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《2024.June》79th,THE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その壱~アプローチ編~<br /><br />早いものでもう6月も半分以上が過ぎてしまった。しかし〝梅雨入り〟情報が入って来たのは我が街滋賀では旅立ち前日の6月21日にやっとのことであった。因みに旅先の沖縄はその前日6月20日には完全な〝梅雨明け〟が宣言されている。例年ならば沖縄慰霊の日である6月23日〝には〟梅雨明けしているのが定説にされていたようだが、昨年も6月25日の最終日に帰宅してからその報を知った事実がある。もっともコロナ禍で来沖が叶わなかった令和2~4年の間も2年程は定説通りだったものの、その他はやはり大幅に梅雨明けが遅れたこともまた事実である。しかし今年のように梅雨入りしたばかりの南淡海から梅雨明けした沖縄に出掛ける等というパターンは、この時期に沖縄を訪れるようになってからは初めてである。下手すると出発時は傘が必要で、移動の機内は揺れまくり、到着後は肌が痛くなる位の日差しが続くのではと不安に思える気持ちにさせられた。出発日当日朝に起床した時に南淡海では雨雲ではないがどんよりした雲に覆われている状況だった。取り敢えずレンタカーを借りるまでに雨が降ると困るので、折り畳み傘を荷物に加えておくことにする。そんな感じで天気を気にしながら出発する初めての訪沖となった今回の旅はどのような展開を辿ったのであろうか?さぁ今年の旅を始めることにしよう。<br /><br />令和6(2024)年6月22日土曜日<br />前日は無理やり早番にして貰ったが、どうでも良い接客から離れられず若干の残業の後帰宅した。余裕のない旅立ちになるために事前に荷物を作っておいたのは正解だった。そんな訳で特別早く起きることもなく、最後の荷物チェックをして出発する。昨日はバスが遅れ10分程遅刻したのだが、なんと2日連続でバスが遅延していることをバス停で知ることとなる。結局10分程度の遅れだったのでその後の行程には影響の出ない許容範囲だったので、馴染みのファミマで入手にてこずるmyタバコを2箱購入しJRに乗り込んだ。快速の加古川行きであるが、京都迄は先着するのでこちらに乗車する。京都駅では相変わらず旅行者には冷たいリムジンバスへの乗り換えを余儀なくされる。八条地下出口から八条口の伊丹空港リムジンバス停迄の移動は半分以上歩かねばならない。まあ文句を言っても始まらないので徒歩で移動し、発車3分前にリムジンバスのバス停に到着し、11:50発の伊丹空港行きリムジンバスに乗車することが出来たのであった。<br /><br />毎度同じことを言っているように思うのだが、この伊丹空港リムジンバスは何故時刻表通りに走れるのかがわからない。今回もピッタリ12:45に伊丹空港南ターミナルに到着し、今までの遅れを取り戻しての到着となった。<br /><br />今回那覇行きのフライトはANA767便である。マイルをためるキャリアはJALだがなぜANAに乗るのかは、単純にバーゲンの時期がJALより早かっただけに過ぎない。因みにカウントマイルは減るがUAマイルに振り替えられるので無駄ではない。今回那覇まで運んでくれるshipはB772。ここ暫くお目にかかることがなかった機材である。小型機では色々な機材に出会うが、大型機になるとB788やA359等が〝当たり前〟になっている昨今では中々出会うことが珍しいと旅行センタースタッフには言われたのであった。<br /><br />週末便ということもあるのかほぼ満席のようであった。いつもならばシートチェンジをリクエストするのだが、全く空いていないとのことであった。それはそれで仕方がないので元々のシートでチェックインを済ませてセキュリティと搭乗ゲートへと進む。やはり搭乗者数も多く珍しいなぁ~と思いながら機内へと進む。後方窓際の席に陣取り、時間まで窓の外を眺めていた。焦点を合わさずぼ~っとしていると隣には何やら見慣れない緑色の塗装がされたプロペラ機がタキシングを始めた。高知行きのANA1607便の機材はDHC-8-400、〝ANA Future Promise Prop〟塗装機である。私自身飛行機は嫌いではないがあまり細かい情報は知らないことが多い。しかしこの機材の情報は知っていた。また珍しいものに出会えたと窓からバシバシと写真を撮っていた。多分旅慣れない旅行客だと思われていただろうが…。<br /><br />そして数分後にはこちらもプッシュバックが始まり動き出した。パーソナルモニターが搭載されているのが当たり前と思っていたために、ワイドモニターに映し出される緊急時の対応等の映像に見入ってしまったのは何を隠そう私であった。<br /><br />伊丹空港は混雑しておらず、タキシング後には速やかに離陸。一路沖縄へと空旅が始まった。九州付近に雨雲があるために迂回するために少々到着時刻が遅れることと、その影響でフライト中に急な揺れが予想されることがアナウンスされていた。そのために機内サービスを途中で中止されることもありうることも言われていた。しかしCAさんはやはりプロ、そうならないようにテキパキとドリンクサービスを配って行く。プロは違うな~と感心しながら同じ接客をしている1名は、頂いたコーラを飲みながらどうでも良いことに考えが耽ってしまうのであった。<br /><br />途中揺れのために一時ドリンクサービスを止めたようだが、最終的には全員に配り終えることが出来たようだ。揺れの原因となる雨雲は、梅雨入りした関西から九州まで眼下の景色が見えない位分厚いものであったが、種子島など鹿児島の離島付近迄来れば雲の隙間から海や島が見えるようになって来た。奄美大島を眺めながら、来たのはもう7年も前になったのかと感慨深い想いに駆られたりした。あの頃ははるも元気だったな~と思ったりもした。まあ飛行機に乗れる位まで体調が回復すれば、沖縄の久高島にある日本に2つしかない〝郵便局に併設の宿泊施設〟にでも連れて来てやろうかとふと思ったのも私であった。