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おばあちゃんたちの修学旅行も最終日です。ホテルをチェックアウトしてまずは「東寺」に向かいます。実はここが一番楽しみにしていたところで「五重塔特別拝観」があります。生前に母が「もう一度東寺の五重塔の中を見たい。」と言っていたことを覚えていたからでした。京都というところは面白いところで、祖父の顔の広さもありますが生まれた家のせいなのか、普段公開していないところや特別な予約が必要な所でもなんとかなって見学することが出来てしまいました。現在はそんなコネクションはありませんが、いい時代だったと思います。「東寺」を参拝した後は京都市内を離れて最後の「醍醐寺」の拝観です。ここも50年振りでしたが「三宝院本堂特別拝観」というものでした。これで7寺社の参拝が終わり、バスに乗って山科から高速で彦根に向かいます。ここで1時間半のフリータイムがあり自由昼食になります。軽く食事して「彦根城」にも行きたかったのですが、せっかくなので近江牛のステーキを食べに「せんなり亭」に入ってしまいました。美味しいお肉を堪能した後は「クラブハリエ・彦根美濠の舎」へ行く妻たちと別れて1人「玄宮園」の方へ行ってみました。30年近く前に妻と行った「八景亭」という料亭の跡を見たかったのですが、時間切れで諦めて戻ってきました。今回の添乗員さんは良い人だったのですが、2日目のお昼の時間が違ったり、この日捏ねでも間違ったことを教えられて時間が足りなくなってしまいました。琵琶湖周辺はもう一度時間を取ってこようと思っているので、次回の旅に託すことにします。彦根からは再び高速道路に戻り、雪を被った「伊吹山」を越えて岐阜羽島駅でバスを降ります。ここからは「こだま」のグリーン車で東京まで戻るのですが、3人旅なのに席が離れ離れになってしまいました。2人の古希の旅はもう一度12月にMSCベリッシマで締めくくるようです。

トラピックス 冬の京都7社寺特別拝観(4)東寺の五重塔の特別拝観と醍醐寺を参拝して、彦根の「せんなり亭」で近江牛のステーキに舌鼓み。

10いいね!

2025/03/01 - 2025/03/01

354位(同エリア596件中)

旅行記グループ 2025冬の京都

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kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

おばあちゃんたちの修学旅行も最終日です。ホテルをチェックアウトしてまずは「東寺」に向かいます。実はここが一番楽しみにしていたところで「五重塔特別拝観」があります。生前に母が「もう一度東寺の五重塔の中を見たい。」と言っていたことを覚えていたからでした。京都というところは面白いところで、祖父の顔の広さもありますが生まれた家のせいなのか、普段公開していないところや特別な予約が必要な所でもなんとかなって見学することが出来てしまいました。現在はそんなコネクションはありませんが、いい時代だったと思います。「東寺」を参拝した後は京都市内を離れて最後の「醍醐寺」の拝観です。ここも50年振りでしたが「三宝院本堂特別拝観」というものでした。これで7寺社の参拝が終わり、バスに乗って山科から高速で彦根に向かいます。ここで1時間半のフリータイムがあり自由昼食になります。軽く食事して「彦根城」にも行きたかったのですが、せっかくなので近江牛のステーキを食べに「せんなり亭」に入ってしまいました。美味しいお肉を堪能した後は「クラブハリエ・彦根美濠の舎」へ行く妻たちと別れて1人「玄宮園」の方へ行ってみました。30年近く前に妻と行った「八景亭」という料亭の跡を見たかったのですが、時間切れで諦めて戻ってきました。今回の添乗員さんは良い人だったのですが、2日目のお昼の時間が違ったり、この日捏ねでも間違ったことを教えられて時間が足りなくなってしまいました。琵琶湖周辺はもう一度時間を取ってこようと思っているので、次回の旅に託すことにします。彦根からは再び高速道路に戻り、雪を被った「伊吹山」を越えて岐阜羽島駅でバスを降ります。ここからは「こだま」のグリーン車で東京まで戻るのですが、3人旅なのに席が離れ離れになってしまいました。2人の古希の旅はもう一度12月にMSCベリッシマで締めくくるようです。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
3.5
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
交通
4.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス タクシー 新幹線 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社
  • ツアーも最終日の朝になりました。年に1回は一緒に旅行したいねと言いながら2年振りの3人旅でした。

    ツアーも最終日の朝になりました。年に1回は一緒に旅行したいねと言いながら2年振りの3人旅でした。

    ベッセルホテルカンパーナ京都五条 宿・ホテル

  • この日のお昼は彦根で自由昼食になりますが、かなり遅い時間になりそうなので朝ごはんはしっかり食べておきます。

    この日のお昼は彦根で自由昼食になりますが、かなり遅い時間になりそうなので朝ごはんはしっかり食べておきます。

  • 午前8時45分にホテルを出発し、五条通りから大宮通りを南に向かいJRの線路の上を通過します。

    午前8時45分にホテルを出発し、五条通りから大宮通りを南に向かいJRの線路の上を通過します。

  • この日の最初に参拝は「東寺」です。ここへは昨年の京都の旅でも来ていますが、今回は特別参観があります。

    この日の最初に参拝は「東寺」です。ここへは昨年の京都の旅でも来ていますが、今回は特別参観があります。

    東寺(教王護国寺) 寺・神社・教会

  • 今回は「五重塔」の中を観ることが出来ます。母が若い頃に祖父に連れられて観たことがあり、亡くなる前にも「もう一度東寺の五重塔の中を観たい。」と言っていたのを覚えています。

    今回は「五重塔」の中を観ることが出来ます。母が若い頃に祖父に連れられて観たことがあり、亡くなる前にも「もう一度東寺の五重塔の中を観たい。」と言っていたのを覚えています。

  • 境内の駐車場でバスを降りて、添乗員さんからパンフレットを貰った後は50分のフリータイムになります。「不二桜」は菰を巻かれて痛々しい姿を見せています。弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と名付けられています。

    境内の駐車場でバスを降りて、添乗員さんからパンフレットを貰った後は50分のフリータイムになります。「不二桜」は菰を巻かれて痛々しい姿を見せています。弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と名付けられています。

  • 国宝に指定されている「五重塔」は883年の元慶7年頃に創建されたものを、5度もの焼失の後に1644年の寛永21年に3代将軍の徳川家光の寄進により再建したものです。

    国宝に指定されている「五重塔」は883年の元慶7年頃に創建されたものを、5度もの焼失の後に1644年の寛永21年に3代将軍の徳川家光の寄進により再建したものです。

