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3月29日はパリ滞在の最終日。<br />翌日の朝のフライトでパリを発つので、当日は空港周辺のホテルに移動する。<br />その為残された時間はどこに行こうか、とそれぞれの希望を出しあった。<br /><br />夫は、最初の希望はロダン美術館、その後、ピカソ美術館へ変更した。<br />mistralは、残り時間で、ノートルダム大聖堂のその後の姿を見ておきたかった。<br /><br />表紙写真について:<br />下記URLは2018年、ノートルダム大聖堂の塔に上がった折の旅行記です。<br />何度もパリを訪問していながら,毎回塔に上る機会を逃していました。<br />その折には塔に上がる順番待ちのアプリが公開されるようになり、そのアプリに登録することによって、行列に並ばずに待機できることを知り、試してみました。<br /><br />そして塔の上で念願だったキマイラたちに出会ってきたのです。<br />その翌年春先に起こったのが大聖堂の火災でした。<br />十二使徒の像たちは、火災のおこる数日前に降ろされていたことを知り、キマイラたちはどうだったのか、ずっと気になっていました。<br /><br />今回、大聖堂の前に立ち、カメラ(携帯の)をズームして見てみると、あのキマイラたちの姿が見えてきたのでした。<br /><br />その折の旅行記は↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11448641<br />

パリでの最終日には、ピカソ美術館とノートルダム大聖堂へ行ってきた。

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2024/03/29 - 2024/03/29

833位(同エリア17042件中)

旅行記グループ 2024.3 フランス旅

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75

mistral

mistralさん

3月29日はパリ滞在の最終日。
翌日の朝のフライトでパリを発つので、当日は空港周辺のホテルに移動する。
その為残された時間はどこに行こうか、とそれぞれの希望を出しあった。

夫は、最初の希望はロダン美術館、その後、ピカソ美術館へ変更した。
mistralは、残り時間で、ノートルダム大聖堂のその後の姿を見ておきたかった。

表紙写真について:
下記URLは2018年、ノートルダム大聖堂の塔に上がった折の旅行記です。
何度もパリを訪問していながら,毎回塔に上る機会を逃していました。
その折には塔に上がる順番待ちのアプリが公開されるようになり、そのアプリに登録することによって、行列に並ばずに待機できることを知り、試してみました。

そして塔の上で念願だったキマイラたちに出会ってきたのです。
その翌年春先に起こったのが大聖堂の火災でした。
十二使徒の像たちは、火災のおこる数日前に降ろされていたことを知り、キマイラたちはどうだったのか、ずっと気になっていました。

今回、大聖堂の前に立ち、カメラ(携帯の)をズームして見てみると、あのキマイラたちの姿が見えてきたのでした。

その折の旅行記は↓
https://4travel.jp/travelogue/11448641

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦
旅行の手配内容
個別手配
  • 3月29日、スーツケースを預かっていただき<br />身軽になって出発。<br />メトロ1号線のSaint-Paul駅で下車。<br />あとはgoogle mapの案内でピカソ美術館へ。<br />通りかかった果物屋さんのカラフルな陳列に<br />思わずパチリと。

    3月29日、スーツケースを預かっていただき
    身軽になって出発。
    メトロ1号線のSaint-Paul駅で下車。
    あとはgoogle mapの案内でピカソ美術館へ。
    通りかかった果物屋さんのカラフルな陳列に
    思わずパチリと。

  • 目的地に着いたようだ。<br />国立ピカソ美術館は、かつて貴族が多く暮らしていたエリアにあり、現在はパリ3区、マレ地区にある。<br /><br />

    目的地に着いたようだ。
    国立ピカソ美術館は、かつて貴族が多く暮らしていたエリアにあり、現在はパリ3区、マレ地区にある。

  • ピカソ美術館と称する美術館<br />世界で4か所あるそうだ。<br /><br />ピカソ生家美術館 スペイン、マラガ<br />ピカソ美術館 ドイツ、ミュンスター<br />ピカソ美術館 フランス、アンティーブ<br />そしてここパリにあるピカソ美術館。<br /><br />ここの建物、歴史的建造物に指定されている。<br />

    ピカソ美術館と称する美術館
    世界で4か所あるそうだ。

    ピカソ生家美術館 スペイン、マラガ
    ピカソ美術館 ドイツ、ミュンスター
    ピカソ美術館 フランス、アンティーブ
    そしてここパリにあるピカソ美術館。

    ここの建物、歴史的建造物に指定されている。

  • ここでは収蔵点数5000点余り、絵画300点、彫刻250点、<br />印刷物と版画3900点と膨大なコレクションを誇るそう。<br />1973年に亡くなったピカソの遺族がフランスに寄贈した<br />作品がベースとなっている。<br /><br />1人のアーティストの美術館としては世界最大規模となっているそうだ。

    ここでは収蔵点数5000点余り、絵画300点、彫刻250点、
    印刷物と版画3900点と膨大なコレクションを誇るそう。
    1973年に亡くなったピカソの遺族がフランスに寄贈した
    作品がベースとなっている。

    1人のアーティストの美術館としては世界最大規模となっているそうだ。

  • 塩に対する税金の徴収から裕福になったピエール・オペールが建てたもので、塩の館、オテル・サレと呼ばれる17世紀中頃の歴史あるお屋敷。<br /><br />同時期に建てられたヴォー・ル・ヴィコント城と並び称されるほどの豪華な建物だそう。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    塩に対する税金の徴収から裕福になったピエール・オペールが建てたもので、塩の館、オテル・サレと呼ばれる17世紀中頃の歴史あるお屋敷。

