立山黒部旅行記(ブログ) 一覧に戻る
昭和45年1970年は春と夏の2回の大阪万博と京都の旅に続き、夏休みの旅は白馬の大雪渓から白馬鑓の縦走、そして秋の家族旅行は立山へ紅葉を見に行くというものでした。10月の9日に夜行列車で富山まで行き、翌朝に電車で立山駅、ケーブルカーで美女平まで上がり、バスで室堂に入っています。室堂ではその当時にあった「房治荘」に宿泊して、その日は「地獄谷」と「みくりが池」辺りを散策して立山の紅葉を楽しみました。翌日は浄土沢から「一の越山荘」まで登り、そのまま「大観峰」まで下り、ロープウェイで「黒部平」、ケーブルカーで「黒部ダム」というルートです。「一ノ越山荘」辺りで父は新しく誂えたピッケルを「房治荘」に忘れてきたことに気が付きます。家に帰ってから連絡したところ、「山小屋を閉める12月に持ち帰り、郵便で送ります。」ということでした。ところが昭和45年12月12日に「房治荘」から撤収中の従業員の方と複数の大学などのスキー部員らが吹雪のため集団遭難して一時は23人が行方不明となります。16人が無事下山しますが同志社大学の学生7人が亡くなられた山岳事故は新聞でも大きく取り上げられました。父のピッケルも遭難に合っているので「あのピッケルはもう戻らないだろう。」と話をしていました。ところが12月の中旬にピッケルは送られてきました。昨年まで実家に遺してあったピッケルは家を解体するときに供養して処分しました。2021年の夏の旅では「扇沢」から「黒部ダム」まで50年振りに行くことが出来ましたが、ケーブルカー駅でこれを上れば立山に行けるのにと心が残りました。2022年の5月の旅は知床に1週間ほど滞在するツアーに申し込んでいました。昨年の釧路の旅で天候不良で欠航になってしまった知床遊覧船のリベンジでもあったのですが、催行人数に達しなくてキャンセルになってしまいました。キャンセルの連絡がきた翌日に遊覧船の沈没事故があっって驚きました。その代替え案として、昨年のリベンジでもある黒部トロッコ列車と立山の旅を申し込みました。この旅行記はそのプロローグであり、記憶をたどるものでもあります。

昭和45年10月錦秋の立山の旅。房治荘に泊まり地獄谷に遊び、一の越小屋を越えて黒部平から黒部ダムに至る家族旅行。

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1970/10 - 1970/10

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kojikoji

kojikojiさん

昭和45年1970年は春と夏の2回の大阪万博と京都の旅に続き、夏休みの旅は白馬の大雪渓から白馬鑓の縦走、そして秋の家族旅行は立山へ紅葉を見に行くというものでした。10月の9日に夜行列車で富山まで行き、翌朝に電車で立山駅、ケーブルカーで美女平まで上がり、バスで室堂に入っています。室堂ではその当時にあった「房治荘」に宿泊して、その日は「地獄谷」と「みくりが池」辺りを散策して立山の紅葉を楽しみました。翌日は浄土沢から「一の越山荘」まで登り、そのまま「大観峰」まで下り、ロープウェイで「黒部平」、ケーブルカーで「黒部ダム」というルートです。「一ノ越山荘」辺りで父は新しく誂えたピッケルを「房治荘」に忘れてきたことに気が付きます。家に帰ってから連絡したところ、「山小屋を閉める12月に持ち帰り、郵便で送ります。」ということでした。ところが昭和45年12月12日に「房治荘」から撤収中の従業員の方と複数の大学などのスキー部員らが吹雪のため集団遭難して一時は23人が行方不明となります。16人が無事下山しますが同志社大学の学生7人が亡くなられた山岳事故は新聞でも大きく取り上げられました。父のピッケルも遭難に合っているので「あのピッケルはもう戻らないだろう。」と話をしていました。ところが12月の中旬にピッケルは送られてきました。昨年まで実家に遺してあったピッケルは家を解体するときに供養して処分しました。2021年の夏の旅では「扇沢」から「黒部ダム」まで50年振りに行くことが出来ましたが、ケーブルカー駅でこれを上れば立山に行けるのにと心が残りました。2022年の5月の旅は知床に1週間ほど滞在するツアーに申し込んでいました。昨年の釧路の旅で天候不良で欠航になってしまった知床遊覧船のリベンジでもあったのですが、催行人数に達しなくてキャンセルになってしまいました。キャンセルの連絡がきた翌日に遊覧船の沈没事故があっって驚きました。その代替え案として、昨年のリベンジでもある黒部トロッコ列車と立山の旅を申し込みました。この旅行記はそのプロローグであり、記憶をたどるものでもあります。

