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東北の秘湯温泉巡りのツアーも最終日になりました。「新玉川温泉」の湯にゆっくり浸かった後はバスに乗って八幡平の山を西側に下り、田沢湖の手前で左折して「乳頭温泉郷」に向かいます。「乳頭温泉」というと巨大な白濁した露天風呂を想像しますが、到着したのは「大釜温泉」とい小さな宿でした。湯は同じなのかもしれませんが、持っていたイメージとかけ離れすぎていてちょっと残念でした。これで8つの湯巡りは終わりです。バスは来た道を引き返し、「田沢湖」の湖畔のドライブインに停車します。ここでは秋田犬や比内鶏が出迎えてくれます。まずは「田沢湖」へ出てみます。朝から小雨が降っていたので心配しましたが、湖畔に出ると陽射しも差し込んできて対岸までが見渡せました。たつこ姫の金色の像を探してみますが、対岸の辺りにあるようで見ることは出来ないようです。諦めて居た象でしたが、次に向かう「角館」へは湖を半分周回しなければならず、分岐点の所で湖の中に立つ黄金色の像を見ることが出来ました。バスのドライバーさんがしばらく停車してくれたので写真も撮ることが出来ました。あっという間の初「田沢湖」でしたが、これで十分に思えました。「角館」に来るのも初めてでしたが、2月に「上桧木内風船上げ」という祭りを観に来ていて、その際にバスで近くは通過していました。何となく道路周辺の景色は覚えていましたが、豪雪の季節とはかけ離れた穏やかな風景に変わっています。上桧木内川の河畔の駐車場でバスを降りて、遅いお昼を兼ねた自由行動になります。ここでの観光はほとんど考えていなかったのですが、ご一緒していたご夫婦の奥さんが詳しいので同行させていただくことにします。まずは「金柑まんじゅう」というキーワードをもとにお菓子屋さんを探すことにします。武家屋敷の板塀を塗りなおしていた職人さんとご主人が親切に道を教えてくださり、難なく見つけることが出来ました。ここで地元の友人家族用のお土産もゲット出来ました。シロップで煮含められた甘い金柑と白あんをくるんだ上品なお菓子でした。ここの主人においしい蕎麦屋を尋ねると、自分が一番好きな蕎麦屋は「そばきり長助」ですと教えてくれました。赤そばも食べられるということですが、そもそも赤そばについて知りません。ということで教えてもらった道を進むとそのお店はありました。桜の季節も終わって比較的空いている「角館」ですが、武家屋敷通りには観光客も多くて心配しながら店の引き戸を開けると先客は同じツアーの若いご夫婦が1組だけでした。我々が入ると店の4つのテーブルは全部埋まったので、空いていてラッキーだったと思いました。ここでは秋田の日本酒を飲みながら蕎麦の出来るのを待ちます。十割赤そば(高嶺ルビー)と会津在来種の食べ比べをいただきましたが、どちらも腰があって美味しかったです。別注文した海老の天婦羅も揚げ具合と言い、良い蕎麦屋を教えてもらったと思いました。ここからはぶらぶら武家屋敷通りに戻りましたが、1人だけ「角館」が初めてだったので「青柳家」の見学に行きました。ここの屋敷も素晴らしかったのですが、小田野直武について知ることが出来たのは良かったです。速足で見学しましたが、40分は必要で、残された10分で駐車場へ戻りましたがかなり走らなければなりませんでした。「角館」で予定の観光は全て終わり、バスは雫石を抜けて盛岡に向かいます。盛岡で時間があれば駅前の焼き肉屋で冷麺を食べたいと思っていましたが、40分ほどだったのでお弁当を買って新幹線に乗り込みました。大宮駅で途中下車するのは我々だけでしたが、4日間同じ湯に浸かって親近感が湧いたせいか、何人かの方がデッキまで見送ってくださいます。こちらもホームを出る新幹線を見送りましたが、大勢の方が手を振ってくださいました。通常のツアーとは違った不思議な一体感を感じたツアーは終わりました。

トラピックス 東北8つの秘湯巡り 4日間(4)「新玉川温泉」から最後の「乳頭温泉」に立ち寄り、田沢湖を経て角館で赤そばを食べて盛岡から帰る。

14いいね!

2023/06/09 - 2023/06/09

320位(同エリア790件中)

kojikoji

kojikojiさん

この旅行記スケジュールを元に

東北の秘湯温泉巡りのツアーも最終日になりました。「新玉川温泉」の湯にゆっくり浸かった後はバスに乗って八幡平の山を西側に下り、田沢湖の手前で左折して「乳頭温泉郷」に向かいます。「乳頭温泉」というと巨大な白濁した露天風呂を想像しますが、到着したのは「大釜温泉」とい小さな宿でした。湯は同じなのかもしれませんが、持っていたイメージとかけ離れすぎていてちょっと残念でした。これで8つの湯巡りは終わりです。バスは来た道を引き返し、「田沢湖」の湖畔のドライブインに停車します。ここでは秋田犬や比内鶏が出迎えてくれます。まずは「田沢湖」へ出てみます。朝から小雨が降っていたので心配しましたが、湖畔に出ると陽射しも差し込んできて対岸までが見渡せました。たつこ姫の金色の像を探してみますが、対岸の辺りにあるようで見ることは出来ないようです。諦めて居た象でしたが、次に向かう「角館」へは湖を半分周回しなければならず、分岐点の所で湖の中に立つ黄金色の像を見ることが出来ました。バスのドライバーさんがしばらく停車してくれたので写真も撮ることが出来ました。あっという間の初「田沢湖」でしたが、これで十分に思えました。「角館」に来るのも初めてでしたが、2月に「上桧木内風船上げ」という祭りを観に来ていて、その際にバスで近くは通過していました。何となく道路周辺の景色は覚えていましたが、豪雪の季節とはかけ離れた穏やかな風景に変わっています。上桧木内川の河畔の駐車場でバスを降りて、遅いお昼を兼ねた自由行動になります。ここでの観光はほとんど考えていなかったのですが、ご一緒していたご夫婦の奥さんが詳しいので同行させていただくことにします。まずは「金柑まんじゅう」というキーワードをもとにお菓子屋さんを探すことにします。武家屋敷の板塀を塗りなおしていた職人さんとご主人が親切に道を教えてくださり、難なく見つけることが出来ました。ここで地元の友人家族用のお土産もゲット出来ました。シロップで煮含められた甘い金柑と白あんをくるんだ上品なお菓子でした。ここの主人においしい蕎麦屋を尋ねると、自分が一番好きな蕎麦屋は「そばきり長助」ですと教えてくれました。赤そばも食べられるということですが、そもそも赤そばについて知りません。ということで教えてもらった道を進むとそのお店はありました。桜の季節も終わって比較的空いている「角館」ですが、武家屋敷通りには観光客も多くて心配しながら店の引き戸を開けると先客は同じツアーの若いご夫婦が1組だけでした。我々が入ると店の4つのテーブルは全部埋まったので、空いていてラッキーだったと思いました。ここでは秋田の日本酒を飲みながら蕎麦の出来るのを待ちます。十割赤そば(高嶺ルビー)と会津在来種の食べ比べをいただきましたが、どちらも腰があって美味しかったです。別注文した海老の天婦羅も揚げ具合と言い、良い蕎麦屋を教えてもらったと思いました。ここからはぶらぶら武家屋敷通りに戻りましたが、1人だけ「角館」が初めてだったので「青柳家」の見学に行きました。ここの屋敷も素晴らしかったのですが、小田野直武について知ることが出来たのは良かったです。速足で見学しましたが、40分は必要で、残された10分で駐車場へ戻りましたがかなり走らなければなりませんでした。「角館」で予定の観光は全て終わり、バスは雫石を抜けて盛岡に向かいます。盛岡で時間があれば駅前の焼き肉屋で冷麺を食べたいと思っていましたが、40分ほどだったのでお弁当を買って新幹線に乗り込みました。大宮駅で途中下車するのは我々だけでしたが、4日間同じ湯に浸かって親近感が湧いたせいか、何人かの方がデッキまで見送ってくださいます。こちらもホームを出る新幹線を見送りましたが、大勢の方が手を振ってくださいました。通常のツアーとは違った不思議な一体感を感じたツアーは終わりました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス 新幹線 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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  • ツアーも最終日になりました。ここまで良かった天気も下り坂で雨模様です。

