2024/06/04 - 2024/06/04
104位(同エリア134件中)
滝山氏照さん
この旅行記のスケジュール
2024/06/04
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電車での移動
JR山陰線東萩(6:17) ー JR山陰線益田(7:33・7;39) ー JR山陰線浜田(8:31)
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バスでの移動
JR浜田駅 ー 城山公園前
この旅行記スケジュールを元に
山口・島根県で気になる城跡を2泊3日の日程で訪問しました。
1.訪問期間
2024年6月3日~5日(2泊3日)
2.宿泊地
萩市街(6月3日)・益田市街(6月4日)
3.訪問先
萩城(山口県萩市)ー浜田城(島根県浜田市)ー石見七尾城(島根県益田
市)ー津和野城(島根県鹿足郡)ー高嶺城(山口県山口市)ー大内氏居館
(山口県山口市)
4.移動ルート
羽田ー山口宇部(飛行機)ー新山口(バス)ー萩(バス)東萩ー浜田
(J R山陰線)ー益田(JR山陰線)ー津和野(JR山口線)ー山口(JR山口
線)ー新山口(JR山口線)ー山口宇部(バス)ー羽田(飛行機)
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2日目は萩からJRにて浜田まで移動し、まずは浜田城訪問から始めます。
JR浜田駅からバスで約10分、城山公園前で下車しますと公園化されたものの城郭の立地にふさわしく樹木に覆われた風景が現れています。
護国神社の脇道を通って約15分登れば本丸に到着、途中の石垣・石段は松坂より転封して浜田藩を立藩した古田重治が城域を決めて築城した頃の状況を想像させてくれます。
本丸からの展望は見事です。城の殆どを囲むように浜田川が南西から流れ、反対に日本海が入り込んで船の出入となっている松原湾の眺望が素晴らしいです。
眼下にある松原湾の奥には外ノ浦港が控えています。当該港は「西廻り航路」において北陸方面と瀬戸内海方面とを中継する風待ち港として北前船
などが寄港して発展を遂げています。
浜田藩とその歴史を見ると次のようになります。すなわち、元和5年(1619)、伊勢松坂から転封した古田重治(ふるた・しげはる、1578~1625)は外様ながら関ヶ原の功を得た5万4千石とはいえ、旧毛利領の新任地ではゼロからのスタートで元和の「一国一城令」以降の幕府による例外的措置によって立藩と3年に亘る築城並びに城下町の建設はさぞかし難儀を極めたことでしょう。
この古田家は重治より家督を譲られた重恒(しげつね、1603~1648)は2代目藩主となりますが跡継ぎないまま46歳で死去、古田氏は改易処分となります。
古田氏以降は3家の大名が入封しますがいずれも譜代大名で、松井松平家(前期:1649~1759・後期:1769~1836)、本多家(1759~1769)、越智松平家(1836~1866)がそれぞれ中国地方の押さえとし周辺の外様大名の動向を監視するなどその役割を求められていました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス JALグループ JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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JR東萩駅
まだバスが走らない早朝に浜田城に行くためにJR東萩駅へ向かいます。当該駅は市街地を離れ松本川を渡った地にあり、後に地図を一覧するとそれまでの海岸を通る山陰線が萩に入ると円弧に萩市内を取り巻くように向きを変えています。何らかの事情があったことでしょう。 -
JR乗車券(東萩ー浜田)
当駅始発(6:17)の普通(非電化のためディーゼル車両)益田行(7:33着)に、同駅発7:39の浜田行(8:31着)を予定をしています。 -
浜田城跡公園・案内図
浜田駅舎にある観光案内所で情報収集、駅バス停3番から石見交通バスにて約10分、城山公園で下車します。 -
浜田城跡案内板
まず「本丸・護国神社」に沿って険しい道を登って行きます。(後刻判明したのですが脇道からの登城でした。因みに近接の浜田城資料館に情報収集を兼ねて行きましたが工事中のため入荷の不能でした。但し駐車場があって車両利用者は利便性が高いです。) -
護国神社拝殿
