贈名です。14世紀の末になって武候祠は昭烈廟に合併されました。ですから,武候祠の正式の名前は[漢昭烈廟]で、ここは蜀国の君臣紀念館というべきです。ところが,人々は君主の劉備を上回る諸葛亮の才能と人徳をしのんでこれに因んで武候祠と呼ばれるようになりました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス
旅行の手配内容
個別手配
  • 建物は縦一列に並んでいる。<br />

    建物は縦一列に並んでいる。

  • 入場料は30元です。(老人票)60歳以上は20%〜50%引きとなります。外国人も同様の扱いです。<br /><br />

    入場料は30元です。(老人票)60歳以上は20%〜50%引きとなります。外国人も同様の扱いです。

  • 漢昭烈廟(劉備)と大書してるが人々は武侯祠(孔明)と言う。名目より実績の方が強い言うわけです。<br />

    漢昭烈廟(劉備)と大書してるが人々は武侯祠(孔明)と言う。名目より実績の方が強い言うわけです。

  • 入り口から見て右側にある。西暦809年のもの。文章は裴度、書法は柳公綽、彫刻は魯建と当時の名匠達によるもの。文章・書法・石刻技術が共に優れているので‘三絶’と言われる。<br /><br />

    入り口から見て右側にある。西暦809年のもの。文章は裴度、書法は柳公綽、彫刻は魯建と当時の名匠達によるもの。文章・書法・石刻技術が共に優れているので‘三絶’と言われる。

  • 入り口から見て左側にある。西暦1547年に立てられた。この碑の台座の生き物はどう見ても亀なのだが、伝説によれば本当は龍らしい。とても縁起のいいものとされている。

    入り口から見て左側にある。西暦1547年に立てられた。この碑の台座の生き物はどう見ても亀なのだが、伝説によれば本当は龍らしい。とても縁起のいいものとされている。

  • 劉備殿の入口<br />

    劉備殿の入口

  • 「これを読んで泣かない中国人はいない」と言われるほどの諸葛亮による名文「出師の表」。劉備殿の門をくぐるとその裏側の壁左右にある。左側が「前出師の表」。右側が「後出師の表」。<br />

    「これを読んで泣かない中国人はいない」と言われるほどの諸葛亮による名文「出師の表」。劉備殿の門をくぐるとその裏側の壁左右にある。左側が「前出師の表」。右側が「後出師の表」。

  • 武将のトップバッターは趙雲子龍・五虎大将の一人。劉備や諸葛亮から絶大な信頼を受けた、策略の忠実なる実行者。長坂の戦いでは単騎曹操軍の中から劉備の子・阿斗を救いだした。<br />

    武将のトップバッターは趙雲子龍・五虎大将の一人。劉備や諸葛亮から絶大な信頼を受けた、策略の忠実なる実行者。長坂の戦いでは単騎曹操軍の中から劉備の子・阿斗を救いだした。

  • 孫乾公祐。劉備が徐州の太守になった頃からの参謀。何かとあちこちお使いに忙しかったが、武将というイメージでは無い。<br />

    孫乾公祐。劉備が徐州の太守になった頃からの参謀。何かとあちこちお使いに忙しかったが、武将というイメージでは無い。

  • 張翼。元・劉璋配下。南征、北伐と活躍。北伐を強行する姜維を諌めるなど、蜀の民に対する思いも強い。魏へ偽りの降参をした姜維つき従うが、結局計略は失敗し、そこで戦死。

    張翼。元・劉璋配下。南征、北伐と活躍。北伐を強行する姜維を諌めるなど、蜀の民に対する思いも強い。魏へ偽りの降参をした姜維つき従うが、結局計略は失敗し、そこで戦死。

  • 馬超孟起。五虎大将の一人。西涼の太守・馬騰の長男で‘西涼の錦馬超’と呼ばれた勇者。葭萌関で結局勝負がつかなかった張飛との長時間にわたる一騎打ちを見て劉備が気に入り、諸葛亮の策により劉備に帰順した。<br />

