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更新記録:2023・02・08 参考資料など追加、このページ最後<br /><br />1966年、私が19歳のとき、友達が言うには「信濃追分で、散歩している堀多恵子とよく路で会うよ」<br />堀多恵子とは、堀辰雄夫人です。<br />堀辰雄は1953年(昭和28年)に亡くなっていました。<br />私は高校生の頃から堀辰雄ファンです。角川が1963-65年に出した全集を全部読んでおりました。私のイメージでは、多恵子は「風立ちぬ」の節子や「菜穗子」の主人公のような、楚々たる絶世の美女。<br />「で、どんな人?」<br />「ふつーのおばさん」<br /><br />\(◎o◎)/!<br /><br />まあ、そりゃそうかもしれないけれど、なんというか、もうちょっと言い方はあるだろうに。<br />計算してみると、この年多恵子53歳、自宅の周りの散歩に、化粧ばっちり、着飾って出るはずはありませんけどね・・・<br />この言葉、愕然とした思い、今でもしっかりと記憶に残っております。<br />この年の夏、一人で信濃追分に行って、村を歩き、油屋に1泊しました。<br /><br />一書に曰く、<br />この頃の男の子のズボンはパンタロンという、だぼだぼのぶかぶかで、ずるずる引きずるようなモノでした。<br />by夫は、そういうだぼだぼのズボンの裾をパタパタはためかせながら走り回っておりました。<br />流行に乗ったわけでもなく、単に手頃な値段の物を買うと、流行の物になったと、ただそれだけってのが、傍でみていてよくわかりました。<br /><br />オシャレに興味もなく、ただひたすら堀辰雄にのめり込んでいたのでしょうかね。<br />そういう青春時代をあまじょっぱく辿りますので、みなさま。どうぞ生暖かく読んでやって下さいませ。<br />By妻<br /><br />2022年、堀多恵子が残した本をガイドブックに、信濃追分と軽井沢をぐるっと回ってきました。<br />56年ぶりのセンチメンタルジャーニイです。<br />今回は一人ではありません。隣りにはBy妻。<br /><br />一書に曰く、<br />「むか~しムカシ、青春があったとさ」に続くセンチメンタルジャーニイ第2弾です。<br />私は、この頃、彼とは別の世界に生きておりまして、彼の熱狂をほとんど知りません。<br />大江健三郎とか吉本隆明とか、ガブリエル・ガルシア=マルケスとかを、まるで友人でもあるかのように、熱く語る先輩達の中で、息も出来ないようなショックを受けていた頃であります。<br />そういう人たちには、<br />「堀辰雄?なにそれ?そんな時代じゃないよ。」<br />でしたね。<br />本が好きと言ったって、「赤毛のアン」「トムソーヤ-」くらいしか、本気では理解できない私には、随分つま先立った生活でした。<br />By妻<br /><br />堀辰雄は昭和XX年という言い方を嫌っていました。(辰雄の友人で美術評論家、嘉門安雄、筑摩別巻2P326、)<br />従って西暦/和暦の順で表記します。和暦じゃないと雰囲気が出ない場合もあるので併用します。<br />引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。<br /><br />青空文庫に収録されている場合は、コピペが楽なのでこちらを引用します。この場合は現代仮名遣いになることがあります。<br />筑摩版堀辰雄全集第8巻書簡、別巻1来簡より引用する場合は、筑摩書簡(来簡)XXと表記します。XXは書簡番号です。<br /><br />下記7冊は堀多恵子著<br />「堀辰雄・妻への手紙」遍/新潮社/1959年(昭和34年)/「来し方の記・辰雄の思い出」に収録。<br />「葉鶏頭 辰雄のいる随筆」麦書房/1970年(昭和45年)<br />「返事の来ない手紙 1973.5.1~1974.4.28」文京書房/1979年(昭和54年)<br />「来し方の記・辰雄の思い出」花曜社/1985年(昭和60年)<br />「山麓の四季」花曜社/1986年(昭和61年)<br />「堀辰雄の周辺」角川書店/1996年(平成8年)<br />「山ぼうしの咲く庭で」オフィス・エム/堀井正子共著/1998年(平成10年)/この本は堀井による多恵子の聞き書きです。できるかぎり多恵子の語り口調を生かしたそうです。<br /><br />以下4冊は堀辰雄文学記念館編集。<br />図録については、記念館事務所から、掲載写真のコピーと使用許可をいただいております。<br />野ばらの匂う散歩道・掘多恵子談話集/2003年(平成15年)<br />堀辰雄没後50年特別企画展図録/2003年(平成15年)<br />堀辰雄生誕百年特別企画展図録/2004年(平成16年)<br />堀辰雄文学記念館常設展示図録・改訂新版/2019年(平成31年)<br /><br />「わが愛する詩人の伝記」電子版/室生犀星<br />「室生犀星と軽井沢」軽井沢町教育委員会/2011年(平成28年)<br />「堀辰雄全集」中村真一郎・福永武彦編輯/筑摩書房/1977年<br /><br />投稿日:2023/01/18

堀辰雄紀行1 信濃追分、By夫19歳の旅

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2022/10/11 - 2022/10/11

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旅行記グループ 堀辰雄紀行 信濃追分

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28

しにあの旅人

しにあの旅人さん

更新記録:2023・02・08 参考資料など追加、このページ最後

1966年、私が19歳のとき、友達が言うには「信濃追分で、散歩している堀多恵子とよく路で会うよ」
堀多恵子とは、堀辰雄夫人です。
堀辰雄は1953年(昭和28年)に亡くなっていました。
私は高校生の頃から堀辰雄ファンです。角川が1963-65年に出した全集を全部読んでおりました。私のイメージでは、多恵子は「風立ちぬ」の節子や「菜穗子」の主人公のような、楚々たる絶世の美女。
「で、どんな人?」
「ふつーのおばさん」

\(◎o◎)/!

