2023/02/03 - 2023/02/03
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しにあの旅人さん
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更新記録
2023/03/30:犀星言葉の出典根拠分かりました。「辰雄、多恵子の母に会う」の見だしの項。
2023/04/11:加藤家には電話がなかった件確認取れました。「辰雄、多恵子の母に会う」の見出しあと最後。
タツオ峠から軽井沢方向。
堀辰雄と加藤多恵の出会いの場であります。
1937年(昭和12年)夏の二人の出会いから、翌年1月の婚約までの年譜を作りたいと思います。
By妻は「掘辰雄の人生を創ったのは多恵子なのね」と言っております。
辰雄は多恵子の手のひらから飛び立つドローンでした。あちこち旅して、へろへろに疲れて多恵子のもとに帰ってくる、その繰り返しでした。
多恵子がいなければ、「風立ちぬ」以降、「菜穗子」や「大和路・信濃路」を、掘辰雄は書けなかったと言っても間違いではないでしょう。
基本参考資料は「堀辰雄紀行1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます
投稿日:2023/03/05
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
信濃追分の村に素敵なものがありました。
道端の本箱のようなもの。 -
「夢の箱」
青空文庫のきまり
一 本の出し入れは自由です
一 借りる人は一冊にして下さい
一 本箱に有る本を自分の蔵書にされたい方は
代わりにご自分の本をお持ちになり
整頓して置いてください。
一 成人向けの雑誌・写真集及び宣伝広告は
置かないでください
一 ガラス戸は必ず閉めて下さい。
追分観光業振興会
追分正 -
右端に「岩野泡鳴集」がありました。
-
これが欲しかったのですが、残念ながら代わりの本を持っていませんでした。
次はなにか持ってこよう。
一書に曰く、
これはいいシステムだと思いました。
人間年とると、新しいことにはチャレンジしなくなりますが、読書傾向も同じようです。
年々歳々新人作家は誕生して、書評にそそのかされて、手に取ってみても、一度は読んでも繰り返し読む気にはならず。
ま、作家との相性というのもありましょう。
そういう本が、狭いわが家にのさばっております。
ゴミで捨てるということも、「字は神聖なり」で育った身としてはできかねるし。
次に行くときは、ぜひ持っていきたいと思っております。
By妻 -
信濃追分旧中山道には、食べ物屋さんを別にすると、お店がほとんどありません。これが日用雑貨の松葉屋。あとたばこ屋さんが1軒。
堀夫妻がここに住み始めたころも今と変わらなかったようです。
「雉子日記」によると昭和12年(1937年)では、追分には居酒屋と煙草兼駄菓子屋が1軒づつ。(筑摩第3巻P34)
松葉屋さんの先、右に折れて行くのが、信濃追分駅に行く道、停車場道です。当時は舗装されておりません。 -
旧中山道を堀辰雄文学記念館のほうに緩い坂をのぼると、左にキオスク。ちょうどいい休憩所です。
「夢の箱」のひとつはこの近くにありました。 -
私たちもここでお昼御飯。
By妻さん、せっかく写真撮ってあげるんだから、顎マスクとりなさい。
一書に曰く、
まったく、なんでby妻の写真なんて入れるのよ。
掘辰雄は、若くして亡くなったのだから、奥さんの年老いた姿をみなかったのですね。
これって、夢のような恋をした二人には、理想的な別れだったかもしれません。
友達が、最近、鏡を購入したそうです。10倍とかに拡大する鏡だそうです。
「まあ!あなた!きったないのよ!
わが姿ながら、驚いちゃったわ!」だって。
その後に、「昔は、自分ながら美しいと思っていたんだけれどね。」
と、続くのですが、まあ、個人の感想ですからね。
メデューサが、昔は清純可憐な美少女だったというのを、ご存知ですか。
ポセイドンに愛されたのですよ。
なのに、ああなっちゃった。
ギリシャ神話って、恐ろしいです。
人間の真実を語ります。
ということで、私の写真を見ると、
石になるぞー
By妻 -
キオスクから西、分去れ方向に緩い坂を下るとすぐ左が堀辰雄文学記念館。
10月11日、3連休あけですがだれもいません。 -
東、郷土館方向にも緩い坂。
ここは峠なのです。タツオ峠といいます。今回、私が名づけました。
一書に曰く、
わが家は、こういうふうに勝手に名前をつけて、本当の名前を忘れちゃったりしております。
人も、例えば、散歩の途中にいつも会う女の子が、ニコニコしているので、ニコちゃんとか、なんの芸もないのですが、ふたりで分かればいいのです。不思議なことに、名前をつければ、あの坂とかあの人とかいうよりも愛情がわきます。
愛情があるから、名前をつけたくなるのかもしれません。
どっちでしょうかね。
タツオ峠?には、by夫としては、愛着があるのでしょう。
By妻
昭和12年(1937年)夏、加藤多恵は弟俊彦とともに油屋で静養しておりました。
軽井沢に友人を訪ねた弟が時間になっても帰ってきません。心配性の多恵は外に出て弟の帰りを待っていました。堀辰雄と知り合ってすぐでしょう。
★その時も心配げに軽井沢の方を見ている私の傍らに辰雄は来て、心配することはないというようなことを言って慰めてくれ、弟おもいなんだなというようなことを言っていた。辰雄はこんな私にちょっぴり心を動かされたのだとあとになって言っていたことがある。★(返事の来ない手紙P62)
油屋の前に出て東を見ても、タツオ峠で先は見えません。このあたりまで来て多恵は軽井沢方向をイライラして見ていたのでありましょう。そのかたわらに辰雄は立ったのじゃないかと。
加藤多恵が堀多恵子になる端緒であります。 -
タツオ峠を下りて、堀辰雄文学記念館をとおりすぎて、約130m、左に「ささくら」というおそばやさんがあります。このあたりに昭和13年火事で焼失した油屋がありました。
-
現在の油やは旧中山道からちょっと引っ込んでいますが、焼失前の油屋は直接面しておりました。
-
「堀辰雄生誕百年」より。
昭和10年(1935年)の油屋です。焼失前ですから、分去れ方向から来て右側。正面がタツオ峠。 -
ここからは煩雑な資料引用になります。年譜作成というけったいな旅行記を読み始めた因果と諦めて下さい。
多恵の油屋滞在は7月末から8月29日
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多恵と俊彦の油屋滞在は1ヵ月でした。(来し方の記P79)
昭和12年(1937年)夏の終わり、加藤多恵は東京の自宅に戻り、すぐに堀辰雄に礼状を書きました。堀辰雄は油屋に住み着いておりました。
堀辰雄はこの礼状へ8月31日付けの返事を書いています。したがって多恵の帰京はぎりぎり遅くて8月29日であると思われます。即日手紙を書くと、31日には着くでしょう。逆算すると油屋滞在は7月末からとなります。
当時の郵便は現在と同じくらいの配達スピードでした。東京市内なら投函後翌日、すでに信濃追分駅は開業しており、村には郵便局もありましたから、遅くても翌々日には着いた。
7月末、多恵と堀辰雄の出会い
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多恵が堀辰雄を心にとめたのは、油屋で堀辰雄が同宿の先生と将棋を指していた日のこと、ひとりの青年が、
★「あの将棋を指しているどちらが堀辰雄でしょう?こちら側ですか」と聞いた。私は「むこう側よ」と答えたのだが、胸のうちでこっち側の筈はないじゃないかと思った。それが辰雄を私の心にとめさせた最初のことだった。★(返事のこない手紙P57)
なぜ「こっち側の筈はない」かは書いてありません。相手の先生がお年寄りだったのか。
辰雄がイケメンだったのか。
当時の油屋主人小川によると、21歳の掘は「眉目秀麗な青年」
萩原朔太郎は「堀辰雄は若殿様みたいで、美青年だ」と言っていました。(「詩人・堀辰雄」室生犀星、筑摩別巻2P217))
犀星自身も「堀辰雄は豊頬含羞のたわやかなものを多分にもっていた」(同P217) -
堀辰雄文学記念館常設展示図録表紙。
堀辰雄26歳です。眼鏡をかけていない掘は珍しい。フラッシュが眼鏡に光るのでしょう。みるからにカメラマンの指示で、若手作家のポーズを決めております。なかなかのイケメンです。展示図録の編集者が表紙にもってきたい気持ちは分かります。
By妻の好みではないそうですが。
それから7年後、将棋を指す堀はしぶくカッコよかったのではないか。
それなら分かる。
しかし多恵子は出会ったときはそうは思わなかった。
★無精髭をはやし、髪の毛をくしゃくしゃにして、両手を帯の間に突っ込み、背中を一寸まるくして、俯加減にいつも何か考えながら歩いていた辰雄に親しみを持てなかったのは、当然ではないかと思います。★(来し方の記P79)
一書に曰く、
無精髭?
