2023/02/03 - 2023/02/03
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しにあの旅人さん
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更新記録
2023/08/31:文末に片山広子の歌追加。9/1:解釈変更。
2023/03/17:題名変更。漢字が多すぎるので短くしました。
堀辰雄紀行を書こうと思った最初は25歳くらいのとき。肩を怒らせた文学論で、堀の作品の本質はなんちゃらかんたら。歯が立たず退散。
そして今。
By妻と一緒に、堀の作品と生涯を、素直に巡礼しようと思い立ちました。
今回は、堀多恵子という強い味方がおります。
堀辰雄の妻として、辰雄の生涯の後半生を文字通り支えました。夫の死後は10冊余りの本を書き、堀辰雄の語り部として、堀の人生を今に伝えております。
今回は多恵子さんにガイドしてもらって、終の棲家となった堀辰雄文学記念館を訪ねました。
まず旧居外回りと、展示室、というよりそこにあった多恵子の畑のお話し。
記念館訪問は2022年8月、10月、23年2月ですが、写真はとくに撮影時期を書きません。
基本参考資料は「堀辰雄紀行1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
写真はドローンではなく、5mの支柱の先につけたカメラを遠隔操作したものです。
投稿日:2023/03/15
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
庭の掃除をする堀多恵子、ではありません。記念館のスタッフさんです。若いきれいなお嬢さんでした。
多恵子は堀辰雄の死後も夏はここに住み、小まめに庭の手入れをしておりました。
★この道を掃くのは一苦労だが、掃き進んで振り返り、ごみや石ころのなくなった美しい土の道を見るのは大変楽しい。★(葉鶏頭P30)
この並木は、今は石が敷きつめてありますが、もとは土の小径だったのです。
一書に曰く、
この並木が、本当に美しくて!
軽井沢っていいなあ。
初めて思いました。
お金持ちに対するひがみとか、流行のものを軽薄とみたい、何でしょうねえ。一寸した気取りみたいなものが、私に軽井沢を敬遠させていたのですが、ここでは素直になれました。
まあ、ここは軽井沢ではなく追分ですが。
By妻 -
これが犀星並木です。右がからまつ、左がもみじ。普通並木は両側同じはずですが、なんか変わっている。なお犀星並木は私の命名で、ほかでは通じません。
堀辰雄没後、1955年のことのようです。室生犀星がもみじを植えるように多恵子に言い、出入りの植木屋にモミジを持ってこさせました。
この植木屋というのが、犀星の「生涯の垣根」にでてくる「民さん」だそうです。
一方多恵子は両側にからまつを植えたかった。しかし父とも慕う犀星の命令だから仕方がない。半分だけ言いつけを聞いて、片側もみじ、片側からまつになりました。(堀辰雄の周辺・室生犀星P29)
「掘君も君には手を焼いただろう」と犀星がいつものように言った、のではないか。
室生犀星は堀辰雄の師です。文学だけではなく、戦中戦後のもののない時代、食料を娘の朝子、息子朝巳に軽井沢から信濃追分の堀家に届けさせ、月に何回か辰雄の近況報告にやってくる多恵子にものを持たせました。(葉鶏頭P180など)
辰雄の死後、なにかと多恵子の相談に乗り、多恵子は父の様に慕っていたようです。しかしどういうわけか、これもまたなにかと犀星に逆らいました。「遠慮なく先生に甘えていた」と言っています。(葉鶏頭P177)
「堀君も君には手を焼いただろう」と何回も言われたとか。
晩年の犀星と多恵子のやりとりはおもしろく、漫才の台本のようです。
犀星は故郷金沢に帰るのに気が重かった、歓迎会、講演会、そんなことが待っているのです。
★誰か一人ぐらい気心の知れた人をお伴につれて、ひっそりとふるさとに行って見たいと思っていらしたにちがいない。私は先生に「偉くなるとつまりませんね」と無遠慮に言うと、「いい気味だと思っているのだろう」などと応酬されたりしたことがなつかしく思い出される。★(葉鶏頭P186)
