2023/02/03 - 2023/02/03
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しにあの旅人さん
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2022年10月、信濃追分の村を歩いていて、何人かの現役文学青年男女とすれ違いました。高校生くらいの男の子。二十代ちょっとかな、女性2人組。なにやら感激した面持ちで、うつむき加減に旧中山道を歩いていました。手にしている文庫本は、「風立ちぬ」か「菜穗子」か。
堀辰雄文学記念館では、老夫婦数組、現役文学老年か、私たち同様かつての文学青年という感じ。
いずれにしてもバスから降りて、ガイドさんの旗を追って駆け巡る集団というのはおりません。静かな旧中山道でした。
皆さん、堀辰雄の作品の舞台を巡る巡礼者とお見受けいたします。
井上靖によれば、
★私の知っている若い人たちの多くが堀辰雄の作品から文学へはいって行く。私は他のいかなる作家から文学へはいって行くより、堀辰雄の作品に依って、文学の洗礼を受けることはいいことだと思う。★(筑摩別巻2「井上靖・堀辰雄の作品」P396)
若い人たちだけではなく、若い頃掘の作品に親しみ、ぐるーと回ってもう一度堀辰雄を読もうと思い立った方々も、いらっしゃるのではないか。文学的還暦と申します。
基本参考資料は「堀辰雄紀行1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2023/02/08
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
信濃追分巡礼で、最も定番は追分わかされでしょう。
左旧中山道、現在の国道18号。右北國街道です。
私たちはここが大好きで何回も来ています。最初は2019年秋、2022年8月、10月、2023年2月。 -
わかされの前の堀辰雄の有名な写真。昭和20年。自由に外出できた最後のころでしょう。多恵子によれば、昭和21年(1946年)11月からは寝たきりでした。(筑摩第10巻P316)
一書に曰く、
1946年、昭和21年は、私たちが生まれた年です。
そうかあ!
私らが、這い回っていた頃、堀辰雄は、病に苦しんでいたのですね。
堀辰雄は、肺結核だったのですが、あの頃はかかる人も多かったし、また多くの人がそれで命を落としました。
私の母もかかって、療養所に入っていました。
私が3才のころですから、堀辰雄よりあとですね。
この3年の間に医療も進歩したのでしょう。
ストレプトマイシンのお陰で助かったと、よく申しておりました。
それでも、父の古い友達で、何十年ぶりで再会したら、
「奥さん、生きとったか!」と言われたそうです。結核は死の病でした。
母は、その後90才まで元気でした。
By妻 -
信濃追分はそれほど雪の深いところではありません。2023年2月、この日は比較的温かいそうでした。それでもマイナス6度。
一書に曰く、
2月の分去れは、寒かったですよー。
道の端に残っている雪を渡ってくるからでしょうか、冷たい風でした。
気候温暖な九十九里から来ましたから、一際の冷たさです。
けれどね、この空気、知っているんだなあ。
ヨーロッパみたいなのです。
空気が乾いている。
本当は、気象学的には、多分乾いていないと思います。だって、苔だらけですよ。
でも、乾いている感じです。
周囲の樹木のせいかな。
日の光の感じかな。
カナダやアメリカの宣教師達が、夏を乗り切るために、この地方を選んだことが分かるような。
By妻 -
国道18号の開通によって縮小されました。常夜灯などは現在と変わっていないみたいです。一番手前の石柱が少し右に動いたか。
-
「堀辰雄文学記念館常設展示図録」より。
大正14年のわかされ
▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼
ワンコのいるわかされの写真はいつの時代分かりませんが、多恵子は「陽を受けて明るい今も昔も変わらない浅間山を仰ぎ見・・・」としております。木々もまばらで、辰雄が初めて見たわかされは、こんな感じではなかったのか。
現在は森が迫り、わかされから浅間は見えません。
「山麓の四季・道の辺の石仏」によると