おお!セルジュ・ゲーンズブールではないか。
昔のフランスの俳優ですが、いっつも酔っぱらっていて、無精髭の男でした。
が、色男の代表のアラン・ドロンよりも色っぽいと人気でした。
その無精髭が、午後五時の髭だとかで、頬に陰りがあるのがいいそうですよ。
イケメンがばっちい格好しているのは、母性本能をくすぐるのかもです。
By妻
多恵子24歳、辰雄33歳。このままなら、若い娘にはもっとも嫌われるタイプのおっさんです。
しかし彼が「風立ちぬ」の作者であると紹介されておりました。このあとすぐ親しくなります。
やっぱ、有名人は得だ。
おそらく多恵子が油屋についてすぐ、7月末のことでありましょう。
逆に堀辰雄がいつ多恵を意識したかは特定できません。
一書に曰く、
掘辰雄とのなれそめについては、多恵子さんの言葉通りに受け止めるべきではないですよね。
多恵子さんは、最初から辰雄を好きだったのだと思いますよ。
だって、「おもしろい小父さん」なんて、友達に言っていますものね。
小父さんという言葉が、クセモノ。
興味がなかったら、普通に掘先生とか、ほりさんとか。
必要以上に貶すというか、自分の感情とは遠い人よ。みたいなところがわざとっぽいでしょ?
By妻
多恵、座布団二つ占領
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油屋での多惠と弟俊彦の部屋は二階の六畳間でした。女一人の旅はできない時代でしたから、弟は多惠の護衛だったそうです。しかし俊彦は軽井沢などに遊びに行って、役に立たなかった。
多惠はいつも着物で、机の上に英書などをのせ、偉ぶっていたと、ご本人が書いております。
油屋には30~40人の若い受験生が勉強で滞在しており、多恵姉弟は階下の大部屋で皆と一緒に食事をしておりました。
辰雄は「先生」と呼ばれ、「お小姓の間」という自分の部屋をもち、油屋の主人と食事をしていたそうです。要するに別格だったということ。
一書に曰く、
ここいら辺りの描写は、まるで合宿風景です。
掘辰雄は、合宿に特別参加の先輩格。
ああ、こういうときって、ヤバイです。
そこにいた女の子みんな、催眠術にかかったみたいに、ころりと。
憧れちゃうんですよね-。
ぜーったいに、この頃から、多恵子さんは、堀辰雄がすきだったって。
By妻
★そんな私たちの部屋に辰雄が来るようになったのはどんな切掛けだったか思い出せないが、その小さい薄暗い部屋によくみんな集まって話をしていた記憶がある。私が膝の上にまで座布団をのせるので、一人で二つ占領することはないなどと言って笑われたりした。野村英生君や若林つやさん、三輪福松さんの顔を思い出す。★(返事の来ない手紙P58-59)
辰雄、多恵。多恵の弟加藤俊彦はのちの東大教授(経済学者、1916年- 2005年、当時21歳)、野村英夫(詩人、1917年-1948年、当時20歳)、若林つや(小説家、1905年-1998年、当時32歳)、三輪福松(西洋美術史家、1911-1998、当時26歳)
六畳の狭い空間に知性が密集しておりました。多恵さん、座布団を膝の上に抱き、ワクワクしながら1ヵ月を過ごしたのであります。
杉山美都枝
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第三者による、この夏のエピソード。杉山美都枝(若林つやのペンネーム)「掘さんの思い出」(筑摩別巻2P337)
★皆が少し遠くへ行く時は、その頃の加藤多恵子さんと私とは、いつでも連れていってはもらえなかったのです。「有熟児童はだめ」などと言い残して行く人たちを見送って、「くやしいわね、謀反を起こして私たちも軽井沢まで行きましょうか」などと言ってみてもやはりおとなしくひるねなどしながら、帰ってくる自動車の音をまちわびていました。★
有熟児童?
なんで有熟児童はだめなのかはわかりません。単に自動車の定員の問題ではないか。多恵にしてもつや子にしても、おとなしく残されるタマとは思えないのですが。
多恵子など辰雄の膝の上にでも座っていけばいい。
ハアレイダビットソン
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山下波郎は山下亀三郎(1867-1944、山下汽船創業者)の三男でのちの東京海上火災専務。
東大文学部英文科1年の時いらい掘辰雄に師事しておりました。加藤多恵の弟俊彦の親友。1937年(昭和12年)追分で多恵、俊彦を掘辰雄に紹介したのは波郎のようです。
波郎によれば、多恵は俊彦の勉強の監督に来ていたそうです。多恵によれば役に立たない護衛。
後日波郎は文学を諦め、親父のコネで東京海上火災に入社し、掘辰雄に報告に行きました。
そこで、辰雄が言うには、
★「海にはそんなに火災があるの?」私は身のおきどころもなく戸惑った。★(筑摩第4巻月報4P7)
掘辰雄はやはり一種の文学バカのようです。しかし火災保険をしらなくても、「風立ちぬ」「菜穗子」を書くのに一向に差し支えありません。
軽井沢では貸馬車屋でハアレイダビットソンやインデアンを貸していたそうです。似たようなものか。
波郎はそのハアレイダビットソンで追分の掘辰雄を訪問ました。
なおハアレイダビットソンやインデアンも、オートバイです、By妻さん。←この人は車音痴で、赤いブーブー、白いトラック程度の分類しかできません。
一書に曰く、
ハアレイダビットソン?