急峻な坂を上がると護国神社境内となり、当社の右手の道が本丸に通ずる道のようです。(帰路は護国神社から降りてバス通に出ましたが、どうやら護国神社に通じる道が大手道と思われます。) -
浜田城・大手道
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浜田城復元CG
道の左には浜田城復元CGの姿が入った説明板が配されて全体像が把握できました。
「 浜田城復元CG(コンピューター・グラフィック・イメージ)
浜田護国神社正面左手の方向から見上げた復元図です。山頂に構えられた本丸には天守の代用である高さ14mの三重櫓がそびえその右手に本丸一ノ門と一般には多聞櫓と呼ばれる六間長屋の屋根が見えます。本丸の下には出丸の石垣と塀が見え、さらに右手には二ノ門が見えます。
平成17年3月10日 浜田市教育委員会 」 -
浜田城跡・説明板
更に進むと浜田城跡説明板があります。 -
浜田城跡・説明板(近景)
「 県指定史跡 浜 田 城 跡 (浜田市殿町)
標高67mの丘陵上に築かれた平山城であり、北は松原湾を介して日本海を望み、西南には城を囲むように浜田川が流れている。海陸ともに交通の要地であった。
元和5年(1617)に伊勢松坂城主であった古田重治が大坂の陣の功によって5万5千余石でこの地に転封となり、浜田川河口部に城地を定めるとともに城下町の範囲を定め、古くからあった町を整理して城下町の基礎を築いた。翌年2月に築城に着工、元和9年(1623)5月には城や城下町の工事を完了した。元和の一国一城令(元和元年・1615年)以降に新城を築城した例は、この浜田城を含めても明石城、福山城などわずかであり珍しい例である。
本丸は頂上部にあり、約60m X約50mの規模をもち、北西の隅には三重の天守が建てられた。本丸から南に向かって、城山の中腹に二の丸、山麓に三の丸があり、周辺は石垣で固められている。
浜田城の城主は、古田家(2代)以降、松平周防守家(5代)、本多家(3代)、松平周防守家(4代)、松平右近将監(4代)とめまぐるしく替わった。慶応2年(1866)に第二次長州征伐で敗れたために松平武聡は退城し、浜田城は近世城郭としての歴史を終えた。
昭和37年(1962)6月12日 指定
平成13年(2001)3月
島根県教育委員会
浜田市教育委員会 」 -
浜田城・標柱
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旧浜田県庁表門
もともとは津和野藩の門でしたが明治3年(1870)の浜田県設置に伴い県庁の正門として現在の浜田郵便局がある場所に移され、その後昭和42年に現在地に移築されています。 -
旧浜田県庁表門・説明板
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浜田城・大手道と石垣
浜田駅案内所で入手のパンフレットの表紙がこの景色でした。 -
浜田城・石垣
初期段階の野面積(のづらづみ)でも改良を重ねた後期段階と思われます。また面と面が交差する部分の算木積(さんぎづみ)も両面が接する線が不揃いでまだ発展途中と言える段階でむしろ戦国時代の雰囲気が充分残っています。 -
浜田城・石垣と石段
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浜田城・石垣と石段
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本丸方向と出丸方向との分岐点
右方向が本丸へと続き、直線方向が出丸への通路となっています。 -
浜田城・二丸方向石段
枡形の石垣に囲まれた石段が続きます。 -
浜田城・「三丸」方向石段
「三丸と出丸石垣」説明板に記載ように本来はこの先は石垣があって通行不能でしたが、明治に入ってこの石垣を撤去して通れるように改変したものです。 -
浜田城・「三丸」方向石段
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浜田城 三の丸と出丸の石垣・説明板
「 三 丸 と 出 丸 石 垣
左やや上の階段に人頭大の石が集中して見られます。これはこの上に配備された出丸と呼ばれる曲輪の石垣を明治34~36年にかけて撤去し、階段を整備したために、石垣の裏込めの石が露出したものです。
したがって、本来は正面に高い石垣があり、ここで折れ曲がっって、背後にあるニノ門へ向かうルートしかありませんでした。