  • 現存する「五重塔」では日本一の55メートルもあり、三間四方に本瓦葺きの構造です。塔自体を本尊として空海が唐より持ち帰った仏舎利が中心柱の下に納められています。

    現存する「五重塔」では日本一の55メートルもあり、三間四方に本瓦葺きの構造です。塔自体を本尊として空海が唐より持ち帰った仏舎利が中心柱の下に納められています。

  • 空海存命中には塔の完成が間に合わず、弘法大師入定の50年後の883年の元慶7年に創建されました。初層の内部には四天柱に曼陀羅諸尊が描かれ、その中心には大日如来が安置されています。

    空海存命中には塔の完成が間に合わず、弘法大師入定の50年後の883年の元慶7年に創建されました。初層の内部には四天柱に曼陀羅諸尊が描かれ、その中心には大日如来が安置されています。

  • 通常は塔の周りに巡らされた柵の中に班入れないので内部をうかがい知ることは出来ません。参観できるとなると柵に設置された案内板にも興味が湧いてきます。

    通常は塔の周りに巡らされた柵の中に班入れないので内部をうかがい知ることは出来ません。参観できるとなると柵に設置された案内板にも興味が湧いてきます。

  • 初層内は極彩色で彩られた密教空間が広がっています。中央の心柱を大日如来として、周りには四尊の如来、八尊の菩薩が配されています。さらに四方の柱には金剛界曼荼羅が描かれるという、特別な空間に身をおくことができます。この塔を天から見ると像の配置自体が曼荼羅に見立てられています。初層内へは東から入り、ここでも逆回りに参拝して南に抜けるようになっています。東面は阿閦如来三尊像です。

    初層内は極彩色で彩られた密教空間が広がっています。中央の心柱を大日如来として、周りには四尊の如来、八尊の菩薩が配されています。さらに四方の柱には金剛界曼荼羅が描かれるという、特別な空間に身をおくことができます。この塔を天から見ると像の配置自体が曼荼羅に見立てられています。初層内へは東から入り、ここでも逆回りに参拝して南に抜けるようになっています。東面は阿閦如来三尊像です。

  • 北面は須弥壇の下の扉が開いていて、心柱が見られるようになっています。照明もあるのでしっかり見えました。大きな礎石に浅く彫りを入れて、その上に四角い心柱が乗っています。これで塔を支えているのですからものすごい耐震構造を備えた柱です。スカイツリーも基本は同じ構造です。北面は不空成就如来三尊像

    北面は須弥壇の下の扉が開いていて、心柱が見られるようになっています。照明もあるのでしっかり見えました。大きな礎石に浅く彫りを入れて、その上に四角い心柱が乗っています。これで塔を支えているのですからものすごい耐震構造を備えた柱です。スカイツリーも基本は同じ構造です。北面は不空成就如来三尊像

  • 大日如来の東南西北には阿閦如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来の4如来が位置し、これらを合わせて金剛界五仏あるいは五智如来といういいます。<br />西面は阿弥陀如来三尊像です。

    大日如来の東南西北には阿閦如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来の4如来が位置し、これらを合わせて金剛界五仏あるいは五智如来といういいます。
    西面は阿弥陀如来三尊像です。

  • 各如来には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)と呼ばれるそれぞれ関係の深い菩薩が脇侍として配されています。「胎蔵曼荼羅」が真理を実践的な側面である現象世界のものとして捉えるのに対し、「金剛界曼荼羅」では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられます。南面は宝生如来三尊像です。

    各如来には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)と呼ばれるそれぞれ関係の深い菩薩が脇侍として配されています。「胎蔵曼荼羅」が真理を実践的な側面である現象世界のものとして捉えるのに対し、「金剛界曼荼羅」では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられます。南面は宝生如来三尊像です。

  • 長年参拝したかった初層の仏たちに手を合わせることが出来て良かったです。一歩母に近づけたような気がしました。

    長年参拝したかった初層の仏たちに手を合わせることが出来て良かったです。一歩母に近づけたような気がしました。

  • 今回7カ所の特別参観をしましたが、個人的には「東寺」の「五重塔」だけで良かったように思えました。ここで妻たちとは別れて1人で参拝を続けることにします。

    今回7カ所の特別参観をしましたが、個人的には「東寺」の「五重塔」だけで良かったように思えました。ここで妻たちとは別れて1人で参拝を続けることにします。

  • 796年の延暦15年に東寺が創建され、最初に工事がはじめられたのが「金堂」です。「金堂」には朝廷が造営した官寺(かんじ)の寺院にふさわしい荘厳な姿が求められました。以後600年以上に渡り都の正面で威風堂々とその姿を残していました。しかし1486年の文明18年に焼失し、現在の建物は関ヶ原の合戦後に落慶しました。<br />

    796年の延暦15年に東寺が創建され、最初に工事がはじめられたのが「金堂」です。「金堂」には朝廷が造営した官寺(かんじ)の寺院にふさわしい荘厳な姿が求められました。以後600年以上に渡り都の正面で威風堂々とその姿を残していました。しかし1486年の文明18年に焼失し、現在の建物は関ヶ原の合戦後に落慶しました。

  • 宋の様式を取り入れた天竺様(てんじくよう)と和様を合わせた桃山時代の代表的な建物で、屋根の中央の切り上げは東大寺大仏殿や平等院鳳凰堂にも見られる形です。

    宋の様式を取り入れた天竺様(てんじくよう)と和様を合わせた桃山時代の代表的な建物で、屋根の中央の切り上げは東大寺大仏殿や平等院鳳凰堂にも見られる形です。

  • 小屋根の下にある両開きの扉は法会のときに開けられ、散華したともいわれます。

    小屋根の下にある両開きの扉は法会のときに開けられ、散華したともいわれます。

  • 本尊の薬師如来は薬壺(やくこ)を持たない古い様式の仏像で、光背に七体の化仏を配する「七仏薬師如来」です。本尊に対面して右側は「日光菩薩」、左側は「月光菩薩」の脇侍が配されています。堂内は写真撮影が禁止なので古い葉書などを使っています。

    本尊の薬師如来は薬壺(やくこ)を持たない古い様式の仏像で、光背に七体の化仏を配する「七仏薬師如来」です。本尊に対面して右側は「日光菩薩」、左側は「月光菩薩」の脇侍が配されています。堂内は写真撮影が禁止なので古い葉書などを使っています。

