2024/10/16 - 2024/10/16
6位(同エリア49件中)
kummingさん
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この旅行記のスケジュール
2024/10/16
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バヤズイド2世複合施設、医療博物館
この旅行記スケジュールを元に
これはもう「旅行記」とゆうカテゴリーから逸脱しとるんやないか?? と自覚しつつも、記録として残すことになりました←どうゆー根拠?
お断り)
ものすごい写真と文字、なので最初の方だけでお帰りください。 写真の20~22枚目あたり、 途中に「ココが出口」お知らせマーク、チェックお願いしますm(._.)m
トルコで3大行きたかったモスクの1つが修復中(T_T)
で、意気消沈したのも束の間、すぐに立ち直る♪
Edirneにはもう1つ、絶対見たかった処、医学博物館がある。
少し離れているので、公共交通機関で行けるのか?まず確認したら、
それは「ない!」けど、「歩いて行けるよ!」
「地迷方」には、バスがあるって書いてあるけど、現地の人の話を信じよう♪
実際、走ってるバス、あったけど
私的ブログ最多写真更新かも
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝から
生存確認selfie -
朝食は地階
お客さん少ない時間帯
明日は食べられないので今日だけ利用 -
広~い
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すごい種類の甘み
ジャム、ハチミツ系 -
オリーブも色々、食べんけど
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殻むきやすい「ゆで卵の作り方」、教えてあげたい!
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この先行く予定のBursa
げっ! 真冬の寒さが待っている?
日本で予報見てたので、ヒートテック、フリース、ダウンベスト、ダウンジャケット、全て持参の構え -
もはや見慣れた風景
2~3日同じ街にstayすると、すこおし、街中の道、位置関係が分かった!(←あくまでも思い過ごし)気になれる、この感覚が好き♪
ふつうなら1泊、のところを、よる年波のせいで、ゆっくりのんびりしか、進めないからの旅程、そのおまけ、と思って享受する -
ねじりミナレットが見えた♪
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気付けばみなさんカメラ目線、はトルコあるある
お店の中からeye contact、おじちゃんありがとー -
◯心△さん好みの廃屋
いかがお過ごしかしらん
(後半以降に、も一個あります←個人的メッセージ) -
お散歩日和のいいお天気
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てくてく♪
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牛さんたちもくつろぐ
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長閑~
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目的地が見えてきた
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きた道を振り返り
ミナレットの遠景
バス停あったけど、どこ連れてかれるか?分からんし -
Muse Girisi
バヤズイド2世複合施設
バヤズイド2世
オスマン帝国8番目の皇帝、征服王メフメト2世の長男。
1447年、デイメトカ生まれ、7歳でハドウム・アリ・パシャの監督下で知事に任命。
1481年父逝去に伴いオスマン帝国皇帝の地位に就く。
治世中、西方東方で大規模な軍事遠征に従事、帝国の国境をさらに拡大した。30年以上続いた治世を通じて、平和で穏やかな生活を送ることを好んだ。
また、アマスイヤ、イスタンブール、エデイルネの重要な事業に貢献するなど、全国各地の公共事業を重視した。
高等教育を受けたバヤジドは、アラビア語とペルシャ語を流暢に話し、イスラム科学、数学、文学、哲学の教育も受け、作曲、詩作、にも通じ、書道に興味を持っていたことでも知られている。
また、信心深く、晩年を慈善事業に捧げたため、「バヤジド・ヴェリ」と呼ばれた。
バヤジド2世の印証が刻まれた写本は、ヨーロッパとトルコにおける彼の偉業、彼が文化を重視していたことの証しである。
1484年にバヤジドがエデイルネを訪れ、このアイデアに同意し、街の名士たちは複合施設の建設を建築家ヘイレッテインに依頼した。当時多くの人が訪れる大都市だったエデイルネの病院もその一つだった。バヤジドが与えた機会により、複合施設は4年で完成し、一般公開された。
スルタンバヤジド2世は62歳で王位を退位し、生まれ故郷のデイメトカに戻る途中、1512年エデイルネの町ハブサのサズリデレ村のあたりで亡くなった。彼の
遺体は、イスタンブールのバヤズイド・モスクの隣にある墓に埋葬されている。 -
メデイカル マドラサ
(メドレセテユルエテイバ)
医学校
この建物は、何百年もの間、医学学校として使われてきた、複合施設の中で最も重要な建物の1つである。オスマン帝国の医学部の中では、教授が1日に銀貨60枚を稼いでいたことから、この建物は60校中、最も高いランクの一つだった。
18室の学生室と、正方形の中庭を3つの側面で囲む1つの教室で構成され、中央に噴水がある。
エヴリヤ・チェレビという有名な放浪者がこの施設を訪れ「この施設には医学校があり、そこに滞在する学生は、プラトン、ソクラテス、フィルポス、アリストテレス、ガレノス、ピタゴラス、などの学者と常に議論する成熟した医師たちで、彼らはそれぞれ特定の科学分野を志向し、貴重な医学文献を尊重しながら、人類にとって最善の治療法を見つけようとしている。」と語っている。
医学部の職員は下記のとおり
教授は1日あたり60枚の銀貨を受け取った(休暇日を含む?)
