2024/06/03 - 2024/06/03
533位(同エリア941件中)
滝山氏照さん
この旅行記スケジュールを元に
山口・島根県で気になる城跡訪問スケジュール
1.訪問期間
2024年6月3日~5日(2泊3日)
2.宿泊地
萩市街(6月3日)・益田市街(6月4日)
3.訪問先
萩城(山口県萩市)ー浜田城(島根県浜田市)ー石見七尾城(島根県益田
市)ー津和野城(島根県鹿足郡)ー高嶺城(山口県山口市)ー大内氏居館
(山口県山口市)
4.移動ルート
羽田ー山口宇部(飛行機)ー新山口(バス)ー萩(バス)東萩ー浜田
(J R山陰線)ー益田(JR山陰線)ー津和野(JR山口線)ー山口(JR山陰線)
ー新山口(バス)山口宇部ー羽田(飛行機)
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羽田空港から一路山口宇部空港に飛んで新山口経由でバスを走らせ萩バスセンターに到着したのが12時過ぎ。宿泊ホテルでチェックイン済ませた後市役所まで歩き隣接のセブンで購入したサンドイッチで昼食を済ませて萩城下町の散策を始めます。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス JALグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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萩城下町・案内板
市役所から西方に歩くと中央公園があり、観光バスなどが駐車しています。ここに萩城城下町の案内板を目印として散策を始めます。 -
萩城下町地図
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晋作広場入場門
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「晋作広場」案内板
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「晋作広場」に立つ高杉晋作
明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しい立志像が建立されています。 -
高杉晋作立志像
明倫館(藩校)や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しい立志像が建立されています。 -
城下町・通り
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高杉晋作誕生地
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高杉晋作誕生地・正門
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高杉晋作略伝・説明板
「 高 杉 晋 作 略 伝
名は春風、字はちょう夫、晋作は通称でありますが最も広く知られています。また谷梅之助、谷潜蔵の変名もあり、東行、西海一狂生、東生一狂生などと号していました。天保10年(1839)
8月20日萩藩士高杉小忠太、室道子(大西氏の出)の長男としてここ萩菊屋横丁の宅で生まれました。幼少の頃、私塾に学を習い、やや長じて明倫館に文武を学び、また松下村塾に入り松陰の指導を受けました。
文久元年(1861)藩主世子の小姓役に抜擢せられ、よく2年幕使に随行して上海に渡航する機会に恵まれて海外諸情勢をつかみ、帰朝後攘夷の急先鋒として活躍しました。
文久3年馬関の外国船攻撃にあたり、自から奇兵隊を組織し、同隊総監を命ぜられました。奇兵隊は、日本でははじめての士農工商を問わない国民的軍隊で、後これに倣うもの続出して長州藩の反幕府勢力軍事的基盤として明治維新戦争に大きな働きをしました。ついで一時脱藩し罪をえて野山獄に入りましたが元治元年の四国連合艦隊の馬関来襲にあたり許されて再起用され、講和条約の正使となって堂々と交渉して国土の危急を救いました。
禁門の変後藩首脳は俗論党により占められたため、晋作は九州に亡命しましたが、時至ってふたたび奇兵隊を指揮し、長府功山寺に軍を起し、疾風の勢で諸地に転戦し俗論党を一掃いたしました。