まあ、そりゃそうかもしれないけれど、なんというか、もうちょっと言い方はあるだろうに。
計算してみると、この年多恵子53歳、自宅の周りの散歩に、化粧ばっちり、着飾って出るはずはありませんけどね・・・
この言葉、愕然とした思い、今でもしっかりと記憶に残っております。
この年の夏、一人で信濃追分に行って、村を歩き、油屋に1泊しました。

一書に曰く、
この頃の男の子のズボンはパンタロンという、だぼだぼのぶかぶかで、ずるずる引きずるようなモノでした。
by夫は、そういうだぼだぼのズボンの裾をパタパタはためかせながら走り回っておりました。
流行に乗ったわけでもなく、単に手頃な値段の物を買うと、流行の物になったと、ただそれだけってのが、傍でみていてよくわかりました。

オシャレに興味もなく、ただひたすら堀辰雄にのめり込んでいたのでしょうかね。
そういう青春時代をあまじょっぱく辿りますので、みなさま。どうぞ生暖かく読んでやって下さいませ。
By妻

2022年、堀多恵子が残した本をガイドブックに、信濃追分と軽井沢をぐるっと回ってきました。
56年ぶりのセンチメンタルジャーニイです。
今回は一人ではありません。隣りにはBy妻。

一書に曰く、
「むか~しムカシ、青春があったとさ」に続くセンチメンタルジャーニイ第2弾です。
私は、この頃、彼とは別の世界に生きておりまして、彼の熱狂をほとんど知りません。
大江健三郎とか吉本隆明とか、ガブリエル・ガルシア=マルケスとかを、まるで友人でもあるかのように、熱く語る先輩達の中で、息も出来ないようなショックを受けていた頃であります。
そういう人たちには、
「堀辰雄?なにそれ?そんな時代じゃないよ。」
でしたね。
本が好きと言ったって、「赤毛のアン」「トムソーヤ-」くらいしか、本気では理解できない私には、随分つま先立った生活でした。
By妻

堀辰雄は昭和XX年という言い方を嫌っていました。(辰雄の友人で美術評論家、嘉門安雄、筑摩別巻2P326、)
従って西暦/和暦の順で表記します。和暦じゃないと雰囲気が出ない場合もあるので併用します。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。

青空文庫に収録されている場合は、コピペが楽なのでこちらを引用します。この場合は現代仮名遣いになることがあります。
筑摩版堀辰雄全集第8巻書簡、別巻1来簡より引用する場合は、筑摩書簡(来簡)XXと表記します。XXは書簡番号です。

下記7冊は堀多恵子著
「堀辰雄・妻への手紙」遍/新潮社/1959年(昭和34年)/「来し方の記・辰雄の思い出」に収録。
「葉鶏頭 辰雄のいる随筆」麦書房/1970年(昭和45年)
「返事の来ない手紙 1973.5.1~1974.4.28」文京書房/1979年(昭和54年)
「来し方の記・辰雄の思い出」花曜社/1985年(昭和60年)
「山麓の四季」花曜社/1986年(昭和61年)
「堀辰雄の周辺」角川書店/1996年(平成8年)
「山ぼうしの咲く庭で」オフィス・エム/堀井正子共著/1998年(平成10年)/この本は堀井による多恵子の聞き書きです。できるかぎり多恵子の語り口調を生かしたそうです。

以下4冊は堀辰雄文学記念館編集。
図録については、記念館事務所から、掲載写真のコピーと使用許可をいただいております。
野ばらの匂う散歩道・掘多恵子談話集/2003年(平成15年)
堀辰雄没後50年特別企画展図録/2003年(平成15年)
堀辰雄生誕百年特別企画展図録/2004年(平成16年)
堀辰雄文学記念館常設展示図録・改訂新版/2019年(平成31年)

「わが愛する詩人の伝記」電子版/室生犀星
「室生犀星と軽井沢」軽井沢町教育委員会/2011年(平成28年)
「堀辰雄全集」中村真一郎・福永武彦編輯/筑摩書房/1977年

投稿日:2023/01/18

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • でだしから問題。56年前の記憶がまるっきりないのです。信濃追分に行ったことは間違いない。以下空白。<br />時系列でたどってみようと、開館前の堀辰雄文学記念館まえの駐車場に車をおいて、歩いて信濃追分駅にやって来ました。<br />

    でだしから問題。56年前の記憶がまるっきりないのです。信濃追分に行ったことは間違いない。以下空白。
    時系列でたどってみようと、開館前の堀辰雄文学記念館まえの駐車場に車をおいて、歩いて信濃追分駅にやって来ました。

  • こんな入口だったかなあ。クーラーの室外機は絶対なかった。

    こんな入口だったかなあ。クーラーの室外機は絶対なかった。

  • 自動販売機もたぶんなし。

    自動販売機もたぶんなし。

  • もしかするとこの年季の入った看板は当時の物かもしれない。

    もしかするとこの年季の入った看板は当時の物かもしれない。

  • 19歳の私が降りたのは、上り軽井沢方面の、このホームでした。当時は信越本線、今はしなの鉄道。

    19歳の私が降りたのは、上り軽井沢方面の、このホームでした。当時は信越本線、今はしなの鉄道。

  • 旅情豊かな駅です。今でも堀辰雄にふさわしい雰囲気。

    旅情豊かな駅です。今でも堀辰雄にふさわしい雰囲気。

  • 右の青い線が入ったのは現在のしなの鉄道の駅表。左の白いのが、かつての国鉄スタイルでしょう。

    右の青い線が入ったのは現在のしなの鉄道の駅表。左の白いのが、かつての国鉄スタイルでしょう。

  • 駅前がこんな原っぱではなかったような気がします。<br />浅間は駅のホームの端っこから、木立越しに見えたような記憶がかすかに。<br />

    駅前がこんな原っぱではなかったような気がします。
    浅間は駅のホームの端っこから、木立越しに見えたような記憶がかすかに。

  • 記憶は蘇らず。

    記憶は蘇らず。

  • しかしこの風景が見えただけで駅まで来た甲斐がありました。<br />この写真気に入っております。私たちの4トラ史上最高傑作。<br />

    イチオシ

    しかしこの風景が見えただけで駅まで来た甲斐がありました。
    この写真気に入っております。私たちの4トラ史上最高傑作。

  • 今は無人駅。56年前は駅員さんはいました。

    今は無人駅。56年前は駅員さんはいました。

  • そうだ、切符売り場で道を尋ねたんだ。<br />ガラス張りの切符売り場だったかな~<br /><br />掘多恵子の「来し方の記」に、戦後物が無いとき「真夜中に追分駅を通過する親戚の者が駅員にバナナを一包みたくして行ってくれた」とありました。<br />のどかな時代だったようです。<br />このとき辰雄はすでに病床を離れられませんでした。<br /><br />★「こんなうまいものがあったんだね」と(辰雄が)感激し、夜更けて眠られず、空腹を感じ始めるとき、睡眠薬の代わりにバナナを食べると眠れると喜んでいた時期もありました。★(P117)<br />

