2026/05/21 - 2026/05/21
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砂布巾さん
1943年4月19日~5月16日 ワルシャワ・ゲットー蜂起(ユダヤ人、ポーランド)
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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戦前のワルシャワは人口の30%をユダヤ人が占め、ニューヨークに次いで多くのユダヤ人が住む都市だった。1940年10月12日にユダヤ人を隔離するためゲットーをつくる法令が出され、市内の2%強にしか満たない地域に多くの人々が押し込められた。11月16日にゲットーが封鎖されると、飢えと病気が蔓延していた内部の状況は一層劣悪になった。ナチスの目的はクリーン・バイオレンス、ユダヤ人の人為的な餓死だった。
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1942年夏には30万人のユダヤ人が集められ、トレブリンカ絶滅収容所に移送された。ユダヤ人評議会議長チェルニアクフは住民の絶滅に協力することに絶望して、移送が始まった翌日の7月23日に自ら命を絶った。後述するコルチャック先生と子どもたちが移送されたのは8月6日のことだった。ゲットー内部の人口は大幅に減ったが、移送は止まなかった。絶望的な状況の中、過越祭2日目のこの日、蜂起が始まった。英雄的な戦いによりドイツ軍は2度も後退した。しかし保有する兵器の量に差があっては勝ち目もなく、1ヶ月近くに及んだ蜂起は結局鎮圧された。
*2001年には無かったユダヤ博物館 訪問した火曜は休館日だった -
*地下組織Zegota(ユダヤ人援助評議会)を追悼する碑 1942年12月に亡命政府の支援を受けて結成された
シュピルマンをモデルに2002年に公開されて話題を呼んだ「戦場のピアニスト」には、ワルシャワ・ゲットーにおける人々の暮らしぶりが生々しく描かれている。彼は1年後、ゲットーの外でもう1つの蜂起であるワルシャワ蜂起も経験している。 -
*ワルシャワ・ゲットーの概念図
クロード・ランズマン監督の映画「ショアー」(1985年 ヘブライ語で「絶滅」)は、インタビューによって構成される9時間半の大作で、第Ⅱ部後半はワルシャワ・ゲットーがテーマになっている。ポーランド亡命政府の密使ヤン・カルスキ氏が2人のユダヤ人指導者に案内されてゲットーを訪問した時の回想の一部を、作品社から刊行されている本から紹介する。 -
*年号からしてゲットー関連の記念碑と考えて間違いない
「ブンド(労働者総同盟)のリーダー、例のポーランド貴族が、突然別人のようになってしまいました! 私は彼の横を歩いていたのに、彼はまるでゲットーのユダヤ人のように打ちひしがれ、背をまるめた姿勢になっていました。明らかにこれこそ彼の本性であり、ゲットーこそ彼の世界だったのです。いやあれはね、もう世界とは言えませんでした。人間の姿をしていなかったのですから。あそこに制服を着たドイツ兵が歩いてくる。彼らが通り過ぎるまで、皆恐怖にこわばります。すべての動きが止まり、物乞いする声も聞こえなくなります。ドイツ兵にはただ軽蔑の表情が浮かぶのみ。こう言っているようです。『どう見たってこいつらは汚らしい人間以下の存在だ! 人間なんかじゃない』」。 -
*Memorial Site
カルスキ氏が35年間封印してきた過去の記憶を懸命に思い起こしながら、こたえている姿が印象的だ。氏にとってもゲットーは想像を絶する世界だったのだ。 -
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*ユダヤ人の移送の中心となったウムシュラークプラッツ ここからトレブリンカやマイダネクといった絶滅収容所に送られた 静かな記憶の場として敢えて小さく作られている
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*黒は「死」を暗示している
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*内部には約400万人の内代表的なユダヤ人の姓が刻まれている
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*煉瓦はゲットーの壁を象徴するもの
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*こちらはワルシャワ蜂起に関する記念碑 2つの蜂起は地域によっては重なっている部分もあった