★分去れは新しく出来た国道十八号線のために、今は中山道と北国街道の分岐点とは言えなくなってしまった。(中略)私(多恵子)が初めて追分に来た頃はこの小高い場所にたつと遠く見渡すことが出来、あたり一面草原であった。★(P121)
2月に行ったとき、追分郷土館では「写真で見る追分宿 明治 大正 昭和 平成」をやっていました。 -
展示されていた明治時代後期のわかされの写真。館内撮影はできませんので、ホームページよりお借りしました。
https://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1647917952792/index.html
この時代たしかにあたり一面草原です。中仙道も北國街道も泥だらけで、1893年(明治26年)信越本線の開通で、宿場としての信濃追分が衰えたのが実感できます。
常夜灯の左の木の曲がり具合から、この木が大正14年の常夜灯左の木と同じように見えました。大きくなっている。 -
分去れの石像の群。
左の大きな石像が子安地蔵みたいです。 -
「山麓の四季・道の辺の石仏」にでてきます。背に「天下太平、国土安全、安永六年」と彫られているそうです。
-
赤ちゃんを抱いている。
-
道祖神さんでしょうね。
-
この六角形の台座ですらりと両手を合わせる観音さんは戦後、マリア観音だと間違えられたことがあったそうです。
一書に曰く、
この分去れを、右に行きますとすぐに、シャーロック・ホームズ像があります。
いたるところに、道案内がありますので、ついつい行ってしまいました。
本当に、すぐの所でした。
が、シャーロックさんの前に、沢山の石碑が建ち並んでいました。
なになに?馬頭観音?
この石碑、大きいんですよ。大きいのがずらり並んでいまして、その後ろにシャーロックさんでした。
ここしか場所はなかったのでしょうか。
追分の郷土信仰とシャーロック・ホームズ、ミスマッチではないでしょうかね。
それはそれとして、林の中のシャーロックさんは、居心地悪くはないようでしたよ。
By妻 -
★戦後間もない頃、追分の青年たちは此処の史跡、旧跡にそれぞれ名札を立てた。病床にあった主人はたまたま見せられた一枚の写真で、この馬頭観音の前に、マリア観音と書かれてあることを知り、青年たちによく説明して間違った立て札を取り除くようにと私に言った。この容姿端麗な観音さまの台石には牛馬千匹飼、安永3年11月吉日と刻されている。★(P121)
-
堀辰雄は追分の村人に信頼され、愛されておりました。辰雄の葬儀の時、棺を担いだのは村人でした。当時は火葬場がなく、薪で荼毘にふしました。そのとき、村の若い衆が、真夜中までずっと見守っていたのです。(野ばらの匂う散歩道P18)
一書に曰く、
堀辰雄の葬儀の話は、斎藤茂吉の「死にたまふ母」みたいです。
茂吉の母も、薪で火葬されました。
星のゐる 夜空のもとに 赤々と ははそはの母は 燃えゆきにけり
はふり火を 守りこよいは 更けにけり 今宵の天の いつくしきかも
灰の中に 母をひろえり 朝日子の のぼるがなかに 母をひろえり
フキの葉に 丁寧に集めし 骨くずも みな骨がめに 入れしまいけり
By妻 -
秋のわかされです。2019年最初の信濃追分の旅。
-
左の旧中山道は国道18号ですから、横断が危険なくらい車が通ります。右の北國街道は今も静かな細い道です。
わかされは有名なので、堀辰雄の作品に頻繁に出てくるかと思ったのですが、調べてみたらそうでもない。
「雉子日記」(1937年/昭和12年)
★その翌日、英夫君は二時の汽車で帰るというので、昼飯を早目にすませてから、お別れに村の西のはずれの、分去のところまでぶらっと散歩に行った。★(青空文庫/筑摩第3巻P37)
「初秋の浅間」(1938年/昭和13年)
★さういつた凄さを何處かその底にもつてゐる山だが、その淺間も、追分の供養塔などの立ち竝んだ村はづれ―北國街道と中山道との分か去れ―に立つて眞白な花ざかりの蕎麥畑などの彼方に眺めやつてゐると、いかにも穩かで、親しみ深く、毎日見慣れてゐる私の裡にまでそこはかとない旅情を生ぜしめる。★(筑摩第4巻P117)
「ふるさとびと」(1943年/昭和18年)
★おえふがまだ二十かそこいらで、もう夫と離別し、幼児をひとりかかえて、生みの親たちと一しょに住むことになった分去れの村は、その頃、見るかげもない寒村になっていた。★(筑摩第2巻P481)
