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山口・島根県で気になる城跡を2泊3日の日程で訪問しました。<br /><br /><br />1.訪問期間 <br /> 2024年6月3日~5日(2泊3日)<br /><br />2.宿泊地<br />  萩市街(6月3日)・益田市街(6月4日) <br /><br />3.訪問先 <br /> 萩城(山口県萩市)ー浜田城(島根県浜田市)ー石見七尾城(島根県益田 <br />    市)ー津和野城(島根県鹿足郡)ー高嶺城(山口県山口市)ー大内氏居館    <br />   (山口県山口市)<br /><br />4.移動ルート <br />    羽田ー山口宇部(飛行機)ー新山口(バス)ー萩(バス)東萩ー浜田     <br />  (J R山陰線)ー益田(JR山陰線)ー津和野(JR山口線)ー山口(JR山口    <br />    線)ー新山口(JR山口線)ー山口宇部(バス)ー羽田(飛行機)<br /><br /><br />   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br />JR益田駅前の観光協会で入手の「国史跡 七尾城跡 山歩きマップ」と題するパンフレットには下記の通り簡潔に紹介されています。<br /><br />「 七 尾 城 概 要<br /><br />七尾城は歴代益田氏が本拠とした山城である。益田川下流域の左岸に位置し、複雑に尾根が入り組んだ七尾山の丘陵に築かれている。標高118m、比高110mの山頂の本丸跡からは益田氏の平時の館であった三宅御土居をはじめとする城下、益田平野や日本海まで望むことができる。全長は約600mに及ぶ、北東方向と南東方向に畝状空堀群(うねびじょうからぼりぐん)を備える。<br /><br />築城年代は不明であるが、1336年(延元元年)に三隅氏ら南朝方が「益田城」の「北尾崎城戸」を攻めたことが記録として残り、これが七尾城の一番古い記録と考えられている。<br /><br />1553年(天文22年)からの陶晴賢(すえはるかた)と毛利元就との戦いで益田藤兼は陶氏方につき、毛利氏の攻撃に備えて城を大改修して居住した。その後、藤兼は毛利氏と和睦し、関係を深めた。<br /><br />1583年(天正11年)に益田元祥(ますだもとよし)は下城して、益田川を挟んだ870m先にある三宅御土居に居を移した。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が長門・周防の2ヶ国へ減封されると、益田本祥も毛利氏に従って長門須佐(萩市)へと移り、七尾城は廃墟となった。<br /><br />七尾城跡は2004年(平成16年)増田氏館の三宅御土居跡とともに「益田氏城館跡」として国史跡に指定された。」<br /><br /><br />   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br /><br /><br />益田氏は元々浜田の御神本(みかもと、益田川の上流に位置する)に居館を構えていたことから御神本氏と称しており、現在地に移転して地名から益田氏に改称し土着化した豪族です。<br /><br />下克上により主家大内義隆を滅ぼした陶晴賢(すえ・はるかた)が毛利との戦いに敗れ毛利の勢力が益田に及ぶと同氏に臣従、関ヶ原合戦後は毛利輝元らが長門周防に転封となると益田氏は七尾城を離れ長門須佐に移り、以降益田氏は毛利藩の永代家老(1万3千石)として毛利氏に支えます。<br /><br />維新期では旧万石以上陪臣家は授爵対象外であったため士族のままでしたが、明治33年には華族の体面を維持できるだけの財産を有していると認められ男爵に叙されました。

石見益田 藤原系で石見国司退任後も土着豪族として勢力拡大し益田川を臨む七尾山に三方尾根を巧みに要害化した益田氏築城の『石見七尾城』訪問

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2024/06/04 - 2024/06/04

56位(同エリア103件中)

滝山氏照

滝山氏照さん

この旅行記のスケジュール

2024/06/04

  • JR浜田駅(13:35) ー JR益田駅 (14:23)

  • JR益田駅前(15:22) ー 益田本町(15:35)

  • 益田本町 ー 住吉神社 ー 石見七尾城 ー 妙義禅寺

この旅行記スケジュールを元に

山口・島根県で気になる城跡を2泊3日の日程で訪問しました。


1.訪問期間 
 2024年6月3日~5日(2泊3日)

2.宿泊地
  萩市街(6月3日)・益田市街(6月4日) 

3.訪問先 
 萩城(山口県萩市)ー浜田城(島根県浜田市)ー石見七尾城(島根県益田
市)ー津和野城(島根県鹿足郡)ー高嶺城(山口県山口市)ー大内氏居館    
(山口県山口市)

