2023/11/02 - 2023/11/02
128位(同エリア555件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1780冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,483,632アクセス
- フォロワー170人
「国立歴史民族博物館」の後半はモンゴル帝国の成立から周辺国家の征服へと広がっていきます。もちろん日本への「元寇」についても展示もありました。中欧の国を旅していると未だにその当時の名残があるようで、「タタールのくびき」という言葉が頭に浮かんできます。13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配をロシア側から表現した用語です。現在のロシア人などの祖先であるルーシ人の2世紀半にわたるモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念でもあります。食文化も西へ伝わり、タルタルステーキはヨーロッパでもポピュラーな料理になっています。ハンガリーでこの料理を食べたときは遠くモンゴルへ思いを馳せましたし、今回テレルジ国立公園のリゾートで食べたゴリヤシという牛肉の煮込み料理はハンガリーで食べたグヤ―シュがルーツと知りました。展示はチベット仏教やシャーマニズムについても紹介し、遊牧民の文化についても詳しい展示がされています。ウランバートルへ来てまだ3日ですが、これまでに少し知ることができたモンゴルという国の文化を改めて感じることができました。さらに最後の君主ホグド・バーンの時代からソヴィエトに続く社会主義国家の樹立、そして現在のモンゴル国への歴史アーカイブといった展示が続いていきます。途中からガイドさんの説明から遅れての写真撮影になってしまい、聞き逃したこともあるようでちょっと残念でした。キャプションや説明文の写真も撮ってあるのでパソコン画面上の写真をスマホのグーグルカメラで翻訳してなるほどなと感心しながら旅行記のアップが続きます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 鉄道 観光バス 徒歩
- 航空会社
- ミアットモンゴル航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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モンゴル帝国はモンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・ハーンが1206年に創設した遊牧国家(ウルス)です。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス 「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称しました。モンゴル帝国の創始者チンギス・ハーンとその兄弟や子息たち、「四駿四狗」に代表される部将(ノヤン)たち、及びそれらの後継者たちはモンゴル高原から領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ・アナトリア(現在のトルコ)・シリア、南はアフガニスタン・チベット・ミャンマー、東は中国・朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げました。最盛期の領土面積は地球上の陸地の約17%を統治し、当時の人口は1億人を超えていました。
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元寇は日本の鎌倉時代中期の1274年と1281年にモンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻です。蒙古襲来とも呼ばれ、1度目を文永の役、2度目を弘安の役といいます。2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は当時世界最大規模の艦隊でした。
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歴代の年譜ととくに有名な皇帝たちは肖像画で紹介されています。この博物館へ来る前に「政府宮殿(国会議事堂)」の建物の前でチンギス・ハーンとオゴデイとクビライの3人の皇帝と、「四駿四狗」の中の2人のモンゴル軍隊長ポオルチュとムカリについて学んでおいて良かったです。
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モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝を中心に「アルタン・ウルク(「黄金の一族」の意味)」と呼ばれるチンギス・ハーンの子孫の王族たちと彼らに従属する部将(ノヤン)たちによって、主に戦功等に応じて各地に分与された領民と領国を支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなしました。「千戸(ミンガン)制度」と呼ばれるテュルク・モンゴル系の騎馬軍団を基礎とし、皇帝の命によって分与されたそれら数十もの千戸軍団を各モンゴル王族や部将たちが管轄し、軍団や征服地域の租税や民政の管理を皇帝直属の財務官僚(ビチクチ)たちが担いました。
