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山口・島根県で気になる城跡を2泊3日の日程で訪問しました。<br /><br /><br />1.訪問期間 <br /> 2024年6月3日~5日(2泊3日)<br /><br />2.宿泊地<br />  萩市街(6月3日)・益田市街(6月4日) <br /><br />3.訪問先 <br /> 萩城(山口県萩市)ー浜田城(島根県浜田市)ー石見七尾城(島根県益田 <br />    市)ー津和野城(島根県鹿足郡)ー高嶺城(山口県山口市)ー大内氏居館    <br />   (山口県山口市)<br /><br />4.移動ルート <br />    羽田ー山口宇部(飛行機)ー新山口(バス)ー萩(バス)東萩ー浜田     <br />  (J R山陰線)ー益田(JR山陰線)ー津和野(JR山口線)ー山口(JR山口    <br />    線)ー新山口(JR山口線)ー山口宇部(バス)ー羽田(飛行機)<br /><br />   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

周防山口 百済王族の末裔と自称し朝鮮貿易で富を築き戦乱京都を凌ぐ文化を有し200年に亘り守護所の中心となった『大内氏居館』訪問

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2024/06/05 - 2024/06/05

301位(同エリア534件中)

滝山氏照

滝山氏照さん

この旅行記のスケジュール

2024/06/05

  • 市保健センター ー 県教育会館

  • 県教育会館 ー 大内氏居館(龍福寺)

  • 大内氏居館(龍福寺)ー JR山口駅

  • JR山口(17:06)ー JR新山口(17:31)

  • JR新山口(17:40)ー 山口宇部空港(18:10)

  • 山口宇部空港(19:00・JAL296)ー 羽田空港(20:35)

この旅行記スケジュールを元に

山口・島根県で気になる城跡を2泊3日の日程で訪問しました。


1.訪問期間 
 2024年6月3日~5日(2泊3日)

2.宿泊地
  萩市街(6月3日)・益田市街(6月4日) 

3.訪問先 
 萩城(山口県萩市)ー浜田城(島根県浜田市)ー石見七尾城(島根県益田
市)ー津和野城(島根県鹿足郡)ー高嶺城(山口県山口市)ー大内氏居館    
(山口県山口市)

4.移動ルート 
羽田ー山口宇部(飛行機)ー新山口(バス)ー萩(バス)東萩ー浜田
 (J R山陰線)ー益田(JR山陰線)ー津和野(JR山口線)ー山口(JR山口   
線)ー新山口(JR山口線)ー山口宇部(バス)ー羽田(飛行機)

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス JALグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 龍福禅寺案内板

    龍福禅寺案内板

  • 龍福寺・参道

    龍福寺・参道

  • 龍福寺・参道

    龍福寺・参道

  • 龍福寺山門

    龍福寺山門

  • 大内館跡・説明板<br /><br /><br />「 史跡(大内氏遺跡跡附凌雲寺跡)<br />     大 内 館 跡<br />            昭和34年11月27日国指定<br /><br />ここは、大内氏24代弘世が正平15年(1360)頃それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたたところです。<br /><br />大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、今日の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富みと文化を誇ったといわれています。天文20年(1551)大内氏31代義隆は重臣陶晴賢の反乱により滅亡しました。<br /><br />その後、陶氏を滅した毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。<br /><br />館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。<br />             管理団体 山口市  」

    大内館跡・説明板


    「 史跡(大内氏遺跡跡附凌雲寺跡)
         大 内 館 跡
                昭和34年11月27日国指定

    ここは、大内氏24代弘世が正平15年(1360)頃それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたたところです。

    大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、今日の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富みと文化を誇ったといわれています。天文20年(1551)大内氏31代義隆は重臣陶晴賢の反乱により滅亡しました。

    その後、陶氏を滅した毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。

    館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。
                 管理団体 山口市  」

  • 龍福寺・説明板<br /><br />さらに龍福寺に関して下記の通り説明がなされています。<br /><br /><br />「 龍 福 寺<br /><br />毛利元就公の長男隆元公が、養父大内義隆公の菩提寺として、天皇のりん旨を受けて建立した寺である。この境内地は大内館跡で、中世大内氏の居館があり、大内氏はここで200余年間政務を執ったのである<br /><br />天文18年(1549)元就公は元春公、隆景公の二子を連れてこの大内館に参上し、大いに歓待された。境内にある資料館には大内氏と毛利氏の関係のわかる資料が多くある 」

    龍福寺・説明板

    さらに龍福寺に関して下記の通り説明がなされています。


    「 龍 福 寺

    毛利元就公の長男隆元公が、養父大内義隆公の菩提寺として、天皇のりん旨を受けて建立した寺である。この境内地は大内館跡で、中世大内氏の居館があり、大内氏はここで200余年間政務を執ったのである

    天文18年(1549)元就公は元春公、隆景公の二子を連れてこの大内館に参上し、大いに歓待された。境内にある資料館には大内氏と毛利氏の関係のわかる資料が多くある 」