同じページに、
★その少し先きのところで、街道が二つに分かれ、一つは北國街道となりそのまま林のなかへ、もう一つは、遠くの八ヶ岳の裾まで広がってゐる佐久の平を見下ろしながら中山道となって低くなってゆく。そこのあたりが、この村を印象深いものにさせてゐる、「分去れ」である。★
電子版の堀辰雄全集で全文検索しました。入っていない作品もあるので、まだあるかもしれませんが、「風立ちぬ」クラスの主要作品には出てきません。しかも「分か去れ」「分去れ」「分去」と本人も表記を統一していません。
「わかされ」「分かされ」などいろいろやってみましたが、結果は同じです。
「菜穗子」については後述。
「ふるさとびと」の原稿で、多恵子が辰雄に、
「あなた、『初秋の浅間』では『分か去れ』よ、統一したら?」
とか言えばよかったのに。
あ、堀辰雄は、多恵子が自分の小説を読むのが好きじゃなかったのでした。ダメか。
★原稿用紙のまま読んだ小説はあとにもさきにもこれ(曠野)だけです。何しろ自分の作品を私が読むのを好まなかったぐらいの人だったのですから。★ (来し方の記P98) -
「菜穗子」には、「分去れ」という言葉はでてきませんが、それと分かる描写が2カ所あります。
「楡の家」の章。菜穗子の母、三村夫人は追分に別荘を持っておりました。そこに訪ねてきた小説家の森と2人で村を散歩して、
★私たちはとうとう村はづれの岐れ道まできた。★(筑摩第2巻P329)
ここで偶然虹を見ることになります。三村夫人と森との出会いの名場面です。
次は翌年夏、三村夫人、菜穗子、森の3人で分去れを再訪します。
★とうとう去年の村はづれまで来た。浅間山は私たちのすぐ目の前に、気味悪いくらゐ大きい感じで、松林の上にくっきりと盛り上がってゐた。それにはなにかそのときの私の気もちに妙にこたえるものがあった。
暫くの間、私たちはその村はづれの分かれ道に、自分たちが無言でゐることも忘れたやうに、うつけた様子で立ちつくしていた。★(P340)
このときあたりから、三村夫人と菜穗子、母と娘の心の乖離がはじまる、これもまた名場面。
「菜穗子」を映画にするなら、浅間山をバックに、監督、カメラとシナリオの腕の見せどころです。
ここでもわかされからは浅間山が大きく見えております。
このあと森を迎えに来た車が「猛烈な埃りを上げながら飛んで来るのが見えだした」
掘の時代の中山道が舗装されていなかったことが分かります。
「岐れ道」「分かれ道」でも全文検索しましたが、ここ以外ヒットしませんでした。
なお堀多恵子は普通は「分去れ」ですが、「別去」と書くこともありました。(堀辰雄の周辺・芥川龍之介P36)
多恵子によれば、
★堀辰雄が初めて別去を訪れたのは、大正14年(1925年)の夏の終わりに、芥川さんは片山夫人と令嬢と、そして辰雄も一緒に信濃追分にドライブした。★ (堀辰雄の周辺・芥川龍之介P35)
辰雄はこの年6月より3ヵ月軽井沢に滞在し、芥川龍之介、室生犀星、片山広子などにかわいがられておりました。
8月28日上条松吉あて葉書(軽井沢つるや発)
★みなさんのお供で、ほとんど毎日自動車で軽井沢付近を散歩したり、うまい料理を御馳走になって今までにない愉快な日を送っています。★(筑摩書簡31)
「うまい料理を御馳走」してくれたのは、龍之介、犀星、広子でありましょう。 -
9月1日片山廣子あて(軽井沢より封書/筑摩書簡37)
★(前日の碓氷峠へのドライブにくらべ)ドライブはこないだ4人で追分村を訪れたときの方がずっと愉快だったと思ひますね。★
「ルーベンスの偽画」(初出1927年/昭和2年、完成稿1930年/昭和5年)にもこのドライブらしい描写があります。追分はでてきません。
★翌日、彼女たちはドライヴに彼を誘った。
自動車は夏の末近い寂しい高原の中を快い音を立てながら走った。
(中略)
「まあ、あの小さい雲……(夫人の指に沿ってずっと目を持ってゆくと、そこに、一つの赤い屋根の上に、ちょうど貝殻のような雲が浮んでいた)ずいぶん可愛らしいじゃないの」
それから後は浅間山の麓のグリイン・ホテルに着くまで、ずっと夫人の引きしまった指と
彼女のふっくらした指をかわるがわる眺めていた。沈黙がそれを彼に許した★ (青空文庫)
堀辰雄の小説とセクシュアルな描写は水と油です。しかし!?
