2026/04/01 - 2026/04/06
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chemireさん
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この旅行記のスケジュール
2026/04/03
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大垣城から関ヶ原駅へ
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電車での移動
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この旅行記スケジュールを元に
関ヶ原の戦い。
1600年(慶長5年)9月15日に起きた戦いは、約6時間という短さで決着し家康率いる東軍が勝利した。
日本の歴史が変わるもととなった合戦なのに、知っているのはこの程度だったので、詳しく学びたいなと思い訪ねました。
歩いたのは初心者コースに少し足した7~8km/関ヶ原駅 ~ 古戦場記念館の周辺に密集しているエリア ~ 盆地の西側(主に西軍が布陣)~ 北側の笹尾山へ向かい決戦地や東軍・細川の陣を巡るハイライトとなるエリア ~ 関ヶ原駅
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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4月3日(金)
この旅の最大の目的は関ヶ原を訪ねることで、大垣に泊まったのはそのためでした。日本一有名な合戦なのに、実はちゃんと分かっていなくて、初歩から学びぶことにしました。
朝食をしっかりとって、いざ出陣! -
歩き回るのには、ちょうどいい気温。お天気に恵まれました。
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JR大垣駅から東海道線の米原行きに乗って、
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関ヶ原駅へ。
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9:57
駅舎は、古戦場感満載を想像してたけど普通でした。 -
10:01
駅の向かい観光交流館。
ここで自転車を借りようかとかなり悩んだけれど、徒歩を選択。館内は静かな雰囲気でしたが、土・日は混雑するのでしょうね。関ヶ原駅前観光交流館 名所・史跡
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史跡めぐりマップ
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10:04~10:14
駅を出て右、北西にある跨線橋へ進む途中に、4トラで予習した通りの主要部将のパネルが並んでいました。
さぁ、さっそく勉強開始です。関ヶ原初心者にとってありがたい説明で、1枚ずつ読んで行きます。
(学んだ内容は別の旅行記にまとめます) -
10:16~10:21
駅から徒歩約5分で最初の目的地へ。 -
東首塚
この地の領主であった竹中重門は、家康の命により、首実検に供されたり戦場に残された戦死者を埋葬し東西2箇所に首塚を造営。
竹中重門/東軍
秀吉の軍師として知られる竹中重治(半兵衛)の嫡子で、当初は西軍に属していましたが徳川方に寝返り、西軍が敗れた後に逃亡した小西行長を捕縛。東首塚 名所・史跡
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敷地内にある唐門と供養堂は、尾張藩第7代藩主・徳川宗春に関連する建造物といわれる旧山王権現社(名古屋市)の一部を昭和期に移築したもの。
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関ケ原宿本陣の主を務める古山兵四郎により、文化14年(1817)に建てられた首級墳碑も残っています。
首級墳碑 名所・史跡
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松平忠吉・井伊直政陣跡
陣跡は東首塚の東側200m先にありましたが、大正時代に現在地に移されました。
戦い当日、福島正則が東軍の先陣を務めることになっていましたが、直政と忠吉が西軍の宇喜多秀家隊に向けて発砲し戦いの火蓋が切られ、直政は家康の懐刀として徳川家の戦いであることを示し、一番槍を上げた忠吉は徳川家の歴史に華々しい功績を残します。
しかし、合戦の終わりがけに家康の本陣前を突破した西軍・島津隊を追撃した二人は、そこでも戦果を挙げたものの、島津隊の狙撃による負傷で後に命を落とすこととなってしまいました。松平忠吉 井伊直政陣跡 名所・史跡
