
2022/10/11 - 2022/10/11
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しにあの旅人さん
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更新記録:2023・02・08 参考資料など追加、このページ最後
1966年、私が19歳のとき、友達が言うには「信濃追分で、散歩している堀多恵子とよく路で会うよ」
堀多恵子とは、堀辰雄夫人です。
堀辰雄は1953年(昭和28年)に亡くなっていました。
私は高校生の頃から堀辰雄ファンです。角川が1963-65年に出した全集を全部読んでおりました。私のイメージでは、多恵子は「風立ちぬ」の節子や「菜穗子」の主人公のような、楚々たる絶世の美女。
「で、どんな人?」
「ふつーのおばさん」
\(◎o◎)/!
まあ、そりゃそうかもしれないけれど、なんというか、もうちょっと言い方はあるだろうに。
計算してみると、この年多恵子53歳、自宅の周りの散歩に、化粧ばっちり、着飾って出るはずはありませんけどね・・・
この言葉、愕然とした思い、今でもしっかりと記憶に残っております。
この年の夏、一人で信濃追分に行って、村を歩き、油屋に1泊しました。
一書に曰く、
この頃の男の子のズボンはパンタロンという、だぼだぼのぶかぶかで、ずるずる引きずるようなモノでした。
by夫は、そういうだぼだぼのズボンの裾をパタパタはためかせながら走り回っておりました。
流行に乗ったわけでもなく、単に手頃な値段の物を買うと、流行の物になったと、ただそれだけってのが、傍でみていてよくわかりました。
オシャレに興味もなく、ただひたすら堀辰雄にのめり込んでいたのでしょうかね。
そういう青春時代をあまじょっぱく辿りますので、みなさま。どうぞ生暖かく読んでやって下さいませ。
By妻
2022年、堀多恵子が残した本をガイドブックに、信濃追分と軽井沢をぐるっと回ってきました。
56年ぶりのセンチメンタルジャーニイです。
今回は一人ではありません。隣りにはBy妻。
一書に曰く、
「むか~しムカシ、青春があったとさ」に続くセンチメンタルジャーニイ第2弾です。
私は、この頃、彼とは別の世界に生きておりまして、彼の熱狂をほとんど知りません。
大江健三郎とか吉本隆明とか、ガブリエル・ガルシア=マルケスとかを、まるで友人でもあるかのように、熱く語る先輩達の中で、息も出来ないようなショックを受けていた頃であります。
そういう人たちには、
「堀辰雄?なにそれ?そんな時代じゃないよ。」
でしたね。
本が好きと言ったって、「赤毛のアン」「トムソーヤ-」くらいしか、本気では理解できない私には、随分つま先立った生活でした。
By妻
堀辰雄は昭和XX年という言い方を嫌っていました。(辰雄の友人で美術評論家、嘉門安雄、筑摩別巻2P326、)
従って西暦/和暦の順で表記します。和暦じゃないと雰囲気が出ない場合もあるので併用します。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
青空文庫に収録されている場合は、コピペが楽なのでこちらを引用します。この場合は現代仮名遣いになることがあります。
筑摩版堀辰雄全集第8巻書簡、別巻1来簡より引用する場合は、筑摩書簡(来簡)XXと表記します。XXは書簡番号です。
下記7冊は堀多恵子著
「堀辰雄・妻への手紙」遍/新潮社/1959年(昭和34年)/「来し方の記・辰雄の思い出」に収録。
「葉鶏頭 辰雄のいる随筆」麦書房/1970年(昭和45年)
「返事の来ない手紙 1973.5.1~1974.4.28」文京書房/1979年(昭和54年)
「来し方の記・辰雄の思い出」花曜社/1985年(昭和60年)
「山麓の四季」花曜社/1986年(昭和61年)
「堀辰雄の周辺」角川書店/1996年(平成8年)
「山ぼうしの咲く庭で」オフィス・エム/堀井正子共著/1998年(平成10年)/この本は堀井による多恵子の聞き書きです。できるかぎり多恵子の語り口調を生かしたそうです。
以下4冊は堀辰雄文学記念館編集。
図録については、記念館事務所から、掲載写真のコピーと使用許可をいただいております。
野ばらの匂う散歩道・掘多恵子談話集/2003年(平成15年)
堀辰雄没後50年特別企画展図録/2003年(平成15年)