この描写は車の後席に3人並んで座らないと成立しません。晩夏ではありますが、夫人と彼女は薄着でありましょう。主人公は左右に2人の女の体温を感じ、目の前を「引きしまった指とふっくらした指」が交差することになります。和服なら肘までむき出しになります。
堀辰雄、しらーっとやってくれました。
一書に曰く、
昔の軽井沢は、現在よりもっともっとお金持ちの町でした。
そこの別荘の奥さまとドライブですってよ!
この頃、自動車というモノは、どのくらい普及していたのでしょうか。
かっこいいですねえ。すてきですねえ。
片山広子さんは、お金持ちの生まれで、お金持ちの奥さまです。
それだけでも羨ましいのに、文学的才能にも恵まれていたのですよ。
更に更に、美人!
妬ましくって、なにか悪口言いたいけれど、う~ん。
まだ若い堀辰雄は、ビックリ仰天有頂天ですわね。
カルイザワ ママですわね。
庇と庇が重なるような、隣の夕食のおかずまで分かってしまうような東京でも下町そだちの堀辰雄には、片山夫人も軽井沢の生活も、眩しく異世界のように見えたことでしょう。
By妻 -
「高原にて」(1934年/昭和9年)という短い随筆に、
★(大正14年は天候不順な夏であった)それでも私はよく芥川さんのお伴をして峠や付近の小駅などを見てまわった。ことにいま私のいる追分宿などが、すっかり寂れ切ったなりに、昔の面影をそっくりそのまま残してゐるので一番お気に入られてゐたやうであった。★
片山母娘と4人のドライブ以外でも、龍之介と2人で信濃追分に来ているようです。追分宿を通り過ぎたとき、わかされを車窓にみて、行ってみようということになったのかもしれません。
小川誠一郎は当時の油屋の主人です。「追分と堀先生」(筑摩別巻2P335)より。大正13年は14年の小川の記憶違いでしょう。堀は記録に残っている以上に、頻繁に追分に来ていたのです。
★大正13年夏、芥川龍之介先生が軽井沢に避暑されていて、(堀は)その時連れられて三、四回程ドライヴの途中立ち寄られたことがある。その当時はまだ東大の学生で制服を着用していたが眉目秀麗の青年であった。★
一書に曰く、
掘辰雄は、美青年だったか。
昔の写真ですから、よくは分からないながら、色白そうなおとなしげなようすです。
いろいろなところに、美青年と書かれております。
折口信夫は、堀辰雄と会うと、ぽっと頬を染めたそうですよ。
でも、掘多恵子さんは、そうは思わなかったらしいですが。
そう言いつつ、とことん尽くします。
人間の美醜というものは、顔かたちばかりでなく、声、しぐさ、その人間性をトータルでいうのかもしれませんね。
By妻 -
このとき掘辰雄21歳。
芥川龍之介(1892-1927、このとき33歳)に師事しておりました。
片山広子(歌人、アイルランド文学翻訳者としての筆名松村みね子、1878-1957)このとき47歳ですが、才媛であり、若いときの写真から思うに大変な美人だったようです。龍之介のプラトニックな恋人といわれております。
娘総子(1907-1981、小説家、筆名片山宗瑛、「そうえい」と読むようです。この時18歳)
「ルーベンスの偽画」の「夫人」と「彼女」、「聖家族」の「細木夫人」と「絹子」、「菜穗子」の「三村夫人」と「菜穗子」は、いずれも片山母娘がモデルと言われています。