    同時期に建てられたヴォー・ル・ヴィコント城と並び称されるほどの豪華な建物だそう。









  • パブロ・ピカソの亡くなった1973年以降、親族の保有していたコレクションをもとに、1985年にオープンした。

    パブロ・ピカソの亡くなった1973年以降、親族の保有していたコレクションをもとに、1985年にオープンした。

  • パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)は、1881年生まれ。<br />スペイン出身。<br />アーティストだった父親の影響から、スペインでアート教育を受け、その後、19歳でパリで初の個展を開いた。<br />その数年後からパリに移り、生涯にわたってパリで活躍した。<br /><br />ここのコレクションは、もともとピカソ自身が所有していたパーソナルな遺品も含め、2番目の妻が亡くなった際、相続税として国に譲渡されたものが中心となっている。<br /><br />写真の絵は、Paul Rosenbergへと書かれている。<br />その折にはわからなかったが、旅行記を書いていて調べてわかった。<br /><br />彼は美術商であり、ピカソをはじめ、ジョルジュ・ブラック、<br />アンリ・マティスなど多くの印象派、ポスト印象派の画家の代理人<br />を務めた当時世界有数の近代美術の美術商だったそう。<br />ピカソとは、バレリーナのオルガ・ホクロワとの新婚旅行の後に<br />お金を貸し、自身の実家の隣のアパートの部屋を用意するなど<br />生涯にわたっての交友関係を築いていた。<br /><br />1930年代終わりごろ、ヨーロッパで戦争が勃発しそうな気配を察知したローゼンバーグは、所有する美術品を分散して移動させ始めた。しかし1940年5月、ナチスのフランス侵攻時、フランス国内にはまだ2千点以上の作品が残されたままだった。夫妻はユダヤ人だったため、ナチスドイツ支配下のフランスから脱出する必要があったため、ポルトガルの外交官が発給したビザによってポルトガルへ脱出。<br /><br />1940年、ヒトラーがオーストリア、リンツに建設を計画していた総統美術館へ収蔵する美術品の収集を目的とし、ローゼンバーグのものを含むすべての略奪した美術品は、ジュ・ド・ポーム美術館に設置された倉庫にトラックで集められた。<br />その後、フランス政府関係者の推定によれば、社有者のいない文化財とされて、ドイツへ鉄道で持ち去られた美術品は、フランスの個人所有の美術品の3分の1に上ったそうだ。<br /><br />

    パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)は、1881年生まれ。
    スペイン出身。
    アーティストだった父親の影響から、スペインでアート教育を受け、その後、19歳でパリで初の個展を開いた。
    その数年後からパリに移り、生涯にわたってパリで活躍した。

    ここのコレクションは、もともとピカソ自身が所有していたパーソナルな遺品も含め、2番目の妻が亡くなった際、相続税として国に譲渡されたものが中心となっている。

    写真の絵は、Paul Rosenbergへと書かれている。
    その折にはわからなかったが、旅行記を書いていて調べてわかった。

    彼は美術商であり、ピカソをはじめ、ジョルジュ・ブラック、
    アンリ・マティスなど多くの印象派、ポスト印象派の画家の代理人
    を務めた当時世界有数の近代美術の美術商だったそう。
    ピカソとは、バレリーナのオルガ・ホクロワとの新婚旅行の後に
    お金を貸し、自身の実家の隣のアパートの部屋を用意するなど
    生涯にわたっての交友関係を築いていた。

    1930年代終わりごろ、ヨーロッパで戦争が勃発しそうな気配を察知したローゼンバーグは、所有する美術品を分散して移動させ始めた。しかし1940年5月、ナチスのフランス侵攻時、フランス国内にはまだ2千点以上の作品が残されたままだった。夫妻はユダヤ人だったため、ナチスドイツ支配下のフランスから脱出する必要があったため、ポルトガルの外交官が発給したビザによってポルトガルへ脱出。

    1940年、ヒトラーがオーストリア、リンツに建設を計画していた総統美術館へ収蔵する美術品の収集を目的とし、ローゼンバーグのものを含むすべての略奪した美術品は、ジュ・ド・ポーム美術館に設置された倉庫にトラックで集められた。
    その後、フランス政府関係者の推定によれば、社有者のいない文化財とされて、ドイツへ鉄道で持ち去られた美術品は、フランスの個人所有の美術品の3分の1に上ったそうだ。

  • <以下の解説文は、美術館での解説を撮影してきたものを<br />もとにしています。><br /><br />「Le Retour du bapteme d’après Le Nain Automne」<br />(1971年 秋)<br /><br />点描でシャガール風の雰囲気<br />17世紀古典作品がベースとなっている。<br />

    <以下の解説文は、美術館での解説を撮影してきたものを
    もとにしています。>

    「Le Retour du bapteme d’après Le Nain Automne」
    (1971年 秋)

    点描でシャガール風の雰囲気
    17世紀古典作品がベースとなっている。

  • 建物自体も見応えがあり、絵と建物と半々づつ見ていくような感じ<br />で進んでいった。<br /><br />

    建物自体も見応えがあり、絵と建物と半々づつ見ていくような感じ
    で進んでいった。

  • 市松模様が斜めに配されると<br />途端にモダンな感じに変わってしまう。<br />ピカソの美術館としてふさわしいような印象に変わる。

    市松模様が斜めに配されると
    途端にモダンな感じに変わってしまう。
    ピカソの美術館としてふさわしいような印象に変わる。

  • 「Enfant jouant avec un camion」<br />トラックで遊ぶこども<br /><br />(Vllauris, 1953 12月)

    「Enfant jouant avec un camion」
    トラックで遊ぶこども

    (Vllauris, 1953 12月)

  • 階段室の吹き抜けの向こう側に<br />一枚の絵が配されている。

    階段室の吹き抜けの向こう側に
    一枚の絵が配されている。

  • 「Le Fou」<br />(Paris, 1905)<br /><br />バトー・ラヴォワールの何もないスタジオにて描かれた。<br />メドラノ・サーカスからの帰り道に描き始めたもの。<br />その折に同行していた詩人マックス・ジェイコブの肖像画<br />と考えられている。<br />

    「Le Fou」
    (Paris, 1905)

    バトー・ラヴォワールの何もないスタジオにて描かれた。
    メドラノ・サーカスからの帰り道に描き始めたもの。
    その折に同行していた詩人マックス・ジェイコブの肖像画
    と考えられている。