お高いのでしょうね-。
戦前の軽井沢では、ニューグランド・ロッヂでダンスパーティーがあって、白洲次郎、正子夫妻が、お揃いの白いタキシードの上着であらわれたり、フランス語で語り合うカップルがいたりしたそうですよ。
雑誌Karuizawa vignette(2022年下巻、軽井沢新聞社)で読みました。
By妻
2人はほぼいつも一緒
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この夏、多恵子と辰雄がどのくらい一緒にいたか、数えてみました。
タツオ峠最低1回
辰雄は、いやがる多恵子を軽井沢の室生犀星別荘に連れて行っています。3,4回だそうですが、4回とします。(来し方の記P80)
矢野良子(よしこ)に多恵を会わせています。良子は矢野綾子つまり「風立ちぬ」のモデル節子の妹、当時12歳くらい。1回。
矢野綾子の父が訪ねてきて、多恵子を紹介しています。1回。
6畳の小部屋でだべっていたのは、1回や2回ではすまない。週3回、12回としちゃおう。
浅間登山道の散歩、少なくとも2回。
測候所、浅間神社、歯痛地蔵にも行っている形跡あり。2回。
これだけで23回。30日間でこれだけは確実。最初の頃はまばらとしても、最後の辺りはほとんど2人一緒にいたでありましょう。
油屋主人小川誠一郎は、1年後掘が結婚したと聞いて、すぐ相手は分かったと言っています。(筑摩別巻2P335)
辰雄が多恵子に惚れていたのは、最初からバレバレだったようです。 -
二人の立ち回り先、測候所と浅間神社にも2月に行ってきました。夏の話しなのに冬の写真で恐縮です。
-
「軽井沢特別地域気象観測所」です。ここは堀辰雄に縁がある場所なのです。
2009年(平成21年)に現在の長い名前になりましたが、それまでは「軽井沢(追分)測候所」と呼ばれておりました。 -
堀辰雄文学記念館常設展示図録より。
図録によれば「昭和12年(1937年) 加藤多恵と追分測候所裏にて」となっています。
堀辰雄と加藤多恵が知り合った夏の写真です。
この写真は1949年(昭和24年)の「文学界」11月号「私のアルバム」と題するグラビアページにのりました。
★左の写真はもう十年くらい前になるかなあ。場所はやはり追分の山中。そばにゐるのは新妻(多恵子)との一家団欒図だが、山羊は借りもの。(故野村英夫の撮影)★
写真への掘自身による説明です。(筑摩第7巻P650)
1937年(昭和12年)ではまだ2人は結婚していないので、「新妻」というのはおかしい。
1938年(昭和13年)からは夏は軽井沢の別荘で2人で過ごしています。夏に追分に2人でいたのは1937年だけです。
「翌年妻となった」と読みかえることにします。
1949年の回顧です、要するにこの夏会ってすぐ、多恵子を妻にすると辰雄は決めていたということですね。
野村英夫(1917-1948)は堀辰雄に心酔した詩人でした。ついて回ったようです。 -
測候所のむこうの浅間。ずいぶん近く見えます。現在の追分は街道沿いに木が高く茂って浅間は見えないのですが、森が途切れればこんなに大きく見えるのです。
堀は「菜穗子」で、
★浅間山は私たちのすぐ目の前に、気味悪いくらゐ大きい感じで、松林の上にくっきりと盛り上がってゐた。★(筑摩第2巻P340)
と三村夫人に言わせていますが、これなら分かる。 -
びっくりしたのは天候の変わりやすさ。これは12:35の浅間。
-
12:50の浅間。
ぐるーっと回って、もう一度写真をとりにきたら、もう浅間は雲に隠れていました。 -
浅間神社。
神社の右となりが追分郷土館、その背後が旧測候所です。
測候所も浅間神社も、油屋で出会ったばかりの堀辰雄と加藤多恵の散歩先だったのです。
★堀はその夏、たくさんの仕事を抱えていたらしいが、一向に自分の部屋に閉じこもる様子もなく、私たちとぶらぶら遊んでばかりいた。追分の原、といっても本陣の横を少しのぼればもう原っぱだったし、そこには野の花がいろいろ咲いていた。弱虫の連中が散歩をしたのはその原とか、せいぜい泉洞寺の裏とか、分去れとか、測候所、浅間神社ぐらいだった。★(来し方の記P11)
一書に曰く、
掘辰雄という人は、知性的な、自立した女性がお好みだったようですね。
亡くなった婚約者、矢野綾子も美術を志した人でした。
二人で、あちらこちら散歩していますが、その間、辰雄ばかりが話し続けたはずもなく、多恵子も辰雄に対等に語り合ったはず。
多恵子の英語、英文学の知識は、作家掘辰雄に、一目置かれるほどであったのですね。
この時代でも、芥川など、本の上で英語に堪能な作家はめずらしくありません。でも多恵子はしゃべれるのです。
By妻 -
この8月31日の手紙以降、12月30日日付まで、9通が多恵子に送られました。この手紙をもとに再構成されたのが、「七つの手紙-或女友達に」です。昭和13年8月発表。
「七つの手紙-或女友達に」は筑摩版堀辰雄全集第3巻に収録されています。
オリジナルの9通は第8巻「書簡」昭和12年の項にあります。
以下「筑摩書簡281」とかあるのはこの巻の書簡番号です
これとは別に堀多恵子「来し方の記・辰雄の思い出」の最終章「堀辰雄・妻への手紙」で多恵子の解説付きで読むことができます。
引用はこれに基づきます。「九つの手紙」とします。
「九つの手紙」1,2,3は油屋から出されました。4は向島の堀の自宅から。一次帰京の事務連絡のようなもの。11月19日に油屋が火事で全焼し、とりあえず軽井沢のつるや旅館に避難。5はつるや旅館から。宿無しになった堀に川端康成が好意で軽井沢の別荘を貸してくれました。6から9は、その川端康成の別荘から。ここで「風立ちぬ」の最終章を書き上げます。
4,8を除く7編はほぼ「七つの手紙」に対応します。
「七つの手紙」の一と三に出てくる山梔子(くちなし)嬢は恩知三保子。
三で、くちなし嬢を含む14,5人で押し掛けてきて堀辰雄に油屋を案内させ、堀の使っていた部屋まで来て、多恵からもらった食べ残しのマロングラッセを覗いていった女子大生とは、とん女の学生です。この近くに東京女子大の学生寮がありました。堀はとにかく若い女には優しかったそうです。
「九つの手紙」の五、六「七つの手紙」の四、五は三保子と多恵連名で出されています。三保子は多恵の消息報告係だったと、後年三保子自身が書いています。(筑摩別巻1月報8P5 )
堀が「九つの手紙」をもとに「七つの手紙」を書こうと思ったのは、
★前に恩地さんのお父さんが僕の手紙を君達(三保子と多恵)だけでよむのは惜しいから「書窓」(恩地孝四郎が主催している雑誌)に出したいなどといっていたのがいけないのだ。★(堀辰雄・妻への手紙14)
孝四郎は娘への手紙を読んだわけで、それはそれで親子で一悶着あったかもしれません。でも雑誌の編集者としては、娘への手紙より堀辰雄の手紙であることが大事だった。
「堀辰雄の作品を2人だけで読むとは、けしからん」と思ったのは理解できます。
銀座でデート
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11月7日堀辰雄は書き上げた「かげろうの日記」を出版社にとどけるため上京。15日に信濃追分に戻りました。以上佐藤恒子宛手紙筑摩書簡259、261より分かります。
「九つの手紙」4/筑摩書簡260/11月10日付けによると、9日多恵子と会っていますが、詳細不明。「大勢でよくお話も出来ず残念でした」とあります。
14日に多恵子、恩知三保子と室生犀星自宅を訪問。
この時、恩知三保子によれば、銀座の濱作で「蛤の酒むし」を堀が2人に御馳走しました。粋な料理だったそうです。
★そのあと洒落たコーヒー店で、堀さんは静かに二人のおしゃべりを聞いていらしたが、なんのきっかけか、手相の比べっこをしたりした。堀さんも楽しそうだった。★(別巻1月報8P5)
後述のように三保子は多恵子の情報提供係でした。
この葉書で向島の自宅の電話番号を伝えており、電話があったことが分かりました。
11月19日に油屋が焼けて、本をすべて失った堀辰雄に多恵と三保子が本をお見舞いに送りました。