    ツアーも最終日になりました。ここまで良かった天気も下り坂で雨模様です。

    新玉川温泉 宿・ホテル

  • 玉川温泉大橋の上から焼山ともお別れです。

    玉川温泉大橋の上から焼山ともお別れです。

  • 「玉川温泉」もいい湯でした。ここへはもう一度来てみたいと思いました。

    「玉川温泉」もいい湯でした。ここへはもう一度来てみたいと思いました。

  • 山道を下ると玉川ダムによって出来た「宝仙湖」に差し掛かり、そしてその先には鎧畑ダムによって出来た「秋扇湖」が広がります。

    山道を下ると玉川ダムによって出来た「宝仙湖」に差し掛かり、そしてその先には鎧畑ダムによって出来た「秋扇湖」が広がります。

    宝仙湖 自然・景勝地

  • 「秋扇湖」の水位は例年4月上旬から雪解け水で上昇するようです。気温の上昇で木々に若葉が芽吹き、「水没林」を見ることが出来るようです。6月初めには夏場の洪水期に備えて放流し水位を下げるため、こうした光景は見られなくなります。

    「秋扇湖」の水位は例年4月上旬から雪解け水で上昇するようです。気温の上昇で木々に若葉が芽吹き、「水没林」を見ることが出来るようです。6月初めには夏場の洪水期に備えて放流し水位を下げるため、こうした光景は見られなくなります。

  • その貴重なタイミングのここを通過することが出来たわけです。何となく水の色からも中国の「九塞溝」や「黄龍」の景色を思い出します。今から思えばコロナ前に行っておいて良かったと思います。

    その貴重なタイミングのここを通過することが出来たわけです。何となく水の色からも中国の「九塞溝」や「黄龍」の景色を思い出します。今から思えばコロナ前に行っておいて良かったと思います。

  • 天気はさらに下り坂のようで、重たそうな雲に覆われています。

    天気はさらに下り坂のようで、重たそうな雲に覆われています。

  • 「田沢湖」との分岐点を左折して再び山道に入ると「乳頭温泉郷」に入り、バスは「大釜温泉」にとまりました。この建物を見て妻は前に来たことを思い出して残念そうな顔をします。

    「田沢湖」との分岐点を左折して再び山道に入ると「乳頭温泉郷」に入り、バスは「大釜温泉」にとまりました。この建物を見て妻は前に来たことを思い出して残念そうな顔をします。

    乳頭温泉郷 大釜温泉 宿・ホテル

    乳頭温泉の乳白の巨大な露天風呂を期待していたらガッカリの温泉。露天風呂からは横の駐車場が見える。 by kojikojiさん
  • 目の前を温泉郷を巡回するバスが通過していきます。屋根の上に目印の大きな樽を乗せています。「乳頭温泉」はこの地域の総称でいくつもの温泉が点在しているようです。

    目の前を温泉郷を巡回するバスが通過していきます。屋根の上に目印の大きな樽を乗せています。「乳頭温泉」はこの地域の総称でいくつもの温泉が点在しているようです。

  • 「乳頭温泉」と聞くと大抵の人が想像するのが大きな白濁した露天風呂の「鶴の湯温泉」だと思います。他にも「孫六温泉」とか鄙びた湯がありますが、これには妻もガッカリです。

    「乳頭温泉」と聞くと大抵の人が想像するのが大きな白濁した露天風呂の「鶴の湯温泉」だと思います。他にも「孫六温泉」とか鄙びた湯がありますが、これには妻もガッカリです。

  • 入った湯は内風呂と露天風呂の2つの浴槽がありましたが、乳頭温泉らしい白い泥のような沈殿物はほとんどなく、露天風呂は駐車場に隣接していて、仕切りが透過性のあるネットなので風情も何もありません。多分駐車場からも丸見えだと思います。

    入った湯は内風呂と露天風呂の2つの浴槽がありましたが、乳頭温泉らしい白い泥のような沈殿物はほとんどなく、露天風呂は駐車場に隣接していて、仕切りが透過性のあるネットなので風情も何もありません。多分駐車場からも丸見えだと思います。

  • 阪急交通社は何でここを選んだのだろうと皆さんと考えましたが答えは出ません。

    阪急交通社は何でここを選んだのだろうと皆さんと考えましたが答えは出ません。

  • お湯の成分は同じなのかもしれませんが、最後の湯がここだったのは残念でした。

    お湯の成分は同じなのかもしれませんが、最後の湯がここだったのは残念でした。

  • 今回の旅で八幡平周辺の温泉の位置関係は分かったので、今度は路線バスの旅で来てみようと思いました。その時は「乳頭温泉」の湯巡りもしてみたいですね。

    今回の旅で八幡平周辺の温泉の位置関係は分かったので、今度は路線バスの旅で来てみようと思いました。その時は「乳頭温泉」の湯巡りもしてみたいですね。

  • バスが山を下ると天気も回復してきました。「田沢湖」の見学は「田沢湖共栄パレス」という昭和なドライブインです。関越自動車道が出来る前は国道17号沿いにこんなドライブインがたくさんあって、スキーシーズンは深夜でも賑わっていました。「並木ドライブイン」とかまだあるのでしょうか?

    バスが山を下ると天気も回復してきました。「田沢湖」の見学は「田沢湖共栄パレス」という昭和なドライブインです。関越自動車道が出来る前は国道17号沿いにこんなドライブインがたくさんあって、スキーシーズンは深夜でも賑わっていました。「並木ドライブイン」とかまだあるのでしょうか?

  • 素通りできない書き割看板で記念写真を撮ります。

    素通りできない書き割看板で記念写真を撮ります。

    田沢湖共栄パレス 名所・史跡

  • 秋田犬も見ることが出来ます。

    秋田犬も見ることが出来ます。

  • 比内鶏は1942年に天然記念物に指定された地鶏です。これは食べることは出来ません。秋田比内鶏(オス)とロード種(メス)の交配で生まれた子供だけを比内地鶏と呼ぶそうです。それ以外にも飼育方法とか決まりがあります。2月に行った秋田市では漫画の「美味しんぼう」にも出た養鶏場で飼育された親子丼をいただきましたが、今まで食べた親子丼の中で最高のおいしさでした。

    比内鶏は1942年に天然記念物に指定された地鶏です。これは食べることは出来ません。秋田比内鶏(オス)とロード種(メス)の交配で生まれた子供だけを比内地鶏と呼ぶそうです。それ以外にも飼育方法とか決まりがあります。2月に行った秋田市では漫画の「美味しんぼう」にも出た養鶏場で飼育された親子丼をいただきましたが、今まで食べた親子丼の中で最高のおいしさでした。

  • 飲水思源とは「水を飲むとき、その水源のことを思う」という意味から、「物事の基本を忘れない。」または、「他人から受けた恩を忘れてはいけない。」という中国の故事成句です。この「飲水思源像」は田沢湖と台湾の澄清湖が姉妹湖提携した記念に台湾から贈られた像だそうです。台湾に東洋一とも言われるダム建設をした日本人技師の八田與一(はったよいち)のことを思い出しました。

    飲水思源とは「水を飲むとき、その水源のことを思う」という意味から、「物事の基本を忘れない。」または、「他人から受けた恩を忘れてはいけない。」という中国の故事成句です。この「飲水思源像」は田沢湖と台湾の澄清湖が姉妹湖提携した記念に台湾から贈られた像だそうです。台湾に東洋一とも言われるダム建設をした日本人技師の八田與一(はったよいち)のことを思い出しました。

  • 「田沢湖」へ来るのは生まれて60年も経ちながら初めてのことです。子供の頃にテレビで見た「まんが日本昔ばなし 【辰子姫物語】」を思い出します。<br />https://www.youtube.com/watch?v=FcSMmYiiPJs

