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<2005年2月12日(土)><br /><br /> 今日も、午前中は遅い時間からの行動でした。旅行社を使わない自由旅行は、この点が実に便利です。昨晩は3時過ぎまで自宅で色んなお話をしていましたので、ゆっくり午前の時間を過ごしました。この日のメモには、「曇り 13時45分、魯迅所縁のお店到着」とだけ書いていました。それ以外はEnちゃんの通訳でお聞きしたS.P.先生との話題のメモでした。<br /><br /><Ogさんが作ってくれた朝食><br /> 朝食は、皆さんより早起きしたOgさんが作ってくれました。ご飯に味噌汁、マリネ風のサラダと焼魚と海苔といった本格的な和食でした。Ogさんには、全く頭が下がります。<br /> 昨晩のオペラ座の怪人の公園の余韻を、公演冊子で楽しんだり、書店やレコード店で買い求めたVCDなどを見ながら午前中はゆっくりと過ごしました。私の場合、DVDはローマの休日と名探偵エルキュールポアロのミステリー・ロッジの2枚、VCDは桂林と西安の旅行案内の2枚、CDはポリーニのリストのピアノソナタ2枚の合計6枚でした。<br /> これらの料金は、日本で求める場合と比べてかなりの格安です。例えばCDだと、1枚、300円くらいでしょう。このなかでVCDは日本の機械ではそのまま再生できない可能性がありましたので、大型のテレビに映して、内容を確認しました。もし、日本で見られなくても、元が引けるくらい安い値段でした。<br /> 日本へ戻った後、直ぐにVCDをパソコンで再生しました。そのまま自動再生は出来ませんでしたが、画像もバックの音楽もちゃんと再生できました。次回からは、自分用のお土産用に沢山買い求める予定です。<br /><br /><魯迅所縁の店、咸亨酒店><br /> 今回の盛りだくさんの旅行を更にバラエティ豊かにしてくれたのが魯迅所縁の場所や記念館の見学でした。魯迅所縁の酒店もありました。<br /> その魯迅所縁の方面へは、乗換駅まで電車で行き、そこからタクシーにしました。まだ旧正月の最中でしたし、席取り合戦が大変だと読んだためです。駅構内は、年始周りのお土産を手にした人達で一杯でした。<br /> タクシーは駅構内で直ぐに拾えました。そのタクシーは駅近くの抜け道を走って混雑を避け、やがて高速道路に乗りました。人道のような地下道を抜けたり、Uターンに近い経路で、地元の人でなければ分からない不思議な抜け道でした。<br /> 上海市内の高速道路は全て無料ですから、料金所で混雑することも無く、料金の心配もないので、大変便利です。普段の経路とは違うコースを通って、上海東北方面に向かいました。魯迅所縁のお店で昼食を摂るためです。<br />魯迅所縁の店、その店の名前は咸亨酒店です。英語表示では「Old Xianheng Hotel」です。お店の雰囲気は、写真の方をご覧ください。<br /> この店でEnちゃんが選んでくれたのは、何となく酒の肴に合うような品々でした。少し味が濃い、茹ピーナッツ、茹そら豆が、その始まりでした。つい、紹興酒を注文しました。<br /> 魯迅先生を偲ぶに相応しいお膳立てでした。店先に白い紹興酒の甕が並んでいました。これから金属製の首に長い容器に移されて出されたのでしょう。いつもの瓶詰のイボトルとは違った雰囲気で飲むことが出来ました。<br /><br /><魯迅記念館><br /> 魯迅記念館は総工費5000万元を要したとされます。この半分である2500万元を姉妹都市である大阪市が寄贈したようです。13円/元で換算しますと、3億2500万円となります。<br />阿Q正伝等の著作で、世界でも著名なこの作家は、日本との縁が深く、姉妹都市の大阪市がこの記念館の建設に一役買ったとあれば、大変に喜ばしい限りです。近代的で、まだ新しいこの記念館の2階には、魯迅に因む多くの展示物や、写真を元に再現された蝋人形などもあります。<br /> 上海市の東北部は少し治安に問題の地域もあるようですが、日本人観光客にもっと行ってもらいたい観光スポットに生まれ変わっています。交通アクセスを含めてガイドブックにも紹介してあります。<br /> 記念館で求めた魯迅の著書に「漢和対照・阿Q正伝」があります。中国文学出版社の刊行になる廉価版です。背表紙を左にして開くと漢文、右にして開くと和文となる面白い装丁です。漢文が45頁、和文だと倍に近い79頁になります。この小冊子を纏めながら、和文の方を紐解いてみました。随分昔に読んだ記憶もありますが、全文だったか、抜粋された教科書辺りだったかも、記憶が定かではありません。<br /><br /><多倫路文化名人街の散策><br /> いったんは止んでいた小雨がぶり返してきました。こんな時には、中々タクシーが拾えないとのEnちゃんの判断から、チョウさんの車の都合を聞くことにしました。幸い、午前中の周荘の仕事が終わって、上海に戻られているようでした。間もなく見慣れたチョウさんの車が魯迅公園にやって来ました。40万平方のこの公園の中に魯迅の墓が移され、記念館も建っています。<br /> 乗せてもらったと思ったら、すぐに下車です。魯迅公園と多倫路文化名人街が近くのためでした。この町の散策の時には小雨も止んでいました。1920〜30年代に魯迅をはじめ、多くの文化人が暮らしていた場所です。魯迅の親友として知られ、その後の中日友好に尽力された、内山書店で有名な内山完造さんも暮らした場所です。<br /> 魯迅は余りにも著名ですから、ここでは内山完造さんのことを、インターネット情報などを参考にして記しておきます。以下、敬称を略します。<br /> 『1912年、キリスト教に入信した内山は、牧師の紹介で目薬会社の海外出張員となって、中国へ渡りました。