福井市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2022年1月7日(金)12時半前、福井神社からお隣の福井城址へ向かう。<br /><br />福井城は、徳川家康の次男で、初代福井藩主の結城(1604年には松平姓に復したが養子時代の結城性で呼ばれることが多い)秀康が1606年に築城し、約270年間17代にわたり越前松平家の繁栄の舞台となった名城。築城当時は高さ37mで四層五重の雄大な天守閣と三重の堀をもっていたと云われるが、天守は1669年の大火で焼失。現在では本丸の石垣と堀の一部だけが残されている。二の丸、三の丸はほぼ消滅して市街地化している<br /><br />結城秀康の築城以前に、1575年に柴田勝家が安土城に匹敵する巨城とも云われる北ノ庄城を築いたが、1583年に秀吉に攻められ、妻・市と共に自害し、火が放たれた城はほぼ全てが焼失した。ただし、この城の本丸はこの位置でなく、約500m南の現在柴田公園がある辺りにあったとされる。<br /><br />北ノ庄は福井の旧名。足羽(あすわ)川右岸一帯は伊勢神宮の神領である足羽御厨(みくりや)だったが、その北部であったことからこう呼ばれるようになった。結城秀康の築城時も北ノ荘藩だったが、1624年に第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」に繋がり不吉であるとして「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名されたため、福井城となった。改名の経緯に関しては諸説あるが、一説では天守台下にあった「福の井」と呼ばれる井戸に因んだと云われる。<br /><br />明治維新後の1873年(明治4年)に陸軍省の管轄となったが、旧藩士たちが1879年(明治12年)に同地を借り受け、開墾を進めた。1890年(明治23年)に藩主だった越前松平家が買い戻し、1893年(明治26年)には旧城内に農業試験場「松平試農場」が設立され、1921年(大正11年)に移転するまで続いた。<br /><br />1923年(大正13年)には旧福井県庁が本丸跡に移転され、現在は県会議事堂、県警察本部などもあり、また公園としても整備されている。現在は2013年に策定された「県都デザイン戦略」の一つとして福井城と周辺の歴史史跡などを整備し、史跡の保全や市民の憩いの場とする整備・復元事業が進められている。<br /><br />12時半ちょっと前、中央公園の真ん中辺りに架かる御廊下橋から本丸跡に入ろうとしたらなんと橋から内側に入れない。内側の山里口御門が積雪で瓦落下の恐れがある為、通行止めとのこと(下の写真1)。なんてこった。<br /><br />この橋は17人の藩主のうち松平春嶽など5人は現在の中央公園辺りにあった西三ノ丸御座所に居住し、政を司る政庁は本丸内にあったので、日々通うための橋として作られたもので、屋根付きの珍しい形態になっている。明治維新後に取り外されていたが、福井城築城四百年を機に2008年に復元、架橋された。<br /><br />しょうがないので、北側に回り込んで土橋から入ることにする。福井神社に戻って堀際を北側に回り込んで行くとお堀の北西部に順化小学校がある。1868年(明治元年)に川口小学校として創立された歴史ある小学校。1887年(明治20年)に尋常科順化小学校となり、1947年(昭和22年)に現在名になった。順化は中国の文献にある「王化ノ徳ニ順(したが)フ」から採られている。皇帝(天皇)の徳に感化されてその忠良な臣民となると云う意味。<br /><br />小学校の前には順化万霊供養塔が建つ。1967年に戦災や震災によるお堀の犠牲者供養のために本丸南の御本城橋のたもとに建立され、その後城址の西南、足羽川左岸の足羽山西墓地公園の一隅に移転されていたが、2015年に本来の場所に近いこの地に移された。<br /><br />順化小学校前を東に進み土橋(下の写真2)から本丸跡に入る。この辺りは北不明御門(きたあかずごもん)だったところ(下の写真3)。 3ヶ所ある本丸出入口の一つ。まっすぐ進むと右手(西側)に県庁舎で、渡り廊下で左手(東側)の議会議事堂につながっている(下の写真4)。