    そうだ、切符売り場で道を尋ねたんだ。
    ガラス張りの切符売り場だったかな~

    掘多恵子の「来し方の記」に、戦後物が無いとき「真夜中に追分駅を通過する親戚の者が駅員にバナナを一包みたくして行ってくれた」とありました。
    のどかな時代だったようです。
    このとき辰雄はすでに病床を離れられませんでした。

    ★「こんなうまいものがあったんだね」と(辰雄が)感激し、夜更けて眠られず、空腹を感じ始めるとき、睡眠薬の代わりにバナナを食べると眠れると喜んでいた時期もありました。★(P117)

  • 辰雄生前、陸橋はなかったそうです。<br />1966年で陸橋はあったかなあ。こんなでっかい物の有無を覚えていないもんですかね。<br />

    辰雄生前、陸橋はなかったそうです。
    1966年で陸橋はあったかなあ。こんなでっかい物の有無を覚えていないもんですかね。

  • 一書に曰く、<br />はい。単なる田舎の駅です。<br />堀辰雄あってこその駅ですからね。<br />堀辰雄って、だあれ?の人には、単なる田舎の駅です。<br />それでも、こんな鄙びた駅は、今どき見かけませんからね、風情はあります。昭和の時代には、こんな駅が東京近郊にもありました。<br /><br />

    一書に曰く、
    はい。単なる田舎の駅です。
    堀辰雄あってこその駅ですからね。
    堀辰雄って、だあれ?の人には、単なる田舎の駅です。
    それでも、こんな鄙びた駅は、今どき見かけませんからね、風情はあります。昭和の時代には、こんな駅が東京近郊にもありました。

  • 階段から、今にも制服の女学生達が、笑いさざめきながら駆け降りて来そうです。<br />By妻<br />

    階段から、今にも制服の女学生達が、笑いさざめきながら駆け降りて来そうです。
    By妻

  • 「山麓の四季」によると、1980年(昭和55年)には陸橋はありました。<br />1月の寒い日、「生き生きと輝くような少女が両頬を真っ赤にして」多恵子を訪ねてきました。堀辰雄の小説の愛読者、高校生でした。その少女との会話で「いつのまにか信濃追分駅にも橋がかけられ・・・」と言っています。(P102-106)  <br /><br />1980年というと、私が信濃追分を訪ねた14年後だ。女子高生だそうです。トシは当時の私とあまり違わない。元気な子だなあ。<br />多恵子をひとり訪ねるなどという勇気は、私にはありませんでした。ダメだったなあ。<br />

    「山麓の四季」によると、1980年(昭和55年)には陸橋はありました。
    1月の寒い日、「生き生きと輝くような少女が両頬を真っ赤にして」多恵子を訪ねてきました。堀辰雄の小説の愛読者、高校生でした。その少女との会話で「いつのまにか信濃追分駅にも橋がかけられ・・・」と言っています。(P102-106)  

    1980年というと、私が信濃追分を訪ねた14年後だ。女子高生だそうです。トシは当時の私とあまり違わない。元気な子だなあ。
    多恵子をひとり訪ねるなどという勇気は、私にはありませんでした。ダメだったなあ。

  • 一書に曰く、<br />道路工事でした。<br />ま、確かに、今は観光のオフシーズン。<br />今工事しなくて、いつするの?<br />今でしょ!とばかりに、片側1車線をつぶした工事でした。<br />歩道がないのです。<br />どうやって通ろうか。途方に暮れるおもいです。<br /><br />by夫は、ほら、ああいう性質ですから、どんどん進みます。<br />えっえっ、やめようよ。違う道を、、、<br />もう、行っちゃっているし。<br />見張りの旗振りの人は、まだ若い女性でした。<br />しかたない。<br />工事している誰にともなく、<br />「申し訳ありません。お仕事のお邪魔します。すみませんね、ごめんなさいね」<br />声をかけて、by夫を追いかけます。<br />工事の人は、すぐ隣で、どどどどっと働いているし。<br />働いている人が、ただ働くだけなら、遠慮もしないのだろうけれど、私が通るとき、体で、背後の車からかばうようにしてくださるのですよ。<br />気を使われるって、こっちも気を使う。<br />やっとですが、無事に工事現場を通過しました。<br />なになに?<br />by夫が何か言っている。<br />振り向けば、え~っ、私の後ろから、旗振りの女性が、旗を高く掲げてついてきてくださっていました!<br />私、まもられていました!<br /><br />初めての経験です。<br />有り難うございました。<br />感謝、感謝!<br />By妻<br /><br />だれにでも付き添いがつくのではないようです。年寄りだけ、でもないみたい。<br />私がヒョロヒョロと危なっかしく歩いていたからかな。<br />19歳のつもりの旅ですから、やや忸怩たるモノがありました。<br />By夫<br />

    一書に曰く、
    道路工事でした。
    ま、確かに、今は観光のオフシーズン。
    今工事しなくて、いつするの?
    今でしょ!とばかりに、片側1車線をつぶした工事でした。
    歩道がないのです。
    どうやって通ろうか。途方に暮れるおもいです。

    by夫は、ほら、ああいう性質ですから、どんどん進みます。
    えっえっ、やめようよ。違う道を、、、
    もう、行っちゃっているし。
    見張りの旗振りの人は、まだ若い女性でした。
    しかたない。
    工事している誰にともなく、
    「申し訳ありません。お仕事のお邪魔します。すみませんね、ごめんなさいね」
    声をかけて、by夫を追いかけます。
    工事の人は、すぐ隣で、どどどどっと働いているし。
    働いている人が、ただ働くだけなら、遠慮もしないのだろうけれど、私が通るとき、体で、背後の車からかばうようにしてくださるのですよ。
    気を使われるって、こっちも気を使う。
    やっとですが、無事に工事現場を通過しました。
    なになに?
    by夫が何か言っている。
    振り向けば、え~っ、私の後ろから、旗振りの女性が、旗を高く掲げてついてきてくださっていました!
    私、まもられていました!