教授の代理は1日に7枚の銀貨を受け取った
司書は1日に銀貨2枚
2人の召使いは1日に銀貨2枚
18人の学生のニーズはすべて複合施設によって満たされ、1日に銀貨2枚を受け取った
現在まで残っている1560年の文書には、その年の学生の厨房費として、複合施設の予算から銀貨4600枚が支給されたことが記されている。
医学校で教えられた医学書は、今でもセリミエ写本図書館に保管されている。 -
入場料100TLはカード払いで
最初の区画
小部屋がいっぱい
1つづつドアを開いて行く、わくわく感♪
昨日街で出会った旅の達人男性も来ていらして「こんにちは!」 -
警告!!!
さて、ここから先、膨大な写真と文字が待ち受けています(-。-;
いや、すでに文字数多いかww
なので、
「この後3枚」の写真で引き返す、とゆう選択肢を推奨♪
次の3枚に要点は収斂、凝縮されています。
万一、気になるし、暇だし、と思われる方、進むも退くもあなた次第、とだけ申し上げm(._.)m -
こんな感じで
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ご来訪、ありがとうございました^o^
出口はココ -
さて
畏れ知らずの変わりもののためのPart
書いた自分も2度と読み直せない代物(笑笑)
始まります
オスマン帝国の医学は、トルコ・イスラム医学の伝統に基づいており、この枠組みの中で発展した。この伝統の中に、アヴィセンナとアル・ファラビーという、世界中で知られる2人の重要な哲学者がいる。
オスマン帝国時代には、多くの社会的文化的分野に加えて、医学の分野でも重要な発展が起こり、特に医学教育が重要視された。トルコ人がアナトリアに定住する前、セルジューク時代の医療と保健サービスの点で東方イスラム医学に似た医療サービスを行っていた。
オスマン帝国の初期には、医師は病院で師弟制度により訓練された。この制度は18世紀初頭から西洋の影響を受け、今日の近代医学はこの制度の延長にある。 -
オスマン帝国時代の医学教育は、長年にわたり病院という組織のもとで行われていた。当時の医学知識と経験は、これらの医療機関での師弟関係を通じて学生に伝えられ、将来の医師はここで訓練された。医学教育は病院という組織のもとで機能するいくつかのマドラサでも行われた。
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医学教育も提供されたオスマン帝国の病院
1 ブルサ ユルドウムバヤジット病院(1399)
オスマン帝国がアナトリアに建設した最初の病院
2 イスタンブールファテイスルタンメフメト病院(1470)
1453年にイスタンブールを征服した、征服王メフメトによって建設された複合
施設の1つ。この複合施設は、モスク、16のマドラサ、休憩所、厨房、病院、 浴場、学校、多くの図書館で構成され、70室ある今世紀ヨーロッパ最大の病院
3 エデイルネスルタン2世 バヤジド病院(1488)
14884年にスルタンバヤジドによってエデイルネに建設された社会複合施設で、最も重要な保健センターの1つで、当時の医学知識に加え、音楽や水の音を使って患者を治療できた。
4 イスタンブールスレイマニエ病院(1556)
オスマン帝国時代の最も重要な医療センターの1つで、スレイマニ医学校と病院の建設はスレイマン大帝が建築家シナンに依頼し、1555年に完成した。 -
この辺は、長々と説明なので、Througしてね
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Education of Medecine in the Ottomans
オスマン帝国の医学教育
(この手の案内、削除すれば枚数減らせるか) -
Student Room
学生室 -
これコレ、見たかったのは!
マネキンによる当時の再現 -
Applied Education Room
応用トレーニング、応用教育室 -
焼灼、という治療法、知らんかった!
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Treatment with Cauterization
焼灼による治療
15世紀のオスマン帝国では、多くの病気が焼灼によって治療されていた。 -
Applied Education Room
応用研修室 -
頭を切開?
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Operational Treatment of Hydrocephaly
(Build up of Fluid on the Brain)
水頭症(頭部内、脳内の水、液体の蓄積)の外科的治療(手術的治療) -
Teacher’s Room
教員室(教授) -
The teacher of the Scool
学校の教師(教授) -
先生はいつの時代も偉そー、えっへん
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Turkish Experimental Medecine
実験医療(トルコ実験医学) -
ある日、蛇商人がやって来て、毒蛇を飼っている、と言う。彼は毒蛇に羽をむしり取られた雄鶏を噛み付かせ、自分で調合した薬を雄鶏に与えて鶏小屋に入れる。翌日雄鶏を検査すると、完全に治癒したことを確認、こうして彼は自分の調合した薬の効果を確信し、実験を著書に記す。
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実写、鶏抱えてました(笑)
