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今回はベルリンを通過しただけですが、壁のあった時代のことなど懐かしく思い出しました。

初海外は東ドイツだった

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2015/06/16 - 2015/06/16

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JOOPさん

今回はベルリンを通過しただけですが、壁のあった時代のことなど懐かしく思い出しました。

  • 音楽祭期間中のドイツや物価の高い北欧を廻るので、今回はカタール航空を使って節約。5万円台と格安でした。そんなわけで2001年以来のベルリン。

    音楽祭期間中のドイツや物価の高い北欧を廻るので、今回はカタール航空を使って節約。5万円台と格安でした。そんなわけで2001年以来のベルリン。

    ベルリン テーゲル国際空港 (TXL) 空港

  • 空港名と同じ「TXL」というバスに乗り中心部へ。<br /><br />新しくできた中央駅を過ぎると、旧東ドイツ地区にはいります。このブランデンブルク門の一本手前の通りは、当時オットー・グローテヴォール通りとよばれ、日本大使館もあったような記憶が・・・<br /><br />東ドイツでは、強制両替した日数分だけビザをくれるというシステムだったので、数日分ずつ両替していると、パスポートのページがどんどんビザで埋まってしまって、ここの大使館で増補をお願いしました。

    空港名と同じ「TXL」というバスに乗り中心部へ。

    新しくできた中央駅を過ぎると、旧東ドイツ地区にはいります。このブランデンブルク門の一本手前の通りは、当時オットー・グローテヴォール通りとよばれ、日本大使館もあったような記憶が・・・

    東ドイツでは、強制両替した日数分だけビザをくれるというシステムだったので、数日分ずつ両替していると、パスポートのページがどんどんビザで埋まってしまって、ここの大使館で増補をお願いしました。

    ブランデンブルク門 建造物

  • そしてバスは、ウンター・デン・リンデンへ。<br />沿道はなぜか建設ラッシュ。前回泊ったホテル・ウンター・デン・リンデンも取り壊され、ありふれた感じのビルにかわっていました。(2001年撮影)

    そしてバスは、ウンター・デン・リンデンへ。
    沿道はなぜか建設ラッシュ。前回泊ったホテル・ウンター・デン・リンデンも取り壊され、ありふれた感じのビルにかわっていました。(2001年撮影)

    ウンター デン リンデン 散歩・街歩き

  • シャウシュピールハウス(現Konzerthaus)<br /><br />海外で初めて行ったコンサートホール。その時は、RSOベルリンの演奏でプロコの古典交響曲を聴きました。翌日壁を超えて聴きに行ったベルリンフィルよりも印象に残るいい演奏会でした。

    シャウシュピールハウス(現Konzerthaus)

    海外で初めて行ったコンサートホール。その時は、RSOベルリンの演奏でプロコの古典交響曲を聴きました。翌日壁を超えて聴きに行ったベルリンフィルよりも印象に残るいい演奏会でした。

    コンツェルトハウス ベルリン 劇場・ホール・ショー

  • チェックポイント・チャーリー<br /><br />西側から検問所を撮っていたら、いつのまにか白線を越えてしまい、東側の警備兵に大声で怒鳴られ、このまま撃たれるのかと一瞬恐怖を覚えたり、検問所内にカメラを忘れてしまい、翌日取りに行くと、「X線かけといたから」といわれ、写真が全部ダメになってたり(Probstzellaの検問所でもX線攻撃されたw)、自国通貨持ち出し禁止というので、検問所横の銀行に素直に預けたら、引き出す時にあちこちたらい回しにされたり、西で交換した東マルク(西で交換すると7倍くらいになった)を靴下の中に忍ばせて見つからないように持ち込んだり・・・と当時の事をいろいろ思い出しました。<br /><br />それと面白いなと思ったのが、東ドイツの地図に載っていない地下鉄路線が、東ドイツの地下を走ってたこと。検問所近くのコッホ通りからフリードリヒ通りまで地下鉄に乗ったら、幽霊駅とかもありました。<br /><br />写真は2001年のものですが、もうこの頃は、どこに検問所があったのかよくわからないくらい街並が変わっていました。