    「田沢湖」へ来るのは生まれて60年も経ちながら初めてのことです。子供の頃にテレビで見た「まんが日本昔ばなし 【辰子姫物語】」を思い出します。
    https://www.youtube.com/watch?v=FcSMmYiiPJs

    田沢湖 自然・景勝地

  • 田沢湖が田沢潟と呼ばれていた頃に院内にまれにみる美しい娘辰子がいました。辰子はその美しさと若さを永久に保ちたいものと、密かに大蔵観音に百日百夜の願いをかけました。満願の夜に「北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがありました。

    田沢湖が田沢潟と呼ばれていた頃に院内にまれにみる美しい娘辰子がいました。辰子はその美しさと若さを永久に保ちたいものと、密かに大蔵観音に百日百夜の願いをかけました。満願の夜に「北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう」とお告げがありました。

  • 辰子はわらびを摘むと言ってひとりで家を出て、院内岳を越えて深い森の道をたどって行くと、苔蒸す岩の間に清い泉がありました。喜こんで手にすくい飲むと何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続けます。時が過ぎて気がつくと辰子は大きな龍になっていました。龍になった辰子は田沢潟の主となって湖底深くに沈んでいきます。

    辰子はわらびを摘むと言ってひとりで家を出て、院内岳を越えて深い森の道をたどって行くと、苔蒸す岩の間に清い泉がありました。喜こんで手にすくい飲むと何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続けます。時が過ぎて気がつくと辰子は大きな龍になっていました。龍になった辰子は田沢潟の主となって湖底深くに沈んでいきます。

  • 辰子の母は娘の帰りを案じて田沢潟のほとりに着き、娘が龍になったのを知って悲しみ、松明にした木の尻(薪)を投げ捨てると、それが魚になって泳いでいきました。後に国鱒と呼ばれ、田沢湖にしか生息しなかった木の尻鱒です。

    辰子の母は娘の帰りを案じて田沢潟のほとりに着き、娘が龍になったのを知って悲しみ、松明にした木の尻(薪)を投げ捨てると、それが魚になって泳いでいきました。後に国鱒と呼ばれ、田沢湖にしか生息しなかった木の尻鱒です。

  • 十和田湖を南祖坊に追われて男鹿半島に八郎潟をつくり、主となった八郎太郎は毎年秋の彼岸の頃に田沢湖に恋人の辰子を訪ねて冬を過ごすため、主のいない八郎潟は凍りつき、2人の龍神が住む田沢湖は冬の間も凍らない湖として知られています。

    十和田湖を南祖坊に追われて男鹿半島に八郎潟をつくり、主となった八郎太郎は毎年秋の彼岸の頃に田沢湖に恋人の辰子を訪ねて冬を過ごすため、主のいない八郎潟は凍りつき、2人の龍神が住む田沢湖は冬の間も凍らない湖として知られています。

  • 昨年11月末に行った男鹿半島の旅では八郎潟を通過しながらそんな話を思い出しました。この1年は東北地方を何度も旅行しました。

    昨年11月末に行った男鹿半島の旅では八郎潟を通過しながらそんな話を思い出しました。この1年は東北地方を何度も旅行しました。

  • 休憩時間が終わり、バスは「田沢湖」の湖岸道路を反時計回りに進みます。木々の間から見えるエメラルドグリーンの湖面の美しさには驚かされました。

    休憩時間が終わり、バスは「田沢湖」の湖岸道路を反時計回りに進みます。木々の間から見えるエメラルドグリーンの湖面の美しさには驚かされました。

  • 最大深度は423.4メートルで日本一の湖です。これまで2位の支笏湖と3位の十和田湖には行っていましたが、ようやく「田沢湖」を見ることが出来ました。

    最大深度は423.4メートルで日本一の湖です。これまで2位の支笏湖と3位の十和田湖には行っていましたが、ようやく「田沢湖」を見ることが出来ました。

  • バスは「角館」への分岐点で停車しました。すると湖面には有名な「辰子像」が見えました。バスのドライバーさんが気を利かせて停車してくれたのだと分かりました。舟越桂の父の舟越保武の作品として有名な像です。岩手県二戸郡の出身なので、東北を旅しているとその作品に出合うことが多いです。「もりおか啄木・賢治青春館」には「若き日の石川啄木」の頭像、あつみ温泉のある御所湖の湖畔には「シオン」の像がありました。

    バスは「角館」への分岐点で停車しました。すると湖面には有名な「辰子像」が見えました。バスのドライバーさんが気を利かせて停車してくれたのだと分かりました。舟越桂の父の舟越保武の作品として有名な像です。岩手県二戸郡の出身なので、東北を旅しているとその作品に出合うことが多いです。「もりおか啄木・賢治青春館」には「若き日の石川啄木」の頭像、あつみ温泉のある御所湖の湖畔には「シオン」の像がありました。

    たつこ像 名所・史跡

  • 脇にある「浮木神社(うききじんしゃ)」は潟尻明神とも呼ばれ、明和6年の1769年に秋田藩士の益戸滄洲によって漢槎宮と命名されたことから、田沢湖のことを漢槎湖あるいはただ漢槎と呼ぶようになりました。八郎太郎が湖に飛び込む音を聞くと死んでしまうという言い伝えがあり、これを防ぐために毎年11月9日には夜を徹した宴会を開く神事が行われるそうです。

    脇にある「浮木神社(うききじんしゃ)」は潟尻明神とも呼ばれ、明和6年の1769年に秋田藩士の益戸滄洲によって漢槎宮と命名されたことから、田沢湖のことを漢槎湖あるいはただ漢槎と呼ぶようになりました。八郎太郎が湖に飛び込む音を聞くと死んでしまうという言い伝えがあり、これを防ぐために毎年11月9日には夜を徹した宴会を開く神事が行われるそうです。

  • 「田沢湖」を離れると上桧木内川に沿って「角館」に向かいます。この辺りは2月に秋田駅から上桧木内村へ冬の祭りを見に行ったので通過しているのですが、豪雪の季節だったので景色はあまりにも違います。

    「田沢湖」を離れると上桧木内川に沿って「角館」に向かいます。この辺りは2月に秋田駅から上桧木内村へ冬の祭りを見に行ったので通過しているのですが、豪雪の季節だったので景色はあまりにも違います。

  • 午後2時に「角館」に到着しました。バスは上桧木内川に沿った大きな駐車場に停車して、ここでは昼食時間を含めて2時間のフリータイムになります。「田沢湖」に引き続き「角館」に来るのも初めてでした。

    午後2時に「角館」に到着しました。バスは上桧木内川に沿った大きな駐車場に停車して、ここでは昼食時間を含めて2時間のフリータイムになります。「田沢湖」に引き続き「角館」に来るのも初めてでした。

  • 「角館樺細工伝承館」辺りまでは全員で移動しましたが、そこからは三々五々に散らばっての観光になりました。

    「角館樺細工伝承館」辺りまでは全員で移動しましたが、そこからは三々五々に散らばっての観光になりました。

  • 枝垂桜には小さいサクランボの実が生っていました。次回は桜の時期に来てみたいものです。

    枝垂桜には小さいサクランボの実が生っていました。次回は桜の時期に来てみたいものです。

    角館の枝垂桜 花見

  • 武家屋敷通りの風景は写真やテレビの番組でも見ることは多いのですが、これほど見事な通りだとは思いませんでした。ここでも予定は特に考えていませんでした。ご一緒していたご夫婦の奥さんが「金柑まんじゅう」を買うというので後をついていくことにします。

    武家屋敷通りの風景は写真やテレビの番組でも見ることは多いのですが、これほど見事な通りだとは思いませんでした。ここでも予定は特に考えていませんでした。ご一緒していたご夫婦の奥さんが「金柑まんじゅう」を買うというので後をついていくことにします。