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Sultan Bayezid II Medical Scool
スルタンバヤジド2世医療マドラサ(医学校) -
スルタンバヤヅイト2世複合医療マドラサ(医学学校複合施設)
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The Plan of Medical Scool
医学部の計画
A cross-section of Medical Scool
医学部の断面図 -
The Stuff of the Medical School
According to the Book of Regurations
財団の職員
規則書に従った医学部の職員
1教授 神を恐れ、理性的な科学と講義能力を持ち、1日に50枚の銀貨を受け取る
2副教授 説明、執筆、講義ができ、学生に貴重な書籍を教える。週末を除いて7枚 の銀貨を受け取る
3 司書 信頼でき、知識が豊富で、温厚、医学部に寄贈された本を守り、学生が図書 館の本を貸し出さないようにする。1日に銀貨2枚を受け取る
4 門番 1日に銀貨2枚を受け取る
5 召使い 1日に銀貨2枚を受け取る
6 生徒 1日に銀貨2枚を受け取る
1516年の複合施設の一般経費の中に、優秀で成功した学生に与えられる5000枚の銀貨の報酬が用意された -
エデイルネセリミエ写本図書館にある財団憲章 コピー
規則集
エデイルネセリミエ写本図書館に保管されている規則集から抜粋した写本 -
Classroom
教室 -
Treatment of Vertebra Dislocation
脊椎骨の変位の治療(椎骨脱臼の治療) -
-
ちょ、恐ろしげな治療法
-
これを見ながら廻れば良かったんや~、と、今ごろ(-。-;
トラキア大学スルタンイルバヤジット複合健康博物館
1博物館の管理
2 スルタンバヤジド2世
3 スルタンバヤジド2世複合施設
4 スルタンバヤジド2世ダル・アル・シファ(病院)
5 ダル・アル・シファ(病院)の医療スタッフ
6 ダル・アル・シファ行政職員
7 オスマン医学の基本原則
8 医療品の製造方法
9 シロップワークショップ
10 外部疾患
12 耳鼻咽喉疾患
13 歯科疾患
14 重度の精神疾患/重度の精神病患者
15 音楽療法
16 精神病/精神病患者
17 セラヒ再建術/美容及び再建手術
18 女性の病気と出産/婦人科と産科
19女性外科医
20 エデイルネからのヨーロッパへの天然痘予防接種
21 エデイルネのバラ園
22 オスマン医学
23 会議室
24
25キッチン
26 洗濯室
27 健康博物館の強化と改善 -
次の区画へ
このエリアの入口で、昨日とさっき再会した日本人男性と一緒になって、
写真撮ってあげたけど、私のスマフォで撮るのも、一緒に写るのも、考え及ばず、記念がなんにも残っていないw w し、名前も知らず(-。-; -
バヤジット2世
文献によると、皇太子時代に書道のレッスンを受け、あらゆる努力をして上達、イタリア語も多少知っていた、という。宗教に対する感受性が強く、聖バヤジド、宗教家として記憶されている。穏やかな性格で、アマスイヤの知事として静かな時期を過ごした。統治者になる前は軍事に関心を示さず、「正義の人(アドリ)」という筆名で詩をかいた。 -
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バヤジド2世はその治世中、礼拝と慈善活動に力を入れ、必要でない限り戦争には着手しなかった。科学と文化に強い関心をもち献身的に尽くした。数多くの詩人、職人、学者のパトロンとなり、特定の分野の向上に身を捧げた。バヤジドの命により、オスマン帝国の建国からバヤジド2世時代までの歴史が初めて執筆された。バヤジド2世は、これら長閑年代記の編纂を命じたことから、歴史学の創始者とみなされる。
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老年のスルタンバヤジド2世
1481年、バーデイシャーは国家官僚を養成するための学校(帝国ガラタサライ学校、スルタンの学校として知られている)を設立した。
バヤジド2世は、当時木々で覆われたガラタで狩をしていた時、バラの苗木を植えて礼拝に時間を費やしていたギュル・ババ(バラの父)に出会った。ギュル・ババがバヤジドが大好きな黄色と赤いバラを渡すと、バヤジドはギュル・ババに願い事を言うように頼んだ。ギュル・ババへ近くの丘の頂上を指さして、この場所に学校を建て、卒業生が読み書きできるようになったら雇うように頼んだ。バヤジド2世は、示された場所にガラタサライという学校を建てるように命じた。 -
スルタンバヤジド2世が宰相らとジェム・スルタン問題について議論している
父が亡くなると、バヤジドは兄のジェム・スルタンと継承権争いを始めた。1481年5月22日、35歳で即位。在位中彼は平和政策を貫き、国家の繁栄につとめた。
しかし、オスマン帝国の領土を拡大するために、幾つかの征服を行った。 -
バヤジド2世のローブ、カフタン
バヤジド2世の平和的、かつ控えめな政策により、サファヴィ朝との関係はオスマン帝国にとって不利なものとなった。サファヴィ朝軍がアンカラに進軍する間、シーア派と疑われた16000人がルメリアに移住させられた。その後のシャクールの反乱でアナトリアは血に染まった。 -
砂糖と鎧を身につけた彼らはオウムのようで世界の繭は頭でいっぱい???