堀辰雄生誕百年特別企画展図録/2004年(平成16年)
堀辰雄文学記念館常設展示図録・改訂新版/2019年(平成31年)
「わが愛する詩人の伝記」電子版/室生犀星
「室生犀星と軽井沢」軽井沢町教育委員会/2011年(平成28年)
「堀辰雄全集」中村真一郎・福永武彦編輯/筑摩書房/1977年
投稿日:2023/01/18
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
でだしから問題。56年前の記憶がまるっきりないのです。信濃追分に行ったことは間違いない。以下空白。
時系列でたどってみようと、開館前の堀辰雄文学記念館まえの駐車場に車をおいて、歩いて信濃追分駅にやって来ました。 -
こんな入口だったかなあ。クーラーの室外機は絶対なかった。
-
自動販売機もたぶんなし。
-
もしかするとこの年季の入った看板は当時の物かもしれない。
-
19歳の私が降りたのは、上り軽井沢方面の、このホームでした。当時は信越本線、今はしなの鉄道。
-
旅情豊かな駅です。今でも堀辰雄にふさわしい雰囲気。
-
右の青い線が入ったのは現在のしなの鉄道の駅表。左の白いのが、かつての国鉄スタイルでしょう。
-
駅前がこんな原っぱではなかったような気がします。
浅間は駅のホームの端っこから、木立越しに見えたような記憶がかすかに。 -
記憶は蘇らず。
-
イチオシ
しかしこの風景が見えただけで駅まで来た甲斐がありました。
この写真気に入っております。私たちの4トラ史上最高傑作。 -
今は無人駅。56年前は駅員さんはいました。
-
そうだ、切符売り場で道を尋ねたんだ。
ガラス張りの切符売り場だったかな~
掘多恵子の「来し方の記」に、戦後物が無いとき「真夜中に追分駅を通過する親戚の者が駅員にバナナを一包みたくして行ってくれた」とありました。
のどかな時代だったようです。
このとき辰雄はすでに病床を離れられませんでした。
★「こんなうまいものがあったんだね」と(辰雄が)感激し、夜更けて眠られず、空腹を感じ始めるとき、睡眠薬の代わりにバナナを食べると眠れると喜んでいた時期もありました。★(P117) -
辰雄生前、陸橋はなかったそうです。
1966年で陸橋はあったかなあ。こんなでっかい物の有無を覚えていないもんですかね。 -
一書に曰く、
はい。単なる田舎の駅です。
堀辰雄あってこその駅ですからね。
堀辰雄って、だあれ?の人には、単なる田舎の駅です。
それでも、こんな鄙びた駅は、今どき見かけませんからね、風情はあります。昭和の時代には、こんな駅が東京近郊にもありました。 -
階段から、今にも制服の女学生達が、笑いさざめきながら駆け降りて来そうです。
By妻 -
「山麓の四季」によると、1980年(昭和55年)には陸橋はありました。
1月の寒い日、「生き生きと輝くような少女が両頬を真っ赤にして」多恵子を訪ねてきました。堀辰雄の小説の愛読者、高校生でした。その少女との会話で「いつのまにか信濃追分駅にも橋がかけられ・・・」と言っています。(P102-106)
1980年というと、私が信濃追分を訪ねた14年後だ。女子高生だそうです。トシは当時の私とあまり違わない。元気な子だなあ。
多恵子をひとり訪ねるなどという勇気は、私にはありませんでした。ダメだったなあ。 -
一書に曰く、
道路工事でした。
ま、確かに、今は観光のオフシーズン。
今工事しなくて、いつするの?
今でしょ!とばかりに、片側1車線をつぶした工事でした。
歩道がないのです。
どうやって通ろうか。途方に暮れるおもいです。
by夫は、ほら、ああいう性質ですから、どんどん進みます。
えっえっ、やめようよ。違う道を、、、
もう、行っちゃっているし。
見張りの旗振りの人は、まだ若い女性でした。
しかたない。
工事している誰にともなく、
「申し訳ありません。お仕事のお邪魔します。すみませんね、ごめんなさいね」
声をかけて、by夫を追いかけます。
工事の人は、すぐ隣で、どどどどっと働いているし。
働いている人が、ただ働くだけなら、遠慮もしないのだろうけれど、私が通るとき、体で、背後の車からかばうようにしてくださるのですよ。
気を使われるって、こっちも気を使う。
やっとですが、無事に工事現場を通過しました。
なになに?
by夫が何か言っている。
振り向けば、え~っ、私の後ろから、旗振りの女性が、旗を高く掲げてついてきてくださっていました!
