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「スフバートル広場」でチンギス・ハーンと対峙した後は広場の筋向いにある「国立歴史民族博物館」の見学に移ります。海外の民俗博物館は非常に興味深いので、機会があれば必ず見学するようにしています。当初のツアーの日程表だと「国立歴史民族博物館」を見学した後に「ノミン百貨店」で買い物だったので、買い物は妻に任せて近くにある「ザナバザル博物館」に行きたいと思っていました。ところが順番が違ってしまったために見に行くことは物理的に無理になってしまいました。気を取り直しての博物館の見学ですが、入場料はツアーの代金に含まれていますが、写真撮影の料金10,000トゥグルグは自己負担になりました。現在「チンギス・ハーン博物館」の収蔵品を充実させるためにモンゴル各地の博物館から収蔵品を集めているということで、この博物館からも由来の品が移されているとガイドさんが説明してくれました。有史以前の発掘品からモンゴルに住む少数民族の衣装など興味深いものがたくさん並んでいます。特に民族衣装はチベットや中国の雲南省の少数民族に通じるものもあり文化の共通性を感じます。それほど大きくない博物館で部屋の半分は閉められているようでしたが、内容は充実しているうえにガイドさんの説明もあり楽しく見学が出来ました。個人的に博物館は好きなので、ここでも旅行記が前半と後半になってしまいました。次回ウランバートルへ来ることがあれば「ザナバザル博物館」と「チンギス・ハーン博物館」へは絶対に行きたいと思います。どちらもこの「国立歴史民族博物館」からだと西に1ブロックと北に1ブロックの位置にありながらいけないのが歯がゆかったです。

トラピックス This is モンゴル5日間(8)国立歴史民族博物館で改めて大モンゴル帝国以前の歴史と文化について学ぶ。【前半】

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2023/11/02 - 2023/11/02

345位(同エリア554件中)

旅行記グループ 2023 モンゴルの旅

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kojikoji

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「スフバートル広場」でチンギス・ハーンと対峙した後は広場の筋向いにある「国立歴史民族博物館」の見学に移ります。海外の民俗博物館は非常に興味深いので、機会があれば必ず見学するようにしています。当初のツアーの日程表だと「国立歴史民族博物館」を見学した後に「ノミン百貨店」で買い物だったので、買い物は妻に任せて近くにある「ザナバザル博物館」に行きたいと思っていました。ところが順番が違ってしまったために見に行くことは物理的に無理になってしまいました。気を取り直しての博物館の見学ですが、入場料はツアーの代金に含まれていますが、写真撮影の料金10,000トゥグルグは自己負担になりました。現在「チンギス・ハーン博物館」の収蔵品を充実させるためにモンゴル各地の博物館から収蔵品を集めているということで、この博物館からも由来の品が移されているとガイドさんが説明してくれました。有史以前の発掘品からモンゴルに住む少数民族の衣装など興味深いものがたくさん並んでいます。特に民族衣装はチベットや中国の雲南省の少数民族に通じるものもあり文化の共通性を感じます。それほど大きくない博物館で部屋の半分は閉められているようでしたが、内容は充実しているうえにガイドさんの説明もあり楽しく見学が出来ました。個人的に博物館は好きなので、ここでも旅行記が前半と後半になってしまいました。次回ウランバートルへ来ることがあれば「ザナバザル博物館」と「チンギス・ハーン博物館」へは絶対に行きたいと思います。どちらもこの「国立歴史民族博物館」からだと西に1ブロックと北に1ブロックの位置にありながらいけないのが歯がゆかったです。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
鉄道 観光バス 徒歩
航空会社
ミアットモンゴル航空
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
利用旅行会社
阪急交通社
  • 「国立歴史民族博物館」まで戻ってきました。社会主義時代では「革命博物館」であった名残が建物東側と南側の壁のレリーフに残っています。1990年代に民主化の波にのって「国立歴史民族博物館」となりました。

    「国立歴史民族博物館」まで戻ってきました。社会主義時代では「革命博物館」であった名残が建物東側と南側の壁のレリーフに残っています。1990年代に民主化の波にのって「国立歴史民族博物館」となりました。

    モンゴル国立博物館(国立民族歴史博物館) 博物館・美術館・ギャラリー

  • ここでの入場料はツアーの代金に含まれていますが、館内の写真撮影代金20,000トゥグルグは個人での支払いになります。約500円になるので自分も含めて3人の方だけが撮影することになります。

    ここでの入場料はツアーの代金に含まれていますが、館内の写真撮影代金20,000トゥグルグは個人での支払いになります。約500円になるので自分も含めて3人の方だけが撮影することになります。

  • 建物の外観もインテリアも社会主義時代の名残を感じさせますが、エントランスには顔出し看板もありました。見学はガイドさんの説明に沿って紀元前700年頃の初期鉄器時代からスタートします。

    建物の外観もインテリアも社会主義時代の名残を感じさせますが、エントランスには顔出し看板もありました。見学はガイドさんの説明に沿って紀元前700年頃の初期鉄器時代からスタートします。

  • 「チャンドマニ遺跡」<br />紀元前700年頃にモンゴルに住んでいた人々は製鉄の技術を得ていたとされます。この時代の遺跡の1つはウブス県のチャンドマニ遺跡です。そこで見つかった墳墓では青銅と鉄を収めた埋葬を発見します。チャンドマニ遺跡の遺物はスキタイ・シベリア文化圏がアルタイ山脈の東側に存在していたことを示唆します。墳墓の形態がミヌシンスク盆地やトゥヴァ地域のものと似ていることからチャンドマニ人はモンゴロイドとコーカソイドの両方の混合であると考えられます。

    「チャンドマニ遺跡」
    紀元前700年頃にモンゴルに住んでいた人々は製鉄の技術を得ていたとされます。この時代の遺跡の1つはウブス県のチャンドマニ遺跡です。そこで見つかった墳墓では青銅と鉄を収めた埋葬を発見します。チャンドマニ遺跡の遺物はスキタイ・シベリア文化圏がアルタイ山脈の東側に存在していたことを示唆します。墳墓の形態がミヌシンスク盆地やトゥヴァ地域のものと似ていることからチャンドマニ人はモンゴロイドとコーカソイドの両方の混合であると考えられます。

  • 「大釜」紀元前700年初期鉄器時代<br />この形状では祭器ではなく、純粋に煮炊きに使われたのでしょうか。<br />

    「大釜」紀元前700年初期鉄器時代
    この形状では祭器ではなく、純粋に煮炊きに使われたのでしょうか。

  • 「陶器の壺」紀元前700年初期鉄器時代<br />赤い色は神聖な色として旧石器時代や縄文時代の日本でも土器や木製品の表面に塗られたり、遺骨にかけられたりしました。辰砂(しんしゃ)と呼ばれる硫化水銀が用いられました。これは「賢者の石」とも呼ばれます。どこぞの魔法使いの物語にも出てくる名前ですね。