自分の訳がわけわかめ(*_*) もあるある -
シャクールの乱による不満に加え、王位継承者の間での権力闘争が没発した。イエニチェリの圧力により、1512年4月24日、バヤズイド2世は息子のセリム(セリム皇帝)に王位を譲り、退位した。バヤズイド2世はイスタンブールを離れ、輿に乗せられてデイメトカに向った。高齢で痛風を患っていた。1512年5月21日、チョルル近郊のアバラール村で気を失い、亡くなった。遺体はイスタンブールに運ばれ、自らが建てたバヤズイド・モスクの墓地に埋葬された。
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右) 手に赤いリンゴを持つスルタンバヤズイド2世
左)スルタンバヤズイド2世 -
スルタンバヤズイド2世には、アフメト、コルクド、セリム、シエヒンシャという4人の王子がいた。最有力の王位候補はアフメト皇子だった。しばらく執政を務めていたコルクド王子が、1502年、アンタルヤの知事に任命されたのが、王子間の後継者争いの始まり、と考えられている。バヤジット2世は、アンタルヤに送られることに不満を抱いていた王子をなだめるために、アンタルヤ、メンテシェ、ラタキアを含む合計「10万枚の22倍、プラス3万5900枚の銀貨」をあたえた。
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オスマン帝国の首都としてのイスタンブール
父、征服王メフメトの後、スルタンバヤズイド2世はイスタンブールをトルコの都市として再開発するために多大な貢献をした。特に1509年の大地震の後、イスタンブールに建築家、大工、高品質の建築資材を持ち込み、実質的に都市を再建した。バヤジットの統治期間中、彼は建築のアイデンティティを確立し、イスタンブールをオスマン帝国の首都として形作った。 -
スルタンバヤズイド2世
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文書 スルタンバヤズイド2世 ダル・アル・シファの歴史
この文書の1486年は建設が完了した年を指しているはずで、複合施設全体は1488年に開設された。 -
写真上
カイセリ ゲベル・ネチべ・ダル・アル・シファ
アラビア語で「治療/健康の家」を意味する「ダル・アル・シファ」は、イスラム世界の病院をさす。
アナトリアで最初のセルジューク朝のダル・アル・シファは、カイセリのゲヴェヘルネシベ医療マドラサと病院(1206年)だった。シヴァス デイブリーのトウランメリクダルアルシファ(1228年)は、世界でも類を見ない石積みで装飾され、世界文化遺産に登録されている。 -
スレイマニエ社会複合施設
右側に病院、その隣に医療マドラサ
ダル・アル・シファでは、患者の治療と師弟制度による医師の訓練が密接に連携して行われた。スレイマニエ社会複合施設だけが、病院のすぐ隣に医学マドラサ(医学校)をもっていた。マドラサでは理論教育が行われ、病院のベッドサイドでの訓練は実践的だった。
オスマン帝国の領土喪失に伴い、財団の収益の一部は国境外に残された。残った収入では本格的な病院の存続は不可能となり、その後、ビマルハネと呼ばれる精神病患者のための避難所に改造された。 -
1866年にエデイルネに新しい病院が開設されると、ダル・アル・シファの建物が精神病院として開設され、エデイルネ・ビーマルハネと改名された。露土戦争後、エデイルネ・ビーマルハネは修復され、1893年11月23日に新しい患者の受け入れを開始した。1910年、噴水プールの上にストーブが設置され、患者のベッドはこのヒーターの下に並べられた。周囲の環境に害を及ぼす恐れのある精神病患者は、閉鎖された部屋に収容された。しばらくして、マザール・オスマン博士の主導により、精神病患者はキユクのフランス病院(1915年)に移送された。こうして、427年の歴史をもつ病院は最終的に閉鎖された。
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病院が開設された時、当初はシロップ工場、後にペースト工房と呼ばれた、薬を製造するための別の場所があった。病院に通う貧しい人々は
、週に2回、この工房から薬を受け取った。バヤズイド2世は、毎日の費用を賄うために銀貨203枚を割り当てた。主治医が指揮する病院のスタッフの中には、詩人医師や作家医師がいた。 -
バヤズイド2世複合施設 空撮?
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ミニチュア その1
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ミニチュア その2
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♪
ココ、最後に訪れます -
Basic Principles of Ottoman Medicine
オスマン医学の基本原則 -
17世紀のオスマン帝国の医師タキによるこの本は、アヴィセンナの『医学典範』に基く。しかし、神経系と発生学に関するシエムセデイン・イタキの見解は、アヴィセンナの見解とは異なり、14世紀のペルシアの解剖学者
マンスール・イブン・イリヤスによる図解を添えて、骨格、筋肉、血管、神経、胎児の発達に関する情報を提供している。イタキはアラビア語の解剖学用語にトルコ語残った用語を加えた。 -
オスマン帝国の医学は、アラビア・イスラム医学を基礎としながらも、特に薬の配合において現地の要素を取り入れていた。オスマン帝国の医師たちは、イブン・スイーナの『医学典範』をはじめ、有名なイスラム医師の著作を参考としていたが、他にも…、…、…、の著作も参考にしていた。
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イスラム医学に従うオスマン帝国の医師たちは、頭から足まで人体の解剖学を記述した。他の解剖学情報と比較して、頭蓋骨に関する知識は今日の記述に近いことがわかる。
(中略)
血管は、動かない血管(静脈)と動く血管(動脈)に分類され、静脈は肝臓から、動脈は心臓の左心室から始まる、と想定されていた。 -
神経は2つのグループに分けられ、1つは脳から、もう1つは脊髄から発生している。脳からの7対のしんk(頭蓋神経)と、脊髄から体内に発生する29対の神経が体中に分布している。
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春になると体液が動き始め、おできや腫れ、喉の痛みが頻繁に起こる
人体におけるこれらの体液のバランスが崩れると病気になると考えられていた。例えば、血液が多すぎると頭痛がし顔が赤くなり、腫れ物ができる。痰が増えると口から流れ出る。黄胆汁が多すぎると、皮膚が白目(強膜)が黄色くなり、胃がむかつく。黒胆汁が増えると、顔と体が黒くなり、胃が痛み、恐ろしい夢を見るようになる。 -
発熱、吐き気、咳、鼻血などの症状は病気とみなされた。
体液のバランスを回復することを目的とした療法として、病気の原因と考えられる過剰な分泌物を体外に排出することを試みた。体液の1つに偏りがあると想定される場合、瀉血、嘔吐、発汗、利尿剤の使用、下剤、浣腸などの方法を用いて、体液の一部を体外に排出しようと試みた。