4.移動ルート 
羽田ー山口宇部(飛行機)ー新山口(バス)ー萩(バス)東萩ー浜田
 (J R山陰線)ー益田(JR山陰線)ー津和野(JR山口線)ー山口(JR山口   
線)ー新山口(JR山口線)ー山口宇部(バス)ー羽田(飛行機)


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JR益田駅前の観光協会で入手の「国史跡 七尾城跡 山歩きマップ」と題するパンフレットには下記の通り簡潔に紹介されています。

「 七 尾 城 概 要

七尾城は歴代益田氏が本拠とした山城である。益田川下流域の左岸に位置し、複雑に尾根が入り組んだ七尾山の丘陵に築かれている。標高118m、比高110mの山頂の本丸跡からは益田氏の平時の館であった三宅御土居をはじめとする城下、益田平野や日本海まで望むことができる。全長は約600mに及ぶ、北東方向と南東方向に畝状空堀群(うねびじょうからぼりぐん)を備える。

築城年代は不明であるが、1336年(延元元年)に三隅氏ら南朝方が「益田城」の「北尾崎城戸」を攻めたことが記録として残り、これが七尾城の一番古い記録と考えられている。

1553年(天文22年)からの陶晴賢(すえはるかた)と毛利元就との戦いで益田藤兼は陶氏方につき、毛利氏の攻撃に備えて城を大改修して居住した。その後、藤兼は毛利氏と和睦し、関係を深めた。

1583年(天正11年)に益田元祥(ますだもとよし)は下城して、益田川を挟んだ870m先にある三宅御土居に居を移した。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が長門・周防の2ヶ国へ減封されると、益田本祥も毛利氏に従って長門須佐(萩市)へと移り、七尾城は廃墟となった。

七尾城跡は2004年(平成16年)増田氏館の三宅御土居跡とともに「益田氏城館跡」として国史跡に指定された。」


   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


益田氏は元々浜田の御神本(みかもと、益田川の上流に位置する)に居館を構えていたことから御神本氏と称しており、現在地に移転して地名から益田氏に改称し土着化した豪族です。

下克上により主家大内義隆を滅ぼした陶晴賢(すえ・はるかた)が毛利との戦いに敗れ毛利の勢力が益田に及ぶと同氏に臣従、関ヶ原合戦後は毛利輝元らが長門周防に転封となると益田氏は七尾城を離れ長門須佐に移り、以降益田氏は毛利藩の永代家老(1万3千石)として毛利氏に支えます。

維新期では旧万石以上陪臣家は授爵対象外であったため士族のままでしたが、明治33年には華族の体面を維持できるだけの財産を有していると認められ男爵に叙されました。

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス JALグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 石見七尾城・案内板<br /><br />益田本町下車して取り敢えず山岳方向に歩くと七尾城看板が視野に入ります。

    石見七尾城・案内板

    益田本町下車して取り敢えず山岳方向に歩くと七尾城看板が視野に入ります。

  • 住吉神社・参道<br /><br />まもなく直線の道に繋がりそのまま進みます。中腹に鎮座している住吉神社の参道ですが七尾城の登城口でもあります。

    住吉神社・参道

    まもなく直線の道に繋がりそのまま進みます。中腹に鎮座している住吉神社の参道ですが七尾城の登城口でもあります。

  • 七尾城登城口<br /><br />住吉神社の鳥居があり、右側には拝殿が建てられています。なお、本来の七尾本丸への大手道はこれまでの道ではなく益田川を臨む曲部あたりから東側を走る尾根と西側を走る尾根の谷部を登っていくルートだったそうです。<br /><br />

    七尾城登城口

    住吉神社の鳥居があり、右側には拝殿が建てられています。なお、本来の七尾本丸への大手道はこれまでの道ではなく益田川を臨む曲部あたりから東側を走る尾根と西側を走る尾根の谷部を登っていくルートだったそうです。

  • 石見七尾城・説明板<br /><br />見取図の下欄に記載されてる内容は下記の通りです。<br /><br />「 益田氏と七尾城<br /><br />益田氏の祖、藤原定道(国兼)は、藤原鎌足の子孫といわれ、国司として石見上府に赴任し、任期終了後も帰らず土着した。<br /><br /> ひ孫の兼高<br />(益田氏名乗った最初の人)は、源平合戦で武功をたて、石見の押領使に任じられた。建久3年(1192)、上府からこの益田の地に本拠を移し、翌年七尾城を建てた。この益田は、七尾城の城下町として栄えた。<br /><br /> この城跡には、<br />古い井戸や敷石が残っており、往時の面影を忍ばせている。<br /><br /> この山の中腹に建つ<br />住吉神社は、七尾城の築城とともに上府から一の丸に移された神社で、現在の社殿は、寛文4年(1664)改築されたものである。<br /><br /> 七尾城の大手門は、<br />現在医光寺の城門として移築され、当時の姿を今に伝える唯一の建築物である。」