    馬超孟起。五虎大将の一人。西涼の太守・馬騰の長男で‘西涼の錦馬超’と呼ばれた勇者。葭萌関で結局勝負がつかなかった張飛との長時間にわたる一騎打ちを見て劉備が気に入り、諸葛亮の策により劉備に帰順した。

  • 王平子均。元・魏の武将。南征、北伐と活躍。北伐の際、街亭で王平の言うとおりに陣を取っていたら、馬謖の失敗はなかった。(泣いて馬謖を斬る)冷静・確実に仕事をこなし、諸葛亮の信頼も篤かった。<br />

    王平子均。元・魏の武将。南征、北伐と活躍。北伐の際、街亭で王平の言うとおりに陣を取っていたら、馬謖の失敗はなかった。(泣いて馬謖を斬る)冷静・確実に仕事をこなし、諸葛亮の信頼も篤かった。

  • 姜維伯約。元・魏の武将。第一次北伐で唯一諸葛亮の策略を見破った、その智謀と武勇に諸葛亮が惚れ込み、策を用いて幕下に加える。諸葛亮が学んだ全てを伝授し、後を継いで北伐を続ける。魏へ偽りの投降をした後、結局そのクーデターも失敗、自刎。最後の最後まで蜀の為に頑張った。<br />

    姜維伯約。元・魏の武将。第一次北伐で唯一諸葛亮の策略を見破った、その智謀と武勇に諸葛亮が惚れ込み、策を用いて幕下に加える。諸葛亮が学んだ全てを伝授し、後を継いで北伐を続ける。魏へ偽りの投降をした後、結局そのクーデターも失敗、自刎。最後の最後まで蜀の為に頑張った。

  • 黄忠漢升。五虎大将の一人。元・荊州の刺史・劉表、長沙の韓玄配下。劉備の配下となってからは入蜀に貢献。葭萌関に攻めてきた魏将・張郃に対し、厳顔との老人コンビで勝利を重ね、定軍山では名将・夏侯淵を斬る。<br />

    黄忠漢升。五虎大将の一人。元・荊州の刺史・劉表、長沙の韓玄配下。劉備の配下となってからは入蜀に貢献。葭萌関に攻めてきた魏将・張郃に対し、厳顔との老人コンビで勝利を重ね、定軍山では名将・夏侯淵を斬る。

  • 廖化元倹。荊州で関羽に危機が迫ると劉封・孟達の所へ救援を求めに行くが拒否され、二人を罵って成都の劉備の元へ。しかし時既に遅し・・関羽は処刑されてしまう。その後北伐で活躍。司馬懿を追い詰め、あと一歩のところで逃すなど惜しい場面もあった。<br />

    廖化元倹。荊州で関羽に危機が迫ると劉封・孟達の所へ救援を求めに行くが拒否され、二人を罵って成都の劉備の元へ。しかし時既に遅し・・関羽は処刑されてしまう。その後北伐で活躍。司馬懿を追い詰め、あと一歩のところで逃すなど惜しい場面もあった。