薬物治療では、ハーブ、動物、鉱物の薬が個別に、または化合物として使用された。 -
当時の理解では、山岳地帯の住民は長寿で健康に暮らすと考えられていた。低地では呼吸が困難で、山と海に挟まれた場所では空気が湿っている、と考えられた。
食べ物と飲み物は、体液のバランスを保つ最も重要な要素と考えられた。食品は、健康に有益なものと有害なものに分類され、白パン、羊肉、子羊、山羊、子牛肉、鶏肉、ヤマウズラ、キジの肉、バター、卵はおいしい食べ物とみなされた。
食事は2回とり、満腹になる前に食卓を離れることが推奨された。
水は食べ物ではなく、食物の吸収を助けると考えられていた。山からきれいな土や石の上を流れてくる川の水が、最良の水と考えられていた。 -
健康的な生活の秘密
山と川の間にあるハマダーンの街 -
瀉血による身体の浄化
様々な理由で体内に老廃物が体内に蓄積することを想定し、断食、下剤の使用、嘔吐、瀉血、浣腸、運動などによって、老廃物を排出する必要があると考えられていた。 -
断食は血流を減らすが効果が出るまで時間がかかる。緊急の場合は体の特定の静脈を開いて血液が採取された(血液を抜く)。
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治療としての運動
運動には身体全体に影響を及ぼすもの、特定の臓器に重点を置いたものがある。レスリング、アーチェリー、槍投げ、乗馬、ウェイトリフティング、ボール遊び、ランニング、早歩き、高跳び、走り幅跳び、は全身の運動とみなされ、た。競歩は腰、太腿、ふくらはぎ、足に影響を与える。石のおもりを運んだり、弓を引いたりすると、手、首、胸、背中に余分な負荷がかかる。
運動の種類によって、体のあらゆる器官を維持するための特別な訓練があった。大声で叫ぶと胸が広がり、顔色や皮膚が改善する。深呼吸をし、息を止めて吐くと、気道が開き、非常に小さい物を見ると視力が向上すつ。非常に低い音や高い音を聞くと、耳と聴覚が強化される。 -
運動による身体の浄化
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病床で2人の診察を受けるスルタン
オスマン帝国の医学では、病気の検査と診断は医師の能力、経験、技術に依存していた。まず、医師は患者の訴えを聞き、行動を観察し、発熱、発汗、黄疸、腫れなどの症状がないか観察し、痛みを感じた場合は、その性質と場所を特定しようとした。 -
診断には尿検査が重要だった。そのたm、患者は尿を瓶に採取し、医師に渡した。尿管鏡検査用のフレスコは医師の職業のシンボルとなった。尿の色、粘稠度、沈殿物、匂いや味は、診断と治療の方向性、および病気の結果の予後に寄与した。
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どなた?
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古典的なオスマン医学における外科的行為は、小規模な外科的介入に限定されていた。頭蓋骨、胸腔、腹腔の手術は不可能だった。足や腕、四肢の切断手術は最後の手段だった。多くの症状、特に出血や怪我を伴う症状では、熱い鉄による焼灼術が行われた。
外科的介入には、歯の抜歯、採血、様々な創傷や外部腫瘍(膿瘍、腫瘍など)への介入、骨折や脱臼や包帯巻きなどが含まれる。道具が鉄でできていたため、ハデイド(鉄)という言葉が外科用語として使われた。患者を眠らせるために、アヘンを染み込ませたスポンジを鼻に押し当てるか、ヘチマが使用された。 -
医療器具
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王子たちの割礼祭に出席したトウルク奏者たち
トウルクというゲームは、膨らませたヤギの皮(トウルク)を使って行われるオスマン帝国のスポーツの一種。 -
オスマン帝国の外科医が使用した器具については、「帝国外科術」のミニチュアから知ることができる。そこには手術と器具が描かれていつ。描かれている焼灼器具は、耐熱性が必要なため鉄で作られ、鋭く丈夫な器具は鋼で作られていた。特にナイフやスクレーパーの歯は鋼で作られた。
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医療機器
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カニューレ、注射器、カッピングビーカーなどの器具には青銅が使われた。銀製の櫛、各種注射器、カニューレ、鉗子もあった。鉛はプローブを作るのによく使われた。骨折や脱臼は、ツゲ、黒檀、柳、菩提樹、松の木でできた板で固定された。
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医療器具
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動物の臓器や硬い部分(角、爪)に加え、血液、乳、汗、尿、排泄物も使用された。これらはできれば春に、臓器が損傷していない若くて健康な個体から採取したものが使用された。メスのまむしから採取したテリアクが、特定の錠剤の主成分だった。薬物のその他の成分には、カタツムリ、ミミズ、カキ、クモ、カニ、の他、乳、卵、蜂蜜、蜜蝋、亀の甲羅、牡鹿の角、ヤギのヒズメ、フクロウの脳などがあった。
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3番目の区画
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たぶんココが1番楽しみにしていたエリア
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病院における音楽による患者治療
この場所は、オスマン帝国の重要な治療センターの1つで、音楽を使った治療が行われていた。曜日によって、音楽ステージの向かい側に座る歌手や演奏者が、患者たちに音楽を演奏し、中央エリアのプールサイドに座ったり部屋で横たわっている患者たちは、音楽の効果を体感する。彼らは快適に感じ、それは病気の克服に有効だった。
音楽は精神疾患だけでなく、多くの身体疾患にも適用されていた。 -
Methods of Drug
医薬品製造方法 -
オスマン帝国は薬物生産において、古代イスラム医学から受け継いだ手法を採用した。鉱物は粉砕し水に浸して浄化した。薬用植物は圧搾し、抽出した油を煮沸して蒸発させたものを処理して使用した。他にも熱した灰の中で調剤したり薬物を焙煎する方法が多用され、炭化、石灰化、焼成、灰になるまで還元する処理は主に無機薬物や動物性薬物に適用された。薬物の一部はエジプトやヒオス島からもたらされた。
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バラ、すみれ、ヒヤシンス、ユリ、香りの良い花の油、茎から抽出された油は、多くの医療品の組成に含まれていた。
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Syrup Worksho
シロップワークショップ -
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お薬調剤薬局?