もとより堀の作品は私小説ではありません。西欧文学の虚構の世界、フィクションを書きたいと言っていました。しかしそのフィクションを構成する骨太の構造が片山母娘でありました。
このときのわかされへのドライブもまたその柱の1本であります。 -
Wikipedia Commonsより。現在は著作権フリーです。
1931年の改造社版「現代短歌全集第19巻」より。
片山広子。撮影は1931年以前、広子53歳以前です。
この微笑、モナ・リザに似ていませんかね。 -
若いころの片山広子。軽井沢つるや旅館展示より、
By妻によると20代前半ではないか。
今でもアイドルグループのセンターを張れる。 -
堀辰雄の周辺・芥川龍之介P35の続きです。
★・・・別去(わかされ)に立って、陽を受けて明るい今も昔も変わらない浅間山を仰ぎ見、昔を思い、その時、片山夫人がよまれた
「かげもなししろき路かな信濃なる追分のみちのわかれめに来つ」
という歌を口ずさむ方が私には神秘的ではるかに楽しいのである。★(同P36、改行して「 」に歌を入れたのは筆者)
このドライブで片山はもう一首、
「われら三人(みたり)影もおとさぬ日中に立って清水の流れをみてをる」
をよんだと、「堀辰雄の周辺」末尾の、多恵子編「堀辰雄の生涯-年譜風に」にあります。(P234)
「三人」?一人足りません。辰雄はまだ修行中。龍之介の付属でみそっかすか?
一書に曰く、
片山広子が、芥川の恋人?
えーっであります。
つい先頃、九十九里は一之宮町の芥川龍之介が、避暑に来た旅館をみてきましたら、そこで、後の芥川夫人に宛てた手紙が、碑になっておりました。
そのとき、後の芥川夫人は、未だ13才の女学生でした。
未成年から人妻、(この時は未亡人だったらしいけれど。)すごいですねー、ストライクゾーン広すぎ。
というか、男女別学の昔のひとには、男女の友情は、既に恋情に数えられてしまったのでしょうか。
それに、片山夫人がしていることは、ヨーロッパ貴族の女性が催すサロンのようです。
そういう上流階級の雰囲気に憧れる気持ちは、芥川も下町育ちですからね、強かったのではないでしょうか。
ま、片山母子は、周囲の憧れの的だったのです。
By妻
1925年(大正14)夏に父上條松吉にあてた一連の手紙は、筑摩第8巻P18脚注によると「以下23通のはがきは、昭和27年頃、著者(堀自身)の手で『父への手紙』として纏められた」とあります。
「父への手紙」には、手紙整理のときに、多恵子に口述筆記させたメモが付属しておりました。大正14年のできごとの一覧です。
7項目あります。そのなかに、
★片山廣子「日中」
夏の末、片山夫人令嬢、芥川さんと一緒に追分にドライブした折りの作★
「日中」とはこの歌2首でしょう。
「父への手紙」23通と7項目のメモを読むと、大正14年夏の堀辰雄が浮かびあがります。堀文学の出発点でありました。
1952年(昭和27年)というと、死の前年、もはや辰雄は手紙さえ多恵子に口述筆記させる状態でした。
それでもわざわざ「日中」のエピソードを書き残したのは、このドライブがいかに彼の文学にとって大事かを、多恵子に伝えるためであった。
大正14年は結婚はるか前、多恵子が知らない時代です。堀辰雄は自分の文学の語り部、多恵子に残す資料と思っていたのでありましょう。
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この旅行記へのコメント (7)