  • 若き日のパブロ・ピカソ、1895年からバルセロナ美術学校の学生となった。パラレロ カフェ、エデン コンサート バラエティ ホール、キャトル ガッツ等を頻繁に訪れ、その活気に満ちたカラフルな雰囲気を描写していた。<br /><br />1900 年のパリ博覧会の際に、初めてパリに滞在、後、1904 年にはパリに移ってきた。他のカタルーニャ人で海外居住者や詩人である友人マックス・ジ ェイコブやギヨーム・アポリネールらとともに、ピカソは不安定なボヘミアン生活を送っていた。モンマルトルのスタジオで働き、クリシー広場の劇場、メドラノ サーカス、キャバレー オー ラパン アジルにも出没するようになる。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックやエドガー・ドガなどの芸術家の例に倣い、彼はエンターテイメントの世界とナイトライフ、そしてそこにうごめく上流階級、男女間の関係など、つぶさに観察し描いていった。彼の絵画には、セレブも社会的な落ちこぼれも、歌手も曲芸師も,いわゆる「青」と「バラ」の時代から登場するようになる。それらの絵画は、陽気というよりはむしろ暗くて陰鬱な色彩に満ちていた。<br /><br /><br /><br />

    若き日のパブロ・ピカソ、1895年からバルセロナ美術学校の学生となった。パラレロ カフェ、エデン コンサート バラエティ ホール、キャトル ガッツ等を頻繁に訪れ、その活気に満ちたカラフルな雰囲気を描写していた。

    1900 年のパリ博覧会の際に、初めてパリに滞在、後、1904 年にはパリに移ってきた。他のカタルーニャ人で海外居住者や詩人である友人マックス・ジ ェイコブやギヨーム・アポリネールらとともに、ピカソは不安定なボヘミアン生活を送っていた。モンマルトルのスタジオで働き、クリシー広場の劇場、メドラノ サーカス、キャバレー オー ラパン アジルにも出没するようになる。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックやエドガー・ドガなどの芸術家の例に倣い、彼はエンターテイメントの世界とナイトライフ、そしてそこにうごめく上流階級、男女間の関係など、つぶさに観察し描いていった。彼の絵画には、セレブも社会的な落ちこぼれも、歌手も曲芸師も,いわゆる「青」と「バラ」の時代から登場するようになる。それらの絵画は、陽気というよりはむしろ暗くて陰鬱な色彩に満ちていた。



  • 「Autoportrait」<br /> 自画像<br />(Paris, 1901 年末」<br /><br />1901年、2回目のパリ滞在の終わりごろ、この自画像を描いた。<br />まだ20歳だったが、彼の頬はこけ、顔は青白く、老いた姿の<br />自画像を描いていた。遠くを見ているような視線と憂鬱そうな<br />姿勢から、内省的な様子が際立って見える。<br />身にまとっている厚手のコートは、彼が尊敬し、亡くなった<br />ばかりだったロートレックが描いた肖像画で、アリスティド・<br />ビリュアンが来ていたコートを思い出させる。

    「Autoportrait」
     自画像
    (Paris, 1901 年末」

    1901年、2回目のパリ滞在の終わりごろ、この自画像を描いた。
    まだ20歳だったが、彼の頬はこけ、顔は青白く、老いた姿の
    自画像を描いていた。遠くを見ているような視線と憂鬱そうな
    姿勢から、内省的な様子が際立って見える。
    身にまとっている厚手のコートは、彼が尊敬し、亡くなった
    ばかりだったロートレックが描いた肖像画で、アリスティド・
    ビリュアンが来ていたコートを思い出させる。

  • こんなピカソ自身による言葉があった。<br />どこにあったのか、わからなくなってしまった。<br /><br />

    こんなピカソ自身による言葉があった。
    どこにあったのか、わからなくなってしまった。

  • 左: [Buste de femme」<br />         女性の上半身像<br />   (Gosol, 1906 夏)<br /><br />右: 「Figure」<br />    (Paris, 1908)<br />

    左: [Buste de femme」
    女性の上半身像
       (Gosol, 1906 夏)

    右: 「Figure」
        (Paris, 1908)

  • 「Autoportorait」<br />(Paris, 1906 秋)

    「Autoportorait」
    (Paris, 1906 秋)

  • ピカソがキュビズムを創始したのは1906年のこと。<br />イベリアの芸術やローマ彫刻、オセアニア・アフリカの<br />アートなどがインスピレーションの源となっているそうだ。<br />セザンヌの「自然界のものを円柱・球・円錐で表現する」<br />という理論からも影響を受けている。<br />ピカソはジョルジュ・ブラックとともにキュビズムの<br />様々な可能性を追求していった。<br /><br />

    ピカソがキュビズムを創始したのは1906年のこと。
    イベリアの芸術やローマ彫刻、オセアニア・アフリカの
    アートなどがインスピレーションの源となっているそうだ。
    セザンヌの「自然界のものを円柱・球・円錐で表現する」
    という理論からも影響を受けている。
    ピカソはジョルジュ・ブラックとともにキュビズムの
    様々な可能性を追求していった。

  • 「Guitare」<br />(Ceret, 1913 春)

    「Guitare」
    (Ceret, 1913 春)

  • [口ひげを生やした男性の頭とヴァイオリニスト(建設プロジェクト)」<br />(Sorgues, 1912 夏)<br />

    [口ひげを生やした男性の頭とヴァイオリニスト(建設プロジェクト)」
    (Sorgues, 1912 夏)

  • 「女性の頭」<br />(フェルナンド・オリヴィエ)<br />(パリ、1909年 秋)

    「女性の頭」
    (フェルナンド・オリヴィエ)
    (パリ、1909年 秋)

  • 「リアリズムと装飾」<br />1917年から第二次世界大戦が激化する中、中立国スペイン出身である平和主義者パブロ・ピカソは演劇界でも活躍するようになった。彼はロシアバレエの監督、セルジュ・ディアギレフから「パレード」(1917年)の舞台の幕、セット、衣装のデザインを依頼され、イタリアへ旅立った。そこで彼は、明確な線描とヌードとポートレートをテーマとして、古典的概念として受け継いできたものとヒューマニズムに出会っていった。これらの挑戦はキュビズムの作品と並行しての探求となっていった。<br />プルチネッラ(1920年)とメルキュール(1924年)でのピカソは、絵画、彫刻、音楽、ダンス、詩を組み合わせた集団創作に参加し、エリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ダリウスなど当時第一線にあった偉大な作曲家たちと共演していった。<br /><br />

