2025/11/10 - 2025/11/10
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あおしさん
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2025/11/10
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ウィーン初日。
まずは、ウィーンの王宮へ。
ハプスブルグ・オーストリア皇帝の王宮です。
この王宮は、スイスの小豪族、貧乏伯爵だったハプスブルグ家のルドルフ(1218~1291)が神聖ローマ帝国皇帝に「傀儡」として担ぎ上げられて歴史の登場してきて以来第一次世界大戦まで約600年、ハプスグルグ家の住居となっていた王宮です。
当初、無能、貧乏で「傀儡」として有力諸侯に担ぎ上げられたルドルフでしたが、実際は有能な君主で、オーストリアにも領土を広げ、ハプスブルグ家の基盤を作り上げました。
日本の鎌倉時代、北条5代執権・北条時頼、8代執権・北条時宗の時代の人です。
現在は王宮の一部が公開され、実質最後のオーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世とその皇妃、エリーザベトの資料館になっています。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 2.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 徒歩
- 航空会社
- エバー航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ウィーン駅前のホテルを出て、ぶらぶらと市の中心部へ。
中心部にある国立オペラ座。
「音楽の都」ウィーンを代表する建物の1つです。
この建物は1869年、日本でいえば明治維新(1868年)の翌年に建てられ、モーツアルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」でこけら落としが行われました。ウィーンの中心にあります。ウィーン散策はここからが便利です by あおしさんウィーン国立歌劇場 劇場・ホール・ショー
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オペラ座から大通り沿いを歩いていくと、ゲーテの銅像がありました。
ゲーテはドイツを代表する文豪で、フランクフルト出身。
モーツァルトとは7歳上、ベートーヴェンとは21歳上の同時代人です。
あまりウィーンとは関係がないと思いますが、シューベルトをはじめ、多くの音楽家がゲーテの作品に音楽をつけていて、その縁からでしょうか。 -
ゲーテの銅像からウィーン王宮のあるブルク公園に入ります。
この公園にはモーツアルトの大理石の像がありました。
モーツァルトはオーストリアのザルツブルグ生まれ。
パトロンだったザルツブルグ大司教と喧嘩別れして、ウィーンに出てきました。
時の神聖ローマ皇帝・ヨーゼフ2世に認められて宮廷音楽家になり、35歳の若さで病死するまでウィーンで多くの作曲をしています。王宮の「裏庭」、ブルク公園の中にあります by あおしさんモーツァルト記念像 建造物
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ブルグ公園から王宮の正面、ミヒャエル広場前へ。
この王宮は、ハプスグルグ家の住居となっていた王宮です。ハプスブルグ家600年の居住した王宮 by あおしさんホーフブルク宮殿 (王宮) 城・宮殿
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王宮の中の中庭。
ここから王宮の建物の中に入ります。
銅像は最後の神聖ローマ皇帝・フランツ2世、そして初代オーストリア皇帝・フランツ1世です。 -
現在この王宮は、実質最後のハプスブルグ家、オーストリア皇帝だったフランツ・ヨーゼフ1世(在位1848~1916)とその皇后・エリーザベト(愛称 シシィ)の資料館になっています。
入館料はやはりはずせないシェーンブルン宮殿との共通券で59ユーロ。
約1万円!