    石見七尾城・説明板

    見取図の下欄に記載されてる内容は下記の通りです。

    「 益田氏と七尾城

    益田氏の祖、藤原定道(国兼)は、藤原鎌足の子孫といわれ、国司として石見上府に赴任し、任期終了後も帰らず土着した。

     ひ孫の兼高
    (益田氏名乗った最初の人)は、源平合戦で武功をたて、石見の押領使に任じられた。建久3年(1192)、上府からこの益田の地に本拠を移し、翌年七尾城を建てた。この益田は、七尾城の城下町として栄えた。

     この城跡には、
    古い井戸や敷石が残っており、往時の面影を忍ばせている。

     この山の中腹に建つ
    住吉神社は、七尾城の築城とともに上府から一の丸に移された神社で、現在の社殿は、寛文4年(1664)改築されたものである。

     七尾城の大手門は、
    現在医光寺の城門として移築され、当時の姿を今に伝える唯一の建築物である。」

  • 石見七尾城・説明板(全景)

    石見七尾城・説明板(全景)

  • 七尾城跡/住吉神社・説明板<br /><br /><br />「 七尾城跡 住吉神社<br /><br />七尾城は、益田氏の居城で、頂上の本丸跡は標高118m、益田平野と日本海を一望することができます。全長600m以上のY字状の尾根を要塞化した、大規模で堅固な山城で、大小40あまりの曲輪からなり、要所に堀切や土塁、畝状空堀群を備えています。<br /><br />築城された時期については諸説ありますが、文献上に現れるのは南北朝時代から。当初は小規模だった城域が、中世末期までに七尾山全体にまで拡大されたと考えられています。<br /><br />戦国時代の末に益田氏19代藤兼は、毛利氏の攻撃に備えて七尾城を改修し、自身も居住していました。<br /><br />住吉神社は、中世に妙義寺境内に勧請された後、江戸時代に現在の七尾山中腹に移されたものです。」<br />

    七尾城跡/住吉神社・説明板


    「 七尾城跡 住吉神社

    七尾城は、益田氏の居城で、頂上の本丸跡は標高118m、益田平野と日本海を一望することができます。全長600m以上のY字状の尾根を要塞化した、大規模で堅固な山城で、大小40あまりの曲輪からなり、要所に堀切や土塁、畝状空堀群を備えています。

    築城された時期については諸説ありますが、文献上に現れるのは南北朝時代から。当初は小規模だった城域が、中世末期までに七尾山全体にまで拡大されたと考えられています。

    戦国時代の末に益田氏19代藤兼は、毛利氏の攻撃に備えて七尾城を改修し、自身も居住していました。

    住吉神社は、中世に妙義寺境内に勧請された後、江戸時代に現在の七尾山中腹に移されたものです。」

  • 七尾城・案内地図

    七尾城・案内地図

  • 七尾城・登城石段<br /><br />急勾配の石段を登っていきます。早朝より歩いているためいささか足が重いです。

    七尾城・登城石段

    急勾配の石段を登っていきます。早朝より歩いているためいささか足が重いです。

  • 熊出没警告板 <br />                                       益田駅観光協会で「熊出没」の注意を受けていましたがやはり警告板がありました。<br />石段を降りてくる男性は鈴を手にしていました。「出会い頭には気を付けるように」との注意がありました。

    熊出没警告板 
                                           益田駅観光協会で「熊出没」の注意を受けていましたがやはり警告板がありました。
    石段を降りてくる男性は鈴を手にしていました。「出会い頭には気を付けるように」との注意がありました。