<br /><br />右手に曲がり堀の内側を進むと雁木(がんぎ)と呼ばれる堀の石垣の上へ上る石段。近代城郭で城の守りのために造られているもの。突き当り、本丸の北西部には一段高くなった天守台があるのだが、ここも積雪のため閉鎖中(下の写真5)。<br /><br />天守台の南側を回り込んで進むと蓮の池と呼ばれる池があるが、その上、一段高くなったところに上述した福井の名のもとになったと云われる福の井と云う井戸が屋形で覆われている。福井城が築かれる前からここにあったと云われる。ここも登れない。<br /><br />蓮の池の先、西側の突き当りに山里口御門があるが、御廊下橋の先が通行止になってたように反対側からも当然通れない。廊下橋御門とも天守台下門とも呼ばれていた福井城本丸の西側を守る枡形門。江戸初期から本丸の西につながる西二の丸に松林があり、山里丸と呼ばれており、この門はその山里丸から本丸への入口の門として、築城当時に造られたが、1669年の大火で天守などとともに焼失した。2018年に復元された。<br /><br />天守台に登れず、山里口御門にも近づけないので、県庁舎と警察本部庁舎の間を南に抜けて、瓦御門跡に進む。県庁舎も警察本部庁舎も1981年に完成したもの。警察本部庁舎は福井県警察の本部庁舎で地上6階、地下2階。<br /><br />県庁舎は地上11階、地下3階で中央が9階まで吹き抜けとなっており、県庁や福井県教育庁などの各組織が入居している。知事室は日本一広いそうだ。福井県庁碑の横に建つ結城秀康騎馬像は2002年に秀康の入国400年を記念して建立されたもので、ひとつの石で仕上げられている。なお、県庁がおかれている福井県については下記の旅行記参照。<br />https://4travel.jp/travelogue/11744997<br /><br />瓦御門は本丸の正面出入口にあった門。この出入口は枡形になっており、橋の北側の御門を抜けると左手前に御番書があり、西側と北側は高い石垣と塀で閉ざされており、東側に瓦御門があった。一階に出入口を設け、二階の両側を石垣上に載せている櫓門形式で、本丸御殿に通じる福井城の正門に相応しく、横16間余(約28.8m)、奥行き4間余(約7.2m)の大きな門だった。<br /><br />瓦御門から東に延びる石垣上には、東南隅の巽櫓に向かって多聞櫓と呼ばれる細長い建物が続いていたそうで、現在は石垣しかないが、その上は桜並木の散策路になっており、堀越しに福井市の街並みを眺めることが出来るのだが、これも積雪で通行止だった。<br /><br />石垣の奥には大本営行在所(あんざいしょ)記念碑。1933年(昭和8年)に行われた陸軍特別大演習の大本営行在所が県庁に置かれたことを記念して建てられたもの。行在所とは旅行中の天皇の宿泊所のこと。<br /><br />石垣の御本城橋に近いところには雁木の隣に福井城墟碑が建つ。松平康荘建碑、徳川家達篆額、三島中洲撰、巖谷一六書、酒井八右衛門刻。1900年(明治33年)に、藩祖松平秀康の入府300年を記念して建てられたもので、福井城の沿革と藩祖の徳とが記されている。<br /><br />御本城橋を渡って本丸跡から出る。御本城橋は内堀の本丸正面出入口に当たる橋で、上述のように橋の内側には御門があった。両側の柱の背後に小屋根を突き出す高麗門という形式で、その柱跡は今も石垣に残っている。<br /><br />御本城橋の南詰からお堀沿いを左手(東側)に進むと福井城内堀公園がある。多聞櫓の石垣が目の前に望める小さな公園で、本丸復元図や福井城下の歴史がわかる説明書きも置かれている。また、幕末の1858年冬に熊本藩士で福井藩の政治顧問だった横井小楠の一時帰国に同行して光岡八郎が一緒に九州へ旅立つ姿を表現した旅立ちの像もある。旅の目的は長崎での物資販売ルート開拓で、この成功により福井藩の財政は著しく改善された。光岡八郎(後の由利公正)は坂本龍馬との親交も深く、五箇条の御誓文原案を起草し、維新後は初代東京府知事となった。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9444725182264088&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />福井城から福井駅へ戻るが、続く

