「唐招提寺」からあるいても10分もかからない「薬師寺」の拝観です。一方通行の道を直進すると「薬師寺」の「與樂門」があり、そ...
続きを読むの先左手に「北拝観受付」がありますので、そこでチケットを買い求め境内に入ります。今回は、時間の都合上、「金堂」、「大講堂」、「東院堂」、「東塔」、「西塔」の地域を拝観しました。
では、最初に「薬師寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「薬師寺」は、今からおよそ1300年前の白鳳時代の天武天皇9年(680年)に、「天武天皇」が後の「持統天皇」である皇后の「鵜野讃良皇女」の病気平癒を祈って発願されました。しかし、「天武天皇」は「薬師寺」の完成を待たずに崩御され、「持統天皇」が即位してから藤原京に造営しました。その後「平城遷都」に伴い、養老2年(718年)に平城京右京六條二坊の現在地に移されました。当時の「薬師寺」は、天平時代までは天下の「四大寺」の一つとされ、中央に「本尊」、「薬師三尊像」をまつる「金堂」、東西に2基の塔を配する日本初の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と呼ばれていました。その大きな特徴は、「金堂」、「東西両塔」、「大講堂」など主要なお堂は裳階がつけられ、 その壮麗な姿は「龍宮造り」と呼ばれていました。しかしその華麗な堂塔は数次の火災にあって次々と焼失し、特に、享禄元年(1528年)の兵火は激しく、「金堂」、「西塔」、「大講堂」などが焼失しました。そのなかで唯一創建当時から現存する建造物は「東塔」(国宝)のみとなりました。その後、昭和43年(1968年)に、管主だった「高田好胤和上」の長年の「お写経勧進」により、昭和51年(1976年)に「金堂」が、昭和56年(1981年)には「西塔」が、その後「中門」、「回廊」、「玄奘三蔵院伽藍」などが復原造営され、平成15年(2003年)には「大講堂」が完成しました。平成29年(2017年)には「食堂」(じきどう)も再建され、創建当時の壮麗な白鳳伽藍が鮮やかに復興されました。ちなみに、「お写経勧進」とは、一巻千円(当時)のご納経料をいただき、百万巻のお写経を勧進して「金堂」の復興を目指したものです。
《「薬師寺」お薦め拝観順路》
①「不動堂」⇒②「東僧坊」⇒③「食堂」⇒④「大講堂」⇒⑤「金堂」⇒⑥「東塔」⇒⑦「西塔」⇒
⑧「中門」⇒⑨「薬師寺末社:平木大明神社」⇒⑩「薬師寺末社:弁財天社」⇒⑪「薬師寺末社:若宮社」⇒
⑫「薬師寺末社:龍王社」⇒⑬「東院堂」
《不動堂》
「北拝観受付」入ると正面に「食堂」、右手奥に「不動堂」があります。「薬師寺」の「不動堂」は白鳳伽藍北西端に建立されています。「不動堂」には本尊である「不動明王」(平安時代作)、「修験道」の祖とされる「役行者」、「神変大菩薩」、山嶽仏教である修験道の本尊である「蔵王権現」などを祀っています。「不動堂」では毎月8日・18日・28日に「南都修験道薬師寺修験咒師本部」の僧侶が護摩祈願、先祖供養を行っています。3月25日の花会式、10月8日の天武忌では柴燈大護摩、火渉三昧も行われます。また、「不動堂」前には新旧の「石造不動明王像」も建立されていました。
《東僧坊》
次が、「東僧坊」です。「東僧坊」は、「大講堂」の北東に位置しています。新しい建物で、現在は参拝者の休憩所となっています。「薬師寺」のお土産もここで販売しています。「東僧坊」で有名なのは、国宝「薬師三尊像」の「薬師如来」が座っておられる「台座」の文様のレプリカが見られることです。台座には、異国風の人物像、青龍、白虎、朱雀、玄武などの四神が描かれていました。また、ここには、肉眼では見難い東塔の最上部に付けられた飛天の透かし彫のある水煙の模型もありました。見逃しがちですので是非立ち寄ってください。
《食堂》
「東僧坊」の出口を出ると目の前に白鳳伽藍がその全貌を現します。「東僧坊」を出て右手に進むと「食堂」があります。「食堂」は、天平2年(730年)頃に建てられ、文字通り僧侶が定められた時間に食事をとるための建物です。創建当初の「食堂」の規模は「東大寺」、「大安寺」に次ぐ大きさで約300人が一堂に会する規模だったそうです。しかし、その後、天禄4年(973年)に焼失し、寛弘2年(1005年)に再建されるものの再び失われました。そして、平成29年(2017年)に三度目の再建がなされました。完成した「食堂」は、高さ約14m、東西約41m、南北約16mの規模があります。「食堂」内には、故「平山郁夫」画伯の弟子である「田渕俊夫」画伯が描いた高さ、幅6mの御本尊「阿弥陀三尊浄土図」を中心に、周囲を取り巻くように全長50mにわたる美しい14面の壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が内壁全体に描かれています。「仏教伝来の道と薬師寺」は、中国からの仏教伝来が表現され、遣唐使船や藤原京、平城京などが描かれている。