    チェックポイント・チャーリー

    西側から検問所を撮っていたら、いつのまにか白線を越えてしまい、東側の警備兵に大声で怒鳴られ、このまま撃たれるのかと一瞬恐怖を覚えたり、検問所内にカメラを忘れてしまい、翌日取りに行くと、「X線かけといたから」といわれ、写真が全部ダメになってたり(Probstzellaの検問所でもX線攻撃されたw)、自国通貨持ち出し禁止というので、検問所横の銀行に素直に預けたら、引き出す時にあちこちたらい回しにされたり、西で交換した東マルク(西で交換すると7倍くらいになった)を靴下の中に忍ばせて見つからないように持ち込んだり・・・と当時の事をいろいろ思い出しました。

    それと面白いなと思ったのが、東ドイツの地図に載っていない地下鉄路線が、東ドイツの地下を走ってたこと。検問所近くのコッホ通りからフリードリヒ通りまで地下鉄に乗ったら、幽霊駅とかもありました。

    写真は2001年のものですが、もうこの頃は、どこに検問所があったのかよくわからないくらい街並が変わっていました。

    チェックポイントチャーリー 散歩・街歩き

  • 終点アレクサンダー広場に到着。<br />T-Mobileのショップがあったので、プリペイドSIMを購入。20ユーロ分くらい買ったので、北欧ローミングも大丈夫でした。

    終点アレクサンダー広場に到着。
    T-Mobileのショップがあったので、プリペイドSIMを購入。20ユーロ分くらい買ったので、北欧ローミングも大丈夫でした。

    アレクサンダー広場 広場・公園

  • 初めての海外旅行で最初に降り立った地、アレクサンダープラッツ。<br /><br />早速、向かいのDDRライゼビュローでホテルとビザの手配。青山にあったライゼビュローの日本人職員は、超感じ悪かったけど、ここ本部の職員は至って親切。<br /><br />そこへ「国境のフリードリッヒシュトラーセからここまで重いバックパックを担いで歩いて来た」と疲れ果てた表情の日本人学生登場。彼と一緒に一番安いホスピッツ(現Albrechtshof)というホテルを予約しました。

    初めての海外旅行で最初に降り立った地、アレクサンダープラッツ。

    早速、向かいのDDRライゼビュローでホテルとビザの手配。青山にあったライゼビュローの日本人職員は、超感じ悪かったけど、ここ本部の職員は至って親切。

    そこへ「国境のフリードリッヒシュトラーセからここまで重いバックパックを担いで歩いて来た」と疲れ果てた表情の日本人学生登場。彼と一緒に一番安いホスピッツ(現Albrechtshof)というホテルを予約しました。

    ウーラニアー世界時計 モニュメント・記念碑

  • 翌日は、彼とテレビ塔の展望レストランで食事。<br /><br />なぜ「東」に来たかという話題になって、彼は関西の大学でマル経のゼミにいるので、社会主義の「実際」の姿を見てみたいと思ったからといってました。これから「歩き方7」に載っている「東側」諸国を見てまわるそう。<br /><br />僕は、その時バッハの聖地巡礼とコンサートを沢山聴くために来たといったと思う。<br />初めて会った日本人だし、人柄もとてもいいヤツだったので、今でも印象に残ってる。

    翌日は、彼とテレビ塔の展望レストランで食事。

    なぜ「東」に来たかという話題になって、彼は関西の大学でマル経のゼミにいるので、社会主義の「実際」の姿を見てみたいと思ったからといってました。これから「歩き方7」に載っている「東側」諸国を見てまわるそう。

    僕は、その時バッハの聖地巡礼とコンサートを沢山聴くために来たといったと思う。
    初めて会った日本人だし、人柄もとてもいいヤツだったので、今でも印象に残ってる。