背後にある階段を登ると「三丸」と呼ばれる曲輪となります。「浜田城石垣絵図」によれば、この「三丸」から山頂の本丸までの石垣に全て塀を廻らせ、「三丸」から山麓の中ノ門までの石垣には塀を設けていませんでした。浜田城は周囲からよく見える山頂部周辺にのみ塀を廻らせた「見せる城」とも評価できます。
平成15年8月20日
浜田市教育委員会 」 -
浜田城・出丸
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浜田城出丸・説明板
「 出 丸
浜田城の出丸は本丸や二丸、三丸と呼ばれる中心的な曲輪から唯一西側に突き出し、独立的な曲輪として配置されています。そのため、出丸という名称が付けられたものと考えられますし、また、「本丸脇千人溜リ」とも呼ばれていました。
記録には、「ニノ門ヨリ出丸ノ方石垣塀十二間(約22m)」とあって、ニノ門からの位置が示され、規模についても「出丸 東四十三間二尺(約25m) 南北十三間一尺(約25m)此坪数百三十五坪三歩」と記されています。
出丸への出入り口は、この背後の石垣(二丸の曲輪石垣)横にあった道と出丸の右手奥にあった「出丸木戸」しかありませんでした。なお、「出丸木戸」を出ると本丸石垣の周囲を廻る道がありました。
平成17年3月10日
浜田市教育委員会 」 -
浜田城・出丸
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三丸から出丸通路を一望
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浜田城・二ノ門と三丸曲輪石段
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浜田城・二ノ門枡形
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浜田城二ノ門・説明板
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浜田城・石段
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浜田城・枡形石垣
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浜田城・枡形石垣
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発掘調査の成果 ニノ門トレンチ(=溝・みぞ)4・説明板
「 ニノ門トレンチ4では、南北1.4m X東西6mの範囲を調査しました。
調査の結果、現地表面の20cm下に、二次被熱を受けた瓦や陶器、炭化したマツやタケの建築部材を含む焼土層が検出されました。二次被熱を受けた瓦は、本来の黒色ではなく、赤褐色となっています。
この厚さ10~30cmの焼土層を取り除くと、門の礎石2基、階段、排水溝、敷石といった遺構が検出されました。西側の礎石上には、炭化したマツ材の柱根が遺存しており、年輪もはっきりと確認できました。焼土層から出土した陶器は幕末のものであり、ニノ門が幕末に大規模な火災を受けたことが確認されました。
浜田城は、慶応2年(1866)の第二次幕長戦争により落城しており、当時の長州側の資料に、「石州表浜田落城ノ儀は(中略)ニノ曲輪三の曲輪焼失本丸ハ残リ候(後略)」『前原一誠宛山田右衛門書簡』とあり、ニノ門が立地するニノ角や三の
ノ角は焼失したとあります。ニノ門トレンチ4の発掘調査では、この資料の記述を裏付ける成果がありました。 -
発掘調査の成果 ニノ門トレンチ(=溝・みぞ)1~3・説明板
「 ニノ門トレンチ1~3では、枡形内の北面・東面・南面石垣の下を調査しました。
北面のトレンチ1では、地表下10cmで岩盤が確認され、小さな根石で水平をとった後、築石を積み上げていました。
東面のトレンチ2は、地表下25cmに地山となる風化礫層があり、この風花礫層をわずかに掘り込んだのちに、築石を積み上げています。
一方、南面のトレンチ3の地山は、地表下1.3mで確認され、枡形南側は、谷地形であったことがわかりました。このため、南面の石垣を築く際には、造成が必要であり、地山を根切りにした後に捨石を入れ、中型の根石を置いたのちに築石を積み上げていました。
このようにニノ門トレンチ1~3の調査では、旧地形により石垣の横築方法が異なっていたことが確認され、このことは枡形内は平坦にする意図によるものと推定されます。」 -
