JOOPさんへのコメント一覧全24件
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到着ロビーで
ATMで両替はUSDかイラクディナールですか?また、日本円から両替は可能ですか?RE: 到着ロビーで
到着ロビーのATMですが、イラクディナールで出てきました。ただ3台のうち、手持ちの銀行キャッシュカード(Plus/Cirrus)を使えたのは1台だけで、ショッピングモールにあったATMは、VISA/Master系のみ対応のものでした。
両替屋さんは利用していないのでよくわかりませんが、やはりある程度のUSDキャッシュを持って行かれた方が、安心なのではないでしょうか。
(私の場合、レンタカーを借りる際、500ドルの現金をいますぐデポジットするよういわれ慌てましたので。)
また3年前の情報で恐縮ですが、街中でATMはほとんど見かけませんでした。2019年01月22日16時48分 返信するRe: 到着ロビーで
ありがとうございます(*´ω`*)
とても貴重なアドバイスを頂きました。
ホテルはUSDでの支払いと記載されていたので、ホテル代より多めにUSDを持参致します。
タクシーなどはイラクディナールで大丈夫ですよね?
ショッピングモールではイラクディナールでしたか?
お手数おかけしますがまた、詳細教えて頂きだければ有難いです2019年01月23日11時09分 返信するRE: Re: 到着ロビーで
返信ありがとうございます。箇条書きになってしまい申し訳ありませんが、わかる範囲で書いてみますね。
・一般のタクシーは、ディナールでの交渉制でしたが、(利用していないので不確かですが)白色の空港タクシーは、ドルの固定料金制だったかもしれません。
・私の泊まったホテルもドル建ての料金表示でしたが、クレカ払いも可だったのでたすかりました。(旧市街の安宿系や地方のホテルは、キャッシュオンリーかもしれませんが)
・(記憶があいまいなのですが)ショッピングモールの家電製品などは、ドル建ての価格表示だったような気がします。またモールでクレカ払いしようとすると、「カード手数料分上乗せされるけどいい?」ときかれました。
・というわけで、以上を勝手にまとめると、ATMもクレカの使える店(モールの一部のテナントでは使えないといわれました)も少ないけど、たとえドル表示でもディナールでの支払いを拒否されることは少ないかなという感じでした。(あくまで個人の感想ですがw)2019年01月23日12時55分 返信する -
素晴らしい
こんにちわ
ateruiです素晴らしいですねぇ😁
陸路で越境してウラジオストクだなんて
私にはできないですわ
感動しました!
久しぶりにお会いしたいですねぇ😁 -
北オセチアに達しました。
joopさん、こんにちは。
8日からダゲスタン共和国、チェチェンときていま北オセチア共和国のウラジカフカスにいてます。
カヒブは素晴らしかったですよ!ガムストリにはいってませんが、どうも旧型ラーダでもいけるみたいです。
チェチェンも山岳部の観光も行けるようでした。チェチェンのグロズヌイからホテルで5000円くらいでチャーターして行けたようだったので、もう少しリサーチしておけばよかったと後悔しています。
これこらエギカルにいってきますが、如何せん8日から天気が悪くそちらの方が心配です。今日も予報で雨となってます。2018年08月11日13時04分返信するRE: 北オセチアに達しました。
天候以外は、全て順調なようで安心しました。
ツェイ渓谷のとんでもない山奥の悪路でも、地元民の古いラーダは登って行きましたし(うちのタクシードライバーは、もうこれ以上無理といって諦めてました)、ラーダは意外に侮れないですよね。
雨といえば、ウラジカフカスで突然のスコールにあったのですが、雨が止んでも全然道路から水が排水されなくて、ロシア地方都市のインフラ整備は、まだまだ先が長いなとも思ったりしました。
今日はエギカルからダルカフスまで、東に西にまわられるこの旅のハイライトの日でしたね。
早くも旅行記が待ち遠しいので、早めによろしくお願いします。(笑)2018年08月11日17時45分 返信するRE: RE: 北オセチアに達しました。
さきほど山からもどってきました。
イングーシには残難ながら入れませんでした。両国の紛争による感情論があるようです。でもフィアグドンは本当に素晴らしかったです。エギカルに行かなくてもフィアグドンで正直満足しちゃいました。
イングーシについてはまた次回行くことがあればチャレンジしようとおもいます!
