2014/05/20 - 2024/02/03
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砂布巾さん
1945年2月4日~11日 ヤルタ会談(ソ連)
大戦末期にクリミア半島のヤルタ、リバディア宮殿で開かれた三巨頭会談は、1943年末のテヘラン会談に続いて2回目となる米英ソ首脳会談だった。参加者は当時既に健康状態が思わしくなかったアメリカ大統領ルーズヴェルト、総選挙を控えていたイギリス首相チャーチル、そしてホスト役のソ連首相スターリン。
ルーズヴェルトの健康状態にショックを受けたスターリンは、「そんなにお疲れだと知っていたら、私の方から出向いて行っても良かった」と語った。
軍事的には、ソ連軍は1月12日に総攻撃を開始して全ポーランドをほぼ解放、ベルリンまであと60kmに迫っていたのに対し、西部戦線では5ヶ月に及ぶ足踏みの後、数日前にルール、ラインラントに進撃を開始した米英中心の連合国軍は、ベルリンまでは400kmあった。軍事的にも精神的にもソ連優位の状況の中で開催された。皮肉なことに、ルーズヴェルトは「現実主義者」のスターリンに対してより、「理想主義者」のチャーチルに対する警戒心があった。
このような状況もあって、「アメリカに不利な結果に終わった」という一般的な評価が定着しているようだ。会談そのものは戦後世界の行方を決めた会談であり、また冷戦の始まりを告げるものでもあった。
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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4ヶ月前の1944年10月9日、チャーチルはモスクワを訪問し、スターリンと会談した。
チャーチルがスターリンに手渡した紙には「ルーマニア-ロシア90%▽ギリシャ-英国90%でロシア10%▽ユーゴスラビアとハンガリーは双方50%ずつ」と書かれていた。欧州南東部の国々をどちらの勢力圏に入れるか。それをパーセントで示したのだった。
意味を即座に理解したスターリンは青鉛筆を取り出し、大きなチェックマークを付けて突き返した。沈黙のあと、チャーチルが「数百万人の運命をこんな風に扱うのはいかがなものかと思うので焼き払おう」と述べると、スターリンは「いや、保管していてくれ」と平然と答えている。
自らの力でナチス・ドイツから解放したチトーのユーゴスラビアは、社会主義国ながら、後に第三世界の中心として独自の道を歩む。ハンガリーは戦局の推移を反映して、戦後はソ連の勢力圏に入ることになるが、1956年の「ハンガリー動乱」でその支配に反発する。
密議にはルーズヴェルトは参加していない。選挙運動の最中であり、ルーズヴェルトは欧州を英ソの勢力圏とみなしていた。「米国が関心を持たない地域は存在しない」という電文を送って釘を刺した。密議の5日後、ルーズヴェルトは駐ソ大使を通じてスターリンに対日参戦を要請したのに対して、スターリンは「一定の政治的条件が満たされる」ことを条件にドイツ降伏の2,3ヶ月後に攻撃可能であると答えた。第二次世界大戦博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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会談の主な決定事項は、後述するポーランド問題を除いてはドイツ問題、新たな集団安全保障機構、対日参戦に関する密約だった。
ドイツに関しては、3ヶ国にフランスを加えた4カ国で占領する。ドイツに降伏したフランスが加えられたのは、戦後ソ連の影響力を低下させるため、ここ2年間イギリスがアメリカに対して働きかけた結果であり、「親切心」からだった。賠償問題では200億ドルの取り立てを強硬に主張するソ連と米英が対立したため、モスクワに賠償委員会を設置することになった。
新たな世界機構(=国際連合 United Nations)設立は、会議を4月25日にサンフランシスコで開催する。参加国はウクライナとベラルーシの2ソヴィエト共和国を含み、1945年3月1日までに敵国に対して宣戦した連合国(=United Nations)が参加する。 -
現在も国連憲章には日独伊など旧枢軸国を対象とする旧敵国条項が存在する。これらが再び侵略行為を行った場合に、直ちに安保理の承認なく武力行使が可能だ。そのようなことはあり得ないが、憲章上旧敵国扱いされているのは紛れもない事実だ。日独などが「旧敵国」で無くなる日が一日も早く来ることを望んでいる。
日独両国が安保理の常任理事国となり、旧敵国条項が削除されたら、国連は「連合国の連合体」から、真の意味での「国際社会の連合体」になるだろう。道は険しいが…。
ソ連は日露戦争で失っていた南樺太や千島列島などの獲得を条件に、ドイツ降伏後3ヶ月以内に日本に参戦する。北方領土問題は、国後、択捉、歯舞諸島、色丹の4島を「固有の領土」と主張する日本と、「これらも千島列島の一部」と主張するソ連の対立だ。
この部分は対日参戦の秘密協定として有名であり、5日目の2月8日15時半からルーズヴェルトとスターリンで話し合われた。ルーズヴェルトには米軍が単独で日本と戦うと1947年までかかり、さらに百万人の犠牲者が出るとする軍の報告が重くのしかかっており、ソ連参戦の確約が欲しかった。スターリンとしても、自国に脅威を与えていない国と交戦するには、「世論の支持」を獲得するため、何らかの「代償」が必要だった。
本項目の主要参考文献である倉田保雄著「ヤルタ会談」(ちくまライブラリー)は、会談について次のように書いている。
「米ソはすでにこのときから、大国意識でピタリと呼吸が合い、分割支配、縄張り設定といった高度の秘密保持を必要とする事項は、二国間で決めてしまえばよいということで暗黙の合意ができ、ヤルタ体制構築への第一歩を踏み出したとみてよかろう」。
直後に「大した代償も支払わず、欲しいものはすべて手に入れた」と満面に笑みを浮かべていたルーズヴェルト大統領は、2ヶ月後の4月12日に亡くなった。親ソ派のルーズヴェルトに代わって、強硬派のトルーマンが大統領に就任したことは、冷戦に決定的な影響を与える。日本の鈴木貫太郎首相は敵国元首の死に弔意を表したという。
未訪問地ヤルタに一番近づいたのは、トルコ、イスタンブールからのクルーズだった。
もくじへ http://4travel.jp/travelogue/10681693
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