薬草などをすりすりしてた? -
Marble Mortars
マーブルモルタル(大理石製) -
薬剤師さんですね
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Theriacin Ottoman Medicine
オスマン帝国医学の薬物 -
左上絵)馬に乗って、蛇に襲われて困っている若者を助けに急ぐ
何世紀にもわたり、テリアク(アザミウマの成分)は毒に対する解毒剤、動物に刺された場合の万能薬としてあらゆる病状を改善できる薬として使用されていた。
その組成はポントス王ミトリダテス(紀元前132~63)によると考えられている。ミトリダテスは父親のように毒殺されるのを恐れ山に逃げ込み、7年間毒草と向き合い中毒を防ぐための複合薬を調合し、毒から身を守るために備えた。
ミトリダテイクムと呼ばれるこの製剤の組成には48種類の薬が含まれ、その処方は後にローマの意思によって改良された。
その中でも皇帝ネロ(在位54~68)の医師 アンドロマコスが処方に蛇肉を加えた件は有名。 -
ある日蛇商人がやって来て、猛毒を持つ蛇を飼っていると自慢した。私は以前作ったテリアク(獣毒)を摂取していた。私は、行ってあなたの蛇を取って来なさい、と言った。彼は行って蛇をもって来た。私は彼の手から蛇を取り、自分の中指に押し当て蛇に噛ませた。そして同じテリアクから作ったシャーベットをを飲み、蛇が噛んだ場所にも塗った。毒が効いている間、私の指、身体には何の変化もなかった。
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へ、ヘビ~
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Dental Diseases
歯科疾患 -
オスマン帝国の外科医は、刺激の強い薬で虫歯を砕いて除去する方法を好んだ。それができない場合、ペンチで抜歯した。歯茎の余分な肉はハサミで切り取り、口蓋に残っている歯根は抜き取った。
出血、退縮、緩み、痒みなどの歯周病の病気を様々な薬で治療した。 -
写真) ヨーロッパニガウリ
この植物の煎じ汁でうがいすると、歯痛が和らぎ、歯のむし歯が除去される
歯の病気に関しては、オスマン帝国の医学書は主に痛みについて扱っている。
様々な配合の薬で歯痛が緩和されない場合は、焼灼術が行われた。歯の衛生に注意が払われ、歯石や歯垢が除去され、ホワイトニング剤が使用された。 -
写真)サリフリで発見されたエトルリアの金の補綴物
15世紀、…‥は、金や銀の糸で結◯糸をかけて、ぐらついた前歯を固定した。これは抜けた歯の代わりになるものを固定するためにも使われた。 -
歯痛の焼灼
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歯痛に対する焼灼術
歯痛は草で治療し、効果がない場合、焼灼法を使う。焼灼法には、脂肪によるもの、火によるものの2種類がある。
脂肪による焼灼法では、鉄のひしゃくで牛バターを沸騰させ、先端に綿を巻いたプローブを沸騰した脂肪に浸し、痛む歯に数回あて、毎回歯に当てたまま冷ます。
火による焼灼法では、熱い銅または鉄の管を歯に当て、赤く熱した焼灼鉄を管に挿入、これを数回繰り返した後、患者の口に純粋な油を1時間注入する。歯痛はその日か翌日には治まる。 -
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歯の根を抜く器具
ペンチなど -
目の病気
オスマン帝国の医師は眼疾患を重視し、眼だけを扱った本をかいた。
オスマン帝国の外科手術ハンドブックには、眼瞼下垂、瞳孔腫瘤、角膜血管新生白内障、眼瞼短縮、眼球突出、眼瞼腫瘤などの症状に対する手術技術が記載、説明され、使用する器具も図解されていた。 -
オスマン帝国の医師は、眼の健康を維持し、視力を改善し、痛み、流涙、痒み、発赤を和らげ、まつ毛を強化するために、薬用クリームや粉末眼科薬などの処方を与えた。これらの処方では様々な薬用植物が、カニ、やぎ、ハイエナ、ヤマウズラ、ツル、カラスなどの動物性製品と共に、特定の土と鉱物、蜂蜜、真珠使われた。
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Ear-Nose Throat Diseases
耳、鼻、喉の病気 -
耳に関しては、オスマン帝国の医学書では痛み、騒音、痒み、虫食い、汚れ、異物除去、難聴などの病気が含まれる。
鼻に関しては、癌、嗅覚障害、悪臭症、ポリープ。イボ、鼻血などの治療がある。
口腔と喉に関しては、舌下隣接症、口蓋垂と扁桃腺の炎症などの疾患と治療法が解説されている。
耳鼻唇の傷の縫合には、絹糸の針が使われた。 -
鼻のポリープとアデノイドの治療
鼻のポリープはペンチで引っ張り、ランセットで切除する。鼻に酢かワインを入れ入れたものを患者が感じられれば組織は除去されている。感じなければ、鼻腔にアデノイドがあることが分かる。 -
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耳鼻科の器具
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写真上)脇の下の膿瘍の手術
17世紀には、体の外側に見える腫瘤はすべて外科手術の対象だった。これらの腫瘍は腫れ物または腫瘍として知られていた。これらの腫瘤は臨床的特徴によって分類された。熱、色の変化、痛みを伴うものは膿瘍と呼ばれた。膿瘍はすぐに治療されず、医師は膿瘍が成長するのを待ってから、膿瘍を開いて外科的に切除された。 -
17世紀には、体の外側に見える腫瘤はすべて外科手術の対象だった。これらの腫瘍は腫れ物または腫瘍として知られていた。これらの腫瘤は臨床的特徴によって分類された。熱、色の変化、痛みを伴うものは膿瘍と呼ばれた。膿瘍はすぐに治療されず、医師は膿瘍が成長するのを待ってから、膿瘍を開いて外科的に切除された。
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Severe Psychi strict Patient
重度の精神疾患、精神病患者 -
わ~い
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ダル・アル・シファでの音楽療法について
神に許されたスルタンバヤズイドは、創立の際、病人に薬を与え、病気を治し、狂人の精神を癒し、激情を和らげるために、10人の若い歌手と楽器奏者を任命した。 -
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Psychiatric Patients