    「リアリズムと装飾」
    1917年から第二次世界大戦が激化する中、中立国スペイン出身である平和主義者パブロ・ピカソは演劇界でも活躍するようになった。彼はロシアバレエの監督、セルジュ・ディアギレフから「パレード」(1917年)の舞台の幕、セット、衣装のデザインを依頼され、イタリアへ旅立った。そこで彼は、明確な線描とヌードとポートレートをテーマとして、古典的概念として受け継いできたものとヒューマニズムに出会っていった。これらの挑戦はキュビズムの作品と並行しての探求となっていった。
    プルチネッラ(1920年)とメルキュール(1924年)でのピカソは、絵画、彫刻、音楽、ダンス、詩を組み合わせた集団創作に参加し、エリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、ダリウスなど当時第一線にあった偉大な作曲家たちと共演していった。

  • 「アルルカンに扮するポール」<br />(Paris, 1924年)<br /><br />パブロ・ピカソの息子、ポールはカーニバルに向けてのパレードに出る準備ができているようだ。<br />エンターテインメントの世界は、常にピカソを魅了してきた。この絵を描く前に彼はロシアバレエ団の衣装と舞台セットの制作をした。ツアー中は舞踏団と共にイタリアまで同行した。そこで、最初の妻で、ポールの母親となるダンサーのオルガ・ホクロワと出会っていた。<br /><br />オルガの為に、ピカソはキュビズムから離れようとし、彼の創作におけるこの時期はしばしば「ネオクラシック」時代と呼ばれる。二人の17年間の共同生活の間にはオルガの肖像画は様々な様相を見せ、ある時期にはほとんど聖像画であるかのように描かれていた。(1918年頃の作品) <br />1920年代半ば、二人の関係は崩れ始め、ピカソに嫉妬するようになったオルガの肖像画は変化し始めていき、現実的な描かれ方から遠ざかっていった。1935年には二人は別れ、ピカソは若い愛人、マリー・テレーズと出会い、彼女は二人の間に娘を出産した。<br /><br /><br /><br />

    「アルルカンに扮するポール」
    (Paris, 1924年)

    パブロ・ピカソの息子、ポールはカーニバルに向けてのパレードに出る準備ができているようだ。
    エンターテインメントの世界は、常にピカソを魅了してきた。この絵を描く前に彼はロシアバレエ団の衣装と舞台セットの制作をした。ツアー中は舞踏団と共にイタリアまで同行した。そこで、最初の妻で、ポールの母親となるダンサーのオルガ・ホクロワと出会っていた。

    オルガの為に、ピカソはキュビズムから離れようとし、彼の創作におけるこの時期はしばしば「ネオクラシック」時代と呼ばれる。二人の17年間の共同生活の間にはオルガの肖像画は様々な様相を見せ、ある時期にはほとんど聖像画であるかのように描かれていた。(1918年頃の作品) 
    1920年代半ば、二人の関係は崩れ始め、ピカソに嫉妬するようになったオルガの肖像画は変化し始めていき、現実的な描かれ方から遠ざかっていった。1935年には二人は別れ、ピカソは若い愛人、マリー・テレーズと出会い、彼女は二人の間に娘を出産した。



  • 「La Flute de Pan」<br />パンの笛<br />(Paris, 1923年 秋)<br /><br />この作品を作成するにあたり、パブロ・ピカソはナポリ考古学博物館を見学した折の、ギリシャ・ローマ時代の大理石のパンとダフニスの像から受けたインスピレーションをもとにしたようだ。モデルにトランクスをはかせることで、古典的なモデルからの脱却を図っている。彼等はポール・セザンヌが描いた当時の海水浴客に似ている。ピカソは「パンの笛」を通じて古典的文化に光をあて、さらにそれらを現代的な生活の中で再生させようと図ったようだ。<br /><br /><br /><br /><br />

    「La Flute de Pan」
    パンの笛
    (Paris, 1923年 秋)

    この作品を作成するにあたり、パブロ・ピカソはナポリ考古学博物館を見学した折の、ギリシャ・ローマ時代の大理石のパンとダフニスの像から受けたインスピレーションをもとにしたようだ。モデルにトランクスをはかせることで、古典的なモデルからの脱却を図っている。彼等はポール・セザンヌが描いた当時の海水浴客に似ている。ピカソは「パンの笛」を通じて古典的文化に光をあて、さらにそれらを現代的な生活の中で再生させようと図ったようだ。




  • 「海水浴客を描いた花瓶」<br />(Paris, 1929年5月)

    「海水浴客を描いた花瓶」
    (Paris, 1929年5月)

  • 左: 入浴者<br />   (Baisgeloup, 1931年)<br />右:上から順に<br />   「溺れた女性の救出Ⅲ」  <br />    (Paris, 1932年12月18日)<br /><br />   「溺れた女性の救出Ⅰ」<br />    (Paris, 1932年12月17日)<br /><br />   「溺れた女性の救出Ⅱ」<br />    (Paris, 1932年12月18日)<br />

    左: 入浴者
       (Baisgeloup, 1931年)
    右:上から順に
       「溺れた女性の救出Ⅲ」  
        (Paris, 1932年12月18日)

       「溺れた女性の救出Ⅰ」
        (Paris, 1932年12月17日)

       「溺れた女性の救出Ⅱ」
        (Paris, 1932年12月18日)

  • We destroyed Cubism...<br />But we didn’t destroy Picasso-he is still valid.<br />     Mark Rothko,  1959<br /><br />などのピカソ評が並ぶ。

    We destroyed Cubism...
    But we didn’t destroy Picasso-he is still valid.
    Mark Rothko, 1959

    などのピカソ評が並ぶ。

  • 「麦わら帽子をかぶり、アイスコーンを持つ男」<br />(Mougins, 1938年8月30日)<br />

    「麦わら帽子をかぶり、アイスコーンを持つ男」
    (Mougins, 1938年8月30日)

  • ピカソワールドから、目を外界に移してみる。<br /><br />

    ピカソワールドから、目を外界に移してみる。

  • 「画家と彼のモデル」<br />(Paris, 1926年秋)<br />

    「画家と彼のモデル」
    (Paris, 1926年秋)

  • 「大浴場」<br />(Paris, 1929年5月26日)

    「大浴場」
    (Paris, 1929年5月26日)