    初めての経験です。
    有り難うございました。
    感謝、感謝!
    By妻

    だれにでも付き添いがつくのではないようです。年寄りだけ、でもないみたい。
    私がヒョロヒョロと危なっかしく歩いていたからかな。
    19歳のつもりの旅ですから、やや忸怩たるモノがありました。
    By夫

  • 駅から堀辰雄文学記念館まで徒歩2kmくらいです。このような静かな森を抜けます。<br />この森の一隅に堀多恵子が亡くなった家があります。2010年(平成22年)4月16日、96歳でした。<br />堀辰雄の死後、多恵子は現在の記念文学館の一隅に白い家を建て、そこに住んでおりましたが、1990年(平成2年)こちらに移りました。最期は信濃追分で迎えたいとおっしゃっていたそうです。希望通りになりました。(山ぼうしの咲く庭でP287)<br />訃報は全国紙にも載りました。2010年4月というと、私たちはフランス暮らしを切り上げ、日本に帰ってきて家探しの真っ最中。新聞など取っておりませんでした。<br />

    駅から堀辰雄文学記念館まで徒歩2kmくらいです。このような静かな森を抜けます。
    この森の一隅に堀多恵子が亡くなった家があります。2010年(平成22年)4月16日、96歳でした。
    堀辰雄の死後、多恵子は現在の記念文学館の一隅に白い家を建て、そこに住んでおりましたが、1990年(平成2年)こちらに移りました。最期は信濃追分で迎えたいとおっしゃっていたそうです。希望通りになりました。(山ぼうしの咲く庭でP287)
    訃報は全国紙にも載りました。2010年4月というと、私たちはフランス暮らしを切り上げ、日本に帰ってきて家探しの真っ最中。新聞など取っておりませんでした。

  • この道が素敵なのですよ。林の中の小径で、家々も、林の中。<br />きっちり、定規を当てたように刈り揃えてある生け垣も、美しいですが、こういうふうにのびのびと育った木々の間の家の美しさ。<br />堀辰雄がらみでなくてもすてきです。<br />

    この道が素敵なのですよ。林の中の小径で、家々も、林の中。
    きっちり、定規を当てたように刈り揃えてある生け垣も、美しいですが、こういうふうにのびのびと育った木々の間の家の美しさ。
    堀辰雄がらみでなくてもすてきです。

  • これは駅から堀辰雄文学記念館にほぼ直接出る道です。最短ですから、56年前はたぶんこの道を通ったのではないかと思います。ところがご覧のように所々に別荘が点在するだけです。かつてはもっとなにもなかったでしょう。こう目印がなくては、記憶に残りようがありません。<br />記憶は空白のまま信濃追分の村に戻ります。<br /><br />★その頃(昭和12、13年)の追分はまことに寂しく、信濃追分にゆく停車場道には一つの街灯もなかった。途中の沢にはむじなが赤ん坊のような声で鳴くなどと、聞かされたものだ。追分の夜の暗闇が妙に印象深く残っている。★(来し方の記P10)<br /><br />今もたいして変わらない。電信柱はありましたが、街灯なんかあったかな。<br />この道は駅から旧中山道までだらだらとあがります。浅間山麓から流れてくる用水路が、蛇行して造られていました。森を歩いていると、あちこちで見えない川の音がしました。<br />堀辰雄生前のことです。多恵子の友達が追分の家を訪ねてきて「おどろいたわ、まるで浅間山にのぼる途中といった感じね」と言ったそうです。(葉鶏頭P40)<br />浅間山登山道と言われた多恵子は憮然としたでありましょう。<br />

    これは駅から堀辰雄文学記念館にほぼ直接出る道です。最短ですから、56年前はたぶんこの道を通ったのではないかと思います。ところがご覧のように所々に別荘が点在するだけです。かつてはもっとなにもなかったでしょう。こう目印がなくては、記憶に残りようがありません。
    記憶は空白のまま信濃追分の村に戻ります。

    ★その頃(昭和12、13年)の追分はまことに寂しく、信濃追分にゆく停車場道には一つの街灯もなかった。途中の沢にはむじなが赤ん坊のような声で鳴くなどと、聞かされたものだ。追分の夜の暗闇が妙に印象深く残っている。★(来し方の記P10)

    今もたいして変わらない。電信柱はありましたが、街灯なんかあったかな。
    この道は駅から旧中山道までだらだらとあがります。浅間山麓から流れてくる用水路が、蛇行して造られていました。森を歩いていると、あちこちで見えない川の音がしました。
    堀辰雄生前のことです。多恵子の友達が追分の家を訪ねてきて「おどろいたわ、まるで浅間山にのぼる途中といった感じね」と言ったそうです。(葉鶏頭P40)
    浅間山登山道と言われた多恵子は憮然としたでありましょう。

  • 堀辰雄文学記念館近くの「油や-信濃追分文化磁場」です。<br />旅館としての油屋は2007年(平成19年)4月に営業をやめました。その後2012年に一種の文化施設として油やが再開されました。<br /><br />一書に曰く、<br />油やさんは、小諸のつたやさんと同じように、いろいろな骨董屋さんが入っていました。<br />こういうのが現代風なのかな。<br />入っているお店は、これで商売が成り立っているのでしょうか。<br />古くても、昭和初期程度の古物なのですが、店に入ってしまえば結構熱心に見てしまいます。<br />展示してあるものは、私たちの年代なら、爺さんばあさんの家に遊びに行ったら、目にしたようなものばかりですが、若い人には新鮮なのでしょう。<br />古い雑誌やレコードなどもありました。<br />By妻<br />

    堀辰雄文学記念館近くの「油や-信濃追分文化磁場」です。
    旅館としての油屋は2007年(平成19年)4月に営業をやめました。その後2012年に一種の文化施設として油やが再開されました。