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- pedaruさん 2023/02/25 13:36:41
- 時代を反映する道路
- しにあの旅人さん こんにちは
私が子供ころは田舎道は舗装をされていなくて、側溝のどぶ水をひしゃくで道にまいて
土ぼこりを抑えている老人がいました。子供の私らは裸足で遠くの川まで、水浴びに行ったものです。今ではどんな田舎でも、あぜ道でもアスファルト舗装されています。
堀辰雄の立っている写真では、道は舗装されてませんね、しかし、あの堀辰雄が立っていた同じ道に立つ喜び、幸せ感、高揚感、お察しします。って大袈裟ですね(笑)。
大正14年のわかされ、まだ未舗装ですね、そして明治26年、ウクライナの爆撃あとかと見まごう酷い道ですね。
多くの才能ある若い人たちが結核に命を奪われたことを思うと、気の毒でなりません。私も18歳のころ結核で療養しました、才能が無い者ほど生きながらえるのは皮肉なものです。
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2023/02/25 17:26:23
- Re: 時代を反映する道路
- 九十九里の僻地でも町道は舗装されました。しかし町道から我が家に至る道路はまだ未舗装です。行き止まりに我が家1軒しかないので、町も舗装してくれません。公道ですが、いわゆる赤道です。明治26年並み。
確かに散歩中の堀辰雄が立つ道は未舗装のようです。それから77年、追分の村は完全舗装、どころか、電線が地中に埋められ、すっきりした空の美しい道です。こんな美しい道はちょっと見たことない。
堀辰雄が見たらさぞかし喜ぶでありましょう。
電柱が埋められたのは2013年ころらしくて、2010年に亡くなった多恵子は見ておりません。
天国での会話。
多恵子「あなた、もうすぐ電柱が埋められるんですって」
辰雄「そりゃよかった、空が綺麗になるね」
なんちゃって。
私の母の兄弟姉妹は七人ですが、生き残ったのは2人。ほとんどが結核で死んだそうです。
私が子供の頃、ツベルクリンをやって陰性だったらBCG、陽性ならレントゲンという記憶があります。あれは今もやっているのですかね。
私は初めから陽性だった記憶があります。
-
- 前日光さん 2023/02/24 23:08:18
- 芥川とはかなりの付き合いがあったのですねぇ"(-""-)"
- こんばんは、しにあさん&by妻さん
いつまで経っても、寒さが収まらない昨今ですね。
房総はもう温かいですか?
信濃追分 分去れ、ですか。。。
たぶん堀家の別荘を訪ねた時、行っているはずなのですが。
そうそう、道が二つに分かれていました。
堀作品は、いくつか読んだはずなのですが、印象が淡々しくて、(例えば「聖家族」とか「ルーベンスの戯画」など)印象派の絵のようにぼんやりとしていて、輪郭がはっきりしません。
たとえば谷崎のように、くっきり、はっきり、イヤらしければ、ああ…と明瞭に思い出すのですが、堀の良さは、その淡々しい印象にあるのですよね?
片山広子さんは、当時でも目立つ美人だったことでしょうね!
片山母子のサロンに入り浸る芥川?
うーーん、芥川が美人さんにボーッとしている姿は想像したくない!