  • 「東寺」の境内は東西255メートル、南北515メートルの長方形をしていて、その寺域のなかで大伽藍が建っているエリアは、東西南北とも255メートルでほぼ正方形です。その中心に「講堂」は位置しています。

    「東寺」の境内は東西255メートル、南北515メートルの長方形をしていて、その寺域のなかで大伽藍が建っているエリアは、東西南北とも255メートルでほぼ正方形です。その中心に「講堂」は位置しています。

  • 東寺を託された弘法大師空海は人生のすべてを注いで、密教という教えを伝えようとしました。その中心的な建物として位置づけたのが「講堂」です。

    東寺を託された弘法大師空海は人生のすべてを注いで、密教という教えを伝えようとしました。その中心的な建物として位置づけたのが「講堂」です。

  • 「講堂」の建設は823年の弘仁14年にはじめられ、16年後の839年の承和6年に完成しました。当時は「講堂」と「金堂」の周囲を廻廊が巡り、2つの大伽藍をつないでいました。しかし1486年の文明18年に「金堂」、「南大門」などとともに焼失してしまいます。「金堂」が桃山時代、「南大門」が江戸時代に入ってから再建できたのに対し、「講堂」は焼失より5年後に最優先で再建されました。

    「講堂」の建設は823年の弘仁14年にはじめられ、16年後の839年の承和6年に完成しました。当時は「講堂」と「金堂」の周囲を廻廊が巡り、2つの大伽藍をつないでいました。しかし1486年の文明18年に「金堂」、「南大門」などとともに焼失してしまいます。「金堂」が桃山時代、「南大門」が江戸時代に入ってから再建できたのに対し、「講堂」は焼失より5年後に最優先で再建されました。

  • 密教を伝え広めるために建立された「講堂」は教えを視覚的に表した「羯磨曼荼羅(かつままんだら)」となっています。いわゆる立体曼荼羅は弘法大師空海の手によるものです。弘法大師空海は大日如来を中心とした二十一尊の仏像を「講堂」の須弥壇に登場させました。曼荼羅の中心に大日如来が描かれているように、東寺の中心にこの「大日如来坐像」を安置して、寺域を巨大な曼荼羅にレイアウトました。

    密教を伝え広めるために建立された「講堂」は教えを視覚的に表した「羯磨曼荼羅(かつままんだら)」となっています。いわゆる立体曼荼羅は弘法大師空海の手によるものです。弘法大師空海は大日如来を中心とした二十一尊の仏像を「講堂」の須弥壇に登場させました。曼荼羅の中心に大日如来が描かれているように、東寺の中心にこの「大日如来坐像」を安置して、寺域を巨大な曼荼羅にレイアウトました。

  • 大日如来を中心に五智如来、大日如来に対面して右側に金剛波羅蜜多菩薩を中心にした五大菩薩、左側に不動明王を中心にした五大明王、須弥壇の四方には四天王、そして梵天(帝釈天)が警護するように配されています。

    大日如来を中心に五智如来、大日如来に対面して右側に金剛波羅蜜多菩薩を中心にした五大菩薩、左側に不動明王を中心にした五大明王、須弥壇の四方には四天王、そして梵天(帝釈天)が警護するように配されています。

  • 境内は丁度梅の季節だったので紅白の梅がきれいでした。

    境内は丁度梅の季節だったので紅白の梅がきれいでした。

  • とはいえ花をつけているのは数本だけでした。

    とはいえ花をつけているのは数本だけでした。

  • 再び「五重塔」に戻ってもう一度初層の仏たちに手を合わせてきました。表に出ると太陽が出てきて、境内に美しい影を落としました。なるほど五重の屋根の大きさが同じなのだろうということが分かります。

    再び「五重塔」に戻ってもう一度初層の仏たちに手を合わせてきました。表に出ると太陽が出てきて、境内に美しい影を落としました。なるほど五重の屋根の大きさが同じなのだろうということが分かります。

  • 昨年参観に来たときに何故か参拝するのを忘れてしまった「御影堂」に行くのも今回の目的の1つでした。

    昨年参観に来たときに何故か参拝するのを忘れてしまった「御影堂」に行くのも今回の目的の1つでした。

  • 大伽藍の建ち並ぶ境内の北西の築地で囲まれた一角が、弘法大師空海が住んでいた「御影堂」です。弘法大師空海はここで「講堂」の立体曼荼羅を構想し、造営工事の指揮をとりました。

    大伽藍の建ち並ぶ境内の北西の築地で囲まれた一角が、弘法大師空海が住んでいた「御影堂」です。弘法大師空海はここで「講堂」の立体曼荼羅を構想し、造営工事の指揮をとりました。

  • 弘法大師空海の足跡として西安(長安)の青龍寺を参拝したことがあります。その時は遣唐使船に乗って良くここまで来たものだと思った程度でした。その後に高野山を参拝し、四国を巡る旅の中で興味を持つようになりました。

    弘法大師空海の足跡として西安(長安)の青龍寺を参拝したことがあります。その時は遣唐使船に乗って良くここまで来たものだと思った程度でした。その後に高野山を参拝し、四国を巡る旅の中で興味を持つようになりました。

  • 再び高野山を参ったあとに何十年と「東寺」へも参っていないと思いました。昨年は片落ちながら参拝することができ、今日は「五重塔」の仏様にも手を合わせることが出来て良かったと思います。

    再び高野山を参ったあとに何十年と「東寺」へも参っていないと思いました。昨年は片落ちながら参拝することができ、今日は「五重塔」の仏様にも手を合わせることが出来て良かったと思います。

  • 最後に「南大門」周りも見ておくことにします。九条通りに面する「南大門」は「東寺」の正門でもあります。

    最後に「南大門」周りも見ておくことにします。九条通りに面する「南大門」は「東寺」の正門でもあります。

  • 堀に沿った「版築塀」と「五重塔」が美しく見えました。版築の歴史は古く、中国では粒子の細かい黄土が手に入りやすかったことから多くの建造物に利用されました。万里の長城や始皇帝陵などもこの工法でつくられたといわれます。昨日参観した「龍安寺」の石庭の周りもこの「版築塀」です。

    堀に沿った「版築塀」と「五重塔」が美しく見えました。版築の歴史は古く、中国では粒子の細かい黄土が手に入りやすかったことから多くの建造物に利用されました。万里の長城や始皇帝陵などもこの工法でつくられたといわれます。昨日参観した「龍安寺」の石庭の周りもこの「版築塀」です。