《大講堂》
「食堂」の前方には、「薬師寺」最大の建物である「大講堂」があります。奈良時代の寺院では修学道場である「講堂」が建てられ、僧侶は集まって仏教の教義について学びました。「薬師寺」では、その大きさから「大講堂」と呼ばれています。「大講堂」は正面が41m、奥行が20m、高さが約17mあり伽藍最大の建造物です。「大講堂」が「金堂」より大きいのは古代伽藍の通則だということです。「大講堂」は享禄元年(1528年)の兵火によって焼失し、御本尊の「阿弥陀三尊繍仏」も失われてしまいました。 焼失した「大講堂」は、嘉永5年(1852年)に復興しましたが、もとの「大講堂」に比べると小さなお堂でした。平成15年(2003年)に創建当初の規模で「大講堂」は再建されました。現在は、重要文化財である「弥勒三尊像」が御本尊として祀られています。「弥勒三尊像」は、中央に「弥勒如来」、向かって右に「法苑林菩薩」、左に「大妙相菩薩」を従える三尊形式となっています。そして、「大講堂」は、薬師寺の宗派である法相宗の教え「唯識」を学ぶ場所です。そのことから「唯識」の教主である「弥勒如来」が「大講堂」の御本尊です。また、天平勝宝5年(753年)に刻まれたことがわかる日本最古の国宝「仏足石」とその徳と生死を歌った21首(1首は38文字)の国宝「仏足跡歌碑」もあります。ちなみに、「仏足石」は、「お釈迦様」の足跡を彫った石です。現在、寺院では仏像を祀ることは当たり前ですが、「お釈迦様」の滅後から紀元100年頃までは「お釈迦様」の仏像が作られることはありませんでした。仏像のかわりに、菩提樹や法輪、など「お釈迦様」にまつわるモチーフを描いて「お釈迦様」を表現しました。特によく描かれたのが「お釈迦様」の足跡を描いた「仏足跡」です。また、「仏足跡歌碑」は、奈良時代に彫られた歌碑で、「仏足跡」への賛歌や仏教道歌が21首刻まれています。「仏足跡歌」は「五七五七七七」の一首38文字の仏足跡歌体で詠まれています。その他、「大講堂」には、文化勲章受章者の「中村晋也」の作の「阿僧伽菩薩像」、「伐蘇畔度菩薩像」、「釈迦十大弟子」なども安置されています。
《金堂》
「大講堂」を出ると目の前に「金堂」があります。「金堂」は、「薬師寺」の「白鳳伽藍」の中心部に東西の塔や大講堂などに囲まれる形でそびえ立つ大規模な仏堂です。大きさこそ「大講堂」には及びませんが、正面の長さが約27m、奥行が約16m、高さは約20mというスケールで「金堂」という名にふさわしい佇まいになっています。「金堂」が建立された歴史は古く、奈良時代に「薬師寺」が創建された時代からあったものだといわれています。その建築様式は、二重二閣、五面四間、瓦葺、そして美しい「裳階」を設け、美麗なその美しい佇まいは「竜宮造り」と呼ばれていました。「金堂」は、室町時代に大風で破損し修理を重ねましたが、享禄元年(1528年)の兵火により焼失してしまいました。 その後、郡山城主「増田長盛」により「仮金堂」が建てられたものの、当初の二層の「金堂」を復興することはできませんでした。昭和43年(1968年)から始まった「百万巻お写経勧進による薬師寺金堂復興」により、「仮金堂」は解体され、昭和51年(1976年)に現在の「金堂」が再建されました。堂内には白鳳期の様式をもつ御本尊の国宝「薬師三尊像」が安置されています。中心の「薬師如来坐像」は、像高が2.5mほどあり、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国の文様を刻んだ国宝の「薬師如来台座」のうえに、威厳に満ちた表情、堂々とした姿で座しています。そして、首や腰をひねって異なる表現を生み出す「三曲法」と言われる姿勢を取る左脇侍(向かって右側)には、像高2.5mほどの「日光菩薩立像」が、そして、右脇侍(向かって左側)には、像高3ほどmの「月光菩薩立像」が安置されています。「薬師如来坐像」が、男性的で重厚感があるのに比べ、「日光菩薩立像」と「月光菩薩立像」は、艶やかさを感じます。そして、上層には、お写経が納められた「納経蔵」があります。その他、国宝である天平時代の「吉祥天女画像」もあります。「吉祥天女」は、仏教を守護し、五穀や財宝などを与えて私たちに幸福をもたらす美しい女神です。「薬師寺」に伝わる「吉祥天女画像」は、「薬師寺」の「修正会」の御本尊として描かれた最古の画像で、また麻布に彩色を施した独立の画像としても日本最古のお姿です。現在は、お正月三ヶ日のみの参拝となっています。