<br /><br />その後は揺れることもなくそのまま那覇空港に到着する。気温は30℃を越えた夏日であることがアナウンスされていた。暑いと思う前に機内からボーディングブリッジに出た瞬間に感じたので、久しぶりに〝夏の沖縄〟にやって来たという気持ちになりワクワクして来た。バゲッジのピックアップを済ませると電話がかかって来た。1月に続いて利用するアップルレンタカーのスタッフさんからであったが、空港に帰る時は1時間に2本と決まってはいるが、迎えは個別に行ってもらえることが多い。今回も同様で私ひとりだけであった。<br /><br />レンタカーの係員氏と到着迄の時間沖縄話をする。意外にもこの時仕入れた情報が後々役に立つことが多かった。そして20分程で見たことのあるアップルレンタカー那覇空港店に到着し、借車手続きの後今回の沖縄旅の相棒となる〝訳ありWAGON R〟クンと対面する。初めてだとイグニッションキーとドアキーが必要なことにびっくりするのだろうが、なんせ訳あり。1月に体験しているから懐かしさすら感じる。ナンバーが連番で複数台あるために前回と同じかどうかはすぐにはわからなかったが、後は同じであるためにスマホナビを設定し、カーナビは無視して出発した。令和6(2024)年2回目の沖縄旅はこうして始まったのであった。<br /><br />いつものことだが借車手続きが終って30分程はなんやかんやとナビ設定その他をやってからやっと出発する。今回の旅路に於いて最初に向かったのは豊見城郵便局。今日は土曜日故に貯金窓口は閉まっているため旅行貯金のためではなく、伊丹でポストイン予定の郵便物を機内預けの荷物の中に入れてしまったために差し出せなかったものを発送するためである。本日中に発送したかったために最寄りの普通局を探した次第である。この辺りは読み通りで19:00の最終の収集時刻には十分間に合う時間に投函出来た。そして次に向かったのはダイソーマックスバリュ豊見城店である。旅の最初から何故に100均なのかと言われそうだが、いつもバケツをひとつ購入している。言うまでもないことだが梅雨が明けて夏空が広がる沖縄の地に於いて、乗車中ならばエアコンをガンガン効かせているが、駐車中ならば窓を閉め切って鍵を閉めている状態で炎天下に放置することになり、車内はかなりの高温となる。その状況下でエアコンをつけてもそう簡単には涼しくはならない。ガソリン代をケチる訳ではないが、いつも効率が悪いと考えていた。そんなある日〝乗車前にバケツ一杯の水〟の情報を知った。要は太陽で熱くなったボディに水をかけることにより、車体温度を下げると言うものである。本当に効果があるのか?と言われると自信がないところもあるのだが、気持ちその後のエアコンの効きが良くなった様には感じている。〝信じるものは救われる〟ではないが、快適になると思えばやった方が良いと考えている。勿論バケツを持って帰る訳ではなく、レンタカー返車時に処分をお願いすると行った使い捨てなので安いもので十分なのである。今回もその理由に従い購入した。<br /><br />旅行始めの儀式を済ませ、いよいよ本格的に沖縄旅を開始する。今回の最初の目的地は首里城。とは言え首里城に入ることが目的ではない。首里城界隈に残る〝戦跡〟を巡ることが今回の目的である。最初に工業学校跡地を目指す。糸満摩文仁にある〝沖縄工業健児之塔〟に祀られている戦死した生徒の母校である。首里教会近くにある筈なのでわかりそうなものであるがどうしても見つからない。辺りは段々と暗くなって行くために仕方なしに中断し、次の目的地を目指すことにした。<br /><br />首里城の駐車場は19:30迄しか利用できないために界隈のコインパーキングを探す。本来ならば首里城入城ができない時間なので安くなってもよい筈だが、この辺りはどこも強気で昼間と同じ料金体系での利用をせねばならない料金体系の様である。安いところを探してもよいのだが今回は時間の絡みもあり、適当な場所の駐車場に車を停めて歩いて行く。<br /><br />久しぶりに見た守礼門はライトアップされており、昼間とは違う雰囲気を醸し出している。開園時刻の表示はLED化されており、目立ち過ぎるものと化していた。首里城内に入城できる時間は過ぎており入城はできないが、時間の問題よりも5年前の火災の跡を見る気が起こらないと言う気持ちが強い。再来年令和8(2026)年に再建される予定だそうだが、以前に完全系を見ているだけに見たくない気持ちが先に立ってしまうのだ。<br /><br />そのような理由から城内には入らずにそのまま歩いて行く。そして向かった先は第32軍司令部壕掩蔽壕であった。第32軍司令部壕掩蔽壕と言っても〝なんだ?〟と思われることが多いそうだが、一般的には〝第32軍司令部壕〟と呼ばれている場所のことである。これは戦跡ガイド研修に於いても正式に〝間違い〟だと言うことが指摘されて話題になった史実である。ただ軍関係の遺構であるのは違いなく、正式には〝第32軍司令部壕〟を構成する壕のひとつであるということが正しい。戦後80年近くが経ち〝負の遺産〟の象徴とされた軍関係の遺構は荒れるままに放置された。その結果自然のものであるガマ、人工的に掘られた壕の多くは朽ちていき、落盤の危険性を伴う等という理由で立入が禁止されたところも多く存在する。それが今となって…という考え自体を認めたくはないのだが、その負の遺産も〝沖縄戦を語る生き証人〟として保存して行く動きが出始めている。首里城下に作られた第32軍司令部壕もその候補には上がってはいるが、現在の状態を含め一般人が戦跡の今を知ることは容易いことではない。その結果として出ている弊害が戦跡の〝間違い〟に繋がっているようにも思える。沖縄戦を語るにあたり〝軍関係〟と〝住民関係〟の遺構はどちらも重要な史跡である。戦争の爪痕を後世に伝える必要があると考えるのであれば、史跡の保存は必要不可欠なことであると私は考える。史跡の数があるから手が回らないということは言い訳にしか過ぎない。外地資本の観光施設を作ることは、第三次産業依存の高い沖縄に於いては仕方がないことかも知れないが、新しいものを受け入れるだけでは、それが沖縄の新しい価値にしかならないことは容易に理解できよう。