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2022年1月6日(木)1時過ぎ、今晩泊まる宿に荷物を預けて荻町集落の散策を再開。喫茶・落人の前まで戻ると、メインストリートからの道の突き当りに長瀬家がある。長瀬家は250年つづく旧家。初代から3代目までが医者で、加賀百万石前田家の御典医を務めていたことから江戸期の医療道具や前田家から拝領した品々が残されている。「ものを愛する心が宝もの」がコンセプト。<br /><br />1890年(明治23年)完成の5階建ての合掌造りの建物は白川郷最大級で、約11mの一本柱(合掌柱)が屋根の勾配の上から下までを貫き、大きな屋根を形作っている。柱材には樹齢150年から200年の天然檜や樹齢300年から350年の栃、欅、桂などの巨木が使われている。完成まで3年、当時のお金で800円(現在だと300万円くらい?)掛かったそうだ。2001年に80年振りに行われた屋根の葺き替えの模様がテレビで放映され話題になった。<br /><br />合掌造りは日本の住宅建築様式の一つで、急勾配の屋根を持つが、現存する合掌造りの屋根は45度から60度まで、傾きにかなりの幅がある。合掌造りがいつ始められたのかは定かではないが、江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている。明治時代中期が最も合掌造り集落が多かった時期と考えられており、一帯にはおよそ1850棟が存在していたとされる。<br /><br />合掌造りの名前の由来は定かではないが、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている。元々の定義は一様ではなかったが、世界遺産推薦時に、「小屋内を積極的に利用するために、叉首(さす)構造の切妻屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけられた。ただし、同じ白川郷でも、旧荘川村地域に残る合掌造りは入母屋屋根。<br /><br />叉首構造とは両側から「人」の字形に寄りかかった部材が棟木の点で交差するトラス構造のことで、一般の住宅が棟木や母屋を下から鉛直方向に支えている構造と大きな違いがある。一般的に雪に強いとされているが、雪下ろしや除雪が全く不要ということではなく、1970年には雪で潰れ一家4人が圧死する事故が発生している。<br /><br />合掌造りにすることで屋根裏に小屋束のない広い空間が生ま、江戸時代中期頃に養蚕業が活発化すると、この空間を利用し、農家の住居の屋根裏で養蚕の棚を設置するようになった。もともと構造上勾配の小さな屋根は作りにくいのが合掌造りで、3層・4層に養蚕棚の空間を大きく取るために、屋根がさらに高く切り立ったと考えられており、とりわけ後の時代に建てられたものが急勾配になっている。<br /><br />また、生活で出る暖気によって屋根裏を暖かくして養蚕に役立てるため、屋根裏の床材には竹簀が利用され、煙などが屋根裏に抜けやすいようになっている。妻を南北に向けているのも夏場に屋根裏部屋の窓を開放し、これらの集落に多い強い南北の風を吹き抜けさせることで夏蚕が暑さにやられないようにするため。副効果として屋根がまともに風を受けないこと、屋根の日当たりが良くなることもある。<br /><br />かつての白川郷や五箇山では、せまい耕作地が相続によって細分化されることなどを防ぐために、結婚できるのは長男だけだった。その結果として、一つの住居に家長とその嫡流だけでなく、傍系に当たる親族や使用人たちも多数暮らしていた。ただし、屋根裏の上層部は狭ますぎて居住には適さず、養蚕などの産業用に使用されていた。<br /><br />屋根組みには釘を1本も使わず、丈夫なマンサクの縄で固定する。これは、雪の重さや風の強さに対する柔軟性を生み、家の耐久性を増す工夫とされている。なお、建物そのものに釘を一切使わないわけではなく、床板などの打ち付けには使われている。<br /><br />茅葺屋根の葺き替えは30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがあるため、その補修作業が年に1・2度必要となる。これらの作業は結(ゆい)と呼ばれる地域住民の働力提供による共同作業で行われる。<br /><br />合掌造りの家に共通するが、1階が生活の場で、囲炉裏の置かれた部屋の他、曲がり座敷や奥の出居など多くの部屋がある。囲炉裏から立ち上がる煙が建物の防虫や防腐効果を高めると云われている。奥の出居の立派な阿弥陀如来さまが安置されている仏壇は500年前の作と云われている。<br /><br />前田家の引き立てもあり、蔵一棟を譲り受けたことで代々の当主が使用していた薬箱や、三菱財閥の創業者一族の岩崎家から頂いた懐中時計など、貴重な美術工芸品が保存され、展示されている。また、祝祭事に用いられた九段重ね朱塗り杯に片口、さらには天皇家の菊の紋が入った器や急須などの什器も展示されている。<br /><br />階段の途中の2階は使用人の寝どころ。現在は6人で生活しているが、盛りの頃は44人が自給自足で生活していたそうだ。<br /><br />3、4階が養蚕の作業場で、5階が薬草の干し場だった。今は織機や山仕事で使われた鋸や木槌などの什器や生活用具が展示されている。屋根には木製のくさびや、ねそ(まんさく)の縄などが使われ、金属のかすがいや釘は使われておらず、これが年月と共にさらに強度を増す要因と云われている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9328927647177176&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />続いて向いの神田家の合掌造り民家に向かうが、なぜかCLOSEで入れなかった(下の写真1)。後で寄る和田家の次男が分家して、ここで酒造業を興した。この地には産土八幡宮の神田(しんでん)があったことから、苗字を神田と改めたそうだ。<br /><br />江戸時代末期の1850年頃に石川県の宮大工により十年の歳月をかけて建造されたもの。それまでの合掌造りの構造を受け継ぎながらも新しい技術を取り入れて改良している。間取りの発達や小屋組み(合掌木)の大工の手跡の多さから、合掌造り家屋の中でも非常に高い完成度と評される(下の写真2)。<br /><br /><br />荻町城跡展望台へ向かうが、続く

