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2022年1月7日(金)お昼過ぎ、福井駅から福井城址のお堀端を歩き、10分ほどでまずは福井市中央公園へ。福井市の中心部に位置し、福井城跡の旧西三ノ丸、西二ノ丸の位置に整備された公園。歴代藩主17人のうち松平春嶽など5人は西三ノ丸御座所に居住していた。<br /><br />掘割広場やビジターセンターなどがある他、開放的な広い芝生では市民主催のイベントが定期的に開催されている。夏には都市型野外フェスの「ワンパークフェスティバル」なども開催されるなど、福井市民に親しまれる空間となっているそうだ。<br /><br />福井市は2013年に福井城址と中央公園を一体化する「福井市中央公園周辺再整備基本計画(案)」を公表、2050年までに県庁と市役所の移転を伴う整備を行うが、中央公園内部の再整備は2015年までに先行して行うとした。そして2018年8月に中央公園完成式典が開かれ、全ての公園区域が供用開始となった。<br /><br />公園の東南部から入ると、まずは熊谷三太郎・太三郎親子の胸像が建つ。向かって左側が熊谷三太郎翁像。熊谷三太郎氏は明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家で、熊谷組創業者。敦賀市出身だが、福井市の熊谷家の養子となり、福井県立中学校を修了。土木業に従事し、地元の飛島組(現在の飛島建設)の下請けから取締役になり、1938年(昭和13年)に熊谷組を創設した。1939年から1947年まで貴族院議員を務めた。<br /><br />右側に建つのが熊谷太三郎先生像。太三郎氏は三太郎氏の二男で、1940年から父親の後を継いで熊谷組の二代目社長となり、戦後は福井市長を14年務めた。その後参議院議員に転身、1977年からは福田赳夫改造内閣の元で科学技術庁長官に就任、高速増殖炉もんじゅの建設を推進した。<br /><br />その隣には太三郎氏の市長時代の1948年(昭和23年)の6月に発生した福井地震の記念碑。現在の坂井市丸岡町付近を震源地としたマグニチュード7.1の直下型地震で、福井平野のほぼ全域に甚大な被害をもたらし、隣の石川県内の被害も合わせると、死者は3769人、負傷者は2万2000人以上、全壊した家屋はおよそ3万6000戸に上った。これは戦後では、東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ被害。<br /><br />お二人の胸像の間には、2018年のこの二つの像の修復・移設時に新たに作られた石碑が建ち、地震の復興に尽力された太三郎市長の言葉「百難屈せず、百折撓(たわ)まず」が刻まれている。<br /><br />その西側には一段低くなった堀割広場がある。西二ノ丸の堀跡に造られた広場で、堀の幅や深さが当時のまま再現され、石垣にはこの場所で発掘された笏谷石を使用している。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9414516095284997&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />福井市中央公園の北側にあるのが福井神社。1943年(昭和18年)に創建された松平春嶽を祀る神社。松平春嶽は福井藩16代の藩主で、福井藩の藩政改革を行い、明治維新の際には徳川親藩・譜代大名の尊王派の中心人物となった。<br /><br />1871年(明治4年)に制定された近代社格制度では古来国家のために功労のあった人臣を祀る別格官幣社に指定されたが、この制度は戦後すぐに廃止されたため、日本最後の別格官幣社指定となった。<br /><br />中央公園の北東、お堀端に北向きに建つ一之鳥居(2000年築)を抜けると、左手、別格官幣社の社標の先に大鳥居がある。この社標は、1948年の福井地震で堀の中に埋没したが、35年後の1983年に発見されて復元設置されたもの。<br /><br />境内は大鳥居から西側に広がる。創建時の社殿は総檜造りであったが、創建からわずか2年後の1945年7月の福井空襲で焼失した。再建されたのは1957年(昭和32年)で、福井大学工学部の五十嵐直雄の設計により再建された。<br /><br />後に増営された建物を含む8棟は、2022年に、戦前から戦後、高度成長期のモダニズム建築の保存に取り組む国際学術組織DOCOMOMO(ドコモモ)日本支部の、後世に残したい名建築リスト「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選定されている。<br /><br />再建の翌年(1958年)に造られた大鳥居はコンクリート造りで貫がない特殊な形をしている。正面の社殿も総コンクリート造り、表面はコンクリート打ち放し、神明造を大幅に変形した傾斜の無いフラットな屋根という、一般的な神社とは大きく異なる独特のモダニズム様式で、神社とは思えない建物。<br /><br />社殿の左側の松平春嶽公の銅像は1974年に建てられたもの。その隣の恒道神社は再建と同時に造られたもので、幕末の福井藩士で、春嶽公の側近として維新の大業に参画、公に従って国難に赴いた中根靱負、鈴木主税、橋本左内の3人を祀っている。恒道は、「続日本紀」にある「忠を以て君に事うるは臣子の恒道也」に由来したもの。<br /><br />恒道神社の手前には1960年築の宝物館、その向かい側には1965年築の絵馬殿、さらにその手前に1966年築の社務所が並ぶ。絵馬殿の中には春嶽公の肖像画や勉強会、藩内見廻りの図などが飾られている。<br /><br />境内にある樹高22.7m、幹周り3.6mのイチョウは戦災で枯死したと思われたが、その後新芽を出して枝葉を伸ばし、元の樹勢を取り戻した樹で、不死鳥福井のシンボルとして市指定天然記念物に指定されている。樹勢が旺盛でとても戦災の痛手を受けたとは想像つかない。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9414527428617197&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />堀を渡って福井城址へ進むが、続く