2018年08月11日22時55分 返信するRE: RE: RE: 北オセチアに達しました。
いまはフィアグトンに入れるのですね!私のときは許可証が必要で入れなかったので、羨ましい限りです。
イングーシのDzheyrakhskyですが、トリップアドバイザーのページに、ロシア語以外の訪問者の書き込みがなかったので、ハードル高そうとは思っていましたが、世界中を歩いてこられたworldspanさんでもダメでしたか。拒否体験って、なんか自分のことのように落ち込んじゃいますね。
明日はベスランの体育館から空港でしたよね。お気をつけて旅をお続け下さい。
せめて入口の写真だけでも・・・
http://gazetaingush.ru/obshchestvo/pri-vezde-v-dzheyrahskiy-rayon-nuzhno-imet-pasport2018年08月12日00時20分 返信するRE: RE: RE: RE: 北オセチアに達しました。
ジェイラフまでは行けるそうなんですが、ジェイラフには実際なにもなく、行く意味がないと言われてしまいました。そうなんです。エギカルがダメでもせめてグリやエルジ迄でもと頼んだんですが、情報もないのでごめんなさい!と言われてしまいました。
紛争が絡むと難しいですね。でももしウラジカフカスからナズランやマガスに行く場合って、タクシーはいってくらないのでしょうか??うーん。。2018年08月12日01時26分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: 北オセチアに達しました。
ドライバーさんに二の足を踏まれちゃったのですか。使ったことないんですが、Yandex Taxiのサイトで調べたら、ナズランまで416ルーブルって出てきましたよ。2018年08月12日01時50分 返信する -
ダゲスタン共和国
Joopさん、こんにちは。
8月7日に、いよいよ、北カスカスに向けて出発します。出発当日に羽田と成田の乗継時間が3時間しかないのでかなり不安です。
ダゲスタン共和国では、悩んだ末、カヒブとデルベントに行くことにしました。ホテルはセントラルというホテルで、空港からカヒブ→デルベント→マハチカラと行ってくれランチ付で200$で組んでもらうことにしました。ガムストリもとても魅力に感じましたが、カヒブは歴史がある町で、ガムストリのような廃墟やイングーシのエギカルのような塔も残っているみたいなので、こちらにしました。ただガムストリ同様に、とてもいきにくそうです。
イングーシについては、ウラジカフカスのホテルに問い合わせてみると1000から1500ルーブルでタクシーでエギカルまでは行けるようでした。ただホンマにいけるかどうかは、わかりません。
とりあえずチャレンジしてみます。
worldspan2018年07月25日08時57分返信するRE: ダゲスタン共和国
ご出発まで早いもので二週間きりましたね。最近は北カフカスの日本語情報や旅行記もたまにみかけるようになりましたが、さすがにカヒブやエギカルは英語情報ですらないという・・・(カヒブを英語でググってみてら、天気予報しかでてこないとかw)
カヒブの写真をみてみると、北コーカサスのいいところがギュっとつまったような場所でこれはなかなかよさげですね。
グルジア軍道を南下するとき、バスからChmiの左手に一瞬検問所が見えたのですが、ものものしい雰囲気で警察車両がとまっていたりして、たぶんここを越えた日本人はまだいないんじゃないかと、そんな凄いことにチャレンジされるworldspanさんはやはりただものじゃないですね。
ではお気をつけて(特にFSBにはw)、北カフカスの人たちはあまり観光客ズレしていないと思うので、いい旅になることを願っております。2018年07月25日18時40分 返信する -
トーマス教会なつかしいです
音楽に造詣が深いんですね。私はうといのですが、トーマス教会でクリスマスイブにクリスマスオラトリオを聞いたことがあります。通常のコンサートチケットは東マルクで買えたのですが、このときはどうしても手に入らなくて、西マルクの力にモノを言わせて手に入れました。演奏の良し悪しを聞き分ける耳はもっていませんが、少年合唱団の歌声、テオ・アダムのバリトン?が印象的でした。