一書に曰く、
犀星という作家については、
ふるさとは 遠きにありて思ふもの
そして 悲しくうたふもの
しか知りません。
その人が、こんなに温かな、情の深いひとだったなんて。
落ち着いたら、しっかり読んでみようと思っております。
けれど、読まなくてはならない本は無限にあって、時間は限られるのですね。
光陰矢の如し
小学校の卒業式で、先生に頂いた言葉ですが、今頃しみじみ。
By妻 -
左右のもみじ、からまつは太くて、樹齢70年かもしれません。
-
このもみじなんかはずいぶん細い。台風でなぎ倒されて、薪になった木もありました。2代目か3代目ということです。
-
記念館展示室入り口の堀辰雄の写真。
昭和7年(1932年、28歳)で、銀座のカフェ・キュウペルの前です。銀座や浅草にしょっちゅう通っていた頃です。
中村真一郎によると、永井荷風が出入りしていたカフェ。堀辰雄は「これは僕の軟派の不良だった時の写真だ」と言っていました。(筑摩別巻2「思い出す事など-堀多恵子・中村真一郎対談P309)
若き日の堀辰雄にもいろいろあったようです。昭和5年(1930年)の「聖家族」の頃です。
★中村 その作品のモデルになった人物なり事件について、なにか具体的なことは(堀は)話しておりましたか。
堀(多恵子) それはなんにも聞いてないの。「不器用な天使」(昭和4年/1929年)なんていうのは、私にいっさい読んじゃいけないというわけよ。★
この対談の少し後で、
★堀(多恵子) いや、あの「きゅうぺる」の前で写している写真のこと、私にも言ってました。これは不良時代だということを言ってましたし、なにかやはり昔のその頃のことを回想するのは非常に不愉快だったみたいよ。★ -
堀辰雄文学記念館の全景です。
右の白い家は昭和48年(1973年)に建て、平成2年(1990年)まで多恵子が住んだ家です。(山ぼうしの咲く庭でP285)現在は常設展示室。
中央が昭和26年(1951年)から1年11ヵ月堀辰雄が暮らした家。 -
現在の旧居。浅間はまったく見えません。
-
常設展示図録より。
引っ越した当時です。藤棚は支柱だけはあったようです。
旧居北の木立はまったくなく、浅間山全景が見えました。
昭和26年(1973年)7月1日、油屋の隣の家から引っ越しました。旧中山道を渡ってすぐなのですが、堀辰雄はもはや歩いていくことはできなかった。担架を作りました。
友人男性2人が担ぎ、まず多恵子が乗ってテスト。気持ちの悪いモノだそうです。
★日暮れどきのほうが太陽の強い光も避けられてよいだろうということになり、六時半に無事新しい家に移る。病人でも私よりずっと重かったといって飯塚氏喜んでくださる。辰雄さん元気よく、新しい家を見廻し、「広く一間の縁側をとったのは成功だったね」という。新しい畳の匂いは気持ちをも新しくしてくれるようだ。今晩は疲れるといけないので寝たまま食事をしてもらう。★(葉鶏頭P65)
7月2日二人で新築祝いをしました。
★鯛がうまく手に入ったので塩焼にし、野菜の煮込みに辰雄さんの好きな茶碗蒸しを造り、二人で新築祝いをした。私は一人で赤玉葡萄酒を飲み、病人の床のそばで何かとこれからのことなど話し、明るい一日を過ごした。★(葉鶏頭P66)
多恵子さん、いける口だったのですね。
「赤玉葡萄酒」というのは赤玉ポートワインのことかな。私が子供のころ、わが家ではワインと言えばこれでした。1907年から作られている国産ワインです。ポルトガルのPort Wineをお手本にした甘いワイン。今も売っているみたいです。
一書に曰く、
ポートワイン。
まだ我々が若いころ、ポルトガルにバカンスに出かけました。
パリから南フランスを通りぬけポルトガルに入ったら、とたんに道路状況が悪くなりました。
が、件のポルトに入る高速道路は、できたてのピカピカ。
おお、いいぞ!とか快調に走っておりましたら、なぞの渋滞です。
理由は、馬車が前を走っていたのです。
高速道路に響く、ひずめの音!