「九つの手紙」6/筑摩書簡273で堀は二人に礼を言っています。
この本を2人で三越で買ったとき、本に添えてドイツ製の色鉛筆や金平糖などを送りました。
三保子は、
★そのときの多恵子さんの気配にただ知人の災難へのお見舞い品を選ぶのとは違う何かを感じとって「おや」と思った私の勘は当たっていた。★(筑摩別巻1月報8P6)
掘辰雄のラブレター
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「九つの手紙」はラブレターです。しかし、もらった多恵によれば、
★楽しかった夏が終わり、私は東京に帰った。帰ってすぐ礼状を書いた。それから何通かの手紙のやりとりがあって、それも恋ぶみらしい手紙ではない。私はただ仕事の話を聞かされているだけのようないく通かの手紙、そんな手紙を胸をおどらせながらも困惑の思いで読み、そして返事を書いていた。そして結婚した。★(返事の来ない手紙P62)
たしかにどこにも「愛している、結婚しよう」とは書いてありません。
しかし「風立ちぬ」の作家が、そのまま作品になるくらい精魂込めて書いた手紙を9通もらって、ころっとならない女はいません。
堀は「九つの手紙」九で、「風立ちぬ」の最終章「死のかげの谷」が完成したと書いています。手紙の日付は12月30日、多恵は編集者より前に「風立ちぬ」の完成を知りました。
この最終章の題名は「幸福の谷」だったのですが、聖書詩編第23編4節にある一句から「死のかげの谷」に変わったいきさつなど、多恵は知らされました。
「七つの手紙」七には、「風立ちぬ」の完成は書いてありますが、「死のかげの谷」のことは書いてありません。
「こんな大事なことを君だけに教えてあげるんだよ」と言っているわけで、意味は「愛している」と同じではないか。
多恵は年末に風邪を引いたようです。「九つの手紙」九は「お風邪はどうしましたか?」ではじまります。「七つの手紙」七よりはるかに長く、「風立ちぬ」に関わる、多恵のいう「ただ仕事の話を聞かされているだけのような」しかし後年の堀辰雄研究者には極めて重要な話が続いて、終わりは、
★君が病気だと思ってながながと書いてあげました 君がもう癒ってぴんぴんしゐると損だなあ でも損をしたって、その方がずっと好いんだけれど・・・」★(原文句点ナシで空白、読点あり)
かなり手のこんだラブレターです。 -
平成22年(2010年)4月、堀多恵子は亡くなりました。堀夫妻の養女菊池(旧姓掘)和世が遺品を整理し、未発表の多恵発辰雄あて書簡4通を堀辰雄文学記念館に寄贈しました。二人が婚約にいたるまでのいきさつが書かれています。
★生前母は父からの手紙は自分がいなくなってから、記念館に渡してほしいと強く願っておりましたので、これらの手紙はあまり表に出したくないと考えていたのでしょう。
私も公開することをしばらく躊躇(とまど)いましたが、堀文学の研究者の方々にとって、少しでも、お役に立つことが出来ればと考え、記念館にお渡しいたしました。★(堀辰雄文学記念館常設展示図録改訂新版P3)
単なる堀辰雄マニアである私にもきわめて貴重な資料で、菊池和世に感謝いたします。もはや一私信ではなく、日本文学史上の共有資料であるとの判断でありましょう。
これを池内輝雄が書き起こし、平成31年(2019年)3月発行の堀辰雄文学記念館常設展示図録改訂新版に掲載しました。
わずか4年前公開の新資料です。
記念館に確認しましたが、残念ながらこの4通は目下のところこの展示図録でしか読むことができません。なんとか記念館のHPに掲載できないか、お願いしておきました。
運命の38年1月半ば
▲▼▲▼▲▼▲▼▲
多恵→辰雄
向島の辰雄実家あて
未発表1/1月6日付け(堀辰雄文学記念館常設展示図録改訂新版P35、以下ページ番号のみ)
婚約についての記述なし。ただ、
★始めに 決めた事をその通り実行なさりさうでもあり なさりそうでもなし よく解らないので★
なにやら不満げです。続いて、
「今朝(6日朝)待望の(マンスフィルドの)御本頂戴致しました」とあります。「九つの手紙」九で堀がマンスフィルドの英文原書を買って持って行くと書いていますが、結局送ってきたので、約束が違うと言いたいのでしょうか。会いたかったということになります。
マンスフィルドは多恵が読む前に母の静が読みました。(静の名前の出典「山ぼうしの咲く庭で」P43)
★少しは読めるつもりだからおかしくなる・・・なんて言うとバチが当たるかな。★
確実にバチがあたります。
静は、静岡の英和女学校、東京の英和高等科(現在の東洋英和女学院大学の前身)卒、芸大の前身でオルガンを修めております。(来し方の記P25)
日本郵船の社員である夫つまり多恵の父親と共に10年の香港生活の経験もある。クリスチャンであり、英語ができ、当時の日本女性としてはきわめて視野が広く、高学歴かつリベラルな人物でありました。
なお多恵子は母親を「ママ」と呼んでおりました。大正から昭和10年代の日本です。
この時期多恵は某子爵令嬢の英語家庭教師をしていました。
★明日は私の仕事始めで出かけなければならないので 駄目 子爵様の令嬢でも家庭教師を酷使して 松の内から 勉強始めるので嫌になります。人に使われるのはあんまり好まないので
でも女って 人のwifeになると言ふ事は 使ってもらいに行く様なものかもしれないけれど。★
何を言いたいのか。結婚は嫌だと言っているのか、はやくwifeにして使ってくれという意味か。
言う事が矛盾しております。
辰雄→多恵
向島の辰雄実家より
妻への手紙11/筑摩書簡287/葉書/1月10日
4日に帰京、風邪ひいたそうです。
「そのうちそちらへ遊びにゆきます」とあります。 -
辰雄→多恵
向島の辰雄実家から
妻への手紙11/筑摩書簡291/1月27日
★この間はどうも遅くまでゐて、★
で始まります。
「この間」とはこの手紙のなかに、
★あの翌日、油屋(の主人)が上京しました、室尾さんのところへつれていったり、三浦のところで田部先生やなどと落ち合ったり、いろいろ忙しい目に遭ひました。(油屋の)主人は二十日に帰りました。★
とあるので、20日以前、1月半ばとなります。
この日、堀辰雄は多恵の家に行き母親静に会いました。多恵を嫁にもらいたいと言いに行ったのです。
恩知三保子の証言があります。
恩地家は加藤の家のすぐ近くにありました。
★翌年(昭和13年)の一月下旬、切迫した空気にのって多恵子さんが訪ねてみえ、「今、堀さんがうちに来ているの」と唐突に言われた。これだけで充分だった。お二人が結ばれる運命にあるとことを予感していた私は、ぜひお受けになるように、と言ったらしい。そのことについて、堀さんから巻紙に筆書きの長い礼状をいただいた。★(別巻1月報8P6)
1月下旬は三保子の記憶違いでしょう。10日程度のずれです。堀辰雄は三保子をキューピッドと思いました。「礼状」ですから、この日で事実上2人の婚約は成立したことになります。
巻紙の長い手紙は、後日三保子が結婚前、他の手紙とまとめて焼いてしまいました。残念。
非常に不思議なのは、この日の堀辰雄の出で立ち。
上記手紙の続き。
★この間はどうも遅くまでゐて、あれからすぐ駅のなかで恩地先生にすれちがったらしかったが、お互いに気がつかなかった。恩地先生のお手紙によってあとでそれを知りましたが先生の方では僕が無精髭を生やしていたので僕ではないと思われた由、無精髭が僕のお得意なことをご存知でなかったと見える、★
無精髭で、娘との結婚を申し込みに母親に会いに行ったんですね。
室生犀星は、堀辰雄はお行儀はよくなかった、とは言っております。
★主人は他人様の前で本当に話もできなかった人で、中央公論賞をいただいたときも、ただ頭を下げただけの人でした★(山ぼうしP301)
改まると、初対面の人とは口もきけないような人物でした。
堀辰雄が多恵に惚れているのを知った矢野透(「風立ちぬ」のモデル節子の養父)や室生犀星が「はやく結婚を申し込め」と辰雄に相当プレッシャーをかけたらしい。