岐阜 白川郷 荻町 長瀬家(Nagase House,Ogimachi,Shirakawago,Gifu,Japan)

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2022/01/06 - 2022/01/06

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年1月6日(木)1時過ぎ、今晩泊まる宿に荷物を預けて荻町集落の散策を再開。喫茶・落人の前まで戻ると、メインストリートからの道の突き当りに長瀬家がある。長瀬家は250年つづく旧家。初代から3代目までが医者で、加賀百万石前田家の御典医を務めていたことから江戸期の医療道具や前田家から拝領した品々が残されている。「ものを愛する心が宝もの」がコンセプト。

1890年(明治23年)完成の5階建ての合掌造りの建物は白川郷最大級で、約11mの一本柱(合掌柱)が屋根の勾配の上から下までを貫き、大きな屋根を形作っている。柱材には樹齢150年から200年の天然檜や樹齢300年から350年の栃、欅、桂などの巨木が使われている。完成まで3年、当時のお金で800円(現在だと300万円くらい?)掛かったそうだ。2001年に80年振りに行われた屋根の葺き替えの模様がテレビで放映され話題になった。

合掌造りは日本の住宅建築様式の一つで、急勾配の屋根を持つが、現存する合掌造りの屋根は45度から60度まで、傾きにかなりの幅がある。合掌造りがいつ始められたのかは定かではないが、江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている。明治時代中期が最も合掌造り集落が多かった時期と考えられており、一帯にはおよそ1850棟が存在していたとされる。

合掌造りの名前の由来は定かではないが、掌を合わせたように三角形に組む丸太組みを「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている。元々の定義は一様ではなかったが、世界遺産推薦時に、「小屋内を積極的に利用するために、叉首(さす)構造の切妻屋根とした茅葺きの家屋」と定義づけられた。ただし、同じ白川郷でも、旧荘川村地域に残る合掌造りは入母屋屋根。

叉首構造とは両側から「人」の字形に寄りかかった部材が棟木の点で交差するトラス構造のことで、一般の住宅が棟木や母屋を下から鉛直方向に支えている構造と大きな違いがある。一般的に雪に強いとされているが、雪下ろしや除雪が全く不要ということではなく、1970年には雪で潰れ一家4人が圧死する事故が発生している。