福井 福井城跡(Fukui Castle Ruins,Fukui,Japan)

0いいね!

2022/01/07 - 2022/01/07

603位(同エリア606件中)

旅行記グループ 白川郷

0

5

ちふゆ

ちふゆさん

2022年1月7日(金)12時半前、福井神社からお隣の福井城址へ向かう。

福井城は、徳川家康の次男で、初代福井藩主の結城(1604年には松平姓に復したが養子時代の結城性で呼ばれることが多い)秀康が1606年に築城し、約270年間17代にわたり越前松平家の繁栄の舞台となった名城。築城当時は高さ37mで四層五重の雄大な天守閣と三重の堀をもっていたと云われるが、天守は1669年の大火で焼失。現在では本丸の石垣と堀の一部だけが残されている。二の丸、三の丸はほぼ消滅して市街地化している

結城秀康の築城以前に、1575年に柴田勝家が安土城に匹敵する巨城とも云われる北ノ庄城を築いたが、1583年に秀吉に攻められ、妻・市と共に自害し、火が放たれた城はほぼ全てが焼失した。ただし、この城の本丸はこの位置でなく、約500m南の現在柴田公園がある辺りにあったとされる。

北ノ庄は福井の旧名。足羽(あすわ)川右岸一帯は伊勢神宮の神領である足羽御厨(みくりや)だったが、その北部であったことからこう呼ばれるようになった。結城秀康の築城時も北ノ荘藩だったが、1624年に第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」に繋がり不吉であるとして「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名されたため、福井城となった。改名の経緯に関しては諸説あるが、一説では天守台下にあった「福の井」と呼ばれる井戸に因んだと云われる。

明治維新後の1873年(明治4年)に陸軍省の管轄となったが、旧藩士たちが1879年(明治12年)に同地を借り受け、開墾を進めた。1890年(明治23年)に藩主だった越前松平家が買い戻し、1893年(明治26年)には旧城内に農業試験場「松平試農場」が設立され、1921年(大正11年)に移転するまで続いた。

1923年(大正13年)には旧福井県庁が本丸跡に移転され、現在は県会議事堂、県警察本部などもあり、また公園としても整備されている。現在は2013年に策定された「県都デザイン戦略」の一つとして福井城と周辺の歴史史跡などを整備し、史跡の保全や市民の憩いの場とする整備・復元事業が進められている。

12時半ちょっと前、中央公園の真ん中辺りに架かる御廊下橋から本丸跡に入ろうとしたらなんと橋から内側に入れない。内側の山里口御門が積雪で瓦落下の恐れがある為、通行止めとのこと(下の写真1)。なんてこった。

この橋は17人の藩主のうち松平春嶽など5人は現在の中央公園辺りにあった西三ノ丸御座所に居住し、政を司る政庁は本丸内にあったので、日々通うための橋として作られたもので、屋根付きの珍しい形態になっている。明治維新後に取り外されていたが、福井城築城四百年を機に2008年に復元、架橋された。

しょうがないので、北側に回り込んで土橋から入ることにする。福井神社に戻って堀際を北側に回り込んで行くとお堀の北西部に順化小学校がある。1868年(明治元年)に川口小学校として創立された歴史ある小学校。1887年(明治20年)に尋常科順化小学校となり、1947年(昭和22年)に現在名になった。順化は中国の文献にある「王化ノ徳ニ順(したが)フ」から採られている。皇帝(天皇)の徳に感化されてその忠良な臣民となると云う意味。

小学校の前には順化万霊供養塔が建つ。1967年に戦災や震災によるお堀の犠牲者供養のために本丸南の御本城橋のたもとに建立され、その後城址の西南、足羽川左岸の足羽山西墓地公園の一隅に移転されていたが、2015年に本来の場所に近いこの地に移された。

順化小学校前を東に進み土橋(下の写真2)から本丸跡に入る。この辺りは北不明御門(きたあかずごもん)だったところ(下の写真3)。 3ヶ所ある本丸出入口の一つ。まっすぐ進むと右手(西側)に県庁舎で、渡り廊下で左手(東側)の議会議事堂につながっている(下の写真4)。

右手に曲がり堀の内側を進むと雁木(がんぎ)と呼ばれる堀の石垣の上へ上る石段。近代城郭で城の守りのために造られているもの。突き当り、本丸の北西部には一段高くなった天守台があるのだが、ここも積雪のため閉鎖中(下の写真5)。