一大決心をしてやって来た辰雄ですから、髭なんか剃るのを忘れた可能性はあります。
軽いどもりだったそうです。
辰雄と静がどのような会話を交わしたか。
多恵によれば(山ぼうしの咲く庭でP119)
★結婚の申し込みは母のところに来たんです。母に会いたいと言って来て、私に「お嫁に来い」とは言わなかった。そういう言葉は聞いていないと思います。堀さんとすれば私が「うん」と言っても親が許さないというのがまず頭にあったんじゃないですか。母が「いい」といえばこの人は俺のところへ来る、その点は自信があったんですよ、きっと。★
将を射んと欲すればまず馬を射よ。
しかも後述のように予告なしにいきなり行ったみたい。静としては心の準備ができていない。不意打ちです。
向島の堀辰雄の実家には電話がありました。加藤家にはなかったようです。予告なしに行く正当な理由にはなります。室生犀星あたりの入れ智慧ではないか。堀辰雄はフィクションとしての恋物語を書く事はできても、自分の恋に関しては、そんな才覚と度胸があるとは思えない。
「掘が多恵子といっしょになったのは矢野のおっさんのおかげ。一人じゃそんな勇気はない」と室生犀星がどっかに書いていました。残念ながら出典のメモがありません。出てきたら追記します。
出典分かりました。来し方の記P81。
★そのころは文士のところには嫁にやりたがらない時代なんです。今と時代が違いますからね。文士なんてのにはろくな人がいない、うちの親なんかも思っていたと思うんですよ。で、母が堀さんに聞いてましたよ。「なぜ、佐藤春夫さんと谷崎さんは奥さんを交換したんですか」ってね。そういうことは、母なんかが考えると許されることではないわけ。(中略)私は生意気なことは言いませんでしたが、母は気にしていましたから、堀さんが説明していました。★
堀辰雄としては困ったでしょうね。文壇を代表しているわけではない。どう説明したか多恵は書いていませんが、佐藤春夫には兄事しておりましたから、この事情には詳しかったでしょう。
多恵子によれば、静は「文学には何等の興味ももたない様な母」だったそうです。(未発表3P42)
この会見は結局、
★そのとき母が「本人が行きたいというのならば、どうぞよろしくお願いします」と言ったらしいの。★(山ぼうしP119)
で終わりました。
「らしい」って、ご自分の結婚なのですが。
そういえば、会見の席、一時多恵は三保子の家に駆け込んでいたのです。
自分の結婚話に、本人が席をはずしていいんですかね。
年譜作成の結論。
このあとしばらく堀辰雄と加藤静は会っておりません。したがって、婚約は1月半ばのこの訪問で実質的に成立したものと考えられます。
2023/04/11追記。
加藤家には電話がなかった確認が取れました。
「野ばらの匂う散歩道」P146に、1941年(昭和16年)ごろのことですが「私の家には電話がなくて」と言っております。 -
多恵→辰雄
未発表2/署名1月28日/消印1月30日/展示図録P36
★お手紙有り難うございました 毎日手紙書きたい書きたいと心の中で思ってゐるだけで、とうとう今日になってしまいました
この間は折角来ていただいたのに、何のおかまひも出来ず申し訳ありませんでした 遠い遠いのに無理矢理に来て戴いて、でも又来てください こりないで
突然おいでになるとは 夢にも思ってゐなかったので待機の姿勢が取れなかったわけなのです。★
妻への手紙11/筑摩書簡291/1月27日への返書です。
27日に向島発の手紙が翌日杉並に着いております。当時の日本の郵便配達は現在と同じスピードだったのです。
多恵はすぐに返事を書きましたが、発送は30日の消印です。書いたものの、発送をためらったのでしょうか。 -
手紙そのものの写真がP39にありますが、簡単な訂正が数カ所だけです。推敲した形跡はありません。
1月半ばの婚約申し込み以来、十数日たっています。
多恵は何をためらったのでしょうか。
「遠い遠いのに無理矢理に来て戴いて」とあります。母親静が堀辰雄を呼びつけたのでありましょう。
辰雄の実家には電話がありますから、手紙は残りません。
「突然おいでになるとは 夢にも思ってゐなかったので待機の姿勢が取れなかったわけなのです」
予告なしに来ております。加藤家には電話はありません。
多恵が風邪をひいたようです。辰雄の風邪の話などのあとに、
★三保子さんとも数日前いろんな事話し合いました 堀さんの事も。
私も長い間ママに縁談の事で心配させて来たので今度こそは、お嫁さんにならなければならない様です いつまでもかうした生活をしてゐて 楽しく 心配もなく気苦労もなく くらしたかったんですけれど 周囲のぢいさんばあさんが自由にさせておいてくれません。 父親がないと 世間の人はいろんな干渉をしたがる様ですねえ 私までもその封建的な思想のうちに引きいれられてゆく様で いやな 不愉快な気持ちがします しかし 結婚生活に入ることがどれだけ不幸なものかは 私にはまだ わからないけれど 誰の女房になっても きっと私は困らないわね ぢやないかしら? 私の様な女房を持った人は きっと幸福だろうと思ひます 又それだけ私は幸福になれないかもしれないけれど・・・こんな事申し上げる事ないのかもしれないのですけれど 一言もお話し しないで 他人のうちに行ってしまふの いやだったので一寸書きました でも これもそんなにすぐってことはないので 大いにその間遊びたいと思っています。★
この時期多恵に縁談があった事が解りました。
1月半ばの堀辰雄の訪問で話はついたはずですが、縁談についてなにやらごちょごちょ言っております。つまり母親はいいと言ったのに、多恵自身が迷っているという事らしい。好きな男から結婚を申し込まれて、いざとなったら躊躇するということは、若い女の心理としてあるモノなのでしょうか。
手紙を書き起こした池内の解説によれば、
★堀辰雄に対してもっと積極的に働きかけてくれることを要請しているようにも受け取れる。★(展示図録P42)
「はっきりして!じゃないと、私はほかにお嫁に行っちゃうわよ!」と脅しているということか。
しかし多恵子という人は、その後の言動からして、この種のかわいい小細工を思いつくタイプではありません。やはり戸惑いがあったのでしょう。
この戸惑いの原因は、次の手紙でほぼ見当がつきます。
一書に曰く、
結婚というのは、人生で何回もない曲がり角ではないかと、私としては思うのです。
人間、どの学校に進むのか、どういう仕事に就くのか、岐路は何度もありますが、結婚もそのうちのひとつですわね。
しかも一番の。
人間毎日一生懸命歩いているのですが、この道がどこに通じているのか、どういう道なのかは、過ぎるまで一切分からない。
ポコリと、穴があって落ちるかもしれない。
中央高速から東名高速に高級車で、すっと曲がれる人もいるでしょうけれど、曲がったつもりが、田舎道に出ちゃって、ぬかるみで、車は側溝にはまっちゃうかもしれません。
学歴もない貧しい男と結婚しても、日本の宰相夫人になれた人もいますし、有名商社員、しかもニューヨーク勤務の男と結婚して、勝ち組だと思っていたら、その男が、ニューヨークのいかがわしい場所で、いかがわしい理由で殺されてしまった妻もいます。
まことに、結婚というのは、女にとって賭です。
多恵子さんが、迷うのは、わかります。
By妻 -
多恵→辰雄
未発表3/2月3日付け/向島あて
★昨日はお寒い處わざわざおいで戴いて誠に有り難うございました
いろいろとお話し伺って実のところどうしてよいのか 自分には解りませんでした
帰宅致しまして母や弟に 一応お伺ひした事をはなしましたところ 母はそれでは一応 今ある縁談をまとめ様としてゐて下さるかたに 一時中止にして戴く様に お願い致そうと申して今手紙を書いております★
堀辰雄は、1月30日付けの結婚OKなのかどうか意味不明瞭の手紙を、31日に受けたはず。
2月2日多恵に会いに来ました。たぶん驚いてとんできたのでありましょう。
「帰宅致しまして」とあるので、加藤家ではなく外で会ったようです。
この日、多恵は辰雄の求婚を受け入れたことになります。