    テレビ塔 建造物

  • 一緒に東ベルリンを観光した後、彼は夜行列車でプラハへ発ち、自分はもう少し残るため、エゴン・シュルツという名前のユースホステルに向いました。

    一緒に東ベルリンを観光した後、彼は夜行列車でプラハへ発ち、自分はもう少し残るため、エゴン・シュルツという名前のユースホステルに向いました。

  • なんか胡散臭い土産屋w<br />Nationalitätenkennzeichenは、うちの車にも貼っています・・・愛の証としてwww

    なんか胡散臭い土産屋w
    Nationalitätenkennzeichenは、うちの車にも貼っています・・・愛の証としてwww

  • 帰りにアレクサンダープラッツを通りかかると、古いトラムがとまっていました。

    帰りにアレクサンダープラッツを通りかかると、古いトラムがとまっていました。

  • 1865年6月22日、ドイツ初の市電がブランデンブルク門・シャルロッテンブルク間を走ったということで、この日がちょうど150周年の記念日だったようです。

    1865年6月22日、ドイツ初の市電がブランデンブルク門・シャルロッテンブルク間を走ったということで、この日がちょうど150周年の記念日だったようです。

  • 電車が15分遅れるというので、一度下におりて一服。

    電車が15分遅れるというので、一度下におりて一服。

    ベルリン アレクサンダー広場駅

  • 通勤電車の中にも電源があって、仕事をしている人も。

    通勤電車の中にも電源があって、仕事をしている人も。

  • 東ドイツらしい雰囲気が続く車窓。<br />オフライン地図を見ながら乗っていたら、ベルリンが飛び出したような部分を通過したので、調べてみたら、Steinstückenという旧西ベルリンの飛地でした。一瞬だったので写真も撮れませんでしたが・・・

    東ドイツらしい雰囲気が続く車窓。
    オフライン地図を見ながら乗っていたら、ベルリンが飛び出したような部分を通過したので、調べてみたら、Steinstückenという旧西ベルリンの飛地でした。一瞬だったので写真も撮れませんでしたが・・・

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この旅行記へのコメント (6)

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  • falanさん 2018/05/20 14:35:54
    ホテル・ウンター・デン・リンデン
    週末ベルリンに遊びに行くときは、たいていホテル・ウンター・デン・リンデンに泊まっていました。会社がお金を出してくれるときはメトロポールとか5つ星ホテルに泊まれましたが。ホテル・ウンター・デン・リンデンは4つ星だったので、東ドイツ内で働いてる就業証明書を見せると東マルクで泊まれたのです。
    検問所内にカメラを置き忘れて翌日取りに行くなんて、なかなかできない体験、大物ですね。初めていらっしゃったときではないですよね。何度も行き来しているうちに気がゆるんで、ということでしょうか。

    JOOPさん からの返信 2018/05/21 12:50:24
    RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
    あまり年齢的にはかわらないと思いますが、社会人と学生の大きな違いに愕然ですね。会社のお金でメトロポール(フリードリッヒ通りでしたっけ?)とか、羨ましすぎます。
    私にとってインターホテルは、トイレを無料で借りるだけの場所で、帰りにインターショップでコーラとポテチを買って帰るみたいな経験しかないもので・・・
    で実際泊まったのは、強制両替の額と同じ一泊25DMのユースホステルで、西側の人間が、東側の学生と交流するのを避けるためか、いつも4人部屋の一人利用でした。
    ただユースは大抵郊外の不便な立地だったので、2度目の渡独のときは、観光ビザじゃなくて、知人訪問ビザにしました。
    今考えると、泊めてくれた家にどれだけ迷惑をかけたのかが気になり、falanさんのようにシュタージ関連の情報開示請求とか機会があればやってみたい気もしました。

    falan

    falanさん からの返信 2018/05/22 19:15:59
    RE: RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
    ドイツはユースホステル発祥の地だから、東にもあったんですね!
    1度泊まってみたかったです。貴重な体験をされてますね。
    ホテル・ウンター・デン・リンデンは一泊100Mくらいだったかな。
    西ベルリンで両替した東マルクを使えば、実質20DM以下で泊まれたので、もっと安い宿を探すという発想がありませんでした。