浜田城・二丸石段
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浜田城・二丸
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浜田城・二丸石垣
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浜田城本丸・説明板
「 本 丸
左正面の階段を登ると本丸となります。本丸は記録に「八百二十一坪半」(約2715m2)とあり、その周囲には高い石垣を築くとともに塀を廻らせ、塀には狭間と呼ばれる丸、三角、四角形の窓を79箇所にあけて鉄砲や弓で射かけられるようになっていました。
本丸の出入口には「本丸一ノ門」があり、この門をくぐると低い石垣を方形に囲った三間四方」の空間があります。なお、現在残されている門の礎石や排水路等は1857年に改修されたものです。
本丸内の建物としては、門の右側に接して六間長屋と呼ばれる平櫓と本丸左奥に三重櫓(天守)がありました。また、5坪程度の玉蔵(鉄砲等の弾丸を収納)もありました。
平成31年3月
浜田市教育委員会 」 -
浜田城・本丸
ニノ丸側より広々とした開放感にあふれる本丸を視野に入れます。本丸の出入口には「本丸一ノ門」が建てられていたそうです。 -
浜田城・本丸
本丸の右手前の部分を視野に入れます。門の右側に「六間長屋」と称する平櫓が建っていたそうです。 -
浜田城・本丸
本丸中央部の奥を視野に入れます。奥の樹木が切れた右側空間から日本海と松原湾が一望できます。 -
浜田城・本丸
本丸の手前右部を視野に入れます。左奥のやや右手に三重櫓が建立され、これが浜田城の天守であったそうです。 -
浜田城・本丸
本丸右側やや海方向に視野を入れます。樹木の左側から松原湾と外浦港港が見渡せる展望の位置となります。 -
外ノ浦港展望
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外ノ浦港・説明板
「 日本遺産 外 ノ 浦 の 港
正面の深い入江が外ノ浦です。外の浦は、天然の風待港で、西廻り航路が整備された1672年以降、瀬戸内海方面と北陸方面とを結ぶ中継点として、多数の北前船が入港する浜田藩最大の港として発展しました。江戸時代には廻船問屋が建ち並び、顧客名簿である「諸国御客船帳」には米・塩・砂糖等が輸入され、扱芋(麻の皮)・干か・鉄・半紙・焼物等の特産品が輸出されたことが記されています。
また、正面の岬上には、浜田藩のために鎖国の禁を犯して密貿易を行い、1836年に捕らえられて死罪となった今(会)津屋八右衛門を顕彰した「会津八右衛門氏頌徳碑」があります。
2018年、外ノ浦は北前船寄港地として日本遺産に認定されました。
日本遺産:荒波を越えた男たちの夢が紡いだ
翼空間~北前船寄港地・船主集落~
令和元年9月
浜田市教育委員会 」
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浜田城・本丸
本丸手前右側から三重櫓跡方向を視野に収めます。 -
松原湾展望
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日本海展望
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海と浜田城・説明板
「 海 と 浜 田 城
浜田城は平山城であるとともに海城とも呼ばれ、海上交通を重視した城でした。1626年、スペインの宣教師ディエゴ・デ・Sは船上から築城されててまもない浜田城を見て、「立派な城である」と報告しており、海上から三重櫓等が望める形で築城されていました。
廻船は眼下の松原湾入口で帆を降ろし、外ノ浦の湊へ小船で曳航されていました。その湾入口をはさんだ正面右側の丘陵地に、方角石が設置され、船頭たちが天候や潮の流れ等の日和を判断しました。また、浜田川をはさんだ正面の丘陵高所には、灯台としての役割を果たした遠見燈明堂が設けられていました。
なお、背後の台座は、明治36年建立の「報国忠勇の碑」で、本来その上に砲身と弾丸が設置されていましたが、昭和18年に供出され、現在に至っています。」 -
報国忠勇之碑台座
台座の上にあった砲身と弾丸は戦争資材として供出されています。 -
浜田城三重櫓跡・展望
天守に代わる三重櫓からの市街地を眺めます。 -
浜田城三重櫓・説明板
「 三 重 櫓 (天 守)