母親はすぐに縁談断りの手紙を書き始めたとあるので、静は2人の結婚をすでに認めており、覚悟を決めておりました。ぐずぐずしていたのは多恵自身であることが解ります。
静は、自分は娘の結婚にOKだが、決めるのは娘自身、迷うだけ迷えと、考えていたのです。1938年(昭和13年)の母親です。
★冒険して 良く知らない方と結婚するよりか わかって下さる方の處に行った方が良いとは思ってをりますけれども 静に考へてみると 昨日もお話しした様に 自分は文学者の妻に全くふさわしくないのではないかと思はれて それが心配でなりません。★
要するに多恵は「風立ちぬ」の作家の妻になる自信がなかったのです。
★私には 堀さんのやっていらっしゃる純文学と言った様なものも 私には理解出来ないのではないのでせうか。堀さんが私が女子大の英文科を出たという事も手伝って お嫁さんにしようとお思いになると きっと失望なさる時が来ると言ふ事をよく解って戴きたいのです。
今までに何度も結婚をすすめられて来たとき 理科の人の處に行きたいとお断りしてゐました
私の性格をよく知ってゐて下さっての上ならば私としてはなにも異存はないわけなのです 矢野さんがおいで下さる日を待って よくお話しを伺いませう。昨日一寸こん事(原文ママ)も考えました 矢野さんが私を気に入って下さって 堀さんご自身は大して乗気ぢゃないのではないかと思ったりしてゐます―――。
文学に就いて お話しする事は出来なくとも よき世話女房にはきっとなれますけれど 少し自信がありすぎますかしら。★
買いかぶられているのではないかと不安だったようです。この期におよんでなにやらぐずぐず言っておりますが、結婚を決意する女心というモノはこんなものでしょうか。
しかし最後は「よき世話女房にはきっとなれます」と啖呵を切っております。
最初からそう言えばいいものを。
文中の「矢野さん」とは「風立ちぬ」のモデル綾子の父矢野透。矢野は多恵を名目上矢野家の養女にしてから堀と結婚させる事を希望しておりました。
一書に曰く、
多恵子という人が、どのような人間であったのかは、辰雄の亡くなった婚約者、矢野綾子の父親が、自分の娘として多恵子を、掘に嫁がせたいと申し出たという一事でわかります。
そして、そうまでしても辰雄と縁を結びたかったということも。
この二人は、それぞれに、愛され、信頼される人だったのですね。
By妻
辰雄→多恵
筑摩書簡293/2月4日/向島より
2月3日の多恵の手紙への返書です。
冒頭は
★2月3日付けのお手紙、只今読みました。君のお母さんがなかなか僕なんぞのところに君を寄こしそうもないと一番恐れていましたが、君の気もち一つでご承諾下さりそうなので、本当に安心しました。★
1月半ばの訪問で加藤静が結婚を事実上認めていたことが確認できました。
多恵をよく理解した上で求婚したと、多恵の不安を取りのぞきます。
手紙の最後に、僕の仕事そのものなんぞは分からなくていい、それが馬鹿々々しいものでないと信じてくれたらよい、と言った上で、
★作品のいい悪いに拘わらず、苦しんでした仕事の報酬としては、さういう無批判に仕事のあとの僕をねぎらってくれる、温かい胸が何よりなのです。ずっと前に死んだ僕のお母さんのやうに、又、死んだ綾子だってさうであったやうに。★ -
手紙のなかで「風立ちぬ」のモデル節子の臨終が語られます。
「風立ちぬ」には節子の最期の場面はないのです。「風立ちぬ」の副読本として、この手紙は必読です。
筑摩第8巻で読むことはできますが、ここであえて引用します。
★さっき書かうと思ってゐて忘れましたが、綾子は死んで行く前に、僕のゐる前でね、お父さんに僕にいい人を持たせて上げて下さいと言ひ残していったのです。それがもう最後の言葉になりはしないかと思ふほど、死を前にして苦しんでゐましたが、それから突然「お父さんも本当に好い人だったし、辰ちゃん(綾子もいつのまにか僕の事をさう呼んでゐました、君もそのうち僕をさう呼ぶやうにさせてやるから)も本当に好い人だったし、私、本当に幸福だった」となんだかそんな苦しみの中から一所懸命になって言って、それからそのまま最後の死苦のなかに入っていきました。★
辰雄、告る
▲▼▲▼▲
辰雄→多恵
筑摩書簡295/2月5日/向島より
前日の筑摩書簡」293/2月4日付けの確認です。
加えて、
★僕の君に対する一見淡々としたる如き、しかし中身の一ぱいつまった愛情を、何より信じてくれたまえ。そんなのは、今さら言ふも愚か、君にはこれまでだってよく分かってゐたにぢやない?―――頸など振ると、それこそ僕は怒るよ。★
初めて素直な愛の告白です。
多恵子決断する
▲▼▲▼▲▼▲
多恵→辰雄
未発表4/2月6日付け/消印2月7日
前述の筑摩書簡295/2月5日付けへの返事です。
★私も私達の事に就いて いろんな事伺ひたいんだけれど まだ遠慮しておく。
怒られちゃった様な すかされた様な お手紙 戴くの恐いから――。★
「怒られちゃった様な すかされた様な お手紙」というのは「僕の君に対する云々」のことでしょうね。なにやらうじゃじゃけているような感じもします。
★さて 私が堀さんの奥さんになったら、悲しんだり怒ったりする人が沢山出てこないかな なんて考えてゐます。さう考えると 私は日本一の幸福者ってわけですね。亡くなった綾子さんの最後の希ひに叶う様な奥さんにならなければならないわけね★
「悲しんだり怒ったりする人」確実にたくさん出てきたでしょうな。堀辰雄は現在と同じで、若い女たちに人気があったのです。
多恵子さん、一日で随分自信をもった感じ。やはり直裁に告られたというのが、大事だったのではないかと。
堀辰雄も落ち着きました。
佐藤恒子あて封書/筑摩書簡294/2月4日付けでは、
★のっぴきならない用事もきのふで片づき・・・★
「のっぴきならない用事」とはもちろん婚約。
立原道造あてはがき/筑摩書簡296/2月6日付けでは、
★なんだか僕のところはまるで「四季」同人の結婚記念品承り所みたいだね。僕の分は当分内緒にしておいてくれないか。★
このあと昭和13年4月17日、室生犀星夫妻の媒酌で2人は結婚式を挙げました。
堀辰雄と加藤多恵子の婚約は昭和13年2月と言われております。しかし1月半ば、母静の承諾で、実質的に2人の運命は決まったというのが結論です。
2週間ほどずれて何か堀辰雄の文学に影響があったかというと、一切ありません。
しかし年譜というのは日、場合によっては時間まで確定するために、重箱の隅をつつき回すモノだと思っています。
もう一つ。
堀辰雄文学を論じるときに、堀多恵子を除外することはできません。そもそも「風立ちぬ」以降堀が作品を書き続けられたのは、多恵子の献身的な協力、看病があっての事です。
したがって2人の婚約の日とそのいきさつを確定しておくのは、多少の意味があるかなと思っています。
一書に曰く、
掘辰雄も、あんな澄ました顔して写真におさまっていますけれど、女性に心を奪われて、結構焦ったり、ムキになったりしたんだなあ。
あ~ァ、読まなきゃよかった掘辰雄のラブレター。
特別にファンではなかったけれど、いいなあ!多恵子さん。
いい男は、女を見る目もあるんだわね。
よかったね。たっちゃん。良いお嫁さんもらって。
By妻
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この旅行記へのコメント (9)
-
- kummingさん 2023/03/16 13:50:40
- 遅れて参りましてm(._.)m
- ご無沙汰しておりました、さっきタイムラインで新作を見つけやって参りましたら、その前にこちらを見落としていた(*_*)
「夢の箱」システムも名前も、良いですね。私は読んでみたい新刊は図書館に買ってもらって⁈読みます。ハズレも多いけど、当たりでも最近は買いません(笑) 以前、ダンボールにまとめていた本にカビが生えてしまい、以来増やさないで徹底、何度も読み返すお気に入りも、何度も借りて期限延滞、多分図書館のブラックリスト入りしている?