《東塔》
「金堂」の次は、右手にそびえ立つ「東塔」です。その前に「東塔」と「西塔」を「金堂」の正面から見た時、若干の違和感を覚えました。何となく高さが違うように見えるのです。新しい「西塔」の方が少し高く感じました。それもそのはず、「西塔」の方が140cmも高く造られているそうです。それは何故かというと、新しい「西塔」は、これから木が縮み、風に吹かれて少しずつ低くなり、200年ぐらいたてば、「東塔」と同じ高さになると計算されて建てられたからなのだそうです。「東塔」に戻りますが、「東塔は」、天平2年(730年)の奈良時代前期に建てられたといわれています。「薬師寺」の1300年の歴史のなかで唯一現存する奈良時代そして平城京最古の建造物です。「東塔」には屋根が6つあり一見すると六重に見えますが「三重塔」で、各階に「裳階」をつけ、大小の屋根のリズム感をつくっています。1、3、5番目の小さな屋根は「裳階」と呼ばれる飾り屋根で、各層に「裳階」がつけられた塔は「薬師寺」だけで、屋根の大小がおりなすバランスはとても美しく、「凍れる音楽」と称されているそうです。また天に伸びる約10メートルの相輪部は、全体の高さの3分の1の大きさがあり、その先の水煙部には、24体の飛天が透かしぼりされています。先ほども説明しましたが、この水煙部の模型が「東僧坊」に展示されています。「東塔」はこれまでに何度も部分的な修理が行われてきましたが、平成21年(2009年)より史上初の全面解体修理に着手し、令和3年(2021年)2月15日に完成しました。「東塔」の内陣には、文化勲章受章者の「中村晋也」作による「釈迦八相像」のうち「因相の四相」が祀られています。ちなみに、「釈迦八相」とは、「お釈迦様」のご生涯の中でとても重要な八つの場面をいいます。「東塔」には、「お釈迦様」が釈迦国の王子として生まれながらも、出家し悟りに至る前半生が表現されています。
《西塔》
「東塔」の次は、対をなす反対側にある「西塔」です。「西塔」は、室町時代後期の享禄の兵火(1528年)により焼失し、宮大工「西岡常一」棟梁の指導により、昭和56年(1981年)に再建されたものです。「東塔」が落ち着いたたたずまいに対して、「西塔」は、創建当初とおなじく鮮やかな青丹の色と金色の飾り金具に彩られ、眩いばかりです。また、「東塔」は「裳階」の部分が白壁なのに、「西塔」には連子格子を取付けた「連子窓」が設けられています。そして、「西塔」の内陣には、「中村晋也」作による釈迦八相像のうち残りの果相の四相が安置されています。そして、「西塔」の前面にある芝生の庭には、「佐佐木信綱歌碑」と「会津八一歌碑」もありました。「佐佐木信綱歌碑」には、「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」と刻まれていました。「佐佐木信綱歌碑」は、昭和30年(1955年)に建立されたものです。「佐佐木信綱」は、国文学者で明治5年(1872年) 6月3日に三重県鈴鹿市石薬師町で生まれた。明治17年(1884年)に「東京大学文学部古典科」に12歳で入学し、明治21年(1888年)16歳で卒業したそうです。今では考えられないことですね。「会津八一歌碑」には、「すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな」と刻まれています。
《中門》