同行者
家族旅行
交通手段
高速・路線バス JR特急 JRローカル 徒歩
  • 昭和45年の1970年は小学3年生の9歳でした。大阪万博の年でもあり、非常に記憶に残る年でもありました。春休みの2週間を京都で過ごし、その合間に大阪万博の共同通信のプレスに出張していた父を尋ねて万博公園にも行きました。

    昭和45年の1970年は小学3年生の9歳でした。大阪万博の年でもあり、非常に記憶に残る年でもありました。春休みの2週間を京都で過ごし、その合間に大阪万博の共同通信のプレスに出張していた父を尋ねて万博公園にも行きました。

  • 夏休みにも2週間ほど京都の祖父母宅に預けられながら大阪万博にも通いました。ほとんど「20世紀少年」の世界です。この時の思い出をたどる旅は昨年の大阪の旅で達成することが出来ました。帰り道に立ち寄った犬山城にも太平洋フェリーの旅の帰りに立ち寄ることが出来ました。

    夏休みにも2週間ほど京都の祖父母宅に預けられながら大阪万博にも通いました。ほとんど「20世紀少年」の世界です。この時の思い出をたどる旅は昨年の大阪の旅で達成することが出来ました。帰り道に立ち寄った犬山城にも太平洋フェリーの旅の帰りに立ち寄ることが出来ました。

  • さらに夏休みには白馬岳の大雪渓から白馬鑓までの縦走という北アルプスデビューの年でもありました。翌年には表銀座を縦走っして、翌々年には槍ヶ岳から南岳のキレットを越えて奥穂高までの縦走へとエスカレートしていく年でもありました。そして秋の旅は富山から立山を越えて信州へと抜ける紅葉を楽しい旅でした。

    さらに夏休みには白馬岳の大雪渓から白馬鑓までの縦走という北アルプスデビューの年でもありました。翌年には表銀座を縦走っして、翌々年には槍ヶ岳から南岳のキレットを越えて奥穂高までの縦走へとエスカレートしていく年でもありました。そして秋の旅は富山から立山を越えて信州へと抜ける紅葉を楽しい旅でした。

  • 詳しい情報が残っていませんが10月9日に夜行列車で富山に入り、翌朝に立山駅まで移動しています。この頃の行楽シーズンは国鉄に乗客が集中して、新宿駅や上野駅はものすごい人出でした。立山駅からケーブルカーで「美女平駅」に到着したところから写真が残っています。

    詳しい情報が残っていませんが10月9日に夜行列車で富山に入り、翌朝に立山駅まで移動しています。この頃の行楽シーズンは国鉄に乗客が集中して、新宿駅や上野駅はものすごい人出でした。立山駅からケーブルカーで「美女平駅」に到着したところから写真が残っています。

  • 「美女平」から「室堂」までの写真が残っていないのは混んでいてそんな余裕がなかったのではないかと思います。今は無くなってしまっていますが、「房治荘」に宿泊しています。

    「美女平」から「室堂」までの写真が残っていないのは混んでいてそんな余裕がなかったのではないかと思います。今は無くなってしまっていますが、「房治荘」に宿泊しています。

  • 現在は立ち入り禁止になっている「地獄谷」もこの当時は自由に入ることが出来ました。

    現在は立ち入り禁止になっている「地獄谷」もこの当時は自由に入ることが出来ました。

  • 熱湯が流れているところにも自由に入ることが出来た時代でした。

    熱湯が流れているところにも自由に入ることが出来た時代でした。

  • 硫黄の強烈な臭いを今でも覚えています。

    硫黄の強烈な臭いを今でも覚えています。

  • すぐ下の弟が小学1年生で、下の弟がまだ幼稚園にも入る前でした。当時の交通状況を考えると、よく家族5人で日本中を旅したものだと思います。

    すぐ下の弟が小学1年生で、下の弟がまだ幼稚園にも入る前でした。当時の交通状況を考えると、よく家族5人で日本中を旅したものだと思います。

  • 「房治荘」で1泊して翌日は立山を越えます。この当時は地方の旅館やホテルや山小屋を予約する方法は日本交通公社(現在のJTB)にお願いするか、電話して前金を振り込むか、往復はがきで申し込むというアナログな時代でした。

