2024/03/28 - 2024/03/28
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mistralさん
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中世美術館は、正式名称を「国立中世美術館ークリュニー浴場および館」というそう。
この建物の歴史は古代ローマ時代の浴場にまでさかのぼるそうだ。、
現在でも1~2世紀のものという浴場跡が敷地内には残されていて、ここがパリの中心地とは思えないくらい。
13世紀になって、当時パリで勢力をのばしていたクリュニー修道会の館がこの跡地に建設された。
15世紀末になって全面改築され、それ以降にも増改築を繰り返して現在に至っているそうだ。
(表紙写真はパリ、ノートルダム大聖堂、正面ファサードをかつて飾っていた諸王のギャラリーの像他が展示されている部屋。)
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
3月28日、9時半に
中世美術館の予約をしておいた。 -
今回は3回目の訪問。
1度目は、お屋敷をそのまま展示館として使っていた時のこと。
(その折の旅行記は↓
https://4travel.jp/travelogue/11051608
古い館そのままを利用した展示で、それはそれでとっても素敵だった。)
2度目は改修工事の途中だったのか、現在のエントランスから入り
ほんの一部分のみの見学だった記憶が。 -
館の建築様式はゴシック後期のフランボワイヤン様式と
ルネッサンス様式が混合しているそうだ。 -
9時半からオープンのはずなので
予約は9時半で済ませていたのに、、、
入口のゲートは閉ざされていて、前には立て看板が。
都合により本日のオープンは10時半からと書かれていた。
小学生の一団とか、9時半オープンをご存知らしい方々が次々と
集まってくる中、無情にも10時半までピッタリと閉まったまま。
時間になってゲートを開けられた職員の方々、
列が長く出来ていて驚いた様子だった。
まずは離れた公園で待っていた小学生の一団を優先入場させて、
大人たちが順次入っていった。 -
美術館の敷地は1世紀から3世紀にかけて作られたローマ時代の
浴場跡。
セーヌ川から水が引かれ、熱温、微温、冷水の3種類の浴場、
更にプールと運動場まで備わった大ヘルスセンターが造られて
いたようだ。
そんな跡地がいまだにパリに残っているのは驚き。
展示室の一部は、その浴場跡をそのまま利用している。 -
入口すぐを飾っていた
「天使たち」
(1460-1470 Tours、Musee des Beaux-Arts)
ジャン5世とジャンヌ・ド・モンジャンの紋章を持っている
2人の天使。1450年、フランスの司令官となったBrueilの
ジャンは、シャルル7世による王国の再統一時に重要な
役割を果たした方との説明。 -
「Sainte Marie Madeleine」
(1446-1449 Avignon)
1446年、オータンの司教・ジャン・ロラン、その父・ブルゴーニュ公・二コラ・ロラン、その母・マリー・デ・ランドは、アビニョン、セレスティンにあるサン・ラザール・エ・サント・マドレーヌの修道院教会に礼拝堂を設立した。
その祭壇にある3つの彫像の一つ、聖マグダラのマリア像。 -
「シャルル7世(1403~1461年)とその妻マリー・オブ・アンジュー
の胸像」
シャルル7世といえば、ジャンヌ・ダルクを見殺しにしたということで有名だが、、、
シャルル6世が亡くなった後、王太子となった兄たちの急死により、新たに王太子となった。父であるシャルル6世の精神の病、母イザボー(対立派から淫乱王妃と称されていた)との関係から、自身は正統な王の子ではないのか、あるいは狂人の子なのか、と生涯にわたる悩みを抱えていたそうだ。
それでも1456年にはジャンヌ・ダルクの復権裁判を行い、ジャンヌの名誉回復を図り、百年戦争後の荒廃した国内の復興、財政の再建、など行ったそうだ。
彼の真の評価は実際はどうだったのか? -
エントランス近くは、シャルル7世の時代の芸術についての展示があったようだ。
ここの掲示は英語だったが、それまではフランス語のみの掲示であり、全体像が把握できないままここまで進んできていた。
(改めて思うと、今期間の美術館全体のテーマだったのかもしれない。)
「最近のフランスでは、15 世紀の芸術は大規模な展覧会の主題となっている。(例:パリ 1400年: シャルル 6 世統治下の芸術、フランス 1500年: 中世とルネサンスの間など)