「西塔」を出て右方向に進むと、「西回廊」と「東回廊」のある「中門」があります。「薬師寺」の「中門」は、「薬師寺白鳳伽藍」の南端に設けられた門で、「薬師寺」の境内では最大級の門です。現在の「中門」は、昭和59年(1984年) 10月に再建されたもので、門の両側に「回廊」が延びています。平成3年(1991年)には「二天王像」も復元されました。「二天王像」は、享禄元年(1528年)の兵火により「中門」とともに焼失し、その後400年の間造立されませんでしたが、平成3年(1991年)に復元復興された像です。昭和59年(1984年)に「中門」が復興され、それに伴う発掘調査により裸形の「仁王像」ではなく武装した「二天王像」ということが判明したそうです。「薬師寺」の「二天王像」も、怒りの表情を顕わにした開口の「阿形像」と、怒りを内に秘めた表情の口を結んだ「吽形像」です。「二天王像」の足元に注目してください。ここで見逃してはならないのが、「二天王像」に踏みつけられている邪鬼がいます。そして、「中門」の建築様式は、「東大寺転害門」などでも見られる三角形の棟が三つ設けられた「三棟造」と呼ばれるものとなっており、重厚感を感じさせるものにもなっています。
《薬師寺末社》
「中門」をくぐると正面に「南門」そして、右手に「南門拝観受付」と「薬師寺」の末社である「平木大明神社」、「弁財天社」、「若宮社」の三社があります。また、反対側に位置する「東院堂」の前には「龍王社」があります。「若宮社」と「龍王社」は、「大津皇子」の鎮魂の為に建立されたといわれています。「若宮社」は「大津皇子」を御祭神として祀り、「龍王社」は室町時代に造られたとされる「大津皇子坐像」を安置しています。
《東院堂》
再び「中門」をくぐり、右手にある「東塔」方向に進むと突き当りに「東院堂」があります。「東院堂」は、「長屋王」の正妃である「吉備内親王」が母の「元明天皇」の冥福のために、養老年間(717年~724年)に建立しました。現在の建物は弘安8年(1285年)に正面7間、側面4間の入母屋造本瓦葺で、内部は畳敷きで、南向きで再建されましたが、享保18年(1733年)に西向きに変えられました。仏教が日本に伝来した当時は、門は南にあり、建物も南向きでしたが、平安時代以降の阿弥陀仏信仰により、西向きに建てられることが多くなったそうです。御本尊は、白鳳時代に制作された国宝の「聖観世音菩薩像」です。「聖観世音菩薩像」は、右手を静かに下げ、左手は柔らかく挙げ、胸を張り、足を揃えて立つ姿で、どことなく気品にあふれています。その他、鎌倉時代に制作された重要文化財である「四天王立像」などがあります。ちなみに、「四天王」とは、古代インドの神が仏教に守護神として取り入れられたものです。東に「持国天」、南に「増長天」、西に「広目天」、北に「多聞天」が配されます。
次は、近鉄橿原線「西ノ京駅」から「大和西大寺」へ行き、近鉄奈良線に乗り換え「近鉄奈良駅」で下車して、今回の旅行の最後の古都奈良の世界遺産である「元興寺」へ向かいます。途中の奈良町にある「豆腐庵こんどう」で昼食を食べる予定です。
01_【一口メモ】
⑴ 所在地…〒630-8563 奈良市西ノ京町457 電話:0742-33-6001
⑵ 休業日…なし
⑶ 拝観料
① 拝観可能場所…金堂、大講堂、東院堂 大人800円・中高生500円・小学生・200円
② 拝観可能場所…金堂、大講堂、東院堂、玄奘三蔵院伽藍、西塔初層東面開扉
※ お正月(1/1~1/8)、春期(3/1~6/30)、GW(4/29~5/8)、お盆(8/13~8/15)、秋期(9/16~11/30)の期間
大人1,100円・中高生700円・小学生300円
③ 共通拝観券
ア 拝観可能場所…金堂、大講堂、東院堂、玄奘三蔵院伽藍、西塔初層東面開扉(春・秋のみ)、東塔初層開扉(GW期間のみ)、食堂、西僧坊
イ 対象期間:お正月(1/1~1/8)、春期(3/1~6/30)、GW(4/29~5/8)、お盆(8/13~8/15)、秋期(9/16~11/30)
ウ 料金…大人1,600円・中高生1,200円・小学生300円(※大人同伴)
02_【「薬師寺」へのアクセス】
⑴ 電車を利用して
近鉄橿原線「西ノ京駅」から徒歩2分160m
⑵ バスを利用して
① [JR奈良駅)] ⇒[奈良県総合医療センター行]≪奈良交通:63・64・65・72・77・78系統≫
・バス乗り場:「JR奈良駅(東口)」(6番のりば)・「近鉄奈良駅(5番出口)」(8番のりば:駅前交番前)
・ア 「JR奈良駅」から11停留所目(「唐招提寺」の次の停留所) 所要時間約18分
・イ 「近鉄奈良駅」から13停留所目(「唐招提寺」の次の停留所) 所要時間約26分
・9時から15時の間に1時間平均2~3便:[JR奈良駅)]毎時 28分、58分発
:[近鉄奈良駅)]毎時 23分、53分発
・「薬師寺」停留所下車し徒歩2分150m
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投稿日:2023/12/09