  • 堀の中にいる小魚を狙ってアオサギが一羽目の前にいました。何年か前の熊本の旅では「水前寺公園」でこの鳥に追いかけられたのを思い出します。

    堀の中にいる小魚を狙ってアオサギが一羽目の前にいました。何年か前の熊本の旅では「水前寺公園」でこの鳥に追いかけられたのを思い出します。

  • 狙いを定めて首を伸ばしましたが見失ったようです。

    狙いを定めて首を伸ばしましたが見失ったようです。

  • 「南大門」は数ある「東寺」の門の中で最も大きく、幅18メートル高さ13メートルの大きさで、切妻造本瓦葺、三間一戸の八脚門です。1601年の慶長6年に「三十三間堂(蓮花王院)」の西門として建てられたものを1895年の明治28年に「南大門」として移築したものです。

    「南大門」は数ある「東寺」の門の中で最も大きく、幅18メートル高さ13メートルの大きさで、切妻造本瓦葺、三間一戸の八脚門です。1601年の慶長6年に「三十三間堂(蓮花王院)」の西門として建てられたものを1895年の明治28年に「南大門」として移築したものです。

  • 「東寺」の参観を終えた後はバスに乗り込み京都市内から離れます。

    「東寺」の参観を終えた後はバスに乗り込み京都市内から離れます。

    鴨川 自然・景勝地

  • 今回の旅の最後は「醍醐寺三宝院」の特別公開です。

    今回の旅の最後は「醍醐寺三宝院」の特別公開です。

  • 「霊宝館」近くの駐車場でバスを降りて「三宝院」に向かって歩きます。この3日間ポカポカ陽気で良かったです。

    「霊宝館」近くの駐車場でバスを降りて「三宝院」に向かって歩きます。この3日間ポカポカ陽気で良かったです。

  • 「三宝院」の門の前で添乗員さんがチケットを買ってくるのを待ちます。ここへ来るのも50年振りのことですが、何も変わっていなような雰囲気です。

    「三宝院」の門の前で添乗員さんがチケットを買ってくるのを待ちます。ここへ来るのも50年振りのことですが、何も変わっていなような雰囲気です。

    醍醐寺 寺・神社・教会

  • 「桜馬場」の奥には「西大門(仁王門)」が見えます。もう1カ月もすると桜も満開になって混雑するのだと思います。冬枯れの桜並木の先に仏旗の六色が見えます。

    「桜馬場」の奥には「西大門(仁王門)」が見えます。もう1カ月もすると桜も満開になって混雑するのだと思います。冬枯れの桜並木の先に仏旗の六色が見えます。

  • 現在の三宝院は、その建造物の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されています。

    現在の三宝院は、その建造物の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されています。

  • 「唐門」<br />門跡寺院として朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる勅使門が「唐門」です。創建時は門全体が黒の漆塗で菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施されていました。平成22年7月に約1年半をかけ、往時の壮麗な姿に修復されました。

    「唐門」
    門跡寺院として朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる勅使門が「唐門」です。創建時は門全体が黒の漆塗で菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施されていました。平成22年7月に約1年半をかけ、往時の壮麗な姿に修復されました。

  • 三宝院庭園は1598年の慶長3年に豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。

    三宝院庭園は1598年の慶長3年に豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。

    醍醐寺三宝院 名所・史跡

  • 中心である「金堂」は豊臣秀吉の命によって紀州の湯浅から移築されたもので、主要部は平安末期の様式を完全に残しています。 本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作で、いずれも重要文化財に指定されています。国宝の「五重塔」は醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工し、村上天皇の951年の天暦5年に完成しました。 京都府下最古の木造建造物で、内部の壁画は日本密教絵画の源流をなすものといわれています。下伽藍にはその他清瀧宮本殿や祖師堂、不動堂、観音堂、弁天堂、女人堂など多くの堂宇が点在しています。醍醐寺には、上醍醐と下醍醐の伽藍にあわせて6棟の国宝と10棟の重要文化財の建物があります。

    中心である「金堂」は豊臣秀吉の命によって紀州の湯浅から移築されたもので、主要部は平安末期の様式を完全に残しています。 本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作で、いずれも重要文化財に指定されています。国宝の「五重塔」は醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工し、村上天皇の951年の天暦5年に完成しました。 京都府下最古の木造建造物で、内部の壁画は日本密教絵画の源流をなすものといわれています。下伽藍にはその他清瀧宮本殿や祖師堂、不動堂、観音堂、弁天堂、女人堂など多くの堂宇が点在しています。醍醐寺には、上醍醐と下醍醐の伽藍にあわせて6棟の国宝と10棟の重要文化財の建物があります。

  • 1週間前の2月23日に大きな紅白の鏡餅を持ち上げ、その時間を競う「餅上げ力奉納」があったようです。国宝の「金堂」の前に設けた舞台で男性は150キロ、女性は90キロの鏡餅を抱え上げたというニュースを見たことがあります。

    1週間前の2月23日に大きな紅白の鏡餅を持ち上げ、その時間を競う「餅上げ力奉納」があったようです。国宝の「金堂」の前に設けた舞台で男性は150キロ、女性は90キロの鏡餅を抱え上げたというニュースを見たことがあります。

  • 「五大力さん」として親しまれている法要「五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)」の行事の1つで、不動明王など五大明王に力を奉納して無病息災を祈ります。こちらは「日・月・海の間」で、襖絵は1998年の平成10年に三宝院の庭園の400周年を記念して現代風景画家である浜田泰介によって描かれました。

    「五大力さん」として親しまれている法要「五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)」の行事の1つで、不動明王など五大明王に力を奉納して無病息災を祈ります。こちらは「日・月・海の間」で、襖絵は1998年の平成10年に三宝院の庭園の400周年を記念して現代風景画家である浜田泰介によって描かれました。

  • 「富嶽の間」の3面には秋と冬の富士と夕焼けの夏の富士が描かれています。

    「富嶽の間」の3面には秋と冬の富士と夕焼けの夏の富士が描かれています。

  • 1つの部屋に3つの富士ではちょっと賑やかすぎる気がします。さらに部屋の中央には門跡の巨大な生け花があり、どこを観ればよいか視線が泳いでしまいます。

    1つの部屋に3つの富士ではちょっと賑やかすぎる気がします。さらに部屋の中央には門跡の巨大な生け花があり、どこを観ればよいか視線が泳いでしまいます。

  • 「三宝院」で良かったのは仏像や仏画以外の写真撮影が出来たことです。

    「三宝院」で良かったのは仏像や仏画以外の写真撮影が出来たことです。

  • 「純浄観」も通常は非公開のようですが、この時は障子を開けて解放されていました。建物は太閤秀吉が槍山で花見をしたときの物を移築したものといわれています。襖絵の桜と紅葉は平成に入って浜田泰介画伯が描いたものだそうです。