    一書に曰く、
    油やさんは、小諸のつたやさんと同じように、いろいろな骨董屋さんが入っていました。
    こういうのが現代風なのかな。
    入っているお店は、これで商売が成り立っているのでしょうか。
    古くても、昭和初期程度の古物なのですが、店に入ってしまえば結構熱心に見てしまいます。
    展示してあるものは、私たちの年代なら、爺さんばあさんの家に遊びに行ったら、目にしたようなものばかりですが、若い人には新鮮なのでしょう。
    古い雑誌やレコードなどもありました。
    By妻

  • これは街道から見た油やです。

    これは街道から見た油やです。

  • 現在の油やの入口ホール。煙突が出ているのはプロパンガスのボンベを再利用した薪ストーブです。2011年の東日本大震災のあと、災害地で発明され活躍したそうです。奥の階段から2階に上がると、現在でも素泊まりですが、宿泊できる部屋があります。<br /><br />一書に曰く、<br />ストーブがおしゃれでした。<br />わが家も、暖房は薪ストーブでして、それもあって、この斬新なデザインのストーブには惹きつけられました。<br />帰宅後、年に一回の煙突掃除がありました。<br />これをしないと、火事の危険があるのです。<br />同じ薪ストーブ仲間でも、お若い方、体力のある方は、ご自分でなさいますが、わが家は、専門家に依頼しております。<br />その専門家に、この軽井沢のストーブの話をしましたら、<br />「駄目だね。それじゃあ熱が上がらない。カッコばかり。」<br />と、にべもない。<br />でも本当に、油やさんは、11月には冬仕舞いで、都会に帰るそうです。<br />軽井沢の冬の厳しさには、このカッコイイストーブでは、充分な暖房にはならないようでした。<br />By妻<br /><br />さて、この旅館のどこに泊まったか。<br />2階でした。<br />と言うことは正面階段を上がったはず。<br />窓から一本道の先に街道が見えました。<br />これが唯一の記憶。<br />

    現在の油やの入口ホール。煙突が出ているのはプロパンガスのボンベを再利用した薪ストーブです。2011年の東日本大震災のあと、災害地で発明され活躍したそうです。奥の階段から2階に上がると、現在でも素泊まりですが、宿泊できる部屋があります。

    一書に曰く、
    ストーブがおしゃれでした。
    わが家も、暖房は薪ストーブでして、それもあって、この斬新なデザインのストーブには惹きつけられました。
    帰宅後、年に一回の煙突掃除がありました。
    これをしないと、火事の危険があるのです。
    同じ薪ストーブ仲間でも、お若い方、体力のある方は、ご自分でなさいますが、わが家は、専門家に依頼しております。
    その専門家に、この軽井沢のストーブの話をしましたら、
    「駄目だね。それじゃあ熱が上がらない。カッコばかり。」
    と、にべもない。
    でも本当に、油やさんは、11月には冬仕舞いで、都会に帰るそうです。
    軽井沢の冬の厳しさには、このカッコイイストーブでは、充分な暖房にはならないようでした。
    By妻

    さて、この旅館のどこに泊まったか。
    2階でした。
    と言うことは正面階段を上がったはず。
    窓から一本道の先に街道が見えました。
    これが唯一の記憶。

  • 正面が本館、右が新館。これは1966年と同じ。

    正面が本館、右が新館。これは1966年と同じ。

  • するとこの本館2階の窓三つのうちどれか、ということになります。<br />これ以上手がかりなし。<br />思い出した。<br />窓のそばに机があって、そこで手紙を書いていたら、宿の女中さんがお茶を持ってきた。お風呂の用意ができましたと言いに来たような気もする。<br />そうだ「お勉強ですか?」と言われたんだ。<br />たった今気がつきましたが、1966年の油屋でも、かつてのように学生が避暑をかねてここに勉強をしにきていたのかもしれません。<br /><br />加藤多恵が堀辰雄と出会ったのは1937年(昭和12年)夏の油屋でした。そのころの油屋は火事の前で、現在の油やの旧中山道を挟んで反対側にありました。<br />油屋には高文試験や大学入試の勉強中の学生が大勢いたそうです。<br />その伝統が1966年でも残っていて、女中さんは私をお勉強中の学生と思ったのか。<br />私は八ヶ岳山麓松原湖からの帰りに信濃追分に寄ったのです。夏の松原湖には学生村があって、農家が離れを学生に貸しておりました。半分以上が受験生でした。浪人が多かった。<br />神戸大学医学部をやめて東大法学部を受け直すというすごい人もいた。<br />私自身はその年の4月に大学に入っておりましたが、山ほど本を抱えて入村しました。<br />しかし私も含め、本も読まず勉強もせず、毎日松原湖でボートを漕ぐか八ヶ岳に登るという連中がほとんど。<br />のんびりした時代でしたから、いろいろな理由をつけてクソ熱い東京を脱出、冷涼な信州で夏を過ごすナマケモノが、まだ油屋にも来ていたのでしょう。<br /><br />私はBy妻に手紙を書いていたのではないか。高校を出て離れ離れになりましたが、こ生意気な女でしたから、ケンカを売るにも買うにもちょうどいい。つきあいは続いておりました。<br /><br />一書に曰く、<br />生意気は、失礼でしょう。<br />と、思いますが、先輩のあとを必死で追いかけていた頃でしたから、分かりもせずに先輩方の口まねでもしていたのでしょうか。<br />赤面のいたりです。<br />それと、by夫が書いた手紙は、私あてではなかったんじゃないかな。<br />手紙来たのかな。来なかったような。<br />来ても、サルトル、ボーボワールと格闘中の私には、木の葉同然だったのか?<br />覚えておりません。<br />By妻<br />

    するとこの本館2階の窓三つのうちどれか、ということになります。
    これ以上手がかりなし。
    思い出した。
    窓のそばに机があって、そこで手紙を書いていたら、宿の女中さんがお茶を持ってきた。お風呂の用意ができましたと言いに来たような気もする。
    そうだ「お勉強ですか?」と言われたんだ。
    たった今気がつきましたが、1966年の油屋でも、かつてのように学生が避暑をかねてここに勉強をしにきていたのかもしれません。