それにしてもベルリンのStaatsoperなど日本円にすれば実質数百円でオペラやバレエが楽しめたので、気が向くと当日券を買って観たものです。工場の建設現場からやってきて歌劇場の席につくと別世界というのが、オペラの筋がわからなくてもリラクゼーション効果が抜群でした。RE: トーマス教会なつかしいです
一度は行きたい(年末なので実際は絶対無理)と思っている、クリオラの季節にトーマス教会に行かれたのですね、素晴らしいです。
1985年はバッハ生誕300周年だったので、特に盛り上がったのではないでしょうか。
ところで、まさにfalanさんがお聴きになったWOの指揮者がIMだったそうで、合唱団の少年やその両親についての情報を流していたことが統一後わかりました。
ただ人間的にはとてもいい人だったらしく、死ぬまで教え子の少年たちから慕われていたとう話もあったりして、そんないい人をむりやり協力者に引き込んでしまうStasiさんはやはり怖いですね。
ライプツィヒでは2時間並べは大体当日券が買えたのですが、一部人気のものはダメでした。後でゲヴァントハウスの人に言ったら、「言ってくれれば取ってあげたのに」といわれましたが、やはりコネとカネ(西マルク)がものをいう社会だったということでしょうか?2018年05月25日04時40分 返信するRE: RE: トーマス教会なつかしいです
思い出しました。西ドイツ人の通訳に誘われたのですが、生誕300周年だからこんなチャンス逃しちゃだめ、みたいなことを言われました。私は「へぇー?」みたいな感じで。
Stasiのことは知ってるつもりでしたが、国民の7人に1人でしたっけ?IMがあれほどたくさんいたというのは、本当に驚きでした。
運転手や宿舎の管理人さんもいい人で仲良くしてました。監視の対象になっているのは私たちも知っていましたし、彼らとしても外国人の動静を記録するのは、それほど良心が痛まなかったでしょう。でも友人や家族のことを密告しないといけなかったIMたちは、精神的にたいへんだったでしょうね。
ゲヴァントハウスにお知り合いがいるなんて、JOOPさんも音楽家でいらっしゃるですか。それなら年末は忙しいですよね。
西マルクはいざというときに役に立ちました。今思い返すと、思い上がった振る舞いをしていたのではないかと恥ずかしくなりますが。2018年05月25日18時22分 返信する -
ホテル・ウンター・デン・リンデン
週末ベルリンに遊びに行くときは、たいていホテル・ウンター・デン・リンデンに泊まっていました。会社がお金を出してくれるときはメトロポールとか5つ星ホテルに泊まれましたが。ホテル・ウンター・デン・リンデンは4つ星だったので、東ドイツ内で働いてる就業証明書を見せると東マルクで泊まれたのです。
検問所内にカメラを置き忘れて翌日取りに行くなんて、なかなかできない体験、大物ですね。初めていらっしゃったときではないですよね。何度も行き来しているうちに気がゆるんで、ということでしょうか。RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
あまり年齢的にはかわらないと思いますが、社会人と学生の大きな違いに愕然ですね。会社のお金でメトロポール(フリードリッヒ通りでしたっけ?)とか、羨ましすぎます。
私にとってインターホテルは、トイレを無料で借りるだけの場所で、帰りにインターショップでコーラとポテチを買って帰るみたいな経験しかないもので・・・
で実際泊まったのは、強制両替の額と同じ一泊25DMのユースホステルで、西側の人間が、東側の学生と交流するのを避けるためか、いつも4人部屋の一人利用でした。
ただユースは大抵郊外の不便な立地だったので、2度目の渡独のときは、観光ビザじゃなくて、知人訪問ビザにしました。
今考えると、泊めてくれた家にどれだけ迷惑をかけたのかが気になり、falanさんのようにシュタージ関連の情報開示請求とか機会があればやってみたい気もしました。2018年05月21日12時50分 返信するRE: RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
ドイツはユースホステル発祥の地だから、東にもあったんですね!