目薬の宣伝行商のために上海の自宅を留守勝ちの内山は、妻の美喜の気晴らしのために、内職として、自宅の玄関先で本屋を始めさせました。1916年のことです。キリスト教関係の書籍100冊ばかりで、内山書店は産声を上げました。<br /> その内山書店の常連に魯迅がいました。住居が近かった魯迅は、よく散歩のついでに内山書店を訪れました。以降、内山と魯迅の親密な交際は続きました。<br /> 白色テロや第1次上海事変の時には、内山が魯迅を匿いました。内山の紹介で魯迅との対談をした作家には金子光春、横光利一、林芙美子、鈴木大拙などがいます。魯迅の死去に際して、内山は宋慶齢や毛沢東、アグネス・スメドレーとともに、葬儀委員を務めました。<br /> 1945年の日本降伏、いわゆる上海解放後、内山は日本へ半ば追放されました。<br /> 日本帰国後、内山は中国人の庶民と中華人民共和国の生の姿を語るための全国行脚に出かけました。1950年に日中友好協会が結成された時には、その理事長となりました。しかし59年に、招待された旅先の北京で、日中国交回復を見ることなく、74歳の生涯を閉じました。今、内山は生前の意志を汲まれて、夫人とともに上海の墓地に眠っています』<br /> これらの紹介文章はインターネットから引用させていただきましたが、魯迅の葬儀の写真など、多くの資料が記念館に展示されていました。中でも再現された内山書店は重要な位置を占めていました。<br /><br /><精進料理の夕食><br /> 今晩はS.P.先生、Ya先生とご一緒に精進料理を楽しみました。日本でもお寺や専門店で作られていますが、仏教伝来の地の中国の方が、この点でも先輩であることは疑いがありません。<br /> この日、孫濱先生が頼まれた料理は大変な量と品数でした。Enちゃんが先にお聞きされていたようで、勘定を全てS.P.先生が支払っていただきました。改めてご馳走様になりました。全ての写真を収めることはできませんでしたが、外観、食感など、さまざまな工夫を凝らして作られた料理の数々でした。<br /> 例えば、サラミソーセージを模した料理は外観も、食感もそっくりでした。小海老の剥き身に模した具も見事でしたし、鶏料理を模したもの、鍋料理も出されました。飲み物は朝鮮人参などが入った薬味たっぷりのものが固形燃料で温めてありました。何杯もお代わりをしました。デザートの出来栄えも見事でした。普段は食べない私もココナツを使ったケーキを完食しました。<br /> それにしてもすごい量の品数でした。量の方は、普通、中国料理では10人前位が1品で出されるためのようでした。全員で6名でしたから、どうしても半分くらいは残ってしまいました。それでも、お持ち帰り用のパックが用意されましたので、余り無駄になることは無く、安心しました。<br /> 話題の中では、S.P.先生から愛知万博の話が色々と出されました。最近、愛知万博特集のテレビ番組があったようです。その中で、万博を始め名古屋市、愛知県の紹介もされたようです。名古屋市の人口、約200万人の情報もお持ちでした。「上海の南京路の遊歩道には、一日100万人の人出があります。名古屋市の人口の半分です」といった具合です。<br /> 私達が日本を発った直ぐ後、大幅な円安で106円/ドルになったこともご存知で、皆にその理由をご質問されましたが、咄嗟には回答が出せませんでした。日本へ帰った後で、私なりに溜まった新聞で確認しましたが、円安より、ドル高が原因のようでした。しかし、拾い読みした新聞記事からの推測なので、正確な分析ではありません。<br /> 私の質問の1つは、上海の人口に関するものでした。お聞きした人によってかなりの差がありました。前回の旅行では「上海に戸籍を有する人が1600万人、盲流と呼ばれる戸籍がない人が300〜500万人」と言う「推定」でした。今回、孫濱先生がお話されたのは、「1300万人が戸籍を持ち、流動人口は300万人程度が公式数字」と言うことでした。<br /><br /><夜は足裏マッサージ><br /> 食事の後はEnちゃんから足裏マッサージへ行きましょうとご両親に勧められたようです。そのお話をお聞きして、こちらからもEnちゃんを通じて再度お勧めしました。しかし、ご遠慮をされたので、ご両親をチョウさんの車で家の近くまでお送りした後、虹橋(ホンチャオ)に向かいました。マッサージの専門店、「虹橋三希会所」がある方面です。天山路になります。<br /> 車の中からEnちゃんが携帯で予約と取ってくれましたが、大繁盛のようで、人気のマッサージ師の方は、既に2時頃まで予約で一杯だということでした。小合さんが全身マッサージをやっていただき、非常に肩が軽くなったといって楽しみにしていた人です。それで、仕方なくまだ予約が入っていない、他の人に変更されました。<br /> Ogさんは全身マッサージ、他の3人は足裏マッサージを選択しました。その日の疲れが取れて、リフレッシュできる1時間余りです。私の場合、土踏まずのある部分を強くマッサージされると、痛みが走ります。しかし、安心して任せていると、痛みが苦痛ではなくなります。この日も十分に満足できる足裏マッサージでした。<br /> ホームステイの自宅近くのマッサージに比べると、少し割高ですが、それを超える内容のあるマッサージです。高いといっても、1時間60元、日本円で800円程ですから、日本の料金とは比べようがありません。この一帯は、商社やメーカーの上海勤務の人達の家族が住む、いわゆる日本人街があります。お店の人も日本語が話せる人が多く、日本語の雑誌類も備えてあります。そのうちの何冊かを持ち帰りましたが、日本人駐在者向けに、コタツのカタログ等、色々と便利な情報が満載でした。<br /><br /><初戎の夜><br /> 運転手のチョウさんが、「12時前には家に帰りたい」と、Enちゃんに話されていたようです。