パリには、出稼ぎのスペイン人、ポルトガル人が沢山住んでおります。
そういうことなのね。
経済格差を実感した時でした。
その晩レストランでいただいたポルトワインは、日本の赤玉に似て甘かったです。(あ、逆か。赤玉が真似たんだ。)
そして、by夫は、翌朝ひどい二日酔いで、以来、甘いワインはご遠慮申し上げております。
でも、一寸だけなめるくらいなら、おいしいですよね。
多恵子さんも、疲れた体がほぐれ、温まって、よく眠れたのではないでしょうか。
By妻
ずっとあとの別荘編で出てきますが、1938年(昭和13年)、結婚したての多恵子は、御飯も炊けない、魚のおろし方も室生犀星夫人とみ子に習ってやっと覚えたという、たよりないお嬢さんでした。
料理など、チャチャッとできるようになっていたのです。
一書に曰く、
多恵子さんという人が、仕事のできる人だと思うのは、こういうところです。
お嬢様育ちで、炊事洗濯したことがなかったらしい多恵子夫人は、自分がしなくて誰がする!とでも決意したのでしょうか。
料理といっても、レベルはさまざまで、肉食いの国では、羊をシメル位できないと、だろうし、上野国ではうどんが打てないと一人前ではないらしい。
多恵子夫人は、魚をおろすし、ウサギも下ごしらえは、手伝って貰ったらしいけれど、味付けはしたようです。
結婚前は、何もしたことのなかった人が。
食べさせることに、掘辰雄を生きさせることに一生懸命だったのですね。
By妻 -
右が母屋で、堀辰雄の病室と多恵子の寝室がありました。
左は茶の間。しかし辰雄は病床から起き上がって、ここに来たというエピソードはありません。
多恵子の部屋でした。多恵子の客が来ると、ここで会っていたようです。 -
玄関です。ここを入ると正面が堀辰雄の病室と多恵子の寝室。左が多恵子の茶の間です。茶の間の話し声は病室では聞こえないそうです。そういうふうに作った。だから多恵子の友達が来てなにをしゃべろうと辰雄は気にしない。
「女はおしゃべりだから煩わしいと思っていたのではないか」By多恵子。
(山ぼうしの咲く庭でP153) -
北側に井戸があります。昭和26年(1951年)暮れに掘りました。
-
この井戸に隣接するのが台所、風呂場でしょう。15坪の家は手狭だったので、井戸を掘ると同時に、六畳茶の間とともに増設しました。(来し方の記P58)
このころは信濃追分にはまだ水道はなく、電動ポンプなどというものもなかったのです。昭和24年(1949年)、油屋の隣りに住んでいた頃から、トヨという、地元の中学を出たばかりの娘を女中として使うようになっていました。彼女が井戸から風呂場に水を満たしていました。
体の大きな元気な娘だったそうです。毎年BCGを打っても陽転しないので、病室には入れなかった。中学の担任の先生がわざわざ、兄弟が多く子守ばかりで勉強をしていませんと言いに来たそうです。多恵子は字を教え、きちんと躾けました。
しかしとても頭のいい娘で、字はすぐ覚えるし、お客の顔と名前をしっかり記憶していて、多恵子には素晴らしいお手伝いさんでした。
10年後多恵子はこの娘をここから千葉県に嫁に出し、トヨは2人の子供をもうけました。年に何回か里帰りし、実家ではなく多恵子の家に泊まったこともありました。しかし1995年、癌で亡くなりました。
この家を堀辰雄文学記念館として軽井沢町に寄付したとき、増設部分を取り壊して、オリジナルの形にもどそうとしました。多恵子はもうなにがオリジナルか忘れていたのですが、トヨがしっかりと覚えていたそうです。(以上「山ぼうしの咲く庭で」P186-188)
記念館の旧居が原型で残されたのは、トヨさんの記憶力のおかげです。 -
現在の常設展示室。
堀辰雄没後、多恵子は冬は東京杉並の家に住んでおりました。旧居の暖房はコタツくらいのもので、冬には向きません。
しかし信濃追分にどうしても住みたい。昭和48年(1973年)にこの家を建てました。「白い家」と呼んでおりました。最初は平屋でしたが、屋根裏のような2階をあげ、自分の部屋としました。以降冬も通年ここに住んでおりました。 -
ここはもともと、油屋から借りた土地で、戦中戦後畑として多恵子が耕しておりました。荒れ地を開墾しました。「細腕で鍬をふるう日々」でした。(山ぼうしの咲く庭でP183)
主にジャガイモを作っていました。45貫、約170kgもできました。東京の人に送ってあげるくらいできた。(来し方の記P49)
イモ畑の作り方を書いていますが、本格的です。
堀没後室生犀星が初めて追分の家を訪れました。それによると、堀家の庭には、
★三羽ゐる鶏小屋に犬舎が一むね、えんどう、じゃがいもの畠が少し★(筑摩別巻2「詩人・掘辰雄」P224)
鶏ふんは肥料になるし、えんどう、ジャガイモともう一、二種の野菜の輪作をすれば、理想的な野菜栽培です。
犀星によると、多恵子はこの畑に電線を引いて呼び鈴をつけました。用があると、辰雄は呼び鈴を鳴らしていつでも多恵子をよべるのです。安心して野良仕事ができました。(「半分づつのいのち」筑摩別巻2P389)
★いやな戦争だったけれど、その間一生懸命お百姓していたでしょ。私はすっかり丈夫になりました。★(山ぼうしP183)
分去れの近くにも畑を借りて、大豆と小豆を作っていました。豆類は肥料がいらないし、手間がかかりません。よくご存知で。
大豆は豆腐屋に持っていって、豆腐やおからをもらってきます。そのおからで団子をつくる。
★なにかおいしいものがあれば亭主にあげて、私はいつもおからのおまんじゅうを食べていたんです。ちょっと、大げさだわね。★(以上山ぼうしP183-184)
うるわしい夫婦愛ということで。
一書に曰く、
おから饅頭。
どんなものなのでしょうか?