  • キリストの磔刑<br />(1930年)<br />十字架にくくられているが一説によるとオルガだそう。

    キリストの磔刑
    (1930年)
    十字架にくくられているが一説によるとオルガだそう。

  • 「女性の頭」<br />(Paris,  1929-1930年)<br /><br />この作品はピカソが彫刻家フリオ・ゴンサレスとコラボして制作した代表的的な作品です。長く曲がった鉄の首で支えられたこの頭は、頭蓋骨の丸い形を形成するために組み立てられた2つのふるいから作られ、ヘアラインはマットレスのスピリングから作られています。

    「女性の頭」
    (Paris,  1929-1930年)

    この作品はピカソが彫刻家フリオ・ゴンサレスとコラボして制作した代表的的な作品です。長く曲がった鉄の首で支えられたこの頭は、頭蓋骨の丸い形を形成するために組み立てられた2つのふるいから作られ、ヘアラインはマットレスのスピリングから作られています。

  • 詩「金属の牛の舌」と髑髏<br />(パリ、6月24-26日、1940)<br />

    詩「金属の牛の舌」と髑髏
    (パリ、6月24-26日、1940)

  • 右上の作品<br />1937年、ピカソの愛人だったDora Maarの肖像画。<br /><br />上から三段目、中央の作品<br />同じ1937年、愛人だったMarie-Thereseの肖像画。

    右上の作品
    1937年、ピカソの愛人だったDora Maarの肖像画。

    上から三段目、中央の作品
    同じ1937年、愛人だったMarie-Thereseの肖像画。

  • 「マリー・テレーズ・ウォルターの肖像」<br />(Paris, 1月6日、1937)<br /><br />1927年からピカソの愛人だったマリー・テレーズの肖像画。<br />寒色を用いた肌の色とドレスの暖色系とが対照的。<br />

    「マリー・テレーズ・ウォルターの肖像」
    (Paris, 1月6日、1937)

    1927年からピカソの愛人だったマリー・テレーズの肖像画。
    寒色を用いた肌の色とドレスの暖色系とが対照的。

  • これらの小作品も見逃せない。<br />

    これらの小作品も見逃せない。

  • 「ロレーヌの十字架を持つ三色の雄鶏」<br />(パリ、1945)<br />

    「ロレーヌの十字架を持つ三色の雄鶏」
    (パリ、1945)

  • 「羊を抱えた男」<br />(パリ、1943」<br /><br />パリのグラン・オーギュスタンのスタジオでポール・エリュアールの協力を得て、完成させた。

    「羊を抱えた男」
    (パリ、1943」

    パリのグラン・オーギュスタンのスタジオでポール・エリュアールの協力を得て、完成させた。

  • 「羊を抱えた男」の習作

    「羊を抱えた男」の習作

  • ひと通り見て回って館内にあるカフェでひと休み。<br />サンドイッチとサラダとコーヒーとでのんびりと<br />ランチをいただいた。<br />

    ひと通り見て回って館内にあるカフェでひと休み。
    サンドイッチとサラダとコーヒーとでのんびりと
    ランチをいただいた。

  • どこの空間をとっても<br />ゆとりのあるのびのびとした空間構成で<br />見学者も少なく穴場のような素敵な美術館だった。

    どこの空間をとっても
    ゆとりのあるのびのびとした空間構成で
    見学者も少なく穴場のような素敵な美術館だった。

  • そしてやって来たのは<br />ノートルダム大聖堂前の広場。<br />ここはさすがの観光名所だけあって観光客も大勢集まっていた。<br />

    そしてやって来たのは
    ノートルダム大聖堂前の広場。
    ここはさすがの観光名所だけあって観光客も大勢集まっていた。

  • 広場には階段状の見物席ができていて<br />そこには大勢の人たちが腰を下ろして<br />大聖堂と向き合って座っていた。<br />

    広場には階段状の見物席ができていて
    そこには大勢の人たちが腰を下ろして
    大聖堂と向き合って座っていた。

  • 今回買い替えた携帯電話器。<br />かなりズームにも対応するので、途中からカメラは使わなくなってしまっていた。

    今回買い替えた携帯電話器。
    かなりズームにも対応するので、途中からカメラは使わなくなってしまっていた。

  • そして塔の上で、パリの街を見下ろしている<br />キマイラたちの姿を、そのカメラが捉えた。<br />火災からなんとか逃れていたんだ、とひと安心した<br />瞬間だった。<br /><br />

    そして塔の上で、パリの街を見下ろしている
    キマイラたちの姿を、そのカメラが捉えた。
    火災からなんとか逃れていたんだ、とひと安心した
    瞬間だった。

  • 大聖堂前の広場には、<br />聖堂内部を撮影した写真家による巨大なパネルと<br />その折のコメントが並んでいて、<br />魅入ってしまった。<br /><br />以降はTomas Van Houtryveという方のパネルです。<br />お一人の分しか見られず後にしたことがこころ残りで、<br />他のパネルにはどのような光景が捉えられていたのか<br />今にして想います。<br />

    大聖堂前の広場には、
    聖堂内部を撮影した写真家による巨大なパネルと
    その折のコメントが並んでいて、
    魅入ってしまった。

    以降はTomas Van Houtryveという方のパネルです。
    お一人の分しか見られず後にしたことがこころ残りで、
    他のパネルにはどのような光景が捉えられていたのか
    今にして想います。

  • 2012 年からナショナル ジオグラフィックに 寄稿されているという<br />トーマス ヴァン ハウトリーブ氏について<br /><br />ベルギー系アメリカ人写真家<br />ICPインフィニティ賞、 従軍記者に対するバイユー賞、ロジ ャー・ピック賞を受賞<br />2010 年から VII 写真エージェンシーの メンバーであり、ボードワン ルボン ギャラリーが代表を務めている。<br />

    2012 年からナショナル ジオグラフィックに 寄稿されているという
    トーマス ヴァン ハウトリーブ氏について

    ベルギー系アメリカ人写真家
    ICPインフィニティ賞、 従軍記者に対するバイユー賞、ロジ ャー・ピック賞を受賞
    2010 年から VII 写真エージェンシーの メンバーであり、ボードワン ルボン ギャラリーが代表を務めている。