家で初戎の爆竹などが用意されているためのようでした。今日のマッサージの予約は、そのことも踏まえて、早い時間となっていました。11時前には自宅に戻れましたから、上海の東北方面に住んでいるチョウさんも、無事、ご家族との約束の時間に帰られたことでしょう。その虹橋から戻る途中の高速道路は、大晦日の晩と同じように爆竹や花火の煙で霞んでいました。打ちあがっている花火を見学しながらの帰り道でした。<br /> 自宅に戻ったら、直ぐに翌日の出発の準備をしました。リュック一つで出かけた旅ですが、帰りにはその倍以上の荷物になっていました。昨日の帰り、運転手のチョウさんからも沢山のお土産を戴いていました。それで、日本へ持ち帰る予定の、Enちゃんのお友達のスーツケースをお借りすることにしました。このスーツケースにお土産を詰め込んだら、丁度満杯になりました。それで愛用のリュックは、日本を出た時と同じ重さに戻りました。<br /> 準備が簡単に済みましたので、Ogさんと軽く1杯、1階のロビーで飲むことにしました。初戎の花火、爆竹が本格的に始まるまでのあと少しの時間です。Enちゃんは残った荷物の整理、Myちゃんはこの間にシャワーです。<br /> 零時が迫ってきましたので、Ogさんと3階のロビーに出て、皆さんより一足先に花火見物をしました。小雨が降っていたものの、花火や爆竹の支障にはならない程度でした。しかし、ガラス戸を開けると、かなり冷たい風が入ってきました。<br /> 初戎の本番が始まりました。すさまじい音が四方八方から聞こえ、遠くでは大型の花火が次々と打ち上げられました。スターマインのような光のシャワーも遠望できました。住宅地内でも、何箇所かで爆竹と花火が打ち上げられ、またたく間に煙で霞んできました。近所での爆竹の後には、枯れた芝生に火が付きました。 上海市内の全域が光と音と煙の坩堝(るつぼ)と化しました。<br />こんな音を聞いては、火付専門士のMyちゃんがじっとしている訳はありません。直ぐに3階までやって来ました。シャワーをそこそこに、急いで駆け付けたようでした。寒さも忘れて、初戎の夜の、上海全土を舞台の屋外ショーを楽しみました。Myちゃんは早速「来年の大晦日、初戎も見たい」と意思表示されていました。<br /><br /><爆竹のこと><br /> 昼食の時のS.P.先生との色んな話題の中から、爆竹について紹介します。爆竹を鳴らす謂れについて、S.P.先生から皆さんに質問が出されましたが、解答だけを記しておきます。大晦日の爆竹は「邪気を追い払う願い」、初戎の爆竹は「金を招きよせる願い」を込めて行うもの、とのことでした。<br /> 爆竹の命名の由来は、青竹を火に投げ込んで弾ける音から来たようです。今は中国では使われなくなった名前だともお聞きしました。その時には出なかった話ですが、結婚式でも使われ、この時は「幸福を願って」鳴らされます。<br /> 孫引きで恐縮ですが、インターネットで調べた「爆竹」は、日中辞典(小学館)では、「中国では古くから祝日や慶事の際、竹筒に火薬を入れ、火をつけて鳴らし、悪邪を追い払う習慣があり、”爆竹”という名はこれに由来する。現在では紙に火薬を包んで棹の先に付けたものを用いる。旧正月の元旦には家ごとに打ち鳴らし、街中が爆竹の響きに包まれて新年の気分を盛り上げる」とありました。<br /> 同じようにインターネットで調べた結果ですが、10年ほど前から「爆竹禁止」をする都市が出始めました。その最初が広州です。爆竹によって怪我をしたり、爆竹の火が原因で火事が起こったり、環境破壊につながるなど諸処のリスクを考慮に入れた措置です。広州に続き、多くの都市が爆竹を禁止しました。<br /> ところが近年、爆竹を禁止してきた都市も、解禁し始めてきています。伝統文化としての見直しです。今回の上海市もそうですが、他には瀋陽、石家庄、杭州、天津市等です。<br /> 解禁する条件としては、例えば天津では、2004年の旧正月には「時間の制限、場所の制限、爆竹の種類の制限」をして爆竹を許可したそうです。<br /> 今回の上海でも、午前0時から1時間も経たないうちに、急に花火、爆竹の数が少なくなりましたから、同じような措置が取られていたようです。爆竹が終われば、直ぐに清掃が始まりました。仔細に見れば赤い紙が残っていましたが、翌朝には車道も歩道も綺麗に片付いていました。<br /> 最後に昨年の旧正月の北京のことを紹介しておきます。爆竹は禁止されていましたが、実質的に規制がされていない状態だったようです。<br /> 「旧正月を迎える21日大晦日夜から22日新年にかけて北京市内では爆竹や花火で火災や人身事故が相次ぎました。北京消防局は4400名の消防士と車両300台で出動準備をしていましたが、この日は出動しっぱなしでした。消防当局は、大晦日の18時から翌日6時までの12時間に444件の火災通報を受け、その内141件を火災と認定しました。 また火災だけでなく人身事故も相次ぎました。25歳の男性は爆竹の暴発で頭部を失い即死、また49歳の男性も同じ理由により死亡しました。またある病院では一晩に36名が怪我で搬送され3名が重傷、内1名が失明しました。5歳から70歳までと年齢に関係なく怪我人が出ました」とありました。<br /> こんなに怖いものですよ。是非、次も来たいといってみえた来年の大晦日では、Miちゃん気を付けてくださいね。<br /><br /><br />  魯迅博物館で<br /> 上海の魯迅所縁の内山書店対訳買いぬ阿Q正伝<br /><br /> 日中の冷き今を解す人出よ魯迅と内山完造<br /><br />  初戎の夜<br /> 初戎再び始る上海の夜空を焦し神呼ぶ儀式<br /><br /> 遠花火西に東に間を措ず競合う音と光と煙