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「軍用兜と鎖帷子」モンゴル帝国13世紀から14世紀
学生時代に元寇について学ぶことがあっても、日本でその実物を見ることはありませんでしたが、こうやって目の前に兜や鎖帷子を見ると現実感があります。 -
「ゲルべ(レプリカ)」モンゴル帝国時代13世紀14世紀
ゲルへはパイザとも呼ばれモンゴル人が権威を示すために保持していた平板状の小物です。モンゴル帝国の交通網である駅伝制(ジャムチ、站赤)で使用された通行証のことで、現代のパスポートにあたります。モンゴル帝国時代はモンゴル人の官僚や使節など高位の者がその地位に付随する権威や権限を示すために帯同していた平板状の小物が西洋人にパイザと呼ばれ、漢語では牌子、牌符とも書き、モンゴル語ではゲレゲ(gerege)と呼びました。これは銀製ですが、持ち主の地位により素材が変わったそうです。 -
「ブロンズ製通行証(レプリカ)」モンゴル帝国時代13世紀14世紀
パスパ文字は発明から100年間ほどしか使われませんでしたが、チベットでは1642年に発足したガンデンポタン政権のもとで、ダライ・ラマがチベット・ハルハ・オイラトなどの諸国のモンゴル人王公たちに称号を授与する際、印章に称号を刻むための文字として採用されました。 -
「千戸(ミンガン)隊長の印(レプリカ)」モンゴル帝国時代1362年
千戸制度と呼ばれるテュルク・モンゴル系の騎馬軍団を基礎とし、皇帝の命によって分与されたそれら数十もの千戸軍団の隊長が使用した印です。 -
「軍司令官の印(レプリカ)モンゴル帝国時代1285年
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「グユグ・ハーンからローマ教皇インノケンティウス4世への手紙(コピー)」1246年バチカン秘密文書館蔵
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ローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたこの書簡はモンゴル帝国で作成された経緯と来歴がはっきりしている命令文書としては最古の部類に入り、またこの書簡に捺印されているウイグル文字によるモンゴル語の印璽や銘文もモンゴル語の資料としても絶対年代が判明している実質最古のものとされます。国書はアラビア文字で書かれ「永遠なる天の力により、(中略)ハンの勅」という冒頭の3行のみテュルク語であり、それ以外は全てペルシア語文から成っています。
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この勅書はローマ教皇の親書に応える内容のものでしたが、主旨はモンゴル軍のハンガリー王国やポーランド王国などの遠征に対するローマ教皇側の非難を拒絶しつつ、逆にローマ教皇側が真のキリスト教徒であると自尊して他のキリスト教諸派を侮蔑している態度を批判しています。さらにチンギス・ハーン以来、モンゴル帝国が「日の昇るところから没する地まで」全世界に対する支配権を預託されていることを強く宣言したものでした。ローマ教皇およびヨーロッパ諸国の君主たちにモンゴル帝国への即時の帰順と降服勧告を命じ、ローマ教皇自身がヨーロッパの君主たちを率いモンゴル宮廷に自ら参上して率先的にモンゴル帝国に帰順するよう強く勧告して、これを拒んだ場合は再度武力による討伐もあり得ることも付言していました。勅書では明らかにローマ教皇を下に見て書かれてあり、ローマ教皇にこのような公文書が送られたのは初めてのことでした。
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この紙幣はフビライ・ハーンの勅命によりモンゴル帝国の流通通貨として初めて発行されました。この紙幣のほとんどの文字は中国語で書かれています。モンゴル楷書(ファグス・バ)で書かれ、大ハーンの財務印章が押されています。この紙幣の偽造は死刑に処せられ、通報者には銀が与えられました。この紙幣は法令によって認められた高い特権が与えられ、帝国全土で使うことができました。
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「羊の骨(シャガイ)」モンゴル帝国13世紀から14世紀
シャガイとはモンゴル語で「家畜のくるぶしの骨」のことを言います。占いやおはじき、すごろくなどの遊び道具としてモンゴル人の間で親しまれてきました。羊やヤギのシャガイは遊び道具として使われますが、狼のシャガイ(チョニシャガイ)はお守りとして使用されています。モンゴルで狼は強運の動物と信じられているため、狼のシャガイには魔除けのパワーがあり、それを持つ男性は幸運と言われているそうです。 -
「ブロンズ製の鏡」モンゴル帝国13世紀から14世紀
日本でも古墳時代の4世紀頃の銅鏡が発掘されますが、13世紀のモンゴルでは銅鏡が使われていたということは世界的なスタンダードだったのでしょう。磨いた金属板にかわって、ガラス鏡はイタリアルネッサンスの早い時期の1300年代に生まれました。金属鏡とは比べ物にならない大きさと美しい反射を持つガラス鏡を自分のものにしたいと考える周辺諸国の王が隣国フランスのルイ14世でした。領土の拡大などに野心あふれる王でしたがヴェネツィア共和国相手では侵略や正攻法では無理と考え、ムラノ島から職人をひそかに連れ出す作戦を実行し、破格の待遇をして自国に鏡工場を作ります。そして1682年に完成したヴェルサイユ宮殿のなかに「鏡の間」を作り上げます。 -