  • 以下は各パネル写真に対してのハウトリーブ氏のコメント原文と、<br />写真に添えた文章はmistral自身による日本語訳です。<br />(文章の背後にある、彼が本当に伝えられたかったのかもしれない「感じ」までは表しきれていませんので、できましたら原文で味わっていただけたらと思います。)<br /><br /><br /><br />When I first saw these statues、they appeared to be gazing down<br /> at the damage to their home. They are framed by timbers <br />marred by fire and traces of molten lead.<br /><br />10 December 2020 - Tomas van Houtryve (以下は同様)<br /><br />

    以下は各パネル写真に対してのハウトリーブ氏のコメント原文と、
    写真に添えた文章はmistral自身による日本語訳です。
    (文章の背後にある、彼が本当に伝えられたかったのかもしれない「感じ」までは表しきれていませんので、できましたら原文で味わっていただけたらと思います。)



    When I first saw these statues、they appeared to be gazing down
    at the damage to their home. They are framed by timbers
    marred by fire and traces of molten lead.

    10 December 2020 - Tomas van Houtryve (以下は同様)

  • 初めてこれらの像に出会ったとき、私には、彼らがまるで<br />被害にあった自分たちの家を見つめているかのように見えました。 <br />周りには火で焼け落ちてきた木材や溶けかかった鉛が折り重なって<br />いました。<br /><br /><br />2020年12月10日 - トーマス・ファン・ハウトリーヴ

    初めてこれらの像に出会ったとき、私には、彼らがまるで
    被害にあった自分たちの家を見つめているかのように見えました。
    周りには火で焼け落ちてきた木材や溶けかかった鉛が折り重なって
    いました。


    2020年12月10日 - トーマス・ファン・ハウトリーヴ

  • キマイラ周辺部を拡大。<br />

    キマイラ周辺部を拡大。

  • At night, after the workers had gone home, <br />the cathedral felt ghostly. Wind howled through the gash <br />in the ceiling and swayed these safety nets. <br />Despite the gloomy atmosphere, I could still feel <br />the cathedral&#39;s beauty shine through.<br /><br /><br /><br /><br />

    At night, after the workers had gone home,
    the cathedral felt ghostly. Wind howled through the gash
    in the ceiling and swayed these safety nets.
    Despite the gloomy atmosphere, I could still feel
    the cathedral's beauty shine through.




  • 夜、作業員たちが帰宅した後、大聖堂には<br />幽霊でもいるかのような気配が立ち込めていました。 <br />風が天井の裂け目からうなり声を上げ、<br />安全ネットを 揺さぶりました。<br />不気味な雰囲気であるにもかかわらず、<br />私には大聖堂の美しさがひときわ輝いているように<br />感じられました。<br />

    夜、作業員たちが帰宅した後、大聖堂には
    幽霊でもいるかのような気配が立ち込めていました。
    風が天井の裂け目からうなり声を上げ、
    安全ネットを 揺さぶりました。
    不気味な雰囲気であるにもかかわらず、
    私には大聖堂の美しさがひときわ輝いているように
    感じられました。

  • Seen from above, from the exact location <br />where the spire used to be, is the massive hole <br />ripped into the very heart of the cathedral. <br />When I took this photo, I noticed the soft light <br />glowing from below, where the altar had been.<br />Debris on the top of the vaults encircled the light.

    Seen from above, from the exact location
    where the spire used to be, is the massive hole
    ripped into the very heart of the cathedral.
    When I took this photo, I noticed the soft light
    glowing from below, where the altar had been.
    Debris on the top of the vaults encircled the light.

  • かつて尖塔があったまさにその場所から見下ろしてみると、<br />大聖堂の心臓部そのものに巨大な穴が開いていました。<br />この写真を撮ったとき、かつて祭壇があったところから<br />柔らかな光が差し込んでいるのに気づきました。<br />ヴォールト天井の上部に積み重なった残骸が<br />その光を取り囲んでいました。<br /><br />

    かつて尖塔があったまさにその場所から見下ろしてみると、
    大聖堂の心臓部そのものに巨大な穴が開いていました。
    この写真を撮ったとき、かつて祭壇があったところから
    柔らかな光が差し込んでいるのに気づきました。
    ヴォールト天井の上部に積み重なった残骸が
    その光を取り囲んでいました。

  • I trained with teams of rope technicians, <br />perched on ancient stones above the abyss,<br />to access the heights of the cathedral. It felt more like <br />being on an alpine expedition than in the center of Paris. <br />Bit by bit, the technicians carefully removed debris <br />and consolidated stones.

    I trained with teams of rope technicians,
    perched on ancient stones above the abyss,
    to access the heights of the cathedral. It felt more like
    being on an alpine expedition than in the center of Paris.
    Bit by bit, the technicians carefully removed debris
    and consolidated stones.

  • 私はロープテクニシャンのチームと一緒に、 <br />底知れない穴の上で、大聖堂の高みにまでアクセスするために、<br />古からある石 の上に座って訓練しました。<br />パ リの中心部にいるというよりも、山岳探検をしているような<br />気分でした。技術者らは少しずつ、 瓦礫を取り除き、石材を<br />固定していったのです。<br />

    私はロープテクニシャンのチームと一緒に、
    底知れない穴の上で、大聖堂の高みにまでアクセスするために、
    古からある石 の上に座って訓練しました。
    パ リの中心部にいるというよりも、山岳探検をしているような
    気分でした。技術者らは少しずつ、 瓦礫を取り除き、石材を
    固定していったのです。

  • Miraculously, all the statues from the base of the spire were removed for restoration a few days before fire struck the cathedral. When I photographed this headless statue at the restoration workshop, I knew that it was uniquely <br />charged with symbolism. When he designed Notre Dame&#39;s spire, Eugène-Emmanuel Viollet-le-Duc put his own facial features on this statue of Saint Thomas.

    Miraculously, all the statues from the base of the spire were removed for restoration a few days before fire struck the cathedral. When I photographed this headless statue at the restoration workshop, I knew that it was uniquely
    charged with symbolism. When he designed Notre Dame's spire, Eugène-Emmanuel Viollet-le-Duc put his own facial features on this statue of Saint Thomas.