味はどんなだったでしょう。
モサモサしてそうです。
うるわしい夫婦愛?
そんな甘っちょろい言葉では、語れないでしょう。
夫なら、誰でも、そういう風に尽くしてもらえるとでも?
私に、それを期待しないでよね。by夫。
私は、こういう所からも、多恵子夫人という人は、掘辰雄を生かす、生き永らえさせる仕事をした人だったと思うのです。
そういう使命感を抱いていたのではないでしょうか。
卯の花とかいう料理がありますが、あれは御飯といっしょにいただくとおいしいけれど、主食ではねえ。
おから饅頭は、不味いとおもいますよ。
By妻 -
現在と違いほとんど木立のない土地でしたから、この辺りまで日当たりよく、畑にしたのでありましょう。
-
記念館の庭の南西の隅に屋敷神様が3社並んでいました。
「あれだな!」と思いました。 -
★追分の庭には三体の神社のお堂の形をした屋敷神さまがある。この庭はもと三つの屋敷の敷地だったのだろう。それぞれ一体の屋敷神さまを祭っていたのだと思う。私は無頓着に放りっぱなしにしておいたのを、何時の頃かはっきりおぼえていないが、庭の隅にまとめて移した。★(山麓の四季・道の辺の石仏P123)
-
これなど、畑から掘り出した岩ではないかな。
-
「白い家」は現在常設展示室。
内部は残念ながら撮影禁止です。 -
しかし「常設展示図録」が発行されており、展示室内部、一部の展示品が掲載されています。
企画展示室入り口右の事務室で購入できます。たしか1000円。どこにも見本がおいてありませんでしたが、事務所の方が偶然見せてくれました。非常に貴重な資料です。入口においてくださいとお願いしておきました。
2月に行ったら、置いてありました。私の提案を聞いてくれたんだ! -
庭の一隅に書庫があります。
昭和28年(1953年)に建てられたものです。 -
建てられた当時の書庫。書庫の南には何もありません。
このころは八ヶ岳や蓼科がよく見えたそうです。 -
現在この方向は木立が大きく育っております。70年で木はこんなに大きくなるんだ。
一書に曰く、
掘辰雄記念館は、現在は美しく整えられて、本当に素敵なお家です。
いいなあ。こんな素敵なお家に住めて。
と、初めてのとき思いました。
が、調べてゆくうちに、二人が住んでいたときは、とてもとても、こんなエレガントな家ではなかった。
庭も荒れていたということがわかってきました。
草ぼうぼうの庭に途方に暮れておりますby妻は、俄然親しみを覚えました。
おー、やればできるんじゃないの?