モンゴル帝国の軍用甲冑の模型がありました。今まで映画のシーンなどで見ることがありましたが、レプリカとはいえ帝国の軍団の迫力を感じます。
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モンゴル帝国の軍団で都市や城を攻撃するために使う武器をハーヴールと呼び、木製の投石機はウルヴルと呼びました。歯車を用いた武器はチョドゥルオンやハヤフチと呼び、これらの武器を使って要塞などを破壊しました。
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1206年2月にテムジンはフフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、九脚の白いトゥク(ヤクやウマの尾の毛で旗竿の先を飾った旗指物)を打ち立て、諸部族全体の統治者たるチンギス・ハーンに即位してモンゴル帝国を開きます。チンギス・ハーンという名はこのときイェスゲイ一族の家老のモンリク・エチゲという人物の息子で、モンゴルに仕えるココチュ・テプテングリというシャーマン(巫者)がテムジンに奉った尊称です。「チンギス」という語彙の由来については確実なことは分かっていなく、元々モンゴル語ではなくテュルク語から来た外来語だったとみられ、「海」を意味するテンギズを語源にする説や、「烈しい」を意味したとする説、「世界を支配する者」を意味したとするなど、さまざまに言われているようです。
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「白旗の三尖の旗指物(レプリカ)」
金メッキが施された九脚の白いトゥクの旗先は永遠の象徴でした。 -
カラコルムはモンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ230キロ、ウブルハンガイ県北西部のオルホン河畔に位置した都市で、かつてのモンゴル帝国の首都であり古都としても知られます。カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味し、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えるそうです。
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カラコルムの遺跡から発見された陶器の破片には中国の龍泉窯の花瓶なども含まれています。
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陶器製品だけでなく馬上杯の形をした木製の器などもあります。馬上杯とは手で支える高台部分が長い杯のこと。で、馬上において杯を交わす騎馬民族によってもたらされたものと考えられています。
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先ほど「政府宮殿(国会議事堂)」の建物の前で見てきたチンギス・ハーンとオゴデイとクビライの3人の皇帝の肖像画が並びます。
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歴代皇帝の皇妃の肖像画は初めて目にしました。皆さん丸顔なので、博物館の入り口にあった顔はめのパネルで妻の顔がぴったり嵌るはずです。
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「モンゴルのシャーマニズム」
モンゴルではシャーマンの役割を持つ人は「ボー」と呼ばれます。ボーは一般に20歳ぐらいになると突然意識を失ったり神からの声が聞こえるようになり、神からボーになりなさいと「召命」を受けるそうです。それから先輩のボーについて修行をし、新しい世代のボーとして活動するそうです。モンゴルのシャーマニズムは白(善)と黒(悪)の2つのスタイルに分かれていて、白は悪霊を払ったり、病人を治療する祈祷師的な役割に対し、黒の方は呪いをかけたりする呪術師的な役割があります。 -
モンゴルの遊牧民の間には古くから「テングリ」 と呼ばれる概念があります。テングリは男性神であり、女性神である大地に対応するそうです。テングリは「天上世界」「天上神」「運命神」「創造神」などを意味していて、自然崇拝や土着信仰のシャーマニズムとも深く結びついていると言えます。またテングリのこの概念にはシャーマニズムと同じように、宇宙を天上界・地上界・地下界の3つの世界に分けて考える「宇宙三界」があります。
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このような概念がモンゴルの遊牧民の間に存在していたからこそ、同じように自然崇拝や宇宙三界観と密接に関係するシャーマニズム文化も発展し、人々に広く受け入れられました。モンゴルではチベット仏教と古来から続くシャーマニズムがときに対立や敵対しながらも互いに混じり合い信仰され続けてきました。シャーマニズムはかつては仏教勢力やソ連影響下の社会主義勢力によって幾度も弾圧を受けていましたが、モンゴルの遊牧民族の自然崇拝と密接に関係しながら発展してきました。シャーマニズムはモンゴル文化や習慣に大きな影響を及ぼし、今現在の人々の暮らしや考え方にも深く根付いています。