1度泊まってみたかったです。貴重な体験をされてますね。
ホテル・ウンター・デン・リンデンは一泊100Mくらいだったかな。
西ベルリンで両替した東マルクを使えば、実質20DM以下で泊まれたので、もっと安い宿を探すという発想がありませんでした。
当時は日本企業の景気がよい時期で、下請け、孫請けの作業員もビジネスクラスで呼び寄せていました。フリードリッヒStr.のメトロポールで泊まった後、ホテルのボルボでアイゼンフュッテンまで帰ったりもしました。ホーネッカーをはじめ党の要人が乗る公用車がボルボだったので、交差点では私たちが通れるよう警官が交通整理をしてくれたり。
東ドイツの暮らしを気に入ってない人も多かったですが、私は居心地がわるくはなかったです。
私の知っている方で、東ドイツに住んだことはないけど、何回か知人のところに泊めてもらったという方が情報開示してもらったら、報告書が見つかったそうです。
JOOPさんも請求してみるとよいのではないでしょうか。2018年05月22日19時15分 返信するRE: RE: RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
遅くなってすいません。実質20DM以下でインターホテルに泊まれたなんて、25DM払って辺鄙なYHに行かされた私の立場はどうなるんでしょうね。(笑)駐在さんの特権ですね。
70年代終わりの旅行ガイドには、西マルクの価値は東マルクの3倍とあって、その後falanさんの時で5倍、私の滞在時(87-89年)が7倍と急に悪く(良く?)なっているのには驚きました。
1DM=7M=70JPYなので、当時1マルク10円と考えればよく、計算しやすかったです。
また、西ベルリンで交換した東マルクには、同じくとても助けられました。100円程度で乗れるので、帰宅はいつもタクシーで、電車で寝過ごして50?先までいってしまったときもタクシーで500円くらいで戻ってこれたり、今ではホント考えられない楽な生活ができました。
それに、インターショップでの買い物や、西ベルリンへの買い出しなど、今考えても人生で唯一特権階級的な暮らしができた時期だなと思ったりしてます。(笑)
特権階級的思い上がりから、西ベルリンでトイレットペーパーをライプツィヒの家族へのお土産に買ってきたりして、今考えるとなんと嫌味なことをしてしまったのかと・・・まあ今では東ドイツのピンクの硬いトイレットペーパーの方がレアで懐かしかったりしますが・・・
それと、インターショップで使える金券というのはfalanさんの旅行記ではじめて知りました。どこで手に入れるのでしょうか?