    「陶器の壺」紀元前700年初期鉄器時代
    赤い色は神聖な色として旧石器時代や縄文時代の日本でも土器や木製品の表面に塗られたり、遺骨にかけられたりしました。辰砂(しんしゃ)と呼ばれる硫化水銀が用いられました。これは「賢者の石」とも呼ばれます。どこぞの魔法使いの物語にも出てくる名前ですね。

  • 「鋳型」紀元前1500年から400年の青銅器時代<br />鋳型やるつぼがそのままの状態で残されています。

    「鋳型」紀元前1500年から400年の青銅器時代
    鋳型やるつぼがそのままの状態で残されています。

  • 手前に置かれたものはこの鋳型をもとに鋳造されたのだと思われます。発掘された鉄器や青銅器を博物館で見ることはありますが、その鋳型を見るのは初めてでした。

    手前に置かれたものはこの鋳型をもとに鋳造されたのだと思われます。発掘された鉄器や青銅器を博物館で見ることはありますが、その鋳型を見るのは初めてでした。

  • 鋳型の強度を考えると石を用いるのが一番簡単な方法だったのだと思います。これによって数多くの武器や生活道具が作られたのでしょう。

    鋳型の強度を考えると石を用いるのが一番簡単な方法だったのだと思います。これによって数多くの武器や生活道具が作られたのでしょう。

  • 「装飾品」紀元前700年から300年銅器時代から鉄器時代後期<br />ガイドさんの話によると何もない大草原で遺跡を発見する方法があるということでした。それは落雷を観測して、雷の落ちた場所を掘るというものでした。<br /><br />

    「装飾品」紀元前700年から300年銅器時代から鉄器時代後期
    ガイドさんの話によると何もない大草原で遺跡を発見する方法があるということでした。それは落雷を観測して、雷の落ちた場所を掘るというものでした。

  • この時代になるとデザインも洗練されていると思います。少し前にアテネの「国立考古学博物館」で古代ギリシャの装飾品を見てきたばかりなので、黄金に輝く装飾品と比べると質素に思えてしまいます。

    この時代になるとデザインも洗練されていると思います。少し前にアテネの「国立考古学博物館」で古代ギリシャの装飾品を見てきたばかりなので、黄金に輝く装飾品と比べると質素に思えてしまいます。

  • 「ナイフ」紀元前1200年から800年<br />刃先の反り方から動物の皮を剥ぐのに使われたのでしょうか。

    「ナイフ」紀元前1200年から800年
    刃先の反り方から動物の皮を剥ぐのに使われたのでしょうか。

  • 「大釜」紀元前1200年から800年青銅器時代<br />

    「大釜」紀元前1200年から800年青銅器時代

  • 「鏃(やじり)」紀元前700年から300年<br />青銅器時代後期から鉄器時代初期の鏃の数々です。弓矢は数万年から数十万年前から使われてきた道具で、現在見つかっている最も古い弓矢は南アフリカのシブドゥ洞窟で発見された物で、約64,000年前のものだと考えられています。アジアではスリランカの熱帯雨林の洞窟「ファ・ヒエン・レナ」から発見された弓矢の鏃が約48,000年前の物です。

    「鏃(やじり)」紀元前700年から300年
    青銅器時代後期から鉄器時代初期の鏃の数々です。弓矢は数万年から数十万年前から使われてきた道具で、現在見つかっている最も古い弓矢は南アフリカのシブドゥ洞窟で発見された物で、約64,000年前のものだと考えられています。アジアではスリランカの熱帯雨林の洞窟「ファ・ヒエン・レナ」から発見された弓矢の鏃が約48,000年前の物です。

  • 「ナイフ」紀元前700年から400年<br />銅器時代後期になるとナイフのデザインも使い道によって多様化しているように思えます。民藝運動の柳宗悦(やなぎ むねよし)が提唱した「用の美」ではありませんが機能から来るデザインの美しさを感じます。

    「ナイフ」紀元前700年から400年
    銅器時代後期になるとナイフのデザインも使い道によって多様化しているように思えます。民藝運動の柳宗悦(やなぎ むねよし)が提唱した「用の美」ではありませんが機能から来るデザインの美しさを感じます。

  • 新石器時代になると居住するに適した場所での定住化が始まります。ドルノド県のタムサグブラグ遺跡には竪穴住居の集落が発見され、長さ7.6メートル、幅5.6メートルあります。興味深いのは住居の床下からは埋葬の跡が発見されていて、その方法は前かがみに座するように置かれていました。

    新石器時代になると居住するに適した場所での定住化が始まります。ドルノド県のタムサグブラグ遺跡には竪穴住居の集落が発見され、長さ7.6メートル、幅5.6メートルあります。興味深いのは住居の床下からは埋葬の跡が発見されていて、その方法は前かがみに座するように置かれていました。

  • 「ネックレス」紀元前8000年から5000年<br />新石器時代のドルノド県ボルガンスム、ノロブリン山出土

    「ネックレス」紀元前8000年から5000年
    新石器時代のドルノド県ボルガンスム、ノロブリン山出土

  • 半貴石を円筒に加工した後に穴を開ける加工が数千年前に合ったというのは驚きです。この時代のビーズ加工で最も難しかった過程は穴あけの工程と考えられています。当時は石に穴を開けるテクニックや道具を使いこなす職人集団がいたものと考えられています。青銅器が発明される以前は原石の状態の石に動物の骨や固い小枝と砕いた水溶きの水晶の粉末を使って、根気よく双方から穴を開けて行ってことでしょう。

    半貴石を円筒に加工した後に穴を開ける加工が数千年前に合ったというのは驚きです。この時代のビーズ加工で最も難しかった過程は穴あけの工程と考えられています。当時は石に穴を開けるテクニックや道具を使いこなす職人集団がいたものと考えられています。青銅器が発明される以前は原石の状態の石に動物の骨や固い小枝と砕いた水溶きの水晶の粉末を使って、根気よく双方から穴を開けて行ってことでしょう。

  • 「お守り」紀元前8000年から5000年<br />ドルノド県ボルガンスム、ノロブリン山出土(レプリカ)<br />

    「お守り」紀元前8000年から5000年
    ドルノド県ボルガンスム、ノロブリン山出土(レプリカ)

  • 縄文時代晩期から弥生時代にかけての日本とモンゴルを比較してみると面白い年表です。

    縄文時代晩期から弥生時代にかけての日本とモンゴルを比較してみると面白い年表です。

  • 「イアリング」<br />青銅器時代でも1000年ほどの時代の差で、デザインの進化は感じられませんが、素材の精錬や技術の工場は感じられます。出た、このイアリング用に耳たぶに穴を開けるのは痛そうです。

    「イアリング」
    青銅器時代でも1000年ほどの時代の差で、デザインの進化は感じられませんが、素材の精錬や技術の工場は感じられます。出た、このイアリング用に耳たぶに穴を開けるのは痛そうです。