  • 向寵。諸葛亮の第一次北伐時に蜀を守っていた。諸葛亮死後は軍務を任された。人柄温厚、統率力にも優れていたそう。<br />

    向寵。諸葛亮の第一次北伐時に蜀を守っていた。諸葛亮死後は軍務を任された。人柄温厚、統率力にも優れていたそう。

  • 傅僉。姜維の北伐の時に活躍するが、陽平関を守っている時に味方が魏に降ったために戦死。<br />

    傅僉。姜維の北伐の時に活躍するが、陽平関を守っている時に味方が魏に降ったために戦死。

  • 馬忠。南征、北伐と活躍。<br />

    馬忠。南征、北伐と活躍。

  • 張嶷伯岐。南征、北伐と活躍。北伐時、姜維がと鄧艾に方位された時に囲みの中に斬り込み姜維を救ったが、矢を受けて戦死する。<br />

    張嶷伯岐。南征、北伐と活躍。北伐時、姜維がと鄧艾に方位された時に囲みの中に斬り込み姜維を救ったが、矢を受けて戦死する。

  • 張南文進。劉備の関羽仇討ちの軍の副将。呉の陸遜の敗れて劉備の救出に向かう際、呉軍の挟み撃ちに遭い、戦死。<br />

    張南文進。劉備の関羽仇討ちの軍の副将。呉の陸遜の敗れて劉備の救出に向かう際、呉軍の挟み撃ちに遭い、戦死。

  • 馮習。劉備の関羽の仇討ちの軍で副将として活躍。張南や呉班に劉備の危機を知らせるも、呉軍の挟撃に張南と共に戦死。

    馮習。劉備の関羽の仇討ちの軍で副将として活躍。張南や呉班に劉備の危機を知らせるも、呉軍の挟撃に張南と共に戦死。

  • 龐統士元。諸葛亮の‘臥龍’に対し、‘鳳雛’と呼ばれた天才軍師。赤壁の戦いでは「連環の計」で孫権・劉備連合軍勝利に貢献。赤壁の戦い後、諸葛亮と魯粛の推薦状を持って劉備に仕える。その後巧妙な策で劉備の蜀侵攻に貢献するが、途中、蜀軍の張任に矢を射掛けられ、戦死。皮肉にもその場所の名は‘落鳳坡’と呼ばれる山道であった。<br /><br />

    龐統士元。諸葛亮の‘臥龍’に対し、‘鳳雛’と呼ばれた天才軍師。赤壁の戦いでは「連環の計」で孫権・劉備連合軍勝利に貢献。赤壁の戦い後、諸葛亮と魯粛の推薦状を持って劉備に仕える。その後巧妙な策で劉備の蜀侵攻に貢献するが、途中、蜀軍の張任に矢を射掛けられ、戦死。皮肉にもその場所の名は‘落鳳坡’と呼ばれる山道であった。

  • 簡雍憲和。劉備と同郷。劉備の蜀平定の際、使者として益州の牧・劉璋に降伏を勧めた。<br />

    簡雍憲和。劉備と同郷。劉備の蜀平定の際、使者として益州の牧・劉璋に降伏を勧めた。

  • 呂凱季平。永昌郡の人。諸葛亮が南征に来た際、軍略図『平蛮指掌図』を差し出し、南蛮の地への案内役となる。南蛮平定後は諸葛亮に、そのまま永昌郡に留まり守るように命じられた。<br />

    呂凱季平。永昌郡の人。諸葛亮が南征に来た際、軍略図『平蛮指掌図』を差し出し、南蛮の地への案内役となる。南蛮平定後は諸葛亮に、そのまま永昌郡に留まり守るように命じられた。

  • 傳彤。関羽の弔い合戦で呉に攻め込まれ、劉備が白帝城に逃れる際に後詰として呉軍に抵抗、呉が降伏を促すも聞き入れず戦死。<br />

    傳彤。関羽の弔い合戦で呉に攻め込まれ、劉備が白帝城に逃れる際に後詰として呉軍に抵抗、呉が降伏を促すも聞き入れず戦死。

  • 費褘文偉。諸葛亮の遺言どおり、蒋琬の死後、彼の職を継いだ。蜀の防衛に徹しようと姜維の北伐再開を諫めたりもした。253年の正月の宴席で、酔ったところを魏からの降将・郭循に刺殺された。抜群の政務能力を発揮していた費褘を失い、蜀は大きな痛手を受けた。<br />

    費褘文偉。諸葛亮の遺言どおり、蒋琬の死後、彼の職を継いだ。蜀の防衛に徹しようと姜維の北伐再開を諫めたりもした。253年の正月の宴席で、酔ったところを魏からの降将・郭循に刺殺された。抜群の政務能力を発揮していた費褘を失い、蜀は大きな痛手を受けた。

  • 董和幼宰。元・劉璋配下。劉備の蜀侵攻に対し、最後まで戦えると主張した。劉備が蜀をとった後は掌軍中郎将として取り立てられた。<br />

    董和幼宰。元・劉璋配下。劉備の蜀侵攻に対し、最後まで戦えると主張した。劉備が蜀をとった後は掌軍中郎将として取り立てられた。

  • 鄧芝伯苗。元・劉璋配下。劉備の死後、呉との同盟を結ぶ使者となる。鄧芝の度胸・誠実さに感服した孫権は同盟を承知した。北伐では街亭を失い蜀軍が退却する時、趙雲をよく補佐し、彼らの部隊は一兵一騎も失う事はなかった。<br />