  • 大聖堂が火に包まれることになる数日前に、<br />尖塔の基部にあるすべ ての彫像が修復のために取り外された<br />のは奇跡的なことでした。<br />修復するための作業場でこの首なし像を撮影したとき<br />私はそれが一種独特の象徴性をもっていることを知って<br />身震いをしました。<br />ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュックは、<br />ノートルダム大聖堂の尖塔を造り直した時、自らこの聖トマ像の<br />モデルとなっていたのです。<br /><br /><br /><br />

    大聖堂が火に包まれることになる数日前に、
    尖塔の基部にあるすべ ての彫像が修復のために取り外された
    のは奇跡的なことでした。
    修復するための作業場でこの首なし像を撮影したとき
    私はそれが一種独特の象徴性をもっていることを知って
    身震いをしました。
    ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュックは、
    ノートルダム大聖堂の尖塔を造り直した時、自らこの聖トマ像の
    モデルとなっていたのです。



  • ノートルダム大聖堂の建設に取り掛かられたのは1163年。最終的な竣工は14世紀中頃だそう。その後、フランス革命で襲撃を受け、多くの彫像が破壊され埋められてしまった。<br />1845年から始まった大規模な修復に携わったのが、上記建築家のヴィオレ・ル・デュックだった。彼は改修に当たって1330年の大聖堂を想定したそう。しかし当初の元通りに復元するとの目的が、元以上のものにするとの教会側などからの意向も働き、尖塔の高さは以前のものより10メートル高くし、尖塔の基部には福音記者と十二使徒像を置くということになった。その結果、聖トマ像のモデルは彼が勤め、自らデザインした尖塔を見上げるポーズを取ったのだそう。

    ノートルダム大聖堂の建設に取り掛かられたのは1163年。最終的な竣工は14世紀中頃だそう。その後、フランス革命で襲撃を受け、多くの彫像が破壊され埋められてしまった。
    1845年から始まった大規模な修復に携わったのが、上記建築家のヴィオレ・ル・デュックだった。彼は改修に当たって1330年の大聖堂を想定したそう。しかし当初の元通りに復元するとの目的が、元以上のものにするとの教会側などからの意向も働き、尖塔の高さは以前のものより10メートル高くし、尖塔の基部には福音記者と十二使徒像を置くということになった。その結果、聖トマ像のモデルは彼が勤め、自らデザインした尖塔を見上げるポーズを取ったのだそう。

  • パリからの帰国便のルートは<br />日本からの出発便よりかなり南下していたようだった。

    パリからの帰国便のルートは
    日本からの出発便よりかなり南下していたようだった。

  • 3月30日 パリ発 09:30 AF0282便<br /><br />3月31日 羽田着 06:50<br /><br />長く時間のかかってしまった今回のフランス旅の旅行記、<br />やっと帰国までこぎつけました。<br />お付き合いいただきました皆さま、ありがとうございました。<br />

    3月30日 パリ発 09:30 AF0282便

    3月31日 羽田着 06:50

    長く時間のかかってしまった今回のフランス旅の旅行記、
    やっと帰国までこぎつけました。
    お付き合いいただきました皆さま、ありがとうございました。

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2024.3 フランス旅

この旅行記へのコメント (4)

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  • yunさん 2024/07/20 20:19:18
    何度でも Paris♪
    mistralさん こんばんは

    旅先で拝見し、帰国して再びおじゃましております。
    旅の最終行程で訪れるパリは、何とも説明し難い「気持ち」を運んできますよね。

    ピカソ美術館は建物半分・作品半分と、見どころ満載。
    1階から上って行く吹き抜け階段の魅力にぞっこんです。
    上階から眺め下ろすパリの街並みも、隠れ魅力のひとつですね。
    いつも女性が傍に居たピカソさんは、凄い寂しがり屋かな~と想像してます。青の時代の自画像が、ご本人の根っこに近そう…なんて。

    そしてノートルダム大聖堂
    12月8日にお披露目との情報ですが、予定通り進むでしょうか?
    火災当日の消化活動から、多くの人々の努力による再建。
    その過程に大きな価値があり、予定は未定で構わないと思ってしまう。
    それでも行き来が叶う内に、もう一度は聖堂内へ入りたいと願っています。
    mistralさんもキマイラがテラスで待ってますね♪

    今回はAir-Franceご利用でしたか。帰路の南回り、長いですよね。
    ロシアの狂気が長く続くけれど、目は逸らせずにいたい。
    愛しきパリでのオリンピック開催が順調でありますように。

    yun

    mistral

    mistralさん からの返信 2024/07/21 14:23:37
    RE: 何度でも Paris♪
    yunさん

    こんにちは。
    再びのご訪問とコメントを有難うございました。

    > 旅先で拝見し、帰国して再びおじゃましております。

    いいね、をいただいたのは旅先から。
    その折も思ったのですが、今回はどちらからでしたか?
    再びのフランスでしたかしら?

    > 旅の最終行程で訪れるパリは、何とも説明し難い「気持ち」を運んできますよね。

    おっしゃる通りですね。
    バリに戻ってくると一安心。と同時にさすがの観光地ゆえの観光客の多さには驚かされます。

    > ピカソ美術館は建物半分・作品半分と、見どころ満載。
    > 1階から上って行く吹き抜け階段の魅力にぞっこんです。
    > 上階から眺め下ろすパリの街並みも、隠れ魅力のひとつですね。

    年々、一日に訪問できる数が限られてくるようになりました。
    だからこそ、今の自分たちにぴったりフィットするようなところを選びたいと思います。
    どこに行くかも重要ですし、そこで何を見て何を感じるかもチョイスのポイントとなってきています。
    ピカソ美術館の建物の見事さには驚かされました。
    ピカソの絵は、その入れ物の持つすばらしさ故に、一層輝きを増しているかのようでした。

    > いつも女性が傍に居たピカソさんは、凄い寂しがり屋かな?と想像してます。青の時代の自画像が、ご本人の根っこに近そう…なんて。

    同感です。
    素のピカソさんは、どうやらあの青の時代の自画像にありそうに思えます。
    そしてそばに居てくれる女性からおおきな癒しを与えてもらっているのかも、、、