    加藤多恵が堀辰雄と出会ったのは1937年(昭和12年)夏の油屋でした。そのころの油屋は火事の前で、現在の油やの旧中山道を挟んで反対側にありました。
    油屋には高文試験や大学入試の勉強中の学生が大勢いたそうです。
    その伝統が1966年でも残っていて、女中さんは私をお勉強中の学生と思ったのか。
    私は八ヶ岳山麓松原湖からの帰りに信濃追分に寄ったのです。夏の松原湖には学生村があって、農家が離れを学生に貸しておりました。半分以上が受験生でした。浪人が多かった。
    神戸大学医学部をやめて東大法学部を受け直すというすごい人もいた。
    私自身はその年の4月に大学に入っておりましたが、山ほど本を抱えて入村しました。
    しかし私も含め、本も読まず勉強もせず、毎日松原湖でボートを漕ぐか八ヶ岳に登るという連中がほとんど。
    のんびりした時代でしたから、いろいろな理由をつけてクソ熱い東京を脱出、冷涼な信州で夏を過ごすナマケモノが、まだ油屋にも来ていたのでしょう。

    私はBy妻に手紙を書いていたのではないか。高校を出て離れ離れになりましたが、こ生意気な女でしたから、ケンカを売るにも買うにもちょうどいい。つきあいは続いておりました。

    一書に曰く、
    生意気は、失礼でしょう。
    と、思いますが、先輩のあとを必死で追いかけていた頃でしたから、分かりもせずに先輩方の口まねでもしていたのでしょうか。
    赤面のいたりです。
    それと、by夫が書いた手紙は、私あてではなかったんじゃないかな。
    手紙来たのかな。来なかったような。
    来ても、サルトル、ボーボワールと格闘中の私には、木の葉同然だったのか?
    覚えておりません。
    By妻

  • 堀辰雄文学記念館です。

    堀辰雄文学記念館です。

  • 立派な門ですが、信濃追分宿脇本陣の裏門です。2006年(平成18年)にここに移築復元されたものです。記念館とは関係ありません。軽井沢町が、このあたりが信濃追分で一番人気があるから移築したとのこと。多恵子はあまり喜んでいなかったらしい。

    立派な門ですが、信濃追分宿脇本陣の裏門です。2006年(平成18年)にここに移築復元されたものです。記念館とは関係ありません。軽井沢町が、このあたりが信濃追分で一番人気があるから移築したとのこと。多恵子はあまり喜んでいなかったらしい。

  • 多恵子は、辰雄の死後も夏はここに住んでおりました。私の友人が路であった多恵子は、ここから気楽に散歩に出かけていたことになります。<br />私が1966年に信濃追分に行ったとき、駅から油屋までの道順だと、この前を通ったはずです。ところが全然記憶にありません。そもそも堀辰雄の家がどこにあるか知らなかったのです。<br />もしかすると、散歩に出かける多恵子とこの前で出会った可能性あり。でも分からなかったでしょう。お顔を知りませんでした。<br /><br />一書に曰く、<br />堀辰雄記念館は立派な門から入ります。<br />この門は、本当に立派で、最初の時は、さすが!と思いました。<br />でも、堀辰雄という人の雰囲気とは違うんじゃないのとも感じました。<br />そしたら、やっぱり、本来は堀家とは関係ないらしいです。<br />凡人は、家にこんな立派な門を、ただで付けてもらえたら、喜ぶのではないでしょうか。<br />ところが、多恵子夫人は、ご不満だったらしい。<br />見栄とか体裁とか、そういうことが嫌いな人だったのですね。<br />そして、自分というものをしっかり持った人なのでしょう。<br />なかなかの人物であります。<br />By妻<br /><br />堀辰雄旧居は、このあとじっくりお邪魔します。<br />

    多恵子は、辰雄の死後も夏はここに住んでおりました。私の友人が路であった多恵子は、ここから気楽に散歩に出かけていたことになります。
    私が1966年に信濃追分に行ったとき、駅から油屋までの道順だと、この前を通ったはずです。ところが全然記憶にありません。そもそも堀辰雄の家がどこにあるか知らなかったのです。
    もしかすると、散歩に出かける多恵子とこの前で出会った可能性あり。でも分からなかったでしょう。お顔を知りませんでした。

    一書に曰く、
    堀辰雄記念館は立派な門から入ります。
    この門は、本当に立派で、最初の時は、さすが!と思いました。
    でも、堀辰雄という人の雰囲気とは違うんじゃないのとも感じました。
    そしたら、やっぱり、本来は堀家とは関係ないらしいです。
    凡人は、家にこんな立派な門を、ただで付けてもらえたら、喜ぶのではないでしょうか。
    ところが、多恵子夫人は、ご不満だったらしい。
    見栄とか体裁とか、そういうことが嫌いな人だったのですね。
    そして、自分というものをしっかり持った人なのでしょう。
    なかなかの人物であります。
    By妻

    堀辰雄旧居は、このあとじっくりお邪魔します。

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この旅行記へのコメント (12)

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  • 前日光さん 2023/02/09 11:32:48
    写真がひどいピンボケで。。。(^_^;)
    こんにちは、しにあさん お尋ねの旅行記です。
    これは後篇の方です。
    この前篇の軽井沢編と続けて読んでいただけると(写真はブレブレですが)
    一つにまとまります。

    堀辰雄文学記念館に少しだけ触れています。
         ↓
    https://4travel.jp/travelogue/10731821

    それにしても、なんでこんなにひどい写真ばかりなんでしょうね(>_<)


    前日光

    前日光

    前日光さん からの返信 2023/02/09 11:36:38
    RE: 写真がひどいピンボケで。。。(^_^;)
    前編「学生時代以来の軽井沢」です