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記録を残したエマヌエル・リンゲルブルムに関する逸話を紹介しておきたい。
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「ドイツ軍の侵攻当時、ジュネーブにあった少壮の歴史家リンゲルブルムは、これから起こる歴史的出来事の証人としての使命を自覚し、ワルシャワへの帰還を選んだ。かくしてこの同時代史の記録は、それを生きた者によって、それを記さなければならないと信じた者によって記された。ここにはゲットーの歴史と生活のすべてが、人間の偉大さと卑小さのすべてが、完全なリアリティをもって映し出される。このノートは、リンゲルブルムの手によって、ゲットー蜂起直前に地中深く埋められ、戦後の廃墟から1946年と1950年の2回にわたって発掘された。リンゲルブルム自身は妻と子とともに1944年3月に処刑されたが、彼の見たものは世界にとって忘れえない記憶の一部となったのである」。(みすず書房「ワルシャワ・ゲットー」解説より)
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戦後西ドイツは自ら全ドイツ民族を代表する国家であるとして、ソ連を除く東ドイツ承認国とは国交を結ばないハルシュタイン原則を採用していたが、1960年代後半から方針を転換。1970年12月にポーランドと国交を回復した。その際、以前旧西ベルリン市長でもあったブラント首相は、英雄記念碑の前で跪いて謝罪した。なお条約では後述するオーデル・ナイセ国境を事実上承認した。ブラント(ベルリン新空港の名になっている)はこの功績が評価され、1971年のノーベル平和賞を受賞した。 戦後西ドイツは自ら全ドイツ民族を代表する国家であるとして、ソ連を除く東ドイツ承認国とは国交を結ばないハルシュタイン原則を採用していたが、1960年代後半から方針を転換。1970年12月にポーランドと国交を回復した。その際、以前旧西ベルリン市長でもあったブラント首相は、英雄記念碑の前で跪いて謝罪した。なお条約では後述するオーデル・ナイセ国境を事実上承認した。ブラント(ベルリン新空港の名になっている)はこの功績が評価され、1971年のノーベル平和賞を受賞した。 戦後西ドイツは自ら全ドイツ民族を代表する国家であるとして、ソ連を除く東ドイツ承認国とは国交を結ばないハルシュタイン原則を採用していたが、1960年代後半から方針を転換。1970年12月にポーランドと国交を回復した。その際、以前旧西ベルリン市長でもあったブラント首相は、英雄記念碑の前で跪いて謝罪した。なお条約では後述するオーデル・ナイセ国境を事実上承認した。ブラント(ベルリン新空港の名になっている)はこの功績が評価され、1971年のノーベル平和賞を受賞した。(2001年7月30日,2026年5月21日訪問)
*この写真撮影はベルリンにて2023年 -
*ユダヤ人墓地へ ゲットーの壁かと思ったが、ユダヤ人墓地はゲットーと隣接はしていたが、ゲットーの一部というわけではないらしい
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「コルチャック先生」(人物、ユダヤ人)
この頃の様子を描いた映画としては、ポーランド映画界の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「コルチャック先生」(1990 ドイツ・ポーランド合作)がある。孤児院の院長のほか、世界初の小児科医、児童作家、ラジオのパーソナリティなど様々な顔を持っていたコルチャック先生ことヘンリク・ゴールドシュミットは、ヨーロッパではアンネ・フランクと並んで有名なユダヤ人だそうだ。彼は信念の人で、ユダヤ人に義務付けられていた腕章を着けなかったり、ドイツ兵に食って掛かる逸話が映画の中でも紹介されている。 -
ドイツ兵が移送のため呼びに来た時には、子どもたちに「遠足に行く」と伝え、尊厳を持って最期を迎えさせてやろうとユダヤの旗を持って堂々と移送列車に乗った。ラストは途中、子どもたちと一緒に乗った車両が列車から離れて霧の中に消えていく。
映画の中でドイツの戦闘機にポーランド兵が地上から銃で応戦するシーンがある。これは両国の軍事力の差を暗示しているように思えてならない。 -
*2001年撮影
2026年に再訪した。大きく変わったのは英雄記念碑の前にユダヤ博物館が開館したこと。訪問したのが火曜で休館日だった。当時は英雄記念碑しか意識がなかったが、旧ゲットー周辺を祈りの場と記憶の遺産として残そうとするワルシャワとポーランドの意気込みが感じられた。(2001年7月30日,2026年5月21日訪問) -
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