この展覧会は、シャルル 7 世が王として統治していた時代についての、芸術的な概要をまとめることを目的としています。経済的および政治的環境は特に混乱していました。百年戦争が終わったのは 1453 年でした。芸術の分野では、フランス王国は 2 つの強力な隣国、ネーデルラントとイタリアによって完全に影が薄くなっているように見えました。。。」などの記載があった。 -
1422-1461年の年表があった。
1429年オルレアン包囲戦
シャルル7世 ランスでの戴冠式
1430年ジャンヌ・ダルク ブルゴーニュ派により捉えられ、
後火刑。
などオルレアン訪問で見てきたことがらと重なっていた。 -
先に進んでいくと
手前にあるのは、サン・ジェルマン・デ・プレの扉口で
内部は革命時に破壊されてしまったノートルダム大聖堂の、オリジナルの彫刻群が展示された部屋のようだ。
中では先に入場した小学生のグループか、
熱心に説明を聞いていた。 -
以下の3枚の写真は
ノートルダム大聖堂の正面ファサードにある
諸王のギャラリー(写真赤の枠の部分)についての説明になります。
(大聖堂のファサード写真は、翌日訪問したおりのもの。) -
18世紀のフランス革命の最中、大聖堂正面ファサードの上にある古代ユダ王国とイスラエル王国の諸王の彫像の頭部が落とされ、消失。
革命を推進した民衆たちがこれらの像を、フランスの王と勘違いしたからです。 -
1977年、彫像28体のうち21個の頭部がパリ9区の邸宅の建設現場中庭(20 rue de la Chaussee-d'Antin)で発見された。
この邸宅は1797年に500人議会の一議員によって建てられたもので、ブリュメール18日(1799)のクーデター(ナポレオンが遠征を終えてフランスに帰国ご、同日に総裁政府をクーデターで打倒、自身をリーダーとして新たに政府を作り上げた)が計画された場所だった。
頭部の発見は一大newsとなったそう。
王の彫像群は復元されて元のギャラリーに戻された。
そして、発掘された本来の頭部がここに展示されている。 -
右手奥に写っているのは頭部を落とされてしまった諸王の胴体部のようだ。
この美術館で、落とされてしまった頭部と胴体部とが出会えたことは
良かったことだが、現在のギャラリーに立つ諸王の方々は
皆さん、復元された方々。 -
アダム像
1260年の作。イヴと共に、ノートルダム大聖堂、西翼廊を飾っていた彩色像。右手にはリンゴを持っていたが、後年になって、最後の審判の所作に代えられたそうだ。
パリのゴシック彫刻の代表作の一つ。 -
大聖堂にあった時には、背中は決して見ることは出来なかったが、ここではぐるりと周囲から見ることができる。
-
展示室を移動。
「12世紀の磔刑像」
(12世紀後半、オーヴェルニュ)
ルピュイ-アン-ヴレのエルサレム・サン・ジャン騎士団の旧本営より。 -
-
「八個の柱頭彫刻」
(12世紀初め、Sant Pere de Rodes-Catalonia)
8個の柱頭彫刻はすべて同一の寸法で作られている。
1870年代に取り壊されたSant Pere de Rodes修道院のものと、
すでに残されていた記録から特定されている。 -
-
-
-
サン・ジェルマン・デ・プレ教会から移設された柱頭彫刻
もともとはパリの外の野原にある教会だったが、12世紀フィリップ・オーギュストの城壁が築かれたときもまだパリ城壁の外にあったが、
14世紀後半、100年戦争で攻め入ってきたイギリス軍に備えて、新たにシャルル5世の城壁がパリ右岸に築かれた。
サン・ジェルマン・デ・プレ修道院付属教会の、ロマネスク様式の身廊と翼廊の天井はかつて木製だったが
内陣に倣って1646年、ゴシック様式のヴォールトに換えられた。
彫刻のあった柱頭はすべて11世紀のものの複製であり、オリジナルはここに収蔵されている。
大部分のモチーフは、ロマネスク時代に好んで描かれた葉模様、鳥、怪物。 -
これらの柱頭彫刻は
教会内部で見た記憶が。 -
Bookbindingプレート
(ヴェネティア、またはラヴェンナ、11世紀末、
部分的に彩色された象牙に浅彫りしたもの)
これらのプレートは、おそらくイタリア北部のアドリア海
沿岸でロマネスク時代初期に作成されたと考えられている。
5世紀以来、この地域はコンスタンティノープルからの芸術的、
政治的影響を強く受けている。 -
「Altar frontal from Basel cathedral」
11世紀前半。
バーゼルの大聖堂の祭壇の前面を飾るために使用されていた。
五つのアーケードには、キリストを中央に、大天使ミカエル、ガブリエル、ラファエル、聖ベネディクト(ベネディクト会の創始者)が周囲を囲んでいる。
当時のドイツで流行した金工芸術の傑作。 -
「Lion Head」
(5世紀、rock crystal, ローマ帝国?)