    > そしてノートルダム大聖堂
    > 12月8日にお披露目との情報ですが、予定通り進むでしょうか?
    > 火災当日の消化活動から、多くの人々の努力による再建。

    実際にことが起こった際の危機管理が、うまく運ばれたようでしたね。
    火災の際には聖遺物などが手際よく運び出されたり、火災が起こる前には、塔の周辺の像たちは修復のために運び降ろされていたことなど思いますと、なにやら不思議なちからによってまもられてきていたかのように思ってしまいます。

    写真家の方も、堂内で写真を撮影されながら、きっとそんなおおいなる存在を感じておられたように想われました。

    > その過程に大きな価値があり、予定は未定で構わないと思ってしまう。
    > それでも行き来が叶う内に、もう一度は聖堂内へ入りたいと願っています。
    > mistralさんもキマイラがテラスで待ってますね♪

    12月8日がお披露目予定日だったんですね。
    himmelさんがご訪問された半年前よりは随分工事も進んでいたようですね。
    これから急ピッチで工事も進むことでしょう。
    もちろん予定が延長されることとなったとしても、だれもが不満をもらさないことでしょうね。ここに至るまで、工事関係者の方々は、全力をあげて修復工事に取り組んでこられたことは伝わっていることでしょうから。

    > 今回はAir-Franceご利用でしたか。帰路の南回り、長いですよね。
    > ロシアの狂気が長く続くけれど、目は逸らせずにいたい。
    > 愛しきパリでのオリンピック開催が順調でありますように。

    一国の一人の狂気から(他にもそれに該当する方もおられますが)始まった、
    迂回することを余技なくされている航空業界と我々乗客たち。
    静かな怒りを抱きつつ、おっしゃるようにしっかりと目を逸らさずにいたいと思います。

    そしてできることなら、塔の上でキマイラたちと再会したいです。

    mistral
  • frau.himmelさん 2024/07/15 22:31:45
    お疲れさまでした
    mistralさんこんばんは。

    大作の完成おめでとうございます。とともにお疲れさまでした。
    素晴らしかったです。ピカソ美術館とピカソ本人の詳しいご説明。
    私は今まで、ピカソ美術館に行ってピカソの作品だけを観たいとは思いませんでした。あまりにも作風がころころ変わり過ぎてついていけないというか・・。
    でも青の時代のピカソの絵は大好きなのですよ。あのキュビズムって言うか、目がどこにあって口がどこにあるのか???な顔・顔。あれどうも着いていけない(笑)。

    しかしmistralさんの詳しい説明を読んで、あら結構いけるかもと思いました。モンマルトルで他の芸術家とラパン・アジルなどで交流していたことは、昨年の旅で訪れましたので、とても身近に感じました。
    それにピカソ美術館の内部の素敵なこと、次回パリを訪れる機会がありましたら、ピカソ美術館に行ってみたいと思いました。

    そして、ノートルダム大聖堂の詳しいご説明ありがとうございます。
    私たちが訪れてから半年後でしたが、あれから結構修復がはかどっていましたね。
    写真家の方が、撮られたパネル写真とともに残してくださったコメント、それをmistralさんが翻訳なさってくださったこと、あれは素晴らしかったです。もう旅行記の範疇を越えていると思いました。
    本当にお疲れさまでした。

    パリのノートルダム大聖堂、これからどうなるのか、これからもmistralさんが見続けなければならない大きな宿題になりそうですね。

    ほんとに素晴らしかったです。ありがとうございました。

    himmel

    mistral

    mistralさん からの返信 2024/07/16 19:45:07
    RE: お疲れさまでした
    himmelさん

    こんばんは。
    旅行記作成の為の時間がなかなか取れずに、予想以上に手間取ってしまいました。
    パリの美術館巡りの旅行記では、himmelさんのように調べ尽くしてのコメントを
    載せるには力不足で、中途半端なままお終いとなりました。

    > 私は今まで、ピカソ美術館に行ってピカソの作品だけを観たいとは思いませんでした。あまりにも作風がころころ変わり過ぎてついていけないというか・・。
    > でも青の時代のピカソの絵は大好きなのですよ。あのキュビズムって言うか、目がどこにあって口がどこにあるのか???な顔・顔。あれどうも着いていけない(笑)。

    そうです、そうです。
    以前スペインのマラガでピカソ美術館に入る機会がありました。
    その折の、まだ若い頃の確かなデッサン力、また私もhimmelさんと同じように青の時代の
    作品群には魅了されました。
    女性関係も多彩で、、、
    その折々の女性との関係で、絵のスタイルが変化していったようだ、ということも
    少しずつわかってきました。

    > しかしmistralさんの詳しい説明を読んで、あら結構いけるかもと思いました。モンマルトルで他の芸術家とラパン・アジルなどで交流していたことは、昨年の旅で訪れましたので、とても身近に感じました。

    その折のこと、himmelさんの旅行記にも書かれていましたね。
    結構いけそうですか?

    > それにピカソ美術館の内部の素敵なこと、次回パリを訪れる機会がありましたら、ピカソ美術館に行ってみたいと思いました。

    美術館の建物、おすすめです。
    是非機会がありましたらご訪問をおすすめします。

    > そして、ノートルダム大聖堂の詳しいご説明ありがとうございます。
    > 私たちが訪れてから半年後でしたが、あれから結構修復がはかどっていましたね。
    > 写真家の方が、撮られたパネル写真とともに残してくださったコメント、それをmistralさんが翻訳なさってくださったこと、あれは素晴らしかったです。もう旅行記の範疇を越えていると思いました。

    コメントの訳文は、これまた力不足、でして。
    ただ英文のみ載せておくのもどうかしら、とも思い、無理してしまいました。
    写真家が撮影をされる際、あんなことを想いながら撮影されているんだ、とちょっと感激。
    それともやはり被写体が特別なのでしょうか。
    >
    > パリのノートルダム大聖堂、これからどうなるのか、これからもmistralさんが見続けなければならない大きな宿題になりそうですね。

    世界中の皆さんが、どのように現状復帰されたのか注目されていることでしょうね。
    私もチャンスがあるのなら、また塔に上がってみたいですけれど。
    パリにはもう一度でも良いですから、行ってみたいですね。

    コメントをありがとうございました。

    mistral

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