    「純浄観」も通常は非公開のようですが、この時は障子を開けて解放されていました。建物は太閤秀吉が槍山で花見をしたときの物を移築したものといわれています。襖絵の桜と紅葉は平成に入って浜田泰介画伯が描いたものだそうです。

  • 満開の枝垂桜が妖艶な雰囲気を醸し出しています。その桜は床の間の違い棚の奥まで伸びています。

    満開の枝垂桜が妖艶な雰囲気を醸し出しています。その桜は床の間の違い棚の奥まで伸びています。

  • 大正から昭和30年代までは母方の祖父母が祖父の生家の二条陣屋で宿を営んでいたことがありました。京都へ絵を描きにくる画家の方が多かったようで、祖母から土田麦僊の奥さんが「桜を描くときは絵の具を指で溶いて指紋が無くなるほどで大変でした。」という話を聞いたことを思い出しました。

    大正から昭和30年代までは母方の祖父母が祖父の生家の二条陣屋で宿を営んでいたことがありました。京都へ絵を描きにくる画家の方が多かったようで、祖母から土田麦僊の奥さんが「桜を描くときは絵の具を指で溶いて指紋が無くなるほどで大変でした。」という話を聞いたことを思い出しました。

  • 建物の中はボランティアのガイドさんの案内で参観しましたが、その方の話では違い棚はそのままに描いてきた絵を嵌め込んだということでした。

    建物の中はボランティアのガイドさんの案内で参観しましたが、その方の話では違い棚はそのままに描いてきた絵を嵌め込んだということでした。

  • 「藤戸石」<br />池の対岸の橋と橋の間の石組は阿弥陀三尊を表しています。歴代の武将に引き継がれたことから「天下の名石」といわれています。

    「藤戸石」
    池の対岸の橋と橋の間の石組は阿弥陀三尊を表しています。歴代の武将に引き継がれたことから「天下の名石」といわれています。

  • 「賀茂の三石」<br />池の手前に3つの珍しい形の石の向かって左の石は賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、右の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表しています。

    「賀茂の三石」
    池の手前に3つの珍しい形の石の向かって左の石は賀茂川の「流れの速いさま」を、中の石は「川の淀んだ状態」を、右の石は「川の水が割れて砕け散る様子」を表しています。

  • 三宝院庭園は1598年の慶長3年に豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。

    三宝院庭園は1598年の慶長3年に豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭であり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。

  • 「本堂」<br />本尊が快慶作の弥勒菩薩であるため、別名「弥勒堂」といわれています。脇仏として右に宗祖弘法大師、左に開祖理源大師が安置されています。ここもこの時だけの特別公開です。さすがに堂内は写真撮影は出来ません。

    「本堂」
    本尊が快慶作の弥勒菩薩であるため、別名「弥勒堂」といわれています。脇仏として右に宗祖弘法大師、左に開祖理源大師が安置されています。ここもこの時だけの特別公開です。さすがに堂内は写真撮影は出来ません。

  • 「松月亭」<br />奥宸殿の東北側に通常非公開の茶室「松月亭」があります。この茶室は江戸末期に作られたとされ、四畳半で東に丸窓が有るのが特徴です。南側に竹の縁、躙り口があり、屋根は切妻柿葦の造りです。

    「松月亭」
    奥宸殿の東北側に通常非公開の茶室「松月亭」があります。この茶室は江戸末期に作られたとされ、四畳半で東に丸窓が有るのが特徴です。南側に竹の縁、躙り口があり、屋根は切妻柿葦の造りです。

  • ここも後悔されているので数人づつ交代で中に入ることが出来ました。内部での写真撮影は出来ません。

    ここも後悔されているので数人づつ交代で中に入ることが出来ました。内部での写真撮影は出来ません。

  • 「奥宸殿」<br />「松月亭」へ入る順番を待ちながら「奥宸殿」の写真は撮らなかったのか撮影禁止だったのか定かではありません。主室の上座の間は床棚書院と武者隠しの帳台構を備えています。棚は「醍醐棚」と呼ばれる有名な違い棚で、修学院離宮の「霞棚」と桂離宮の「桂棚」とともに「天下の三大名棚」と称されています。

    「奥宸殿」
    「松月亭」へ入る順番を待ちながら「奥宸殿」の写真は撮らなかったのか撮影禁止だったのか定かではありません。主室の上座の間は床棚書院と武者隠しの帳台構を備えています。棚は「醍醐棚」と呼ばれる有名な違い棚で、修学院離宮の「霞棚」と桂離宮の「桂棚」とともに「天下の三大名棚」と称されています。

  • 修学院離宮と桂離宮は共に御殿の中に入れてもらったことがあるので、これで全部制覇したことになります。母や祖母は桂離宮の月見台で月見をしたことがあると言っていましたが、もうそんなことが出来る時代ではなくなりました。

    修学院離宮と桂離宮は共に御殿の中に入れてもらったことがあるので、これで全部制覇したことになります。母や祖母は桂離宮の月見台で月見をしたことがあると言っていましたが、もうそんなことが出来る時代ではなくなりました。

  • 今回は40人を超えるツアーだったので、ここでも2班に分かれて2人のガイドさんの説明で参観しました。

    今回は40人を超えるツアーだったので、ここでも2班に分かれて2人のガイドさんの説明で参観しました。

  • 関白秀吉が自ら点てたお茶で一般庶民をもてなした京都「北野大茶湯」、5,000人が5日にわたって集った奈良「吉野山の花見」、そして「醍醐の花見」が有名ですが、1598年の慶長3年に催された醍醐の花見は秀吉の最晩年のことで、そこには秀吉の人生を集大成させるような並々ならぬ想いが込められていたようです。

    関白秀吉が自ら点てたお茶で一般庶民をもてなした京都「北野大茶湯」、5,000人が5日にわたって集った奈良「吉野山の花見」、そして「醍醐の花見」が有名ですが、1598年の慶長3年に催された醍醐の花見は秀吉の最晩年のことで、そこには秀吉の人生を集大成させるような並々ならぬ想いが込められていたようです。