古代末期のローマやコンスタンティノープルでは
貴重な素材を使って多くの芸術作品が制作された。 -
1241年、ルイ9世(聖ルイ)がイバラの冠と真の十字架を収容するために建てたサント・シャペルの貴重な品々が展示されている部屋です。ステンドグラスと13世紀作の彫像とが置かれている。像はサントシャペルの高い所に立っていたので、下の民衆を見下ろしている。
-
「Saint-Martin-des-Champs 修道院より」
修道院の食堂は1215‐1220に建設された。
天井の高い長い部屋で、1列の細い柱で区切られた2つの
アーチ型の通路がつけられていた。周辺にある幅広で
平らな葉っぱは、隣接する中庭を囲む回廊の柱の柱頭飾り
のデザインに使用されていた。 -
どなたが亡くなられた折の葬列か?
解説を撮り忘れた。 -
「Two Capitals」
(1235‐1240、Cathedral Notre-Dame of Chartres)
野ばらと蔦の葉で飾られた柱頭 -
-
「ゴールドのバラ」
(アヴィニョン、1330 バーゼル大聖堂・宝物庫より)
このバラは、茎、花びら、葉など薄い金箔から作られています。
教皇ヨハネ22世の命により、アヴィニョンの教皇庁に働きにきて
いた金細工師ミヌッキオによって1330年に制作されたもので、
ヌーシャテル伯爵に与えられたもの。 -
-
十字架降下像下の聖母マリア
(トスカーナ、1220-30年頃、プラート大聖堂)
12世紀、13世紀には実物大の十字架降下像が流行したそう。
この像は、悲しみにくれる聖母マリア。
手だけが見える長い衣装を身につけ、十字架を握っているようだ。
優しい顔とかすかな彩色、動きのない身体にそうような衣装。
日本の仏像にも通じるような静謐さを漂わせる。 -
他の像の解説は?
-
-
「ピエタ」
(ノッティンガム? 約1400年) -
「玉座に座る聖カタリナ」
(フランス、1400年または1800年頃?)
18世紀後半から19世紀初頭のフランスの贋作師による作品
と考えられている。しかし1400年代初期のスタイルににせて
偽造されているため、そういった意味では大変希少なものと
される。 -
-
-
-
「聖バルバラ」
(ノルマンディ、16世紀初頭) -
「聖母子」
(オーヴェルニュ、1500年頃)
この優美な像は、顔のスタイルからわかるように
ルエルグ、またはラングドックの彫刻家によって
つくられた。頭頂部には金細工の冠が被せられていた。 -
「王冠を被った聖母と子」
(16世紀前半、シャンパーニュ地方)
聖母は当時の女性が着ていたと同じ、Vネックのドレスを身につけている。それにもかかわらず、彼女の理想化された顔立ちと王冠によって、あたかも天上界にいるかのようです。
子が遊んでいるバラは、中世の祈りでは神秘的なバラと呼ばれることもある、母親のアトリビュートであると同時に、息子のアトリビュートでもあります。なぜなら茎にある棘は、イバラの冠や、キリストの受難の際傷つけた釘を意味しているのです。 -
910年、ブルゴーニュに建設されたベネディクト派のクリュニー
修道院を拠点とする修道会は
貧民救済と典礼の重視を訴え修道院改革(クリュニー改革)を推進、
教皇直属の修道会として勢力を拡大し、
中世にはヨーロッパ全土にその分院が建設されたそうだ。 -
14世紀にブルゴーニュのクリュニー修道会が
パリの拠点として浴場跡の遺跡の付近に建設した
修道院長の別邸がこの美術館の建物の起源に当たる。
天井に繊細な装飾が施された修道院長の礼拝堂。 -
2階へと上がってきた。
ここには「貴婦人と一角獣」が展示されている。
(以下のコメントは2015年訪問の折のコメントから
引用しています。)
制作されたのは1484~1500年頃、
フランドル地方でとされているそう。 -
制作を依頼したのは描かれている紋章から
リヨン出身のル・ヴィスト(Jean Le Viste)家の当主。
人間の五感をテーマにした五枚のタピスリーと
最後の一枚については解釈が分かれているようだ。
「触覚」(Le Toucher)
ユニコーンの角に手を触れている貴婦人。 -
「味覚」(Le Gout)
お盆をささげ持つ侍女、
そこから何かをつまみ上げる貴婦人。 -
つまみ上げたお菓子を小鳥にあげようとしている。
ユニコーンは、その足の早さから