私だって、やるぞー。
と、思ったのですがね。まあまあ。
反省なら猿でもできますが、思うだけっていうのは、by妻の専売特許であります。
でも、わが家では、浅間も八ヶ岳も見えないし。
By妻 -
中央が堀辰雄詩碑。山芝は多恵子が植えましたが、そのむこうの木立はなく、信越本線の列車を引く機関車に石炭をくべるとき、運転席が明るくなるのが分かったそうです。
信越本線、現在のしなの鉄道の線路まで約800mです。 -
木立に分け入ってみました。真下を走るのは、当時はなかった国道18号。そのむこうに線路など見えません。
国道は1960年にここを通りました。(葉鶏頭P90) -
やったあ! 八ヶ岳は見えました。
左からたぶん赤岳、これがあっていれば次は横岳、硫黄岳。56年前は尾根筋まで名前を知っていた八ヶ岳も、いまはいい加減。
赤岳の南の麓が富士見「風立ちぬ」の舞台、サナトリウムです。
「風立ちぬ」の「冬」
主人公「私」が散歩から帰ってくると、節子が「サナトリウムの裏になった雑木林のはずれ」に立っていました。気分がよかったので「私」をむかえに来たのでした。
二人は八ヶ岳を見つめます。
そこで「私」は気づきます。
★おれはいま漸っと気がついた・・・おれ達はね、ずっと前にこの山を丁度向こう側から、かうやって一しょに見てゐたことがあるのだ。★(筑摩第1巻P512)
2年前、軽井沢で出会って、ススキの原越しに二人で見た八ヶ岳のことです。
掘辰雄は「冬」を追分油屋で書きました。掘がイメージしたのは、当時は旧中山道のどこからでも見えた、この八ヶ岳ではなかったのか。
それから十数年後、八ヶ岳に見守られながら、この地を終の棲家にするとは、思いもしなかったでありましょう。
片山広子の歌。「野に住みて」より「をんどり」の1首。
★追分のなぞへの家に君が見る遠山山は空より青からむ★
この家の庭は南に傾斜しています。「なぞへ」傾斜地です。
この日、私がその向こうに見た八ヶ岳は青かった。
「追分の家」とはおそらく堀辰雄の家です。
広子が辰雄生前この家を訪れた記録はありません。死後はどうでしょう。1953年辰雄没、1957年広子没。多恵子はなにも語っておりません。
「青からむ」の「む」は推量ですね。青いだろう、広子は実際に見てはいない。室生犀星か、多恵子から傾斜地の向こうに山が見えると聞いたのでしょう。
30年ほど前、1925年(大正14年)夏の終わり、広子は追分わかされから山々を見ております。青かった。
そのとき、龍之介も、辰雄も一緒でした。
なぞえの家に君が見た山も青いだろうと、広子は思ったでありましょう。
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この旅行記へのコメント (4)
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- kummingさん 2023/03/29 17:30:42
- 遅刻して参上m(._.)m
- 4tr半休をかこっているのをいい事に、遅れて参りました。
軽井沢といえば、学生時代に一度、後は今から10年以内に1年だけ松本在住だった娘の運転で行ったことあるだけです。高速でどの車も飛ばす飛ばす!で、助手席で小さくなっておりました。星野リゾートやらアウトレットやらの進出で、昔の面影何処?
堀辰雄文学記念館のあるあたりは、当時の様子がほぼ残っている様子、良かったです。
室生犀星氏の作品は何か読んだけど、憶えていないのはいつもの事(-。-; 多恵子さん、文豪相手でも、目上の方相手でも物怖じしない、素直な方だったのですね。女中さんのトヨさんに字を教え、嫁ぐまで世話するという面倒見の良さや、「嫌な戦争だったけれど、その間一生懸命お百姓していたから、私ずっと丈夫になりました。」とサラッと言ってのける、清々しさ、「堀辰雄は多恵子さんがつくった」前日光さん説に賛成♪
軟派の不良だった頃の銀座のカフェで撮った写真、若い頃は粋がっていたんですね。読むなと言われるとそそられる⁈逆に「不器用な天使」という作品、読んでみたいです。
Port Wine、リスボンのレストランで食後にちっちゃなグラスで勧められました。飲むと眠くなるので1人外飲み厳禁なのですが、ホテルまで歩3分だったので頂きました、甘かったです♪ 赤玉ポートワインはそのパクりだったのですね!