  • 「ケムツェグ文化のマン・ストーン」紀元前2600年から2000年<br />この碑はモンゴルで発見された最古の人面石で、青銅器時代初期のものです。2003年にモンゴルとロシアの共同研究チームが発見しました。

    「ケムツェグ文化のマン・ストーン」紀元前2600年から2000年
    この碑はモンゴルで発見された最古の人面石で、青銅器時代初期のものです。2003年にモンゴルとロシアの共同研究チームが発見しました。

  • 1962年には中国の考古学者は新彊地域で古墳と人面石を発見し、これをケルツェグ文化と名付けました。この中央アジア文化に属する墓では人面石を置く習慣があったようです。モンゴルのアルタイでは3つの発見例がありますが、中国のアルタイ地域では70個の発見があるそうです。

    1962年には中国の考古学者は新彊地域で古墳と人面石を発見し、これをケルツェグ文化と名付けました。この中央アジア文化に属する墓では人面石を置く習慣があったようです。モンゴルのアルタイでは3つの発見例がありますが、中国のアルタイ地域では70個の発見があるそうです。

  • 「手綱飾り」青銅器時代紀元前1200年から800年<br />この時代の技術は現在とほとんど変わらないと思えます。<br />

    「手綱飾り」青銅器時代紀元前1200年から800年
    この時代の技術は現在とほとんど変わらないと思えます。

  • 「パヤンサガンのディア・ストーン」<br />この鹿が描かれたディア・ストーンはアルハンガイ・アミマグのバヤンサガン渓谷で発見されました。高さは408センチあり、赤茶色の花こう岩で作られています。ディア・ストーンは1974年にモンゴルとハンガリーの共同考古学探検隊によって発見されています。2010年にはこの石を元の場所に戻し、この博物館にはレプリカを収めました。

    「パヤンサガンのディア・ストーン」
    この鹿が描かれたディア・ストーンはアルハンガイ・アミマグのバヤンサガン渓谷で発見されました。高さは408センチあり、赤茶色の花こう岩で作られています。ディア・ストーンは1974年にモンゴルとハンガリーの共同考古学探検隊によって発見されています。2010年にはこの石を元の場所に戻し、この博物館にはレプリカを収めました。

  • 「ウシギ・ウヴォールのディア・ストーン」青銅器時代中期紀元前1300年から600年<br />ウシギ・ウヴォールの遺跡では15個のディア・ストーンが発見され、人間の顔が鮮明に浮き彫りされています。現在まで900個ほどのディア・ストーンが発見されていますが、人間の顔が彫られているのは14個に限られます。人面を彫刻することは後のテュルク人の儀式へと引き継げられていきます。<br />

    「ウシギ・ウヴォールのディア・ストーン」青銅器時代中期紀元前1300年から600年
    ウシギ・ウヴォールの遺跡では15個のディア・ストーンが発見され、人間の顔が鮮明に浮き彫りされています。現在まで900個ほどのディア・ストーンが発見されていますが、人間の顔が彫られているのは14個に限られます。人面を彫刻することは後のテュルク人の儀式へと引き継げられていきます。

  • 「契丹国(遼国)」<br />契丹人の起源についての有力な見解は、スリンピの子孫でひいてはモンゴル人の祖先と考えられます。これは4世紀の歴史的資料に置いて初めて言及されました。936年に中国に侵攻して北部16州を占領し、黄河南部地域まで占領します。遼の政治体制は遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたりました。原則的に北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨みました。州稀有面で契丹人は動物が重要な役割を果たすシャーマニズムを実践していました。狩猟者は動物の霊に生贄を捧げ、狩猟中に同じ動物の毛皮を身に着けました。最初の魚や雁の捕獲を記念する祭りがあり、毎年、空、大地、祖先、山、川などに動物が生贄に捧げられました。<br />契丹の貴族が死ぬと、満月と新月に全焼の供物が生贄に捧げられました。遺体は山中で3年間晒され、その後、骨は火葬される。契丹は、死者の魂はレーヘ省近くの黒山と呼ばれる場所に眠っていると信じていました。

    「契丹国(遼国)」
    契丹人の起源についての有力な見解は、スリンピの子孫でひいてはモンゴル人の祖先と考えられます。これは4世紀の歴史的資料に置いて初めて言及されました。936年に中国に侵攻して北部16州を占領し、黄河南部地域まで占領します。遼の政治体制は遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたりました。原則的に北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨みました。州稀有面で契丹人は動物が重要な役割を果たすシャーマニズムを実践していました。狩猟者は動物の霊に生贄を捧げ、狩猟中に同じ動物の毛皮を身に着けました。最初の魚や雁の捕獲を記念する祭りがあり、毎年、空、大地、祖先、山、川などに動物が生贄に捧げられました。
    契丹の貴族が死ぬと、満月と新月に全焼の供物が生贄に捧げられました。遺体は山中で3年間晒され、その後、骨は火葬される。契丹は、死者の魂はレーヘ省近くの黒山と呼ばれる場所に眠っていると信じていました。

  • 「ウイグル族の祈り」ウイグル時代紀元8世紀から9世紀<br />美しい菩薩のフレスコ画のレプリカが納められています。チベット仏教の菩薩とは違った中国の影響を感じます。<br />

    「ウイグル族の祈り」ウイグル時代紀元8世紀から9世紀
    美しい菩薩のフレスコ画のレプリカが納められています。チベット仏教の菩薩とは違った中国の影響を感じます。

  • 「契丹時代の工芸品」紀元10世紀から11世紀<br />試験官に入ったものは当時の穀物で、陶器の小鉢や動物の骨の加工品が並びます。<br />

    「契丹時代の工芸品」紀元10世紀から11世紀
    試験官に入ったものは当時の穀物で、陶器の小鉢や動物の骨の加工品が並びます。

  • 「ウイグル族のドゥルヴルジン遺跡」<br />この遺跡はアルハンガイ県コトント・スムにあるウイグルの古都カラー・バルガスに近いモンゴル中央部のオルホン渓谷に位置しています。墳墓は集団で造られ、土壁の門は太陽の昇る東側に設けられました。

    「ウイグル族のドゥルヴルジン遺跡」
    この遺跡はアルハンガイ県コトント・スムにあるウイグルの古都カラー・バルガスに近いモンゴル中央部のオルホン渓谷に位置しています。墳墓は集団で造られ、土壁の門は太陽の昇る東側に設けられました。