  • 龍福寺・鐘楼堂

    龍福寺・鐘楼堂

  • 大内義隆追善供養塔<br /><br />供養塔は宝篋印塔で自刃した大寧寺(在長門)にある義隆の墓を原寸大に複製したもので、平成12年(2000)に義隆の450回大遠忌にあたり、それに因んで建立されたものです。<br /><br />

    大内義隆追善供養塔

    供養塔は宝篋印塔で自刃した大寧寺(在長門)にある義隆の墓を原寸大に複製したもので、平成12年(2000)に義隆の450回大遠忌にあたり、それに因んで建立されたものです。

  • 大内義隆追善供養石碑

    大内義隆追善供養石碑

  • 大内義隆辞世の句碑<br /><br />傍の説明板には下記の如く紹介されています。<br /><br />「 天文20年(1551)重臣陶晴賢の謀反により大内氏31代義隆卿は大内御殿から長門の大寧寺に逃れました。<br /><br />この時大寧寺住職異雪慶殊和尚の弟子となり金剛経の経文を引用した<br />「 討つ人も 討たる 、人も 諸ともに 如露また如電応作如是観 」<br />の辞世をよんで自刃されました。<br /><br />その意味は<br />敵も味方も人の命は露のようにまた稲妻のようにはかないという仏教の無常観を<br />うたったものです。<br /><br />時に45才の生涯でした。」

    大内義隆辞世の句碑

    傍の説明板には下記の如く紹介されています。

    「 天文20年(1551)重臣陶晴賢の謀反により大内氏31代義隆卿は大内御殿から長門の大寧寺に逃れました。

    この時大寧寺住職異雪慶殊和尚の弟子となり金剛経の経文を引用した
    「 討つ人も 討たる 、人も 諸ともに 如露また如電応作如是観 」
    の辞世をよんで自刃されました。

    その意味は
    敵も味方も人の命は露のようにまた稲妻のようにはかないという仏教の無常観を
    うたったものです。

    時に45才の生涯でした。」

  • 龍福寺資料館<br /><br />入口左側に見えるは15代当主大内義興公(おおう地・よしおき、1477~1529)の像です。(時間の都合で見学することができませんでした)

    龍福寺資料館

    入口左側に見えるは15代当主大内義興公(おおう地・よしおき、1477~1529)の像です。(時間の都合で見学することができませんでした)

  • 龍福寺・本堂<br /><br />市内大内町にあった興隆寺釈迦堂を移設して本堂としたと伝えられ、建築は入母屋造の瓦葺きで、軒は鳥が羽を広げたような独特なシルエットとなっています。

    龍福寺・本堂

    市内大内町にあった興隆寺釈迦堂を移設して本堂としたと伝えられ、建築は入母屋造の瓦葺きで、軒は鳥が羽を広げたような独特なシルエットとなっています。

  • 龍福寺本堂・案内板<br /><br />本堂傍には下記の通り紹介されています。<br /><br /><br />「 重要文化財<br />    龍 福 寺 本 堂<br />           昭和29年9月17日指定<br /><br />龍福寺は、もと白石(山口市白石)の地にありましたが、天文20年(1551)に兵火にかかり、そのままになっていたものを、弘治3年(1557)毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うためにこの地に再興しました。<br /><br />明治14年(1881)、龍福寺は火災に遭い、ほとんどの建物が焼失しました。<br /><br />そのため、吉敷郡大内村(現在の山口市大内御堀)の、大内氏の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗の龍福寺本堂へ改造しました。<br /><br />この本堂は、文明11年(1479)に建立されたと言われており、内部の、大紅葉、板蟇股、組物などは室町時代の建築の特徴をよく表しています。<br /><br />移築後、約百年の月日が経ち、大規模な修繕が必要となったことから、平成17年から平成23年にかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿へ戻されました。<br />本堂は、桁行五間、梁間五間の入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面には蔀戸があります。なかでも内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは、大変珍しいものです。 」

    龍福寺本堂・案内板

    本堂傍には下記の通り紹介されています。


    「 重要文化財
        龍 福 寺 本 堂
               昭和29年9月17日指定

    龍福寺は、もと白石(山口市白石)の地にありましたが、天文20年(1551)に兵火にかかり、そのままになっていたものを、弘治3年(1557)毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うためにこの地に再興しました。

    明治14年(1881)、龍福寺は火災に遭い、ほとんどの建物が焼失しました。

    そのため、吉敷郡大内村(現在の山口市大内御堀)の、大内氏の氏寺であった天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し、曹洞宗の龍福寺本堂へ改造しました。

    この本堂は、文明11年(1479)に建立されたと言われており、内部の、大紅葉、板蟇股、組物などは室町時代の建築の特徴をよく表しています。

    移築後、約百年の月日が経ち、大規模な修繕が必要となったことから、平成17年から平成23年にかけて保存修理工事が行われ、建立当初の室町時代の姿へ戻されました。
    本堂は、桁行五間、梁間五間の入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面には蔀戸があります。なかでも内・外陣を隔てる板扉と格子戸の組み合わせによるしつらえは、大変珍しいものです。 」

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