    「房治荘」で1泊して翌日は立山を越えます。この当時は地方の旅館やホテルや山小屋を予約する方法は日本交通公社(現在のJTB)にお願いするか、電話して前金を振り込むか、往復はがきで申し込むというアナログな時代でした。

  • 子供の頃から1週間くらいの旅行が当たり前のような家でしたし、冬場はスキーへ行くために学校を休ませるのも当たり前でした。そんな習慣は両親が亡くなっても、自分が還暦を越えても変えることが出来ないようです。

    子供の頃から1週間くらいの旅行が当たり前のような家でしたし、冬場はスキーへ行くために学校を休ませるのも当たり前でした。そんな習慣は両親が亡くなっても、自分が還暦を越えても変えることが出来ないようです。

  • この時の旅では父が知り合いと一緒に開発していた子供を背負えるアルミ製の背負子の試作品を持ってきていました。4歳の三男を背負うためのものです。

    この時の旅では父が知り合いと一緒に開発していた子供を背負えるアルミ製の背負子の試作品を持ってきていました。4歳の三男を背負うためのものです。

  • こんな山登りが日常だったので、東京で高校を卒業した弟は北海道の大学に入って、北海道中の山を登り、沢を登り、山スキーを楽しむようになり帰ってくることはありませんでした。

    こんな山登りが日常だったので、東京で高校を卒業した弟は北海道の大学に入って、北海道中の山を登り、沢を登り、山スキーを楽しむようになり帰ってくることはありませんでした。

  • 立山の雄山の肩にある「一の越山荘」が見えてきました。

    立山の雄山の肩にある「一の越山荘」が見えてきました。

  • 60年の人生でいろいろなところで紅葉を見る機会がありましたが、この時の美しさを越えるものには出会えていない気がします。

    60年の人生でいろいろなところで紅葉を見る機会がありましたが、この時の美しさを越えるものには出会えていない気がします。

  • この辺りまで来て父はこの旅の前に誂えたピッケルを「房治荘」に忘れてきたことに気が付きました。さすがに取りに戻ることも出来ないので、東京に帰ってから連絡することにしました。

    この辺りまで来て父はこの旅の前に誂えたピッケルを「房治荘」に忘れてきたことに気が付きました。さすがに取りに戻ることも出来ないので、東京に帰ってから連絡することにしました。

  • 東京に帰ってから連絡すると「山小屋を閉めるまで町に降りないので、12月になったら持ち帰って郵送します。」ということでした。

    東京に帰ってから連絡すると「山小屋を閉めるまで町に降りないので、12月になったら持ち帰って郵送します。」ということでした。

  • 昭和45年の1970年の12月2日 に「房治荘」から撤収中の従業員の方と複数の大学などのスキー部員らが吹雪のため集団遭難に遭われます。一時は23人が行方不明となりますが、後に16人が無事下山され同志社大学の学生7人が死亡されました。

    昭和45年の1970年の12月2日 に「房治荘」から撤収中の従業員の方と複数の大学などのスキー部員らが吹雪のため集団遭難に遭われます。一時は23人が行方不明となりますが、後に16人が無事下山され同志社大学の学生7人が死亡されました。

  • そのニュースを知って父は「あのピッケルはもう戻らないだろう。」と言っていました。ところがしばらくするとピッケルは郵送されてきて驚いたことを覚えています。

    そのニュースを知って父は「あのピッケルはもう戻らないだろう。」と言っていました。ところがしばらくするとピッケルは郵送されてきて驚いたことを覚えています。

  • 父が友人と開発していたアルミ製の背負子です。この当時このようなものは無かったので、通りすがりの方に声を掛けられることがよくありました。

    父が友人と開発していたアルミ製の背負子です。この当時このようなものは無かったので、通りすがりの方に声を掛けられることがよくありました。

  • 黒部ダム湖が見えてきました。

    黒部ダム湖が見えてきました。

  • こちら側の紅葉も素晴らしかったです。「針ノ木岳」と「スバリ岳」は紅葉しないようです。

    こちら側の紅葉も素晴らしかったです。「針ノ木岳」と「スバリ岳」は紅葉しないようです。

  • 「赤沢岳」と左に「鳴沢岳」がダムの奥に見えます。

    「赤沢岳」と左に「鳴沢岳」がダムの奥に見えます。

  • ここから「大観峰」まで下ります。この当時は「立山トンネル」が開通したばかりで、立山トンネルトロリーバス(立山黒部貫光無軌条電車線)が開通するのは	翌年の1971年4月25日のことです。

    ここから「大観峰」まで下ります。この当時は「立山トンネル」が開通したばかりで、立山トンネルトロリーバス(立山黒部貫光無軌条電車線)が開通するのは 翌年の1971年4月25日のことです。