場所や通り、人に名付ける名付け親ですね。それって愛称、あだ名、みたいものでしょうか?人をあだ名で呼ぶって、その人に愛着がある証でしょう。しにあさんの場合はその対象が人~場所~通り、と範疇が広いんですね。情が深い? お二人の間で通じれば良い、という事ですが、名前が出てこなくて「ほら、あの◯△な人!」とか言ってしどろもどろにならなくて便利。2人だけの隠語、良きよき~
「年譜作成というけったいな旅行記を読み始めた因果」おっしゃる通り、因果応報とはこの事か⁈ と、肝に銘じているところ(-。-; 前日光さん同様、びっくりぽん(°_°)良くお調べになったな~、7つだか9つだかの手紙、確かに著名人の歴史を辿るに私信は重要情報です、遺跡発掘同様、それが見つかったから分かった事も多いでしょう。ですが、私は今後は「脱、文字派」目指す所存です⁈
「結婚しよう」とか「愛してる」とかいう直接話法は使わないでしょう、堀辰雄氏は文章で身をたてた方ですし、そういう事書かなくても通じる内容、やり取りしてる相手だから、多恵子さんは結婚の対象になったのであって、言わなきゃ通じない人と結婚するはずがない!なので、多恵子さんの逡巡は、一般的な結婚前の迷い+既に有名人になっていた文人、文筆家の妻がつとまるのか?という淡い不安、のようなものでは?2人にだけは分かっていた、確信していた相思相愛だったと思います。
手紙を公開するって、どうなんでしょう、調査研究する側にとっては喉から手が出るほど欲しい、けど書いた本人は、読んでもらう対象は1人であったはず。私だったら、断固拒否します、もらった手紙も出した手紙も(←いえ、どこからも公開請求されませんが)
親を置いて先だった愛娘の婚約者に結婚相手を仲介するという、無私の心、深くて広い親心!そうさせてしまう、人としての魅力ある辰雄くんと多恵子ちゃんだったのかも。
遅れたご褒美にカキコ読ませて頂きました♪ mistral さん、前日光さんのコメントを読むと、自分が分かってなかった事や知らない事が見えて、学びが多いです。
mistral さんや前日光さんのように、ちゃんとした目的があるわけでなくて、でも、自分の時間を独り占めしたい、とか、没頭したい、って思う事があります。友人とのやり取りや付き合いも含め、返事しない、参加しない、とその理由を求められるのがめんどうで、ついつい惰性で続ける関係、何とか整理しないとな~、と思います。
4trはお気に入りだけちゃんと見て読んで、お付き合いやお礼参りのぽち、には、申し訳ないけど、ポチ返しだけ、させて頂いています。これ以上4trに時間を奪われるワケにはいかない⁈ という事で、しばらく半休、半眠状態に入ります♪
最後に駄洒落大臣、と、ダジャレ魔王、の巨匠対決、楽しませてもらいました♪
↑ うわっ、どこが脱文字派、やねん?⁇?
- kummingさん からの返信 2023/03/16 14:23:49
- 大事な事を忘れていた(;o;)
- 本邦初公開、by妻さんの実写版♪
思いよ届け~、と念じながら30秒ほど見つめましたが、石にはなりませんでした^o^
出版社、新潮はムリかも、角川は作風に合わない、一択なら筑摩書房、河出書房かな⁇ 前日光さんにご相談ください。
- しにあの旅人さん からの返信 2023/03/17 05:38:53
- Re: 遅れて参りましてm(._.)m
- 「夢の箱」これは心がホワーンとなるいいシステムです。
勝手に名前をつけるのは我が家の特技です。最近では近くのアイリッシュ・セッターはアイリ、同じ家の猫はニャンリ。飼い主さんから本名を聞きましたが、覚えていません。これがよくない。ワンコが庭にいて、「アイリ」と呼んでやっても当然ながら返事しません。
脱文字派などという無駄な努力はおやめになった方がいいかと。塩野本や梅原猛などに毒された以上、文字からの脱却は不可能かと。
毒を喰らえば番町皿屋敷、というラインがよろしいと思います。
なお、このくらいもダジャレに含まれると解釈しております。じゃないと、とてもPedaru大名人に太刀打ちできません。
堀辰雄の場合、手紙の公開は最終的にはみなさんOKしたみたいです。
多恵子さんも、自分が死んだ後に公開しろと娘さんに言っていたわけで、覚悟はしていました。
著名人だと、まあ、有名税の一種。
養女にこだわった矢野透には、多恵子はきっちりと筋を通したようです。矢野を看取ったのは多恵子、娘の良子は成人してからアメリカに住むのですが、その面倒を見ています。
昔の人は筋にこだわり、その筋を通したみたいです。このお話は「風立ちぬ」編でやります。
4とらは、とにかく気楽にやりましょう。時間も、気分も、体力も、負担にならないように。私の場合、ほっておくとだらけきるので、ブログ本体は当然、皆さんとのコメントのやり取りは、最優先にします。程よい緊張感です。
最高のボケ防止。
10年後の孫娘に見せるつもりで頑張る。
-
- mistralさん 2023/03/10 21:49:41
- 2人の出会いから
- しにあの旅人さん
こんばんは。
一年越しで取り組んできたことが一段落しました。
と言っても準備段階のゴールが間近となって来て、あとは本番に向けてと
いった段階です (何を言っているのやら訳がわからないですね)
まあ、すっかりご無沙汰をしていたことの言い訳です。
軽井沢へいくと堀辰雄の記念館?などがあって、軽井沢の雰囲気と堀辰雄の
世界とは見事にリンクしていて、当時の女学生仲間で堀辰雄ワールドにハマるひとは
ハマってしまい、かく言う私はそれほどではありませんでした。
今回のしにあさん、どこかで「堀辰雄マニアである」と書かれていましたが
今に残されている資料をさまざまに考察され、
多惠子さんに出会ってから結婚にいたるまでの双方の心情を解き明かされていて、
そうだったのね、と至る所で想っていました。
一見淡々としているようだけれど、愛情はいっぱい詰まっている、なんて
言われたら、誰でも嬉しくなってしまいそう。
そうして、多惠子さんに、良き世話女房にはなれます、と言わしめていますね。
この旅行記に出会わなかったら、堀辰雄の世界を陰で支えた多惠子さんのことを
これほどに知るチャンスはなかったことでしょう。
冒頭に登場した「夢の箱」のアイディア、素晴らしいですね。
箱のデザインもまるで家のようにしっかりと作られていて、中の本を大切に
扱って下さいね、というメッセージが伝わって来ますね。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2023/03/11 06:22:28
- Re: 2人の出会いから
- やはり女学生には堀辰雄は人気があったでしょう。ところが、若い男ども、特に文学青、少年では無視する人が多かった。大江健三郎、吉本隆明などの時代ですからね。
私は肩身が狭かった記憶があります。
私は角川の堀辰雄全集を読んだあと、早めに多恵子の「堀辰雄・妻への手紙」を読んで、多恵子が堀の創作活動で大事な役目を果たすことは知っていました。それが今回多恵子のほとんどの著作に目をとおしたら、大事どころか、前日光さんが言われるように、堀辰雄は多恵子の作品であると言っても、間違いではないことがわかりました。
もちろん堀の作品がいいのは大前提ですが、多恵子はその語り部でしたね。晩年堀辰雄はそれを意識して、多恵子に記録を残そうとしたみたいです。
この旅行記は、堀辰雄紀行と同時に、堀多恵子紀行です。
このあと軽井沢でこのシリーズは終わりますが、いつの日か、大和路でも二人のあとを訪ねてみたいと思っています。堀辰雄の手紙と、膨大なノートが残されています。
4トラベラー人気のヤマト、堀夫妻の目にはどんなふうに見えていたか、自分でも楽しみです。
それには奈良ホテルに泊まらなければいけないのですが、お財布が心配です。
-
- 前日光さん 2023/03/07 23:59:48
- 話に聞いたことはあるのですが。。。
- こんばんは、しにあさん&by妻さん
結婚の申し込みを、まず本人ではなくて、その親の方に先にする って、
相手は当然自分と結婚する(したい?)に違いないと思い込んでいるか、
相手が承知するかどうかは分からないのに、とりあえず親の許可を得るか、
のどちらかですよね?