2005早春、中国旅行記6(19):2月12日(1)上海・魯迅縁の紹興人家、魯迅記念館

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2005/02/08 - 2005/02/13

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

<2005年2月12日(土)>

 今日も、午前中は遅い時間からの行動でした。旅行社を使わない自由旅行は、この点が実に便利です。昨晩は3時過ぎまで自宅で色んなお話をしていましたので、ゆっくり午前の時間を過ごしました。この日のメモには、「曇り 13時45分、魯迅所縁のお店到着」とだけ書いていました。それ以外はEnちゃんの通訳でお聞きしたS.P.先生との話題のメモでした。

<Ogさんが作ってくれた朝食>
 朝食は、皆さんより早起きしたOgさんが作ってくれました。ご飯に味噌汁、マリネ風のサラダと焼魚と海苔といった本格的な和食でした。Ogさんには、全く頭が下がります。
 昨晩のオペラ座の怪人の公園の余韻を、公演冊子で楽しんだり、書店やレコード店で買い求めたVCDなどを見ながら午前中はゆっくりと過ごしました。私の場合、DVDはローマの休日と名探偵エルキュールポアロのミステリー・ロッジの2枚、VCDは桂林と西安の旅行案内の2枚、CDはポリーニのリストのピアノソナタ2枚の合計6枚でした。
 これらの料金は、日本で求める場合と比べてかなりの格安です。例えばCDだと、1枚、300円くらいでしょう。このなかでVCDは日本の機械ではそのまま再生できない可能性がありましたので、大型のテレビに映して、内容を確認しました。もし、日本で見られなくても、元が引けるくらい安い値段でした。
 日本へ戻った後、直ぐにVCDをパソコンで再生しました。そのまま自動再生は出来ませんでしたが、画像もバックの音楽もちゃんと再生できました。次回からは、自分用のお土産用に沢山買い求める予定です。