  • 構想自体は前年から決まっていたそうですが、正式決定されたのは開催のわずか1ヶ月ほど前のことで、秀吉は徳川家康や前田利家などの大名を従えて醍醐まで下見に出かけています。ここから突貫大工事がはじまり、700本もの桜を吉野や近江など畿内からかき集め1週間で移植します。

    構想自体は前年から決まっていたそうですが、正式決定されたのは開催のわずか1ヶ月ほど前のことで、秀吉は徳川家康や前田利家などの大名を従えて醍醐まで下見に出かけています。ここから突貫大工事がはじまり、700本もの桜を吉野や近江など畿内からかき集め1週間で移植します。

  • 花見当日の参加者は約1,300人と人数自体は吉野の花見の方がはるかに多いのですが、男は秀吉とその息子である秀頼、そして前田利家の3人だけだったそうです。この花見で桜とともに美を競ったのが秀吉の側室や大名の奥方で、3着の着物はすべて新調したもので、この衣装代だけで現在のお金にすると40億円にもなったそうです。

    花見当日の参加者は約1,300人と人数自体は吉野の花見の方がはるかに多いのですが、男は秀吉とその息子である秀頼、そして前田利家の3人だけだったそうです。この花見で桜とともに美を競ったのが秀吉の側室や大名の奥方で、3着の着物はすべて新調したもので、この衣装代だけで現在のお金にすると40億円にもなったそうです。

  • 「表書院」<br />庭に面して建っている表書院は書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあります。平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築で、下段・中段・上段の間に分かれます。

    「表書院」
    庭に面して建っている表書院は書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあります。平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築で、下段・中段・上段の間に分かれます。

  • 下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。能舞台の様子は畳が敷いてあるのでうかがい知れませんが、祖父の家も同じ造りなので想像がつきます。

    下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。能舞台の様子は畳が敷いてあるのでうかがい知れませんが、祖父の家も同じ造りなので想像がつきます。

  • 上段の間の襖絵は四季の柳を主題とし、中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、長谷川等伯一派の作といわれています。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれています。

    上段の間の襖絵は四季の柳を主題とし、中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、長谷川等伯一派の作といわれています。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれています。

  • 「勅使の間」<br />ここの襖絵は竹林花鳥図です。桃山時代の作品で長谷川等伯一派の作といわれています。

    「勅使の間」
    ここの襖絵は竹林花鳥図です。桃山時代の作品で長谷川等伯一派の作といわれています。

  • 「秋草の間」<br />襖絵には秋の七草が点在する広々とした風景が描かれています。

    「秋草の間」
    襖絵には秋の七草が点在する広々とした風景が描かれています。

  • 「唐門」の内側はいつ朝廷からの使者が来てもいいように整えられているようです。

    「唐門」の内側はいつ朝廷からの使者が来てもいいように整えられているようです。

  • 「葵の間」<br />葵祭は祇園祭と時代祭と並ぶ京都三大祭の1つです。襖絵には下鴨神社から上賀茂神社へ向かって行列している葵祭の様子が描かれています。

    「葵の間」
    葵祭は祇園祭と時代祭と並ぶ京都三大祭の1つです。襖絵には下鴨神社から上賀茂神社へ向かって行列している葵祭の様子が描かれています。

  • 3つの祭りのうちで唯一観た記憶がないのが葵祭です。京都に住む従妹が斎王代の付き人のような役で参加したことがありましたが、観に行ってあげられませんでした。まだまだ京都でやらねばならないことがあります。

    3つの祭りのうちで唯一観た記憶がないのが葵祭です。京都に住む従妹が斎王代の付き人のような役で参加したことがありましたが、観に行ってあげられませんでした。まだまだ京都でやらねばならないことがあります。

  • 添乗員さんの話では上醍醐側の「五重塔」も貰ったチケットで参観できるということだったのですが、入り口では入れてもらえませんでした。なんだか今回のツアーはグズグズです。

    添乗員さんの話では上醍醐側の「五重塔」も貰ったチケットで参観できるということだったのですが、入り口では入れてもらえませんでした。なんだか今回のツアーはグズグズです。

  • 「総門」から写真を1枚撮って、奈良街道に面して立つ郵便ポストに絵葉書を投函しました。

    「総門」から写真を1枚撮って、奈良街道に面して立つ郵便ポストに絵葉書を投函しました。

  • 「醍醐寺」を出たバスは山科の京都東ICから高速道路に乗って「彦根」を目指します。大津SA辺りから琵琶湖が見えたかと思っていましたが一瞬も見えず。

    「醍醐寺」を出たバスは山科の京都東ICから高速道路に乗って「彦根」を目指します。大津SA辺りから琵琶湖が見えたかと思っていましたが一瞬も見えず。

  • 正面に滋賀県の最高峰「伊吹山」が見えています。古くから霊峰とされ、「古事記」「日本書紀」においては日本武尊が東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されています。

    正面に滋賀県の最高峰「伊吹山」が見えています。古くから霊峰とされ、「古事記」「日本書紀」においては日本武尊が東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されています。

  • 「近江八幡」の八幡山が見えてきました。標高271.9メートルの山頂にには安土城が落城してから3年後に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が築いた八幡山城の跡があります。ここまではロープウェイが通っているので行ってみたいと思い真柄まだいけていません。

    「近江八幡」の八幡山が見えてきました。標高271.9メートルの山頂にには安土城が落城してから3年後に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が築いた八幡山城の跡があります。ここまではロープウェイが通っているので行ってみたいと思い真柄まだいけていません。

  • 4トラベルでも最後まで空白地だったのが滋賀県で、琵琶湖を中心にじっくり旅してみたいとは思っているのですが…。30年前に「琵琶湖ホテル」に数カ月滞在しながらおーぷんさせた「ショッピングセンターセンター」ももうありません。

    4トラベルでも最後まで空白地だったのが滋賀県で、琵琶湖を中心にじっくり旅してみたいとは思っているのですが…。30年前に「琵琶湖ホテル」に数カ月滞在しながらおーぷんさせた「ショッピングセンターセンター」ももうありません。

  • 午後2時30分に彦根城下に到着しました。ここで1時間30分のフリータイムになり、昼食も摂らなければなりません。

    午後2時30分に彦根城下に到着しました。ここで1時間30分のフリータイムになり、昼食も摂らなければなりません。

    彦根城 名所・史跡

  • 添乗員さんに食事をしたら「彦根城」に行くことは出来ないので、この近くで天守が見えるところを教えて欲しいと尋ねると、橋を渡った先で見るというので食事の後に行ったら全くのでたらめで時間を無駄にしました。