速さ(Vitesse)と名前のヴィスト(Viste)とが
かけ言葉になっているそうだ。 -
「嗅覚」(l’Odorat)
花をつむ貴婦人
後ろでは、猿が籠から取り出した花の匂いを
かいでいる。
左手のライオンは
出身地のリヨン(Lyon)と関連づけられている。 -
「聴覚」(L’ouie)
楽器を奏でる貴婦人。
鍵盤が見えるのでオルガンのようだ。 -
楽器の木部の上には、ユニコーンとライオン像が
付けられている。 -
「視覚」(La Vue)
貴婦人のもっている手鏡を
覗き込んでいるユニコーン。
素知らぬ顔のライオンと、手鏡を覗き込むユニコーンとの
対比が面白い。
貴婦人のお顔は、他のタピスリーのものと変わっているようだ。 -
6枚目に描かれた青いテント。
そこには「我が唯一の望みに」(A mon seul desir)
と書かれている。
この一枚だけ解釈が分かれているそうだ。 -
今までつけていた首飾りをしまおうとしているところ、
つまり連作の最終作にあたる。
「desir」は望みというよりは「意志」を表すとされる。
五感を喜ばせてきた情念を自ら断ち切ることのできる
強い意志を表しているとの解釈。 -
-
数多く描かれている
小動物や小花など。 -
-
「聖母の乳の聖遺物箱」
(ボードウィン国王財団コレクション、1243ー1259年頃)
金メッキを施した銀の鳩は、金細工と胸にはめ込まれたアメジストが
特徴となっている。古代の学者は、この宝石をキリストと殉教者の血と
関連付けていた。 -
-
-
「聖遺物十字架」
(ユーゴー・ドワニー作、1226-1229年頃)
二重十字架には二つの聖遺物が収められている。
表面には、真珠や宝石が埋め込まれた透かし細工のフィリグリー
が施されている。
裏面には、金細工師ユーゴーの他の作品にもみられる
渦巻く植物のモチーフが彫り込まれている。 -
この後、一旦アパートへ戻り、持参のもので簡単にランチ。
その後ルーブル美術館を15時に予約していたので徒歩で向かった。
ある程度の覚悟はしていたけれど、予約している人たちの列は
半端ないほどの長さになっていた。
それも予約時間毎の列に別れていたことも分かってきた。
それでも少しずつ列は進み、やっと入場。
内部の混雑具合も想像できることと思います。
人ごみに疲れ、久しぶりのルーブル美術館での目的の絵に
出会うまでの彷徨いにも疲れて、当日の予定は終了した。 -
帰路、とあるカフェで
キッシュとラザニアとワインとで、簡単だけれど、
充分に満足した夕食をとって宿まで帰った。
この辺り、小銃を携える女性警官の姿をちらほら見かけた。
(写真は地下鉄パレ・ロワイヤル駅の入口) -
翌日はパリ、最終日。
夫の希望のピカソ美術館とmistralの希望のノートルダム大聖堂
を訪問。
翌々日朝のフライトでいよいよパリを発ちます。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- Mollyさん 2025/05/27 08:13:18
- おはようございます、Mollyです
- mistralさん、
クリュニュー美術館の詳細な描写は
すばらしいです。
何か学究的な趣味、お仕事をされていたのですか。
NHKの最近のとある美術関連の番組で
この一角獣のタペストリーについて話題が放送されていて
行ってみたくなりました。
Molly
- mistralさん からの返信 2025/05/27 21:36:06
- RE: おはようございます、Mollyです
- Mollyさん
こんばんは。
ご丁寧なコメントをいただきまして有難うございました。
過分なお褒めの言葉までいただいてしまいました。
実はクリュニュー美術館へは4~5回いっております。
思い返せば、20代の初回の訪問に始まって、改修工事の折などなど、そして今回。
日本にタペストリーが来た折にももちろん。
そんな訳で、20代の頃のわけもわからずの見学は別としましても
だんだん、その場面ごとの意味するところなどなど、も理解してきました。
検索をしますと詳細な解説も出てきますので、引用などもさせていただいてます。
ですので、全くの素人です。
趣味といえば、ヨーロッパのロマネスクの古い教会に残される柱頭彫刻やタンパン
の彫刻の写真をたまに4トラの旅行記として載せております。