  • 「鎧板」ウイグル時代紀元8世紀から9世紀<br />鎧のパーツには糸を押す穴が残っています。

    「鎧板」ウイグル時代紀元8世紀から9世紀
    鎧のパーツには糸を押す穴が残っています。

  • 「ウイグル時代の工芸品」ウイグル時代8世紀から9世紀<br />屋根瓦、馬具金物、骨の針、鉄製の鏃

    「ウイグル時代の工芸品」ウイグル時代8世紀から9世紀
    屋根瓦、馬具金物、骨の針、鉄製の鏃

  • 「ドルヴォルジンの工芸品」ウイグル時代8世紀から9世紀<br />金製の装飾品とブロンズのリングはベルト飾りです。

    「ドルヴォルジンの工芸品」ウイグル時代8世紀から9世紀
    金製の装飾品とブロンズのリングはベルト飾りです。

  • 「琴」<br />この楽器は考古学チームによって発見されました。ジャルガランド・ハイルカン山の古代洞窟遺跡を発掘したところ保存状態の良いこの楽器が見つかりました。本体とネックには古代ルーン文字が刻まれています。この楽器を作ったのチューレレという名前の戦士でした。

    「琴」
    この楽器は考古学チームによって発見されました。ジャルガランド・ハイルカン山の古代洞窟遺跡を発掘したところ保存状態の良いこの楽器が見つかりました。本体とネックには古代ルーン文字が刻まれています。この楽器を作ったのチューレレという名前の戦士でした。

  • 「タリアトの記念碑」チュルク時代紀元6世紀から8世紀<br />石碑は亀のような動物の背中に立てられています。これを見て妻と2人で「贔屓!」と声を上げましたが、ガイドさんは何のことだか分からなかったようです。贔屓(ひいき)は中国の伝説上の生物で石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と呼びます。贔屓は龍が生んだ9頭の神獣「竜生九子」の1つで、その姿は亀に似ています。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多いです。諺の「贔屓の引き倒し」とは「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺ですが、その由来は柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるということです。<br />

    「タリアトの記念碑」チュルク時代紀元6世紀から8世紀
    石碑は亀のような動物の背中に立てられています。これを見て妻と2人で「贔屓!」と声を上げましたが、ガイドさんは何のことだか分からなかったようです。贔屓(ひいき)は中国の伝説上の生物で石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と呼びます。贔屓は龍が生んだ9頭の神獣「竜生九子」の1つで、その姿は亀に似ています。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多いです。諺の「贔屓の引き倒し」とは「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺ですが、その由来は柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるということです。

  • 「シリガリの人型石」テュルク時代紀元6世紀から8世紀<br />

    「シリガリの人型石」テュルク時代紀元6世紀から8世紀

  • テュルク系民族の原郷についての定説がありませんが、ウラル山脈以東の草原地帯に求める説が有力で、モンゴル系民族と近接していました。人種的には同じくモンゴロイドと考えられています。唐代まではほとんどが黒髪で直毛で黒目でした。しかし唐代の終わり頃に東ウイグル可汗国が崩壊しテュルク系民族がモンゴリア・アルタイ地方から移動して天山山脈からタリム盆地全体を支配しました。その結果、先住のコーカソイドのインド=ヨーロッパ語族は何世代か後にはテュルク化し、テュルク系言語の話者となっていきます。

    テュルク系民族の原郷についての定説がありませんが、ウラル山脈以東の草原地帯に求める説が有力で、モンゴル系民族と近接していました。人種的には同じくモンゴロイドと考えられています。唐代まではほとんどが黒髪で直毛で黒目でした。しかし唐代の終わり頃に東ウイグル可汗国が崩壊しテュルク系民族がモンゴリア・アルタイ地方から移動して天山山脈からタリム盆地全体を支配しました。その結果、先住のコーカソイドのインド=ヨーロッパ語族は何世代か後にはテュルク化し、テュルク系言語の話者となっていきます。

  • 「弓と矢筒」<br />角と骨で強化された複合木製弓です。矢筒はジャッルガランド山の埋葬地で発見された戦闘用アイテムです。矢筒の本体は樺の樹皮と革で覆われています。

    「弓と矢筒」
    角と骨で強化された複合木製弓です。矢筒はジャッルガランド山の埋葬地で発見された戦闘用アイテムです。矢筒の本体は樺の樹皮と革で覆われています。

  • 「人型石」テュルク時代紀元6世紀から8世紀<br />先日野生馬タヒを探しに行ったホスタイ国立公園の博物館の前にも同じような石像が置かれてありました。

    「人型石」テュルク時代紀元6世紀から8世紀
    先日野生馬タヒを探しに行ったホスタイ国立公園の博物館の前にも同じような石像が置かれてありました。

  • 「ノグーンヌールの石像」ウイグル時代紀元8世紀から9世紀<br />石人とは遊牧民をかたどって草原に置かれた石像なのですが、新疆の草原地帯には200体もの石人があちこちに点在していて、その多くは突厥時代に作られたものと考えられています。

    「ノグーンヌールの石像」ウイグル時代紀元8世紀から9世紀
    石人とは遊牧民をかたどって草原に置かれた石像なのですが、新疆の草原地帯には200体もの石人があちこちに点在していて、その多くは突厥時代に作られたものと考えられています。

  • 大草原に席人が立つ姿を想像するとロマンが広がります。こんな大草原を馬で走り抜けたい衝動に駆られますが、そんな夢は叶えられるでしょうか。

    大草原に席人が立つ姿を想像するとロマンが広がります。こんな大草原を馬で走り抜けたい衝動に駆られますが、そんな夢は叶えられるでしょうか。

  • 「コリチュール像」テュルク時代7世紀から8世紀<br />テュルク時代という言葉にときめいてしまうのはイスタンブールから帰ったばかりだけではなく、4年前にアナトリアのかなり東部まで行ったからかもしれません。それでもまだヴァン湖から東のアララト山まではたどり着けていませんし、そこから東の中央アジアにも行くことができていません。

    「コリチュール像」テュルク時代7世紀から8世紀
    テュルク時代という言葉にときめいてしまうのはイスタンブールから帰ったばかりだけではなく、4年前にアナトリアのかなり東部まで行ったからかもしれません。それでもまだヴァン湖から東のアララト山まではたどり着けていませんし、そこから東の中央アジアにも行くことができていません。

  • 「コルテギンの石碑(レプリカ)」732年<br />コルテギンは古代トルコ人のエルテレス・ハーンの息子でした。コルテギンはハーンとなった弟のビルジの国政を助け731年に47歳で亡くなりました。石碑の上部には龍が彫られ、正面と側面にはルーン文字が刻まれています。石碑の裏には唐の皇帝の明華がコルテギンの死に対する悲しみを中国語で残しています。

    「コルテギンの石碑(レプリカ)」732年
    コルテギンは古代トルコ人のエルテレス・ハーンの息子でした。コルテギンはハーンとなった弟のビルジの国政を助け731年に47歳で亡くなりました。石碑の上部には龍が彫られ、正面と側面にはルーン文字が刻まれています。石碑の裏には唐の皇帝の明華がコルテギンの死に対する悲しみを中国語で残しています。

  • 「コルテギンの頭像」テュルク時代紀元8世紀

    「コルテギンの頭像」テュルク時代紀元8世紀

  • 「ダヤン・ヌルの石像」ダヤン湖テュルク時代6世紀から8世紀<br />ロシアと中国の故郷に隣接するバヤン・オルギル県で出土しました。<br />

    「ダヤン・ヌルの石像」ダヤン湖テュルク時代6世紀から8世紀
    ロシアと中国の故郷に隣接するバヤン・オルギル県で出土しました。

  • テュルク時代の男性の容姿や文化が伝わってきそうな石像です。

    テュルク時代の男性の容姿や文化が伝わってきそうな石像です。

  • 「金製の酒器」テュルク時代8世紀

    「金製の酒器」テュルク時代8世紀

  • 「銀製の酒器」テュルク時代8世紀

    「銀製の酒器」テュルク時代8世紀

  • 「足首の骨」匈奴時代紀元1世紀から2世紀<br />シャガイとはモンゴル語で「家畜のくるぶしの骨」のことを言います。遊牧民は家畜を大事に飼育しており、家畜の骨を脳トレゲームとして使うことがあります。一般的に羊のくるぶし「シャガイ」を遊びや占いなどで利用しています。

    「足首の骨」匈奴時代紀元1世紀から2世紀
    シャガイとはモンゴル語で「家畜のくるぶしの骨」のことを言います。遊牧民は家畜を大事に飼育しており、家畜の骨を脳トレゲームとして使うことがあります。一般的に羊のくるぶし「シャガイ」を遊びや占いなどで利用しています。

  • 「棺飾り」匈奴時代紀元前2世紀から紀元1世紀<br />匈奴とは前3世紀末から後1世紀末にかけて、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族です。秦代末の前209年に冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう)となり、北アジア最初の遊牧国家を建設します。東胡の大月氏を征圧し全盛となり、漢にも侵入しましたが、漢の武帝の遠征と内紛により東西に分裂し、さらに南北に分裂していきます。南匈奴は漢に服属し北匈奴は漢に討たれました。人種的にはトルコ系説が有力といわれます。

    「棺飾り」匈奴時代紀元前2世紀から紀元1世紀
    匈奴とは前3世紀末から後1世紀末にかけて、モンゴル高原を中心に活躍した遊牧騎馬民族です。秦代末の前209年に冒頓(ぼくとつ)が単于(ぜんう)となり、北アジア最初の遊牧国家を建設します。東胡の大月氏を征圧し全盛となり、漢にも侵入しましたが、漢の武帝の遠征と内紛により東西に分裂し、さらに南北に分裂していきます。南匈奴は漢に服属し北匈奴は漢に討たれました。人種的にはトルコ系説が有力といわれます。

  • 「ブロンズ製ポット」匈奴時代紀元前2世紀から紀元1世紀<br />今まで歴史上の郷土の名前を聞いたことはありましたが、具体的にその時代に造られたものを見るのはこれが初めてでした。

    「ブロンズ製ポット」匈奴時代紀元前2世紀から紀元1世紀
    今まで歴史上の郷土の名前を聞いたことはありましたが、具体的にその時代に造られたものを見るのはこれが初めてでした。

  • 子供用のベストとブーツです。これらは20世紀になってからのもので、一般家庭から寄贈されたものもこの博物館には展示されているそうです。先日エレディネ村で見てきた巨大なブーツの原形がここにありました。

    子供用のベストとブーツです。これらは20世紀になってからのもので、一般家庭から寄贈されたものもこの博物館には展示されているそうです。先日エレディネ村で見てきた巨大なブーツの原形がここにありました。

  • 「シャガイ(ナードガイ)の駒」銀製の子供のゲームの駒20世紀<br />シャガイとかナードガイと呼ばれる動物の足首の骨を使ったゲームは古代からモンゴル人によって行われてきました。シオンヌ朝の子供の埋葬地からも多くのシャガイが発見されています。モンゴル人の間では動物の精神や福が足首の骨に宿るという信仰が残っており、オオカミの骨は特に大切に残されています。

    「シャガイ(ナードガイ)の駒」銀製の子供のゲームの駒20世紀
    シャガイとかナードガイと呼ばれる動物の足首の骨を使ったゲームは古代からモンゴル人によって行われてきました。シオンヌ朝の子供の埋葬地からも多くのシャガイが発見されています。モンゴル人の間では動物の精神や福が足首の骨に宿るという信仰が残っており、オオカミの骨は特に大切に残されています。

  • 「子供の上着とブーツ」19世紀から20世紀<br />手の込んだシルクの布を貼り合わせたパッチワークの上着です。動物の皮や古銭や鈴は子供を守るためのお守りだったのではないでしょうか。革製のブーツも手の込んだ造りになっています。<br />

    「子供の上着とブーツ」19世紀から20世紀
    手の込んだシルクの布を貼り合わせたパッチワークの上着です。動物の皮や古銭や鈴は子供を守るためのお守りだったのではないでしょうか。革製のブーツも手の込んだ造りになっています。

  • 「ウゼムチンの子供のベスト」<br />ウゼムチンとはモンゴル東部と現在の中国内モンゴル自治区のモンゴル人の一種族のことのようです。清朝の時代に服属したモンゴル民族の多くは、外藩蒙古、内属蒙古、蒙古八旗のいずれかに区分されました。蒙古八旗は1616年から1636年にかけて清朝に個別に服属し、清朝の支配層の最上位に位置する「八旗」の一員として再編されたモンゴル人集団をいいます。チベット高原の中央部に居住し、「七十九族」と呼ばれた遊牧民の集団まで含めると多民族の暮らす土地だったと伺えます。

    「ウゼムチンの子供のベスト」
    ウゼムチンとはモンゴル東部と現在の中国内モンゴル自治区のモンゴル人の一種族のことのようです。清朝の時代に服属したモンゴル民族の多くは、外藩蒙古、内属蒙古、蒙古八旗のいずれかに区分されました。蒙古八旗は1616年から1636年にかけて清朝に個別に服属し、清朝の支配層の最上位に位置する「八旗」の一員として再編されたモンゴル人集団をいいます。チベット高原の中央部に居住し、「七十九族」と呼ばれた遊牧民の集団まで含めると多民族の暮らす土地だったと伺えます。

  • 2階の1室はモンゴルに住む20の少数民族の伝統的な衣装が展示されています。モンゴルの衣装や宝飾品は、それを着る人の人種や年齢や性別だけでなく、その集団の自然環境や歴史や習慣を反映しています。

    2階の1室はモンゴルに住む20の少数民族の伝統的な衣装が展示されています。モンゴルの衣装や宝飾品は、それを着る人の人種や年齢や性別だけでなく、その集団の自然環境や歴史や習慣を反映しています。