    武家屋敷通り 名所・史跡

  • 「岩橋家」は江戸時代末期に建てられた角館の典型的な中級武士の屋敷だそうです。石高は75石だったようで、現在の価値にすると1石が1両で10万円から20万円として、750万円から1,500万円でこんな屋敷に住めたのだと思います。屋根は江戸時代末期に茅葺きから木羽葺きに変えられています。

    「岩橋家」は江戸時代末期に建てられた角館の典型的な中級武士の屋敷だそうです。石高は75石だったようで、現在の価値にすると1石が1両で10万円から20万円として、750万円から1,500万円でこんな屋敷に住めたのだと思います。屋根は江戸時代末期に茅葺きから木羽葺きに変えられています。

  • 「滑川」という店ですが建物は江戸後期の寺院を解体した際の建材から建てられたようです。

    「滑川」という店ですが建物は江戸後期の寺院を解体した際の建材から建てられたようです。

  • 「伝建群管理事務所」には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている角館の武家屋敷の模型展示室があるようですが立ち寄っている時間はありません。

    「伝建群管理事務所」には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている角館の武家屋敷の模型展示室があるようですが立ち寄っている時間はありません。

  • 秋田杉で造られた黒板塀は真っ黒に塗られていて、この町の美しさを際立たせているように思えます。ここで地元の方に「金柑まんじゅう」の店の場所を教えてもらいました。

    秋田杉で造られた黒板塀は真っ黒に塗られていて、この町の美しさを際立たせているように思えます。ここで地元の方に「金柑まんじゅう」の店の場所を教えてもらいました。

  • 武家屋敷の中には公開している屋敷と商業施設に変わっている屋敷、建物を壊して建て替えて門と庭だけ残っているところなど様々です。

    武家屋敷の中には公開している屋敷と商業施設に変わっている屋敷、建物を壊して建て替えて門と庭だけ残っているところなど様々です。

  • 京都の残る母方の祖父の生家はこの辺りと同じ400年前の建築です。曾祖母がその家を廃却しようと考えたそうですが、祖父が印鑑を押さなかったために現在も残されています。旧法では民家では日本で最初に国宝に指定されましたが、これだけの通りに渡り江戸時代の建物を残すのは並大抵のことではないと思います。

    京都の残る母方の祖父の生家はこの辺りと同じ400年前の建築です。曾祖母がその家を廃却しようと考えたそうですが、祖父が印鑑を押さなかったために現在も残されています。旧法では民家では日本で最初に国宝に指定されましたが、これだけの通りに渡り江戸時代の建物を残すのは並大抵のことではないと思います。

  • 裏道を教えていただき創業140余年の「五島福進堂」に到着しました。年配のご夫婦2組に先を譲りながらいくつ買うか思案します。地元の友人家族用に6個入りを5箱と、桜皮羊かんを2棹買い求めました。金柑のタネを抜いた後に甘露煮にしてあります。<br />金柑を中心にして白餡でくるんだ上にじょうよ饅頭で包んであり、上品な甘さが美味しかったです。何より1個140円というお値段が嬉しいです。

    裏道を教えていただき創業140余年の「五島福進堂」に到着しました。年配のご夫婦2組に先を譲りながらいくつ買うか思案します。地元の友人家族用に6個入りを5箱と、桜皮羊かんを2棹買い求めました。金柑のタネを抜いた後に甘露煮にしてあります。
    金柑を中心にして白餡でくるんだ上にじょうよ饅頭で包んであり、上品な甘さが美味しかったです。何より1個140円というお値段が嬉しいです。

  • お菓子屋さんの息子さんにおいしい蕎麦屋を教えてとお願いすると、「どこが美味しいかは好みがあるので分からないけれど、自分はそばきり長助が好きです。」ということで店の場所を教えていただきます。

    お菓子屋さんの息子さんにおいしい蕎麦屋を教えてとお願いすると、「どこが美味しいかは好みがあるので分からないけれど、自分はそばきり長助が好きです。」ということで店の場所を教えていただきます。

  • ご一緒した奥さんの情報では「友達がこの前角館に来て、食べた赤そばが美味しかったらしいのよ。」ということでした。桜は終わった「角館」ではありますが、それなりに観光客はいるので6人が入れるか心配ではありました。

    ご一緒した奥さんの情報では「友達がこの前角館に来て、食べた赤そばが美味しかったらしいのよ。」ということでした。桜は終わった「角館」ではありますが、それなりに観光客はいるので6人が入れるか心配ではありました。

    そばきり長助 グルメ・レストラン

  • 引き戸を開けると先客は同じツアーのご夫婦が1組だけでした。奥の座敷は年配のご夫婦なので却下され、テーブル席に分かれて座りました。4組しかないテーブルは同じツアーの方で埋まりました。

    引き戸を開けると先客は同じツアーのご夫婦が1組だけでした。奥の座敷は年配のご夫婦なので却下され、テーブル席に分かれて座りました。4組しかないテーブルは同じツアーの方で埋まりました。

  • ここでも「神代」の特別純米酒が1合450円、「桜酔角館」1合500円の飲み比べをします。この半年で3回秋田を旅していますが、日本酒のおいしさには驚いています。ここでも地元の美味しいお酒がいただけました。

    ここでも「神代」の特別純米酒が1合450円、「桜酔角館」1合500円の飲み比べをします。この半年で3回秋田を旅していますが、日本酒のおいしさには驚いています。ここでも地元の美味しいお酒がいただけました。

  • 同行していた奥さんのこだわりの赤そばはこの店でいただくことが出来ました。高嶺ルビーが赤そばのことで、十割で打たれたものと会津在来種の十割を大盛りにしてもらい、海老の天婦羅を1本付けていただきました。元々の蕎麦セットが1,260円で大盛りが250円、海老天が250円で1,760円です。十割のそばの腰の強さを久し振りに味わいました。

    同行していた奥さんのこだわりの赤そばはこの店でいただくことが出来ました。高嶺ルビーが赤そばのことで、十割で打たれたものと会津在来種の十割を大盛りにしてもらい、海老の天婦羅を1本付けていただきました。元々の蕎麦セットが1,260円で大盛りが250円、海老天が250円で1,760円です。十割のそばの腰の強さを久し振りに味わいました。

  • 妻は海老天つきもり蕎麦で赤そば十割にして1,380円です。蕎麦も美味しいですが海老天も最高においしいです。これは大満足の蕎麦屋さんでした。隣にはお手軽なうどん屋さんがあり満員でしたが、ここで食べるなら美味しい蕎麦だと感じました。

    妻は海老天つきもり蕎麦で赤そば十割にして1,380円です。蕎麦も美味しいですが海老天も最高においしいです。これは大満足の蕎麦屋さんでした。隣にはお手軽なうどん屋さんがあり満員でしたが、ここで食べるなら美味しい蕎麦だと感じました。

  • 「松本家」の看板に惹かれて中に入ってみます。案内の看板によると今宮家組下の家柄で、佐竹氏国替えとともに秋田へやってきました。門柱を2本立てて柴垣で屋敷を囲んだ簡素な形式になっています。離れに寝室がある屋敷の建築年代は幕末頃といわれています。茅葺き屋根に武家の面影を残しています。

    「松本家」の看板に惹かれて中に入ってみます。案内の看板によると今宮家組下の家柄で、佐竹氏国替えとともに秋田へやってきました。門柱を2本立てて柴垣で屋敷を囲んだ簡素な形式になっています。離れに寝室がある屋敷の建築年代は幕末頃といわれています。茅葺き屋根に武家の面影を残しています。

  • 松本家は下級武士の屋敷として秋田県で唯一現存する建築物で、映画「たそがれ清兵衛」のロケ場所で、清兵衛が藩命により決闘におもむくクライマックスシーンで登場します。最初に見た「岩橋家」は清兵衛の幼なじみの朋江の実家として出てきます。

    松本家は下級武士の屋敷として秋田県で唯一現存する建築物で、映画「たそがれ清兵衛」のロケ場所で、清兵衛が藩命により決闘におもむくクライマックスシーンで登場します。最初に見た「岩橋家」は清兵衛の幼なじみの朋江の実家として出てきます。