私は芥川も好きなのです。
若いころの腺病質な感じが、若いころのさだまさしを暗くしたような感じがして。
芥川はそばにいたら怖くて近寄りがたいですが、遠くから眺めている分には、ああいうタイプが好きなのです。
昔、授業中に思わずそう言ったら、生徒に変な顔をされました(>_<)
堀辰雄も、美男とは言い難いですが、細くて繊細そうで、軽井沢がよく似合いますね。
多恵子夫人は、勝手に思い描く大和なでしこ風ではなくて、しっかりとした芯のある女性だったのですね。
また文才もあって、辰雄よりはずっと物事を客観的に捉えられる人だったようですね。
信濃分去れ、なんだか妙に行ってみたくなりますねぇ。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/02/25 06:28:04
- Re: 芥川とはかなりの付き合いがあったのですねぇ"(-""-)"
- おはようございます。
白子は寒桜でして、もうあちこちで咲いています。海ちかは満開かな。
さすがに暖かい房総です。
堀の作品は、要するに心象風景の描写ですから、淡い印象になるのでしょう。出来事が全部登場人物の心理として描かれるわけです。
だから出来事がそのまま描写される随筆が面白かったりします。
龍之介と広子の関係は首を突っ込んだらやばいので、これ以上はなし。
龍之介、犀星、辰男のエピソードは、このあと軽井沢つるや旅館編で、たっぷりとやるつもりです。
「若いころのさだまさし」うーん、日本一のおしゃべり歌手ですよね。
龍之介がおしゃべりだったのか、さだまさしは若いころ無口だったのか。
さだまさしが喋らなければパラノイヤ的で、確かに感じは似ています。
龍之介の肉声音源は残っているのですかね。
辰雄にはないのですが、江戸弁のかなり特徴のあるしゃべり方をしたようで、あちこちに文字の記録が残っています。これも後日やります。
教師が龍之介の話をしながら、うっとり、ぽっと赤くなったりしたワケですね。
うん、生徒、変な顔する。でもそれは、いい教師です。
私たちの高校の国語の教師は、平家物語などを講じながら、自分で感激して、泣かんばかりでした。大いに影響を受けました。
多恵子はおとなしいヤマトナデシコとは真反対です。
この旅行記は、正確には堀多恵子紀行です。多恵子から見た堀辰雄の旅姿をたどります。
分去れに前日光さんが行ってみたくなる、やった~~~、これでこの旅行記は成功です。
読む人をしてそこに旅したいと思わせる。4トラのブログの目的だそうで、4トラ事務局から感謝状が出るという話は、一才ありません。
-
- kummingさん 2023/02/10 09:05:23
- ○十年越しの恋文(*_*;
- これって、Love letter from by夫 to by 妻さん⁈
または、感謝状 from by 夫 to by 妻さん⁇
「我が儘な僕に今日まで連れ添ってくれてありがとう、愛をこめて」的な・・・
朝からお腹いっぱい(*_*; ごっつあんです、でございます(^^♪
前日光さんがおっしゃっているように、しにあさんがものすごいロマンテイストでいらっしゃるんだ、ということにびっくりしています。そもそも男性の方がロマンティストの傾向にあると言われて久しい昨今、そういうものかな、と妙に腑に落ちる気もします。堀辰雄氏未読なので、分かりませんが、google評によれば、所謂恋愛物の系列なのでしょうか?一見恋愛物風で実は違う小説もあるので、こればかりは読んでみないと何とも言えません。
気がつけば小説、物語を読まなくなって久しい自分がいます。若い頃読んで晩年に再読したのは、日本文学では漱石と志賀直哉くらい?あと、アンドレジッド、カミュ、新訳が出たカラマーゾフ、ライ麦畑、SFファウンデーションシリーズ、グレッグベア、くらいかな~、記憶に残る最後に好きだったのは、フィッツジェラルドの「夜は優し」。何だか抒情派→叙事派に転向してしまった⁈
という事で、古代史シリーズでは「古代史の沼」に見事に引き込まれましたが、今回はちょっと無理かもしれません。「ローマ人の物語」読んでないとコメント書けない⁈しにあさんのご苦労、ご心労、共有させて頂きます_(._.)_
- しにあの旅人さん からの返信 2023/02/11 21:36:00
- Re: ○十年越しの恋文(*_*;
- どこまでもついてきてくれるBy妻に感謝です。
あーでもない、こーでもない、とじゃれあいながら旅をしております。
と、のろける。
堀辰雄は読んでいなくても、面白くなるように努力します。そもそも堀辰雄紀行というより、奥さんの堀多恵子紀行なのです。
我が青春の年の差アイドルです。
前日光さんが、堀辰雄紀行1のコメントで、半世紀前、堀辰雄旧居を訪れたと教えてくれました。花の女子大生時代です。
これは面白いので、ぜひ読んでください。
https://4travel.jp/travelogue/10731821
初々しい前日光さんです。
- しにあの旅人さん からの返信 2023/02/12 07:02:09
- Re: ○十年越しの恋文(*_*;
- 18歳の前日光さんが出てくるのは、堀辰雄紀行1の前日光さんのコメントです。
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旅行記グループ 堀辰雄紀行 信濃追分
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