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茨原 現 関ヶ原駅の北一帯
松平忠吉/東軍
家康の四男。関ヶ原の戦い当時は21歳でした。初陣で東軍の先鋒として戦功を挙げ清州城主となりますが、戦傷がもとで28歳で亡くなり、嗣子がなかったため清州藩は廃藩となっています。
井伊直政/東軍
徳川四天王のひとり。関ヶ原の戦いでは、初陣を迎える忠吉の義父(直政の娘が忠吉に嫁いでいる)として後見役になり参戦。戦いの火蓋を切りましたが、この戦いで受けた銃創がもとで2年後に42歳で亡くなり、直政の遺領は嫡男の直継(後に直勝)に与えられ井伊家は彦根藩として存続。 -
10:25
東首塚から緩やかな坂を4~5分くらい進むと、岐阜 関ヶ原古戦場記念館が見えてきました。 -
岐阜 関ヶ原古戦場記念館
2020年(令和2)オープン -
10:27~13:00
関ヶ原古戦場記念館見学
チケットに描かれていたのは、島津義弘でした(7種類・ランダム)。 -
1階・2階は、ほぼ全面撮影禁止ですが、フォトスポットが幾つか設けられています。
岐阜関ケ原古戦場記念館 美術館・博物館
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グラウンド・ビジョン、シアターの入館には事前予約が必要ですが、予約なしで訪ねるたら15分後からの上映回に入場できるそうで、それまで展望室の見学をどうぞと勧められたので5階へ。
説明板や足元の地図と照らし合わせながら、関ヶ原盆地を一望できます。こちらは撮影OK。 -
10:45から、1階で関ヶ原の戦いを体験。2つの部屋は撮影禁止です(写真はリーフレット)。
最初に入った部屋では、立ったままグラウンド・ビジョンと呼ばれる床面スクリーンにリアルタイムで映し出された各武将の動きを、俯瞰的に見学(約8分間)。
1600年(慶長5年)9月15日。西軍は笹尾山に石田三成・松尾山に小早川秀秋という鶴翼の陣、東軍は関ケ原の盆地中央で福島正則を先鋒とした魚鱗の陣を形勢。
朝8時頃、松平忠吉・井伊直政が宇喜多隊に発砲したことを機に、先陣の栄誉を横取りされた正則が、すぐさま西軍に突撃を開始。東軍各隊が次々と参戦し、天下分け目の戦いが始まりました。
講談師 神田伯山さんの迫力のある語り口に引き込まれ、戦国時代にタイムスリップしてしまったような感じ。
その後、縦4.5m・横13mのオーバル(楕円)型スクリーンのあるシアターに移動し、今度は座って風や振動の演出などが加わった臨場感を体験しながら関ヶ原の戦いを学びます(約9分間)。 -
2階ホールの映像作品(屏風)。撮影OKです。
関ヶ原群像図と関ヶ原山水図が交互に映し出され、ドット絵の兵士たちが戦う様子や、徳川家康・石田三成らのエピソードも盛り込まれた合戦風景が楽しめます。みんな展示室へと急ぎ通り過ぎていたけど、見た方が良いのになぁ。 -
入口前の壁に書かれていた合戦全史(撮影可)を読んでから、展示室内(撮影禁止)へ。
1階の2つの部屋で戦いの様子をインプットしたので、展示室では、史料や地図などの情報が整理しやすかったです。選択式のモニターで、戦いの様子が学べるのも良かった。関ヶ原の戦いにおいて「寝返り」がキーワードになっているけど、そこに至る背景を学べたのも大きな収穫です。
これからお城を訪ねる時は、天守や石垣に注目するばかりじゃなくて、部将たちの人間像とか戦略を考えながら見学してみようっと。 -
記念館を出る前に、2階戦国体験コーナーにあったシミュレーターで合戦の流れを復習。写真撮影OKでした。
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東軍兵数84,300人。
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西軍兵数63,140人。
となりに甲冑を着て撮影できるコーナーがあったので、みなさんそちらに流れていました。この映像も分かりやすくて面白かったのに、もったいないなぁ。 -
1階に降りて南回廊へ行くと、関ケ原参戦主要14武将のイラストパネルが並んでいました。これも撮影OK。
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13:01~13:35
続いて、記念館に隣接する関ヶ原町歴史民俗学習館を見学。 -
入館無料。
1階にある大きなスクリーンでは、関ケ原合戦3次元絵巻が繰り返し上映されていましたが、映像がやや不鮮明なのと記念館のような迫力がないせいか、少し見ただけで立ち去る方ばかり。
鉄は熱いうちに打て。最後まで見て、戦いの流れを頭の中に叩き込みました。関ケ原町歴史民俗学習館 美術館・博物館
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壁際に配架があり、休憩しながら閲覧することができます。
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2F地域展示室では、先史から現代までの各時代の出来事や人々の生活などが紹介されています。