精神病患者 -
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精神病院について
病院の部屋は、様々な病気に苦しむ金持ち、貧乏人、老若男女でいっぱいで、患者たちは柔らかいマットレスと毛布の上で、丸いシルクのクッションに支えられ、冬には燃える火で暖められた部屋で休んでいる。 -
Gynecology and Obstetrics
婦人科、産科 -
閉鎖膣口(処女膜閉鎖症)
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女性外科医と患者
15世紀には、婦人科疾患は女性医師柔らかい助産師によって治療された。女性が近くにいない場合には、男性医師が介入することもできた。 -
出産には、自宅に呼ばれる師弟制度で訓練された助産師が立ちあった。
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お産に使うの?
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母親の子宮内で死亡した胎児を取り出すために使用される器具
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死亡した胎児を子宮から取り出すための器具
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うーん
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垂れ下がった瞼、過剰指(多指症)の手術
オスマン帝国の外科手術書には、男性の乳房の過成長(女性化乳房)、過剰指(多指症)、隣接する指(合指症)、垂れ下がった瞼(眼瞼下垂)、短い瞼(眼瞼内反症)、眼瞼変形の矯正(眼瞼形成術)、などの美容外科手術(形成外科症例)の記述も含まれる。 -
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クペリ・サリハ・ハトウンは夫のデニス・ビン・ガジから外科手術を学んだと考えられている。1620年に夫を亡くした後、彼女は自分で外科手術を行った。
サリハ・ハトウンの同意書の殆どは鼠径ヘルニアの手術に関するもので、ほとんどの手術は1622~24にかけて行われ、患者は全員男性だった。手術費は銀貨300~3000枚の間だった。 -
厨房
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洗濯部屋
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私的には、めちゃ面白かった♪
バヤジット2世、ふむふむ
で、メフメト2世の息子ってことしか、記憶に残っていないが…ま、いっか -
館内見取り図 エリアその1
これも最初に見ておけば~ -
エリアその2
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その3
3つのエリア別 館内見取り図 -
前庭から~の
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併設のモスクへ
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モスク慣れ、擦れしてきたかも
とゆーより
医学博物館に全力投入したから? -
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足下
来たこと証明 -
ちょうどいい休憩させていただく
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さらっと見終えて
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帰る頃
団体さまご一行も来訪 -
来た道を歩いて
この川とあの橋見たので、あとの予定はパス笑笑 -
ズーム撮
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てくてく
朝のおじちゃん
帰りもeye contact ♪ -
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キテイちゃん、世界制覇へ
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◯心△さんの好みが伝染?
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歩いたので甘いものが欲しい♪
が
甘すぎて、路上食べ歩きはムリだった件(-。-;
たぶんTulumba トウルンバ とゆー、たる形の丸っこくて小っちゃいお菓子、の拡大版食べ歩き用バージョン? と勝手に思う -
明日は早朝7:00オトガル発なので
たぶんタクシー一択だけど
ここからオトガル行きバスが出てるのか?
時刻表見に来たけど、何にもなかった件 -
-
バザール入口
ここがアリ・パシャ市場かな -
ここにもキテイちゃん
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石鹸はエデイルネ名物?
おススメお土産の一品? -
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今宵もエデイルネ名物レバーの素揚げ
ふつう、レバーは苦手、あえて選ばないのに、ここのは臭みもなくて、美味しい♪
しかもこの量、ぺろり、完食
相変わらずパンてんこ盛りで付いてくる
「日本は水がただ、トルコはパンがタダ」あるトルコ人が言いました?? -
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そして、これもおなじみ
トルコ
謎のファッション -
部屋のテラスで、コーヒーと極甘スイーツを頂き
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明日は7:00発長距離バスでBurusa へ♪
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この旅行記へのコメント (5)
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- ももであさん 2024/12/07 21:43:42
- ビビって損した?