合掌造りにすることで屋根裏に小屋束のない広い空間が生ま、江戸時代中期頃に養蚕業が活発化すると、この空間を利用し、農家の住居の屋根裏で養蚕の棚を設置するようになった。もともと構造上勾配の小さな屋根は作りにくいのが合掌造りで、3層・4層に養蚕棚の空間を大きく取るために、屋根がさらに高く切り立ったと考えられており、とりわけ後の時代に建てられたものが急勾配になっている。

また、生活で出る暖気によって屋根裏を暖かくして養蚕に役立てるため、屋根裏の床材には竹簀が利用され、煙などが屋根裏に抜けやすいようになっている。妻を南北に向けているのも夏場に屋根裏部屋の窓を開放し、これらの集落に多い強い南北の風を吹き抜けさせることで夏蚕が暑さにやられないようにするため。副効果として屋根がまともに風を受けないこと、屋根の日当たりが良くなることもある。

かつての白川郷や五箇山では、せまい耕作地が相続によって細分化されることなどを防ぐために、結婚できるのは長男だけだった。その結果として、一つの住居に家長とその嫡流だけでなく、傍系に当たる親族や使用人たちも多数暮らしていた。ただし、屋根裏の上層部は狭ますぎて居住には適さず、養蚕などの産業用に使用されていた。

屋根組みには釘を1本も使わず、丈夫なマンサクの縄で固定する。これは、雪の重さや風の強さに対する柔軟性を生み、家の耐久性を増す工夫とされている。なお、建物そのものに釘を一切使わないわけではなく、床板などの打ち付けには使われている。

茅葺屋根の葺き替えは30年から40年に一度行われる。また雪が屋根から落ちるときに、茅も一緒に落ちてしまうことがあるため、その補修作業が年に1・2度必要となる。これらの作業は結(ゆい)と呼ばれる地域住民の働力提供による共同作業で行われる。

合掌造りの家に共通するが、1階が生活の場で、囲炉裏の置かれた部屋の他、曲がり座敷や奥の出居など多くの部屋がある。囲炉裏から立ち上がる煙が建物の防虫や防腐効果を高めると云われている。奥の出居の立派な阿弥陀如来さまが安置されている仏壇は500年前の作と云われている。

前田家の引き立てもあり、蔵一棟を譲り受けたことで代々の当主が使用していた薬箱や、三菱財閥の創業者一族の岩崎家から頂いた懐中時計など、貴重な美術工芸品が保存され、展示されている。また、祝祭事に用いられた九段重ね朱塗り杯に片口、さらには天皇家の菊の紋が入った器や急須などの什器も展示されている。

階段の途中の2階は使用人の寝どころ。現在は6人で生活しているが、盛りの頃は44人が自給自足で生活していたそうだ。

3、4階が養蚕の作業場で、5階が薬草の干し場だった。今は織機や山仕事で使われた鋸や木槌などの什器や生活用具が展示されている。屋根には木製のくさびや、ねそ(まんさく)の縄などが使われ、金属のかすがいや釘は使われておらず、これが年月と共にさらに強度を増す要因と云われている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9328927647177176&type=1&l=223fe1adec

続いて向いの神田家の合掌造り民家に向かうが、なぜかCLOSEで入れなかった(下の写真1)。後で寄る和田家の次男が分家して、ここで酒造業を興した。この地には産土八幡宮の神田(しんでん)があったことから、苗字を神田と改めたそうだ。

江戸時代末期の1850年頃に石川県の宮大工により十年の歳月をかけて建造されたもの。それまでの合掌造りの構造を受け継ぎながらも新しい技術を取り入れて改良している。間取りの発達や小屋組み(合掌木)の大工の手跡の多さから、合掌造り家屋の中でも非常に高い完成度と評される(下の写真2)。


荻町城跡展望台へ向かうが、続く

  • 写真1 神田家玄関

    写真1 神田家玄関

  • 写真2 神田家外観

    写真2 神田家外観

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