私、まもられていました!
初めての経験です。
有り難うございました。
感謝、感謝!
By妻
だれにでも付き添いがつくのではないようです。年寄りだけ、でもないみたい。
私がヒョロヒョロと危なっかしく歩いていたからかな。
19歳のつもりの旅ですから、やや忸怩たるモノがありました。
By夫 -
駅から堀辰雄文学記念館まで徒歩2kmくらいです。このような静かな森を抜けます。
この森の一隅に堀多恵子が亡くなった家があります。2010年(平成22年)4月16日、96歳でした。
堀辰雄の死後、多恵子は現在の記念文学館の一隅に白い家を建て、そこに住んでおりましたが、1990年(平成2年)こちらに移りました。最期は信濃追分で迎えたいとおっしゃっていたそうです。希望通りになりました。(山ぼうしの咲く庭でP287)
訃報は全国紙にも載りました。2010年4月というと、私たちはフランス暮らしを切り上げ、日本に帰ってきて家探しの真っ最中。新聞など取っておりませんでした。 -
この道が素敵なのですよ。林の中の小径で、家々も、林の中。
きっちり、定規を当てたように刈り揃えてある生け垣も、美しいですが、こういうふうにのびのびと育った木々の間の家の美しさ。
堀辰雄がらみでなくてもすてきです。 -
これは駅から堀辰雄文学記念館にほぼ直接出る道です。最短ですから、56年前はたぶんこの道を通ったのではないかと思います。ところがご覧のように所々に別荘が点在するだけです。かつてはもっとなにもなかったでしょう。こう目印がなくては、記憶に残りようがありません。
記憶は空白のまま信濃追分の村に戻ります。
★その頃(昭和12、13年)の追分はまことに寂しく、信濃追分にゆく停車場道には一つの街灯もなかった。途中の沢にはむじなが赤ん坊のような声で鳴くなどと、聞かされたものだ。追分の夜の暗闇が妙に印象深く残っている。★(来し方の記P10)
今もたいして変わらない。電信柱はありましたが、街灯なんかあったかな。
この道は駅から旧中山道までだらだらとあがります。浅間山麓から流れてくる用水路が、蛇行して造られていました。森を歩いていると、あちこちで見えない川の音がしました。
堀辰雄生前のことです。多恵子の友達が追分の家を訪ねてきて「おどろいたわ、まるで浅間山にのぼる途中といった感じね」と言ったそうです。(葉鶏頭P40)
浅間山登山道と言われた多恵子は憮然としたでありましょう。 -
堀辰雄文学記念館近くの「油や-信濃追分文化磁場」です。
旅館としての油屋は2007年(平成19年)4月に営業をやめました。その後2012年に一種の文化施設として油やが再開されました。
一書に曰く、
油やさんは、小諸のつたやさんと同じように、いろいろな骨董屋さんが入っていました。
こういうのが現代風なのかな。
入っているお店は、これで商売が成り立っているのでしょうか。
古くても、昭和初期程度の古物なのですが、店に入ってしまえば結構熱心に見てしまいます。
展示してあるものは、私たちの年代なら、爺さんばあさんの家に遊びに行ったら、目にしたようなものばかりですが、若い人には新鮮なのでしょう。
古い雑誌やレコードなどもありました。
By妻 -
これは街道から見た油やです。
-
現在の油やの入口ホール。煙突が出ているのはプロパンガスのボンベを再利用した薪ストーブです。2011年の東日本大震災のあと、災害地で発明され活躍したそうです。奥の階段から2階に上がると、現在でも素泊まりですが、宿泊できる部屋があります。
一書に曰く、
ストーブがおしゃれでした。
わが家も、暖房は薪ストーブでして、それもあって、この斬新なデザインのストーブには惹きつけられました。
帰宅後、年に一回の煙突掃除がありました。
これをしないと、火事の危険があるのです。
同じ薪ストーブ仲間でも、お若い方、体力のある方は、ご自分でなさいますが、わが家は、専門家に依頼しております。
その専門家に、この軽井沢のストーブの話をしましたら、
「駄目だね。それじゃあ熱が上がらない。カッコばかり。」
と、にべもない。
でも本当に、油やさんは、11月には冬仕舞いで、都会に帰るそうです。