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「ラマの普段着」
ラマとはチベット仏教における僧侶の敬称の1つで、チベット語で上人(しょうにん)あるいは聖人という意味があります。チベット仏教の僧侶を総称して「ラマ僧」と呼ぶことがありますが、本来ラマとは自らの師匠たる僧を指す語で、修行僧を一般的にラマ僧と呼ぶのは誤りです。 -
雲南省の香格里拉で買ってきた僧侶の法衣よりはだいぶオレンジ色に近いです。上着なども袖のあるタイプなのでその姿にも違いがあります。
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「緑多羅菩薩(グリーンターラー)像」19世紀から20世紀
緑多羅菩薩は観音菩薩が救っても救っても一向に減らない人々の苦難を見て思わずその眼から流れ出た涙から生まれ出たといわれ、苦難の海でもがき苦しんでいる衆生を救うという誓いを立てたといいます。日本人にはあまり馴染みがない多羅ですが、誰にでも分け隔てなく困難からの救いの手を差し伸べてくれ、またチベット仏教では数少ない女性の菩薩ということもあって信仰の対象になっています。 -
「大威徳明王(ヤマンタカ)像」19世紀
ヤマンタカはサンスクリット語の名前で、「死の破壊者」または「死の征服者」を意味します。名前の1つの源はヒンドゥー教の神シヴァ神が信者を死の魔の手から救う姿であるといわれます。仏教でのヤマンタカは智慧の菩薩であるマンジュシュリの怒りの表現とされます。 -
「観音菩薩(アヴァロキテーシュヴァラ)像」19世紀から20世紀
インドでは男性として描かれていますが、東アジアの仏教ではアヴァロキテーシュヴァラは中国や日本語では観音として知られる女性の姿として描かれます。チベット仏教で最も人気のある真言(マントラ)とされます。 -
日本では奈良時代から十一面観音の造像と信仰は盛んに行われ、その姿は頭上の正面側に柔和相(3面)、左側(向かって右)に憤怒相(3面)、右側(向かって左)に白牙上出相(3面)、背面に大笑相(1面)、頭頂に仏相を表鷲ますが、この像では違った表情をしています。
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「べグツェ」19世紀から20世紀
べグツェはチベット仏教の着雁の神ダルマパーラであり、戦争の主であり、もともとはモンゴルの仏教以前の軍神です。 -
ベグツェは赤い肌と橙赤色の髪、2本の腕と3つの充血した目を持ち、右手に剣を振るっています。また、左手には人間の心臓を持っています。左腕には弓矢と三叉の鉾を持っています。モンゴルの兜をかぶり、頭上には5つの髑髏を乗せています。
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「摩尼車」銀製19世紀から20世紀
オンマニペメフンの六字大明呪(ろくじだいみょうじゅ)の最後の2文字が読み取れます。この陀羅尼を唱えれば様々な災害や病気、盗賊などから観世音菩薩が護ってくれるとされます。今回の旅の初日にホテルで尿管結石の発作が出た際にこの陀羅尼を唱えていました。 -
「阿弥陀仏(アミータ・アユース)」19世紀
チベット仏教では無量寿仏と無量光仏は区別されています。ゲルク派第2位のパンチェン・ラマは無量光仏の化身とされます。チベット死者の書によれば大日如来、阿閦如来、宝生如来に続いて死後の4日目に魂の救済に現れるとされます。 -
チベタンホルンと呼ばれるガドゥンが並んでいます。以前に中国雲南省の香格里拉郊外の松賛林寺に行った際に屋根の上でこの楽器を練習している若い僧侶を思い出します。
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こちらもホルンとしか説明がありませんが、チベット仏教の法具のカンリンのような形をしています。
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ンガと呼ばれる枠太鼓とバチもチベットのツチェなどの祭りで使われるものに酷似しています。
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持ち手が五鈷祥になったはチベット仏教の儀式で使われる道具の中でも重要なものです。トゥンカル(チベット語:???????? dung dkar)はチベット語で「白い法螺貝」を意味し、梵語で法螺貝を意味するシャンカとも呼ばれます。インド史を通じ、法螺貝は大いなる力や権力、威信の象徴とされます。インドの叙事詩の英雄達はみな名を持った白い法螺貝を持っていました。英雄が白い法螺貝を鳴らすと敵軍は恐怖に慄き、それは戦いの始まりを意味しました。
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モンゴルにも笙があることに驚きました。銅鼓と笙(しょう)は東アジア地区の多くの民族に共有の典型的な楽器であり、古代から伝えられた文化的記号ともいえます。中国の貴州省を旅した時は苗族の村の歓迎会でこの音色を聴いたことが思い出されます。
季刀苗塞:https://4travel.jp/travelogue/10354647
巴沙村:https://4travel.jp/travelogue/10354912 -