  • 住吉神社・神門<br /><br />急峻な石段を登りきると赤色の神門が建っています。

    住吉神社・神門

    急峻な石段を登りきると赤色の神門が建っています。

  • 益田氏城館跡 七尾城跡・説明板<br /><br />「 国指定史跡 <br />    益田氏城館跡 七尾城跡<br />          指定 平成16年9月30日<br /><br />七尾城は、中世の有力武士団益田氏が本拠とした山城です。全長は約600mで、西側に畝状空堀群を備えて防備を固めています。<br /><br />南北朝時代の初期にはすでに築城され、関ヶ原の戦いの後に廃城になりましたが、大手門は移築されて医光寺総門として現存しています。<br /><br />発掘調査の結果、本丸・ニノ段を中心とした主郭部分で、櫓門や主殿、会所、倉庫などの礎石建物や庭園跡が発見されました。土器・陶磁器の大半は16世紀第3四半期のもので、出土した大量のかわらけ(土器の皿)は、城内で酒宴を伴う儀礼が行われていたことを物語っています。<br /><br />天文20年(1551)の陶晴賢の挙兵に関わった益田藤兼が、毛利氏との緊張が高まる中で七尾城を大改修して居住し、天正11年(1583)に子の元祥とともに下城して再び三宅御土居に居を移したという益田家文書等の記述が、遺構と建物の両面から確かめられました。<br /><br />城と館がセットで蘇る貴重な例として、さらに中国地方の歴史を考える上で貴重な遺跡として、益田氏館の三宅御土居館とともに国史跡に認定されました。<br /><br />         平成22年10月<br />                       益田市教育委員会 」

    益田氏城館跡 七尾城跡・説明板

    「 国指定史跡 
        益田氏城館跡 七尾城跡
              指定 平成16年9月30日

    七尾城は、中世の有力武士団益田氏が本拠とした山城です。全長は約600mで、西側に畝状空堀群を備えて防備を固めています。

    南北朝時代の初期にはすでに築城され、関ヶ原の戦いの後に廃城になりましたが、大手門は移築されて医光寺総門として現存しています。

    発掘調査の結果、本丸・ニノ段を中心とした主郭部分で、櫓門や主殿、会所、倉庫などの礎石建物や庭園跡が発見されました。土器・陶磁器の大半は16世紀第3四半期のもので、出土した大量のかわらけ(土器の皿)は、城内で酒宴を伴う儀礼が行われていたことを物語っています。

    天文20年(1551)の陶晴賢の挙兵に関わった益田藤兼が、毛利氏との緊張が高まる中で七尾城を大改修して居住し、天正11年(1583)に子の元祥とともに下城して再び三宅御土居に居を移したという益田家文書等の記述が、遺構と建物の両面から確かめられました。

    城と館がセットで蘇る貴重な例として、さらに中国地方の歴史を考える上で貴重な遺跡として、益田氏館の三宅御土居館とともに国史跡に認定されました。

             平成22年10月
                           益田市教育委員会 」

  • 益田市街眺望<br /><br />住吉神社社域から市街を眺望します。

    益田市街眺望

    住吉神社社域から市街を眺望します。

  • 住吉神社・拝殿<br /><br />初代国兼(くにかね)が石見国司として海路で下向する際、海神の住吉神社に航海の安全を祈願して無事赴任地上府に到着、ご加護に感謝した国兼はこれを勧請して国府の地に社を建てます。建久3年(1192)第4代兼高が新天地の益田に移転、翌年七尾城築城に際し同社を上府より移転して現在地に城山鎮護の神として奉斎したと伝えられています。

    住吉神社・拝殿

    初代国兼(くにかね)が石見国司として海路で下向する際、海神の住吉神社に航海の安全を祈願して無事赴任地上府に到着、ご加護に感謝した国兼はこれを勧請して国府の地に社を建てます。建久3年(1192)第4代兼高が新天地の益田に移転、翌年七尾城築城に際し同社を上府より移転して現在地に城山鎮護の神として奉斎したと伝えられています。

  • 本丸跡・案内板

    本丸跡・案内板

  • 七尾城跡 西尾根曲輪群・説明板<br /><br />「 七尾城跡 西尾根曲輪群<br /><br />中世の豪族益田氏が築いた七尾城は、主に3つの細長い尾根を利用して築かれています。このうち住吉神社の背後から北に伸びる西尾根には大小20以上の曲輪(平坦地)が残っています。<br /><br />大手の谷を登りきった位置には厩の段があり、堀切を隔てた北側には、宝暦3年(1753)に太鼓の胴が発見されたという太鼓の段があります。<br /><br />西尾根の中で最も高く、かつ最大の広さをもつ千畳敷は防護上重要な曲輪で、建物もあったと推定されます。<br /><br />西尾根の北端には尾崎丸と呼ばれる出丸があり、山裾にあった大手口の北尾崎木戸は南北朝時代の延元元年(1336)に三隅氏に襲撃され、益田方の武将が戦死しましたが、これ七尾城における唯一の戦いです。<br /><br />七尾城は改修を重ねて現存する規模に発展し、関ヶ原の戦いの後に廃城になりましたが、西尾根の曲輪群は城の中でも古くから築かれていた部分と考えられています。<br /><br />       平成15年3月<br />                  益田市教育委員会 」