天守台の南側を回り込んで進むと蓮の池と呼ばれる池があるが、その上、一段高くなったところに上述した福井の名のもとになったと云われる福の井と云う井戸が屋形で覆われている。福井城が築かれる前からここにあったと云われる。ここも登れない。

蓮の池の先、西側の突き当りに山里口御門があるが、御廊下橋の先が通行止になってたように反対側からも当然通れない。廊下橋御門とも天守台下門とも呼ばれていた福井城本丸の西側を守る枡形門。江戸初期から本丸の西につながる西二の丸に松林があり、山里丸と呼ばれており、この門はその山里丸から本丸への入口の門として、築城当時に造られたが、1669年の大火で天守などとともに焼失した。2018年に復元された。

天守台に登れず、山里口御門にも近づけないので、県庁舎と警察本部庁舎の間を南に抜けて、瓦御門跡に進む。県庁舎も警察本部庁舎も1981年に完成したもの。警察本部庁舎は福井県警察の本部庁舎で地上6階、地下2階。

県庁舎は地上11階、地下3階で中央が9階まで吹き抜けとなっており、県庁や福井県教育庁などの各組織が入居している。知事室は日本一広いそうだ。福井県庁碑の横に建つ結城秀康騎馬像は2002年に秀康の入国400年を記念して建立されたもので、ひとつの石で仕上げられている。なお、県庁がおかれている福井県については下記の旅行記参照。
https://4travel.jp/travelogue/11744997

瓦御門は本丸の正面出入口にあった門。この出入口は枡形になっており、橋の北側の御門を抜けると左手前に御番書があり、西側と北側は高い石垣と塀で閉ざされており、東側に瓦御門があった。一階に出入口を設け、二階の両側を石垣上に載せている櫓門形式で、本丸御殿に通じる福井城の正門に相応しく、横16間余(約28.8m)、奥行き4間余(約7.2m)の大きな門だった。

瓦御門から東に延びる石垣上には、東南隅の巽櫓に向かって多聞櫓と呼ばれる細長い建物が続いていたそうで、現在は石垣しかないが、その上は桜並木の散策路になっており、堀越しに福井市の街並みを眺めることが出来るのだが、これも積雪で通行止だった。

石垣の奥には大本営行在所(あんざいしょ)記念碑。1933年(昭和8年)に行われた陸軍特別大演習の大本営行在所が県庁に置かれたことを記念して建てられたもの。行在所とは旅行中の天皇の宿泊所のこと。

石垣の御本城橋に近いところには雁木の隣に福井城墟碑が建つ。松平康荘建碑、徳川家達篆額、三島中洲撰、巖谷一六書、酒井八右衛門刻。1900年(明治33年)に、藩祖松平秀康の入府300年を記念して建てられたもので、福井城の沿革と藩祖の徳とが記されている。

御本城橋を渡って本丸跡から出る。御本城橋は内堀の本丸正面出入口に当たる橋で、上述のように橋の内側には御門があった。両側の柱の背後に小屋根を突き出す高麗門という形式で、その柱跡は今も石垣に残っている。

御本城橋の南詰からお堀沿いを左手(東側)に進むと福井城内堀公園がある。多聞櫓の石垣が目の前に望める小さな公園で、本丸復元図や福井城下の歴史がわかる説明書きも置かれている。また、幕末の1858年冬に熊本藩士で福井藩の政治顧問だった横井小楠の一時帰国に同行して光岡八郎が一緒に九州へ旅立つ姿を表現した旅立ちの像もある。旅の目的は長崎での物資販売ルート開拓で、この成功により福井藩の財政は著しく改善された。光岡八郎(後の由利公正)は坂本龍馬との親交も深く、五箇条の御誓文原案を起草し、維新後は初代東京府知事となった。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9444725182264088&type=1&l=223fe1adec


福井城から福井駅へ戻るが、続く

PR

  • 写真1 山里口御門通行止め

    写真1 山里口御門通行止め

  • 写真2 本丸跡北東部の土橋

    写真2 本丸跡北東部の土橋

  • 写真3 北不明御門跡

    写真3 北不明御門跡

  • 写真4 県庁舎と議会議事堂

    写真4 県庁舎と議会議事堂

  • 写真5 控天守台への登り口(閉鎖中)

    写真5 控天守台への登り口(閉鎖中)

0いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

白川郷

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP