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ポーランドの「領土」と「政権」(戦後史、ポーランド)<br /> ヤルタ会談で最も時間がかけられた、戦後ポーランドの「領土」、「政権」をめぐる問題を整理しておきたい。<br /><br />(このページを訪問してくださった方へ)<br /> ご訪問有難うございます。 もし読者の方が根本的間違い、編集の際に発生したと思われる不整合、文法上の誤りなどを発見されたり、何か目新しい情報をお持ちの方、ご意見がおありの場合は、ご遠慮なく掲示板でもメールでも、ご一報くだされば幸いです。<br /><br /> 心からの感謝を込めて                          砂布巾<br /><br />*2023年の「砂布巾のLWほぼ完結の旅」で多くの写真を追加し、再下流部近くから最上流部までの写真が含まれています<br />*表紙写真<br /> 灰色は戦前のポーランド領<br />   オレンジ色は戦後のポーランド領<br /> 国土全体が西方移動している<br /><br /> オレンジ色のみの部分が戦後ドイツが<br />     「代償」として失った領土<br /> 地図の左端がオーデル・ナイセ線

ポーランドの「領土」と「政権」(砂布巾のLW 終章2)*戦後のドイツ人追放と教科書共同研究

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2024/08/23 - 2025/07/07

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砂布巾

砂布巾さん

ポーランドの「領土」と「政権」(戦後史、ポーランド)
 ヤルタ会談で最も時間がかけられた、戦後ポーランドの「領土」、「政権」をめぐる問題を整理しておきたい。

(このページを訪問してくださった方へ)
 ご訪問有難うございます。 もし読者の方が根本的間違い、編集の際に発生したと思われる不整合、文法上の誤りなどを発見されたり、何か目新しい情報をお持ちの方、ご意見がおありの場合は、ご遠慮なく掲示板でもメールでも、ご一報くだされば幸いです。

 心からの感謝を込めて                          砂布巾

*2023年の「砂布巾のLWほぼ完結の旅」で多くの写真を追加し、再下流部近くから最上流部までの写真が含まれています
*表紙写真
 灰色は戦前のポーランド領
オレンジ色は戦後のポーランド領
 国土全体が西方移動している

 オレンジ色のみの部分が戦後ドイツが
「代償」として失った領土
 地図の左端がオーデル・ナイセ線

  •  ヴェルサイユ条約の「民族自決の原則」でポーランドが123年振りに独立を回復した際、ソ連との国境線はその民族分布に基づき、イギリス外相カーゾンが提唱した線(カーゾン線)となった。1920年干渉戦争の一環としてソヴィエト・ポーランド戦争が勃発し、ポーランドが勝利すると、リガ講和条約によってヴィルノ(現リトアニア、ヴィリニュス)、ルヴフ(現ウクライナ)を含む広大な領土を獲得した(リガ線)。ポーランドから見れば第3次ポーランド分割(1795)による失地を回復した歴史的意味があったが、反面その地域の人口1,300万人の内、ポーランド人は500万人に過ぎなかった。 <br />*地図はポーランド戦終結後のもの グリーン系がドイツ占領地、グレー系がソ連占領地 独ソの勢力範囲の境界線がカーゾン線 ドイツ占領地のバルト海に面している部分がグダニスク(ダンッイヒ) 隣の囲みはドイツ領東プロイセン

     ヴェルサイユ条約の「民族自決の原則」でポーランドが123年振りに独立を回復した際、ソ連との国境線はその民族分布に基づき、イギリス外相カーゾンが提唱した線(カーゾン線)となった。1920年干渉戦争の一環としてソヴィエト・ポーランド戦争が勃発し、ポーランドが勝利すると、リガ講和条約によってヴィルノ(現リトアニア、ヴィリニュス)、ルヴフ(現ウクライナ)を含む広大な領土を獲得した(リガ線)。ポーランドから見れば第3次ポーランド分割(1795)による失地を回復した歴史的意味があったが、反面その地域の人口1,300万人の内、ポーランド人は500万人に過ぎなかった。 
    *地図はポーランド戦終結後のもの グリーン系がドイツ占領地、グレー系がソ連占領地 独ソの勢力範囲の境界線がカーゾン線 ドイツ占領地のバルト海に面している部分がグダニスク(ダンッイヒ) 隣の囲みはドイツ領東プロイセン

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  • *独ソ両軍の支配地域を確定させるため、ブレストで協議した

    *独ソ両軍の支配地域を確定させるため、ブレストで協議した

  •  「開戦」の項目で述べていたように、ポーランドがドイツに降伏すると、独ソ両国に分割占領(今度はソ連が1920年の失地をほぼ回復した)され、政府はロンドンに逃れた。<br /> 独ソ戦開始半年後の1941年12月、圧倒的にドイツ軍優勢の状況下、亡命政府首相シコルスキがモスクワを訪問し、スターリンと会談した。席上スターリンは、リガ線からの僅かな修正とポーランドがドイツの東部領土を併合することを提案した。一方直後に訪ソしたイギリス外相イーデンに対しては、両国国境はカーゾン線を基本とすることを求めた。スターリンのスタンスで共通しているのは、ソ連の東部ポーランド併合の「代償」として、ポーランドに東プロイセン、ダンツィヒの併合とオーデル川までの西方拡大を認める考え方が姿を現していることだ。<br /> 現実主義者でもあったシコルスキは、「代償方式」の検討を排除するものではなかったが、伝統的に反ソ感情が存在する国内、亡命政府への説得は困難を極めた。米英両国は同盟国ソ連の協力が不可欠なため、1943年3月の時点で「代償方式」の原則受諾を決定していた。前述したように、4月にソ連は亡命政府と国交を断絶し、7月にはシコルスキが飛行機事故で亡くなった。後任の首相には彼の考えに近かったミコワイチクが就任した。 *グダニスクにあるシコルスキの銅像

     「開戦」の項目で述べていたように、ポーランドがドイツに降伏すると、独ソ両国に分割占領(今度はソ連が1920年の失地をほぼ回復した)され、政府はロンドンに逃れた。
     独ソ戦開始半年後の1941年12月、圧倒的にドイツ軍優勢の状況下、亡命政府首相シコルスキがモスクワを訪問し、スターリンと会談した。席上スターリンは、リガ線からの僅かな修正とポーランドがドイツの東部領土を併合することを提案した。一方直後に訪ソしたイギリス外相イーデンに対しては、両国国境はカーゾン線を基本とすることを求めた。スターリンのスタンスで共通しているのは、ソ連の東部ポーランド併合の「代償」として、ポーランドに東プロイセン、ダンツィヒの併合とオーデル川までの西方拡大を認める考え方が姿を現していることだ。
     現実主義者でもあったシコルスキは、「代償方式」の検討を排除するものではなかったが、伝統的に反ソ感情が存在する国内、亡命政府への説得は困難を極めた。米英両国は同盟国ソ連の協力が不可欠なため、1943年3月の時点で「代償方式」の原則受諾を決定していた。前述したように、4月にソ連は亡命政府と国交を断絶し、7月にはシコルスキが飛行機事故で亡くなった。後任の首相には彼の考えに近かったミコワイチクが就任した。 *グダニスクにあるシコルスキの銅像

  • *ロンドンの亡命政府の指導でポーランド国内に様々な地下組織が作られた

    *ロンドンの亡命政府の指導でポーランド国内に様々な地下組織が作られた

  •  その後も再三協議されるが、当事国を除く三大国間で事実上決着したのが、1943年11月~12月のテヘラン会談だった。東部国境に関してイギリスは事前の方針と異なり、ルヴフをソ連側に含めるカーゾン線とした。代償としてドイツとの西部国境はオーデル川とナイセ川を結ぶ線(オーデル・ナイセ線)まで拡大することに決まった。

     その後も再三協議されるが、当事国を除く三大国間で事実上決着したのが、1943年11月~12月のテヘラン会談だった。東部国境に関してイギリスは事前の方針と異なり、ルヴフをソ連側に含めるカーゾン線とした。代償としてドイツとの西部国境はオーデル川とナイセ川を結ぶ線(オーデル・ナイセ線)まで拡大することに決まった。

  •  事前の方針の中心は、「領土」での譲歩(=「代償方式」の受諾)と引き換えに、「政権」の確保をはかることだった。スターリンは亡命政府に強硬な態度を示し、政府の本国復帰に保障を与えなかった。ヤルタ会談でアメリカが再度ルヴフをポーランドに帰属させるべく訴えたが、スターリンはこれを拒んだ。<br /> 難航した政権問題では、ルブリンの臨時政府を基礎にしたいソ連と、すべての民主勢力を含む新政府を樹立したい英米が鋭く対立した。英米は途中から構成メンバーに条件を課す方法から、自由選挙の実施によって真に代表的な政権を確保する方法に戦略を変更し、「ポーランドで現在機能している臨時政府は、ポーランド本国および在外のポーランド人の民主的指導者をふくめて、より幅広い民主的基盤の上に再編成されるべきである。この新政府はその時、ポーランド国民統一政府と呼ばれることになろう」の文章が採択された。<br /> *わかりにくい地図だが、右のピンク系の部分がオーデル・ナイセ以東の地(ドイツが失った領土)

     事前の方針の中心は、「領土」での譲歩(=「代償方式」の受諾)と引き換えに、「政権」の確保をはかることだった。スターリンは亡命政府に強硬な態度を示し、政府の本国復帰に保障を与えなかった。ヤルタ会談でアメリカが再度ルヴフをポーランドに帰属させるべく訴えたが、スターリンはこれを拒んだ。
     難航した政権問題では、ルブリンの臨時政府を基礎にしたいソ連と、すべての民主勢力を含む新政府を樹立したい英米が鋭く対立した。英米は途中から構成メンバーに条件を課す方法から、自由選挙の実施によって真に代表的な政権を確保する方法に戦略を変更し、「ポーランドで現在機能している臨時政府は、ポーランド本国および在外のポーランド人の民主的指導者をふくめて、より幅広い民主的基盤の上に再編成されるべきである。この新政府はその時、ポーランド国民統一政府と呼ばれることになろう」の文章が採択された。
     *わかりにくい地図だが、右のピンク系の部分がオーデル・ナイセ以東の地(ドイツが失った領土)

  •  しかしロンドンから帰国した亡命政府メンバーは逮捕され、スターリンが1ヶ月以内と約束した「自由」とは名ばかりの選挙は23ヶ月後となった。このようにしてポーランド労働者党が「合法的に」政権を獲得した。<br /> カーゾン線の受諾を条件に「政権はポーランドの内政事項とする」と言明していたスターリンが「政権」を取りに行った背景として、亡命政府が頑なにカーゾン線に抵抗する中、「政権」の確保なしに「領土」の獲得が不可能であると認識したことが挙げられる。<br /> スターリンが自国の勢力圏に組み込んだ東ドイツとソ連との間にあるポーランドの「政権」を断念するとは思えないし、「領土」を諦めるとも思えない。その意味で最後の結論部分には個人的には賛同しかねる。<br /> 戦後のポーランド国境、ミュンヘン会談など大国が当事国の頭越しで決める「国境」って一体何だろう、と考えてしまう。日本人には心情を理解するのは難しいかもしれない。<br /> この項目の参考文献広瀬佳一著「ポーランドをめぐる政治力学」(勁草書房)には、ヤルタ会談を含む国境をめぐる交渉過程の詳細、シコルスキの先見の明、ソ連・ポーランド国内における共産主義者の活動、ワルシャワ蜂起の与えたインパクトが描かれている。

     しかしロンドンから帰国した亡命政府メンバーは逮捕され、スターリンが1ヶ月以内と約束した「自由」とは名ばかりの選挙は23ヶ月後となった。このようにしてポーランド労働者党が「合法的に」政権を獲得した。
     カーゾン線の受諾を条件に「政権はポーランドの内政事項とする」と言明していたスターリンが「政権」を取りに行った背景として、亡命政府が頑なにカーゾン線に抵抗する中、「政権」の確保なしに「領土」の獲得が不可能であると認識したことが挙げられる。
     スターリンが自国の勢力圏に組み込んだ東ドイツとソ連との間にあるポーランドの「政権」を断念するとは思えないし、「領土」を諦めるとも思えない。その意味で最後の結論部分には個人的には賛同しかねる。
     戦後のポーランド国境、ミュンヘン会談など大国が当事国の頭越しで決める「国境」って一体何だろう、と考えてしまう。日本人には心情を理解するのは難しいかもしれない。
     この項目の参考文献広瀬佳一著「ポーランドをめぐる政治力学」(勁草書房)には、ヤルタ会談を含む国境をめぐる交渉過程の詳細、シコルスキの先見の明、ソ連・ポーランド国内における共産主義者の活動、ワルシャワ蜂起の与えたインパクトが描かれている。

  • 戦後のドイツ人追放と教科書共同研究(戦後史、ドイツ)<br /> 旧ドイツ領に住んでいた人々の運命に関する記事を主にAERA 1989年9月26日号「欧州からの報告 『いま世界史が変わる』2 それでも復讐はしまい」から紹介する。<br /> 戦争が終結に近づくとオーデル・ナイセ線以東の新ポーランド領からドイツ人の大量追放、虐殺が始まった。900万人のうち120万人が殺された。彼らはナチスへの復讐の矢面に立たされ、反ナチスであろうが老人、子どもであろうが標的になった。記憶を克明に記録していたが、被害者としての立場を強調すれば、「歴史を書き換えようとしている」と非難されかねなかった。<br /> 虐殺や追放を乗り切り、ポーランドには数10万人から100万とも言われるドイツ系住民が住んでいる。戦後誕生した共産政府からは、旧領土回復要求を警戒して、少数民族としての存在を否定された。最近、ポーランドでドイツ系少数民族の存在を示唆する論文が発表された。少数民族の存在を認め、保護政策が行われるようになれば、ヒトラー憎悪の遺産で和解不能と思われたドイツ・ポーランド関係も好転するかも知れない。

    戦後のドイツ人追放と教科書共同研究(戦後史、ドイツ)
     旧ドイツ領に住んでいた人々の運命に関する記事を主にAERA 1989年9月26日号「欧州からの報告 『いま世界史が変わる』2 それでも復讐はしまい」から紹介する。
     戦争が終結に近づくとオーデル・ナイセ線以東の新ポーランド領からドイツ人の大量追放、虐殺が始まった。900万人のうち120万人が殺された。彼らはナチスへの復讐の矢面に立たされ、反ナチスであろうが老人、子どもであろうが標的になった。記憶を克明に記録していたが、被害者としての立場を強調すれば、「歴史を書き換えようとしている」と非難されかねなかった。
     虐殺や追放を乗り切り、ポーランドには数10万人から100万とも言われるドイツ系住民が住んでいる。戦後誕生した共産政府からは、旧領土回復要求を警戒して、少数民族としての存在を否定された。最近、ポーランドでドイツ系少数民族の存在を示唆する論文が発表された。少数民族の存在を認め、保護政策が行われるようになれば、ヒトラー憎悪の遺産で和解不能と思われたドイツ・ポーランド関係も好転するかも知れない。

  • *1990年 ポーランドの駅で佇んでいたら見かねた人が国境まで車で乗せてくださった こちらはドイツ側から撮影

    *1990年 ポーランドの駅で佇んでいたら見かねた人が国境まで車で乗せてくださった こちらはドイツ側から撮影

  • *2023年初めて鉄道で独ポ国境を越える オーデル川に到達するのが予想外に早く、車内から写真が撮れなかった 残念! 写真はフランクフルト・オーデルの駅に到着したところ

    *2023年初めて鉄道で独ポ国境を越える オーデル川に到達するのが予想外に早く、車内から写真が撮れなかった 残念! 写真はフランクフルト・オーデルの駅に到着したところ

  •  1990年のドイツ統一に際して最大の懸案が、統一ドイツが所属する軍事同盟の問題(NATOか中立か二重加盟か)とオーデル・ナイセ線の最終確定問題だった。AERA 1990年5月22日号「川は知っている~オーデル・ナイセ 民族分断の悲哀と現実」では、領土回復要求を警戒してポーランド国内で反独意識が高まっている様子、一方両岸で行われている国境を克服しようする試みも紹介されている。<br />*橋を渡ってすぐのポーランドの町

     1990年のドイツ統一に際して最大の懸案が、統一ドイツが所属する軍事同盟の問題(NATOか中立か二重加盟か)とオーデル・ナイセ線の最終確定問題だった。AERA 1990年5月22日号「川は知っている~オーデル・ナイセ 民族分断の悲哀と現実」では、領土回復要求を警戒してポーランド国内で反独意識が高まっている様子、一方両岸で行われている国境を克服しようする試みも紹介されている。
    *橋を渡ってすぐのポーランドの町

  •  2003年10月読売新聞「世界鉄道事情」からナイセ谷鉄道(2023年9月28日乗車)の運命に関する記事をヒレルさんの証言を中心に紹介する。<br /> 「住民全員が広場に集められ、1時間以内に荷物をまとめて村を出て行くように言われた。具体的な行き先を告げられず、ただ、川の向こう側に移れ、と」。<br /> *ドイツ語の地名

     2003年10月読売新聞「世界鉄道事情」からナイセ谷鉄道(2023年9月28日乗車)の運命に関する記事をヒレルさんの証言を中心に紹介する。
     「住民全員が広場に集められ、1時間以内に荷物をまとめて村を出て行くように言われた。具体的な行き先を告げられず、ただ、川の向こう側に移れ、と」。
     *ドイツ語の地名