         ↓
    https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10721272/

    よろしかったら、併せてご覧ください


    前日光
  • 前日光さん 2023/02/08 22:50:55
    風立ちぬ いざ、生きめやも
    しにあさん&by妻さん、こんばんは。

    堀辰雄!
    私の親友の卒論は「堀辰雄論」でした!
    我が大学の寮は旧軽井沢にありまして。
    なぜか国文科は一年生の夏休み、軽井沢ゼミに全員参加しないと単位がもらえませんでした。
    この話、以前にしましたっけ?
    もしもう聞いたよというのでしたら、面倒ですがもう一度聞いてください。
    まだ一年生だった夏休み、国文科全員が軽井沢の寮に集合、講義もありましたが自由時間もありました。
    それで友達が、堀夫人が住んでいるはずだから、ぜひ別荘に行きたいということで二人で出かけました。
    油屋も見たはずですが、ほとんど覚えていません。
    1970年の夏のことです。
    しにあさんの4年後に行ったことになります。
    花の女子大生二人、別荘の垣根の葉っぱをちぎって持って帰るのがせいぜいでした。
    夫人にお声をかける勇気はありませんでした。
    その葉っぱは、結構長いこと手元にありましたが、今はどこかに消えてしまいました。
    ひと夏の軽井沢の思い出です。
    まさに風立ちぬ、高原の夏は過ぎて。。。
    あーーあ、(T_T)
    それから何十年も経ってから堀辰雄記念館に行った旅行記は、写りの悪い写真ばかりですが、どこかにあるはず。
    そのときに懐古園の藤村記念館にも行ったのに、以前のPC買い換え時に、その写真が消滅!藤村記念館も懐古園もアップできませんでした。
    。。。という曰く付きの私の信州旅、でした。

    しにあさんと堀辰雄って、正直ピンとこないのです((_ _)ごめんなさい)
    もっと力強い人が好みなのかと思ってしまうのですが、開高健とか坂口安吾とか。。。
    でもいたってロマンチストなんですよね!
    資料を徹底的に調べる、ちょっと気が短い、とか、それこそサルトルとかボーボワールにハマっていたんじゃないのかと思うのですが、それがby妻さんだったという。。。
    世の中分からないものですね!
    だからおもしろいのですが(^_-)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2023/02/09 08:07:49
    Re: 風立ちぬ いざ、生きめやも
    ゼミのお話、初耳です。
    前日光さんは、堀辰雄巡礼者だったのですね。そうではないかと思っていました。
    夏なら多恵子夫人は、堀辰雄旧居にいたはずです。もう白い家はできていたはず。
    花の女子大生二人組、目に見えるようです。信濃追分で私たちがすれ違った娘さん、お二人の52年後のあとつぎが、旧中山道を歩いていたのですね。

    お友達の「堀辰雄」論は、70年代前半だと、まだ筑摩の全集が出ていなかったので、資料集めが大変だったでしょう。多恵子夫人の手記も最初の2冊くらいしか出ていません。その代わり中村真一郎や福永武彦などのリアルタイムの堀辰雄論を参照できたはず。

    葉っぱだけで、多恵子さんに会わずに帰ってきたのですね。それでよかったと思います。多恵子夫人が旧居を白い家ごと軽井沢町に寄付したのは、結局彼女一人では、旧居を訪ねてくるファンに対応しきれなくなったからだと思われます。
    それにしても、寒風をついて、夫人を訪ねてきた頬が真っ赤な少女は勇気があります。勇気を振りしぼっての決断だったようです。
    冬だったからでしょうね。冬はさすがに巡礼もいなくて、多恵子夫人も人恋しかったのではないか。

    ところで、1970年に信濃追分にいらしたときは、電車ですか。駅の跨線橋はあったか、覚えていませんか。
    横浜臨海公園さんから1978年には跨線橋はあったと教えていただきました。
    このブログ最初のコメントです。

    資料調べは私の趣味です。事実に基づいた浪漫主義とかいかぶっていただければ嬉しい。つまり限界があるということです。
    By妻のロマン主義は、ひたすら奔放な想像力をエネルギーとします。したがってどこまで広がるか、本人も知りません。

    堀辰雄記念館訪問記、4トラのブログになっていれば、場所を教えてください。
  • kummingさん 2023/01/27 08:55:26
    神がかり⁈
    しにあさん、by妻さん、おはようございます。
    この冬最大の寒波、寒さに凍えんばかりの毎日、年寄りの常で、朝方自然の欲求にあらがえず。二度寝の為にお布団に潜り込むまではいつものことですが、その時ふと、「最近ブログアップされていないよね⁈」と神様のお告げがありまして、、見つけました。20日⁈ 一週間前にアップされていた(*_*; 前置きはこの辺にしておきます。

    甘じょっぱい青春の物語、はじまりはじまり~、今回イントロですねぇ。1966年と言えば、私10歳の小学生。大学生の姉が、我が家に東京のかほりを持ち込み、漠然と東京に憧れ出した頃です。私も赤毛のアンに始まり→シャーロックホームズ、怪盗ルパン→アガサクリスティー等々、シリーズものにはまっていました。

    56年前の記憶をたどり、呼び起こすという!! 3か月前の記憶さえ消滅時効に迫られている身にとっては、想像を絶する壮大な試みです。

    信濃追分駅って、確かに「堀辰雄ってだあれ?」な私にとってはただの田舎の駅、とも言えますねぇ。線路を渡る前に下りる階段、列車が来るとすき間を覆う鉄板がかぶせられるシステムですよね?列車が発車したら、その鉄板が上げられて、階段通路に戻るやつ、以前久大線のJR駅にありました。
    4tr史上最上最高のイチオシ写真、思い入れの強さ、と、客観的事実、評価⁈ との乖離があるかもしれません(笑)

    バナナといえば、昔はおともだちの誕生会のテーブルに、必ず大きな人一房が、で~ンと鎮座しておりました、あの時代は高級果物だったのかも。今や安価で栄養価高い優等生の位置付け。
    作家さんのお宅を訪ねた事はありませんが、偶然にも遭ってしまったことはあります(何度もブログにアップしたので今さらですが)。20代で、大好きなギタリストのロンドンのお宅を訪ねましたが、もちろん会えませんでした。

    工事中の道路をずんずん歩くマイペースなしにあさんと、周りを気づかいつつ~歩を進めるby妻さん、その思いが旗振りのおねいさんにも伝わったのでは?