<魯迅所縁の店、咸亨酒店>
 今回の盛りだくさんの旅行を更にバラエティ豊かにしてくれたのが魯迅所縁の場所や記念館の見学でした。魯迅所縁の酒店もありました。
 その魯迅所縁の方面へは、乗換駅まで電車で行き、そこからタクシーにしました。まだ旧正月の最中でしたし、席取り合戦が大変だと読んだためです。駅構内は、年始周りのお土産を手にした人達で一杯でした。
 タクシーは駅構内で直ぐに拾えました。そのタクシーは駅近くの抜け道を走って混雑を避け、やがて高速道路に乗りました。人道のような地下道を抜けたり、Uターンに近い経路で、地元の人でなければ分からない不思議な抜け道でした。
 上海市内の高速道路は全て無料ですから、料金所で混雑することも無く、料金の心配もないので、大変便利です。普段の経路とは違うコースを通って、上海東北方面に向かいました。魯迅所縁のお店で昼食を摂るためです。
魯迅所縁の店、その店の名前は咸亨酒店です。英語表示では「Old Xianheng Hotel」です。お店の雰囲気は、写真の方をご覧ください。
 この店でEnちゃんが選んでくれたのは、何となく酒の肴に合うような品々でした。少し味が濃い、茹ピーナッツ、茹そら豆が、その始まりでした。つい、紹興酒を注文しました。
 魯迅先生を偲ぶに相応しいお膳立てでした。店先に白い紹興酒の甕が並んでいました。これから金属製の首に長い容器に移されて出されたのでしょう。いつもの瓶詰のイボトルとは違った雰囲気で飲むことが出来ました。

<魯迅記念館>
 魯迅記念館は総工費5000万元を要したとされます。この半分である2500万元を姉妹都市である大阪市が寄贈したようです。13円/元で換算しますと、3億2500万円となります。
阿Q正伝等の著作で、世界でも著名なこの作家は、日本との縁が深く、姉妹都市の大阪市がこの記念館の建設に一役買ったとあれば、大変に喜ばしい限りです。近代的で、まだ新しいこの記念館の2階には、魯迅に因む多くの展示物や、写真を元に再現された蝋人形などもあります。
 上海市の東北部は少し治安に問題の地域もあるようですが、日本人観光客にもっと行ってもらいたい観光スポットに生まれ変わっています。交通アクセスを含めてガイドブックにも紹介してあります。
 記念館で求めた魯迅の著書に「漢和対照・阿Q正伝」があります。中国文学出版社の刊行になる廉価版です。背表紙を左にして開くと漢文、右にして開くと和文となる面白い装丁です。漢文が45頁、和文だと倍に近い79頁になります。この小冊子を纏めながら、和文の方を紐解いてみました。随分昔に読んだ記憶もありますが、全文だったか、抜粋された教科書辺りだったかも、記憶が定かではありません。

<多倫路文化名人街の散策>
 いったんは止んでいた小雨がぶり返してきました。こんな時には、中々タクシーが拾えないとのEnちゃんの判断から、チョウさんの車の都合を聞くことにしました。幸い、午前中の周荘の仕事が終わって、上海に戻られているようでした。間もなく見慣れたチョウさんの車が魯迅公園にやって来ました。40万平方のこの公園の中に魯迅の墓が移され、記念館も建っています。
 乗せてもらったと思ったら、すぐに下車です。魯迅公園と多倫路文化名人街が近くのためでした。この町の散策の時には小雨も止んでいました。1920〜30年代に魯迅をはじめ、多くの文化人が暮らしていた場所です。魯迅の親友として知られ、その後の中日友好に尽力された、内山書店で有名な内山完造さんも暮らした場所です。
 魯迅は余りにも著名ですから、ここでは内山完造さんのことを、インターネット情報などを参考にして記しておきます。以下、敬称を略します。
 『1912年、キリスト教に入信した内山は、牧師の紹介で目薬会社の海外出張員となって、中国へ渡りました。目薬の宣伝行商のために上海の自宅を留守勝ちの内山は、妻の美喜の気晴らしのために、内職として、自宅の玄関先で本屋を始めさせました。1916年のことです。キリスト教関係の書籍100冊ばかりで、内山書店は産声を上げました。
 その内山書店の常連に魯迅がいました。住居が近かった魯迅は、よく散歩のついでに内山書店を訪れました。以降、内山と魯迅の親密な交際は続きました。
 白色テロや第1次上海事変の時には、内山が魯迅を匿いました。内山の紹介で魯迅との対談をした作家には金子光春、横光利一、林芙美子、鈴木大拙などがいます。魯迅の死去に際して、内山は宋慶齢や毛沢東、アグネス・スメドレーとともに、葬儀委員を務めました。
 1945年の日本降伏、いわゆる上海解放後、内山は日本へ半ば追放されました。
 日本帰国後、内山は中国人の庶民と中華人民共和国の生の姿を語るための全国行脚に出かけました。1950年に日中友好協会が結成された時には、その理事長となりました。しかし59年に、招待された旅先の北京で、日中国交回復を見ることなく、74歳の生涯を閉じました。今、内山は生前の意志を汲まれて、夫人とともに上海の墓地に眠っています』
 これらの紹介文章はインターネットから引用させていただきましたが、魯迅の葬儀の写真など、多くの資料が記念館に展示されていました。中でも再現された内山書店は重要な位置を占めていました。