    当時は日本企業の景気がよい時期で、下請け、孫請けの作業員もビジネスクラスで呼び寄せていました。フリードリッヒStr.のメトロポールで泊まった後、ホテルのボルボでアイゼンフュッテンまで帰ったりもしました。ホーネッカーをはじめ党の要人が乗る公用車がボルボだったので、交差点では私たちが通れるよう警官が交通整理をしてくれたり。
    東ドイツの暮らしを気に入ってない人も多かったですが、私は居心地がわるくはなかったです。

    私の知っている方で、東ドイツに住んだことはないけど、何回か知人のところに泊めてもらったという方が情報開示してもらったら、報告書が見つかったそうです。
    JOOPさんも請求してみるとよいのではないでしょうか。

    JOOPさん からの返信 2018/05/25 04:30:43
    RE: RE: RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
    遅くなってすいません。実質20DM以下でインターホテルに泊まれたなんて、25DM払って辺鄙なYHに行かされた私の立場はどうなるんでしょうね。(笑)駐在さんの特権ですね。

    70年代終わりの旅行ガイドには、西マルクの価値は東マルクの3倍とあって、その後falanさんの時で5倍、私の滞在時(87-89年)が7倍と急に悪く(良く?)なっているのには驚きました。
    1DM=7M=70JPYなので、当時1マルク10円と考えればよく、計算しやすかったです。

    また、西ベルリンで交換した東マルクには、同じくとても助けられました。100円程度で乗れるので、帰宅はいつもタクシーで、電車で寝過ごして50?先までいってしまったときもタクシーで500円くらいで戻ってこれたり、今ではホント考えられない楽な生活ができました。

    それに、インターショップでの買い物や、西ベルリンへの買い出しなど、今考えても人生で唯一特権階級的な暮らしができた時期だなと思ったりしてます。(笑)
    特権階級的思い上がりから、西ベルリンでトイレットペーパーをライプツィヒの家族へのお土産に買ってきたりして、今考えるとなんと嫌味なことをしてしまったのかと・・・まあ今では東ドイツのピンクの硬いトイレットペーパーの方がレアで懐かしかったりしますが・・・

    それと、インターショップで使える金券というのはfalanさんの旅行記ではじめて知りました。どこで手に入れるのでしょうか?
    ライプツィヒには、デリカートという海外食品が東マルクで買えるショップがあったのですが、品ぞろえが何かおかしくて、日本製品だとSBの山椒が大量に積まれていたりして、これどっかの売れ残りなの?感が漂っていました。

    例の情報開示の件で、報告書が見つかった方がいるというお話しですが、私の場合、ホームステイ先の家族の誰かがIMだった気がしてならないのです、なので開示請求することがとても怖くて・・・

    falan

    falanさん からの返信 2018/05/25 20:15:18
    RE: RE: RE: RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
    87年から89年までいらっしゃったのですか。私が84年から86年ですから入れ替わりですね。89年のライプツィヒに私もいたかったです。

    私にとっても特権的な生活ができた唯一の時期で、唯一のモテ期でした。西へのあこがれが強かったおかげです。IMはいなかったと信じたい。
    果物、ウォークマン、コーヒーメーカー、いろいろなものを西ベルリンから運び込みました。モノで人の歓心を買おうとするのはみっともないことではありますが。
    なかには、モノを欲しがる人たちといっしょにされたくないから、何もいらないと言ってくれる人もいて、そういう人には一番いいものを買ってきたくなる、ようするに簡単に転がされてしまう、若かったなあ。

    インターショップで使える金券はForumscheckといって、1979年に外貨を手元に置いておくことを禁じられた東ドイツ人が、西の親戚からもらったお金などを銀行で交換してもらったものです。東ドイツ人はインターショップで外貨で直接買い物ができないことになっていました。だんだんゆるくなって80年代後半にはあまりうるさく言われなくなったようですが。
    それ以外にも工場で優秀労働者として表彰されたりすると褒美にもらえたとも聞いています。いまドイツ語のWikiを見たら、そのことは書いてないので、もしかしたら私の勘違いかもしれません。

    海外食品が東マルクで買えるショップは赴任当初、交代で料理をつくっていたので、よくお世話になりました。東マルクをふんだんに持っている私たちが買い占めてしまうので、地元の人には迷惑だったでしょうね。