ライプツィヒには、デリカートという海外食品が東マルクで買えるショップがあったのですが、品ぞろえが何かおかしくて、日本製品だとSBの山椒が大量に積まれていたりして、これどっかの売れ残りなの?感が漂っていました。
例の情報開示の件で、報告書が見つかった方がいるというお話しですが、私の場合、ホームステイ先の家族の誰かがIMだった気がしてならないのです、なので開示請求することがとても怖くて・・・2018年05月25日04時30分 返信するRE: RE: RE: RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
87年から89年までいらっしゃったのですか。私が84年から86年ですから入れ替わりですね。89年のライプツィヒに私もいたかったです。
私にとっても特権的な生活ができた唯一の時期で、唯一のモテ期でした。西へのあこがれが強かったおかげです。IMはいなかったと信じたい。
果物、ウォークマン、コーヒーメーカー、いろいろなものを西ベルリンから運び込みました。モノで人の歓心を買おうとするのはみっともないことではありますが。
なかには、モノを欲しがる人たちといっしょにされたくないから、何もいらないと言ってくれる人もいて、そういう人には一番いいものを買ってきたくなる、ようするに簡単に転がされてしまう、若かったなあ。
インターショップで使える金券はForumscheckといって、1979年に外貨を手元に置いておくことを禁じられた東ドイツ人が、西の親戚からもらったお金などを銀行で交換してもらったものです。東ドイツ人はインターショップで外貨で直接買い物ができないことになっていました。だんだんゆるくなって80年代後半にはあまりうるさく言われなくなったようですが。
それ以外にも工場で優秀労働者として表彰されたりすると褒美にもらえたとも聞いています。いまドイツ語のWikiを見たら、そのことは書いてないので、もしかしたら私の勘違いかもしれません。
海外食品が東マルクで買えるショップは赴任当初、交代で料理をつくっていたので、よくお世話になりました。東マルクをふんだんに持っている私たちが買い占めてしまうので、地元の人には迷惑だったでしょうね。
「ホームステイ先の家族の誰かがIMだった気がしてならない」
JOOPさんはいまもその家族と心がつながっているんですね。そんなつよいきずなで結ばれているなんて素晴らしいです。私はもう今なら、仲良くしていた人がIMだったと知っても「あなたもたいへんでしたね」とねぎらいたいくらいで、それほどショックは感じないかな。私が東ドイツ人で権力が巧妙に近づいてきたら、拒否できる自信がないですし。2018年05月25日20時15分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
紛らわしい書き方ですいません、87年と89年にそれぞれ1カ月程度いただけでした。当時買物や観光はできたとしても、ドイツ語が全く喋れなかったので、たまに街中で話しかけられても、現地の人とコミュニケーションがとれなかったのが、今思い返しても残念な思い出です。そんなわけで現地の情報は(英語の通じる)ホームステイ先の家族にほぼ頼っていました。
東ドイツでは、ポーランドやチェコと比べても圧倒的に英語が通じなかった気がするのですが、なぜなんでしょうね?東ドイツ人がバケーションで行く東欧諸国でもドイツ語が通じてしまうから、外国語習得なんて必要なかったのでしょうかね。
falanさんはDDR駐在以外にも、ゲーテで学ばれ、4年のBRD滞在中に美人の奥様と出会われたりと凄い経歴の持ち主だったのですね。
私もドイツ語初級コースに通ってみたいと思い、当時西のゲーテにあたる東のヘルダーというところに資料請求をして、それが郵便でやってきたころ、あっという間に壁が崩壊して、その計画は頓挫してしまいました。
英語通用度以外にも、東ドイツでは「change money?」とか言って街中で闇両替を求めてくる人にまず出会わなかったのも、ポーランドやCSSRとの違いでしたね。外貨は両替で手に入れるものでなくて、西の親戚からもらうものと思っているのかとも思いましたが、falanさんのように同僚とかと仲良くなったりすると依頼される場合もあるのですね。