最近、NHKの番組での紹介がされたんですね。
NHKさんの番組ですから、きっとすばらしい画像でご覧になられたことでしょうね。
現地では薄暗い部屋の中での見学ですから、そこで見るよりずっと素晴らしいタペストリーをご覧になったことでしょうね。
そうはいっても「百聞は一見にしかず」ですから、是非実物の前に
立たれることをお勧めします。
mistral
> クリュニュー美術館の詳細な描写は
> すばらしいです。
> 何か学究的な趣味、お仕事をされていたのですか。
> NHKの最近のとある美術関連の番組で
> この一角獣のタペストリーについて話題が放送されていて
> 行ってみたくなりました。
>
> Molly
-
- しにあの旅人さん 2024/09/05 12:03:42
- 50年前の記憶
- 「クリュニー修道院跡」という名前で覚えています。裏手のRue St.Jacquesを上がったところの安ホテルが、パリの最初の宿でした。1ヶ月くらいいましたが、St.Michel-Notre-Dameのメトロまでブール・ミッシュを歩いていたので、よく横を通っていました。歩いて5分くらいかな。
サン・ミッシェル大通り(Boulevard Saint-Michel)をカルチェ・ラタンの学生はブール・ミッシュとよんでおりました。
1974年3月ごろです。
ブール・ミッシュから、鉄柵越しになにやら廃墟みたいな遺跡が見えました。今もああですか。
一度中に入った記憶があります。
覚えているのは一角獣のタピスリーだけ。
こういうのは十把一絡げに絨毯だとおもっていました。それが壁に掛けてあったので、ふーんと思った記憶あり。無知とは楽しいモノです。
木像や石像はまったく記憶にありませんが、中世にしては表情が自然ですね。
「Sainte Marie Madeleine」
(1446-1449 Avignon)
これなんか、なにも違和感がありません。
「聖母子」
(オーヴェルニュ、1500年頃)
いいですね。
ローマのバルベリーニ美術館の14-15世紀くらいのマリア像なんか、不自然にこっちをガン見して、まったく愛嬌なし。不気味ったらありゃしない。
よろしかったらどうぞ。
https://4travel.jp/travelogue/11494152
彫刻より絵の方が自由に表現できると思うのですが、みんな決まり切ったポーズで無表情です。
イタリアとフランスではこんなに違うもんですかね。
50年前の記憶がすこしよみがえりました。
- mistralさん からの返信 2024/09/06 19:52:54
- RE: 50年前の記憶
- しにあの旅人さん
こんばんは。
しにあさんの旅行記は読み逃げばっかりで失礼しておりましたのに
コメントをありがとうございます。
> 「クリュニー修道院跡」という名前で覚えています。裏手のRue St.Jacquesを上がったところの安ホテルが、パリの最初の宿でした。1ヶ月くらいいましたが、St.Michel-Notre-Dameのメトロまでブール・ミッシュを歩いていたので、よく横を通っていました。歩いて5分くらいかな。
> サン・ミッシェル大通り(Boulevard Saint-Michel)をカルチェ・ラタンの学生はブール・ミッシュとよんでおりました。
> 1974年3月ごろです。
1974年ごろ、若き日のしにあさんが最初に暮された界隈だったんですね。
サン・ジャックの塔から続いているのがサン・ジャック通り、塔は巡礼道の起点となる地ですね。
今回、再び塔の姿を見てきました。周囲からは相変わらず目立っている姿でした。
パリ大学もクリュニューからはすぐ近く、
私も中世美術館と知るまでは、浴場跡がそんなところにあるなんて思ってもみず
廃墟?!と思っていました。
> ブール・ミッシュから、鉄柵越しになにやら廃墟みたいな遺跡が見えました。今もああですか。
> 一度中に入った記憶があります。
> 覚えているのは一角獣のタピスリーだけ。
> こういうのは十把一絡げに絨毯だとおもっていました。それが壁に掛けてあったので、ふーんと思った記憶あり。無知とは楽しいモノです。
そうですね。
絨毯は床に敷くものと思っていたら、なんと壁に絵画のような素晴らしい絨毯(織物)がかけられていて、名前もタピスリーと言うんだ、と知ったのは初めてヨーロッパに行った頃?(1970年ごろ?)