モリンホールは弦の本数が2本の擦弦楽器で、モンゴルを代表する弦楽器です。モンゴル語で「馬の楽器」という意味であり、楽器の棹の先端部分が馬の頭の形をしているため、日本では中国と同じ馬頭琴と呼ばれます。日本では絵本の「スーホの白い馬」に出てくる楽器としても知られます。一昨日に演奏を聴いたことがもう遠い昔のようです。それほど粉期のツアーは充実した内容でした。
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「アラグ・メルキ」
ナックルボーン(羊のくるぶしの骨)が色とりどりの亀の形に配置されたモンゴルのゲームです。 -
「モンゴルのチェスセット」
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「バヤスガランゲーム」
干支や八吉祥のデザインが施された板が何組か使われるゲームです。詳しい使い方は分からなくても何となく想像がつきます。 -
モンゴルの伝統的なゲームがいくつも展示されています。現在はコンピューターゲームが当たり前ですが、昭和30年代までの子供はこういった素朴なゲームが当たり前でした。
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モンゴルの19世紀から20世紀にかけての農業工具の展示も興味深かったです。この時代の農具は説明を見なくても使い方が分かる気がします。
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モンゴル高原にはモンゴル帝国や清朝の時代に国家主導のもとに漢人等が規模の大きい耕地を拓いて農耕に従事したり、あるいは清朝時代末期以後に特に顕著だった漢人農民が入り込んできて開墾したり、本格的な農耕も行われた時代がありました。
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遊牧民族に対峙した時「農耕」を基本的営みとする人々は自己を「文明人」と自負し、同時に「遊牧」を蔑視したようです。農耕に依拠する漢人は遊牧の民を「夷狄(いてき)」と呼称しましたが、「夷」とは東方で「狄」は北方での未開の民を指します。モンゴルの遊牧民は大地を耕すことを嫌悪したという話を、この鋤を見て思い出しました。司馬遼太郎もモンゴルの大地を「生きた皮」と表現し、それは固く薄く、それによってその下の表土が吹き飛ぶのを防いでいると言っています。
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モンゴルでは米は作られないだろうことからこの脱穀機では麦の穂が脱穀されたのだろうと思います。
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モンゴルには四季があり、高山と草原、砂漠地帯という独特の自然とチリの組み合わせがあります。モンゴルの遊牧民は馬に乗り、家畜と共に移動しながら一年中暮らしました。移動には牛や馬を使い砂漠地帯ではラクダが用いられました。そんなルートが地図に表されています。
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巨大な荷車は解体したゲルを運ぶためのものです。この1台に1軒のゲルが積み込めるようです。横には本物のゲルが組み立てられています。
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17世紀にチベット仏教がモンゴルに広まった後に僧侶が使う宗教上の胴具や装飾品は独特のスタイルに変わっていきます。高位の僧侶が使う鞍には特別な細工が施されるようになります。それは黒いベルベットでトリミングされた絹のクッションの付いた鞍や金メッキが施された金具が付けられました。
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19世紀にはダライ・チョインコールという職人が作った鞍のモデルが主流でした。20世紀になると撮る児という有名な職人が現れ、建国25年に国からの贈答用の鞍などが作られました。チョイバルサン・ドルジ元帥の命によって造られた鞍はその後のスタンダードとなっていきます。
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「鐙(あぶみ)」
モンゴルの遊牧民は机上で立ち乗りすることが多いので、このような安定性のある鐙が使われたのだと思います。 -
鞍の形状も立った姿勢を保ち易くするために、前部に凸部がある。そこに身体を押し付けて支えるのでしょう。こうした安定した騎乗方法で馬を操り、大草原を疾走するのだと思います。
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昔中国の雲南省で乗馬をしたことがありますが、次にモンゴルに来ることがあれば乗馬も楽しんでみたいと思いました。
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初めて馬に乗った割には余裕でした。
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砂漠地帯での移動にはフタコブラクダが使われました。ラクダに乗るための装備としては鞍と鼻に着けるペグなどが必要でした。
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ラクダ用の鞍はウール製で乗馬用のものとは違う形状をしています。これらはアナトリア地方の絨毯屋で見掛けるような姿をしています。