<精進料理の夕食>
 今晩はS.P.先生、Ya先生とご一緒に精進料理を楽しみました。日本でもお寺や専門店で作られていますが、仏教伝来の地の中国の方が、この点でも先輩であることは疑いがありません。
 この日、孫濱先生が頼まれた料理は大変な量と品数でした。Enちゃんが先にお聞きされていたようで、勘定を全てS.P.先生が支払っていただきました。改めてご馳走様になりました。全ての写真を収めることはできませんでしたが、外観、食感など、さまざまな工夫を凝らして作られた料理の数々でした。
 例えば、サラミソーセージを模した料理は外観も、食感もそっくりでした。小海老の剥き身に模した具も見事でしたし、鶏料理を模したもの、鍋料理も出されました。飲み物は朝鮮人参などが入った薬味たっぷりのものが固形燃料で温めてありました。何杯もお代わりをしました。デザートの出来栄えも見事でした。普段は食べない私もココナツを使ったケーキを完食しました。
 それにしてもすごい量の品数でした。量の方は、普通、中国料理では10人前位が1品で出されるためのようでした。全員で6名でしたから、どうしても半分くらいは残ってしまいました。それでも、お持ち帰り用のパックが用意されましたので、余り無駄になることは無く、安心しました。
 話題の中では、S.P.先生から愛知万博の話が色々と出されました。最近、愛知万博特集のテレビ番組があったようです。その中で、万博を始め名古屋市、愛知県の紹介もされたようです。名古屋市の人口、約200万人の情報もお持ちでした。「上海の南京路の遊歩道には、一日100万人の人出があります。名古屋市の人口の半分です」といった具合です。
 私達が日本を発った直ぐ後、大幅な円安で106円/ドルになったこともご存知で、皆にその理由をご質問されましたが、咄嗟には回答が出せませんでした。日本へ帰った後で、私なりに溜まった新聞で確認しましたが、円安より、ドル高が原因のようでした。しかし、拾い読みした新聞記事からの推測なので、正確な分析ではありません。
 私の質問の1つは、上海の人口に関するものでした。お聞きした人によってかなりの差がありました。前回の旅行では「上海に戸籍を有する人が1600万人、盲流と呼ばれる戸籍がない人が300〜500万人」と言う「推定」でした。今回、孫濱先生がお話されたのは、「1300万人が戸籍を持ち、流動人口は300万人程度が公式数字」と言うことでした。

<夜は足裏マッサージ>
 食事の後はEnちゃんから足裏マッサージへ行きましょうとご両親に勧められたようです。そのお話をお聞きして、こちらからもEnちゃんを通じて再度お勧めしました。しかし、ご遠慮をされたので、ご両親をチョウさんの車で家の近くまでお送りした後、虹橋(ホンチャオ)に向かいました。マッサージの専門店、「虹橋三希会所」がある方面です。天山路になります。
 車の中からEnちゃんが携帯で予約と取ってくれましたが、大繁盛のようで、人気のマッサージ師の方は、既に2時頃まで予約で一杯だということでした。小合さんが全身マッサージをやっていただき、非常に肩が軽くなったといって楽しみにしていた人です。それで、仕方なくまだ予約が入っていない、他の人に変更されました。
 Ogさんは全身マッサージ、他の3人は足裏マッサージを選択しました。その日の疲れが取れて、リフレッシュできる1時間余りです。私の場合、土踏まずのある部分を強くマッサージされると、痛みが走ります。しかし、安心して任せていると、痛みが苦痛ではなくなります。この日も十分に満足できる足裏マッサージでした。
 ホームステイの自宅近くのマッサージに比べると、少し割高ですが、それを超える内容のあるマッサージです。高いといっても、1時間60元、日本円で800円程ですから、日本の料金とは比べようがありません。この一帯は、商社やメーカーの上海勤務の人達の家族が住む、いわゆる日本人街があります。お店の人も日本語が話せる人が多く、日本語の雑誌類も備えてあります。そのうちの何冊かを持ち帰りましたが、日本人駐在者向けに、コタツのカタログ等、色々と便利な情報が満載でした。