第二回長州征伐を前に薩長同盟に尽力し慶応2年第二回生征長軍を迎えて、全藩を指揮し、みずからは小倉口を攻めて、縦横の機略を駆使して連戦連勝しましたが、よく3年4月14日、享年29才で赤馬関に病死し、下関吉田清水に葬られました。明治24年生前の功労に対して正四位を贈られました。
* こ の 旧 宅 に つ い て
この旧宅は、嘉禄200石を受けていた、父高杉忠太宅で、現存する当時の建物は座敷(六畳床間付)、次の間(六畳)、居間(六畳、四.五畳)、小室(三畳)の他に玄関、台所があります。
土蔵納屋もありましたが、現在しておりません。庭園に鎮守、裏庭に井戸がそのまま残っております。
萩 市 内 の 関 係 史 跡
1.高杉?夫墓(遺髪墓) 椿東詮原東光寺台墓地
2.明倫館跡 江向
3.松下村塾 椿東区松本
4.萩城跡
(備考)
なお萩市以外の主な関係としては高杉晋作墓(下関吉田清水山
国指定史跡)
奇兵隊挙兵地(下関市長府功山寺)
大田絵堂戦跡(美祢郡美東町)などがあります。」
遺髪墓 -
高杉晋作誕生旧宅
内部は全体的に狭くさっさと歩くしかありません。 -
田中義一誕生地
陸軍大将として活躍しのちに第26代内閣総理大臣として政治家の道を進みます。 -
田中義一・説明板
「 田中義一 1863ー1919
幕末ごろ藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として文久3年(1863)乙熊がここで生まれた。乙熊は3歳のとき平安古に移り、成長して義一と名を改めた。
13歳のとき新堀小学校の授業生(代用教員)に登用され、萩の乱にも参加したが、のち陸大に進学した。大正7年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となる。
大正14年政友会総裁に就任、昭和2年内閣総理大臣となり外務大臣、拓務大臣をも兼任した。
萩 市 」
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田中義一
博物館付近に立つ田中義一の立像 -
田中義一・説明板
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萩博物館・南門
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萩博物館・正門
(内部は撮影禁止のためシャッター押せません) -
北門屋敷(全景)
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北門屋敷
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旧福原家萩屋敷門
永代家老であった福原家の萩上屋敷の表門が見えます。 -
旧福原家萩上屋敷・説明板
「県指定文化財(建造物) 指定年月日 昭和49年11月8日
所有者 萩市
所在地 萩市大字堀内
福 原 家 萩 屋 敷 門
この門は萩藩永代家老福原家(11、314石余)の萩上屋敷門である。福原家の本拠は領地の宇部にあったが、当主は代々萩藩の重臣として平素は萩に住むのが常であった。福原家にはこの上屋敷の外に萩城下内に中屋敷と下屋敷があった。
門の形式は切妻造り、本瓦葺きの三間三戸の出入口をもつ腕木門で、両袖に潜戸が付いている。上級屋敷にふさわしい風格と規模を有するもので、建築年代は江戸中期頃と思われる。
萩に現存する武家屋敷の門はほとんど門番所のある長屋門であるが、門番所のないこの形式は非常に珍しい。」
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大樹院
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大樹院・正門
毛利元就の孫で関ヶ原戦いの敗北により当地に転封させられた毛利輝元の墓所となっています。 -
天樹院・説明板
「 ここ天樹院墓所は萩開府毛利輝元の墓所で、輝元と夫人及び、殉死者長井次郎座右衛門の墓石3基あります。ここは以前輝元の本邸があったところで、彼の没後に天樹院(輝元の法号)が菩提寺として建てられましたが、明治2年(1869)に廃寺となり墓所のみが残っています。
毛 利 輝 元
毛利輝元(1553~1625)は安土桃山時代の大名。