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エジプトで初めて乗ったラクダはあまり乗り心地は良くなかったです。
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農耕用の牛などに使われる鞍などは素朴な木製で、装飾などは施されていません。こちらは農耕具の延長という扱いのように感じます。
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次回はゲルに宿泊して乗馬を楽しむ旅を計画しようという思いが強くなってきます。
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「サヴィヤ」
金属製のティーポットです。モンゴルで飲まれる茶葉は遠く茶葉古道を通り、中国の商人の手を経てモンゴルにもたらされたのでしょうか。モンゴル語では型に押し固められた形からヘビンチャイ(型茶)と呼ぶお茶が飲まれているようです。新中国の建国以前は南からやって来る漢人商人からこのお茶を1個手に入れるために、子羊付きの雌羊1匹をその代金にすることもあったそうです。 -
「スーテーツァイ」という塩入りミルクティーをゲルで飲んだ時の味が下の上に蘇ってくる気がします。
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モンゴルの鍛冶職人の胴具も並んでいます。ふいご等見たことのある道具もあるようです。中国の雲南省の苗族やトン族の村に行くと現在もこのような道具を使って銀製品を加工しているのを見ることができると思います。
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横棒を上下することで木材に穴が開けられる手動のドリルですね。火を興す道具と大差ないようにも見えます。
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遊牧民にとって大切な毛織物の展示では羊毛から糸をつむぐ道具に始まり、機織機迄まで並んでいます。絨毯などの目はかなり粗く糸も太いですが、素朴なものが織られています。カッパドキアのギョレメで絨毯屋を営む友人は元気だろうかと思い出しました。
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「アブタイ・サイン・ハーンの印璽」
アブタイは宗教下でモンゴルを統一しようとしたモンゴル貴族の1人でした。彼はチベットのダライ・ラマ法王ソドノムジャツムと会い、彼より「オチライ・ハーン」の称号を授与されます。 -
「ハルカ・ハーンの印璽」清朝雍正年
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モンゴル最後の皇帝ホグド・ジヴズンダンバ・クトゥグトゥとドンドグ・ドゥラム王妃の肖像写真です。モンゴルにもラスト・エンペラーがいたわけです。
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ジェプツンダンバ・ホトクト8世は僧侶にもかかわらず、テンジン・ドンドグラムという名のエヘ・ダギナ(荼枳尼天母)として知られていた妻を娶っていました。テンジン・ドンドグラム王妃の死後はゲネピルという名の北方出身の女性が王妃の座に選ばれますが1年も経たずしてジェプツンダンバ・ホトクト8世が逝去してしまいます。その後ゲネピルは実家に戻り生活しますが、モンゴル人民共和国のスターリン派による粛清により1938年に処刑されることになります。ボグド・ハーンの夏の宮殿跡地には「政府宮殿(国会議事堂)」が建っています。冬の離宮は保存され、今はウランバートルの観光名所となっている「ホグド・バーン宮殿美術館」です。
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「吉祥模様彫刻入り供物椀」20世紀初頭
ホグド・バーンが宮殿で使っていた調度品も並んでいます。 -
「龍のハンドル付きペアティーポット」
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「ジェプツンダンバ・ホトクト8世の銀製の象」
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「ロシア帝国からT.ナムナンス―レン大臣へ贈られた銀とエナメルの箱」
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「マキシム・マシンガン」
マキシム機関銃は1884年にアメリカ生まれのイギリス人発明家ハイラム・マキシムによって開発された世界初の全自動式機関銃です。最初期の実用的な機関銃であり、以後の戦場に革命をもたらしました。 -
「モンゴル人民共和国の国章」
1940年に織られた絨毯の国章です。 -
いつのまにかモンゴル人民共和国時代に展示は変わっています。1960年から1992年までモンゴル人民共和国が採用していた国章は、現在の国章と同じような形ですが、中に描かれる物は異なっています。社会主義のシンボルが仏教のシンボルの代わりに採用され、「風の馬」のかわりに馬に乗った人物が描かれています。背景では白い雪をかぶった山から太陽が昇っり、紋章の下には法輪ではなく産業を象徴する歯車が描かれ、紋章の周りは農業を意味する麦の穂がデザインされています。紋章の上方には赤い星が輝き、その中にソヨンボがあしらわれています。紋章の下には、歯車の前に赤と青(国旗の色)の帯が描かれ、モンゴル人民共和国の略称である「БНМАУ」の文字が書かれています。
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「FELIX機械式電卓」1929年から1979年
ソヴィエト連邦のシェトマッシュ工場で製造された機械式の電卓です。 -
「社会主義モンゴル」についての展示は2部屋に渡ってかなりのスペースがとられています。
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モンゴル国境に置かれた碑が展示されています。これは人間の瀬の高さよりも低いですが、実際はもっと巨大なもののようで、写真も展示されています。モンゴル国の国際関係は近代以降に限っても中国への組み込みを目指す清朝、中華民国歴代政権との対峙から、中国と対峙するのに必要な軍事や経済支援をあおぐ代償としてのロシア帝国、ソヴィエト連邦への従属、南モンゴルとの統合をめぐる試行錯誤、
全方位外交への道、チベット仏教を背景としたチベットとの連帯と断絶と交流の再開などがあげられます。 -
モンゴルの北端と東端のこのような荒涼とした場所に置かれていた写真パネルです。同じように南端と西端の写真もありました。これ以外にも国境線を表す指標がありますが、このレプリカとは帰りの空港で出会えました。
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ドイツ製の拳銃モーゼルと煙草入れとお守りが並んでいます。それぞれモンゴル人民党の英雄の持ち物のようです。
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「ダムディン・スフバートルの法螺貝」
先ほど「スフバートル広場」で騎馬像を見てきたばかりのモンゴルの英雄の持ち物です。持ち主が分かるものだとモンゴルの歴史の一部を垣間見たような気がします。 -
「ダムディン・スフバートルのマグナグ・デール」
ホグド・バーン国家独立達成における英雄スフバートルの民族衣装デールとブーツです。 -
印章を入れる箱は古代中国のテレビドラマで見るようなものです。
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左は駐ソ・モンゴル大使館の印章で、右は内務省で使われたモンゴル聖書研究所の印章です。どちらも中央にソヨンボという意匠が組み込まれています。それぞれの図形は上から、火・太陽・月・矢・槍・長方形・巴をあらわしています。
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ロシアの伝統的な酒器セットです。ソヴィエトから共和国樹立1周年を記念して贈られたものです。真鍮にエナメルが施され、貴石が嵌め込まれています。製作したソヴィエトのオフチニコ工房は19世紀後半に出来たモスクワ最大の宝飾品会社の1つです。
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バリンギーン・ツェレンドルジ首相の卓上の文房具セットも立派です。ボグド・ハーン政権およびモンゴル人民共和国の首相で、ジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)の宗教的リーダーシップの下でモンゴル国(ボグド・ハーン政権)を樹立させました。
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「モンゴル人民党スフバートル総司令官のデール」
このデールはアルタンプラク解放後にウランバートルへ戻る際にこの服を着ました。 -
モンゴル人民共和国時代は「ソヴィエトの16番目の共和国」と呼ばれるほど関係が緊密でした。インターコスモス計画に基づき、宇宙船ソユーズにモンゴル人宇宙飛行士がアジア人として2番目に乗り組んだこともあり、1942年のキリル文字採用は言うに及ばず、現代生活のほとんどすべての面にわたってソヴィエト及びロシアの習慣が普及しています。民主化後のモンゴルの大統領やモンゴルの首相も殆どがソヴィエトに留学した経歴を持っています。
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デモの旗を掲げるダムディン・スフバートルの写真が展示してあります。
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白黒写真では分からないデールと帽子の色も現物を見るとリアルに感じられます。
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3フロアに渡った「国立歴史民族博物館」の見学も終わりました。規模は大きく葉ありませんが、内容も充実しているので見ごたえはありました。写真も撮って良かったと思います。写真が無ければ旅行後に確認することも出来ず、内容の薄いモンゴルの旅になっていたと思います。
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旅行記グループ 2023 モンゴルの旅
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