2026/04/01 - 2026/04/06
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chemireさん
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佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏・佐々木定綱の6男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まり。現在の彦根駅の北側、佐和山(232m)にある城跡で、不破の関があった関ケ原に近く交通の要衝でした。
石田三成が佐和山城主となってから、5層の天守を構え鳥居本を大手とする近世城郭を築いたとされています。
三成が関ケ原の戦いで破れた後は、井伊直政が入城し彦根城移築に取り組みますが、関ヶ原の戦いでの傷がもとで直政は急死。その遺志は息子の直勝や直孝に引き継がれ、慶長11年(1606)彦根城築城に伴い佐和山城は廃城となりました。
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4月5日(日)
12:38
佐和山城への一般的なルートである龍潭寺側から登ります。 -
向かって左の通用門をくぐり、登山口へ。
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仏殿や庭園の拝観も可能ですが、今回は時間がなくてパス。
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門の柱にあった古びた手書きの地図がいい感じです。立派なプレートだったら、美観を損ねそう。
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山門を通り抜けるとあった佛足石。その先には、
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七福神の像が並んでいました。
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正面にある大洞観音堂を右に曲がり、墓地を抜けて進みます。
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12:49
佐和山城跡という矢印に従って切通しへ。 -
古絵図に「かもう坂通り往還」と記された切通しは、佐和山城が城として機能していた時代に、東山道と琵琶湖岸の松原を繋ぐ道として旅人や牛馬が頻繁に往来していたそうです。
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12:56
切通しを抜け、西の丸・本丸の方向へ。この辺りまでは歩きやすかった。 -
標柱が壊れていてわかりにくいですが、ここは龍潭寺から400m、頂上までは600mの地点。
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だんだんと足元が悪くなり、高低差がそれなりにあって歩くのが大変になってきました。
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13:03
西の丸跡
佐和山城の搦め手を守る曲輪で、たくさんの瓦辺が見つかっていて、当時は瓦葺きの建物があったと考えられているそうです。 -
西の丸は、本丸の北西に位置し「かもう坂通り往還」(通称「龍寺越え」)の切通しから本丸へ至る途中に築かれた丸である。
彦根藩主井伊家に伝来した3枚の佐和山城絵図を見ると、西の丸には3段の曲輪が描かれ、いずれも上段に「焔硝櫓」、下段に「塩櫓」と記されている。ただ、現在は下段を「焔硝櫓」と通称しており、名称の混乱が見られる。また、絵図には描かれていないが、北西に伸びる尾根にも2段の曲輪が明瞭に確認できる。西の丸跡は、3ヵ年にわたる測量調査により、曲輪以外にも土塁や竪堀など数多くの遺構を確認することができた。 -
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13:13
登山口から本丸跡まで、ゆっくり登って30分くらい。振り返ると琵琶湖が見えました。 -
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本丸跡は、東西約100m・南北約45mの広さを持ちましたが、破城により遺構は残されていません。
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佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏・佐々木定綱の6男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まり。
その後、佐々木家は六角氏と京極氏に分かれ、佐和山城は両勢力の境目の城として攻防が繰り返されました。
戦国時代に入ると、京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し六角定頼と対峙しますが、美濃からやってきた織田信長が浅井長政に妹お市を嫁がせ上洛の足がかりとし、六角氏の観音寺城を攻め近江を制圧。
しばらくして、反信長勢力を中心に元亀の乱が始まると、信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、城内に立て篭もった浅井家臣は信長に降伏。信長は安土城築城までの間、近江支配の核として機能を維持し、秀吉の時代にも、佐和山城に重きが置かれました。
天正19年(1591)4月、石田三成が入城すると、五層の天守が築かれ広大な城下町を整備する佐和山惣構の普請が行われましたが、三成が関ヶ原の戦いに出陣した際、留守を守っていた三成の父・正継と兄・正澄は家康の命を受けた東軍の攻撃により自刃。さしたる抵抗もできないままに落城しています。
一方、美濃で捕らえられた三成は、徳川家康の命により六条河原で処刑され、石田一族が滅亡。代わって、井伊直政が佐和山城に入城し、領民の石田一族への思慕が残ってしまうとして彦根城への移築を計画しますが、直政は急死。その計画を引き継いだ直勝や直孝により彦根城が築かれ、佐和山城は廃城となりました。 -
本丸内を探索。
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お地蔵さまに手を合わせました。
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佐和山232.6mの表示。ここが1番高い地点のよう。
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本丸の東北方向に二の丸・三の丸と呼ばれた曲輪が作られ、その先には大手門に続く道があったそうなのですが立ち入り禁止となっていました。それと、本丸から分断されていて現在は通行できませんが、南側の尾根に太鼓丸、法華丸と呼ばれた曲輪もあったそうです。
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本丸南側からは琵琶湖や彦根城のある市街を望めます。
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本丸北側に見えた細長い建物は、フジテックのエレベーター試験塔だそう。その下には新幹線が走り、奥には伊吹山。
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雲がかかる様子に感動しちゃいました。
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本丸内を行ったり来たりしながら見つけた基準点。いつも撮ってしまうのだけど、マンホールと違って特徴的な絵柄が無いから、風景を入れないと写真を見返した時にどこだか分からないのが困るところ。
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これは彦根市って刻まれてるから良かった。
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三本道と刻まれた標柱も気になる。
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13:55
そろそろ下山します。こちらからも石垣跡に行けますが、 -
ガイドさんが進んで行くのを見ていたので、大手方面へ向かう石垣・千貫井と示されたルートから下山。
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隅石垣
岩盤上に僅かに石垣が残っていました。本丸の隅部に位置し、石垣の基底部であったと考えられているそうです。 -
彦根城の築城にあたっては、破却した佐和山城の多くの資材が移築・転用されていますが、佐和山城があったことを知らせるため、この2つの石をあえて残したのだと思いたい。
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石垣跡から、さらに下って行くとあった千貫井。
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本丸の南西部の山腹に穿たれた井戸。山上に築かれた城にとって、この井戸は千貫にも値する貴重な水源であったことから命名。
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倒れた木に覆われ井戸の様子をしっかりと確認することはできませんでした。説明板も薄れていて読みにくいなぁ…
でも、そもそもこの山は私有地。標識が倒れていたり壊れていて見逃してしまった所もあったけど、城跡に登れただけでありがたいんだった。 -
井戸跡から、駅方面が見えました。
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駅東口側。中央に写ったホテルのある場所まで戻ります。
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視線を横に移すと、こんな斜面。破城時には壊された石垣や天守の礎石の多くが、麓や谷底へと転がされたそう。
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では、折り返して登城道を下ります。
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小さな曲輪と切岸を迂回したルートは、一見すると歩きやすそうだけど、斜面は滑りやすいし散歩気分ではいられない。やっぱり城攻めは大変です。
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14:22
登城道を下ってきたら、突然に整備された広場が出現。左奥には国道8号の標識が見えます。龍潭寺から登り始めた時の雰囲気とは異なり、城跡があると感じられない場所でした。
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