凄惨な地上戦が行われた沖縄であるが故に残った戦跡。それを残すかどうかは沖縄県民の考えひとつだろうと思えてならない私であった。<br /><br />色々なやり取りの末に辿り着いた第32軍司令部壕掩蔽壕(司令部壕)を眺めながら、その様に感じた私であった。第32軍司令部壕掩蔽壕近くにも司令部壕関連の史跡として第32軍司令部壕通信壕もある。今後どの様に保存して行くかが論議されているようだが、少なくとも内部に立ち入れるレベルの補強と保守点検のマニュアル等の作成など公開に向けての準備を進めて行って貰いたいと切に望むだけである。<br /><br />付近の沖縄戦で焼けたアカギの木がアコウの木に締め付けながらも勢いを持ち直した景色や、沖縄戦に於いて学徒隊を結成し多くの戦死者を出した沖縄師範学校跡、琉球処分の後に市政が敷かれた首里市庁跡、尚王朝時代に王家御用や献上・贈答用等に利用された漆器製作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所跡である貝摺奉行所跡、沖縄県内の小学校教育のお手本とされた沖縄師範学校付属小跡、首里城の北に位置する臨済宗の寺院であり鎌倉の同名寺院を模して琉球黄金時代を築いた尚真王が1494年に建立した円覚寺は国宝に指定されていたが沖縄戦により放生橋を残して全て焼失し、現在は総門と放生池のみが再建されており、沖縄県指定有形文化財になっている円覚寺跡等古き良き時代の琉球・沖縄の建造物があった場所を記した碑が建立されている。石碑だけ見てもその時代を匂わせるものは残ってはいないが、戦前は確かにこの首里城を中心とした場所で学問を教え、政治文化を司る施設があったという史実を知ることができるのは興味深いことである。時間があればあちらこちらを一日かけて巡りたいと思える場所ではあるが、いくら西にある沖縄でも陽がどっぷり沈む時間では仕方がないので、一通り散策して車に戻ることにする。<br /><br />ここでひとつ追記したいことがある。再建工事中の首里城は時間は不明ながらライトアップされている。意外に夜に訪れることが少ない首里城の照明に浮かび上がる様子を目の当たりにして、再建事業が終わったら是非とも訪れたいと感じた私であった。<br /><br />という流れで首里城界隈の散策を終え、車へと戻って来た。首里城界隈の駐車場はかなり割高であることは有名ではあるが、少し歩いても良ければ一日数百円で停めることができるところもあるので、事前に調べておくことをお勧めする。場当たり的に停めたので、この時間にも関わらず1,000円ばっちり取られたことを少し後悔した私であった。<br /><br />首里城を後にして向かった先は沖縄県営平和祈念公園である。こちらでは慰霊の日前日と当日に沖縄県平和祈念財団主催で前夜祭・後夜祭が行われる。展開は毎年変わることなく〝平和のキャンドルサービス〟と〝平和の光の柱〟である。この時期に沖縄を訪れた際には必ず訪れていることもあるのだが、終了時間間際に訪れたのは初めてである。光の柱は陽が翳ってから雲が出てきたこともあり、上手い具合に光が雲に当たって例年になくよく分かるものとなっていた。またキャンドルサービスは当たり前と言えばそうなのだが、ローソクの火を使っていることからイベント終了後は火が消されるようで、その様子を眺めることが出来た。確かに一回訪れれば十分という辛口評価が多い中で、私自身も同様に思うところがあるもの、やはり前夜祭から後夜祭までが〝沖縄戦全戦没者追悼式〟だという構成は間違いないことだとも考えており、その結果毎年訪れることに繋がっている。人の評価は千差万別、他人が言っているからその程度のものだと考えず、自分の目でその評価をして欲しいのが私の前夜祭に対する思いであった。<br /><br />一応22:00迄前夜祭は行われていると記されているが、それは全てのイベントが終了する時間のようであった。事実キャンドルサービスの火が消され始めていたのが21:15頃であったためにおそらく間違いはないと思われる。例年ならば慰霊の日前日は夕食付きプランの宿には泊まっていなかったので、あまり時間のことは気にしてはいなかったのだが、今年は二食付きの宿泊施設に泊まるので、そろそろ出発しようと思う。以前ならばファミリーマート糸満米須店に立ち寄って飲み物とタバコの購入をしていたが、昨年訪れた際にmyタバコの取り扱いが終了していたためにローソン八重瀬玻名城店に立ち寄ることにした。宿泊先は糸満市の大度なので逆方向に走る形にはなるが、昨年の記録上myタバコを扱っている店迄はかなり距離があるために、最も近いコンビニになったのが八重瀬のローソンだった次第である。宿敷地内は禁煙であるがために、灰皿のある店駐車場で一服をしてから宿へと向かう。本日の宿は沖縄の常宿となっているみん宿ヤポネシア、確か10回目の宿泊になる筈だ。年を追うごとに到着時間が遅くなって来ているので迷惑をかけているのだが、この時期だけは外せない宿のひとつと化している。到着は21:49で本日の走行距離約50km。昔に比べると走る距離が減ってきたな~と思うことが増えた。<br /><br />別に特別考えることもなく宿に到着する。ウェルカムボードには本日宿泊者の名前が書かれている。部屋は真ん中の二段ベッドのお部屋。この辺りもずっと変わらないまま来ている感じがする。部屋に荷物を運び入れ一息付くとご自慢の夕食タイム。何度も取り上げているために繰り返す必要もないのだが、食材に拘った食事は暑さで食欲が減退していても食べられるから不思議である。1年ぶりなので話すことは山ほどあるが、明日の朝も時間があるため適当に切り上げて寝ることにする。14:00のフライトだったために特に早起きをした訳ではないが、やはり移動疲れはどうしても否めない。9年に渡り利用している宿故にオーナーファミリーも自分自身も年を取ったな~と思えてしまうのが笑えてしまう。疲れのこともあり、横になったら早々に寝てしまったようだzzz。そして夜は更けて行きいよいよ7回目の慰霊の日を迎えることとなる。<br /><br />  《続く》