日本の経済力が弱くなったのか、円安の影響なのか・・・実質最後のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后、エリーザベトの博物館 by あおしさんシシィ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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この部屋にはエリーザベトのよく知られる肖像画とその時の彼女の衣装が復元されていました。
16歳のとき、23歳の青年皇帝、フランツ・ヨーゼフにひとめぼれされて皇后となりました。
ただ、どちらかといえば自由人だった彼女には宮廷は居心地はよくなかったようです。 -
ハンガリー王妃にもなったときの衣装も復元されていました。
彼女は自分の美貌に自信を持ち、その維持のために執念を燃やしたそうです。
身長は172センチ、体重は45キロ前後、ウェストは51センチ(うちのに聞いたら「人間じゃない!」とのこと)。 -
彼女はわが子・ルドルフ皇太子が自殺すると、それ以降は常に黒の喪服を着ていたそうです。
息子の死や宮廷の窮屈さに嫌気がさし、その後は宮廷を「家出」してヨーロッパ各地を旅する皇后になりました。
そして、60歳のとき、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに短刀で心臓をさされて暗殺されました。 -
王宮は「シシィ博物館」から「皇帝の部屋」になります。
フランツ・ヨーゼフ時代の住居を保存、復元しています。
フランツ・ヨーゼフは18歳の若さでオーストリア皇帝に就任し、在位68年、第一次世界大戦のさなかに亡くなりました。
実質最後のハプスブルグ家当主、オーストリア皇帝とされます。
そのおだやかな人柄から、当時の国民から絶大な敬愛を寄せられ「国父」と呼ばれました。
やはり在位64年、日本の昭和天皇みたいなものでしょう。皇帝の住居 城・宮殿
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フランツ・ヨーゼフの肖像画が多く展示されている部屋。
18歳でオーストリア皇帝に就任したときは青年皇帝だった彼も、86歳で亡くなったころは老皇帝となっていました。 -
閣議の部屋。
皇帝と大臣たちはここで国政を討議しました。
当時は帝国主義の時代。
ビクトリア女王のイギリス、伸長著しいドイツ帝国などが国力を伸ばす中で、衰退するオーストリアのかじ取りは苦労が絶えなかったことでしょう。 -
フランツ・ヨーゼフの執務室。
治世の途中から「家出」してしまい、ほとんど王宮には不在だった皇后エリーザベトを彼は終生愛し続け、当時も彼女の肖像画が多く飾られていました。
彼は朝4時に起床して、夜の12時に就寝するまで1日18時間も仕事をしていた、スーパー真面目な皇帝でした。
そんな彼だからこそ、当時の国民も彼を敬愛したのでしょう。 -
こちらはエリーザベトの居室。
こじんまりした部屋でした。 -
こちらは食堂。
豪華な食事が用意され、誰かがいつも食事に同伴していました。
皇帝との食事に招待されることは、当時は最大の名誉でした。 -
エリーザベトの寝室です。
大理石と金がふんだんに使われた豪華な寝室です。
もっとも彼女には居心地が悪かったようです。 -
寝室にあるエリーザベトの鏡台や机。
赤色をふんだんに使っていますね。 -
エリーザベトの大広間。
ここでエリザベート皇后と貴族の夫人などで「女子会」が行われていたのでしょう。 -
最後は、ウィーン会議のときロシア皇帝・アレクサンドルの居住していた部屋です。
ウィーン会議はわずか10年で下士官から連戦連勝で「フランス皇帝」となったナポレオンによって台風のように吹き飛ばされたヨーロッパの国々を建て直すために行われた会議です。
国々の利害が対立し、「会議は踊る されど進まず」という言葉が有名です。 -
王宮を出て中庭からスイス門を通ってスイス宮へ。
ハプスブルグ家はもともとスイスの小豪族でした。
領土を拡大したものの、初代ルドルフのあとのアルブレヒトは暴君だったとされ、スイスからの反乱が相次ぎスイスの領土を失っています。
この反乱のきっかけが、代官ゲスラーに子供の頭の上のリンゴを射て見ろと命令されて見事リンゴを射落としたウィリアム・テル。
ウィリアム・テルは伝説・架空の人物ですが、スイス独立の英雄として、スイス人の多くは実在の人物と信じているとか。
フランツ・ヨーゼフのころはここはスイス人の衛兵の宿舎になっていました。スイス門 建造物
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スイス門をくぐると、王宮礼拝堂。
ウイーン少年合唱団の本拠地。
毎週日曜日にウィーン少年合唱団の合唱がおこなれています。
ウィーン少年合唱団は神聖ローマ皇帝となったマクシミリアンによって1498年に創設され、500年以上の歴史を持ちます。王宮礼拝堂 城・宮殿
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王宮礼拝堂の下には王宮宝物館があります。
入館料は18ユーロ、約3000円。
高いなあ。