- 先日は190枚にビビってタイトルだけ見て逃げ帰りましたが、恐る恐る足を踏み入れると、確かに興味しーんしーんでした。
今でこそ治療薬でコントロールできない心房細動には、内科的にはカテーテルを用いて高周波を使ったアブレーション(焼灼)が一般的ですし、肝臓がんではラジオ波焼灼も選択肢の一つです。焼灼の始まりはこんなところにあったのですね。でもこの時代のはまるで牛の焼き印ですね。
蛇毒をターゲットにした抗血清療法。蛇種によっては噛まれると血が止まらなくなりますが、これは立派な抗血液凝固薬。でも蛇商人が連れてきて指を噛ませた蛇には、牙がなかったに違いない。そして、いやいや椎骨脱臼の治療はちょっと無理があるのでは!? 絶対に悪化させてると思います。
>周囲の環境に害を及ぼす恐れのある精神病患者は… これが近年統合失調症で大きな社会問題ともなるアジテーション(扇動)ですが、ご家族が一番大変です。隔離しなくても新薬でかなりコントロールできるようになりました。
>春になると体液が動き始め、おできや腫れ、喉の痛みが頻繁に起こる。 自律神経失調症だったりいわゆる寒暖差疲労ですねぇ。この頃にもしっかり認識されている。
>食べ物と飲み物は、体液のバランスを保つ最も重要な要素と考えられた。>満腹になる前に食卓を離れることが推奨された。>治療としての運動。 いずれもまったくの大賛成です。生活習慣についてはそっくりそのまま現代に通じますね。
医療機器の種類が豊富で充実してること。緊急時なら現代でも使えそうなものが多々ある感じです。>歯痛はその日か翌日には治まる。→絶対にウソ。>膿瘍が成長するのを待ってから膿瘍を開いて外科的に切除された。→良性ならともかく、手遅れ?
はぁ~疲れた。部屋のテラスで、コーヒーと極甘スイーツを頂きまする。
- kummingさん からの返信 2024/12/07 22:34:40
- 正しい判断を覆す試み♪
- わー、ももさまの土曜の夜の憩いのひとときを、ムダに消費させてしまい、まことに心苦しゅう、反省しきりでございますm(._.)m
190枚に畏れおののき見なかったことに! 正しい判断を覆してしまったわけですが、さすがももさま、書いただけ意味分からん⁈当の本人を差し置いての、専門的鋭い考察、あっぱれでござい^ ^
つきましては、「テラスでコーヒー&極上スイーツ」だけでは疲労回復には不足かと懸念され、「三井アウトレットパーク木更津より車で3分、東京湾アクアライン連絡道木更津金田IC下りてすぐ、3代目沖食堂」にて、ラーメン、半やきめし、ええいっ、思い切ってピースおにぎりに辛子高菜付けての大盤振る舞い♪ (奥さま同伴なら半やきめし→やきめし、にグレードup可)
ツケでお召し上がりくださいまし⁈
まっことお疲れさまどした^o^
- kummingさん からの返信 2024/12/07 22:37:19
- Re: ビビって損した?
- 素人のわたくしでも、ニワトリ実験で成功→そのまま人間に応用? にはちと驚きましてございます(*_*)
-
- PuellaApuliaeさん 2024/12/01 21:22:21
- めちゃくちゃ面白かったです!
- 再再度お邪魔します。
この博物館知らなかったのでとてもとても有り難いです。オスマン医学が想像以上にレベル高かったことがわかりました。当時のヨーロッパより上だと思います。
バヤジット2世なんて名前しか知らないスルタンでしたが、実は偉い人だったんですねー。では次のブルサ、お待ちします。イスケンデルケバブ食べられました?
- kummingさん からの返信 2024/12/02 19:58:50
- 穴があったら隠れたい(-。-;
- PuellaApuliaeさん、ようこそいらっしゃいまし~♪
こんな人さまの迷惑顧みず、無謀なブログupしてしまい、身の置き所もない今の心境ですが、オスマン医学について、少しでも知見広めるお役に立てたのでしたら、これにまさるお褒めの言葉?はございません^ ^
「暗黒の中世」この言い方も今ではあやしい(実際には暗黒だったわけではない、らしい)みたいですが、いずれにせよ、キリスト教が幅を利かせて、教義に合わない(気に入らん!)芸術、文学、科学、医学も含め、全ての学問、文化を禁止、制限していた時代、一方でそんな窮屈な世界から自由に研究できるイスラム圏へと数多の学者、文化人が移ってきて、イスラム世界の支配下で保護され、かつてのローマ・ギリシア文明が花を咲かせ、さらに更新された、って、そうゆう時代ですよね。
そんな時代にシチリアでルネサンスの先駆けとなったFDllの宮廷文化、確かサレルノの医学校もFDllが絡んでますよね?(創設した?)こういうイスラム医学や薬学に啓発されたのかしらん、とか思うと、ますますこの博物館見て廻りながら、ウキウキ♪
ヴァヤジド2世、なんとメフメトさまの息子でした^o^
オスマン帝国の歴代スルタンの名前、業績、代表的な人だけでも覚えたいのに、覚えられず(-。-; さっきgoogleったら、すごい語呂合わせの暗記法が載ってました(笑) オスマン帝国以前からのイスラム圏の王朝名も、絶対覚えらないわたくしですが、次はブルサ♪ ムスタファ皇子、出てきますよ~
イスケンデルも2日目?にいただきました。
再再再度、お待ちしております♪
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