  •  新たな国境はゲーリッツとツィッタウを結ぶ鉄道の運命も変えた。蛇行するナイセ川に沿って走る同線の列車は、鉄橋を渡るごとに国境を越えるハメになったからだ。ドイツ側区間だけの折り返し運行といった混乱期を経て、1948年末から全線運行が再開されたが、両民族の敵対感情はまだ強く、「列車がポーランド領に入ると、外から鍵がかけられ、窓も日よけのカーテンを下ろすよう命じられた」。

     新たな国境はゲーリッツとツィッタウを結ぶ鉄道の運命も変えた。蛇行するナイセ川に沿って走る同線の列車は、鉄橋を渡るごとに国境を越えるハメになったからだ。ドイツ側区間だけの折り返し運行といった混乱期を経て、1948年末から全線運行が再開されたが、両民族の敵対感情はまだ強く、「列車がポーランド領に入ると、外から鍵がかけられ、窓も日よけのカーテンを下ろすよう命じられた」。

  • そしてオストリッツ市民は街の中心から5分の駅へ行くのに、身分証明書かパスポートを携帯しなければならなくなった。駅は川の東岸にあったからである。<br />  *駅名が完全にポーランド語 ポーランドだから当然

    そしてオストリッツ市民は街の中心から5分の駅へ行くのに、身分証明書かパスポートを携帯しなければならなくなった。駅は川の東岸にあったからである。
      *駅名が完全にポーランド語 ポーランドだから当然

  •  2つのAERAの記事は国際情勢が激動した1980年後半、会社員だった砂布巾に国際情勢、歴史への興味を一層かき立て、直後に迫っていた大旅行(1990年6月18日~10月4日)の参考にもなった。

     2つのAERAの記事は国際情勢が激動した1980年後半、会社員だった砂布巾に国際情勢、歴史への興味を一層かき立て、直後に迫っていた大旅行(1990年6月18日~10月4日)の参考にもなった。

  • *Hagenwerder(ドイツ語)

    *Hagenwerder(ドイツ語)

  •  *こちらが列車のチケット 不思議なことにツィッタウ、ゲーリッツといったような行き先などが書かれていない なのに車掌さんは一目見て分かった 砂布巾には全く謎なチケットだった そして1本前の8:13に間に合う時間だったから、思い切って乗っても良かったかも(列車の時刻を記載した補足用紙のようなものを渡され、前述のような理由で最初はそちらがチケットかと思ったので、躊躇した) 値段は¥7,412 ポーランドの国内線に比べると割高

     *こちらが列車のチケット 不思議なことにツィッタウ、ゲーリッツといったような行き先などが書かれていない なのに車掌さんは一目見て分かった 砂布巾には全く謎なチケットだった そして1本前の8:13に間に合う時間だったから、思い切って乗っても良かったかも(列車の時刻を記載した補足用紙のようなものを渡され、前述のような理由で最初はそちらがチケットかと思ったので、躊躇した) 値段は¥7,412 ポーランドの国内線に比べると割高

  •  旅行ではチャーチルの「鉄のカーテン演説」でも知られるポーランドのシュチェチン<br />*理由は不明だが、最下流部は両岸がポーランド領となっている(2023年撮影)

     旅行ではチャーチルの「鉄のカーテン演説」でも知られるポーランドのシュチェチン
    *理由は不明だが、最下流部は両岸がポーランド領となっている(2023年撮影)

  • *シュチェチンから乗った列車でオーデル川を渡る(2023年撮影)

    *シュチェチンから乗った列車でオーデル川を渡る(2023年撮影)

  • 1999年には記事に紹介されていたグーベン(ドイツ側)、グービン(ポーランド側)とフランクフルトを再訪した。<br />*グーベンの国境、向こう側がポーランド領グービン

    1999年には記事に紹介されていたグーベン(ドイツ側)、グービン(ポーランド側)とフランクフルトを再訪した。
    *グーベンの国境、向こう側がポーランド領グービン

  • グーベンでナイセ川を発見して走り寄ったら、警察官に呼び止められ職務質問を受け、無線で不審人物でないか確認をしていた。パスポートを見て「アツ、ヤーパン」と言うと余計に物腰が低くなるなど、対応は穏やかではあったが…<br /> *ポーランド側から撮影 尋問を受けたのはちょうど対岸あたり

    グーベンでナイセ川を発見して走り寄ったら、警察官に呼び止められ職務質問を受け、無線で不審人物でないか確認をしていた。パスポートを見て「アツ、ヤーパン」と言うと余計に物腰が低くなるなど、対応は穏やかではあったが…
     *ポーランド側から撮影 尋問を受けたのはちょうど対岸あたり