    七尾城跡 西尾根曲輪群・説明板

    「 七尾城跡 西尾根曲輪群

    中世の豪族益田氏が築いた七尾城は、主に3つの細長い尾根を利用して築かれています。このうち住吉神社の背後から北に伸びる西尾根には大小20以上の曲輪(平坦地)が残っています。

    大手の谷を登りきった位置には厩の段があり、堀切を隔てた北側には、宝暦3年(1753)に太鼓の胴が発見されたという太鼓の段があります。

    西尾根の中で最も高く、かつ最大の広さをもつ千畳敷は防護上重要な曲輪で、建物もあったと推定されます。

    西尾根の北端には尾崎丸と呼ばれる出丸があり、山裾にあった大手口の北尾崎木戸は南北朝時代の延元元年(1336)に三隅氏に襲撃され、益田方の武将が戦死しましたが、これ七尾城における唯一の戦いです。

    七尾城は改修を重ねて現存する規模に発展し、関ヶ原の戦いの後に廃城になりましたが、西尾根の曲輪群は城の中でも古くから築かれていた部分と考えられています。

           平成15年3月
                      益田市教育委員会 」

  • 本丸跡・馬釣井方向・案内板<br /><br />当然ながら本丸跡に向かいます。

    本丸跡・馬釣井方向・案内板

    当然ながら本丸跡に向かいます。

  • 七尾城跡 大手の帯曲輪・説明板<br /><br /><br />「 七尾城跡 大手の帯曲輪<br />         指定 平成16年9月30日<br /><br />七尾城跡はこの付近から尾根が西側と東側にY字状に分かれ北向きに谷が開いています。七尾城の大手はこの谷部と考えられ、谷あいには家臣団の屋敷もあったと推定されます。<br /><br />ニの段西側の斜面の中腹にあり、大手道を見下ろす場所に位置する帯曲輪(平な区画)では、発掘調査の結果、長辺22m(11間)X短辺5m(2間半)の礎石建物跡が完全な状態で発見されました。<br /><br />この建物は遺物の量が少なかったことから、日常的に居住する建物ではなく倉庫の役割が推定されますが、城の中心部に到達する大手の側面に建っていることから防御的な性格も兼ね備えた建物であったと考えられます。<br /><br />    平成17年3月<br />                益田市教育委員会 」<br />

    七尾城跡 大手の帯曲輪・説明板


    「 七尾城跡 大手の帯曲輪
             指定 平成16年9月30日

    七尾城跡はこの付近から尾根が西側と東側にY字状に分かれ北向きに谷が開いています。七尾城の大手はこの谷部と考えられ、谷あいには家臣団の屋敷もあったと推定されます。

    ニの段西側の斜面の中腹にあり、大手道を見下ろす場所に位置する帯曲輪(平な区画)では、発掘調査の結果、長辺22m(11間)X短辺5m(2間半)の礎石建物跡が完全な状態で発見されました。

    この建物は遺物の量が少なかったことから、日常的に居住する建物ではなく倉庫の役割が推定されますが、城の中心部に到達する大手の側面に建っていることから防御的な性格も兼ね備えた建物であったと考えられます。

        平成17年3月
                    益田市教育委員会 」

  • 本丸跡・案内板<br /><br />

    本丸跡・案内板

  • ニノ段・案内板<br /><br />本丸跡は30m先にあります。

    ニノ段・案内板

    本丸跡は30m先にあります。

  • ニの段

    ニの段

  • ニの段

    ニの段

  • ニの段

    ニの段

  • 本丸

    本丸

  • 本丸

    本丸

  • 本丸

    本丸

  • 七尾城跡本丸・説明板<br /><br /><br />「 七尾城跡 本丸<br /><br />中世の豪族益田氏が築いた七尾城は、全長が600mに及ぶ大規模な山城です。<br /><br />城の最高部に位置し、城下を一望できる本丸は、標高約120mで、南側は堀切と土塁で守られています。本丸に接して、約1m低いニノ段があり、北側に堀切があります。この本丸と二の段が七尾城の主郭部でした。<br /><br />平成4年からの発掘調査によって、本丸北端では瓦葺の櫓門、ニノ段北端では2棟の建物の礎石列と庭園跡、二の段西斜面の帯曲輪では5mX22m長大な建物跡が発見されました。<br /><br />さらに、中国た朝鮮からの輸入陶磁器や土師質土器(かわらけ)など、16世紀中頃から後半にかけての遺物が多量に出土しました。<br /><br />この成果は、益田氏19代藤兼が七尾城を改修し、自らも城内に隠居したという益田家文書の記述を裏付け、戦国時代末期の七尾城は、合戦時の砦から領主の居城へと大きく変貌していたことが明らかになりました。<br /><br />       平成15年3月<br />                  益田市教育委員会 」<br /><br />