<初戎の夜>
 運転手のチョウさんが、「12時前には家に帰りたい」と、Enちゃんに話されていたようです。家で初戎の爆竹などが用意されているためのようでした。今日のマッサージの予約は、そのことも踏まえて、早い時間となっていました。11時前には自宅に戻れましたから、上海の東北方面に住んでいるチョウさんも、無事、ご家族との約束の時間に帰られたことでしょう。その虹橋から戻る途中の高速道路は、大晦日の晩と同じように爆竹や花火の煙で霞んでいました。打ちあがっている花火を見学しながらの帰り道でした。
 自宅に戻ったら、直ぐに翌日の出発の準備をしました。リュック一つで出かけた旅ですが、帰りにはその倍以上の荷物になっていました。昨日の帰り、運転手のチョウさんからも沢山のお土産を戴いていました。それで、日本へ持ち帰る予定の、Enちゃんのお友達のスーツケースをお借りすることにしました。このスーツケースにお土産を詰め込んだら、丁度満杯になりました。それで愛用のリュックは、日本を出た時と同じ重さに戻りました。
 準備が簡単に済みましたので、Ogさんと軽く1杯、1階のロビーで飲むことにしました。初戎の花火、爆竹が本格的に始まるまでのあと少しの時間です。Enちゃんは残った荷物の整理、Myちゃんはこの間にシャワーです。
 零時が迫ってきましたので、Ogさんと3階のロビーに出て、皆さんより一足先に花火見物をしました。小雨が降っていたものの、花火や爆竹の支障にはならない程度でした。しかし、ガラス戸を開けると、かなり冷たい風が入ってきました。
 初戎の本番が始まりました。すさまじい音が四方八方から聞こえ、遠くでは大型の花火が次々と打ち上げられました。スターマインのような光のシャワーも遠望できました。住宅地内でも、何箇所かで爆竹と花火が打ち上げられ、またたく間に煙で霞んできました。近所での爆竹の後には、枯れた芝生に火が付きました。 上海市内の全域が光と音と煙の坩堝(るつぼ)と化しました。
こんな音を聞いては、火付専門士のMyちゃんがじっとしている訳はありません。直ぐに3階までやって来ました。シャワーをそこそこに、急いで駆け付けたようでした。寒さも忘れて、初戎の夜の、上海全土を舞台の屋外ショーを楽しみました。Myちゃんは早速「来年の大晦日、初戎も見たい」と意思表示されていました。

<爆竹のこと>
 昼食の時のS.P.先生との色んな話題の中から、爆竹について紹介します。爆竹を鳴らす謂れについて、S.P.先生から皆さんに質問が出されましたが、解答だけを記しておきます。大晦日の爆竹は「邪気を追い払う願い」、初戎の爆竹は「金を招きよせる願い」を込めて行うもの、とのことでした。
 爆竹の命名の由来は、青竹を火に投げ込んで弾ける音から来たようです。今は中国では使われなくなった名前だともお聞きしました。その時には出なかった話ですが、結婚式でも使われ、この時は「幸福を願って」鳴らされます。
 孫引きで恐縮ですが、インターネットで調べた「爆竹」は、日中辞典(小学館)では、「中国では古くから祝日や慶事の際、竹筒に火薬を入れ、火をつけて鳴らし、悪邪を追い払う習慣があり、”爆竹”という名はこれに由来する。現在では紙に火薬を包んで棹の先に付けたものを用いる。旧正月の元旦には家ごとに打ち鳴らし、街中が爆竹の響きに包まれて新年の気分を盛り上げる」とありました。
 同じようにインターネットで調べた結果ですが、10年ほど前から「爆竹禁止」をする都市が出始めました。その最初が広州です。爆竹によって怪我をしたり、爆竹の火が原因で火事が起こったり、環境破壊につながるなど諸処のリスクを考慮に入れた措置です。広州に続き、多くの都市が爆竹を禁止しました。
 ところが近年、爆竹を禁止してきた都市も、解禁し始めてきています。伝統文化としての見直しです。今回の上海市もそうですが、他には瀋陽、石家庄、杭州、天津市等です。
 解禁する条件としては、例えば天津では、2004年の旧正月には「時間の制限、場所の制限、爆竹の種類の制限」をして爆竹を許可したそうです。
 今回の上海でも、午前0時から1時間も経たないうちに、急に花火、爆竹の数が少なくなりましたから、同じような措置が取られていたようです。爆竹が終われば、直ぐに清掃が始まりました。仔細に見れば赤い紙が残っていましたが、翌朝には車道も歩道も綺麗に片付いていました。
 最後に昨年の旧正月の北京のことを紹介しておきます。爆竹は禁止されていましたが、実質的に規制がされていない状態だったようです。
 「旧正月を迎える21日大晦日夜から22日新年にかけて北京市内では爆竹や花火で火災や人身事故が相次ぎました。北京消防局は4400名の消防士と車両300台で出動準備をしていましたが、この日は出動しっぱなしでした。消防当局は、大晦日の18時から翌日6時までの12時間に444件の火災通報を受け、その内141件を火災と認定しました。 また火災だけでなく人身事故も相次ぎました。25歳の男性は爆竹の暴発で頭部を失い即死、また49歳の男性も同じ理由により死亡しました。またある病院では一晩に36名が怪我で搬送され3名が重傷、内1名が失明しました。5歳から70歳までと年齢に関係なく怪我人が出ました」とありました。
 こんなに怖いものですよ。是非、次も来たいといってみえた来年の大晦日では、Miちゃん気を付けてくださいね。