> 木像や石像はまったく記憶にありませんが、中世にしては表情が自然ですね。
> 「Sainte Marie Madeleine」
> (1446-1449 Avignon)
> これなんか、なにも違和感がありません。
>
> 「聖母子」
> (オーヴェルニュ、1500年頃)
> いいですね。
しにあさんが挙げられた像は、私にもベスト2に入るもの。
特にオーベルニュの聖母子像は行くたびに、あの像は?と探します。
気品がある表情が大好きです。
パリで40年ぐらい暮されたんでしたかしら。
通りの名前までしっかりと覚えておられること、驚きました。
千葉県でお暮らしになっていても、暮されていた地の記憶は、今でも鮮明に残っているんですね。
mistral
-
- ひらしまさん 2024/09/03 22:50:06
- 行けなかったクリュニー
- パリには20年ほど前に2回行ったのですが、その時の宿がクリュニーのすぐ近くで、訪ねたいと思いながらも体調を崩して結局行けずじまいでした。
今回、mistralさんの旅行記を2015年のもあわせて読ませていただき、クリュニーがとてもよくわかったような気がしています。
その土地建物自体がローマの共同浴場以来の歴史を伝えているんですね。
ガーゴイルにふと視線を感じてという描写が写真とともに迫ってきました。
そして、ルネサンス以前は現在のような美術という概念はなく、この美術館にもそれが反映されているとのご説明になるほどと思いました。
しかし、今はどこも予約制になっているのですね。
ルーブルにはそれでも長い列ができ混雑しているとのこと。
朝一番に行きさえすればよかった昔はもう戻りませんね。
ひらしま
- mistralさん からの返信 2024/09/04 21:39:10
- RE: 行けなかったクリュニー
- ひらしまさん
こんばんは。
こちらにもコメントをありがとうございました。
> パリには20年ほど前に2回行ったのですが、その時の宿がクリュニーのすぐ近くで、訪ねたいと思いながらも体調を崩して結局行けずじまいでした。
あの美術館の近くのお宿にお泊りでしたか。
なかなか便利な立地のようですね。
予定していても、その時の天候、体調、交通事情などで、思っていたとおりには運ばないことが
多くありますね。
> 今回、mistralさんの旅行記を2015年のもあわせて読ませていただき、クリュニーがとてもよくわかったような気がしています。
何度も行っていても、収蔵品が数限りなくあるせいで、初めて出会ったもののよう思え
的確な説明ができず申し訳ありません。
> その土地建物自体がローマの共同浴場以来の歴史を伝えているんですね。
> ガーゴイルにふと視線を感じてという描写が写真とともに迫ってきました。
以前の、古い館を使っての展示は、趣があって、まさに中世に迷い込んだように感じられて
素敵なものでした。
> そして、ルネサンス以前は現在のような美術という概念はなく、この美術館にもそれが反映されているとのご説明になるほどと思いました。
当時はそういった説明を聞くと、なるほどなあ、と思ったものでした。
現在のいわゆる美術品も、当時は建築物と一体の物と捉えられていたのでしょう。
なんとも贅沢なことでした。
> しかし、今はどこも予約制になっているのですね。
> ルーブルにはそれでも長い列ができ混雑しているとのこと。
> 朝一番に行きさえすればよかった昔はもう戻りませんね。
そうでした。
人気のある美術館はあさイチで駆けつけて、ガランとした空間を思う存分
楽しんだものでしたが。
今のルーブルのあさイチは、果たしてどうなんでしょうね。
mistral
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