    七尾城跡本丸・説明板


    「 七尾城跡 本丸

    中世の豪族益田氏が築いた七尾城は、全長が600mに及ぶ大規模な山城です。

    城の最高部に位置し、城下を一望できる本丸は、標高約120mで、南側は堀切と土塁で守られています。本丸に接して、約1m低いニノ段があり、北側に堀切があります。この本丸と二の段が七尾城の主郭部でした。

    平成4年からの発掘調査によって、本丸北端では瓦葺の櫓門、ニノ段北端では2棟の建物の礎石列と庭園跡、二の段西斜面の帯曲輪では5mX22m長大な建物跡が発見されました。

    さらに、中国た朝鮮からの輸入陶磁器や土師質土器(かわらけ)など、16世紀中頃から後半にかけての遺物が多量に出土しました。

    この成果は、益田氏19代藤兼が七尾城を改修し、自らも城内に隠居したという益田家文書の記述を裏付け、戦国時代末期の七尾城は、合戦時の砦から領主の居城へと大きく変貌していたことが明らかになりました。

           平成15年3月
                      益田市教育委員会 」

  • 本丸

    本丸

  • 市街地展望<br /><br />本丸より市街地を眺望します・

    市街地展望

    本丸より市街地を眺望します・

  • 市街地展望

    市街地展望

  • 本丸

    本丸

  • 本丸

    本丸

  • 本丸・七尾山案内板

    本丸・七尾山案内板

  • 本丸

    本丸

  • 本丸

    本丸

  • 本丸

    本丸

  • 本丸

    本丸

  • (七尾城跡を降りて麓を歩きます)<br />                                             益田家城主墓所・案内板<br /><br /><br />

    (七尾城跡を降りて麓を歩きます)
                                                 益田家城主墓所・案内板


  • 妙義寺・全景<br /><br />13世紀後半に創建の臨済宗寺院ですが、応永元年(1394)益田氏13代兼家が中興の祖として曹洞宗に改め同氏の菩提寺とします。

    妙義寺・全景

    13世紀後半に創建の臨済宗寺院ですが、応永元年(1394)益田氏13代兼家が中興の祖として曹洞宗に改め同氏の菩提寺とします。

  • 妙義寺・説明板<br /><br />「 妙義寺<br /><br />妙義寺は、室町時代の益田氏13代兼家が建立したと伝わる曹洞宗寺院で、益田における重要な宗教的中核の一つとして信仰を集めました。天正9(1581)年に19代藤兼・20代元祥親子によって再興され、この地域の曹洞宗の中核寺院に位置づけられました。境内の桜谷には、藤兼や藤家の墓と伝わる見事な五輪塔が残されています。<br /><br />このほか寺に伝わる仏像や古文書からも、歴史を実感することができます。本堂では座禅体験や演奏会なども行われており多様な文化を味わえ、境内や庭園では四季折々の花も楽しめます。<br /><br />妙義寺前の石橋を渡り北に伸びる参詣道は、中世樹下の基軸線となっています。」<br />

    妙義寺・説明板

    「 妙義寺

    妙義寺は、室町時代の益田氏13代兼家が建立したと伝わる曹洞宗寺院で、益田における重要な宗教的中核の一つとして信仰を集めました。天正9(1581)年に19代藤兼・20代元祥親子によって再興され、この地域の曹洞宗の中核寺院に位置づけられました。境内の桜谷には、藤兼や藤家の墓と伝わる見事な五輪塔が残されています。

    このほか寺に伝わる仏像や古文書からも、歴史を実感することができます。本堂では座禅体験や演奏会なども行われており多様な文化を味わえ、境内や庭園では四季折々の花も楽しめます。

    妙義寺前の石橋を渡り北に伸びる参詣道は、中世樹下の基軸線となっています。」

  • 妙義寺・寺標

    妙義寺・寺標

  • 妙義寺・本堂

    妙義寺・本堂

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