    添乗員さんに食事をしたら「彦根城」に行くことは出来ないので、この近くで天守が見えるところを教えて欲しいと尋ねると、橋を渡った先で見るというので食事の後に行ったら全くのでたらめで時間を無駄にしました。

  • 食事の先は到着時間が分からなかったので予約は出来ませんでした。いくつか目星は上げていたのですが、ここまでツアーの旅にしては贅沢に食事してきたので軽くしようと思っていました。

    食事の先は到着時間が分からなかったので予約は出来ませんでした。いくつか目星は上げていたのですが、ここまでツアーの旅にしては贅沢に食事してきたので軽くしようと思っていました。

    夢京橋キャッスルロード 名所・史跡

  • ところがそんな気持ちは妻には伝わらず「せんなり亭 心華房」という店に入って行ってしまいます。妻は外資系の広告代理店を早期退職して、かれこれ10年も年金を貰っているはずですがいくらもらっているのか教えてくれません。こちらは年金をもらうまであと1年半で一応無収入です。たまにはご馳走してもらいたいものです。

    ところがそんな気持ちは妻には伝わらず「せんなり亭 心華房」という店に入って行ってしまいます。妻は外資系の広告代理店を早期退職して、かれこれ10年も年金を貰っているはずですがいくらもらっているのか教えてくれません。こちらは年金をもらうまであと1年半で一応無収入です。たまにはご馳走してもらいたいものです。

    せんなり亭 心華房 グルメ・レストラン

  • ランチタイムのラストオーダー直前でしたが、快く席を用意してくださいました。確かに「一期一会」なのですが。

    ランチタイムのラストオーダー直前でしたが、快く席を用意してくださいました。確かに「一期一会」なのですが。

  • 席に座ってしまったので後のことは考えずに楽しみましょう。今回3人での食事はこれが最後です。

    席に座ってしまったので後のことは考えずに楽しみましょう。今回3人での食事はこれが最後です。

  • ランチの「近江牛ロースステーキ」と「近江牛赤身ステーキ」をお願いしました。最初は地野菜のサラダに3種類の太物ソーセージでビアシンケンとパプリカリオナーとヤークトブルストでした。

    ランチの「近江牛ロースステーキ」と「近江牛赤身ステーキ」をお願いしました。最初は地野菜のサラダに3種類の太物ソーセージでビアシンケンとパプリカリオナーとヤークトブルストでした。

  • 焼く前のお肉が目の前にやってきます。関西でお肉を食べるのは京都の「三嶋亭」のすき焼きと神戸の「ステーキランド」以来のことです。

    焼く前のお肉が目の前にやってきます。関西でお肉を食べるのは京都の「三嶋亭」のすき焼きと神戸の「ステーキランド」以来のことです。

  • ちゃんとした近江牛を食べるのは初めてかもしれません。

    ちゃんとした近江牛を食べるのは初めてかもしれません。

  • 野菜とお肉が焼けるのを目の前で見ながらポタージュスープをいただきます。

    野菜とお肉が焼けるのを目の前で見ながらポタージュスープをいただきます。

  • まずは野菜が焼きあがりました。地産の焼き野菜を肉味噌でいただきます。ビールをおかわりします。

    まずは野菜が焼きあがりました。地産の焼き野菜を肉味噌でいただきます。ビールをおかわりします。

  • フランベされたお肉がいい具合に仕上がっていきます。まずは目と耳と鼻で近江牛を味わいます。

    フランベされたお肉がいい具合に仕上がっていきます。まずは目と耳と鼻で近江牛を味わいます。

  • 赤身のステーキの焼き具合もちょうどいいです。醤油タレのようなものがありましたが、全部塩と山葵でいただきました。

    赤身のステーキの焼き具合もちょうどいいです。醤油タレのようなものがありましたが、全部塩と山葵でいただきました。

  • 妻はロースのステーキです。もちろん半分づつにして両方味わいました。この時点でご飯は食べ終わってしまいました。近江米のコシヒカリは美味しいです。

    妻はロースのステーキです。もちろん半分づつにして両方味わいました。この時点でご飯は食べ終わってしまいました。近江米のコシヒカリは美味しいです。

  • お勧めのお茶漬けは新しいご飯で頂きます。お出汁のビーフスープが絶品に美味しいです。

    お勧めのお茶漬けは新しいご飯で頂きます。お出汁のビーフスープが絶品に美味しいです。

  • 最後にデザートが出て美味しいランチは終わりました。最後は妻におごってもらおうとしましたが逃げられました。

    最後にデザートが出て美味しいランチは終わりました。最後は妻におごってもらおうとしましたが逃げられました。

  • 「せんなり亭 心華房」の1階は千成亭のショップで、ここで近江牛のすき焼きの上等なのを500グラム妻に買ってもらいました。琵琶湖より愛をこめて宅急便で送ってもらいます。あまりの値段に妻は壊れて、飛び出し坊やとび太くん状態です。

    「せんなり亭 心華房」の1階は千成亭のショップで、ここで近江牛のすき焼きの上等なのを500グラム妻に買ってもらいました。琵琶湖より愛をこめて宅急便で送ってもらいます。あまりの値段に妻は壊れて、飛び出し坊やとび太くん状態です。

  • ステーキを焼いてくださった方に近くで美味しい鮒寿司の店を尋ねたところ「きむら」を紹介してくれました。もっともステーキ店の正面なのですが。

    ステーキを焼いてくださった方に近くで美味しい鮒寿司の店を尋ねたところ「きむら」を紹介してくれました。もっともステーキ店の正面なのですが。

    あゆの店きむら 本店 グルメ・レストラン

  • 近江牛のすき焼き肉のお礼に妻の大好きな鮒寿司をプレゼントします。鮒寿司は母の大好物だったのですがもうお土産には買えません。

    近江牛のすき焼き肉のお礼に妻の大好きな鮒寿司をプレゼントします。鮒寿司は母の大好物だったのですがもうお土産には買えません。

  • 「クラブハリエ・彦根美濠の舎」と「たねや 彦根美濠の舎」に行くという2人と別れて、添乗員さんに教えてもらった通りに「大手門橋」を渡りましたが「彦根城」は全く見えません。

    「クラブハリエ・彦根美濠の舎」と「たねや 彦根美濠の舎」に行くという2人と別れて、添乗員さんに教えてもらった通りに「大手門橋」を渡りましたが「彦根城」は全く見えません。