  魯迅博物館で
 上海の魯迅所縁の内山書店対訳買いぬ阿Q正伝

 日中の冷き今を解す人出よ魯迅と内山完造

  初戎の夜
 初戎再び始る上海の夜空を焦し神呼ぶ儀式

 遠花火西に東に間を措ず競合う音と光と煙

交通手段
タクシー
  • 今回の旅行も残りが後僅かとなりました。帰国前日の12日の外出です。この日も車ではなく電車で出かけました。

    今回の旅行も残りが後僅かとなりました。帰国前日の12日の外出です。この日も車ではなく電車で出かけました。

  • 電車は途中の乗換駅までとし、あとはタクシーで上海市街地の東北方面に出かけました。魯迅に因む史跡や記念館見学のためです。

    電車は途中の乗換駅までとし、あとはタクシーで上海市街地の東北方面に出かけました。魯迅に因む史跡や記念館見学のためです。

  • お昼の時間は少し過ぎていましたが、これから小宴会です。お店の看板は、魯迅先生ゆかりの紹興人家です。

    お昼の時間は少し過ぎていましたが、これから小宴会です。お店の看板は、魯迅先生ゆかりの紹興人家です。

  • かの魯迅先生を意識しながら、特別の雰囲気での昼食です。

    かの魯迅先生を意識しながら、特別の雰囲気での昼食です。

  • 昼の宴会の始まりは、Enちゃんのメニュー選びからです。よろしくお願いします。

    昼の宴会の始まりは、Enちゃんのメニュー選びからです。よろしくお願いします。

  • 朝食はOgさん手作りの和食でした。ご飯、味噌汁、マリネ風サラダ、焼魚、海苔と本格的でした。昼食は紹興酒の壷が並んだ魯迅所縁の店です。

    朝食はOgさん手作りの和食でした。ご飯、味噌汁、マリネ風サラダ、焼魚、海苔と本格的でした。昼食は紹興酒の壷が並んだ魯迅所縁の店です。

  • 前菜は茹ピーナツに茹夏豆などです。味が浸みていて、つまみに好適でした。これで魯迅所縁の店の名産紹興酒を頼まない理由はありません。

    前菜は茹ピーナツに茹夏豆などです。味が浸みていて、つまみに好適でした。これで魯迅所縁の店の名産紹興酒を頼まない理由はありません。

  • 細長い金属容器の中身は紹興酒です。白い甕からこの容器に移されたのでしょう。Myちゃんのお酌では、つい、昼から小宴会になりそうです。

    細長い金属容器の中身は紹興酒です。白い甕からこの容器に移されたのでしょう。Myちゃんのお酌では、つい、昼から小宴会になりそうです。

  • 色々な郷土料理を魯迅先生を偲びながら紹興酒で食しました。

    色々な郷土料理を魯迅先生を偲びながら紹興酒で食しました。

  • 初めて食べる郷土料理が卓上に並びました。魯迅先生を偲ぶに相応しい、Enちゃんのメニュー選びでした。

    初めて食べる郷土料理が卓上に並びました。魯迅先生を偲ぶに相応しい、Enちゃんのメニュー選びでした。

  • 引続いて何種類かの料理を紹介しておきます。最初に豆腐料理です。

    引続いて何種類かの料理を紹介しておきます。最初に豆腐料理です。

  • 綺麗なセットの鍋料理です。赤、白、黄、緑と彩り鮮やかです。

    綺麗なセットの鍋料理です。赤、白、黄、緑と彩り鮮やかです。

  • 白い壁に描かれた「魯迅記念館」の揮毫です。達筆すぎてサインが読み取れません。間違い覚悟で読み解いたの文字が「周恩来題」です。しかし、記念館の建設時期と周恩来氏の没年との間に疑問も残りました。

    白い壁に描かれた「魯迅記念館」の揮毫です。達筆すぎてサインが読み取れません。間違い覚悟で読み解いたの文字が「周恩来題」です。しかし、記念館の建設時期と周恩来氏の没年との間に疑問も残りました。

  • 制服を着こなした検札の方にお願いして、記念撮影に収まってもらいました。瞬間、笑顔が無くなって、固まってしまいました。

    制服を着こなした検札の方にお願いして、記念撮影に収まってもらいました。瞬間、笑顔が無くなって、固まってしまいました。

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2004春、中国旅行記6

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