思い出してきました。おしゃる通り、果物・ウォークマンとかはインターショップで扱ってませんでしたね。ホストファミリーへのお土産に秋葉原で220V対応のレコーディング・ウォークマンを買っていったなぁとか。ウォークマンがないので、若い人の中には、電車にでかいラジカセを持って乗ってくる人もいたなぁとか。
>何もいらないと言ってくれる人もいて、そういう人には一番いいものを買ってきたくなる
うちのホストファミリーもそんな感じの人でした。「明日西ベルリンに行くけど何か買ってくるものある?」ときいても「別にないよ」と答えるような。
西の親戚がお金持ちそうだったし、自身もたまに西ベルリンやウィーンで演奏して多少の外貨を稼ぐこともできた人だったからかもしれませんが。
オスタルギーの流れで、ソ連東欧の建築物や製品が一部人気のようですが、なぜか私個人的には当時も今もあまりそういうものに関心がありませんでした。かっこいい(まともな)物をかうなら西ベルリンで、かわいい物を買うならプラハみたいな感覚があって、お土産に買った東ドイツ製品はイエナグラスくらいだったような。なにせカール・ツァイスを知らなかったのでw
ただ東ベルリンの共和国宮殿やアイゼンヒュッテンの壁画など、DDR時代のものを積極的に壊さなくてもいいのでは(どちらかというと保存しろよ)という思いはあったりしますが。
>東マルクをふんだんに持っている私たちが買い占めてしまう
だから何に使うかわからない山椒だけが大量に売れ残っていたのですねw
Forumscheckの情報ありがとうございます。そういえばお金以外のものを使っている人がいたような記憶がかすかによみがえってきました。
先程ちょうど池上彰さんの番組で、Stasiの活動を記録したフィルムをやっていましたね。その後に紹介されたモサドの犯行に比べればかわいいものでしたw2018年05月27日04時55分 返信する -
「さくら」行ったことがあります
なつかしいです。「さくら」で食事をしたあとホテルの中のボーリング場でいっしょに行った同僚たちと遊んだのを思い出します。ボーリングといってもピンの上にヒモがついている簡易式でしたが。
鹿島はドレスデンのベルビュー、ベルリンのグランドと合わせて3つもホテルを建設してますね。どれも今も現役なのは立派です。インターホテルの旗艦店メトロポールは影も形もなくなってしまったのに。
「ズールの寿司屋」に行かれたのですね。うらやましいです。一目でものぞいてみたかったです。当時はその店のことを知りませんでした。もしかしたら誰かに日本料理店があるということを聞いたかもしれませんが、そんなユニークな店だとは気がつかず聞き過ごしてしまったのかも。
すてきな旅行記ありがとうございます。RE: 「さくら」行ったことがあります
コメント残していただきありがとうございます。観光ビザの取得でさえ簡単ではなかった東ドイツに、何年も駐在されていた方がおられたとはとても驚きました。なかなか経験できないことですよね。今でこそオスタルギストの間で有名なアイゼンヒュッテンシュタットですが、そんな町があること自体当時全く知りませんでした。
イエナで「あの大きな工場がカール・ツァイスだよ」と言われたとき、「なにそれ、おいしいの?」状態の反応をしてしまい、世界的に有名な光学機器メーカーと知ったのは、東独崩壊後何年も経ってからというくらい常識のない人間なので知らなかっただけかもしれませんが・・・2018年05月21日12時45分 返信する -
ダルガフス
Joopさん、
こんにちは。今年の夏ダゲスタン、チェチェン、イングーシ、北オセチアを回ろうと思ってるので、Joopさんよ旅行記を参考にさせていただきながら旅程を立てているところです。
私もウラジカフカスに宿泊し、ダルガフスには行こうと思っているのですが、タクシーを手配して、おいくら位したのかご教示頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。
worldspanRE: ダルガフス
有名な列車ジャック記の著者worldspanさんが、北コーカサスを再訪されるとのことで、旅行記が今からとても楽しみです!