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嫁入り道具の雛飾りのコーナーは撮影OK
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13:35~13:43
戦場記念館へ戻って、のぼり旗を見ながら一周。
推しの旗の前で写真を撮っている方を何人も見かけました。
これまで、好き嫌いを言えるほどの知識がなかったし、部将に注目したこともなかったけど、ここに来て興味ある人物ができました。推しとまではいかないけど、旗印も気になります。
宇喜多秀家・兒文字、小早川秀秋・違い鎌。もっと、ちゃんと勉強しよう。 -
記念館と歴史民俗学習館を回りクイズラリーに正解すると、ランダムで武将シールがもらえます。
福島正則/東軍
秀吉の子飼いの武将でありながら、石田三成との確執により東軍に加わる。松平忠吉・井伊直政の抜け駆けに福島正則が激怒したと伝わりますが、忠吉と直政が先陣を切ることは、正則も了解済だったという説もあります。
合戦の終りに島津の退き口に出会した正則は、島津軍兵士らの鬼気迫る形相を見て、自軍の兵を無益に失う必要はないと考え家臣に追うなと命じたそうです。すでに勝敗は決まっていたこともありますが、決死の覚悟に退路を譲ったのかもしれません。 -
13:45
記念館の横にある公園から、史跡めぐりを徒歩で再開。先ずは、奥に見えた鳥居のもとへ。 -
御霊神社
御霊神社 寺・神社・教会
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合戦で亡くなった兵士のために建立。合掌。
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13:50~14:29
公園内にある家康最後陣地と田中吉政の陣跡を見学。 -
徳川家康/東軍総大将
合戦当日の午前11時ごろ、桃配山から笹尾山の石田三成の陣の正面であるこの地に本陣を移動。
一向に動こうとしない松尾山の小早川秀秋を、ここから問鉄砲で威嚇したとも言われる。
正午を少し回った頃、遂に秀秋の采配が振られ、1万1千余の大軍が松尾山を駆け下り大谷吉継隊に襲いかかった。これで戦いの流れは決し、東軍の猛進に耐え切れなくなった西軍は次々に敗走、午後2時過ぎには総崩れとなった。 -
床几場
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合戦後、家康自ら首実検を行いました。
徳川家康最後陣跡 床几場 名所・史跡
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土壇と周囲の土塁は、天保12年(1841)幕府の命を受け、この地の領主 竹中重明が築いたもの。
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向かい合った石積みの、同じ高さにあった凹みが気になって。
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土壇を形成する石垣は綺麗な切込み接ぎ。合戦後に、時を経てから作られたことが分かります。
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土壇中央に建つ、床几場 徳川家康進旗験馘處と刻まれた標柱。
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田中吉政/東軍
約3,000の兵を率い、最後は東軍諸将とともに石田隊を壊滅させ、合戦後には逃走した三成の探索を命じられ、伊吹山中の洞窟に潜んでいた三成を捕縛。敵同士ながらも、同じ近江出身の三成を丁重に扱ったそう。
天正18年(1590)家康の関東移封後、家康の生誕地であった岡崎城に入り天守を建て城郭を整えた田中吉政。岡崎城を訪ねた時に学んだことが、ここで繋がりました。田中吉政陣跡 名所・史跡
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徒歩でめぐるので、夕暮れまでに何ヶ所行けるか。悩んだ結果、駅の北部を中心に廻ることにしました。
行けなかった場所は、情報収集だけでも。
岡山(丸山)烽火場
黒田長政・竹中重門陣跡/東軍
標高164mの丘陵で、関ケ原が一望でき戦況が見渡せる場所に、約5,000の兵を率いて布陣。 -
陣跡付近の電柱には、部将たちのエピソード。
知識が増えるのはいいけれど、時間がかかってしまうので、とりあえず撮っておいて後で見ることにしました。 -
14:29
もう一度、家康最後陣地跡を見て北西に進みます。 -
14:40~14:53
島津義弘陣跡
この日、関ヶ原をめぐっていて強く心に残ったのは、島津隊の戦法でした。合戦では、寝返ったり忠義を貫いたりといろんな様相が見えましたが、島津隊の在り方は別格です。
でも、そんな島津藩を好きとは言いきれない。合戦後、藩財政の立て直しや江戸幕府への忠誠を示すためとはいえ、戦い方を知らない琉球への武力行使による侵攻はやり過ぎです。大好きな沖縄を痛めつけたなんて許せない。ただ、清の支配下に置かれたとしたら、いまの沖縄はなかったかもしれないし、歴史って複雑だ。
話が逸れたので、関ヶ原の戦いの様子へ戻ります。 -
小池神明神社由来
合戦時には現在地ではなく丘陵に祀られていたが、島津維新は陣地として好適地につき境内を本陣とし戦腸を祈願したといわれている。嘉永6年(1853)火災に遭い現在地に移転。 -
神社に手を合わせ、裏側へ進むと島津義弘陣跡がありました。
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島津義弘/西軍
家康の求めに応じて、関ヶ原の戦いの前哨戦になった伏見城の戦いで、籠城戦に耐えていた鳥居元忠のもとへ向かいましたが、鳥居に援軍の件を聞いていないと断られたため、三成が率いる西軍への参戦を決めたと言われます。一方で、家康が会津征伐のため出陣した際には、上杉景勝に対して、三成らとともに味方するとの書状を送っていたともされています。
鳥居元忠/西軍
家康から伏見城を死守するよう命じられた鳥居元忠は、西軍の進軍を遅らせる捨て石の役を完遂。西軍を相手に落城・討死。島津義弘陣跡<島津の退き口ゆかりの地> 名所・史跡
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甥の島津豊久らと約1,500の兵を率いて西軍布陣地のほぼ中央部に陣を構えた義弘でしたが、三成からの援軍要請も拒否し、開戦後は自ら攻撃に出ることはありませんでした。
関ヶ原の戦いの前哨戦となった岐阜城での戦いでは、西軍の撤退を知らされず置き去りにされたり、西軍内での義弘の扱いは尊重されているとは言えないものだったそうです。 -
陣中では壕も掘らず、柵も作らず、自陣に近づくものは東・西軍に拘らず打ち払う姿勢を取り、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を打ち落としていたといわれています。
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東軍・家康の勝利が濃厚になり切腹を考えた義弘に「敵中突破をして、生きて大将が国に帰る事が将来の島津家の事を考えれば死ぬよりも大切だ」と説いたのが甥の島津豊久だったそう。
その後、島津の誇りを守り後方へ逃げることはしないと、捨て奸と呼ばれる壮絶な撤退戦で義弘は薩摩へ生還することができましたが、撤退戦を開始した時すでに300人(一説には1000人)だった島津隊は、80数名になったと伝わります。先鋒、そして殿を務めて奮戦した豊久は、追手と戦って討死(または自刃)しました。 -
捨て奸
殿の小部隊がその場に留まり追ってくる敵と討死するまで戦い、最初の小部隊が全滅すると新しい小部隊が足止めのために残り、これを繰り返して時間を稼ぎ島津義弘を生還させるという戦法。敵から見えにくくするため、鉄砲を持った兵士が胡座をかき待ち伏せる姿から、座禅陣とも呼ばれました。
島津家臣達の義弘に対する忠誠心は厚く、常日頃から家臣や兵士達に寄り添い苦楽をともにした義弘のために、惜しみなく命を投げ打ったそうです。
また、島津義弘へ尊敬の念を抱いたのは家臣だけではなく、島津隊への追撃戦で重傷を負った井伊直政は、義弘と家康の和平交渉の仲介役を務めています。福島正則も講和のために尽力し、家康は薩摩を武力でねじ伏せる事を諦め本領もそのまま安堵されました。
甥であった豊久の言った通り、義弘が残ることが島津家の安泰に繋がった訳ですが、強い意志を持った豊久が生きていたら… -
15:58~15:15
開戦地及び小西行長陣跡へ -
開戦地。合戦場のほぼ中央にあたります。
慶長5年(1600)徳川家康は会津征伐のためとして東下。それを好機と石田三成らは毛利輝元を総大将、次将に宇喜多秀家を担ぎ上げ大坂で挙兵。東軍 松平・井伊隊が、先峰の福島隊の脇を通り抜け、宇喜多隊の前へ進出し発砲。関ヶ原の戦いの幕が開く。 -
家康と三成は秀吉に仕え、豊臣政権における五大老・五奉行制度下で共に政治を行っていた関係にありましたが、秀吉の死後、後継者を巡って対立。
豊臣家を守ろうとする三成と、天下を狙う家康という構図が明確化され、関ヶ原の戦いが引き起こされることになります。関ケ原古戦場 開戦地 名所・史跡
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名だたる部将が集結
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小西行長陣跡
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小西行長/西軍
約6,000の兵を率いて、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣。烽火を上げますが、攻め込まれ切り崩されてしまいます。西軍諸隊が総崩れした後は、揖斐川町方面へ敗走。北天満山 小西行長陣跡 名所・史跡
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行長は、熱心なキリシタンだったため自害できずに自首。竹中重門の家臣の手で捕縛され、京都で三成らとともに処刑されています。
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小西行長の陣から見た風景。左には笹尾山(三成の陣地)右は桃配山(家康最初陣地)、その奥は大垣城方面。中央部には決戦地があります。
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舗装された場所ばかりじゃないから、自転車でめぐるより徒歩の方が良い気がしました。
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15:25~15:30
神聖な雰囲気の杉並木を通り抜け、宇喜多秀家陣跡へ。 -
天満神社
宇喜多秀家は、神社一帯に陣を張り17,000人の兵を配し戦いましたが、この時に社殿を焼失。寛文3年(1663)再建。 -
宇喜多秀家陣跡
南天満山 宇喜多秀家陣跡 名所・史跡
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宇喜多秀家/西軍副大将
豊臣政権の五大老の一人(最年少)で、西軍の主力を担う。妻は、前田利家の四女で豊臣秀吉の養女となった豪姫。 -
神社の中は静寂そのもの。宇喜多秀家の陣跡は、他の陣地とは雰囲気が異なりました。
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開戦直後から福島正則や加藤嘉明らの東軍部隊と対峙し、西軍が崩壊すると伊吹山方面へ逃れ、薩摩の島津氏のもとへ潜伏。
その後、島津氏が家康と和睦する際に引き渡され、八丈島に流罪となり50年間を過ごしています。食糧不足の中、かつての家臣や妻の実家(前田家)からの援助を受けて生活し、84歳で死去。関ヶ原の戦いを戦った大名としては、最も長く生きたと言われています。 -
来た道を戻って、決戦地方面へ。
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撮るのが下手なので段差が分かりませんが、民家より高い位置にある道は傾斜がついています。
この山の斜面を、17,000もの兵士が駆け下りたなんて。大迫力だっただろう姿を想像して、ワクワクしながら進みました。 -
15:59
三成陣跡の案内板。ここまで、南天満山から徒歩30分くらい。
決戦地は、南天満山(宇喜多秀家陣)から麓(開戦地周辺)へと下り、笹尾山(石田三成陣)へ向かう中間付近にあります。 -
16:03~16:08
島左近陣地 -
島左近(清興)/西軍
合戦の前日、約500の兵を率いて挑んだ杭瀬川の戦い(大垣市)で勝利。 -
関ヶ原では笹尾山の麓に布陣し、三成隊の最前線で指揮を取りました。黒田隊の銃撃を受けて負傷した際、傷の手当てが済むと再び前線に戻り突撃して戦死したという説が濃厚。
島左近陣跡 名所・史跡
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合戦のあらまし
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関ヶ原町は西軍(三成)贔屓なのかな。馬房柵が設けられ、しっかりと整備されています。
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石田三成陣跡/西軍
説明板は、島左近の陣跡のある笹尾山の麓に設置されていました。 -
馬防柵
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山頂に向かうルートは2ヶ所あって、こちらは徒歩5分と書かれています。どちらも所要時間は同じだと思い、三成の説明板のあった方のルートから登ることにしました。馬房柵があった方がテンションが上がるから。
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合戦時には階段も手摺りも無いし、木も生い茂り登りにくかったはず。
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息を切らしながら登ること4~5分で山頂に到着。
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16:13~16:30
石田三成陣地。山頂には、展望台が設けられています。石田三成陣跡 名所・史跡
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標高200m。三成は関ヶ原の地を一望でき、北国街道も押さえられる山頂に布陣。
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展望台に登って、
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説明板から流れる音声案内を聞きながら、桃配山や松尾山を確認。
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合戦の当日 午前8時頃の陣系図
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三成は西軍の核として、豊臣家への忠義を尽くし大義のために家康に対抗。
麓に陣を置いた島左近らの隊が善戦しますが、次第に押し込まれ、小早川秀秋の東軍寝返りを機に、西軍は次々に敗走。三成も伊吹山方面へ逃れますが、関ヶ原の戦いから2週間後、家康に捕縛され京都六条河原で処刑されました。 -
当時、旗指物が並ぶ様子は緊迫していたんだろうな。
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では、下山します。
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麓まで降りて、奥に見える笹尾山交流館に向かったら、
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もうcloseしてました。
関ケ原笹尾山交流館 名所・史跡
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16:38~16:47
決戦地 -
毛利輝元は西軍総大将として大坂城を守備しましたが、関ヶ原の主戦場には不在。
関ケ原古戦場 決戦地 名所・史跡
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西軍は総兵力で東軍を上回っていましたが、開戦から積極的に戦っていたのは、石田三成、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継らごく一部でした。
小早川秀秋の寝返りにより西軍が総崩れした頃、石田隊や島津隊に攻め込む東軍諸隊で、この地は埋め尽くされたといわれています。東軍の攻に石田隊が壊滅し、天下分け目の戦いの勝敗は、わずか半日程度で決しました。
大谷吉継/西軍
親友であった三成の挙兵を当初は無謀と諌めましたが、友情と豊臣家への忠義を重んじ挙兵。病魔(ハンセン病とされる)に冒され視力も失いながら輿に乗って指揮を執り、小早川秀秋の裏切りを早くから確信して600の軍勢で小早川勢を迎え撃ち松尾山まで押し戻しますが、配下の東軍寝返りにより大谷勢は壊滅。最期を悟った吉継は、自身の首を隠すように家臣に命じ、自刃。
小早川秀秋/西軍一東軍
松尾山に陣を構えますが、土壇場で東軍に寝返り勝敗を決定づけた。 -
決戦地から見た三成が布陣した笹尾山。
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17:00
枝垂れ桜が満開で、鳥のさえずりも聞こえて、戦いがあったなんて思えないけど、確かにここで歴史が動いたんですよね。
もう一度辺りを見回してから、決戦地に別れを告げて駅に戻ることにしました。 -
17:10~17:15
まっすぐ駅に向かうつもりだったけど、せっかくだからもう1カ所と思って細川忠興陣跡へ。細川忠興陣跡 名所・史跡
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細川忠興/東軍
豊臣御子の武将でしたが、三成とは仲が悪く最初から東軍として参戦。黒田隊と共に小西行長らと対峙し136の首級を挙げた猛将であった一方、晩年は利休七哲のひとりとして名を馳せています。 -
明智光秀の娘であった妻の玉(のちのガラシャ)は、関ヶ原の戦い直前に西軍の人質となることを拒み自害に追い込まれました(キリシタンとして禁じられた自殺の代わりに家老に胸を突かせて最期を遂げた)。
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17:26
細川忠興陣跡から、10分くらい歩くと見えた跨線橋。この先を左折した所が、陣跡めぐりを開始した時に見た部将のパネルが並ぶ坂道です。 -
17:30
駅まで戻って振り向いたら夕陽が見えました。
家康は、笹尾山付近を望む中で沈む夕陽を背にして勝利の余韻に浸ったのだとか。 -
Suicaも使えたけど記念に。
行けなかった陣跡もあるし、再訪して歴史をもっと学ぼうと思えた関ヶ原でした。
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