《2024.June》79th,THE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その壱~アプローチ編~

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《2024.June》79th,THE DAY IN OKINAWAを訪ねる旅その壱~アプローチ編~

早いものでもう6月も半分以上が過ぎてしまった。しかし〝梅雨入り〟情報が入って来たのは我が街滋賀では旅立ち前日の6月21日にやっとのことであった。因みに旅先の沖縄はその前日6月20日には完全な〝梅雨明け〟が宣言されている。例年ならば沖縄慰霊の日である6月23日〝には〟梅雨明けしているのが定説にされていたようだが、昨年も6月25日の最終日に帰宅してからその報を知った事実がある。もっともコロナ禍で来沖が叶わなかった令和2~4年の間も2年程は定説通りだったものの、その他はやはり大幅に梅雨明けが遅れたこともまた事実である。しかし今年のように梅雨入りしたばかりの南淡海から梅雨明けした沖縄に出掛ける等というパターンは、この時期に沖縄を訪れるようになってからは初めてである。下手すると出発時は傘が必要で、移動の機内は揺れまくり、到着後は肌が痛くなる位の日差しが続くのではと不安に思える気持ちにさせられた。出発日当日朝に起床した時に南淡海では雨雲ではないがどんよりした雲に覆われている状況だった。取り敢えずレンタカーを借りるまでに雨が降ると困るので、折り畳み傘を荷物に加えておくことにする。そんな感じで天気を気にしながら出発する初めての訪沖となった今回の旅はどのような展開を辿ったのであろうか?さぁ今年の旅を始めることにしよう。