  • 「角館郷校弘道書院跡」の公園に抜けると人力車が通りがかりました。郷校(ごうこう)とは江戸時代,藩や代官によって設けられた教育機関で、藩校の分校的な性格のものと庶民教育を目的としたものとがありました。「角館」でも秋田藩藩主の佐竹義和が藩校「明道館」の支校として、寛政5年の1793年に秋田領だった角館勝楽に郷校「弘道書院」を設立しました。

    「角館郷校弘道書院跡」の公園に抜けると人力車が通りがかりました。郷校(ごうこう)とは江戸時代,藩や代官によって設けられた教育機関で、藩校の分校的な性格のものと庶民教育を目的としたものとがありました。「角館」でも秋田藩藩主の佐竹義和が藩校「明道館」の支校として、寛政5年の1793年に秋田領だった角館勝楽に郷校「弘道書院」を設立しました。

    武家屋敷跡 名所・史跡

  • 「角館」は初めてで、どうしても武家屋敷が見たかったので1人で「青柳家」を見学することにしました。妻は以前見学しているので他の皆さんと先に進みます。

    「角館」は初めてで、どうしても武家屋敷が見たかったので1人で「青柳家」を見学することにしました。妻は以前見学しているので他の皆さんと先に進みます。

    青柳家 美術館・博物館

  • この屋敷は映画の「隠し剣 鬼の爪」のロケ地だったそうです。「たそがれ清兵衛」に続き山田洋次が藤沢周平の小説を映画化した時代劇の第2弾です。前月に旅した山形県の鶴岡に「藤沢周平記念館」があったことを思い出します。この1年は東北を数多く旅したので、いろいろな所で「海坂藩」の面影を見たような気がします。

    この屋敷は映画の「隠し剣 鬼の爪」のロケ地だったそうです。「たそがれ清兵衛」に続き山田洋次が藤沢周平の小説を映画化した時代劇の第2弾です。前月に旅した山形県の鶴岡に「藤沢周平記念館」があったことを思い出します。この1年は東北を数多く旅したので、いろいろな所で「海坂藩」の面影を見たような気がします。

  • 母屋は薬医門の建てられた万延元年の1860年以前の建築とされ、東北の代表的民家「曲り家」的な構造になっています。

    母屋は薬医門の建てられた万延元年の1860年以前の建築とされ、東北の代表的民家「曲り家」的な構造になっています。

  • 賓客を迎えるための正玄関や座敷の欄間に施された透かし彫りなど、武家らしい装飾と設えがあります。

    賓客を迎えるための正玄関や座敷の欄間に施された透かし彫りなど、武家らしい装飾と設えがあります。

  • 往時に使われた什器が並べられています。能代春慶と思われる春慶塗の漆器のようです。什器は仏教の什物(じゅうもつ)に由来し、1つや2つなどではなく10を単位として数えなければならないほどたくさんで雑多であることから、中国の宋代に禅宗寺院内で使われはじめた言葉です。

    往時に使われた什器が並べられています。能代春慶と思われる春慶塗の漆器のようです。什器は仏教の什物(じゅうもつ)に由来し、1つや2つなどではなく10を単位として数えなければならないほどたくさんで雑多であることから、中国の宋代に禅宗寺院内で使われはじめた言葉です。

  • 屋敷蔵は風雨に当たらないので漆喰がきれいに残されています。秋田市内で見た「旧金子家住宅」の蔵によく似ています。こちらは黒漆喰の重厚なデザインでした。

    屋敷蔵は風雨に当たらないので漆喰がきれいに残されています。秋田市内で見た「旧金子家住宅」の蔵によく似ています。こちらは黒漆喰の重厚なデザインでした。

  • 「武器蔵」では重要文化財の秋田郷土剣など、江戸時代から伝わる文献や武具などを公開されています。

    「武器蔵」では重要文化財の秋田郷土剣など、江戸時代から伝わる文献や武具などを公開されています。

  • 高い場所の置かれた甲冑を見上げていると横溝正史の「八つ墓村」の洞窟の中の「竜の顎(あぎと)」にあった要蔵の姿を想像してしまいました。

    高い場所の置かれた甲冑を見上げていると横溝正史の「八つ墓村」の洞窟の中の「竜の顎(あぎと)」にあった要蔵の姿を想像してしまいました。

  • 立派な夜着は客用の掛布団で、熨斗鮑のデザインがおめでたさを感じます。綿がずれないための綴じ糸や、首のあたりが汚れないための当て布など生活感が感じられます。

    立派な夜着は客用の掛布団で、熨斗鮑のデザインがおめでたさを感じます。綿がずれないための綴じ糸や、首のあたりが汚れないための当て布など生活感が感じられます。

  • 黒塗横矧二枚胴具足で、兜は六十二間小星の兜と呼ばれ、戦国時代の上級品です。武田信玄の兜もこれと同形だったと言われます。

    黒塗横矧二枚胴具足で、兜は六十二間小星の兜と呼ばれ、戦国時代の上級品です。武田信玄の兜もこれと同形だったと言われます。

  • 前立てに赤鬼の顔が施され、頭頂部から肩まで白いヤクの毛が覆っていることから「白熊(はぐま)の兜」と呼ばれた武田信玄の諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)に似ています。

    前立てに赤鬼の顔が施され、頭頂部から肩まで白いヤクの毛が覆っていることから「白熊(はぐま)の兜」と呼ばれた武田信玄の諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)に似ています。

  • 庭に出ると敷石には石臼が組み込まれていました。

    庭に出ると敷石には石臼が組み込まれていました。

  • ミヤコワスレがきれいに咲いていました。ミヤコワスレの名は鎌倉時代に承久の乱に敗れた順徳天皇が北条家によって佐渡島に流された際に、この花を見て心を慰め都恋しさを忘れたとの伝承によります。

    ミヤコワスレがきれいに咲いていました。ミヤコワスレの名は鎌倉時代に承久の乱に敗れた順徳天皇が北条家によって佐渡島に流された際に、この花を見て心を慰め都恋しさを忘れたとの伝承によります。

  • 青柳家の庭園には数百年の年輪を刻む巨木や600種類以上の草木が繁り、当時は珍しかった薬用の肉桂や南天などの樹々や美しい花、食用として栽培された山菜などを見ることが出来るようです。

    青柳家の庭園には数百年の年輪を刻む巨木や600種類以上の草木が繁り、当時は珍しかった薬用の肉桂や南天などの樹々や美しい花、食用として栽培された山菜などを見ることが出来るようです。

  • 「秋田蘭画」と小田野直武についてはここで初めて知りました。秋田蘭画(あきたらんが)は、江戸時代における絵画のジャンルのひとつで、西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画です。

    「秋田蘭画」と小田野直武についてはここで初めて知りました。秋田蘭画(あきたらんが)は、江戸時代における絵画のジャンルのひとつで、西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画です。

  • 「唐美人図」は小田野直武が16歳の時に描いたと伝えられる浮世絵風の作品です。

    「唐美人図」は小田野直武が16歳の時に描いたと伝えられる浮世絵風の作品です。

  • 小田野直武は幼少より絵を好み、絵の才能が認められて藩絵師の武田円碩から狩野派を学び、佐竹北家の当主の佐竹義躬、秋田藩主の佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受けます。安永2年の1773年に鉱山の技術指導のために平賀源内が角館を訪れ、宿の屏風絵に感心した源内が作者である直武を呼んだといわれます。源内は直武に西洋画を教えます。

    小田野直武は幼少より絵を好み、絵の才能が認められて藩絵師の武田円碩から狩野派を学び、佐竹北家の当主の佐竹義躬、秋田藩主の佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受けます。安永2年の1773年に鉱山の技術指導のために平賀源内が角館を訪れ、宿の屏風絵に感心した源内が作者である直武を呼んだといわれます。源内は直武に西洋画を教えます。

  • 源内自身は「素人としては上手」という程度の画力だったようですが、遠近法や陰影法などの西洋絵画の技法を直武に伝えます。源内は江戸へ帰ることになりますが、直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓します。