  • 「大観峰」の標高2,316メートルから「黒部平」の1,828メートルまで一気に下ります。

    「大観峰」の標高2,316メートルから「黒部平」の1,828メートルまで一気に下ります。

  • 「黒部ダム湖」に向かって紅葉の絨毯が広がっています。

    「黒部ダム湖」に向かって紅葉の絨毯が広がっています。

  • 「黒部平」から「黒部ダム」までケーブルカーで下り、「黒部ダム」の上までやってきました。

    「黒部平」から「黒部ダム」までケーブルカーで下り、「黒部ダム」の上までやってきました。

  • 現在とは違う手摺りは子供が落ちそうな隙間です。ただ、この当時子供なんて来るところでもなかったと思います。ベンチも現在は置かれていないです。

    現在とは違う手摺りは子供が落ちそうな隙間です。ただ、この当時子供なんて来るところでもなかったと思います。ベンチも現在は置かれていないです。

  • 弟たちはへとへとのようです。

    弟たちはへとへとのようです。

  • この当時黒部ダムのことはニュースでも報じられていて、小学生でもよく知っていることでした。木本正次原作の「黒部の太陽」の横山まさみちの漫画は読んでいました。さすがに石原裕次郎主演の「黒部の太陽」は観ていませんでした。

    この当時黒部ダムのことはニュースでも報じられていて、小学生でもよく知っていることでした。木本正次原作の「黒部の太陽」の横山まさみちの漫画は読んでいました。さすがに石原裕次郎主演の「黒部の太陽」は観ていませんでした。

  • 当時の小学3年生としては大阪万博といい、この「黒四ダム」は日本の輝かしい未来を感じました。

    当時の小学3年生としては大阪万博といい、この「黒四ダム」は日本の輝かしい未来を感じました。

  • この当時の旅先では必ずそばを食べていたような気がします。駅でも観光地でも立ち食いそばは必須のアイテムでした。かけそばが数十円だった時代です。天婦羅なんてもっと大きくならないと乗せてもらえませんでした。

    この当時の旅先では必ずそばを食べていたような気がします。駅でも観光地でも立ち食いそばは必須のアイテムでした。かけそばが数十円だった時代です。天婦羅なんてもっと大きくならないと乗せてもらえませんでした。

  • 現在の「黒部ダムレストハウス」の辺りの手摺りはこんな感じでした。

    現在の「黒部ダムレストハウス」の辺りの手摺りはこんな感じでした。

  • 黒部ダムからはトロリーバスに乗って「扇沢」に出て、信越線で東京に戻ったのだと思いますが、写真は残っていませんでした。この旅の50年後に「扇沢」から「黒部ダム」を訪れ、翌年の2022年に同じルートをたどることになりました。

    黒部ダムからはトロリーバスに乗って「扇沢」に出て、信越線で東京に戻ったのだと思いますが、写真は残っていませんでした。この旅の50年後に「扇沢」から「黒部ダム」を訪れ、翌年の2022年に同じルートをたどることになりました。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • romanさん 2009/08/29 17:27:25
    素晴らしいです!
    kojikojiさん はじめまして。

    レトロな旅行記を一気に読破してしまいました!
    どの写真も愛情が溢れていて
    最高ですーーーーーー!

    こうして、旅行記にまとめると素晴らしいですね〜♪
    とっても大変な作業だと思いますが
    kojikojiさんのレトロシリーズの旅行記が
    愉しみでなりません!

    他の旅行記もまたじっくり拝見させて下さいね!

    レトロシリーズ全てに1票です!!!

    ろまん

    kojikoji

    kojikojiさん からの返信 2009/08/30 10:03:45
    RE: 素晴らしいです!

    ろまんさん
    写真を見ていただいてありがとうございます。
    昨年4トラベルに登録しましたが、旅行記を載せ始めたのは最近のことです。他の方の旅行記を読ませていただいていたら戦後直ぐの修学旅行の写真があって、こういう古い写真も他人が見ても面白いなと思ったのがきっかけです。海外の旅行記を作っていても余程変わった旅か人が行かない所でないと同じような写真になってしまいますし。流石に過去には行けないので。
    古い写真を登録してみると以外に投票してくださる方が多くて家族で驚いています。まだ手付かずでスキャンしていないフィルムも沢山ありますが、少しづつ旅行記にしていこうと思っています。また機会がありましたらご覧になってください。

kojikojiさんのトラベラーページ

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