福井 福井神社(Fukui Shrine,Fukui,Japan)

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2022/01/07 - 2022/01/07

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年1月7日(金)お昼過ぎ、福井駅から福井城址のお堀端を歩き、10分ほどでまずは福井市中央公園へ。福井市の中心部に位置し、福井城跡の旧西三ノ丸、西二ノ丸の位置に整備された公園。歴代藩主17人のうち松平春嶽など5人は西三ノ丸御座所に居住していた。

掘割広場やビジターセンターなどがある他、開放的な広い芝生では市民主催のイベントが定期的に開催されている。夏には都市型野外フェスの「ワンパークフェスティバル」なども開催されるなど、福井市民に親しまれる空間となっているそうだ。

福井市は2013年に福井城址と中央公園を一体化する「福井市中央公園周辺再整備基本計画(案)」を公表、2050年までに県庁と市役所の移転を伴う整備を行うが、中央公園内部の再整備は2015年までに先行して行うとした。そして2018年8月に中央公園完成式典が開かれ、全ての公園区域が供用開始となった。

公園の東南部から入ると、まずは熊谷三太郎・太三郎親子の胸像が建つ。向かって左側が熊谷三太郎翁像。熊谷三太郎氏は明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家で、熊谷組創業者。敦賀市出身だが、福井市の熊谷家の養子となり、福井県立中学校を修了。土木業に従事し、地元の飛島組(現在の飛島建設)の下請けから取締役になり、1938年(昭和13年)に熊谷組を創設した。1939年から1947年まで貴族院議員を務めた。

右側に建つのが熊谷太三郎先生像。太三郎氏は三太郎氏の二男で、1940年から父親の後を継いで熊谷組の二代目社長となり、戦後は福井市長を14年務めた。その後参議院議員に転身、1977年からは福田赳夫改造内閣の元で科学技術庁長官に就任、高速増殖炉もんじゅの建設を推進した。

その隣には太三郎氏の市長時代の1948年(昭和23年)の6月に発生した福井地震の記念碑。現在の坂井市丸岡町付近を震源地としたマグニチュード7.1の直下型地震で、福井平野のほぼ全域に甚大な被害をもたらし、隣の石川県内の被害も合わせると、死者は3769人、負傷者は2万2000人以上、全壊した家屋はおよそ3万6000戸に上った。これは戦後では、東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ被害。

お二人の胸像の間には、2018年のこの二つの像の修復・移設時に新たに作られた石碑が建ち、地震の復興に尽力された太三郎市長の言葉「百難屈せず、百折撓(たわ)まず」が刻まれている。

その西側には一段低くなった堀割広場がある。西二ノ丸の堀跡に造られた広場で、堀の幅や深さが当時のまま再現され、石垣にはこの場所で発掘された笏谷石を使用している。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9414516095284997&type=1&l=223fe1adec

福井市中央公園の北側にあるのが福井神社。1943年(昭和18年)に創建された松平春嶽を祀る神社。松平春嶽は福井藩16代の藩主で、福井藩の藩政改革を行い、明治維新の際には徳川親藩・譜代大名の尊王派の中心人物となった。

1871年(明治4年)に制定された近代社格制度では古来国家のために功労のあった人臣を祀る別格官幣社に指定されたが、この制度は戦後すぐに廃止されたため、日本最後の別格官幣社指定となった。

中央公園の北東、お堀端に北向きに建つ一之鳥居(2000年築)を抜けると、左手、別格官幣社の社標の先に大鳥居がある。この社標は、1948年の福井地震で堀の中に埋没したが、35年後の1983年に発見されて復元設置されたもの。

境内は大鳥居から西側に広がる。創建時の社殿は総檜造りであったが、創建からわずか2年後の1945年7月の福井空襲で焼失した。再建されたのは1957年(昭和32年)で、福井大学工学部の五十嵐直雄の設計により再建された。

後に増営された建物を含む8棟は、2022年に、戦前から戦後、高度成長期のモダニズム建築の保存に取り組む国際学術組織DOCOMOMO(ドコモモ)日本支部の、後世に残したい名建築リスト「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選定されている。

再建の翌年(1958年)に造られた大鳥居はコンクリート造りで貫がない特殊な形をしている。正面の社殿も総コンクリート造り、表面はコンクリート打ち放し、神明造を大幅に変形した傾斜の無いフラットな屋根という、一般的な神社とは大きく異なる独特のモダニズム様式で、神社とは思えない建物。

社殿の左側の松平春嶽公の銅像は1974年に建てられたもの。その隣の恒道神社は再建と同時に造られたもので、幕末の福井藩士で、春嶽公の側近として維新の大業に参画、公に従って国難に赴いた中根靱負、鈴木主税、橋本左内の3人を祀っている。恒道は、「続日本紀」にある「忠を以て君に事うるは臣子の恒道也」に由来したもの。

恒道神社の手前には1960年築の宝物館、その向かい側には1965年築の絵馬殿、さらにその手前に1966年築の社務所が並ぶ。絵馬殿の中には春嶽公の肖像画や勉強会、藩内見廻りの図などが飾られている。

境内にある樹高22.7m、幹周り3.6mのイチョウは戦災で枯死したと思われたが、その後新芽を出して枝葉を伸ばし、元の樹勢を取り戻した樹で、不死鳥福井のシンボルとして市指定天然記念物に指定されている。樹勢が旺盛でとても戦災の痛手を受けたとは想像つかない。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9414527428617197&type=1&l=223fe1adec


堀を渡って福井城址へ進むが、続く

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