    源内自身は「素人としては上手」という程度の画力だったようですが、遠近法や陰影法などの西洋絵画の技法を直武に伝えます。源内は江戸へ帰ることになりますが、直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓します。

  • 「木瓜」熊代熊斐(くましろ ゆうひ)は江戸時代中期の長崎で活躍した画家です。江戸時代の南宋画の先駆者とされ、沈南蘋の彩色花鳥画の技法を多くの門人に伝え国内に広めました。この一派は南蘋派として知られ、当時の画壇に大きな影響をもたらします。

    「木瓜」熊代熊斐(くましろ ゆうひ)は江戸時代中期の長崎で活躍した画家です。江戸時代の南宋画の先駆者とされ、沈南蘋の彩色花鳥画の技法を多くの門人に伝え国内に広めました。この一派は南蘋派として知られ、当時の画壇に大きな影響をもたらします。

  • 「静宋図」宋紫石は江戸時代中期の画家で、長崎で熊代熊斐や清人画家の宋紫岩に画法を学び、江戸に帰り宋紫石を名乗ります。沈南蘋の画風を江戸で広め当時の画壇に大きな影響を与えた人物です。

    「静宋図」宋紫石は江戸時代中期の画家で、長崎で熊代熊斐や清人画家の宋紫岩に画法を学び、江戸に帰り宋紫石を名乗ります。沈南蘋の画風を江戸で広め当時の画壇に大きな影響を与えた人物です。

  • 「岩に牡丹図」佐竹義躬は秋田藩主の佐竹氏の一族で、角館を支配していました。直武の指導によって描いたとされる絵です。

    「岩に牡丹図」佐竹義躬は秋田藩主の佐竹氏の一族で、角館を支配していました。直武の指導によって描いたとされる絵です。

  • 「紫陽花図」<br />佐竹義躬(さたけ よしみ)は佐竹氏一門の佐竹北家第13代当主で、父の隠居により家督を相続し、佐竹北家角館第6代所預しました。小田野直武から教えを受けて花鳥図などの洋風画を描き、直武と佐竹義敦(曙山)と並ぶ秋田蘭画の代表的な画家の1人とされます。

    「紫陽花図」
    佐竹義躬(さたけ よしみ)は佐竹氏一門の佐竹北家第13代当主で、父の隠居により家督を相続し、佐竹北家角館第6代所預しました。小田野直武から教えを受けて花鳥図などの洋風画を描き、直武と佐竹義敦(曙山)と並ぶ秋田蘭画の代表的な画家の1人とされます。

  • このころ前野良沢や杉田玄白らによる「解体新書」の翻訳作業が行われていました。図版を印刷するため「ターヘル・アナトミア」などの書から大量に図を写し取る必要がありました。玄白と源内は親友であり、源内の紹介によって直武がその作業を行うこととなったようです。

    このころ前野良沢や杉田玄白らによる「解体新書」の翻訳作業が行われていました。図版を印刷するため「ターヘル・アナトミア」などの書から大量に図を写し取る必要がありました。玄白と源内は親友であり、源内の紹介によって直武がその作業を行うこととなったようです。

  • あまり時間が無いので駆け足の見学になっていますが、新しく知ることも多くてその度に足が止まってしまいます。

    あまり時間が無いので駆け足の見学になっていますが、新しく知ることも多くてその度に足が止まってしまいます。

  • これほど大きな屋敷だとは考えずに見学してしまいました。

    これほど大きな屋敷だとは考えずに見学してしまいました。

  • 庭園にも小田野直武についての展示がありました。

    庭園にも小田野直武についての展示がありました。

  • 直武は寛延2年の1750年に秋田藩角館裏町に生まれます。幼名は長治、通称は武助で、当時の角館は佐竹家の分家である佐竹北家が治める城下町でした。

    直武は寛延2年の1750年に秋田藩角館裏町に生まれます。幼名は長治、通称は武助で、当時の角館は佐竹家の分家である佐竹北家が治める城下町でした。

  • 幼少より絵を好み、浮世絵風の美人画も描くようになります。やがて絵の才能が認められ、藩絵師の武田円碩から狩野派を学び、佐竹北家の当主の佐竹義躬、秋田藩主の佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受けます。

    幼少より絵を好み、浮世絵風の美人画も描くようになります。やがて絵の才能が認められ、藩絵師の武田円碩から狩野派を学び、佐竹北家の当主の佐竹義躬、秋田藩主の佐竹義敦(佐竹曙山)の知遇を受けます。

  • 安永2年の1773年に鉱山の技術指導のために平賀源内が角館を訪れ、直武と出会うことになります。一説には宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んだといいます。源内は直武に西洋画を教えましたが、この際に「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせ、輪郭で描く日本画では立体の表現は難しく、西洋絵画には陰影の表現があるのでそれができると教えたという逸話があります。

    安永2年の1773年に鉱山の技術指導のために平賀源内が角館を訪れ、直武と出会うことになります。一説には宿の屏風絵に感心した源内が、作者である直武を呼んだといいます。源内は直武に西洋画を教えましたが、この際に「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせ、輪郭で描く日本画では立体の表現は難しく、西洋絵画には陰影の表現があるのでそれができると教えたという逸話があります。

  • 安永2年10月に源内は江戸へ帰り、同年12月に直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓します。前野良沢や杉田玄白らによる「解体新書」の翻訳作業が行われていました。

    安永2年10月に源内は江戸へ帰り、同年12月に直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓します。前野良沢や杉田玄白らによる「解体新書」の翻訳作業が行われていました。

  • 図版を印刷するため「ターヘル・アナトミア」などの書から大量に図を写し取る必要がありました。玄白と源内は親友であり、おそらく源内の紹介によって直武がその作業を行うこととなったようです。直武は「解体新書」の序文に「下手ですが、断りきれないので描きました…」といった謙虚なことを書いているそうです。

    図版を印刷するため「ターヘル・アナトミア」などの書から大量に図を写し取る必要がありました。玄白と源内は親友であり、おそらく源内の紹介によって直武がその作業を行うこととなったようです。直武は「解体新書」の序文に「下手ですが、断りきれないので描きました…」といった謙虚なことを書いているそうです。

  • 直武は源内のもとで西洋絵画技法を自己のものとし、日本画と西洋画を融合した画風を確立していきます。のちに日本初の銅版画を作り出す司馬江漢もこのころ直武に絵を習ったようです。そして安永6年の1777年に秋田藩に帰国します。洋画指導者として佐竹曙山や佐竹義躬に対し絵の指導を行うようになり、この3人が中心になった一派が「秋田蘭画」または秋田派と呼ばれることになります。

    直武は源内のもとで西洋絵画技法を自己のものとし、日本画と西洋画を融合した画風を確立していきます。のちに日本初の銅版画を作り出す司馬江漢もこのころ直武に絵を習ったようです。そして安永6年の1777年に秋田藩に帰国します。洋画指導者として佐竹曙山や佐竹義躬に対し絵の指導を行うようになり、この3人が中心になった一派が「秋田蘭画」または秋田派と呼ばれることになります。

  • 佐竹曙山が病に倒れると直武は藩の上司から国元で遠慮謹慎を申し渡されます。表向きは御側小姓の身分ながら画業におぼれ勤務を怠ったというものでした。老中の田沼意次の権勢が凋落した状況で田沼と深くつながった平賀源内の屋敷に出入りするのは危険と思われたのかもしれません。角館で謹慎していると源内が江戸で殺人を犯し、捕らえられて獄死するという事件も起きます。赦免状を待ちながら安永9年の1780年に32歳で亡くなります。

    佐竹曙山が病に倒れると直武は藩の上司から国元で遠慮謹慎を申し渡されます。表向きは御側小姓の身分ながら画業におぼれ勤務を怠ったというものでした。老中の田沼意次の権勢が凋落した状況で田沼と深くつながった平賀源内の屋敷に出入りするのは危険と思われたのかもしれません。角館で謹慎していると源内が江戸で殺人を犯し、捕らえられて獄死するという事件も起きます。赦免状を待ちながら安永9年の1780年に32歳で亡くなります。