  • 伝統的な衣装は外的要因も影響していて、多くが右にボタンのある高い襟の服を着ていますが、これは満州族の影響によるものです。

    伝統的な衣装は外的要因も影響していて、多くが右にボタンのある高い襟の服を着ていますが、これは満州族の影響によるものです。

  • 17世紀から20世紀のモンゴルの貴族にはカー、ヴァン、ベル、ベイ、ガンなどの階級がありました。貴族の儀式用の衣装は帽子にジャケット、ブーツで構成され、帽子のてっぺんには貴石やサンゴなどのボタンが付けられ、それは階級によって違いました。帽子には孔雀の羽も付けられました。上着には4本の爪を持つ龍の刺繍の施されました。ホグド・ハーンの時代には背中に四角い曽読んぼ文字の刺繍の入った上着を着ていました。

    17世紀から20世紀のモンゴルの貴族にはカー、ヴァン、ベル、ベイ、ガンなどの階級がありました。貴族の儀式用の衣装は帽子にジャケット、ブーツで構成され、帽子のてっぺんには貴石やサンゴなどのボタンが付けられ、それは階級によって違いました。帽子には孔雀の羽も付けられました。上着には4本の爪を持つ龍の刺繍の施されました。ホグド・ハーンの時代には背中に四角い曽読んぼ文字の刺繍の入った上着を着ていました。

  • こちらはモンゴルのハルハ族の既婚女性の衣装です。モンゴルのハルハ族は近世モンゴルの一部族で多数派民族でもあり、モンゴル人の8割弱がこのハルハ族によって占められています。ボリュームある髪とその周りを飾る装飾がとても強烈なインパクトを与えます。また、頭部の装飾だけでなく着ている服の刺繍や首飾りの多さが目立ちます。これらの過剰とも言える頭部の装飾や衣装は自身の富の象徴として表現されたものです。

    こちらはモンゴルのハルハ族の既婚女性の衣装です。モンゴルのハルハ族は近世モンゴルの一部族で多数派民族でもあり、モンゴル人の8割弱がこのハルハ族によって占められています。ボリュームある髪とその周りを飾る装飾がとても強烈なインパクトを与えます。また、頭部の装飾だけでなく着ている服の刺繍や首飾りの多さが目立ちます。これらの過剰とも言える頭部の装飾や衣装は自身の富の象徴として表現されたものです。

  • 「スター・ウォーズ」の「エピソード1 ファントム・メナス」で ナタリー・ポートマンが扮するパドメ・アミダラ、アミダラ女王が着ていた衣装はこのハルハ族の衣装が参考されています。

    「スター・ウォーズ」の「エピソード1 ファントム・メナス」で ナタリー・ポートマンが扮するパドメ・アミダラ、アミダラ女王が着ていた衣装はこのハルハ族の衣装が参考されています。

  • 「トルグード族の衣装」<br />トルグードの男性はカルバンの帽子をかぶり、民族舞踊の際に使用しています。冬の季節には上着にサンピン、ツァツァグ、ロングザラ、エルウブチを着こみます。寒い季節に子供たちはジャタグと呼ばれる子羊の皮の帽子をかぶっています。

    「トルグード族の衣装」
    トルグードの男性はカルバンの帽子をかぶり、民族舞踊の際に使用しています。冬の季節には上着にサンピン、ツァツァグ、ロングザラ、エルウブチを着こみます。寒い季節に子供たちはジャタグと呼ばれる子羊の皮の帽子をかぶっています。

  • トルグード・トゥーツォグと呼ばれる装飾品に珊瑚や真珠の装飾がたくさんあるのには理由があります。トゥーツォグの正面にあるゼンメンは貢献のために銀でできており、その中央にはコインで作られた月があります。コインの模様は金持ちを意味し、モンゴル人の間では金持ち、寛大、賢いという意味があります。

    トルグード・トゥーツォグと呼ばれる装飾品に珊瑚や真珠の装飾がたくさんあるのには理由があります。トゥーツォグの正面にあるゼンメンは貢献のために銀でできており、その中央にはコインで作られた月があります。コインの模様は金持ちを意味し、モンゴル人の間では金持ち、寛大、賢いという意味があります。

  • 袖が広く子羊の皮だけで作られた狩猟用の上着も特徴で、寒い冬には袖の長さあるために手が冷えることはありません。襟と脇の下にそれぞれボタンがあり、腰にはボタンがありません。女性は婚礼の後に袖のない長い袖のついたシングルテレッグを着用します。トルグード族のブーツは「トオクウ」と呼ばれ、モンゴル人の間では有名です。トオクンは男も女も右も左も変わりません。トルグード族が履いていたもう1つのブーツはヤトガー・ゴソンで、非常に長いつま先とウールのソール、外側が牛革で覆います。一部の裕福な女性は多くの毛様の入ったハルフブーツを履いています。

    袖が広く子羊の皮だけで作られた狩猟用の上着も特徴で、寒い冬には袖の長さあるために手が冷えることはありません。襟と脇の下にそれぞれボタンがあり、腰にはボタンがありません。女性は婚礼の後に袖のない長い袖のついたシングルテレッグを着用します。トルグード族のブーツは「トオクウ」と呼ばれ、モンゴル人の間では有名です。トオクンは男も女も右も左も変わりません。トルグード族が履いていたもう1つのブーツはヤトガー・ゴソンで、非常に長いつま先とウールのソール、外側が牛革で覆います。一部の裕福な女性は多くの毛様の入ったハルフブーツを履いています。

  • 「ドゥルヴッド族の衣装」<br />ドゥルヴッド族は色付きのデールをデベルとウチと呼び、男性と女性のディールはラヴシグと呼びます。女性はシングルディールを着用し、既婚女性はその上にツェグデグを着用しています。ドゥルヴッド族は長方形の帽子を「マクライ」と呼んでいますが、これはオイラドの4つの州のうちの1つであることを意味します。夏に男性は白い革のトゥールツォーグを着用し、女性は青い革で作られた4人から6人の天使が描かれたトゥールツォーグを着用します。

    「ドゥルヴッド族の衣装」
    ドゥルヴッド族は色付きのデールをデベルとウチと呼び、男性と女性のディールはラヴシグと呼びます。女性はシングルディールを着用し、既婚女性はその上にツェグデグを着用しています。ドゥルヴッド族は長方形の帽子を「マクライ」と呼んでいますが、これはオイラドの4つの州のうちの1つであることを意味します。夏に男性は白い革のトゥールツォーグを着用し、女性は青い革で作られた4人から6人の天使が描かれたトゥールツォーグを着用します。

  • 帽子の赤いリボンは未婚の女性を表現しています。冬には誰もが「ドゥルカ」の帽子をかぶり、帽子の後ろはデールの襟まで長く、内側は白い子羊の皮で外側は黒くや青緑色です。またドゥルヴォッド・ゴー、ハルチン・ゴー、モンゴル・ゴー、カンチンの4種類のブーツも使用しています。18歳以上の人は男女にかかわらず長い髪をしています。男性の髪の毛には「シリーセン」、女性の髪には「ブードッグ」と呼ばれる銀の飾りがついています。

    帽子の赤いリボンは未婚の女性を表現しています。冬には誰もが「ドゥルカ」の帽子をかぶり、帽子の後ろはデールの襟まで長く、内側は白い子羊の皮で外側は黒くや青緑色です。またドゥルヴォッド・ゴー、ハルチン・ゴー、モンゴル・ゴー、カンチンの4種類のブーツも使用しています。18歳以上の人は男女にかかわらず長い髪をしています。男性の髪の毛には「シリーセン」、女性の髪には「ブードッグ」と呼ばれる銀の飾りがついています。

  • 「ミャンガッド族の衣装」<br />ミャンガッド族の男性は黒いレースと赤または黄色の襟の縦襟のハルク・デールを着用します。ミャンガッドの既婚女性のデールは縦の襟と提灯肩のデザインが特徴的です。

    「ミャンガッド族の衣装」
    ミャンガッド族の男性は黒いレースと赤または黄色の襟の縦襟のハルク・デールを着用します。ミャンガッドの既婚女性のデールは縦の襟と提灯肩のデザインが特徴的です。

  • ミャンガッドの服には幅広の黒いバンデレットとダブルホシュモッグが取り付けられています。彼らは西洋の女性のようにネックレスなどを着けず、デールの襟は赤です。夏でも冬でも黒いベルベットの帽子をかぶっていますが、夏は白いリボンがついています。ミャンガッドの妻は髪を2つに分け、蝶のような形を作っています。

    ミャンガッドの服には幅広の黒いバンデレットとダブルホシュモッグが取り付けられています。彼らは西洋の女性のようにネックレスなどを着けず、デールの襟は赤です。夏でも冬でも黒いベルベットの帽子をかぶっていますが、夏は白いリボンがついています。ミャンガッドの妻は髪を2つに分け、蝶のような形を作っています。

  • 一時このような山珊瑚が気に入って、雲南省の山の中で探したことがあります。もちろん妻が気に入ってのことですが、20年くらい前は安く手に入れることができましたが、現在はどうなったでしょうか。

    一時このような山珊瑚が気に入って、雲南省の山の中で探したことがあります。もちろん妻が気に入ってのことですが、20年くらい前は安く手に入れることができましたが、現在はどうなったでしょうか。

  • 「ブリヤート族の衣装」<br />ブリヤートの服装は他のモンゴル人の服装と似ており、繊細な装飾とデザインが特徴です。ブリヤートの男性のコートには3つの織物が取り付けられます。ネックラインと袖をベルベットで覆い、若者の縁幅は小さく年長者の縁幅は大きくされます。男性の襟の後ろは高く、首の前の部分は低くなっています。

    「ブリヤート族の衣装」
    ブリヤートの服装は他のモンゴル人の服装と似ており、繊細な装飾とデザインが特徴です。ブリヤートの男性のコートには3つの織物が取り付けられます。ネックラインと袖をベルベットで覆い、若者の縁幅は小さく年長者の縁幅は大きくされます。男性の襟の後ろは高く、首の前の部分は低くなっています。

  • ブリヤート族は現在ブリヤート共和国があるロシアのバイカル湖周辺に44万人以上、モンゴル国の東部に4万人以上が住んでいます。ロシアのバイカル湖西岸のブリヤート族は300年以上にわたってロシア文化の影響を受けたため、かなりロシア化されているようです。

    ブリヤート族は現在ブリヤート共和国があるロシアのバイカル湖周辺に44万人以上、モンゴル国の東部に4万人以上が住んでいます。ロシアのバイカル湖西岸のブリヤート族は300年以上にわたってロシア文化の影響を受けたため、かなりロシア化されているようです。

  • 東岸はそれに比べれば少しは状況が良いようですが、やはり若い世代にはブリヤート語が話せない人やその文化を知らない人が多くなっているのが現状だそうです。一方でモンゴル国のブリヤート族は独自の文化や言語を守り続けています。

    東岸はそれに比べれば少しは状況が良いようですが、やはり若い世代にはブリヤート語が話せない人やその文化を知らない人が多くなっているのが現状だそうです。一方でモンゴル国のブリヤート族は独自の文化や言語を守り続けています。

  • 「ダリガンガ族の衣装」<br />モンゴルの手工芸品としてのダリガンガ族特徴は銀の芸術です。満州族時代には銀で賃金が牧夫に支払われました。それは宝飾品や装飾品に変えられ、その形は決して繰り返されませんでした。1800年から1970年にかけて多くの有名な職人が生まれ、彼らはダリガンガスタイルを開発しました。銀の鞍や手綱やナイフは龍や花や蝶が刻まれています。

    「ダリガンガ族の衣装」
    モンゴルの手工芸品としてのダリガンガ族特徴は銀の芸術です。満州族時代には銀で賃金が牧夫に支払われました。それは宝飾品や装飾品に変えられ、その形は決して繰り返されませんでした。1800年から1970年にかけて多くの有名な職人が生まれ、彼らはダリガンガスタイルを開発しました。銀の鞍や手綱やナイフは龍や花や蝶が刻まれています。

  • 夏には薄いローブとコートを身にまとい、春と秋には綿入れや子羊の皮の上着を身に着けました。ドレスや宝飾品は主に青色の絹で作られました。銀で装飾された「ダリガンガデザイン」はモンゴルだけでなくアジア一帯でも有名でした。

    夏には薄いローブとコートを身にまとい、春と秋には綿入れや子羊の皮の上着を身に着けました。ドレスや宝飾品は主に青色の絹で作られました。銀で装飾された「ダリガンガデザイン」はモンゴルだけでなくアジア一帯でも有名でした。

  • ダリガンガの女性はデールとウジを着ています。彼女たちの髪のポニーテールには珊瑚で飾られるのが特徴です。

    ダリガンガの女性はデールとウジを着ています。彼女たちの髪のポニーテールには珊瑚で飾られるのが特徴です。

  • 「バルガ族の衣装」<br />古代モンゴルの支配者の1人がバルガです。古代中世の史料によるとバルガの起源はバイカル湖のバルガジンで、クルンボイルと近隣のモンゴルの部族が住んでいました。研究者はバルガは唐の時代には最強の州の1つであったといいます。バルガの男性のコートは襟が広く、ベルトはレザーと巻き布の2種類で、伝統的に馬と牛の皮で作られており、外部は装飾されています。ベルトの色は黄色とオレンジです。

    「バルガ族の衣装」
    古代モンゴルの支配者の1人がバルガです。古代中世の史料によるとバルガの起源はバイカル湖のバルガジンで、クルンボイルと近隣のモンゴルの部族が住んでいました。研究者はバルガは唐の時代には最強の州の1つであったといいます。バルガの男性のコートは襟が広く、ベルトはレザーと巻き布の2種類で、伝統的に馬と牛の皮で作られており、外部は装飾されています。ベルトの色は黄色とオレンジです。