  • *以下の写真は全てナイセ谷鉄道に乗って ツィッタウとゲーリッツに行った際の写真(当写真はツィッタウ駅) <br /><br /> 2003年8月4日付朝日新聞では、シュレーダー政権登場以後、ナチス時代の強制労働被害者の補償、海外派兵を行うなど戦後タブー打破の一環として、ポーランド西部やズデーテンからの追放被害者記念館を建設する計画が持ち上がり、ポーランドやチェコの反発を呼んでいる、との記事が紹介されている。

    *以下の写真は全てナイセ谷鉄道に乗って ツィッタウとゲーリッツに行った際の写真(当写真はツィッタウ駅) 

     2003年8月4日付朝日新聞では、シュレーダー政権登場以後、ナチス時代の強制労働被害者の補償、海外派兵を行うなど戦後タブー打破の一環として、ポーランド西部やズデーテンからの追放被害者記念館を建設する計画が持ち上がり、ポーランドやチェコの反発を呼んでいる、との記事が紹介されている。

  •   *SL発見<br /><br /> ドイツとポーランドとの歴史教科書の共同研究に関して、2001年7月26日付朝日新聞に記事が載っていたので紹介する。

      *SL発見

     ドイツとポーランドとの歴史教科書の共同研究に関して、2001年7月26日付朝日新聞に記事が載っていたので紹介する。

  •   *ツィッタウの1989年民主化運動の様子<br /><br /> かつてホームステイしていた北ドイツのブラウンシュヴァイクにあるゲオルク・エッカート国際教科書研究所では、1972年からユネスコの支援で教科書共同研究が始まった。オーデル・ナイセ線の国境線確定に伴う住民移動に関しては、「追放」と捉えるドイツと「移送」と考えるポーランドの間で激しい議論を呼び、「疎開や自主的な避難民などで国境を越えたドイツ人もいましたが、『強制移住』のケースもあった」との表現で合意した。

      *ツィッタウの1989年民主化運動の様子

     かつてホームステイしていた北ドイツのブラウンシュヴァイクにあるゲオルク・エッカート国際教科書研究所では、1972年からユネスコの支援で教科書共同研究が始まった。オーデル・ナイセ線の国境線確定に伴う住民移動に関しては、「追放」と捉えるドイツと「移送」と考えるポーランドの間で激しい議論を呼び、「疎開や自主的な避難民などで国境を越えたドイツ人もいましたが、『強制移住』のケースもあった」との表現で合意した。

  •   *ツィッタウ中心部<br /><br /> ポーランドがソ連の影響下から脱して民主化されて以後、かつては取り上げることが出来なかったカチンの森事件、独ソ不可侵条約についても研究が進んでいる。

      *ツィッタウ中心部

     ポーランドがソ連の影響下から脱して民主化されて以後、かつては取り上げることが出来なかったカチンの森事件、独ソ不可侵条約についても研究が進んでいる。

  •  日本は特に中国や韓国との間で歴史認識をめぐって軋轢があるが、ドイツとポーランドの例に倣って、歴史対話や共同研究を通じて、お互いの距離を近づけることが重要だと思う。ただ両国とも反日感情が強く容易なことではない。(2023年9月28日ほか訪問)

     日本は特に中国や韓国との間で歴史認識をめぐって軋轢があるが、ドイツとポーランドの例に倣って、歴史対話や共同研究を通じて、お互いの距離を近づけることが重要だと思う。ただ両国とも反日感情が強く容易なことではない。(2023年9月28日ほか訪問)

  •   *ゲーリッツ駅<br />

      *ゲーリッツ駅

  • *国境のナイセ川 ポーランドのマーク

    *国境のナイセ川 ポーランドのマーク

  • *少し下流に来たので川幅は広い

    *少し下流に来たので川幅は広い

  • *ポーランド出身の元教皇ヨハネ・パウロ2世(来日したこともある)が橋の名前になっていた

    *ポーランド出身の元教皇ヨハネ・パウロ2世(来日したこともある)が橋の名前になっていた

  • *ドイツ南東部には少数民族のゾルブ人が住んでおり、右の表記はゾルブ語

    *ドイツ南東部には少数民族のゾルブ人が住んでおり、右の表記はゾルブ語

  • *ベルリン帰着<br />11席ほどの中2階もあったので、3階まである車両

    *ベルリン帰着
    11席ほどの中2階もあったので、3階まである車両

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