天分22年(1553)正月22日毛利隆元の長男として生まれ、母は大内義隆の養女(内藤興盛の娘)。幼名は幸鶴丸。永禄6年(1563)父の急死によって家督を相続。祖父元就の後見をうけ、同8年元服し将軍足利義輝の一字を拝領して少輔太郎輝元と称す。一字名は本。官職名は右衛門督(元亀3年(1572)、右馬頭(天正2年(1574))、参議(天正16年(1588))、権中納言(文禄4年(1595))。元亀2年(1571)元就死没後は、両叔吉川元春と小早川隆景の補佐をうけて出雲国から尼子勝久・山中幸?らを追放し、備前国の浦上宗景を圧迫し、讃岐国にも兵を入れるが、このころ京都を制し播磨国に進出してきた織田氏勢力と接触する。 天正4年(1576)5月領内の備後国鞆浦に逃れてきた前将軍足利義昭を奉じて織田氏に対抗。織田氏の武将羽柴秀吉が播磨国に進撃し織田氏勢力に圧せられる。同10年(1582)6月備中高松城下(岡山市高松)で講和成立後に本能寺の変を知るが講和を守って追撃せず、秀吉の中央での刺激に好機を与える。豊臣政権下に入っては四国出征・九州出征において共に先鋒をつとめ、同16年(1588)上洛し、聚楽第を訪問、ついで内裏に参内し参議に任官される(安芸宰相)。天正17年(1589)4月から大田川口のデルタに築城を始め、この地を広島と命名。本拠を吉田郡山城からここに移す。同19年(1591)3月秀吉から安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七か国および伯耆国3郡と備中国内で120万石の知行目録を与えられる。慶長2年(1597)に豊臣政権の五大老に列せられ、翌3年(1598)秀吉の死去にあたって秀頼の補佐を委託される。関ヶ原の戦いでは、自身は大阪西の丸にあって、西軍の総帥とみなされたため七か国を削られ周防・長門両国に減封された。同5年(1600)10月剃髪して法号を宗瑞また幻庵といった。同時に隠居して家督を6歳の秀就に譲る。慶長9年(1604)11月長門国阿武郡萩指月山に築城して移る。寛永2年(1625)4月27日萩城内で死没。73歳。法名は天樹院殿前黄門雲厳宗瑞大居士。
(国史大辞典より) 」
(尚 毛利氏略系図は省略 ) -
萩藩主毛利家墓所 (天樹院墓所)
「 国指定史跡 指定年月日 昭和56年5月2日
所 在 地 萩市大字堀内・天樹院
萩 藩 主 毛 利 家 墓 所 (天 樹 院 墓 所)
天樹院墓所は毛利輝元の墓所で、輝元と夫人および殉死者長井治郎左衛門の墓石3基がある。これらの墓は花こう岩製の五輪塔形である。なかでも輝元のものは高さ2.1m、夫人のものは1.8mといずれも大型である。また墓の周囲には玄武岩製の玉垣、鳥居、石灯籠、長さ64mの参道の敷石、唐門などがあり、環境も良好である。
ここは以前輝元の隠居所、四本松邸があった所で、彼の死後に天樹院(輝元の法号)が菩提寺としてたてられたが、明治2年(1869)に廃寺となり墓所のみが残った。」 -
毛利輝元墓所(全景)
敷石を詰めた長い参道の先には2基の石灯籠が建てられています。 -
毛利輝元墓所(近景)
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毛利輝元・五輪塔
中央部に高さ2.1mという五輪塔が輝元の墓石で、その左には夫人の墓石(高さ1.8m)があります。 -
殉死し家臣(長井治郎左衛門)の五輪塔
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長井元房と忠義の猫・説明板
「 長井元房と忠義の猫~猫町伝説~
これは毛利輝元の家臣であった長井元房のお墓です。
萩に城下町を築いた藩祖 毛利輝元には、長井基元房という家臣がいました。
元房は若いころ萩を出弄し他国に流浪していましたが、その時も輝元はひそかに銀子を与えて元房を庇護していました。その後、輝元は萩に帰った元房を以前と同様に家臣として遇しました。
1625年(寛永2年)、輝元が亡くなると元房は輝元に深い恩を感じていたのでしょう、後を追って殉死しました。
元房には、たいへん可愛がっていた猫がいました。その猫は、元房の死後、天樹院の元房の墓石から離れようとせず、49日の法要の日に舌を噛んで死んでいたと伝えられています。
萩博物館の西側の筋に現房の屋敷があったことから、この筋に猫町という名前がつけられました。 」
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旅行記グループ
中国地方西部で気になるいくつかの城郭散策
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