  • 既婚女性は長袖と袖に飾られた長衣のデールを着ています。女性のデールはリボンで飾られたボゴを取り付けた5つの銀のボタンのウジが付けられています。バルガブーツはブリアード族のブーツに似ています。子供用のブーツは羊や山羊の皮でできています。

    既婚女性は長袖と袖に飾られた長衣のデールを着ています。女性のデールはリボンで飾られたボゴを取り付けた5つの銀のボタンのウジが付けられています。バルガブーツはブリアード族のブーツに似ています。子供用のブーツは羊や山羊の皮でできています。

  • バルガ族の女性の衣装は銀や宝石を多用しているようで、これらは財産として持ち運びが安易であったのだと思います。中国の雲南省や貴州省の少数民族の人たちも同じような銀の装飾品で着飾っています。首から下げるこういった銀製の装飾品も以前は数千円で買うことができたので何とか旅するうちにたくさん溜まりました。年に何度か銀磨きで磨くのは大変です。

    バルガ族の女性の衣装は銀や宝石を多用しているようで、これらは財産として持ち運びが安易であったのだと思います。中国の雲南省や貴州省の少数民族の人たちも同じような銀の装飾品で着飾っています。首から下げるこういった銀製の装飾品も以前は数千円で買うことができたので何とか旅するうちにたくさん溜まりました。年に何度か銀磨きで磨くのは大変です。

  • 「カザフ族の衣装」<br />カザフ族の手工芸品の芸術はよく発達していました。カザフの女性はゲルの皮製品や多くの皮革製品を作るのが得意です。男性は木工や骨や鉄の技術に長けています。カザフの人々は音楽とダンスにとても興味があり、彼らの踊りはドンボールの組み合わせで楽しいです。ドンボールは2本の弦の楽器で、幅広いメロディーを持っています。彼らの祭日は新年と春の最初の日で、ナウリスはペレス語で新しい日を意味します。ナウリスではカザフ族が伝えている伝統的なゲームで遊びました。<br />カザフ族は鳥を狩猟に使う数少ない部族の1つで、この伝統は250年間続いており、カザフの男性はワシと一緒に狩りに行く人を誇りとしています。

    「カザフ族の衣装」
    カザフ族の手工芸品の芸術はよく発達していました。カザフの女性はゲルの皮製品や多くの皮革製品を作るのが得意です。男性は木工や骨や鉄の技術に長けています。カザフの人々は音楽とダンスにとても興味があり、彼らの踊りはドンボールの組み合わせで楽しいです。ドンボールは2本の弦の楽器で、幅広いメロディーを持っています。彼らの祭日は新年と春の最初の日で、ナウリスはペレス語で新しい日を意味します。ナウリスではカザフ族が伝えている伝統的なゲームで遊びました。
    カザフ族は鳥を狩猟に使う数少ない部族の1つで、この伝統は250年間続いており、カザフの男性はワシと一緒に狩りに行く人を誇りとしています。

  • モンゴルには四季があるためにその季節に応じて服装を変えました。衣服はその人の社会的や経済的な地位によって異なります。衣服の素材は革や絹や綿が用いられました。

    モンゴルには四季があるためにその季節に応じて服装を変えました。衣服はその人の社会的や経済的な地位によって異なります。衣服の素材は革や絹や綿が用いられました。

  • 古代の習慣に寄れば家畜の皮やカモシカの皮、シロイワヤギの皮を使用していました。貴族のローブはクロテンやテンの毛皮やシルクのベルベットで作られました。一方で屋外で働く人々は雨や冷たい風から体を覆うことが第一に考えられました。

    古代の習慣に寄れば家畜の皮やカモシカの皮、シロイワヤギの皮を使用していました。貴族のローブはクロテンやテンの毛皮やシルクのベルベットで作られました。一方で屋外で働く人々は雨や冷たい風から体を覆うことが第一に考えられました。

  • この部屋に飾られた民族衣装はとても興味深く見学できました。ただ、ツアーの説明としては簡単なものだったので写真を撮っている間にかなり置いていかれました。<br />モンゴルの民族衣装についてはこちらのサイトを一部参考にしました。<br />https://mongolia-guide.com/about-mongolia

    この部屋に飾られた民族衣装はとても興味深く見学できました。ただ、ツアーの説明としては簡単なものだったので写真を撮っている間にかなり置いていかれました。
    モンゴルの民族衣装についてはこちらのサイトを一部参考にしました。
    https://mongolia-guide.com/about-mongolia

  • 「鼻煙壺」<br />嗅ぎタバコ壺の交換は伝統的な歓迎のもっとも重要な行為の1つでした。モンゴルの嗅ぎタバコの蓋はその価値を決定する上で重要な役割を持っています。<br />

    「鼻煙壺」
    嗅ぎタバコ壺の交換は伝統的な歓迎のもっとも重要な行為の1つでした。モンゴルの嗅ぎタバコの蓋はその価値を決定する上で重要な役割を持っています。

  • かつては珊瑚から作っていたように玉髄や翡翠、碧玉や瑪瑙、ターコイズや水晶、トパーズや黒檀など貴重な材料が用いられました。嗅ぎタバコ壺が政治家や貴族や金持ちのアクセサリーだった時代がありました。

    かつては珊瑚から作っていたように玉髄や翡翠、碧玉や瑪瑙、ターコイズや水晶、トパーズや黒檀など貴重な材料が用いられました。嗅ぎタバコ壺が政治家や貴族や金持ちのアクセサリーだった時代がありました。

  • 鼻煙壷は中国で清の時代に流行しましたが、現在は日用品としてはあまり用いられていません。旅行前に1997年に放送されたNHKの「街道を行く/第2回モンゴル紀行」ではウランバートル市内でも鼻煙壷を後悔して、嗅ぎ合う習慣が残っていました。

    鼻煙壷は中国で清の時代に流行しましたが、現在は日用品としてはあまり用いられていません。旅行前に1997年に放送されたNHKの「街道を行く/第2回モンゴル紀行」ではウランバートル市内でも鼻煙壷を後悔して、嗅ぎ合う習慣が残っていました。

  • 個人的には「国立歴史民族博物館」の面白さにどっぷりハマってしまいましたが、ツアーのメンバーや妻までもがどんどん先に行ってしまうので、一人ぼっちになってしまいました。この先は大モンゴル帝国の時代へと移っていきますが、学ぶことの多い博物館です。

    個人的には「国立歴史民族博物館」の面白さにどっぷりハマってしまいましたが、ツアーのメンバーや妻までもがどんどん先に行ってしまうので、一人ぼっちになってしまいました。この先は大モンゴル帝国の時代へと移っていきますが、学ぶことの多い博物館です。

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2023 モンゴルの旅

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