令和6(2024)年6月22日土曜日
前日は無理やり早番にして貰ったが、どうでも良い接客から離れられず若干の残業の後帰宅した。余裕のない旅立ちになるために事前に荷物を作っておいたのは正解だった。そんな訳で特別早く起きることもなく、最後の荷物チェックをして出発する。昨日はバスが遅れ10分程遅刻したのだが、なんと2日連続でバスが遅延していることをバス停で知ることとなる。結局10分程度の遅れだったのでその後の行程には影響の出ない許容範囲だったので、馴染みのファミマで入手にてこずるmyタバコを2箱購入しJRに乗り込んだ。快速の加古川行きであるが、京都迄は先着するのでこちらに乗車する。京都駅では相変わらず旅行者には冷たいリムジンバスへの乗り換えを余儀なくされる。八条地下出口から八条口の伊丹空港リムジンバス停迄の移動は半分以上歩かねばならない。まあ文句を言っても始まらないので徒歩で移動し、発車3分前にリムジンバスのバス停に到着し、11:50発の伊丹空港行きリムジンバスに乗車することが出来たのであった。

毎度同じことを言っているように思うのだが、この伊丹空港リムジンバスは何故時刻表通りに走れるのかがわからない。今回もピッタリ12:45に伊丹空港南ターミナルに到着し、今までの遅れを取り戻しての到着となった。

今回那覇行きのフライトはANA767便である。マイルをためるキャリアはJALだがなぜANAに乗るのかは、単純にバーゲンの時期がJALより早かっただけに過ぎない。因みにカウントマイルは減るがUAマイルに振り替えられるので無駄ではない。今回那覇まで運んでくれるshipはB772。ここ暫くお目にかかることがなかった機材である。小型機では色々な機材に出会うが、大型機になるとB788やA359等が〝当たり前〟になっている昨今では中々出会うことが珍しいと旅行センタースタッフには言われたのであった。

週末便ということもあるのかほぼ満席のようであった。いつもならばシートチェンジをリクエストするのだが、全く空いていないとのことであった。それはそれで仕方がないので元々のシートでチェックインを済ませてセキュリティと搭乗ゲートへと進む。やはり搭乗者数も多く珍しいなぁ~と思いながら機内へと進む。後方窓際の席に陣取り、時間まで窓の外を眺めていた。焦点を合わさずぼ~っとしていると隣には何やら見慣れない緑色の塗装がされたプロペラ機がタキシングを始めた。高知行きのANA1607便の機材はDHC-8-400、〝ANA Future Promise Prop〟塗装機である。私自身飛行機は嫌いではないがあまり細かい情報は知らないことが多い。しかしこの機材の情報は知っていた。また珍しいものに出会えたと窓からバシバシと写真を撮っていた。多分旅慣れない旅行客だと思われていただろうが…。

そして数分後にはこちらもプッシュバックが始まり動き出した。パーソナルモニターが搭載されているのが当たり前と思っていたために、ワイドモニターに映し出される緊急時の対応等の映像に見入ってしまったのは何を隠そう私であった。