  • 2月に行った角館の北方にある上桧木内村の風船上げの祭りも同地を訪れた平賀源内により、熱気球の原理を応用した遊びを住民に教えたことが発祥の起源と言われていました。

    2月に行った角館の北方にある上桧木内村の風船上げの祭りも同地を訪れた平賀源内により、熱気球の原理を応用した遊びを住民に教えたことが発祥の起源と言われていました。

  • 次の建物は「秋田郷土館」というものでした。雪国ならではの頑丈な造りの旧家を移築して、1階は素朴な農村の暮らしぶりを伝える農具などを展示しています。

    次の建物は「秋田郷土館」というものでした。雪国ならではの頑丈な造りの旧家を移築して、1階は素朴な農村の暮らしぶりを伝える農具などを展示しています。

  • 雪深い地方の建築に見られる太い鴨居が印象的な座敷です。移築された建物のようですが、ここに何百年建っているような印象を受けます。

    雪深い地方の建築に見られる太い鴨居が印象的な座敷です。移築された建物のようですが、ここに何百年建っているような印象を受けます。

  • 囲炉裏のある部屋は天井が無く、上の階まで煙が抜けるようになっています。囲炉裏の縁も春慶塗で仕上げられているようです。火棚に吊られているのは藁づとのようなので納豆を作っているのでしょうか。

    囲炉裏のある部屋は天井が無く、上の階まで煙が抜けるようになっています。囲炉裏の縁も春慶塗で仕上げられているようです。火棚に吊られているのは藁づとのようなので納豆を作っているのでしょうか。

  • 2階には江戸時代の頃の古い写真が展示されています。建築中のエッフェル塔やスフィンクスの脇で記念写真を撮る武士の一団など見たことのあるものもありました。

    2階には江戸時代の頃の古い写真が展示されています。建築中のエッフェル塔やスフィンクスの脇で記念写真を撮る武士の一団など見たことのあるものもありました。

  • その奥には古いレコードのコレクションが並んでいます。古い蝋管蓄音機も置いてありました。そういえば宮沢賢治はレコード収集が趣味で、彼がレコードを買い求めていた店は売り上げが大きくレコード会社から表彰されたと聞いたことを思い出しました。

    その奥には古いレコードのコレクションが並んでいます。古い蝋管蓄音機も置いてありました。そういえば宮沢賢治はレコード収集が趣味で、彼がレコードを買い求めていた店は売り上げが大きくレコード会社から表彰されたと聞いたことを思い出しました。

  • 「葉桜庵」には日常使う道具が展示してあります。

    「葉桜庵」には日常使う道具が展示してあります。

  • 子供の頃に見たことがあるような懐かしさや、東南アジアの山岳少数民族の方の村で見たことのあるようなものも並んでいます。

    子供の頃に見たことがあるような懐かしさや、東南アジアの山岳少数民族の方の村で見たことのあるようなものも並んでいます。

  • 面白かったのは「貝風呂」というもので、素焼きの七輪をこう呼んだそうです。帆立貝の殻を鍋にしてしょっつる貝焼きなどの料理を作るためのものです。冬に秋田を旅した際には居酒屋で何度も使いましたし、今回の旅でも「青荷温泉」で貝焼きを食べる機会がありました。

    面白かったのは「貝風呂」というもので、素焼きの七輪をこう呼んだそうです。帆立貝の殻を鍋にしてしょっつる貝焼きなどの料理を作るためのものです。冬に秋田を旅した際には居酒屋で何度も使いましたし、今回の旅でも「青荷温泉」で貝焼きを食べる機会がありました。

  • 山形の酒田の「庄内米歴史資料館」で見たような農耕の道具も並んでいます。なめしているのは熊の毛皮でしょうか。日本の熊ではなさそうな色です。

    山形の酒田の「庄内米歴史資料館」で見たような農耕の道具も並んでいます。なめしているのは熊の毛皮でしょうか。日本の熊ではなさそうな色です。

  • 「角館」は秋田藩唯一の焼き物の産地であったようで、白岩焼は明和8年の1771年に始まり、規模の大きな産地だったようです。

    「角館」は秋田藩唯一の焼き物の産地であったようで、白岩焼は明和8年の1771年に始まり、規模の大きな産地だったようです。

  • それ以外にも楢岡焼や大神成焼、菅沢焼や栗沢焼など同系の窯も多くあったようです。青柳家にはその全てが保存されているようです。藩の特産品だったどぶろくの貯蔵容器がいくつも並んでいます。

    それ以外にも楢岡焼や大神成焼、菅沢焼や栗沢焼など同系の窯も多くあったようです。青柳家にはその全てが保存されているようです。藩の特産品だったどぶろくの貯蔵容器がいくつも並んでいます。

  • 海鼠釉の深い青色が印象的な白岩焼は、今からおよそ240年前に秋田藩初の窯元として生まれました。藩の重要な産業だったという白岩焼は一度消滅し、現在は和兵衛窯が復活させています。

    海鼠釉の深い青色が印象的な白岩焼は、今からおよそ240年前に秋田藩初の窯元として生まれました。藩の重要な産業だったという白岩焼は一度消滅し、現在は和兵衛窯が復活させています。

  • 江戸時代中期に松本運七という人物が現在も福島県でつくられている「大堀相馬焼」の職人が創業のようです。当時の秋田藩では鉱山の採掘が盛んで、鉱物の精製時に使う陶製の耐熱容器「ルツボ」を作る技術者として呼ばれたようです。白岩の土が焼き物に向いていることを発見し、窯を設けて村人に指導を行い最盛期には6つの窯があったようです。

    江戸時代中期に松本運七という人物が現在も福島県でつくられている「大堀相馬焼」の職人が創業のようです。当時の秋田藩では鉱山の採掘が盛んで、鉱物の精製時に使う陶製の耐熱容器「ルツボ」を作る技術者として呼ばれたようです。白岩の土が焼き物に向いていることを発見し、窯を設けて村人に指導を行い最盛期には6つの窯があったようです。

  • 旧家なので食器も数多く残っているようです。我が家にも祖父の代から伝わるものやヤフオクで手に入れた京都の清水焼の窯元の陶器が1000枚くらいになってしまいました。部屋が1つ潰れましたが、残りの人生で使いこなせないので、そろそろ手放していこうと思っています。

    旧家なので食器も数多く残っているようです。我が家にも祖父の代から伝わるものやヤフオクで手に入れた京都の清水焼の窯元の陶器が1000枚くらいになってしまいました。部屋が1つ潰れましたが、残りの人生で使いこなせないので、そろそろ手放していこうと思っています。

  • 見込みの山水の周りに牡丹の花を配し、縁を雷紋でまとめた美しい染付の大皿です。これらは北前船で秋田まで運ばれ、角館に伝わったと思うとロマンを感じます。

    見込みの山水の周りに牡丹の花を配し、縁を雷紋でまとめた美しい染付の大皿です。これらは北前船で秋田まで運ばれ、角館に伝わったと思うとロマンを感じます。

  • 3つの窓絵にそれぞれ松と竹と梅が描かれているおめでたい模様です。周囲の雷紋の細かさも美しいです。料理を盛っても映えたことでしょう。

    3つの窓絵にそれぞれ松と竹と梅が描かれているおめでたい模様です。周囲の雷紋の細かさも美しいです。料理を盛っても映えたことでしょう。

  • 明治後期の秋田県第1号のポンプ車まで展示されています。こうやってこの街並みは守られてきたのでしょう。

    明治後期の秋田県第1号のポンプ車まで展示されています。こうやってこの街並みは守られてきたのでしょう。

  • 「時代体験庵」では甲冑を着たり籠に乗って記念写真が撮れるようですが、立ち寄っている時間は残されていません。

    「時代体験庵」では甲冑を着たり籠に乗って記念写真が撮れるようですが、立ち寄っている時間は残されていません。

  • 毎年9月7日から9月9日に行われる「角館祭りのやま行事」は重要無形民俗文化財に指定されています。祭りの山には置山と曳山があり、置山は神明社鳥居前と薬師堂前、立町の十字路などに置かれ、曳山はかつての丁内を単位に運行されます。前人形は「水屋(みんじゃ)」と呼ばれる少し斜めになった部分に乗せ、人形は前方に1体から3体乗せるます。前に配置される武者人形は見どころの一つであり、毎年、歌舞伎の場面や歴史上の人物が用いられます。