    ボーボワール、サルトル、カミュ、ハマっていた青春の想い出、流行ったのは私の少し前の世代でしたが、実存主義、響きからかっこいい。本質が理解できていたとは思えない、のはもちろんのこと。

    残念ながら、読んだことがない「堀辰雄」氏についてはコメントできませんシクシク…
    というわけで、「堀辰雄」氏をめぐる冒険シリーズ、生温かく見守ってまいりたいと思います(^^♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2023/01/27 11:25:46
    Re: 神がかり⁈
    こちらも寒かったですよ~ マイナス5度。そういう温度は想定されいない土地ですから、水道管が凍らないように夜通しチロチロと水を流しました。水道代が怖い。

    このシリーズは、堀辰雄のお話というより、多恵子夫人が主人公。多恵子の随筆を読んだ人は少ないので、直接引用を入れて、わかりやすくします。同じく堀辰雄も作品より、出した手紙、来た手紙がネタですので、引用入れます。
    引用が多いと読みにくいのですが、ものがモノだけに仕方がありません。
    10回くらいの予定です。増えるかも知れません。

    文学論などやる気なし。堀辰雄と多恵子の出会いから婚約までのいきさつとか、本邦初公開、週刊誌的ネタも出てきます。
    堀辰雄は、向島の自宅では、銭湯に行く時、「あたい、銭湯に行くわね」と江戸弁で言ったんですよ。こういう話満載でやります。

    鉄板を上げ下げする階段の踏切、見たことありません。ホームから階段を降りて踏切を渡って向こう側のホームに上がるやつは、普通にありました。
    久大線、いい響き。写真見たらディーゼルみたい。複線ですか?
    九州は毎回レンタカーですから、福岡周辺以外電車は乗ったことがありません。
    そのうち車の運転をやめたら列車で旅するブログをやります。その時はやってみたい「久大線の旅」

    作家に偶然会ってしまったというブログはどれですか?

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2023/01/27 11:25:46
    Re: 神がかり⁈
    こちらも寒かったですよ~ マイナス5度。そういう温度は想定されいない土地ですから、水道管が凍らないように夜通しチロチロと水を流しました。水道代が怖い。

    このシリーズは、堀辰雄のお話というより、多恵子夫人が主人公。多恵子の随筆を読んだ人は少ないので、直接引用を入れて、わかりやすくします。同じく堀辰雄も作品より、出した手紙、来た手紙がネタですので、引用入れます。
    引用が多いと読みにくいのですが、ものがモノだけに仕方がありません。
    10回くらいの予定です。増えるかも知れません。

    文学論などやる気なし。堀辰雄と多恵子の出会いから婚約までのいきさつとか、本邦初公開、週刊誌的ネタも出てきます。
    堀辰雄は、向島の自宅では、銭湯に行く時、「あたい、銭湯に行くわね」と江戸弁で言ったんですよ。こういう話満載でやります。

    鉄板を上げ下げする階段の踏切、見たことありません。ホームから階段を降りて踏切を渡って向こう側のホームに上がるやつは、普通にありました。
    久大線、いい響き。写真見たらディーゼルみたい。複線ですか?
    九州は毎回レンタカーですから、福岡周辺以外電車は乗ったことがありません。
    そのうち車の運転をやめたら列車で旅するブログをやります。その時はやってみたい「久大線の旅」

    作家に偶然会ってしまったというブログはどれですか?

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2023/01/27 11:28:01
    Re: 神がかり⁈
    例によってイミフの4トラ警告が出て、パスワード入れて送りなおしたら、同じのが2回出ました。どうなっているのか、4トラ事務局。

    kumming

    kummingさん からの返信 2023/01/27 15:19:48
    Re: 神がかり⁈
    九大線は単線?処により複線、とかってあり得ますか?天気予報じゃああるまいし(-。-;
    作家に遭遇したのはブログじゃなくて一枚の写真を何度か使い回しています。フィウミチーノがレオナルドダヴィンチ空港だった時代、例によってうちのバッカスくんが空港内のカフェでビール飲もうと立ち寄ったお店に座っていらした、村上春樹氏とバッカスくんの、貴重なTwo Shot 撮影by 私♪
    このシリーズ、長編になりそうですね? 期待してます^o^
  • 横浜臨海公園さん 2023/01/20 10:54:11
    信濃追分
    しにあの旅人さま、こんにちは。

    旅行記を何時も興味深く拝見させて頂いております。
    小生、信濃追分駅には今から45年前に初めて降り立った事がございます。
    中軽井沢駅は改称前は沓掛駅と称し風情豊かな名称だったものを、別荘業者の西武に阿り駅名変更したには少なからず不快感を抱いたものですが、信濃追分駅は名称も変わらず、駅周辺の雰囲気も昭和30年代そのままの風情が残り好ましく思っております。
    旅館油屋は、昔は軽井沢駅の駅弁販売も行っており、ゴルフ弁当などが知られた存在でした。
    兎に角、軽井沢の変遷には、ただただ驚かされるばかりです。



    横浜臨海公園

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2023/01/20 15:40:37
    Re: 信濃追分
    ご無沙汰しておりました。

    45年前というと、1978年。駅の橋はもうあったと思いますが、覚えておられますか。
    成田線フサ駅は1980年でも駅構内の橋はありませんでした。昔は線路に降りて反対側のホームに渡るというのは、ザラにあったと記憶しております。

    沓掛駅が中軽井沢などという物欲しげな名前に変わったのは残念な話です。
    信濃追分も、堀辰雄没後、年代は忘れましたが、西軽井沢にしようという動きがあったと、堀多恵子の回想記にありました。
    これはある詩人が猛烈に反対し、取りやめになったそうです。詩人の名前は書いてありませんでした。
    想像ですが、多恵子自身が反対したのではないか。信濃追分は、堀辰雄以外ほとんど何もない村です。その夫人が反対となると、相当な影響力があったと思います。多恵子自身は何も書いておりません。

    信濃追分は昨年2度行きました。雪の信濃追分を見たいので、2月にまた行くつもりです。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2023/01/21 12:03:59
    拝復
    しにあの旅人さま、こんにちは。


    小生の記憶では昭和53年(1978年)に信濃追分駅に跨線橋を利用した記憶があり、当時は設置済だったと思います。
    九州などでは延岡駅の如く昭和60年(1985年)に寝台特急列車停車駅ですら跨線橋が設置されておらず、驚かされた経験があり、合理化で駅無人化や職員漸減で設置例が多い様です。
    中軽井沢駅は昭和50年前半まで、今のようなチャラチャラした雰囲気は薄く、
    脇道などは未舗装な状態で昔の中仙道宿場町のイメージを色濃く残しておりました。
    西武が軽井沢開発を推進してからというもの、夏場などは正体不明な連中の汗臭い街へとなってしまいました。



    横浜臨海公園

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