    「ホームステイ先の家族の誰かがIMだった気がしてならない」
    JOOPさんはいまもその家族と心がつながっているんですね。そんなつよいきずなで結ばれているなんて素晴らしいです。私はもう今なら、仲良くしていた人がIMだったと知っても「あなたもたいへんでしたね」とねぎらいたいくらいで、それほどショックは感じないかな。私が東ドイツ人で権力が巧妙に近づいてきたら、拒否できる自信がないですし。

    JOOPさん からの返信 2018/05/27 04:55:32
    RE: RE: RE: RE: RE: ホテル・ウンター・デン・リンデン
    紛らわしい書き方ですいません、87年と89年にそれぞれ1カ月程度いただけでした。当時買物や観光はできたとしても、ドイツ語が全く喋れなかったので、たまに街中で話しかけられても、現地の人とコミュニケーションがとれなかったのが、今思い返しても残念な思い出です。そんなわけで現地の情報は(英語の通じる)ホームステイ先の家族にほぼ頼っていました。

    東ドイツでは、ポーランドやチェコと比べても圧倒的に英語が通じなかった気がするのですが、なぜなんでしょうね?東ドイツ人がバケーションで行く東欧諸国でもドイツ語が通じてしまうから、外国語習得なんて必要なかったのでしょうかね。

    falanさんはDDR駐在以外にも、ゲーテで学ばれ、4年のBRD滞在中に美人の奥様と出会われたりと凄い経歴の持ち主だったのですね。
    私もドイツ語初級コースに通ってみたいと思い、当時西のゲーテにあたる東のヘルダーというところに資料請求をして、それが郵便でやってきたころ、あっという間に壁が崩壊して、その計画は頓挫してしまいました。

    英語通用度以外にも、東ドイツでは「change money?」とか言って街中で闇両替を求めてくる人にまず出会わなかったのも、ポーランドやCSSRとの違いでしたね。外貨は両替で手に入れるものでなくて、西の親戚からもらうものと思っているのかとも思いましたが、falanさんのように同僚とかと仲良くなったりすると依頼される場合もあるのですね。

    思い出してきました。おしゃる通り、果物・ウォークマンとかはインターショップで扱ってませんでしたね。ホストファミリーへのお土産に秋葉原で220V対応のレコーディング・ウォークマンを買っていったなぁとか。ウォークマンがないので、若い人の中には、電車にでかいラジカセを持って乗ってくる人もいたなぁとか。

    >何もいらないと言ってくれる人もいて、そういう人には一番いいものを買ってきたくなる
    うちのホストファミリーもそんな感じの人でした。「明日西ベルリンに行くけど何か買ってくるものある?」ときいても「別にないよ」と答えるような。
    西の親戚がお金持ちそうだったし、自身もたまに西ベルリンやウィーンで演奏して多少の外貨を稼ぐこともできた人だったからかもしれませんが。

    オスタルギーの流れで、ソ連東欧の建築物や製品が一部人気のようですが、なぜか私個人的には当時も今もあまりそういうものに関心がありませんでした。かっこいい(まともな)物をかうなら西ベルリンで、かわいい物を買うならプラハみたいな感覚があって、お土産に買った東ドイツ製品はイエナグラスくらいだったような。なにせカール・ツァイスを知らなかったのでw
    ただ東ベルリンの共和国宮殿やアイゼンヒュッテンの壁画など、DDR時代のものを積極的に壊さなくてもいいのでは(どちらかというと保存しろよ)という思いはあったりしますが。

    >東マルクをふんだんに持っている私たちが買い占めてしまう
    だから何に使うかわからない山椒だけが大量に売れ残っていたのですねw
    Forumscheckの情報ありがとうございます。そういえばお金以外のものを使っている人がいたような記憶がかすかによみがえってきました。

    先程ちょうど池上彰さんの番組で、Stasiの活動を記録したフィルムをやっていましたね。その後に紹介されたモサドの犯行に比べればかわいいものでしたw

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