  • 無駄な時間を20分使ってしまいましたが、まだ20分ほどあるので「玄宮園」の方へ歩いてみました。ここからは10分進んだところで戻ってこなければ集合時間に遅れてしまいます。

    無駄な時間を20分使ってしまいましたが、まだ20分ほどあるので「玄宮園」の方へ歩いてみました。ここからは10分進んだところで戻ってこなければ集合時間に遅れてしまいます。

    彦根城 名所・史跡

  • 「玄宮園」へ行きたかった訳は30年近く前に妻と滋賀県を旅した時に「八景亭」という料亭に行った想い出があるからです。「八景亭」は営業を終了してしまいましたが、その建物は「玄宮園」の湖畔に建っています。

    「玄宮園」へ行きたかった訳は30年近く前に妻と滋賀県を旅した時に「八景亭」という料亭に行った想い出があるからです。「八景亭」は営業を終了してしまいましたが、その建物は「玄宮園」の湖畔に建っています。

  • 「八景亭」はその当時宿泊も出来たので今から思えば泊まっておけば良かったと思います。一番奥の座敷で仲居さんと3人で大宴会になってしまい、酩酊した妻を玄関まで仲居さんと片足づつ持って引きずり出しました。建物は美しい雁行になっているので廊下もクランクしています。角を曲がる度に頭が壁にゴンゴン当たるのが面白かったです。

    「八景亭」はその当時宿泊も出来たので今から思えば泊まっておけば良かったと思います。一番奥の座敷で仲居さんと3人で大宴会になってしまい、酩酊した妻を玄関まで仲居さんと片足づつ持って引きずり出しました。建物は美しい雁行になっているので廊下もクランクしています。角を曲がる度に頭が壁にゴンゴン当たるのが面白かったです。

  • 集合時間に間に合い、バスの座席から「彦根城」が何とか見えました。やはりもう一度滋賀県に来なければならないと思います。

    集合時間に間に合い、バスの座席から「彦根城」が何とか見えました。やはりもう一度滋賀県に来なければならないと思います。

  • バスは高速道路に戻り、新幹線に乗る「岐阜羽島駅」に向かいます。いよいよ雪を頂いた「伊吹山」が近づいてきてすごい迫力です。

    バスは高速道路に戻り、新幹線に乗る「岐阜羽島駅」に向かいます。いよいよ雪を頂いた「伊吹山」が近づいてきてすごい迫力です。

  • 途中の「養老サービスエリア」でトイレ休憩がありました。

    途中の「養老サービスエリア」でトイレ休憩がありました。

    養老サービスエリア 道の駅

  • 赤備え(あかぞなえ)は戦国時代から江戸時代にかけて行われた軍団編成の一種です。構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えました。武田氏滅亡後に本能寺の変による武田遺領争奪戦を経て甲斐は徳川家康によって平定されますが、その折に武田遺臣を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政です。武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成しました。井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、「井伊の赤鬼」と呼ばれ恐れられました。

    赤備え(あかぞなえ)は戦国時代から江戸時代にかけて行われた軍団編成の一種です。構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えました。武田氏滅亡後に本能寺の変による武田遺領争奪戦を経て甲斐は徳川家康によって平定されますが、その折に武田遺臣を配属されたのが徳川四天王にも数えられる井伊直政です。武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成しました。井伊の赤備えは小牧・長久手の戦いで先鋒を務めて奮戦し、「井伊の赤鬼」と呼ばれ恐れられました。

  • 日が暮れた午後6時過ぎに「岐阜羽島駅」に着きました。今回のツアーは人気があったのでバスは2台ありました。90人近くがいっぺんに参観すると混雑するので同じツアーでありながら日程は入違っていました。最後にここで集合しましたが、我々の方が早く着いていたので待合室が埋まっていて申し訳なかったです。

    日が暮れた午後6時過ぎに「岐阜羽島駅」に着きました。今回のツアーは人気があったのでバスは2台ありました。90人近くがいっぺんに参観すると混雑するので同じツアーでありながら日程は入違っていました。最後にここで集合しましたが、我々の方が早く着いていたので待合室が埋まっていて申し訳なかったです。

  • 駅のお弁当なども40人が先に買ってしまって、後から来た2号車の人は買えなかったようです。こだま48号で東京に向かいますが、なぜかグリーン車で帰るのがツアーの売りにもなっていました。<br />

    駅のお弁当なども40人が先に買ってしまって、後から来た2号車の人は買えなかったようです。こだま48号で東京に向かいますが、なぜかグリーン車で帰るのがツアーの売りにもなっていました。

    岐阜羽島駅

  • この距離をこだまで帰るのは初めてのことです。もっとも昔よりかかる時間は短くなっています。

    この距離をこだまで帰るのは初めてのことです。もっとも昔よりかかる時間は短くなっています。

  • 乗ってから気が付きましたが、グリーン車は2人掛けの椅子しかありませんでした。妻の友人は1人で座ることになりますが、隣には誰も座らないのでかえっていいかもしれません。

    乗ってから気が付きましたが、グリーン車は2人掛けの椅子しかありませんでした。妻の友人は1人で座ることになりますが、隣には誰も座らないのでかえっていいかもしれません。

  • 妻は富山の鱒ずしが大好物です。妻にとっては美味しいことが重要なので値段は気にしません。

    妻は富山の鱒ずしが大好物です。妻にとっては美味しいことが重要なので値段は気にしません。

  • 旅の終わりも檸檬堂で乾杯です。お疲れさまでした。

    旅の終わりも檸檬堂で乾杯です。お疲れさまでした。

  • 地味に鶏唐揚げと塩むすびの弁当にしましたが美味しかったです。古希の旅はこれで終わったつもりでしたが、5月になってイギリス周遊のクルーズ船の上で、友人から冬にMSCベリッシマで沖縄クルーズに行きたいとLineが送られてきました。その2週間前にポジショニングクルーズで沖縄に行くので2人で行ってもらうことにしました。70歳になって親友と足袋が出来るのは羨ましいことでもあります。

    地味に鶏唐揚げと塩むすびの弁当にしましたが美味しかったです。古希の旅はこれで終わったつもりでしたが、5月になってイギリス周遊のクルーズ船の上で、友人から冬にMSCベリッシマで沖縄クルーズに行きたいとLineが送られてきました。その2週間前にポジショニングクルーズで沖縄に行くので2人で行ってもらうことにしました。70歳になって親友と足袋が出来るのは羨ましいことでもあります。

    東京駅

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