堀は、多恵子さんが承知すると分かっていて申し込んだのでしょうかね?
堀のプロポーズを知った後の多恵子さんの気持ちが意外です。
多恵子さんのように自立した女性だったら、作家の妻になれるかどうかなんて、思い悩まないのかと思っていましたが、実はけっこう悩んだらしいことを、この旅行記で知りました。
しかしそれにしても、丹念によく調べ上げたものですねぇ。
感心するというより、正直呆れました。
でも自分が興味を持っていることだったら、とことん突き止めたくなるのは私もいっしょなので、そう考えると、しにあさんの細かい研究心に共感します。
私も出雲のことを調べるうちに、いつの間にか「鉄」のとりことなり、熱病患者のように鉄に取りつかれましたからね。
私の友人のダンナ様が、昔の作家などの日記を研究し、まとめたものを書いていましたが、少し前「内田百閒」のことを書いたもので「読売文学賞」を受賞しました。
しにあさんも、堀と多恵子夫人の馴れ初めから結婚に至り、最後に堀を看取る辺りを書いたら、文学賞をいただけるのではないかと、この旅行記を読んで思いました。
あの今も残る「石」についても詳述したら、新発見!になるかもですよね?
by妻さんと私は、男性の好みは異なるようです。
私は若き日の堀辰雄や芥川龍之介の、よく教科書なんかに載っている写真は、好きだわぁと思ってしまうタイプです。
ああいう腺病質風の、ちょっと押すと倒れてしまいそうなのは、眺めている分には最高なのですが。
反対に無精ひげは、実はあまり好きではありません。
相棒殿が、休みの日に髭を剃らないでいると、うるさく注意します(^_-)-☆
私はたぶん、アラブの男は好きではないなぁと思います。
まぁ、無精ひげがセクシーとか母性本能を刺激するというのも、分からないではないですが、やっぱり口や鼻の周辺には邪魔くさいものがない方が好きかも。
おっとまた話が逸れてしまいました!
堀と多恵子夫人の結婚に至る経緯、詳しく知ることができました。
ありがとうございます<m(__)m>
P.S 9日からいよいよ東京暮らしです。
生きて帰れるといいなぁと( *´艸`)
ではでは。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/03/08 08:07:40
- Re: 話に聞いたことはあるのですが。。。
- 堀辰雄という人は、非常に思い込みの激しい人だったようです。自分がこれっと思った人には、それが男でも女でも、情熱のこもった手紙を書きます。女ですと、佐多稲子、中里恒子など。もちろん多恵子さん。
このうち佐多稲子は、もしかすると若き日、本当に恋人だった可能性あり。大変な美人だったそうです。
そういう思い込みで、自分は加藤多恵を愛している、だから相手も自分を好きなんだと、一方的に思い込んだ可能性があります。
それが当たっていてよかった。
佐多稲子の件は、多恵子も知っていました。結婚後も稲子への情熱的な手紙は出ています。やきもちを焼いた形跡はありません。これは堀の癖なんだと、割り切っていたのではないか。
ところが不思議なのは、「風立ちぬ」の矢野綾子には、堀はこうした一方的な手紙を出していないのです。求めるものが違っていたのか。
また不思議なのは、多恵子が、綾子については、嫉妬を感じていたようです。多恵子がほかの女に対して嫉妬を表した唯一のケースです。不思議ではないか、広い意味で死んだ前妻ですからね。
これはずーっと後になりますがこのシリーズ「風立ちぬ」編のテーマにしようかなと思っています。
プロポーズされた後の多恵子の反応は、半分はマリッジブルーじゃないですかね。だから母親もほっておいた。ものの分かった人だったようです。
それに相手は「風立ちぬ」や「美しい村」の作家です。同時代の堀辰雄への評価は、現代では考えられないくらい高かったのです。ビビるのは無理ないと思います。
後年ですが、若き三島由紀夫が堀辰雄に入れ込んで、ものすごく分厚い手紙を送ってきたそうです。現存しません。
文学賞など、とてもとても。堀辰雄論などやる気はなくて、巡礼の旅行記がせいぜいです。
気楽にやります。
昭和27年ごろ、木下恵介・高峰秀子のコンビで、「菜穂子」映画化の話があっったのです。今回のシリーズでも軽く取り上げますが、いつかほじくってみたいと思っています。
ただ詳しい資料あさりは、国会図書館レベルで、簡単にはいかない。房総の僻地に引っ込むとこういう時不便です。
かくの如く、興味は文学的というより、週刊誌的なのです。
何か集中的にテーマを絞って旅をするというのはいいですね。
「鉄」の旅行記はどれを読めばいいのでしょう。多分一度目を通していると思いますが、読み直してみます。
kummingさんの今回のイタリア旅も、ものすごいテーマ旅です。
もうすぐ完結するらしいので、まとまったらじっくり読み直すつもりです。iPadじゃなくて、パソコンで開いて、読み込む必要があるなと、思いました。
前日光さんの腺病質風好みは十分理解しております。
By妻は堀辰雄くらいならまだしも、竹久夢二になると拒否反応を起こします。あれは腺病質風とは言いませんかね。
私好みです。
無精髭は、今回のコロナ騒ぎの唯一の恩恵です。髭剃らないで買い物に行ける。
東京で、娘孝行日記などという旅行記は期待できませんか。
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- pedaruさん 2023/03/06 06:20:23
- 堀辰雄を掘り下げる
- しにあの旅人さん おはようございます
大変面白く拝見しました。お二人が熱心な堀ファンだということが良くわかりました。
ファンというより、むしろ神聖視しているようにも思えました。そう、ホーリー辰雄
なんちゃって、このダジャレが言いたいばっかりにこじつけました。
お二人の仲は、堀夫妻に重なります。
>掘辰雄という人は、知性的な、自立した女性がお好みだったようですね
しにあの旅人さんもまさにこれです。
タツオ峠、すばらしい命名です。そのうちグーグルマップに定着すると思います。
4トラベルだけではもったいない内容です。多くの堀辰雄ファンに見てもらいたい
ものです。シリーズが終わったら、出版をお考えになったらいかがでしょうか?
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2023/03/06 10:45:24
- Re: 堀辰雄を掘り下げる
- 私もダジャレにはかなり自信がありますが、「ホーリー辰雄」には参りました。さすがPedaru駄洒落名人、及ぶところでは到底ありません。
そしてさりげなく「掘り下げる」
あえてこと上げしない奥ゆかしさも学ばねば。
堀夫妻にイメージを重ねていただいて光栄です。By妻はその資格十分にあり。私の方は、溝伏雄くらいかと。
タツオ峠、自信あり。次に堀辰雄文学記念館に行ったら提案してきます。
あそこは、前回行った時に、記念館編集の貴重な冊子をもっと見えるところにおけと言ったら、今度は言った通りになっていました。案外真面目に取り上げるかもしれない、ということはないでしょう。
出版、おだてないでください。すぐ木に登るたちなのです。
どの出版社かな。やはり新潮にしよう。角川かな。それとも筑摩書房か。
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