三重櫓はこの右側に建っていました。この櫓が実質的な天守であり、「上の重五間四面(約9m四方)中ノ重七間(約13m四方)下ノ重東西九間(約17m)南北七間(約13m)」の規模を有し、高さは四丈六尺一寸で、鯱鉾の高さ四尺六寸を含めると約15mありました。1827年の記録では、浜田浦(現浜田漁港周辺)から見ると「森の中に城少し見ゆる」とあり、この櫓が見えていたと考えられます。
正面の展望は城下や浜田浦の一部、そして海岸線の先に、北前船が寄港した長浜の港(現浜田商港周辺)が望め、その上方の山並みの高所が大麻山となります。ここを舞台に1866年、第二次幕長戦争(石州口の戦い)があり、大村益次郎率いる長州軍に幕府軍が敗れ、浜田城は落城しました。
令和元年9月
浜田市教育委員会 」 -
浜田城本丸・三重櫓跡
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浜田城・本丸
三重櫓跡地から六間長屋跡地方向を捉えます。 -
浜田城跡・説明板
護国神社の一角に建てられた浜田城説明板があります。
「 島根県指定史跡 浜 田 城 跡
指定 昭和37年6月12日
浜田城跡は別名亀山城とも呼ばれ、北の松原湾と南から西にかけて流れる浜田川によって囲まれた標高68メートルの独立丘陵上に築かれた平山城です。
元和5年(1619)伊勢松坂から古田重治が5万4千余石の藩主としてこの地に移り、元和6年(1620)2月に築城工事に着手、同年11月には地普請が終わり、元和9年(1623)5月には城および城下町が整ったようです。
本丸の北西隅には高さ14メートルの三重櫓の天守があり、二ノ丸には焔硝蔵、本丸常番所、時打番所などが配置され、中ノ門外の三ノ丸には御殿、諸役所、御用米蔵などがありました。
城下町は、城の周囲に武家屋敷を、浜田川以南に町家を設けています。
浜田城主は、古田家(2代・30年)から、松平周防守家(5代・111年)、本多家(3代・11年)、再び松平周防守(4年・68年)、そして松平右近将監家(4代・31年)と替わり、慶応2年(1866)7月に第二次長州征伐で自焼退城となり、その役割を終えました。 」 -
浜田城・説明板
護国神社に建てられた浜田城説明板上記と共に並列しています。 -
浜田城の中ノ門と裏門・説明板
護国神社の入り口にも説明板が立てられています。
「 浜田城の中ノ門と裏門
左側下方に見える石垣が中ノ門です。この門は手前の石垣上に長屋、奥の石垣上に塀を設定け、その間には階下に門、階上に長屋をのせた櫓門がありました。記録によれば「多門事三間九間 枡形石垣高四間」とあり、その規模は堂々たるもです。緊急時には家老が詰める等、浜田城を象徴する重要な施設でした。この門へはスロープ状の道が足元の斜面に沿う形で直接的に延びており、門の内側には番所が二棟と井戸がありました。なお、この門を境に山側を二ノ丸、平地側を三ノ丸と呼び分けていました。
裏門の石垣は正面駐車場へ延びる道横に見えます。中ノ門と近接していますが、当時はその間に大竹薮が生い茂り、直接の行き来ができないようになっていました。門の内側に番所(駐番所とも呼ばれた)、左側の山斜面に塀を設け、それらの右側には塀を挟んで米蔵が建っていました。 」 -
浜田城跡・説明板
バス通から入る護国神社入口付近に建てられた浜田城説明板があります。
「 県指定史跡 浜 田 城 跡
指定 昭和37年6月12日
浜田城は別名「亀山城」とも呼ばれる標高67メートルの平山城で、北は松原湾をかいして日本海に望み、南から西にかけては浜田川によって囲まれています。
元和5年(1619)に伊勢(三重県)松坂から古田重治が5万4千石余の浜田藩主として転封となり、翌年2月には築城に着工、同年11月にの造成が終わり、元和9年(1623)5月には城及び城下が整ったようです。
山頂の本丸には三重櫓の天守があり、中腹の二ノ丸には焔硝蔵や番所、時打番所等が配置され、中ノ門を境とした山麓の三ノ丸には御殿をはじめ、多くの蔵や役所、番所等がありました。また、城の東側には武家屋敷を配し、浜田川以南には八町から成る城下がありました。
浜田城では、古田家(三代)から松平周防守家(五代)、本多家(三代)、松平周防守家(四代)そして松平右近将監家(四代)と交わり、慶応2年(1866)7月に第二次長州戦争(石州口の戦)に敗れ、浜田城は近世城郭としての役割を終えました。 」
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