伊丹空港は混雑しておらず、タキシング後には速やかに離陸。一路沖縄へと空旅が始まった。九州付近に雨雲があるために迂回するために少々到着時刻が遅れることと、その影響でフライト中に急な揺れが予想されることがアナウンスされていた。そのために機内サービスを途中で中止されることもありうることも言われていた。しかしCAさんはやはりプロ、そうならないようにテキパキとドリンクサービスを配って行く。プロは違うな~と感心しながら同じ接客をしている1名は、頂いたコーラを飲みながらどうでも良いことに考えが耽ってしまうのであった。

途中揺れのために一時ドリンクサービスを止めたようだが、最終的には全員に配り終えることが出来たようだ。揺れの原因となる雨雲は、梅雨入りした関西から九州まで眼下の景色が見えない位分厚いものであったが、種子島など鹿児島の離島付近迄来れば雲の隙間から海や島が見えるようになって来た。奄美大島を眺めながら、来たのはもう7年も前になったのかと感慨深い想いに駆られたりした。あの頃ははるも元気だったな~と思ったりもした。まあ飛行機に乗れる位まで体調が回復すれば、沖縄の久高島にある日本に2つしかない〝郵便局に併設の宿泊施設〟にでも連れて来てやろうかとふと思ったのも私であった。

その後は揺れることもなくそのまま那覇空港に到着する。気温は30℃を越えた夏日であることがアナウンスされていた。暑いと思う前に機内からボーディングブリッジに出た瞬間に感じたので、久しぶりに〝夏の沖縄〟にやって来たという気持ちになりワクワクして来た。バゲッジのピックアップを済ませると電話がかかって来た。1月に続いて利用するアップルレンタカーのスタッフさんからであったが、空港に帰る時は1時間に2本と決まってはいるが、迎えは個別に行ってもらえることが多い。今回も同様で私ひとりだけであった。

レンタカーの係員氏と到着迄の時間沖縄話をする。意外にもこの時仕入れた情報が後々役に立つことが多かった。そして20分程で見たことのあるアップルレンタカー那覇空港店に到着し、借車手続きの後今回の沖縄旅の相棒となる〝訳ありWAGON R〟クンと対面する。初めてだとイグニッションキーとドアキーが必要なことにびっくりするのだろうが、なんせ訳あり。1月に体験しているから懐かしさすら感じる。ナンバーが連番で複数台あるために前回と同じかどうかはすぐにはわからなかったが、後は同じであるためにスマホナビを設定し、カーナビは無視して出発した。令和6(2024)年2回目の沖縄旅はこうして始まったのであった。

いつものことだが借車手続きが終って30分程はなんやかんやとナビ設定その他をやってからやっと出発する。今回の旅路に於いて最初に向かったのは豊見城郵便局。今日は土曜日故に貯金窓口は閉まっているため旅行貯金のためではなく、伊丹でポストイン予定の郵便物を機内預けの荷物の中に入れてしまったために差し出せなかったものを発送するためである。本日中に発送したかったために最寄りの普通局を探した次第である。この辺りは読み通りで19:00の最終の収集時刻には十分間に合う時間に投函出来た。そして次に向かったのはダイソーマックスバリュ豊見城店である。旅の最初から何故に100均なのかと言われそうだが、いつもバケツをひとつ購入している。言うまでもないことだが梅雨が明けて夏空が広がる沖縄の地に於いて、乗車中ならばエアコンをガンガン効かせているが、駐車中ならば窓を閉め切って鍵を閉めている状態で炎天下に放置することになり、車内はかなりの高温となる。その状況下でエアコンをつけてもそう簡単には涼しくはならない。ガソリン代をケチる訳ではないが、いつも効率が悪いと考えていた。そんなある日〝乗車前にバケツ一杯の水〟の情報を知った。要は太陽で熱くなったボディに水をかけることにより、車体温度を下げると言うものである。本当に効果があるのか?と言われると自信がないところもあるのだが、気持ちその後のエアコンの効きが良くなった様には感じている。〝信じるものは救われる〟ではないが、快適になると思えばやった方が良いと考えている。勿論バケツを持って帰る訳ではなく、レンタカー返車時に処分をお願いすると行った使い捨てなので安いもので十分なのである。今回もその理由に従い購入した。