    毎年9月7日から9月9日に行われる「角館祭りのやま行事」は重要無形民俗文化財に指定されています。祭りの山には置山と曳山があり、置山は神明社鳥居前と薬師堂前、立町の十字路などに置かれ、曳山はかつての丁内を単位に運行されます。前人形は「水屋(みんじゃ)」と呼ばれる少し斜めになった部分に乗せ、人形は前方に1体から3体乗せるます。前に配置される武者人形は見どころの一つであり、毎年、歌舞伎の場面や歴史上の人物が用いられます。

  • 庭の多くはこのような自然な状態になっています。王子がこうであったとは思えず、実際はどのようだったのかが気になります。

    庭の多くはこのような自然な状態になっています。王子がこうであったとは思えず、実際はどのようだったのかが気になります。

  • 邸内には社が設けられ、祭神は八幡大神と稲荷大神と春日大神で、武将が最も景仰した神々です。藩政期には内玄関の前庭に祀られていましたが、維新以降は内庭に遷されています。

    邸内には社が設けられ、祭神は八幡大神と稲荷大神と春日大神で、武将が最も景仰した神々です。藩政期には内玄関の前庭に祀られていましたが、維新以降は内庭に遷されています。

  • 最後に青柳家の母屋の座敷を少し見学します。青柳家は角館で芦名氏に仕えましたが、芦名氏の断絶後は水戸時代と同様に佐竹氏の臣下となります。以来明治時代を迎えるまで佐竹氏の忠実な家臣として仕え、主君の繁栄を支え続けました。

    最後に青柳家の母屋の座敷を少し見学します。青柳家は角館で芦名氏に仕えましたが、芦名氏の断絶後は水戸時代と同様に佐竹氏の臣下となります。以来明治時代を迎えるまで佐竹氏の忠実な家臣として仕え、主君の繁栄を支え続けました。

  • 母屋は約200年前の建築のままで、厄除けの意味を込めた鬼板や懸魚等で意匠をこらした玄関、座敷内の板欄間にほどこされた家紋の透かし彫り、雪国特有の廻り縁など武家らしい威厳に満ちています。

    母屋は約200年前の建築のままで、厄除けの意味を込めた鬼板や懸魚等で意匠をこらした玄関、座敷内の板欄間にほどこされた家紋の透かし彫り、雪国特有の廻り縁など武家らしい威厳に満ちています。

  • 武家の座敷を思わせるシンプルなデザインです。

    武家の座敷を思わせるシンプルなデザインです。

  • 入り口で30分ほどあれば見学できるということでしたが、気が付くと40分を過ぎています。上桧木内川沿いの駐車場に戻るまで10分ほどしか残っていません。

    入り口で30分ほどあれば見学できるということでしたが、気が付くと40分を過ぎています。上桧木内川沿いの駐車場に戻るまで10分ほどしか残っていません。

  • 石黒家の薬医門には文化6年の1809年4月27日の墨書銘の矢板があり、角館に現存する武家屋敷のなかで年代の確認されるものとしては最古の建物のようです。

    石黒家の薬医門には文化6年の1809年4月27日の墨書銘の矢板があり、角館に現存する武家屋敷のなかで年代の確認されるものとしては最古の建物のようです。

  • 玄関は上位もしくは同格の身分を対象とする正玄関と、下位身分対象の脇玄関の2つがあり、正玄関には起り破風と懸魚を見ることが出来ます。ここで時間切れで、急いでバスに戻りました。

    玄関は上位もしくは同格の身分を対象とする正玄関と、下位身分対象の脇玄関の2つがあり、正玄関には起り破風と懸魚を見ることが出来ます。ここで時間切れで、急いでバスに戻りました。

  • 「角館」からバスは雫石を越えて「盛岡」に向かいます。4日間の旅もそろそろ終わりで、そう思うと寂しい気分になります。4日間一緒に風呂に入っているとツアーの皆さんが親戚のおじさんに見えてきます。普段はあまり良い印象を感じないバスツアーですが、今回は不思議でした。

    「角館」からバスは雫石を越えて「盛岡」に向かいます。4日間の旅もそろそろ終わりで、そう思うと寂しい気分になります。4日間一緒に風呂に入っているとツアーの皆さんが親戚のおじさんに見えてきます。普段はあまり良い印象を感じないバスツアーですが、今回は不思議でした。

  • バスは最後の休憩地の雫石の地域交流拠点施設に立ち寄ります。分かりやすく言うと温泉のようです。

    バスは最後の休憩地の雫石の地域交流拠点施設に立ち寄ります。分かりやすく言うと温泉のようです。

  • 温泉に入っている時間は無いので交流ターミナルの方に入ります。こちらは物産館です。

    温泉に入っている時間は無いので交流ターミナルの方に入ります。こちらは物産館です。

    雫石町観光物産センター お土産屋・直売所・特産品

  • ここでようやくババヘラアイスを見ることが出来ました。ババヘラは主に日本の秋田県で露天販売されている氷菓の一種で、中年以上の女性(ババ)が金属製の「ヘラ」を用いてコーンへ盛りつけることによる呼び名です。

    ここでようやくババヘラアイスを見ることが出来ました。ババヘラは主に日本の秋田県で露天販売されている氷菓の一種で、中年以上の女性(ババ)が金属製の「ヘラ」を用いてコーンへ盛りつけることによる呼び名です。

  • 午後5時前に「盛岡駅」につきました。ここでの自由時間は40分なので駅前の「盛楼閣」へ行く時間もありません。駅構内で車内で食べるお弁当を買うだけにします。

    午後5時前に「盛岡駅」につきました。ここでの自由時間は40分なので駅前の「盛楼閣」へ行く時間もありません。駅構内で車内で食べるお弁当を買うだけにします。

    盛岡駅

  • 駅構内では今回も野菜が売られていました。このスペースでは今までにも松茸だったり林檎だったりお買い得な買い物が出来て好きな場所です。

    駅構内では今回も野菜が売られていました。このスペースでは今までにも松茸だったり林檎だったりお買い得な買い物が出来て好きな場所です。

  • この時は季節の山菜が売られていたのでいくつか買い求めました。あとは三陸の瓶丼のもととニューデイズで檸檬堂と氷とつまみを買っていると集合時間になります。

    この時は季節の山菜が売られていたのでいくつか買い求めました。あとは三陸の瓶丼のもととニューデイズで檸檬堂と氷とつまみを買っていると集合時間になります。

  • 帰りは盛岡発のやまびこ58号で大宮まで戻ります。

    帰りは盛岡発のやまびこ58号で大宮まで戻ります。

  • 始発なので少し早めに乗車できるのがありがたいです。いつの間にか増えた荷物を整理して座席に座ります。

    始発なので少し早めに乗車できるのがありがたいです。いつの間にか増えた荷物を整理して座席に座ります。

  • 少し遅れての発車となりましたが、途中で定時運航になりました。車内では隣の方と話が弾みます。帰りも何組かのご夫婦が前後の席に分かれてしまって気の毒でした。

    少し遅れての発車となりましたが、途中で定時運航になりました。車内では隣の方と話が弾みます。帰りも何組かのご夫婦が前後の席に分かれてしまって気の毒でした。

  • 大宮で途中下車するのは我々だけでした。到着前に何組かのご夫婦がお別れにデッキまで来てくれました。そのまま下車して立ち去るのも気が引けたので発車を待って、手を振ると皆さん振り返してくれました。

    大宮で途中下車するのは我々だけでした。到着前に何組かのご夫婦がお別れにデッキまで来てくれました。そのまま下車して立ち去るのも気が引けたので発車を待って、手を振ると皆さん振り返してくれました。

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