ダルガフス行きのタクシーはホテルで呼んでもらったのですが、たしか2000か2500ルーブルだったような記憶があります。私の訪問時と比べると現在大幅なルーブル安(半額くらい)なので、タクシー代も変更されている可能性はあると思いますが。。。
その時のドライバーさんは教師の副業でタクシーもやっておられる方で、普通に英語でコミュニケーションできたのがとても有難かったです。
今年北オセチアに行かれた方の情報では、一日車を貸し切って(ダルガフス以外もまわって)70ユーロだったということです。
また北オセチアやチェチェンの山岳地帯の情報は、以前ここにコメントくださった、Kokatano Chihaさんの旅行記がとても詳しかった記憶があります。
ところで他力本願で大変恐縮ですが、worldspanさん程のお方なら、ロキトンネルの向こう側にも行けそうな気がするのですが、この際いかがでしょうか?2018年05月07日22時40分 返信するRE: RE: ダルガフス
早速のご返信有難う御座います。
また、チェチェンでの列車ジャックの旅行記を観ていただき有難うございます。カスカスに訪れるのはそれ以来のことなので、近年訪問されたJoopさんの知識と情報はとても助かります。
今回の旅ではモスクワからダゲスタンに飛び、空港でタクシーをチャーターし、打ち捨てられた村、ガムストリとデルベントに行き、その後はマルシュでグロズヌイ、そしてウラジカフカスといく計画を立てています。
ウラジカフカスでは、ここからイングーシのジェイラフやハムヒ、そして場所的には間反対に位置するダルガフスにもチャーターして回ろうかと思っており、かなりハードな行程で考えてます。
フィアグドンやジェイラフは現在一般観光客が入ることができるのか、不明瞭なのですが、チャレンジしてみようとおもってます。
ダルガフスまで意外と安くすむのですね!2018年05月08日23時40分 返信するRE: RE: RE: RE: ダルガフス
貴重な情報ありがとうございます。
何かのロシアのサイトでは2016年の情報としてフィアグドンやジェイラフも外国人の入境制限が解かれると書かれていたのでロシア大使館に確認したのですが、今のところ許可を取る必要な場所はないといわれたのですが、本当なのか不安が残ります。
ビザの取得については今回初めてロシアビザセンターを利用し、現在手続き中です。大使館の話では訪問先はすべて列挙するように言われ、ロシア政府が指定した町への訪問する場合は本国に照会しビザが下りるようです。その際通常よりも二週間時間を要するとのことなので、ビザが下りた段階で許可となるのかなーっとも思ってます。
いかんせん情報が少ないので本当に行けるのかなーって思っています。2018年05月09日23時18分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: ダルガフス
あっ、すいません!外国人の入境制限がなくなっていたのですか。大変失礼いたしました!
一応リンク先にご迷惑がかかると申し訳ないので、前レスは消しときました。
もしご不安が残るようでしたら、イングーシなどの各共和国観光委員会みたいなところに事前照会されておいた方がいいかもしれませんね。でわお気をつけて、よい旅を。
http://ingtourism.ru/2018年05月10日00時45分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: RE: ダルガフス
万一、外国人の入域制限がまだ「解除されていない地域」だった場合について、考えてみたのですが・・・
ロシア語全然わからないので(知っている単語はイクラとジャガイモだけですw)、的外れなことを書いているかもしれませんが、
許可の主体は、各地域を管轄するFSBになると思うので、VISA=PERMIT(ビザが下りた段階で許可となるのかなー)というのとはちょっと違うのかとも。。。(中国ビザとチベット入域許可証が別物であるように)
FSBさんに直接きいてみるのが、一番早いのかもしれませんが、
http://ps.fsb.ru/department.htm
私のようなロシア語全くできない人間には、旅行会社経由できいてみるしかないのかなとも思ったりしました。
https://caucasus-explorer.com/en/special-permits-in-caucasus/
It takes up to 60 days to get a border zone permit.
というのがちょっと心配だったりしますが。。。2018年05月10日17時25分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: ダルガフス
なるほど!FSBの管轄だと大使館に聞いてもわかんないですね!各共和国のFSBに問い合わせし、必要があればパーミッションをとる形になるのかもしれないですね!
それにしても面倒ですよね、これ。しかもロシア語のフォームに入力はロシア語が苦手な自分にとってはかなり面倒な作業です。Joopさんの頂いた情報をみると、ダゲスタンのガムストリですら必要なイメージですよね。。。テロリストとの区別するための管理だとはいえ、フォーマットを見ると憂鬱になってしまいます。
このエリアを旅する外国人はこりゃほとんどいなさそうな気がします。それにしても1日車をチャーターして70ユーロはかなりお手頃な価格ですね!2018年05月10日21時23分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: ダルガフス
度々申し訳ありません!ガムストリは、「国境地帯」にあたらないのか、ロンプラの掲示板に行ってきた人の話とかありましたね。どちらかというと、アクセスの悪さが問題みたいな。問題はイングーシのジョージア国境地帯でしょうか?