旅行始めの儀式を済ませ、いよいよ本格的に沖縄旅を開始する。今回の最初の目的地は首里城。とは言え首里城に入ることが目的ではない。首里城界隈に残る〝戦跡〟を巡ることが今回の目的である。最初に工業学校跡地を目指す。糸満摩文仁にある〝沖縄工業健児之塔〟に祀られている戦死した生徒の母校である。首里教会近くにある筈なのでわかりそうなものであるがどうしても見つからない。辺りは段々と暗くなって行くために仕方なしに中断し、次の目的地を目指すことにした。

首里城の駐車場は19:30迄しか利用できないために界隈のコインパーキングを探す。本来ならば首里城入城ができない時間なので安くなってもよい筈だが、この辺りはどこも強気で昼間と同じ料金体系での利用をせねばならない料金体系の様である。安いところを探してもよいのだが今回は時間の絡みもあり、適当な場所の駐車場に車を停めて歩いて行く。

久しぶりに見た守礼門はライトアップされており、昼間とは違う雰囲気を醸し出している。開園時刻の表示はLED化されており、目立ち過ぎるものと化していた。首里城内に入城できる時間は過ぎており入城はできないが、時間の問題よりも5年前の火災の跡を見る気が起こらないと言う気持ちが強い。再来年令和8(2026)年に再建される予定だそうだが、以前に完全系を見ているだけに見たくない気持ちが先に立ってしまうのだ。

そのような理由から城内には入らずにそのまま歩いて行く。そして向かった先は第32軍司令部壕掩蔽壕であった。第32軍司令部壕掩蔽壕と言っても〝なんだ?〟と思われることが多いそうだが、一般的には〝第32軍司令部壕〟と呼ばれている場所のことである。これは戦跡ガイド研修に於いても正式に〝間違い〟だと言うことが指摘されて話題になった史実である。ただ軍関係の遺構であるのは違いなく、正式には〝第32軍司令部壕〟を構成する壕のひとつであるということが正しい。戦後80年近くが経ち〝負の遺産〟の象徴とされた軍関係の遺構は荒れるままに放置された。その結果自然のものであるガマ、人工的に掘られた壕の多くは朽ちていき、落盤の危険性を伴う等という理由で立入が禁止されたところも多く存在する。それが今となって…という考え自体を認めたくはないのだが、その負の遺産も〝沖縄戦を語る生き証人〟として保存して行く動きが出始めている。首里城下に作られた第32軍司令部壕もその候補には上がってはいるが、現在の状態を含め一般人が戦跡の今を知ることは容易いことではない。その結果として出ている弊害が戦跡の〝間違い〟に繋がっているようにも思える。沖縄戦を語るにあたり〝軍関係〟と〝住民関係〟の遺構はどちらも重要な史跡である。戦争の爪痕を後世に伝える必要があると考えるのであれば、史跡の保存は必要不可欠なことであると私は考える。史跡の数があるから手が回らないということは言い訳にしか過ぎない。外地資本の観光施設を作ることは、第三次産業依存の高い沖縄に於いては仕方がないことかも知れないが、新しいものを受け入れるだけでは、それが沖縄の新しい価値にしかならないことは容易に理解できよう。凄惨な地上戦が行われた沖縄であるが故に残った戦跡。それを残すかどうかは沖縄県民の考えひとつだろうと思えてならない私であった。

色々なやり取りの末に辿り着いた第32軍司令部壕掩蔽壕(司令部壕)を眺めながら、その様に感じた私であった。第32軍司令部壕掩蔽壕近くにも司令部壕関連の史跡として第32軍司令部壕通信壕もある。今後どの様に保存して行くかが論議されているようだが、少なくとも内部に立ち入れるレベルの補強と保守点検のマニュアル等の作成など公開に向けての準備を進めて行って貰いたいと切に望むだけである。

付近の沖縄戦で焼けたアカギの木がアコウの木に締め付けながらも勢いを持ち直した景色や、沖縄戦に於いて学徒隊を結成し多くの戦死者を出した沖縄師範学校跡、琉球処分の後に市政が敷かれた首里市庁跡、尚王朝時代に王家御用や献上・贈答用等に利用された漆器製作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所跡である貝摺奉行所跡、沖縄県内の小学校教育のお手本とされた沖縄師範学校付属小跡、首里城の北に位置する臨済宗の寺院であり鎌倉の同名寺院を模して琉球黄金時代を築いた尚真王が1494年に建立した円覚寺は国宝に指定されていたが沖縄戦により放生橋を残して全て焼失し、現在は総門と放生池のみが再建されており、沖縄県指定有形文化財になっている円覚寺跡等古き良き時代の琉球・沖縄の建造物があった場所を記した碑が建立されている。石碑だけ見てもその時代を匂わせるものは残ってはいないが、戦前は確かにこの首里城を中心とした場所で学問を教え、政治文化を司る施設があったという史実を知ることができるのは興味深いことである。時間があればあちらこちらを一日かけて巡りたいと思える場所ではあるが、いくら西にある沖縄でも陽がどっぷり沈む時間では仕方がないので、一通り散策して車に戻ることにする。