    鄧芝伯苗。元・劉璋配下。劉備の死後、呉との同盟を結ぶ使者となる。鄧芝の度胸・誠実さに感服した孫権は同盟を承知した。北伐では街亭を失い蜀軍が退却する時、趙雲をよく補佐し、彼らの部隊は一兵一騎も失う事はなかった。

  • 陳震考起。元・袁紹配下。劉備が荊州の牧になった頃から仕える。呉の孫権が帝位に即いた際、祝いの品々を届ける使者となり、孫権も魏への出兵を約束した。<br /><br />

    陳震考起。元・袁紹配下。劉備が荊州の牧になった頃から仕える。呉の孫権が帝位に即いた際、祝いの品々を届ける使者となり、孫権も魏への出兵を約束した。

  • 蒋琬公琰。劉備の頃から書記として仕えていた。諸葛亮が五丈原で死ぬ前に、後継は蒋琬に、と指名され、丞相大将軍となる。その後約10年間、蜀の地の防衛に徹した。<br />

    蒋琬公琰。劉備の頃から書記として仕えていた。諸葛亮が五丈原で死ぬ前に、後継は蒋琬に、と指名され、丞相大将軍となる。その後約10年間、蜀の地の防衛に徹した。

  • 董允。諸葛亮の北伐の時、蜀に残って宮中や政治の事を任された。<br /><br />

    董允。諸葛亮の北伐の時、蜀に残って宮中や政治の事を任された。

  • 秦宓。元・劉璋配下。学識豊かな人物。劉備の呉攻略に強く反対、劉備を怒らせ、劉備の帰国まで投獄される事になってしまう。<br />

    秦宓。元・劉璋配下。学識豊かな人物。劉備の呉攻略に強く反対、劉備を怒らせ、劉備の帰国まで投獄される事になってしまう。

  • 楊洪。元・劉璋配下。劉備を帝位に即けようと働きかけた。

    楊洪。元・劉璋配下。劉備を帝位に即けようと働きかけた。

  • 馬良季常。馬謖の兄。荊州に残り、関羽の参謀として付き従う。関羽が毒矢の傷を名医・華佗に手術してもらっている最中、関羽と碁を打っていた。呉の呂蒙に荊州を取られた時、成都の劉備の元へ援軍を求めに行くが結局間に合わなかった。<br />

    馬良季常。馬謖の兄。荊州に残り、関羽の参謀として付き従う。関羽が毒矢の傷を名医・華佗に手術してもらっている最中、関羽と碁を打っていた。呉の呂蒙に荊州を取られた時、成都の劉備の元へ援軍を求めに行くが結局間に合わなかった。

  • 程畿。関羽の仇討ちの軍で劉備の参謀として従軍。呉の夜襲を予知して劉備に告げるが受け入れられなかった。ところが案の定夜襲に遭い、乱戦の中自刎してしまう。<br />

    程畿。関羽の仇討ちの軍で劉備の参謀として従軍。呉の夜襲を予知して劉備に告げるが受け入れられなかった。ところが案の定夜襲に遭い、乱戦の中自刎してしまう。

  • これら蜀漢武将・文臣像28体の中に含まれていない人物に、魏延・法正・劉巴・許靖などが挙げられるが、清代初期の武侯祠には、この中で塑像に含まれていたものがあるという。しかしその後の調整の過程で、彼らは劉備の純正な臣ではない為に、淘汰されたという事である。<br />

    これら蜀漢武将・文臣像28体の中に含まれていない人物に、魏延・法正・劉巴・許靖などが挙げられるが、清代初期の武侯祠には、この中で塑像に含まれていたものがあるという。しかしその後の調整の過程で、彼らは劉備の純正な臣ではない為に、淘汰されたという事である。

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