昔、おからまんじゅう、ならぬ、おからチョコケーキとおからバーグ、作っていました。チョコケーキと似た作り方で、小麦粉の代わりにおからをレンチンして乾燥させて使います。おからバーグはおから、ひじき、ひき肉、玉子などを混ぜまぜコネコネして、ハンバーグみたいに焼きます。子どもたちにも好評でした。←昔むかし、まだちゃんとお料理していた時代の話(笑)
春遠からず、朝夕まだまだ冷える中、ご自愛くださいね♪
- しにあの旅人さん からの返信 2023/04/02 06:33:09
- Re: 遅刻して参上m(._.)m
- このところ青木繁絡みで小諸、堀辰雄で軽井沢と、信州に凝っています。
フランスから帰ってきて、すみかに信州も考えたのですが、寒い。冬は畑ができない、で諦めました。
堀辰雄紀行ならぬ、堀多恵子紀行になっています。調べれば調べるほど、すごい人なんだなと思うようになりました。
はっきり言って、あまり文学的才能がある人ではありませんでした。自分で母親に似ていると言っていますが、静という人が文学とは無縁の人だったらしい。
それを自覚していて、夫の語り部に徹したところが偉い。
辰雄の死後、友人などがよってたかって、頼みもしないのに多恵子を助けてくれるのですが、そういう人柄だったみたい。みんな、堀辰雄は多恵子で持っていたと知っていたということです。
堀辰雄の不良時代の話は、週刊誌的には面白いのです。ただ、関係者と思われる人物が亡くなったのは1980年代で、ちょっとレアすぎるテーマです。その人の子、孫世代は現存でしょう。
多恵子はある程度は知っていたと思います。でも同じ理由で書かなかったのではないかな。いずれにしても結婚以前の話だし。
こういうところ、常識をわきまえた人だったらしい。
おから饅頭のレシピを多恵子が書いているのですが、まさかこれほど注目されるとは思っていなかったので、場所をメモしませんでした。見つけたら改めてどっかに書きます。確かナントカ温泉の炭酸水で膨らませるとか。
いずれにしてもあまり美味しそうではない。
-
- 前日光さん 2023/03/21 09:56:32
- おから饅頭((+_+))
- しにあさん&by妻さん、おはようございます!
今日午後からまた東京暮らしです。
今回は24日で戻るので、疲れはひどくないと思います。
それにしても東京って、車がないとスーパーには歩くしかなく。重たいペットボトルなんかを買うとホントに悲惨です。
7泊してとても疲れ、4トラを見る元気も出ませんでした"(-""-)"
その間にみなさん、元気に旅行記をアップされていて、それがますますヤル気をなくさせることに(^-^;
さて堀辰雄記念館、こんなに丹念には見学していないので、建物や庭石や小さな祠や。。。その一つ一つに二人(多恵子さんの?)の歴史があったのですねぇ。。
おいしいものや栄養価の高いものは辰雄に、自分はおから饅頭を食べていたって。。
「卯の花和え」だって、それほどおいしいとは思えないのに、その饅頭というのですから、パサパサした餡でマズイだろうなと思ってしまいます。
多恵子さんは元お嬢様なのに、切り替えが早くて(というか、必要にせまられたのでしょうが)生活力があり、逞しいです。
昔は見えた風景が、木々の成長で今は見えなくなってしまったのですね。
★いやな戦争だったけれど、その間一生懸命お百姓していたでしょ。私はすっかり丈夫になりました。
この割り切りの良さ、発想の転換は、この人の生きる力を表していますね。
多恵子さんが堀作品を創り出したということが、改めてよくわかる旅行記です!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/03/22 06:10:18
- Re: おから饅頭((+_+))
- 東京暮らしご苦労様です。
田舎はなんでも車です。歩いても5分のコンビニでも車。駐車場が広いので困らないのも、車依存を深めます。
おから饅頭はどんなものか想像できない。時々By妻が酒の肴でおから料理を作ってくれますが、椎茸などが入っていて、オツなモノです。あれとは当然違うのでしょう。
あれも少しだからいいので、主食にしろと言われたらうんざり。
多恵子は畑に夢中になっていたみたいです。堀辰雄が友人への手紙に書いていました。夫に食べさせる目的があったのは当然ですが、嫌いではなかったみたい。140キロのジャガイモなんて、夫婦二人では絶対に食べきれません。
みんなに分けてよろこばれたでしょう。食糧難の時代でした。
堀家は質はともかく、量には困らなかったみたいです。
私も畑をやりますが、あれはうまくいった時の達成感は実に気持ちいい。多恵子さんの気分わかります。
三つの屋敷神様は、多恵子の言った通り、庭の一隅にありました。
資料と現場が一致すると、とても嬉しくなります。
追分も軽井沢も、この頃はもっと森が浅くて、あっけらかんとしていたようです。追分なんて、周りは草原でした。
「美しい村」や「菜穂子」は、現代の林相を前提に読むと、おかしな描写が出てきます。
多恵子が思いきりのいい人物であった、賛成です。とてもカラッとした、明るい性格の人だったみたいです。そこが堀辰雄が好きだったのでしょうね。
背格好がわからないので、記念館のスタッフに、実際に会ったことがあるか聞いてみましたが、みなさんお若くて会った方はいませんでした。2010年に追分で亡くなっていますから、ちょっとお年の方は知っているかもしれません。
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