西暦800年、フランク王国のシャルルマーニュ(カール大帝)はローマ教皇より、ローマ帝国皇帝の戴冠を受けました。
これにより西暦476年に滅んだ西ローマ帝国が復活しました。
これ以降、キリスト教のローマ帝国の意味で、この帝国は「神聖ローマ帝国」と呼ばれます。神聖ローマ皇帝冠やオーストリア皇帝冠もありました by あおしさん王宮宝物館 博物館・美術館・ギャラリー
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神聖ローマ帝国の帝冠です。
宝石が多く埋め込まれた美しい帝冠です。
ハプスブルグ家はルドルフは有能、アルブレヒトは暴君だったことから、しばらく神聖ローマ帝国皇帝に選ばれることはしばらく無くなってしまいましたが、ルドルフから約200年後、「無能」「大愚図」と呼ばれていたフリードリッヒ3世(1415~1493)が神聖ローマ帝国皇帝に久しぶりに選ばれました。
無能臆病だったフリードリヒ3世でしたが、彼と戦争をした敵はいつも死んでしまうという悪運との強さと長生きのおかげで、彼以降、ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国皇帝を世襲するようになりました。
これ以降、ハプスブルグ家はヨーロッパ1の名家と呼ばれるようになります。 -
フリードリッヒ3世の息子・マクシミリアン1世と当時ヨーロッパ1の経済大国・ブルゴーニュ公国の1人娘マリーの肖像画。
この政略結婚のあと、マリーは落馬で死亡、ブルゴーニュ公国はハプスブルグ家のものとなります。
さらにマクシミリアンも息子娘などをスペイン王家などに嫁がせ、同じように相手の家が断絶してハプスブルグ家の領地は拡大しました。
フリードリッヒ、マクシミリアン2代の政略結婚政策は大成功し、「戦争は他家に任せておけ。幸いなるオーストリア(ハプスブルグ家のこと)よ、汝は結婚せよ」と言われるようになりました。 -
シャルルマーニュから1000年、フリードリヒからハプスブルグ家が世襲して300年、台風のように強国を吹き飛ばしたナポレオンにより、神聖ローマ帝国は崩壊しました。
この王宮もナポレオンにより占領されています。
ナポレオンと皇后ジョセフィーヌの肖像画のあるナポレオンの部屋。 -
ジョセフィーヌの肖像画。
もともとはフランス革命政府の有力者だったバラスの愛人でしたが、バラスは彼女に飽きたので、ジョセフィーヌにあこがれていた部下のナポレオンに彼女を押し付けました。
浮気者のジョセフィーヌにナポレオンは悩まされましたが、それでも上流階級に無縁の成り上がりだったナポレオンを上流階級の要人や貴族に紹介したり、またナポレオンの兵士たちとも積極的に溶け込み、兵士たちからも「(愛情をこめて)ばあさん」「幸運の女神」と敬愛されました。
ナポレオンはフランス皇帝になると、ハプスブルグ家の娘を皇后にするため、彼女は捨てられました。
兵士たちからは「将軍はなぜ幸運の女神を捨てたのだ。彼女のおかげで将軍もわれわれも幸福になったのに」と非難轟轟だったとか。
実際ジョセフィーヌが皇后のときはナポレオンは連戦連勝、下士官からわずか10年でフランス皇帝まで上り詰めたのに、彼女を捨てた後は連戦連敗、最後は大西洋の孤島セントヘレナに流され寂しく死んでいます。
ナポレオンの最後の言葉は「ジョセフィーヌ・・・」だったそうです。 -
ナポレオンにより神聖ローマ帝国が解散させられると、ハプルブルグ家のフランツ2世はオーストリア皇帝に「格下げ」となり(オーストリア皇帝としてはフランツ1世)、娘の一人をナポレオンの皇后とされました。
成り上がりのナポレオンにとっては、「ハク」をつけるためにヨーロッパ1の名家の女性を皇后にしたのです。
オーストリア皇帝の帝冠も展示されていました。 -
宝物館のあとは、王宮の庭園へ。
広い庭園は公園として市民に開放されていました。 -
王宮の前にある銅像は「オイゲン公」。
フランス出身でしたが、当時のフランスの「太陽王」ルイ14世には背が低く見栄えが悪いとして相手にされず、フランスの宿敵、オーストリア・ハプスブルグ家に使えました。
有能な軍人で、フランスやオスマン・トルコ帝国との戦いに優れた戦果を残しました。
ナポレオンは「人類が生んだ7人の英雄」として古代ギリシア・マケドニアのアレクサンドロス大王や古代ローマの英雄、ユリウス・カエサル、「北方の獅子」スウェーデン王、グスタフ・アドルフ、プロシアのフリードリヒ大王等と並べて称賛しています。 -
もう1つの銅像はカール大公の銅像。
オーストリア初代皇帝・フランツ1世の弟で、ナポレオンとも何度も戦った皇族の軍人です。
結局ナポレオンには勝てませんでしたが、オーストリア屈指の名将として高く評価されています。
後ろに見えるのはオーストリア国会議事堂です。 -
王宮の隣にあるアウグスティーナ教会。
ハプスブルグ家の婚礼は代々ここで行われました。
「女帝」マリア・テレジアと夫のフランツ1世、マリア・テレジアの娘であるマリーアントワネットとフランス王・ルイ16世(代理人)、そして、フランツ・ヨーゼフとエリーザベトなどの婚礼はここで行われました。アウグスティーナー教会 寺院・教会
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