軽井沢の冬の厳しさには、このカッコイイストーブでは、充分な暖房にはならないようでした。
By妻
さて、この旅館のどこに泊まったか。
2階でした。
と言うことは正面階段を上がったはず。
窓から一本道の先に街道が見えました。
これが唯一の記憶。 -
正面が本館、右が新館。これは1966年と同じ。
-
するとこの本館2階の窓三つのうちどれか、ということになります。
これ以上手がかりなし。
思い出した。
窓のそばに机があって、そこで手紙を書いていたら、宿の女中さんがお茶を持ってきた。お風呂の用意ができましたと言いに来たような気もする。
そうだ「お勉強ですか?」と言われたんだ。
たった今気がつきましたが、1966年の油屋でも、かつてのように学生が避暑をかねてここに勉強をしにきていたのかもしれません。
加藤多恵が堀辰雄と出会ったのは1937年(昭和12年)夏の油屋でした。そのころの油屋は火事の前で、現在の油やの旧中山道を挟んで反対側にありました。
油屋には高文試験や大学入試の勉強中の学生が大勢いたそうです。
その伝統が1966年でも残っていて、女中さんは私をお勉強中の学生と思ったのか。
私は八ヶ岳山麓松原湖からの帰りに信濃追分に寄ったのです。夏の松原湖には学生村があって、農家が離れを学生に貸しておりました。半分以上が受験生でした。浪人が多かった。
神戸大学医学部をやめて東大法学部を受け直すというすごい人もいた。
私自身はその年の4月に大学に入っておりましたが、山ほど本を抱えて入村しました。
しかし私も含め、本も読まず勉強もせず、毎日松原湖でボートを漕ぐか八ヶ岳に登るという連中がほとんど。
のんびりした時代でしたから、いろいろな理由をつけてクソ熱い東京を脱出、冷涼な信州で夏を過ごすナマケモノが、まだ油屋にも来ていたのでしょう。
私はBy妻に手紙を書いていたのではないか。高校を出て離れ離れになりましたが、こ生意気な女でしたから、ケンカを売るにも買うにもちょうどいい。つきあいは続いておりました。
一書に曰く、
生意気は、失礼でしょう。
と、思いますが、先輩のあとを必死で追いかけていた頃でしたから、分かりもせずに先輩方の口まねでもしていたのでしょうか。
赤面のいたりです。
それと、by夫が書いた手紙は、私あてではなかったんじゃないかな。
手紙来たのかな。来なかったような。
来ても、サルトル、ボーボワールと格闘中の私には、木の葉同然だったのか?
覚えておりません。
By妻 -
堀辰雄文学記念館です。
-
立派な門ですが、信濃追分宿脇本陣の裏門です。2006年(平成18年)にここに移築復元されたものです。記念館とは関係ありません。軽井沢町が、このあたりが信濃追分で一番人気があるから移築したとのこと。多恵子はあまり喜んでいなかったらしい。
-
多恵子は、辰雄の死後も夏はここに住んでおりました。私の友人が路であった多恵子は、ここから気楽に散歩に出かけていたことになります。
私が1966年に信濃追分に行ったとき、駅から油屋までの道順だと、この前を通ったはずです。ところが全然記憶にありません。そもそも堀辰雄の家がどこにあるか知らなかったのです。
もしかすると、散歩に出かける多恵子とこの前で出会った可能性あり。でも分からなかったでしょう。お顔を知りませんでした。
一書に曰く、
堀辰雄記念館は立派な門から入ります。
この門は、本当に立派で、最初の時は、さすが!と思いました。
でも、堀辰雄という人の雰囲気とは違うんじゃないのとも感じました。
そしたら、やっぱり、本来は堀家とは関係ないらしいです。
凡人は、家にこんな立派な門を、ただで付けてもらえたら、喜ぶのではないでしょうか。
ところが、多恵子夫人は、ご不満だったらしい。
見栄とか体裁とか、そういうことが嫌いな人だったのですね。
そして、自分というものをしっかり持った人なのでしょう。
なかなかの人物であります。
By妻
堀辰雄旧居は、このあとじっくりお邪魔します。
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