ここでひとつ追記したいことがある。再建工事中の首里城は時間は不明ながらライトアップされている。意外に夜に訪れることが少ない首里城の照明に浮かび上がる様子を目の当たりにして、再建事業が終わったら是非とも訪れたいと感じた私であった。

という流れで首里城界隈の散策を終え、車へと戻って来た。首里城界隈の駐車場はかなり割高であることは有名ではあるが、少し歩いても良ければ一日数百円で停めることができるところもあるので、事前に調べておくことをお勧めする。場当たり的に停めたので、この時間にも関わらず1,000円ばっちり取られたことを少し後悔した私であった。

首里城を後にして向かった先は沖縄県営平和祈念公園である。こちらでは慰霊の日前日と当日に沖縄県平和祈念財団主催で前夜祭・後夜祭が行われる。展開は毎年変わることなく〝平和のキャンドルサービス〟と〝平和の光の柱〟である。この時期に沖縄を訪れた際には必ず訪れていることもあるのだが、終了時間間際に訪れたのは初めてである。光の柱は陽が翳ってから雲が出てきたこともあり、上手い具合に光が雲に当たって例年になくよく分かるものとなっていた。またキャンドルサービスは当たり前と言えばそうなのだが、ローソクの火を使っていることからイベント終了後は火が消されるようで、その様子を眺めることが出来た。確かに一回訪れれば十分という辛口評価が多い中で、私自身も同様に思うところがあるもの、やはり前夜祭から後夜祭までが〝沖縄戦全戦没者追悼式〟だという構成は間違いないことだとも考えており、その結果毎年訪れることに繋がっている。人の評価は千差万別、他人が言っているからその程度のものだと考えず、自分の目でその評価をして欲しいのが私の前夜祭に対する思いであった。

一応22:00迄前夜祭は行われていると記されているが、それは全てのイベントが終了する時間のようであった。事実キャンドルサービスの火が消され始めていたのが21:15頃であったためにおそらく間違いはないと思われる。例年ならば慰霊の日前日は夕食付きプランの宿には泊まっていなかったので、あまり時間のことは気にしてはいなかったのだが、今年は二食付きの宿泊施設に泊まるので、そろそろ出発しようと思う。以前ならばファミリーマート糸満米須店に立ち寄って飲み物とタバコの購入をしていたが、昨年訪れた際にmyタバコの取り扱いが終了していたためにローソン八重瀬玻名城店に立ち寄ることにした。宿泊先は糸満市の大度なので逆方向に走る形にはなるが、昨年の記録上myタバコを扱っている店迄はかなり距離があるために、最も近いコンビニになったのが八重瀬のローソンだった次第である。宿敷地内は禁煙であるがために、灰皿のある店駐車場で一服をしてから宿へと向かう。本日の宿は沖縄の常宿となっているみん宿ヤポネシア、確か10回目の宿泊になる筈だ。年を追うごとに到着時間が遅くなって来ているので迷惑をかけているのだが、この時期だけは外せない宿のひとつと化している。到着は21:49で本日の走行距離約50km。昔に比べると走る距離が減ってきたな~と思うことが増えた。

別に特別考えることもなく宿に到着する。ウェルカムボードには本日宿泊者の名前が書かれている。部屋は真ん中の二段ベッドのお部屋。この辺りもずっと変わらないまま来ている感じがする。部屋に荷物を運び入れ一息付くとご自慢の夕食タイム。何度も取り上げているために繰り返す必要もないのだが、食材に拘った食事は暑さで食欲が減退していても食べられるから不思議である。1年ぶりなので話すことは山ほどあるが、明日の朝も時間があるため適当に切り上げて寝ることにする。14:00のフライトだったために特に早起きをした訳ではないが、やはり移動疲れはどうしても否めない。9年に渡り利用している宿故にオーナーファミリーも自分自身も年を取ったな~と思えてしまうのが笑えてしまう。疲れのこともあり、横になったら早々に寝てしまったようだzzz。そして夜は更けて行きいよいよ7回目の慰霊の日を迎えることとなる。

  《続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス 観光バス レンタカー 自転車 JALグループ ANAグループ JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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