ところで、オセチアの車でイングーシの山岳地帯に入っても大丈夫なんですかね?(何の根拠もないですが)アルメニアのタクシーでアゼルバイジャンに入るくらいチャレンジングな感じもしますが・・・2018年05月11日01時33分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: ダルガフス
そうなんですよねー。イングーシと北オセチアの感情論でいうと、北オセチアからタクでイングーシに行くのはどうなんだろう、とはおもっているのですが、マガスやナズランからジェイラフに行くよりもウラジカフカスから目指した方がどう見てもちかいので、チャレンジのつもりでこのルートにしました。無理そうならあっさり引き下がるつもりです。
今回の旅はかなりタイトでこんな感じになります。
0807 KIX6:35 -HND 7:40
NRT10:40-DME15:00 JL
0808 VKO0:45 - MCX3:15 UT559
白タクで空港→ガムストリ→デルベントへ。
午前中にデルベント着。
午後にデルベント→マハチカラ
0809 MCX- Grozny
マルシュ利用
0810 Grozny- Nazran - OGZ
0811 早朝からジェイラフ、エギカル、その後方向の違うフィアグドン、ダルガフス
0812 前日行けなければ、早朝からダルガフス、そしてベスラン。
OGZ 13:55-DME16:20 S7 882
0813
0814DME17:10-
0815-NRT8:35
HND12:30-KIX13:30
ウラジカフカスを夕方出発するpobedaに乗り、その日に北オセチアのダルガフスにいくことを考えていたのですが、あまりにpobedaの評判が悪かったので、タイトなスケジュールが更にタイトになってしまいました。
ダゲスタン到着後もかなり欲張ってガムストリとデルベントに行くつもりですが、タクが午前中にデルベントに入るのが無理だと言えばガムストリを優先し、マハチカラにむかうつもりです。
2018年05月12日10時59分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: ダルガフス
おっしゃる通り、とてもタイトなご旅程ですね。最後のモスクワ予備日で調整されるのかと。。。
>チャレンジのつもりでこのルートにしました。
>無理そうならあっさり引き下がるつもりです。
私は(引きこもりなので)ほとんど旅の経験はないのですが、このお考えにはとても共感できました。
確実に目的地を訪れることを重視するなら、ナズランあたりの旅行会社に、車やガイドそれに許可証の手配まですべてアレンジしてもらうのが一番なのかもしれませんが、それじゃ面白みが全くないですもんね。
多少不確実なことにチャレンジしてこそ、旅のワクワク感やクリアした時の達成感も味わえたりするかもしれませんし、八方塞がりの状況に、突然救世主が現れる場合だってあり得ますからね。
それとガムストリですが、普通の空港タクシーで大丈夫なんですか?
there is no road (or at least no road that my taxi driver would drive on).
というのが、オフロード車ならOKなのか、もしくはそれすらダメで歩くしかないのかよくわからなかったのですが。
私の失敗談としては、発券後にJAL便をベスランまで通しのS7コードシェア便として買えば安かったのにと後悔しましたが、今は値段の開きとかはなさそうですかね。(Pobedaなんて知りませんでしたw)2018年05月12日23時20分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: RE: ダルガフス
pobetaはアエロフロートの子会社のLCCなんです。時間帯的にはウラジカフカスを夕方に出発するので、ダルガフスやフィアグドンに行きたかったのですが、あまりに乗りたくないような悪評ばかりだったので、少し早めのS7にしました。
マハチカラ国際空港でのタクシーピックアップでは4駆もあるのではないかと見立てているんです。昔であればボルガやラーダとかばっかでしたが、さすがにタクシーにもオフロード車もいるのではないかと思っています。いなければ、、、第二希望のデルベントに行ってみます。一体どのような旅になるのか、期待半分不安半分です。2018年05月13日23時09分 返信する